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はてなキーワード: 二級市民とは

2021-11-10

anond:20211110124619

幼稚園選びについての会合でも同じようなことがあったな。

授乳中のお母さんが来ることがあるので男性は遠慮いただいているとお断りされたことがある。

児童館に行くと、「よく手伝ってくれるお父さん」と呼ばれるし、基本、居ない人扱いかお客さん。

要するに女性たちが男社会で味わってきた二級市民扱いをここではされる感じ。

まあ、男がだとか女だとか関係なく、自分たち領分によそのやつが入ってくるのが嫌なんだろうなって思う。

それを逆手にとって子供イベント自分が行くようにしてみたら、基本お客さんだからうちには厄介ごとが回って来ない。

というわけで、二級市民でいいじゃない?それでWin-Win関係だよって思ってる。

2021-10-30

出羽守自由について

日本は素晴らしい国だ。

信じ難いほど質の良い食品が信じ難いほどの安価で手に入る。

日本は素晴らしい国だ。

交差点で銃を突きつけられて金を奪われることもない。

日本は素晴らしい国だ。

これほどまでにインフラ施設が充実した"田舎"が溢れている国も珍しい。

だがそれでも、彼の国には祖国では決して得られないものがある。

それは二級市民であることの自由

私は彼の国では永遠に二級市民だ。

だがそれは仕方のないことなのだ。

なぜなら私は何らか事情があって彼の国にいるのだから

裕福になったり社会的強者になれなくてもいい。

移民二級市民であることに誰が疑問を感じよう。

そのくせネットもっともらしく彼の国の事情を発信して日本比較してみせることで一定の注目を集めることができる。

こんなに精神衛生に良い状態はない。

それがささやかな私の、私たち自由なのだ

2021-07-05

anond:20210705145645

「具体的に差別を促進する」、ってどうやって証明するの?

全寮制のコミュニティで、あらかじめアンケートなどで差別意識調査した後にそのコミュニティを2つの寮に分け、片方の寮で見られるコンテンツには強力なフィルタリングをかけ、もう一方のフィルタリングをかけなかったグループと比べて1年後や3年後などにどの程度意識の差が生まれたかを見る、などかな。

現段階で差別構造があり、その差別助長する(偏見を強める)表現を、公的な場で行う、結果不快になる(傷つく)表現あかん、という話じゃないのかね。

現段階で女性差別構造があることに異論はない。

その偏見を強める表現と言うなら、たとえば『障害者社会お荷物』とか『黒人二級市民』のような直接的な表現ならばそうだろう。

だが、足や巨乳を強調したポスターがその差別偏見助長するような効果が本当にあるのか、それは例の女子高生が受賞したメイド絵は「女は卑しい娼婦です」という主張を肯定していると同様の言いがかりではないのかというのは問われないとならない。

効果があるように私には思えて、そのことで不快になる』のがあかんというなら、

「私は同性愛者なので、イエス・キリストキリスト教肯定するような表現公共の場所で見ると、同性愛差別を促進しているように思えて不快になります」も同様に通るのか。そういうことだ。

2021-07-01

anond:20210701162555

共産主義カルトなら女をオルグしちゃえば同志ならヤリ放題だもんな歴史的に。そりゃ勧誘するよな。

いまさら共産主義に股開きに行く女は共産主義活動二級市民お茶くみや穴扱いされたせいで国内フェミニズムが巻き起こったのをなーんも勉強してねえだろうからな。

2021-05-23

anond:20210523054126

そういうのはもう、イクメンじゃないよ。

イクメンってのはあれだろ?子育てを手伝っている奴らのことだろ?

お前はどっちかというとメイン子育て人であってそういうサブキャラじゃない。

堂々とワーキングファーザー、略してわーぱぱを名乗り給え。

...でも、それやると、いわゆるその辺の家庭と逆転現象が起きてない?

その辺の家庭だと何かあったらお母さん、お父さんはもういいよみたいな感じだと思うけれど、お前の家では何かあったらお父さん、お母さんはあてにならないってなってそう。

わーぱぱやってるといか女性たちが男社会進出するのが大変だったかを身をもって理解させられるよね。

居ても、居ない人という扱いか、お客さんという扱いで、私は子育て社会における二級市民なんだと自覚させられる。

男になんか子育てできんだろとマウンティングしてくる女の人多数。

2021-04-06

anond:20210406110902

それで既得権益からうまい汁を啜りつつ、二級市民同士が争うのを高みの見物してるのは保守エスタブリッシュメントなんだけどな。一例としては「俺たちの麻生」って言えば分かりやすいか(彼は漫画愛好家のイメージオタクの歓心を買っているが、実際にはわいせつ表現規制積極的人物経済格差の面でも、国の事業への一族人材派遣会社アソウ・ヒューマニーセンター)の押し込み等を通じて搾取を行っている)。

2021-02-23

女性社会的地位が低いって当たり前じゃないの?

