はてなキーワード: 仏教とは
私は、トランスジェンダー(性別違和)が治療(体の性に脳を合わせる)すべき疾患だと考えている差別主義者だけども、しかし、反トランス論者の多くが性別違和の病態つまり「性自認とは何か」を誤解していることは苦々しく思って見ている。
彼らはあたかも、性自認が意識の問題だと考えている。「女だと言えば女として扱うのか」という意見がそれだ。
フロイトの「無意識の発見」は100年前、仏教における識と般若の区別は遅くとも1400年前に遡るが、我々の論理的思考なるものが心理作用のごく一部に過ぎないことは現代では常識であろう。
我々が自覚的に考えるものなど、大脳新皮質の作用に過ぎない。「自分は女だと思い込んでみる」なんてのは意識界、脳で言えば大脳新皮質の働きに過ぎない。
これと異なり、性自認は脳の分界条床核からもたらされる。「自認」とは言うが、認識はできても思考によってコントロールすることはできない。
だから、「俺が女だと言い張れば女なのか」という問いに対しては、「女性器がないあなたが身体的女ではないように、女性型の分界条床核がないあなたは精神的女ではない」という答えになる。
その上で、性器と分界条床核にミスマッチがある時にどちらに合わせるかといえば、性器に合わせた方が良い。
分界条床核はセロトニンを作用させる機構であり、うつ病などと同じく向精神薬による調整が見込めるが、性器は作れないし、生来の性器を切除し別の性器風の見た目を形成するのは身体的にもホルモン的にも害が大きい上に得られる成果が小さい。
気持ち悪さの原因が分かったよ。あれは日本の大正時代の振りをしているけれどもアメリカのゾンビと欧州のバンパイヤがミックスしたよくわからない話になってるんだよな。鬼神も神、鬼も最終的には救われるという仏教感が全然ない。
お問いるジョージ-幼年時代の家への貢センターの"肉食無料と値の非暴力'
ジョージの最も有名なタレンズ. くことを期待もう 彼の幼年時代の家 とオーセンター"肉食無料と値の非暴力。"
"のうの国のハリソンを収録した初のソロアルバム'Wonderwall音楽が、日常生活とかけ離れたくベジタリアン,"ペタを書いた自分の サイト .
"ハリソン初のビートルズへのベジタリアンの後、多くのインド訪問、またたびに抱かれ、美徳の アヒムサ は、非暴力である中央三のインドの主要な宗教–ヒンドゥー教、仏教やジャイナ教,"書いたペタ副社長国際事務Poorva Joshipura.
"私たちは、かつ優しさを推進すべての生活を感じ人種を問わず、このャンするよう促す"という人が練習する非暴力の精進料理とハリソンされています。"
"ハリソンは言うにも跳ね返って肉を食べたの考えを殺害動物。 ...[I]tのない健全な自然になります。'"
して精進したのジョージの精神性. 顔と体重をしたに過ぎないのです。
DeepL
PETAは、ジョージの幼少期の家を「肉を使わない料理と非暴力の価値観」のトリビュートセンターにしようと考えていました。
ジョージは、最も有名なセレブリティ・ベジタリアンの一人となりました。そのため、PETAは彼の幼少期の家を買い取り、"肉を使わない食事と非暴力の価値観 "のためのトリビュートセンターにしたいと考えているほどです。
"このセンターは、ハリソンが最初のソロアルバム「ワンダーウォール・ミュージック」の一部を録音し、ベジタリアンになるきっかけを作った国を祝うことになる "とPETAはウェブサイトに書いています。
「ハリソンは、インドを何度も訪れた後、ビートルズのメンバーとして初めてベジタリアンになり、インドの3大宗教であるヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の中心であるアヒムサ(非暴力)の美徳を学び、受け入れました」と、PETAの国際問題担当副社長Poorva Joshipuraは書いています。
「そして、このトリビュートセンターは、より多くの人々に非暴力を実践してもらい、ハリソンが愛したベジタリアン料理を楽しんでもらうことになるでしょう。
"ハリソンはかつて、「肉を食べることに嫌悪感を抱いたのは、動物を殺すという発想だった。...(中略)健康的でもなく、自然なことでもない」。
自己責任論が広く叫ばれる昨今の日本社会で、自責を過度に重視し他責を非難する風潮が見受けられる。しかし、そうした考え方が社会福祉や個人の精神的安定に悪影響を及ぼすことも少なくない。本稿では、自責を批判し他責を再評価する視点から、日本社会の自己責任論への問題提起を行う。
まず、自己責任論が生み出す過度な自責意識は、個人のストレスや精神的苦痛につながることがある。自己責任論は、問題や失敗があればまず自分を責めるべきだという考え方を推奨する。この考え方は自己改革や向上心を促す効果がある一方で、過度に自分を追い込む結果を招くことがある。例えば、努力してもうまくいかないことがあるが、それを自分のせいだと自己否定に陥ることがありうる。このような状況はうつ病や自己肯定感の低下につながる。
他責の再評価により問題や失敗に対する対処が柔軟になることが期待される。他責により自分以外の要因や環境を考慮することで、問題解決に向けて新たな視点を持つことができる。例えば、自分の失敗や問題を周囲の人々や状況、制度などの要因と捉えることで、自分の力だけでなく、他者の力も借りることができるようになるのである。視野が広がることで、問題解決の方法も増えるのだ。
