はてなキーワード: 人の力とは
http://anond.hatelabo.jp/20150929000832
自己肯定感も、誰も始めから上手く持てるわけでは、ないんだろうと、思う。
人から、助けて貰って、小さなところから、肯定しあうのだと、思う。
話をただただ聞いてもらう経験が、少なかったのかもよ....
自己肯定感を自分では、持てなくなるぐらいの自己否定を繰り返してきたんだろうと、思います。
私も、そうです。
自分一人だけの力で、自己肯定感を持つことが、辛いことが辛い。
つまり、一人の力で、自己肯定感を持つことが理想だし、目標とすべきところで、現状はそうでないままに成人をしたわけですよね。
でしたら、それも、人の力を借りるってことですよ。
その絵を褒めてくれる人や、ここで、ポジティブな意見をくれる人の言葉に、こそ耳を傾けるのが、良いと思います。
増田で、ブックマークで400集めるってことも、それだけ、アンチも含めて認識されていると、言うことだよ。
これって、すごいんじゃないのかな?
水準以上の文章力があるってことだよ。
余計なお世話かもしんないけど。
いいことを教えてもらった。
私は無理に、社交性をあげようとして、こじらせてしまった気がする。
ー社交性を高める話し方。
ー内面を見つめて、気がつく話し方。
両方を、高めた方が長期的には良いように思う。
社会性がないことで、悩んでいる人というのは、(私の場合だけど)
自分の性格や能力を案外、正確に把握できていないことが、多いように思える。
他人からみた自分の外面と内面とのギャップがあるために、「こんなつもりでないのに」
と思って、ズレてしまう。
「あれ。私、こんなこと話している。本当は、こんな気持ちだったのかなって」
自分一人の力では、知識や経験では、答えが探せないから、困っている。
また、自分一人の力では、何が問題になっているのかを把握できないから、困っている。
信頼できる人との話では、素直になる方が、良いと思う。
25年前のおれよ。お前はよく頑張った。
お前のその経験は、お前の心を豊かにして、お前を優しい大人に育ててくれた。あの時よくそこで踏みとどまった。他の誰も知らないことだけど、おれが一番良く知っている。
だからおれが誰よりも褒めてやる。
家から一歩も家を出ず辞書を読むのが好きだったお前だからできたことだ。それが「柳に雪折れなし」という言葉だ。
この言葉が、世の中に負けまいとがむしゃらに理論武装してますます自分を追い込んでしまったお前を救ってくる。
流れに流されるでもなく流れを押し返すでもなく、受け入れて受け流す。柔軟なもののほうが剛直なものより耐える力があるということを知るんだ。
逆を返せば、剛直なものがいつ割れるかもわからない危うい存在であることも知る。いじめる側の人間も、実は弱い人間だということを知るんだ。
その後しばらくして、もう一つの言葉、「水は高きより低きに流れ」という言葉にも出会う。上善如水といったほうが馴染みがあるかもしれない。
物事は全て下へ下へと流れてくる。低きにいることは決して悪いことではないのだ。高くに上り詰めることに疑問をもっていたお前に、それが間違いではなかったことを気づかせてくれた言葉だ。
水はすごいぞ。
どんな姿にも形を変え、人の生活を豊かにする。その実、一度暴れ始めれば人の力ではどうすることもできないほどの力を持っている。
固く閉じこもる必要はない。そのことがむしろ自らを危うい存在に追い込んでいるとしたら、お前はもっといい加減でいいんだ。
それでもお前は、そのあともいやというほどの苦労をする。
あの頃のお前は選んでいるようで流される生き方をして後悔をしていた。良からぬ方向に知らず知らずのうちに進んでいたんだ。
でも心配するな。それがあったからこそ、お前は「中道」という言葉の意味を正しく理解することができる。「中道」とは、何事も偏りがないことが理想だということだ。あの頃のお前は、生まれた環境が特異だったせいで、この言葉を信じ普通でいよう努力していたはずだ。
ところで、平均台の上を歩くことを想像してみてほしい。両の手を閉じて歩くのと、広げて歩くのとではどちらがバランスを取りやすいだろうか。
当然手を広げたほうがバランスは取りやすいのだ。つまりは、狭い見識や経験ではバランスよく歩くことは難しいということだ。
極端な考えや生き方は悪いものではない。極端だと感じたら戻ってくればいいのだ。そうして極端な考えや生き方をしたもののみが、両の手を広く広げるかのように安定したバランスを養うことができるのだ。
誰に遠慮する必要もない。お前はもっと大胆に、もっといい加減に生きていいんだ。
他人は自分の都合に合わせて人を褒めてくるから気をつけろ。褒められなくても気にするな。褒められても喜ぶのはほどほどでいい。
つまらぬ衝動で人を傷つけてしまうだろう。それを許してもらえなくても気にするな。最善を尽くしたなら、あとは相手に事情があるんだ。
疲れたら休め。少しくらい逃げでもいい。それで力がたまったらまた頑張ればいい。
そうして頑張ったなら他でもないおれが褒めてやる。
大丈夫だ。諦めずに探していればいつか必ず見つけられる。