日清日露第一次世界大戦太平洋戦争において徴兵されて戦ってきたのは男性なのだからね。

徴兵されて戦わなかった女性子供二級市民扱いなのは当然でしょ。

アメリカ軍も、女性黒人同性愛者を排除して来た歴史があるのでそれらの社会的地位も低い。

現在アメリカでLGBTの人権問題クローズアップされているのは、ポリコレでも人権意識が向上しているからでも何でもない。

アメリカ軍アフガン戦争イラク戦争からGBTを受け入れていて、LGBTの人たちが勇敢に戦ったことへの報償に過ぎない。

2021-02-21

anond:20210220201306

× 役職者の男女比がいびつ

役職者の年齢比がいびつ

ってことは無いんだろうかね。

あと、ジェンダーギャップの話をすると、女性社会進出について話をしても男性社会進出について話をしないのが非常に違和感がある。

あ?俺?俺は子育て二級市民扱いされすぎて疲れたからうそゲームから下りた。子育ては男を排除した女の楽園として楽しんでくれ。

2021-02-18

anond:20210218152918

先の大戦まで徴兵されたことの無い女性が、男性よりも一段下の二級市民扱いなのは当然。

それが嫌なら次の戦争では女が前線に行って戦って死んでこい。

2021-02-17

この元増田に届いてほしい、同類増田より

https://anond.hatelabo.jp/20210213230410

「あるある」と思って読んだ。さぞ悔しかたことでしょう。

しか安心なされよ。物事はキットうまいこといく。

こちら、2児の父であり育児全ステ振っている感じの父です。老増田心ながら、いろいろ伝えたい。

あなたと同じようなことがたくさんあった。ぱっと思い出すことを書いておく。今はこのようなことはない。過去の話だ。

保育園の送り迎えをしたくらいで褒められる。

雨の日、電動の子もの自転車子ども2人を乗せて帰るときに、保育園先生に「パパすごいわね」と声をかけられた。たしかに、これはかなりきつい。冬場は特にきつい。でもね、その発言がなされたとき、俺の隣にも雨の中で自転車に2人の子どもを乗せている別のママがいたわけ。そのママも同じだけすごくない?遅くまで残業している男女がいたときに、「ママすごいね」と言うのと同じ構図。褒めているようで侮っている。ちなみにその時は言いましたとも。「こちらのママ様も同様にすごいですよ」と。そしたら「あ」という顔をしていた。年配の保育士さんだったが、大悟したはず。

保育園の年配の先生二人称複数形が「ママたち」「お母さんたち」

保育園保護者会の役員をやったとき自分一人だけが男性で、それでも「(ほぼ)ママたち」というくくりで呼ばれることがたびたびあった。「俺、ここにいるよ!」と毎回心の中で叫んでいた。

子どもを迎えに行ったら、「今日トイレで汚してしまったんです。ママに伝えてください」と言われたこともある。

ん?俺が今、しかと聞いたぞ?

まり父親育児における二級市民に序せられているという事実に、いろいろなところでチクチクされる。

しかし!以下の点から、そんな杞憂の8割くらいはなくなると思う。これを伝えたい。

第一に、そこまで育児ワークを多くこなしていれば、日常的に見ている人からの侮りやズレた褒めは減ってくる。

第二に、自分自身が慣れて気にならなくなってくる。

第三に、相手言動がある程度予測できるようになってくるので、「事前に予測が立つ」 <- これポイント

ちょうど先日、近所にある学習塾が何周年記念とかで営業の人が家にピンポンきた。ノートをくれるというので、ひょいひょいとドアを開けた(ちなみに増田コロナからずっと在宅勤務)。軽く前口上を聞いた後、営業さんは「お母様がいる時間にもう一度来る」と言う。そう来ると思っていた。マンション営業で夫がターゲットになるが予測できるのと同じで、学習塾習い事系では母親ターゲット意思決定者という前提になる。

