はてなキーワード: 交易とは
歴史は大の苦手で全然勉強しなかったんだけど、大人になって海外に行く機会が増えたのを機にちょっとずつ日本&世界史を学びなおすようにしている。
そんな中「北海道がcolonizationを経ていかに日本の一部となったか」という記事(英語)をredditで見つけて「???」となった。
植民地っていうとイギリス-インド、スペイン-メキシコのように、ある国が遠隔地を支配するっていうイメージ。
日本と北海道の関係は隣り合った民族同士が戦った結果、アイヌ民族が負け日本に吸収されて一つの国になった→それってだいたいどこの国でも、国が生まれ発展する中で起こることじゃないの??ある国が異民族を打ち負かして吸収し、大きな一つの国になるという過程は「植民地化」なの?
と思いつつ、記事中でされているアメリカとの比較だとたしかに共通点がある(交易目的で流入してきた移住者と原住民が交易を通してお互いに頼りあっていたが、徐々に移住者が原住民を圧迫・迫害)。
元記事 (The Colonization of Hokkaido: How a "Foreign" Frontier Became Japan):
さらに自分なりに北海道の歴史について調べてみたんだけど、日本語だと「植民」という表記は見つからなかった反面、英語だと意外とcolonizationとして言及されてる(以下、和訳はざっくり)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ainu_people
「Meiji Restoration and Later」セクション
「(明治政府時代)当初は拓殖 (colonization) と呼ばれていたが、のちに開拓 (opening up or reclamation of Ainu lands) と言い直されるようになった(While at the time, the process was openly referred to as colonization ("takushoku" 拓殖), the notion was later reframed by Japanese elites to the currently common usage "kaitaku" (開拓), which instead conveys a sense of opening up or reclamation of the Ainu lands)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Colonization
「Modern "Colonial Era" colonialism」セクション
「19世紀初頭に大日本帝国が北海道への植民地化を行った(Beginning in the late 19th century, Imperial Japan also engaged in settler colonization, most notably in Hokkaido and Korea)」と言及あり
特に拓殖→開拓の言いかえの歴史をみると、たしかに北海道の日本への組み込みは「colonization」と言えるのかなという気もしてきてるんだけど、歴史に詳しい皆の意見を聞きたい。
広開土大王艦事件について日本側の公開映像に関する件 - 誰かの妄想・はてなブログ版 http://scopedog.hatenablog.com/entry/2018/12/30/070000
船影が小さすぎてどの地方のものかは同定できないですが、この船は明治〜昭和期に朝鮮半島へ技術継承された(おそらく)伝統和船「カワサキ」をベースとした木造船です
カワサキは青森〜富山(後世に北海道)付近の沖合に漁業および海運に利用された大きな種別で言うところの北方舟で、その全長は三十〜四十尺(10メートル)前後、重さは二百五十〜二百七十貫(1トン)前後です
中国はシルクロードなどの歴史からペルシャやアラブとの交易の中で南方舟の技術を発展させ、現在FRPや鉄鋼などの新素材の採用をしても(小型船の)技術ベースは南方舟であり、朝鮮半島も造船技術は南方舟のもとにあったのですが、日本と併合した歴史のある朝鮮半島であるからこそ南方舟と共に北方舟が朝鮮半島に存在します
ちなみに日本は世界でも数少ない北方舟と南方舟が同居する造船技術体系を持っている。南北に国土が長いためですね
そして日本および朝鮮半島南地方に位置する韓国では知られているように現在は文化継承保存および学術的もしくは観光目的でしか木造船は製造されておらず、多くの小型船はFRPや鉄鋼などの新素材へ移行済みです
船影を見ても明らかに古い型式の南方舟でない北方船の(おそらく)カワサキと思われる木造船を採用する理由は、北朝鮮への経済制裁の影響により新素材が入手困難であるからだと思われます
北朝鮮では伝統木造船を建造できる船大工が今もなお多数存在することが示唆されており、艦船オタクとしてはそれはそれで非常に興味深い
まぁつまり何が言いたいかと言えば「9割9分9厘韓国の漁船ではなさそうですよ?」という情報を提供しようと思って投稿させていただきました
