はてなキーワード: 仇討ちとは
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注意:
この記事は獣道4におけるストリートファイター2の対決結果について言及しています。
結果を知りたくない方はご覧にならないでください。
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なぜこたか商店が負けるとスト2の未来が失われてしまうのだろうか?
こたか商店は敗北したとはいえ、この試合が無意味なもので、スト2がつまらないゲームだと思う人は誰もいないはずだ。
この疑問とともに、こたかの背負っていたものを探っていくのがこの文章の目的だ。
ウメハラいわく、
・獣道によってスト2の注目度が一気に上がった
とのことだ。
こたか商店にしても1プレイヤーとして、スト2が今後とも注目され続け、プレイ人口もまた復活することを、当然望んでいるはずだ。
実際、前回の獣道3でクラハシに勝利したこたか商店は「まだまだガイルでできないことがたくさんある」などと話していた。
30年近く経ったゲームであっても、いまだにきわめ尽くされていない。こたか商店の実感がこもった言葉だ。
その意味で獣道というイベントは、スト2の人気と注目を高めるとともに、ゲームとしての可能性を探究する場でもある。
対決とその事前研究を通じて、新たなプレイの可能性が発見されるのだから。
ここまではわかる話だ。
というのも、今言ったような獣道の意義は、なにもこたか商店だけにかかっているものではない。こたか商店と対決するプレイヤーにも等しく与えられた意義のはずだからだ。
クラハシであっても、ユウベガであっても、それぞれリュウやベガというキャラクターの可能性を引き出すことができるし、また大きな注目を集めることに貢献している。
だから、仮にこたか商店が出場しなくても、こうした意義は十分にあるのだ。
なので、この理由では、悔しいじゃ済まされない、という言葉の説明にはならない。
にもかかわらず、こたか商店は自分が勝たなければスト2の未来はないと考えていたのが重要なのだ。
これはなぜなのか。
それは端的に言って大義名分、つまり獣道というイベントでスト2が開催される理由に求めなければならない。
そもそも獣道のそもそもの起源はオゴウ VS クラハシのスト2対決にある。
この対決が開催された理由は明白だった。
勝負についての考え方の違いをめぐる、プレイヤー同士の明確な因縁があった。
この対決に、異常な迫力と面白さがあったから、獣道というイベントが生まれた。
その後、獣道は「因縁がある人物同士のマッチング」という組み合わせを一方で引き継ぎつつも、他方でプレイヤー間での因縁要素は薄れ、純粋に強いプレイヤー同士の対決の要素が濃くなってきた。
例えば GUILTY GEAR では前者、すなわちプレイヤー間の因縁要素が強めだった。
しかし、スト2では特にプレイヤー間での因縁はそれほどない。むしろ後者、「こたか商店が強すぎる。この人物に勝てるプレイヤーが他にいるのか?」という要素が強かった。
つまり、これまでの獣道にてスト2が開催され続けていた理由は、「こたか商店に勝てる人物がいるのか?」というただ1点であったといってもよい。
対戦相手側も基本的には同じ意識でいる。「我こそが、こたか商店に勝てる人物である」というのが対決の大義名分だった。
実際、今回のユウベガにしても、こたかに敗れたベテランプレイヤーの仇討ちが大義名分だった。そのことは試合後のひとことではっきりと述べている。
そうであれば、こたか商店が勝ち続ける限りスト2は開催され続けるわけだが、これは裏を返せば、こたか商店が負ければ、これまで獣道でスト2が開催されていた理由に、いったん決着がつくということだ。
もちろんその後も、開催する理由はいくらでも作れるだろう。たとえばもっともわかりやすいものでいえばリベンジマッチだ。
しかし、獣道4開催前の告知で、ウメハラは「負けたやつは出禁、リベンジは不可」という話をした。これはスト5でのときど出場の大義名分の話ではあったものの、一般的なルールとして適用される話として語られていた。
だから、こたかは負けられなかった。なぜなら、自分が負けてしまえば、今後獣道でスト2をやる理由がなくなってしまうからだ。
ユウベガにしても、今後も出場する理由はない。こたかに勝ったユウベガに勝てる人物がいるのか? という大義名分は、明らかにこたかが勝っていたこれまでの大義名分よりも弱くなってしまうだろう。
だから、こたか商店に勝つ人物が現れれば、獣道のスト2はそれで終わりなのだ。
自分が負ければ、スト2界での最大最高のイベントだった獣道は終わるーーこれがこたか商店が背負っていたスト2の未来だったはずだ。
「悔しいでは済まされない」「スト2の未来がかかっていたのに」という言葉に、より納得がいく。しかも一度勝利を確定させていたのだから、なおさらだ。
この言葉を聞いて、ユウベガも、ウメハラも、こたか商店という男が何を背負っていたのか、ただちに理解したに違いない。