努力全てが実るとは限らないが、今のおれは少なくともお前の努力の結果でここに立っている。
心配するな。あの時のお前は今のおれにこれほどまでに愛されている。
先日、飯田橋で用事を済ませた俺は一休みするべく某チェーン系のカフェに入った。
そこそこ広い店内には落ち着いたBGMが流れ分煙もしっかりしていたので嫌な思いは全くなかった。
トイレに入るまでは。
入店してから30分を経ると店内の冷房とアイスコーヒーで体温が下がったせいか、大便の気配を感じ迷うことなくトイレへ。
あいにく先客がいたものの、3分ほど耐えて個室に入るとそこにはなんとありのままの先客のウンコが。
「なんだよ、流してから出ろよ」と悪態をつきつつレバーを押した瞬間、すべてを悟った。
固くて動かないのだ。
動かない、というのは大げさな表現で本当に動かないわけはない。
思い切って力を込めれば流すことはできたのだが、老人の力では厳しいだろう。
先ほどすれ違った先客はたしか老人だった。
とりあえず自分も出すものを出し(漏らしてないです、ごめんなさい)席に戻り店内を眺めてみると
パッと見はごまかせてもトイレのダメさでケチってる印象がついた。
今の時代どこの店も年寄りがメインの客になっているのだろうから、せめてウンコくらい簡単に流せるようにしておいてほしい。
あとこれは推測というか願望だが、数年以内にカフェやレストランのトイレの清潔さやショボさが食べログとかで掲載されるようになってほしい。
上手い理屈をつけて反論は出来ないから、感情で意見を言わせてもらいたい。
*
生まれてこない方がいいと思うことは、社会全体から見たら生産的なのかもしれない。
健常な労働者が1人増えるわけだ。だが社会全体から見たら1人の力の影響は微々たるもので
そのうち障害を抱えた方の割合は幾らですか?
もちろん、あなた自身やご家族にとっては悩ましい大きな問題だろうと思います。
*
私は、あなたがあなた自身を含めた障害者の方達が生まれてくるべきか否かと、
考えてしまうことが、非常に勿体無いと思う。
私なら、生まれて来たんだから何か人の役に立つことをしよう、人の役に立てる人間になろう、と考える。
そう考えるようにしている。
私もあなたと同じように、生まれてこない方が良かったという思考に囚われた時期が有った。
でも、そんな風に考えると前に進めなくなってしまう。
思考が狭く狭く自分の殻の中に閉じ込められて行くような感じがして生きる気力が湧いてこなくなる。
*
生まれてきて良かったと思えるように出来ることはなんだろう。
そう自問自答して、日々の行動に移すようにしている。
しょっちゅう躓いて、後ろ向きなことを考えて、時々死にたくなっても。
私は歯を食いしばって、這いつくばって進んで行こうと思う。
昨日のフェスであまりにボロ負けしたので申し訳なくなってそっとWiiUの電源を切った。
ブキはシューター。自己最高はウデマエB+80くらい。今はC+まで落ちている。もともとB+のウデマエは無かったんだと思う。
落ちた原因は分かっている。
Cに居た時は、勝てるか勝てないかはブキの偏りやランクの偏りなどの「チーム運」と思っていた。
しかしBくらいから、自分が頑張れば勝てる、というのが分かってきた。活躍できれば勝てて、できなければ負けた。
一人一人がちょっとずつ頑張って相手を倒せばそれだけ隙が生まれ、勝率が上がる。
死なずに倒せれば勝てる。当たり前の事だけど。
どんどん、勝てる試合=自分がキルした数が多かった試合になっていった。
最高で20キル台も出した。
そこからどんどん落ちていった。
明らかに焦りすぎてたんだと思う。
いつの間にか「とにかくキルしないと」となって、無茶な撃ち合いが増えた。
ネギトロ炭鉱がマップに加わった時、そこで見事に連敗し、ウデマエはあっという間にC+まで下がった。
一体何が悪いのか?と反省した結果、無茶な撃ち合いが原因と考え、
相手を倒す、ではなく、死なない、姿を表さない、一箇所にずっと居ないを心がけて、別のマップでBまで戻せた。
そのままフェスでもボロ負けして今に至る。
まだ焦ってるんだろうか、そんなことは無いはずなんだけど
なんか段々splatoonをやるのが苦しくなってきた。
最近の悩み。
私は、口下手だ。
自分の感じたことだが、頭で整理をして、口に出して話すことに、自信が持てない。
適応障害(うつ状態)になって、昔の友人から、職場の人から色々と悩みを聞いてもらっている。
話をしている。
悩み事を人に打ち明ける。
「あなたのお父さんが亡くなられたことは、知っていたけど、まさか、死因が...そういうことだったとは、知らなかったよ」
そんな(ある種、期待通りの)温かい言葉を掛けて貰えると、嬉しい、話して良かったなと思う。
私としては、ほっとする。
口下手なりにも、通じて良かったなと。
でも、その後のアドバイスが、
「色んな人と話した方がいいよ」とか
「頭を整理するには、人に話す方がいいよ」とか
「機能不全家族の下に生まれた人でも、大人になってから克服は出来ると思うの。だから、話してね」
なんか、結局、話せって言われる。
もちろん、今まで、人に症状が軽い段階で、話すことが出来ていたならば、状況は変わっていたのかもしれない。