って問いかけがプレイボーイ誌に。彼らが日本国に味方する義理なんぞないよ、どう考えても。
むしろ南側には、今まで旧ソ連軍からの盾になってくれたことに感謝だね。
中国朝鮮とも、自分たちを攻撃してきた日本国から救った勢力が興したのが国家の正史だし、当然教育もそうされてきているし。
せいぜいが経済的メリット?彼らのいう「東アジア」の寄り合いから日本を排除して、寂しがった日本が自ら数兆円差し出してくるのを待っている。差し出してきたあとも、定期的に「過去の清算をしろ。また軍国主義に走っているぞ。反省が見られないぞ」と、国連と組んでまた日本外しすれば日本政府からまたカネが来るのでね。貢中交易よろしく貢朝史の始まりか…
開発はこれが可愛いと思って作ってんのか?とずっと思ってたけど、今回のアプデで「嫌がらせに来ているな」とひしひしと感じた。
まず、受付嬢の事を「ブサイク」や「ブス」という奴が俺を含めいるが、造形が醜い事を言っているのではない。
こいつに感じるのは「おちゃめなドジっ子」という印象だ。
コレ自体は別に良い。そういうスパイスも必要だ。モンハンはそもそも濃いキャラ付に定評がある。それを嫌いなやつもいるが自分は比較的寛容に受け入れてきたつもりだ。
いつでも元気で陽気で好奇心旺盛で、仕事よりも食べることが大好きなキャラで拠点では食事場にずっと滞在しだいたいいつも食べている。しかし、その好奇心旺盛さがトラブルを呼び起こすことも…。
描いてみると、これがオトモアイルーなんかで造形されてたらかわいいもんだ。まさに「おちゃめなドジっ子」のテンプレ。なので属性として何ら間違っていない。
しかし、こいつはそれに加えて他のキャラから「有能」だと思われている。
これが最大のムカつくポイントだ。
なにしろ、主人公視点でみればいつもトラブルを起こして問題を発生させてる原因なのだ。
しかし、なぜか受付嬢に限っては「私と主人公が協力して対応したな!」という話の方向にもっていきたがる。
好奇心旺盛さが有る一人の重要人物を危機に陥れる。結果的に無事だったからか、反省することもない。
そして、周りが異常なまでに持ち上げる。
このネタバレになるが大筋を書くと
3:主人公がそこに向かうと、なぜか受付嬢がその危険エリアにキノコ採取にきていた
というのが大筋だ。
周りが異常なまでに持ち上げる
これはまだ納得ができる。主人公視点外で実は受付嬢はパートナーとしてバリバリ仕事をしているのかもしれない。
自分もそう思い込んで、なんとかムカつかないように抑えてきた。
バリバリ仕事をしているはずのなら、主人公が受けるクエストの内容も把握しているはずだし、「イビルジョーが出現」という事は「受付嬢」という仕事をしているのなら普通しっているはずなのだ。
そもそも、クエストを受ける時も受付嬢からクエストを受ける。だから主人公がどこにいくかはわかっているし、事実、いつもクエストについてくる。
しかし、なぜか受付嬢がその危険エリアにキノコ採取にきているのだ。
主人公が多くのモンスターを狩り、多くの発見をしていることだけが事実であり、それの報告も結局主人公がしているし、モンスターの調べるのは研究所だし、拠点のみんなの依頼を統括しているのは物資班や拠点の中枢だったり、それでも拾えきれないクエストを拾うのはハンターなのだ。
つまり、受付嬢は「リストを持ち歩いて飯を食っているだけ」の存在であり、どうあがいても、どこからどうみても「有能」には見えない。
最終的に、顔も周回エリアにいる受付嬢よりも良くないのに開発からつけられている名前が「麗しの受付嬢」という持ち上げっぷりなのだ。
流石にひどすぎる。
せめて、仕事はしっかりやっているんだろうなって思って、なんとかなんとかアンチに対しても「受付嬢としての仕事の描写不足だと思う」と諭して来たのに、今回のアップデートで人の話を聞かない、リストの内容を把握していない、調査レポートを纏めていない事が証明されてしまったのである。
最後に、受付嬢アンチスレの受付嬢を表した文章を貼って終了とする。
植研への依頼、肥料や状態の管理、アイテムの受け取りはハンターが行なって下さい。
その他錬金、交易、食事や武器防具の生産強化等、クエストの前準備は全てハンターが行なって下さい。
クエスト中に得たモンスターの調査情報やバウンティの報告、受注は全てハンターが行なって下さい。
拠点各所で発生する依頼はハンターが依頼主の元へ直接聞きに行って下さい。
現地におけるフィールドワークはもちろん全てハンターが行なって下さい。
私はギルドが発行してるクエストボードの依頼をそのまま丸写しでハンターに見せます。
当然写しただけなので現地にいる間は拠点で受注された他ハンターのクエストのことはわかりません。
その他研究施設などのことも現地からではわかりませんので私を通して管理することはもちろんできません。
拠点にいる間も私は食べるのに忙しいので各施設の利用はハンターが直接各所へ赴いて下さい。
現地で暇な間、自分で食う片手間に5,6個くらいなら肉を焼いてあげます。依頼は料理長を通してハンターが行なって下さい。
あとは何もしませんし寧ろ出しゃばって足を引っ張るヒロイン演出が頻繁に入りますけどこれからもよろしくお願いしますね、相棒!