だからユウベガは「自分は死ぬまでスト2をやる」と宣言し、ウメハラも「何らかの形でスト2の開催をできるように動く」と宣言した。
2人の言葉は、こたかの背負っていたものを理解しなければ出てこないものだ。
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
先日、ガス点検に来た作業員さんが夫のことを「ご主人」と言ったことについてガス会社にクレームを入れるのなんのという話が盛り上がっていた。
根本問題として、夫妻と特に親しくもない第三者が(おそらく目の前に居る)夫妻の夫の方を指す適切な呼び方がない。
親しいなら「(下の名前)さん」、目の前に居ないなら「家の方」あたりだろうか? 「お連れ合い」は旅のボックスシートでみかんを渡すくらいの距離感ならありだがガス点検は違う気がする。「お連れ様」は家に上がり込んで言うのはなんか変。
そもそもガス点検という状況を前提とすると夫婦とか家族であるかはどうでもよく、ガス契約の契約者あるいは家の設備管理の責任者と話したかったんだろう。そうだとしても責任者が夫であろうというのはアンコンシャス・バイアスというのは否めないか。
もっと言うと発端の方は事実婚なので夫・妻として扱われることに好意的か否かも人によって違いがあろう。言われてみればガス点検で行った先にその家の人として男女が居た時に法律婚の夫婦とは限らないよな。親子だったり兄弟だったり他人だったり色々する。
というのを枕として。
おそらく、今後相手の属性を類推して語りかけるのはタブーになるだろう。肩書き呼びも男女の呼びかけも。また、よほどの目的意識がなければカップルを男女の組み合わせに限定することもなくなるだろう。例えば店に二人組で来て欲しいなら男女ペアに限定せず言えば良い。それらは多様性という観点から良いことだと思う。今まで顧みられていなかった人を救うことにも繋がる。
となると何が起きるか。自分が愛好する、付き合っていない男女が周りからそう見られていることに気付き相手を意識し始めるというシチュエーションが発生しなくなる。
今まで各種フィクションで頻出していた――男女カップリングを取り扱う二次創作だと必ずといっていいほど見る――カップル席に案内される・カップルならおまけがつく甘味をすすめられる・モブに「素敵な彼女/彼氏/奥さん/旦那さんだね」「この商品彼女/彼氏/奥さん/旦那さんにどうだい」「お似合いのカップル/夫婦」と冷やかされる、あたりのことだ。そのイベント時に起こる心の揺れ動き、むきになって否定するのも心証悪いか? このままやりすごす? 外からはカップルに見えるのか。でもまんざらでもない自分もいるぞ。カップル扱いされた相手の反応はどうだろう? 自分にとってこの人の存在って一体……! みたいな内省をも伴うやつ。そのイベント後相手を直視できずにぎこちなくなるのもよし。わーってなった後に落ち着きを取り戻しクールに振る舞うもよし。混乱している時に相手にさっと助けられさらに惚れるもよし。恋心を自覚して堂々と振る舞うもよし。自覚してじんわり暖かくなるのもよし。これは好意じゃないと断じるもよし。動揺して千々に乱れる登場人物を見るのが好きなのだ。登場人物の感情はぐるんぐるんにかき回してこそ。無自覚カップルだと外部から力を加えないと自分の心に向き合わないから、これくらいフルスイングで揺さぶりかけるのは手っ取り早いんだろうね。便利なシチュエーションである。
いやまあ、現実で発生しなくなるって言ったってもともとフィクション度高いシチュエーションだけれど。現実で「なかなか見ない」から「ありえない」になると心の距離がもっと離れるというか、二次元限定イベントになるというか。
忠臣蔵の仇討ちみたいに、過去には存在したらしいがこんにちでは見かけないイベントになるというか。
それもまた時代の流れ。
我々は先入観を持って相手に向き合ってはならず、また自分自身も外界の評価をスタート地点に自分の心に向き合うのではなく自発的に自分の心に向き合うことが求められているのだろう。
なんとかして例の女子高生を殴りたい人たちが
なんとかしてマウント取りたいんだけど
オタク絵キモイと思ってもこういう時どうしたらいいのかわからないんだな。
そのせいで、オタクたちが
自分たちが何かやったわけでもないのに
女子高生を盾にしながら
イキり散らすというなんとも醜い光景が繰り広げられている。
ネトフェミたちも、自分たちは文句だけ言ってるわりに偉そうだが
オタクたちはこういう時におとなしくできないもんかね。
あの時の仇討ちとばかりにイキリちらすんだろうに。
こいつら本当に学習しねえな。
それはそれとして。
いつもならそろそろ記事書いてる頃なんだけど。
やっぱり単なるオタク男たたきはできても
アクロバティックに女子高生を盾にしてイキるオタクキモイとかでもいいから早くなんか書けよ。
なんとかしてオタク男をたたくことで自尊心を満たしたいっていう気持ちがバレバレなんだけど
そういうやつらでも支持してしまうくらい
お前たちの男としての価値は何一つ上がらないけど