私一人の力では、にっちもさっちも、いかなくなったので、適応障害になった。
いざ、病気になっると、周りも理解を示してくれて、私の話に耳を傾けてくれるようになった。
そこで、話すようにしているのだが。
サボってた訳じゃなのに、な。
かなり整理して、良く考えてから話をしているつもり。
(だから、以前とは、違った回答や反応も、もらえている。)
勇気を出して話したのに、これで、終わりたいと、思ったのに。
また、色々な人に口下手だと悪口を言われて傷つくリスクを犯したくはないのだ。
これ以上の失敗はしたくない。
これ以上、傷つきたくないから、話をしたくないのだ。
話題としては、自分の家族の重い話でなくとも、世間話でも結構、気を遣う。
そう、私は、世間の人に気を遣って生きてきたのだ。
それなのに、報われないのは、コミュ障だったからだと、気がつき始めた。
何か、良いことを陰で行っても、見ている人は見ていたのだが、
報連相が出来る方が、やっぱり、いいのだ。
ちょっとした立ち話で、打ち合わせを、さっと済ませることの出来る器用さが、重宝されるのだ。
でも、私にとって話すということは、困難を伴うことなのだ。
前は、口下手だったのに、良くなったねって言われたいのかな。
がんばることに疲れた。
正確に書くと、体はまるで疲れてないのだけど、頑張ろう。まだまだできる。まだ成長が足りない。と気持ちが先走りすぎて心ががんばることに疲れている。
自分にはまだ力量がない。
まだまだ成長はできる。
それならやるしかない。
人から誘われた飲み会や食事を理由をでっちあげて断り、一人でひたすら自分を成長させようと意気込んでいた。
具体的な目標として「今年度中に1人の力である程度の額を稼げるようになる」ことを目標としていた。
正確にはもう一つ根本的な目標があって、それをするためには家にいる時間をもっと作った方が効率的だと思ったのでこの目標を立てた。(もともとネット関係の知識と技術は多少あったので、それを伸ばすチャンスとも思い)
最初こそ意気込んでいたからひたすらにパソコンの前で作業していた。
バイト先は基本自由なところだったので、早々にやるべき作業を終わらせて残りの時間を作業に費やした。
日が経つごとにどうにも体が動かなくなる。
ライフハックの本を読み、遠い先の目標よりも5分後の目の先の目標からやっていった方がよいという文章を読み、それを実行しながらゆっくりとまた進んでみた。
ただもう体が動いてくれようとしない。
頭ではやらなきゃと思い日々のto doリストを見てやれることはないかと考えようとするけど、あまりにもだるすぎてなにか検索することすら億劫だった。
食欲が尽きないしいくら寝ても眠いし
どうにかしないとと思って朝日を浴びてもどうにもならない。(今思うと単純に朝日を浴びるだけなら気持ちいいのだけれど、作業をしなきゃ、起きなきゃと思って朝日を浴びるとただ暑いだけだった)
(当たり前だけど)頭の考えと心が感じることってやっぱり違うんだよなってとても実感した。
自分のキャパシティを理解してその中で行動して考えて、徐々にそのキャパシティを伸ばせればいいんだなと思った。
ただ、その布石を用意するために自分の心を削りすぎるのは頭がよくないし、自分によくない。
その日が来るまで
それをまた忘れないようにもするためのつぶやきでした。
正義の為に人は、人を殺す。
彼らはなぜ人を殺すのか。
戦争をするのか。
それは、
銃で撃たれて死ぬのではなく、
同志は、
圧倒的な自由主義によって、
圧倒的な為替の差、
圧倒的なビジネスモデルの偏りで、
ファーストフード店で1時間も働けば1つのTシャツを手に入れられる先進諸国の人々と相対して、
彼らは1日中働いてもそのTシャツを手に入れられるかどうかわからない。
出来上がった格差の元に、
目の前で同志が死んでいるとしたら。
富は更に強固な富を作ろうとする。
それでも勇者は断った。
正義の為に。
半分でも断るんだよ。
今、先進国が、
半分どころか数分の一か、数百分の一か。
これは、グローバリズムの片りんだ。
そこで思考の停止を生む。
なぜ起こすかを深く考えて、
その背景をたどらなくては、何も解決しない。
何も解決をする気の無い人々に操られれてしまう。
このグローバル社会を生きなくては、
大きな力にはあらがえないが、
大きな力の中で自ら考え、自ら行動することはできる。
だから、
しっかり考えよう。
穏やかな春の太陽のように誰に対しても優しい人だった
あなたは優しすぎるがために
ときどき静かに傷ついた
それでもまっすぐであろうとし続けるあなたにわたしは惹かれた。
私はどこか曲がっていて
それでも私はどこか曲がっていた
そんな曲がった私にあなたは惹かれた
あなたの部屋で酒を飲んでいたわたしたちは、どちらからともなく自然にキスをした
あなたの少し緑がかった瞳はまっすぐに私を見つめていた
私は目を閉じてあなたに全てをゆだねた
最初はお互いの唇の感触を確かめるように、そして次第にねっとり深いキスをした
かすかな雨の音と、2人の深い息遣いだけが部屋を包み、まるでこの世界には私達2人しかいないかのような錯覚に陥った
あなたはわたしの腰を抱き、服の中に手を入れて背中を優しくなぞった