全部、その古株の上司のいうことの受け売りなんだが、指輪は邪馬台国のころの奴国王が鍛造したものらしい(奴国は博多のあたりにあったと考えられていて、九州北部沿岸は考古学的にも我が国の製鉄の黎明期の遺構・遺跡が集中しているところなんだ)。
奈良盆地の邪馬台国→ヤマト政権の伸長に対抗するために、奴国王は南方との交易の中でレガリアとして鍛造した。その際は卑弥呼と台与がなんとかしたんだろうとのこと。
でも歴史の節目節目に指輪の持ち主が現れて、そいつが天下取ると最終的には古の奴国王が復活しちゃう。
現代に復活すると、国会の召集や衆議院が解散した時とかに明仁が押す「御名御璽」の印が、「漢委奴国王印」にとって代わられてしまうんだってさ。このように、世界が支配されてしまう。
平成も終わるし、早く捨てに行った方が良いって言われた。
で、わかると思うけど、ピナツボ火山で鍛造したから、ピナツボ火山に捨てないといけないらしい。これは幕末の探検家松浦武四郎も『撥雲余興』にそう書いているんだって。
1.領土型
家を置ける場所が限られているルールを使って、道を広げて島を半分に割るような形で広げるタイプ。
邪魔されなければ他のプレイヤーは家を置くことが困難になるためほぼ勝ちが決まるが、
特に最初に木土がどれだけ集まるかも重要であり、なかなか決まることはない。木土が厚い時がチャンス。
必然的に最長交易路が取れるので、都市4軒+最長交易路にするならば羊が家2軒分の2匹で足りてしまう。
2.都市型
とにかくシュタット(都市建設)を行い、少ない都市から大量の資源を生み出すスタイル。
最初の2軒で麦鉄を重視して置くため、木土羊のどれかが足りなくて中盤苦しむ。
出目がよく、他人との交換か、麦鉄から4:1交換が問題なくできると苦しみが少ない。
シュタット後ダブつく麦鉄の2:1港を持っていると強力。
特定の出目で4枚資源が出るようになっていると強いが当然波が大きい。出目網羅型の逆。
3.発展型
余る木土で最長交易路も目指し、たまに家を建ててシュタットはあまりせず、
最大騎士力、最長交易路、ポイント2、家4軒くらいで勝利を目指す。
極力どの資源にも絡んでおかないと、家が建てられずに出遅れる。領土型が天敵か。
4.出目網羅型
4~10の出目どれが出ても資源が取れるようにすることで、圧倒的な資源で臨機応変に建てていくタイプ。
最初の2軒でそれら全部を網羅するのは難しく、また資源が偏ることも多いので盤面次第になりがち。
だが網羅できると建設スピードはかなり早い。3:1港を用意できれば捗る。余裕があれば3,11にも手を出すとなお強い。
最初は出目網羅型にしておいて、途中から都市型に切り替えるのが強いが、発展型に移行することも可能。
5.2:1型
2:1港を最初または序盤で抑え、最初に置く家2軒を目指す2:1港が必要とする資源に絡ませることで、
出やすい出目だけでも戦えるようにしたタイプ。1軒だけでも都市にしておくと、その出目がオールマイティー扱いになる。
盤面的に特定の資源が弱い、出目が偏って特定の資源が出ない、といった状態だと自分だけその資源を集めることができリードできる。
逆に人の歴史に興味が持てなくて歴史の勉強を無視ってた人間が適当に言うけど
人間の生活は人間同士の殴り合い騙し合いだけじゃなくて、食糧の生産性とか天災による社会の動揺とか
地勢や海流に合わせた新田や交易路の開拓とか、いろんな自然の空間と時間の条件の上に成り立ってて
それを知ってるのと知らないのとで研究を進める難易度が違うからでしょ
自分は自然の方が好きだから、中央アフリカ(だったか)の温暖地域では風土病で牛が育たないから
いくら土地が農業に適していても耕作動物を使えず生産性に限界があって文明の成長が遅かったとか
それでも病気を媒介する虫が育たない周辺の乾燥地域で牛を育てる牧畜民族との間に穀物と肉の交易関係を築いて栄養条件は特別悪くはなかったとか
極北では夏に氷が溶けて柔らかい土の上に生えた苔をトナカイに食わせて牧畜するんだけど、
水気が多くて柔らかい土が沈下しやすくてうっかり大穴をあけると冬の間に地面が大氷塊の下に沈んでしまう苔すら生えない沼が何kmも拡大して何十年も回復しないとか(記憶が曖昧)
そういうことを調べる方がすごく楽しくて、歴史と別に人類学っていうのがあるから自然派は幸せなのかもしれないな
これを認めるって人は左翼の中にもいないと思うんだけど、そうすると圧力をかけて譲歩させるしかないんだけど、日本やアメリカからの経済制裁じゃあ譲歩させるには足りない。
仮に中露印を巻き込んでの経済制裁が実行できたとしても、今度は暴発の危険が出てくる。
核も弾道ミサイルも持ってる国に対して、これは絶対に避けたい。
となるとこれはもう完全に詰んでるとしか言いようがないよね。
日本にできるのは核もミサイルも認めませんよ、拉致被害者も諦めてませんよってポーズをとり続けての現状維持しかない。
北朝鮮だってバカじゃないんだから理由もなくいきなり日本に核を打ち込むなんてしないでしょ。
あとは北朝鮮の指導者が基地外にならないことを祈るか、アメリカの大統領の気が狂って北朝鮮に戦争吹っ掛けても日本に被害が及ばないことを祈るくらいしかできないんじゃないですかね。
諦めなよ。
2年ぶりくらいにインしてみたんだけど、
深みがありすぎて無理そう…
感覚的に、すごくやり込み甲斐がある神ゲーなのは凄いわかるんだけど
何すればいいのかわからん…
戦闘メインにしようと思ったんだけどそうなると延々とお使いクエなんだよね
めちゃくちゃ噛み砕いて説明してあるvipで黒い砂漠のwikiの初心者向け指南読んでも何がなんだか…
用語がわからなくて別途で検索しないといけないのが面倒すぎる…
ソロゲーだけどギルドに属さないと多分楽しめない気がするけど、
ちゃんと課金して続けるかどうかも分からないのにギルド入るのは気が引ける…
マビノギとかも最初経験者と一緒にやらなかったら多分意味わからんすぎた
思うにMMOってのは一種の「手間」がないとどうしても場もちしないんだよな
人との交流がしやすいゲームは多少クソゲーでも人の繋がりがあると楽しいので長持ちする
ROが流行ったのはチャットシステムが使いやすいからってのは多分にあると思う
マビノギは無料でもインできるけど、月額課金しないとマトモに遊べないけど、
課金休憩している間も、インしてチャットして人間関係のつなぎはできる
人間関係に疲れてソロゲーとかソシャゲをやるも、結局ツイッターで絡みができちゃったりね
人間関係の美味しい所だけつまみ食いというわけにはいかないのだ
常に夫とプレイしてるから何やってもそれなりに楽しめるんだけど
常にべったりなのでしんどい時もある
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。
それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。
いざとなれば暗殺されるだけの存在にみえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。
増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊は雑魚ナメクジ化した。
戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、
次世代の当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者は増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。
最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。
アルファマスダ家 | 当主 | 領国 | 石高 |
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増田家(八) | 大便公方 | (八)(六)半国(七)(九) | 560万石 |
増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。
増田島の中央に位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。
旧増田領(九)に運河を建設して南と北の交流を活性化、平和の中でのさらなる発展を目指している。
当主の意向で公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外の商人にも感心されている。
増田匿兵衛は自分は戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田四五郎などの育成にあたっている。
増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。
ベータマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
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増田家(四) | 鎮寇将軍(鎮北将軍あらため) | 増田出羽守 | (四)(一)(二)北半国(三) | 290万石 |
増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。
ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。
当主は北方異民族の来寇にそなえる意味で公式に鎮寇将軍の名をたまわった。
狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。
金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である。
増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである。
ガンママスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
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増田家(五) | 東上管領 | 増田金吾 | (五)(二)南半国(六)半国 | 290万石 |
まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。
収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。
穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。
その魚の栄養は増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、
ここに穀物とうんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。
また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流が増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。
彼らは居住を制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。
緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。
なお、石高は増田家(四)と互角ながら、鉱山や商業の収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。
デルタマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
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増田家(十) | 西国大宰相 | 増田大学 | (十)(士) | 210万石 |
増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)からの干渉を強く受けている。
しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。
二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである。
増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。
また、大陸との取り次ぎ役には歴史的に増田家(十)が適任であった。
歴代の当主は気性のあらい増田家(士)の武士を制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。
その他
大名格の増田家 | 旗本格の増田家 | 商家になった増田家 | 消滅(吸収された)増田家 |
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(三)(九) | (二)(士) | (七) | (一)(六) |
役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。
文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。
俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。
より荒っぽい忍者はコミュニケーションに手裏剣を投げつけあった。
帰農した忍者が増えてからは野良仕事に使う手斧が活躍することもあったという。
また、村内の政治的対立を回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。
村民は独身のおっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。
ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家の増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。
そじゃーな!