仏教の教えの中で、他力という言葉がある。他力とは、自己の力だけでは解決できない問題に対し、他者や仏の力を借りて救済を求めるという考え方である。この他力の考え方は、自己責任論に対する有益な示唆となる。自己責任論が過度な自責意識を生み出すのに対し、他力の考え方は、他者や環境との関係性を重視し、問題解決への道を広げてくれる。他力を受け入れることで、自分だけでなく、周囲の人々や環境と協力し合い、互いに支え合うことができるようになる。また、他力を受け入れることで、自己責任だけでなく、他者や環境への責任も意識し、より良い社会を形作ることができるようになると考えられる。
結論として、過度な自責を批判し、他責を再評価する視点は、日本社会における自己責任論の問題点を浮き彫りにする。仏教の他力の考え方を参考に、自己だけでなく他者や環境との関係性を大切にすることで、個人の精神的安定や社会全体の福祉が向上することが期待される。今後の日本社会においては、自己責任論から脱却し、他責の再評価と他力の考え方を取り入れることがより良い社会を築くための重要な鍵となる。
Q1. よくアンタ「動物を〇しすぎると顔がヤバくなる」って云ってるけどあれなんなの
他の方のブログだけどここでクロコダイルの皮の製造業者の顔をみてくれ。どうみてもそういう顔になってるだろ。あとは察しろ。
http://bekkaku-biz.com/roiet-business/
植物は種族全体が絶滅しないよう、種を喰わせてうんちさせるためにじっと待ってる。
・あと二酸化炭素出してくれてうんちして種を遠くに運んでくれるから人間と共生が必要
・種の継続のためにもちつもたれつが植物、だから食ってほしいと思ってる
・サカナも養殖があるけど、海で生活するものを無理やりケージで育てる
・そこにサカナの(牛豚鳥でもいいけど)恐怖心が発生する
・恐怖心の見分け方は、「つかまえようとすると逃げること」
・逃げるものは一切食わないで放す、逃がすというのが仏教の「放生」
肉の消費エネルギーの数分の1で済む。
肉食ったあと胃腸が重いと感じるというのはそれだ。
アスリートでもジョコビッチとかウィリアムズ姉妹はヴィーガンであの成果を出している。
NBAのカイリーアーヴィングはヴィーガンになってからMVP級の活躍を毎年している。
ヴぃーがん食は進化の途上でありこれからの発展がのぞまれるので、一般の肉魚卵乳を前提とした「栄養学」の専門知識のハードルが高い。
上のアスリートが成功しているのは、彼らが食事についてもプロだからだ。
Q6. じゃあなにからはじめたらいいの🥺
相模屋フーズの「まるで〇〇」シリーズがいいぞ。豆腐でモッツァレラとかステーキとか作ってる。
ウニが大好きな人は痛風になりやすいので、プリン体対策のために「豆腐うに」が爆売れしてるらしい。
霊感等による消費者契約・寄付・献金は無効化できるという消費者契約法に刑事罰を導入するのはどうなってるの?と思うが。
あとで無効化させるような消費者契約・寄付・献金を何度も侵すような団体はキリスト教だろうが仏教だろうが許す意味はないわ。むしろ、キリスト教や仏教の笠をかぶれば詐欺行為をできるとのさばったのが統一教会みたいな連中だろうが。統一教会は自称キリスト教の一派だぞ。
で、何もしないからこのままでいくかーってのは、一番最初の安部が霊感商法問題の対処をしようとしてたってのと矛盾するよね。霊感商法のみならず、詐欺商法団体を桜を見る会に呼んだりとか被害者がいるけどボーダーにあり、それでいて政治家にとって便利な連中は利用しようとしていたな。
毎日幸せに生きてる反出生主義者ですが、何故か誰からも理解されない。なんで?
私は都内の大学を卒業し、小学生でも名前を知っている大企業の幹部候補として働いている。日系大企業の採用は未だルッキズムの傾向が強いため、容姿は知らんが並程度にはあるはず。最近英語と専門スキルをかけ合わせたそれなりに難易度の高い資格試験に合格したし、ヲタク趣味も充実しており超ハッピー。二次元っていいよね!まぁつまり特に珍しくもないどこにでもよくいる人間です。
強いて周りと違う点を挙げれば、かなり反出生主義の思想が強い。大学では授業を通してアンチナタリズムやべネターの思想、仏教の一切皆苦について積極的に学んでいた。しかし、この思想だけは大学で「反出生主義」なんぞという言葉を知る前の中学生の頃から変わらずにある。
つまり、「私は生まれてきたくなかったし、全ての人間は子供を作るべきではない」と子供の頃から常に思い続けていたのだ。仮に自分自身が幸せだったとしても、当然子供はどうなるか分からない。そもそも生まれなければ幸せになる必要はなく、そのために努力という苦痛に耐える必要もない。人生には必ず苦痛が存在し、病や怪我や事故や事件等の避けられない不幸は山ほどある。幸福は不幸を打ち消すものではないため、不幸の総量は減らせない。そんなことを中学生の頃から考え続けてきた。
しかし、私自身が幸せに生きており、当然自殺なんて考えずにアンチナタリストをやっていると言うと理解不能な反応をされる。まずネットで反出生主義について話すと、決まって「お前は社会的地位が低く、不幸だからそう思うだけだろう」「子供を作らないのではなく、作れないだけだろう」という反論(ですらない中傷)が返ってくる。で、上記に書いたことを説明すると理解不能なモンスターにでも遭遇したかのような反応をされる。それはリアルでも同じ。
「自分自身が幸せに生きている」・「社会的地位が高い」ことと「生まれてきたくなかった」「子供を作るべきではない」という思いは両立するし矛盾はないと思う。それなのに周りから理解されないのは何故なのだろう?教えて!ますだの皆さん!!