2人の呼吸はだんだん荒くなり、あなたはわたしのカーディガンとブラウスのボタンをそっと外した
あなたの指がわたしの背中をなぞり、首筋に優しくキスされると、ぞくぞくするような昂りを感じた。
2人は狂ったように抱き合い、互いに欠けたものを探し求めるように愛しあった
あなたは潮の満ちたわたしの海に潜り、わたしは全身であなたを受け入れた
一生分の幸せを使い果たしてしまったような気分で、死んでもいいと本気で思った
その夜を境にあなたと私の間には何かが生まれ、同時にそれは崩壊に向かって時を刻みはじめた
相変わらずあなたはまっすぐで
わたしはどこか曲がっていて
冷たい雨の音はあなたが果てたあとも当たり前のように続いていた
それからわたしはいつも土曜日の夜にあなたの部屋を訪ね、2人で酒を飲んでセックスをした
あなたはは毎回新しい発見を与えてくれて、けしてわたしを飽きさせなかった
身体を重ねるたびにわたしたちはどんどん惹かれ合った
セックスのあとわたしたちは裸のまま眠くなるまでいろんな話をした
好きな映画や音楽のこと、昔の恋人のこと、近所のまずいラーメン屋のこと、行ってみたい国のこと、上司の不倫相手の話とか
夏と秋が過ぎ去って冬がきて、また春がきた
相変わらずあなたはまっすぐで
わたしはどこか曲がっていて
ただそれだけだった
妹が留学したこと、近所の野良猫が事故で死んだこと、宇宙の端っこはどうなってるかということ、いちばん美味しいパスタの食べ方は何かということ、上司の不倫がばれて離婚した話とか
思いつくかぎり、ありとあらゆる話をわたしたちはした
でも不思議とわたしたちは、2人の未来についての話は全くしなかった
わたしはそれにうまく答えることができなかった
もちろんあなたのことは狂おしいほど愛していた
でも、2人が互いを求めて愛し合うほど、あなたとの間にある目に見えない透明な壁のようなものをわたしは感じた
あなたのことを知ればしるほど、惹かれれば惹かれるほどその壁は重く、冷たくわたしとあなたのあいだを阻んだ
なんというかそれは、2人の力ではどうしようもない種類のものだった
わたしは、あなたのX軸にどれだけ近づいても、永遠に交われない反比例曲線のように
どこか曲がったわたしはどうやってもあなたと寄り添えなかった
あの冷たい雨の降る夜、あなたとそうなるべきでなかったのは、わたしには最初からなんとなくわかっていた
でもそれはどうあがいても変えようのない運命であったような気がする
あなたはどこまでもまっすぐで
先週金曜に職場の飲み会があったんだけど、そこで俺が仕事で良い成果を出したという話になり、
さすがだな、たいしたもんだと先輩方に言ってもらえたので、いい気になりそうなのをこらえ、
「いえ、自分一人では絶対何もできませんでした。皆さんが僕をサポートしてくれたからこそ、
ここまでやってこれたんです。本当にありがとうございます。この恩は仕事でお返ししていくつもりです」
というようなことを言った。
そしたらその晩、その場にいた先輩のうちの一人からLINEでメッセージが来て、
「お前は人に支えてもらうことしか考えていないのか」
「自分が誰かをサポートする、という発想がないようなら、俺は今後お前と仲良く仕事していくことはできない」
などと言われた。
飲み会での発言は当然この先輩に向けたものでもあったし、先輩のサポートだってしていきたいと思っていたので、
このメッセージにはびっくりしてしまい、何か誤解があるのかなと思って、
「自分も人に支えてもらうばかりでなく、誰かのために力になりたい、サポートしたいと思っています。
しかし、今は人に支えてもらったぶんの半分も返せていないと思っています。先輩にもこれまで助けてもらっていて、
感謝してもしきれません。その分これから返していくつもりです」
と返事したんだが、
「そんなふうに、自分が誰かの力になるという行為にエクスキューズをつけるようではまだまだだ」
と返され、どう言っていいのか分からず、以降会話が途切れている。
確かに、誰かに何かしてもらったから自分もお返しに、というふうに交換条件的に他人に何かしてあげることしか
できないのは人間としてどうかと思うし、できることなら自分も、無償の愛っていうと大げさだけど、見返りを期待せず
自発的に人を助けられるような大人でありたい、と思っている。それでこそ立派な社会人だと考えている。
ただ、もしかしたら、自分も後輩や友人、恋人に対して支えとなったり助けを施してこれたのかもしれないけど、
それを自分で「俺は見返りを期待せず、こんなサポートをしてきた」「頼まれたわけではないのに、人にここまでしてあげた」
などと主張することが、とても品のないことに思えてならない。
だから俺もその先輩に「いえ、自分はエクスキューズなしに人の力になれる人間です。誤解です」と言うことができないでいる。
自分のしてきたことや、それが職場や人間関係にどんな好影響をもたらしたかをちゃんと述べることは大事なんだろうけど、
どうしても「自分は見返りを求めずに行動してきた立派な人間だ」と言うことが下品という考えにしばられ、