鬼滅見て最初に思ったのが、設定シンプルすぎない?で、読み込んで得た結論が設定少ない割に面白くできてるのすごいな…だった。
BLEACHだのハリポタだのナルトだのワンピだの進撃だの、メジャーで面白いとされる作品ってだいたい設定というか世界観の作り込みがすごいんだよね。設定資料集読まんとついてけんレベルで覚えることがいっぱいある。BLEACHの死神なんて一人の技と武器と所属完璧に覚えるだけで大変だもん。そのぶん面白いんだけどさ。鬼滅は演出すごいけど基本普通に斬るだけでなんかすごい説明がいりそうな技はないし。
今までのヒット作は個々のキャラ設定だけじゃなく、それぞれの機関の思惑とか同じ組織でも派閥があるとかそういう複雑な背景も覚える必要もある。でも鬼滅って味方と敵ひとつずつの組織で、政府も非公認なので勢力図がすごくシンプル。鬼殺隊には階級あるけど、実質柱とつぐことその他で派閥どころか班分けだってされてない。鬼を殺す動機は基本仇討ちなので、思惑も出世したいなー位しかない。敵も生き延びたいだけなので、壮大な野望もないので話が一切複雑化しない。無惨どうやって倒すんだ!?ねずこはいかにして人間に戻れるのか!?という考察パートもくるかと思えばでたよ!研究の成果が!でかした珠世様!って感じで順当に解決し本当に話がこんがらがる要素が無い。少年漫画にありがちな思想対立(その正義は正しいのかみたいなサムシング)もなく、敵は同情できる要素はあるがやってることは絶対的に間違ってるので容赦なく倒したあと優しい言葉をかけるという一切読者を葛藤させないスタイルである。どこぞのナイスガイの苦悩が心底憐れに思えるシンプルさである。でも面白い。これは革命ですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20200715133957
最近、商業BLの良さっていうのは手短に完結することなんじゃないかという気がしてきた。基本的に続刊は出ない前提なのか、単行本一冊で終わるように全力で話を畳みにかかる。
私は漫画といえば終わりの一向に見えてこない連載漫画ばっかり読んできたので、ちゃんとオチがついて終わる漫画というだけで尊いと思ってしまう。えっ、もしかして、私の意識低すぎ?
とある地方の男子高校生カップルの一年間を1話につき大体4コマで描いた漫画。前回紹介した『オールドファッションカップケーキ』の作者のデビュー作。
4コマ漫画かぁ……萌えられるのかそれ? とちょっと不安だったんだが、読んでみたらとても良かった。シマもなつおも可愛い可愛い。何周も読めてしまう。なんなら一周目よりも二周目以降の方が萌えるかも。正月太りでもっちもちになってしまうなつおがことのほか可愛い。
高校受験と大学受験の間のちょうどいい時期をのびのびと過ごしながらも、将来のことを考えると辛くなってしまうシマが切ない。
ヤクザBL。ヘマをしてほとぼりの冷めるまで逃避行生活をすることになった若頭の片岡に、運転手として同行する小田島には片岡暗殺のミッションが課せられていた、という話。海沿いを町から町へと車で逃避行するロードムービーのような感じ。
ヤクザものといってもそんなに殺伐とはしていない。ヘマをやらかして逃亡生活中なのもあって、ヤクザらしいことはあんまりしないのである。行く先々での人情エピソード中心。
片岡が魅力的でいい男なのである。魅力的でいい男なのに、冒頭で唐突に小田島をレイプするのが物凄い謎行動だけど……。女には優しいのに何でだ。
江戸時代BL。確か時代は江戸後期で陰間茶屋ブームがとっくに去ってしまったくらいの頃の話。陰間上がりの百樹と元火消で笛吹きの卍が下町の長屋でイチャイチャな日常を送るさまを描いた漫画。主人公達が普通に月代・ちょんまげで果たして萌えられるのかと不安に思いつつ読んだら、とても良かった。
絵がすごくいい。1ページ1ページがアート。江戸時代の風俗をかなりマニアックに描いている。
お百と卍の仲睦まじさは見ていてほっこりする。あと卍のビジュアルがすごくいい……めちゃカッコいい……。
本作は三巻まで出版されている。
これまた江戸時代BL。こちらは寛永年間が舞台。リアル指向の『百と卍』とは逆に、本作は時代劇! って感じの時代劇。なのでメインカプは都合よく月代を回避しているのである。少年漫画と青年漫画の中間くらいやや少年漫画寄りの作風かな。
かつて凄腕の暗殺者として恐れられていた、現・剣術指南役の間宮刀爾郎の元に訪れた青年一馬。一馬は間宮に弟子入りを志願するが、間宮は弟子を取らない主義だと拒絶する。散々食い下がって下郎として間宮の元に置いてもらうことになった一馬だが、実はかつて間宮に殺された男の息子だった。父の仇討ちと家の名誉挽回の為に挑む一馬を間宮は受けて立つことに……。
ストーリー重視でしかも絵がすごく良い。背景もよく描き込まれていて凄い。非常によく出来た少年漫画といった趣きなのだが、BLなので普通に18禁ガチムチぶつかり稽古シーンは入ってくる。
こういうまとまりの良い少年漫画のようなものってそれ自体が希少だと思うので、腐女子でなくとも男同士の18禁ぶつかり稽古シーン平気な人は読んでみると良いかもしれない。