前回
増田典厩の尽力により、その当主会談が旧増田領(六)で開催される運びとなった。
二人はそれぞれ供をひとりだけ連れて、竹林にしつらえられた厠の中へ入る。
帯を解くと、コの字型に並べられた便器にむきあう形で腰掛けた。
「見事な海綿じゃのう」
増田家(四)が用意した厠には天窓から竹林を通した光が入り、ほのかに緑色づいて見えた。風も緑に香る。
尻の下から聞こえるせせらぎは大きすぎず小さすぎず、意識をリラックスさせてくれる。
自然石のモザイクでヘクソカズラやイヌノフグリなど、野草の絵が壁に描かれ、密室でありながら開放感を演出していた。
遙か西から伝わった公共トイレの文化が増田島で洗練を極めた結果うまれた「便道」、その粋を凝らした厠と言えた。
便道は権力者にとって便利であり、内密の話をするため多用された。
帯をほどいて便器にまたがるという無防備な状態を晒し合うことで親密さを高めることもできる。
出シニケーションである。
実際、漏らしても粗相にならずに済む増田家(八)当主は落ち着いた様子だった。
まずは互いの大勝利を称え合う。繊維製品の交易を通して二人の間には面識があった。
思えば最初から国境が接していた二家が生き残ったのも不思議なめぐり合わせである。
増田家(四)当主が連れ込んだ小姓の増田四五郎は固唾を呑んで交渉を見守っていた。
どちらも淡々とした様子で、天下の未来を決める事柄に触れていく。
「増田中弐殿はお忙しいようだ」と一方が言えば、
他方は「いきなり領国が三倍にも増えて大変でしょう」と皮肉った。
「三倍……?」
増田四五郎は首を傾げた。国数でも石高でも彼らの領地は三倍よりも四倍の増加と言う方がふさわしいはずだ。
しかし、増田家(四)の当主は小姓にしかわからないレベルで表情を強ばらせていた。
「前から提示した条件を受け入れていただけないのなら、代わりに増田領(一)の平定は我らが引き受けましょう」
増田匿兵衛は膝をつめて核心に触れた。
「……ッ」
内外に秘密にしていたことであるが、増田家(四)は未だに増田島最北部を平定できていなかった。
増田家(一)の遺臣が抵抗しているわけではない。
実はかつて傭兵に呼ばれた北方異民族が混乱につけ込んで大量に流入し、容易には討滅できない状況になっているのだ。
激戦と領土の急速な拡大で疲弊した増田家(四)に、この敵の早期撃破は手に余った。
だが、増田家(八)はおおよその真実を突き止めていた。なんのことはない。
残念ながら世界的な視野をもつことで、増田家(四)は遅れをとっていた。
「では……お願いする」
「えっ!?」
ぶりぶりという謎の音と一緒に、素っ頓狂な声を増田家(八)当主があげた。
内情を知っているとの脅しを素直に受け入れられるとは思いもしなかった。
いやな予感がした増田匿兵衛は尋ねた。
「十万じゃ」
増田匿兵衛も漏らした。
とりあえず持ち帰ると思ったのだが、増田家(八)当主はその場で自分たちの言葉に責任をもつことに決した。
本当にこれで良かったのか、増田家(四)の当主が悩む番になった。
彼はつぶやいた。
「それにしても、本当に致すとはな……」
「便道」は排泄の形をとるものであって、実際に排泄をすることはイレギュラーに近い。
だが、敵の首脳は手慣れた美しい所作で海綿や和紙を使って行った。
「まさしく「大物」にございますね」
増田四五郎は緊張でカラカラになった口をやっと開いた。当主はちょっと笑うといきんだ。
「ふんっ!」
彼の下から聞こえるせせらぎが変化した。最強の武将はうんこでもって自らが流されないと示唆したのである。
「お美事にございます」
だが、
「……切れた」
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