男目線で「この人は女子力が高くて素敵だな」と感じるのは、「自分への気遣い力」だと思う。彼氏に送るような所謂本命チョコには気遣いはいらない。自分の思いの丈を詰めればそれが一番よい。
だが、義理チョコ。これは気遣いが必要。会社で渡すなら、日持ちがするもの、そのまま会社に置きっぱなしにしておいて、小腹が減った時に食べれるようなものが相手への気遣いを感じる。
これが、今日が期限の生チョコ(要冷蔵)なんかだと地獄。それを複数貰ったらどうすれば????甘い物が苦手な可能性のある人だったらどうだろう?事前にリサーチしておいてカカオ濃度が高い渋いものをウイスキー小瓶などとセットにできないだろうか?義理チョコで手作り(しかも普段料理全然しない)なんかはもってのほかだ。何が入ってるか分からない上に、味の保証もなく、賞味期限も気になる。
ホワイトデーに返す時に男性は少し大きめのものを返すことが多い。すごく高そうな義理チョコを貰ったらどうすれば???
当たり前のことなんだけど、そういう、気遣い、人への気配り、それが“義理”で“人の力”なんだな、と思った。今日はありがとう。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150211/k10015379371000.html
(ブコメ:http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20150211/k10015379371000.html)
保護期間70年は来るだろうなと思っていたがまさか非親告罪も飲むとは…交渉とはなんだったのか。政府のふがいなさは置いといてここでは二次創作の話をしたい。
TPPにより非親告罪化が現実になってきても、出版社や作者があまり具体的な行動をとってこなかったのは残念だった。
特に出版社。作家では赤松さんや冲方丁さんなど問題意識をもって活動されていた方はいたが、個人の力には限界がある。報道もされにくい。
さすがにこのニュースがきたなら焦り出すだろう。むしろ焦らなかったとしたら、もうそんな文化は潰れてしまったほうがいいのではないか。二次創作文化を保護する気なんてなかったということだ。
とはいえ自分は二次創作に関してはそこまで心配していない。むしろこの機会にライセンスが整備され、安心して二次創作活動ができるようになるはずだし、そう期待する。既に実績もある。
同人関係の事件が話題になるたび、もう牧歌的な時代ではなくなってしまった、版元も二次創作者も「黙認」にあぐらをかきすぎてるのではないか、と自分としては思う。
コミケがこれだけ巨大化し、ネットでの二次創作活動も活発になったいま、同人誌即売会という限られた場で少数頒布されることを前提に「黙認」する、いわゆる「同人」の慣例はもはや限界に近付いていると思う。この機会に黙認からライセンスをベースとした明示的な許諾に踏み出すべきだと考えている。
既にいくつかの作品は二次創作のガイドラインを出しているし、東方は同人流通であれば緩いガイドラインを示していて、それも人気に貢献している。初音ミクなどボカロはクリプトン社の先例もあって、ほとんどのキャラにガイドラインがある。
自分がボカロ絵を主に描いてるのはこの理由もあって、ほとんどのキャラにガイドラインがあり、さらにクリプトンのキャラならピアプロ・キャラクター・ライセンス(PCL)により、完全に合法に二次創作ができるからだ。
http://piapro.jp/license/pcl/summary(2012年にはクリエイティブ・コモンズも採用してデュアルライセンスになった)
まずガイドラインを作成し、次にライセンスを整備するだけだ。ライセンスは法律も考えなければならず簡単ではないが、無理な話でもない。
初音ミクほどの規模で、クリプトンほどの小さな会社でもやっていけていることだ。ほかの巨大出版社ができないとは言わせない。
ネットでのファンアートの数・コミケのサークル数は元作品人気のバロメーターになりつつあるが、非親告罪化されればライセンスがない作品の二次創作をする人は激減するだろう(しなかったら怖い)。即売会もリスクを恐れてライセンスのない作品はNGにしていく。
二次創作人気が元作品への人気にもつながっている今、版元には死活問題だ。
大人向け以外でも、例えば娘が描いたプリキュアの絵をネットにあげて、それが通報されてしまったらさすがにかわいそうだという意見が広がるだろう。
いままでは「黙認」が一番楽だからとあぐらをかいていた権利者も、ようやく重い腰を上げざるを得なくなるはず。
「うちのキャラは非営利ならOKです!安心してイラストをアップしてね!」というのが宣伝文句になる。どこかの先進的な版元が1つやればあとは一気に流れていくのではないかと見ている。
というわけでネットのファンアートや、全年齢向け同人に関してはライセンスによる許諾が広がるのではないかと考えている。
今回の調整案も「営利目的などの場合の著作権侵害を原則、「非親告罪」とする方向」だし、もし全面的に非親告罪化されて本当にコミケやファンアートが壊滅状態に陥った場合、ここでライセンスを出せば独占できるし評判がうなぎのぼりだからやらない手はないと思うのだが…楽観的すぎ?
ライセンスを出しても許可しない部分は当然ある。物好きなとこ以外は18禁:エログロはライセンスに含めないだろうし、そもそもライセンスを出さない方針のとこもある。即売会で営利と呼べるまで稼いでいるのはだいたいエロなので、二重に問題になってくるところ。
ここが問題になるけど、二次創作は認めない、あるいはエロはNGと判断した作者を尊重せず、無理やり二次創作するのは果たしてどうなのってとこからまず考える必要はある。
(作者よりも偉そうにしていて、二次創作できて当然と思っている同人ゴロをたびたび目にするのも、現状の同人に不信感を持っている要因の一つ。権利者の意向は基本絶対です)
ただそこまで堅苦しくなってほしくもないので、パロディ・フェアユース条項が同時に整備されることを望む。
フェアユースって裁判で判断されるものだから、訴訟大国ではない日本でどうするかってのはある。エロ同人はフェアユースだとして裁判する人はいないだろう。
長文になってしまった。
もちろん非親告罪化しなければそれが一番だが、もしなってしまってもただ絶望しているわけにはいかない。
現にガイドラインやライセンスを出してる作品があるわけだから即売会が完全消滅するわけでもない。(東方、ボカロ、赤松作品とあと少数、しかないコミケを見てみたい気はするw)
各自できることをやればいい。自分はライセンス推進派なので、自分のオリジナル作品(まだないけど)にはCCライセンスをつけるつもりだし、プログラムも書いているが公開するプログラムにはきちんとライセンスをつけている。
ただ嘆いているだけじゃ始まらない。
条件に該当するサイト、リストアップいただきありがとうございます!
https://jjyap.wordpress.com/2014/05/24/installing-opencv-2-4-9-on-mac-osx-with-python-support/
OpenCVの導入解説として、初めてこの操作をする人に向けて丁寧に説明されているのは素晴らしい。初めて取り組む人に向けては、ここまで噛み砕くと不安感を払拭できてよさそう。ただし、慣れている、またはOpenCVを実際に使って云々と解説する場合は、コマンドの例は飛ばす方がすっきりしそう。
http://kometchtech.blog.fc2.com/blog-entry-1173.html
わからないことはわからないと書くのは、賛成。Qiitaのような知見をさくっとまとめるサイトなら、これくらいがいいかも。
問題が起きたときに、わからないと一旦置かれていた部分を追いかける必要があるフラグも立ちやすい。
苦しんで覚えるC言語
http://9cguide.appspot.com/ にもアップされているものと同じ?もしそうだとしたら、解説→ドリル→解説…と、学習参考書に近いものを求められているのかと理解している。
自分自身が持つ技術水準や、求められる情報(導入, 応用, ケーススタディのサイズ)によって、読んでもらったときに理解してもらいやすいものは違うことを、別の観点から知ることができてGoodでした。
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さて、自分自身が先に示された6つの条件を満たしていると考えているブログはこんな所。
上記2つはいずれも読者に「ある程度」の知識があることを要求している。その上で、運用している上で遭遇する問題…それもドキュメントにない情報…を、後で同じ問題に遭遇した人が問題解決を再現できる水準で記録されていることに感服する。
ただ最近はまず公式とマニュアルを見に行って、よくわからなければググって傍系のStackOverflow(一番これが多いです)・英語圏のブログ・解説サイトに行く、エラーが出たら--debugしてみてよくわからなかったらエラーをググるなどの使い方をしているので、あまり日本のブログにぶち当たることは無いです。
これは同感。公式マニュアルを見たら解決する問題が多いし、公式マニュアルで嘘をつかれる可能性は比較的低い。
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技術ブログを書いている人間として、嬉しいなと思うのはこんな順番。
で、何より嬉しいのは、なんてことはない話だが…
である。
友人のYは、ちょっと危ないなとは思ってた。仲間内の中でも「あいつはきっとホンモノのマゾヒストだ」って密かに噂されてた。
けど、さすがに「ちょっと布団で巻いて欲しいんだけど」と真剣に頼まれた時は、頭の中で盛大にパトランプが回ったよね。(これは! ガチで! ヤバいやつ!!)って。
私「え……何……布団……?」
Y「そう。それで俺をくるんで、縛って欲しい」
私「しば……?」
Y「ああ、何で縛ればいいんだろう……あ、延長コードとかでいいかな?」
私「え、私が? Yを? 縛るの?」
余程怪訝な顔をしてたと思う、いや、して当然だと思う。
いろはすをガブガブ飲んでいたYは、私の珍妙な顔を見てキョトンと返す。
Y「いや、何も本格的に筵(むしろ)でくるんでくれとは言ってないじゃん?」
私(え、簀巻きって筵でやるのが正式なの?)
断っておくけど、Yはただの友達だ。彼のプレイに協力する義理も必要も、一切無い。
気を付けの姿勢で横たわるY(ちなみに、暑いだろうからという理由でパンツ一丁だ)の首から下をくるんと布団で巻く。出来るだけ圧迫してくれと本人が強く希望するので、胸部・膝付近の二ヶ所を延長コードで強く縛る。ごわごわしてやりづらいし、女一人の力では足りない気がする。人を簀巻きにするのがあんなに大変だとは思わなかった。
延長コードはYが用意していた結束バンドとやらで固定した。あれ、便利だね。まさか人を巻く為に使うはめになるとは思わなかったけど。って言うか何で常備してるんだろう。
ジャジャーン。Yの簀巻き、一丁上がりー。
見るも無残な簀巻きっぷり! 手も足も出ないとはこのこと!
ひょっこり頭だけ布団から飛び出してて、かえって無力感が増してる。
私「で、後はどうするの?」
Y「何もしなくていい」
私「うぇ?」
Y「今から、そうだな……2時間。俺の上に座って、漫画でも読んでてくれればいい」
えっ、この簀巻き状態で放置プレイを敢行? しかも私を参加させるつもり?
簀巻きのYは当然身動きもロクに取れず、ただ力無くフローリングの床に転がるだけ。更に漬物石(=私)を上に乗せて2時間を茫漠と過ごすって、それ何が楽しいのよ。
丸太にまたがる時の要領で、友人である(はずの)Yを布団で巻いた何かにまたがる。胴の辺り。
Yの妹が愛読していると言う『君に届け』が揃っていたので、とりあえず手に取る。
『君に届け』がなかなかどうして面白くて、しばらくはYの上にまたがっていることを忘れて読んだ。
Yはすごく大人しくて、実に優秀な簀巻きだった。呼吸による微弱な動きも、モコモコな布団に吸収されるのかあまりこちらに伝わってこない。
3巻を読み終わりそうな頃だから、30分くらいかな。だんだんモゾモゾが目立つようになってきた。
そりゃあね、身動き一つするなって言われたって、生きてるんだもの。するよ。身体のどこかが痒くなったり、居心地悪く感じたり、絶対にする。動かしたくなる。
でもYは動けない。
Yの簀巻きが不快そうにモゾモゾ動く。「……んん」みたいな、吐息めいた声が微かに漏れ始める。ああ、気持ち悪くなってきたんだなって思った。でも私は何も言わないし、どいてもあげない。
2時間のゲームが始まる前、Yに念を押されたことが1つだけあった。
どういう意味かは後々よーくわかった。
モゾモゾが目立つようになってきて、7巻を読み出す頃、Yが明確な言葉を発した。
Y「ね、ちょっと解いて」
来たか、と思った。試されている。
私は「んー」とあからさまに上の空で答えた。
Y「脚がさ、痺れてきてて」
私「あー」
Y「攣りそうなんだよ、ほんとに」
私「そりゃ大変だ」
私「もうちょっと頑張ってみよっかー」
何してんだろ、私。とは思った。
脚が痺れてきたのはきっと嘘じゃないんだろう。1時間も重石を乗せて同じポーズでいたら、そりゃ身体のどこかしらが悲鳴を上げる。
彼がマゾヒズムを味わいたいと言うのなら、私はサディズムを発揮しなければならないのだ。目覚めよ、私の内なるサディストよ!
Yは聞いているこっちが可哀相になるほど、憐れな声を上げ始めた。おずおずとしたお願いが、徐々に鬼気迫ると言うか、迫真の嘆願へと変わっていく。
まるで本当に筵にくるまれて東京湾に落とされる寸前みたいなテンションで「解いてくれ!」って言ってくるから、(えっマジなの? マジでヤバいの?)ってヒヤヒヤしっぱなし。『君に届け』ってこんなに冷や汗が噴き出すようなホラーな漫画でしたっけ?
Y「漏れる」
私は戦慄した。そして唐突な記憶のフラッシュバックが脳裏を襲った。
まさかこれも計算なのか? 事前の水分摂取により、簀巻きプレイ中に圧倒的尿意を催すことを計算していたのか? そうまでして自分を限界へと追い込みたかったのか?
二十代男子が「おしっこ漏らす」のって、もう人としてアウトだろ。人として。
そこまでスレスレの状況を楽しめるのかこいつは、と私は心底愕然としていた。それとも私が知らないだけで、放尿プレイとかが紳士淑女の貞淑なお遊戯の一つとして流行ってたりするの?
漏れそうなYはモゾモゾどころか牡牛の如くのたうち回り始めて、上にまたがるどころではない。私はロデオなんて嗜んでないんだよ、悪かったな。
呆気なく振り落とされたカウボーイの私は、Yが苦悶の表情で「漏れる」「もう」「だめだ」と言った断片的なワードを唸るのを茫然と見ていた。あと15分もこれを観戦してろって言うのか。苦行かよ。
ハサミでパチンと結束バンドを切断し、布団から脱皮したYは酸欠なのだろう(そうだと思いたい)、紅潮した顔でぼーっとしていた。
早くトイレに、と言いかけたが、もうその必要は無くなっていた。
名誉の為に言っておくけど、彼は簀巻きにされている間、尿意に耐え続けた。人間である為に、ひたすら我慢して我慢して我慢した。
だから、簀巻き状態から解かれた瞬間に気が弛んだとしても、まぁ、何も可笑しい話じゃないのだ。
不謹慎なことかもしれない話だけど、ぶちまけたいので書いた。
大阪住まいだが、阪神大震災の時はあまりの揺れに恐怖で飛び起きたことしか覚えていない。
でも、そんなに自分の周りで家を失ったとか、被災して亡くなったって人はいなかったので隣の神戸の有様には新聞やTVでしか見たことのない現実にどこか上の空になっていた。
あの時見た報道内容が、震災の怖さなんだなって程度に思ってた。
当時はネットが普及していなくて、自分はセンター試験受験の年だったのでそれどころじゃなかったのだ。
というか、むしろ受験勉強の年にあんな事態になっても、勉強のことで頭がいっぱいだったので思い出に残らなかっただけなんだろう。
だが、2011年の震災の時はその受け止め方が変化した。
TVで被災して川に飲み込まれる人を撮影した動画や画像がネットに散乱していたのだ。
ご遺体が流れているのはあそこだとか、今あの動物が水に飲まれたよねとか某動画サイトで多くの人が見てコメントを流していた。
流されて悲鳴をあげて、それが消える瞬間とかリアルな人の死を動画サイトで自分は見てしまったのだ。
コメントできる人が、怖いって感じた。
べつにコメントすることで何か得るものがあって前向きなものになるってことでもないというのはわかってる。
見たあとに本当にいろいろ思ったんだ。
TVで報道されない部分を見て、報道規制のないもっともっと残虐な他人の不幸を見せろと言わんばかりの煽りコメントがある件には言葉が出なかった。
しかし、言葉の出ないようなものを見ている自分の中の野次馬根性もひどいもんだと落ち込んだ。
臨場感あふれる悲惨さ、残酷な映像、溺れてる人の姿を見てもこれはすぎた過去なのに、どう視聴していいのか戸惑い、怖くなって閉じてしまった。
中には被災者に祈りを捧げます。無事でありますようにって祈るコメントも多くあった。
だが、大抵のコメントが「すごい・・・」「やばい」「逃げて逃げて」「そんなとこいるな」「ひどい」「日本終わるのか」「あの犬逃げて」「うわあああああ」
とか過ぎ去った過去動画を見ながら、映画館でアクション映画を視聴している時のような印象が圧倒的だった。
モニターの前に映るものを、全て現実の中から切り取ってきた事実として位置づけているのに、どこかアクション映画のように眺めている感覚だったんだ。
興味本位であんなの見るんじゃなかったって当時、思った。
選択したものに関心があったから自分はあれをクリックして見ていたんだ。
結局、それが自分以外の他人の不幸だから見れるってだけで見てしまったんだろうって言い聞かせて画面から逃げた。
近所で火事が起きて人だかりができて見物するのも、こうして動画を見て人の不幸にコメントするのも・・・結局は他人の不幸で飯が美味いっていうものなのだろうか。
自分じゃない他人が苦しんでる姿を見て、なにができるかって思考がすぐにあの時、自分は思い浮かばなかった。
ただコメントで「無事でありますように」「冥福を祈ります」とかそういう言葉を送っても、届くものってないんじゃないだろって何度も何度も思考したけど答えがすぐにでなかった。
少ししてから、義援金を振り込むという金策援助に自分の中で落ち着いたけど、動画を見てると人を助けるための、人の力になるために必要な最速最短の思考と決断が鈍ったのは事実だった。
他人が苦しんでるから助けたいので義援金を送るっていう選択をしたってことになかなか困惑したんだ。
自分は、「あの動画を見て野次馬をしていた。好奇心に満ちたハイエナみたいなもんです」って心を隠してあの頃日々を過ごしていた。
つまり、ハイエナ行為をしていたけど、後ろめたさを感じながらあなた方の不幸を知って支援に関わっていますって己が惨めでたまらなくかんじてしまったんだよね。