我が家場合、これ系の窓口は私なんです。どうぞ私に話してください」などと伝えて、話してもらい、丁重お断りしたらすんなり帰っていった。

一瞬、相手が「え?」という顔をするが、別に気にならない。そんな場面はたくさん見てきた。

保育園入園説明会保護者会、学校行事などなど、母親が来ることが想定されていて、父親オマケ扱いされることが事前にわかっていれば、どのように切り返してそこに居座りメインキャラクターであることを認識させるかを考えておくのがよい。

我が家場合、こうなんです。」とか「うちは私が、」

こんな感じで、切れることなく、男女平等だとかそういう高尚な話をすることもなく、ただ偶然、「うちの場合はこう」ということを伝えれば、角も立たずに丸く収まること請け合い

父母のどっちか1人が担当になりそうな場面では、父が担当者になるよう事前に取り決めておくのもよいと思う。元増田入園説明の場面を考えると、「あー、では妻が娘の相手しますので、私がお話を聞きますね」などと言えば良い。その場で妻に向かって、「それでもいい?」と優しく付け加えるところを見せたりすれば、園長先生は誰か保育士を1人よこして娘の相手をし、父母の2人に話をしてくれるんではないかと思う。そして、園長先生には「俺はオマケじゃねー」というメッセージをしっかりと伝えることができる。希望的観測だが、その後は一級市民として扱ってくれるかもしれない。

瞬時のレスポンスを早くしようとするあまり鼻息が荒くなってはいけない。大事なのは想定問答を用意しておくことだ。それにはある程度の失敗体験必要。今回はそんな失敗体験の1つだ。

長々と書いてしまったが、子どもが小さい時期はあっという間。

なにより育児楽しい

父と母という別個体からさらにまったく違う別個体が生まれ、それが自律して動き出すというめくるめく刺激的な体験だ。

可能範囲ステータスを振って楽しんでほしい。父親育児オマケではないぞ。

2020-08-20

anond:20200820132729

女性参政権が無かったのは、男性のみが徴兵されて戦場に送られたことのバランスを取るためでしょ。

戦争に行かない二級市民の分際で、参政権も欲しいなんて贅沢過ぎ。

今後、日本徴兵制が再導入されたら、当然女性徴兵して前線で戦ってもらおう。

anond:20200820102422

お前の市民に女は存在しないのか

それとも女は二級市民かなんかなのか

2020-08-06

anond:20200806085521

女は明治昭和中期の戦争徴兵されて戦わなかったからでしょ。

国を守る義務を果たせなかった二級市民であることが根底にあるから男性と同列に扱われないのは当然。

一つ、いいことを教えてあげよう。

米国でLGBTの人達人権を守る兆しが見えてきているのは、別に社会運動の成果でも何でもない。

湾岸戦争イラク戦争において、LGBTの人達兵士として一緒に戦ったから。

湾岸戦争以前は、LGBTは米軍に入隊できなかったという歴史を学んでみるといい。

2020-06-27

西村大臣が夜の街連呼しているのは

そこにいるのは二級市民から病にかかろうが死のうがどうでもいいってことですよね

2020-06-15

リベリアでもマイノリティ権利制限されているらしい

リベリア――肌の色で市民権が決まる国

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43538302

以下ではチェリーピッキングをする。

リベリアでは肌の色に基づく差別的規則がいまだにまかり通っているという。

しかしヘイジさんは、リベリアでは二級市民だとされている。実際、彼は市民ですらないのだ。肌の色と、家族ルーツレバノンにあるという理由で、リベリア社会正式な一員となることを妨げられている。

数百年後、リベリアの新しい大統領、元サッカー選手ジョージ・ウェア氏は、この規則を「不必要で、人種差別的で、不適切だ」と表現した。

その上ウェア大統領は、人種による差別は、「自由」を意味するラテン語「liber」に由来する「リベリアそもそも定義矛盾する」とも述べた。

リベリアアメリカも肌の色の違いで不利益が生まれない社会になるといいな。

2019-12-03

非モテの星YSニキはモテないだけで年収700万に株の運用もしてて大学教員っていう正真正銘強者男性だぞ

2019-11-26

英語力を語る時忘れられていること

英語で会話しようとする人の90%は、外国語英語を喋っている人であって

大半の場合ネイティブからみたら下手、とかクソどうでもいいということ。

彼らから難しい単語は(専門用語を除くと)出てこない。

から発音がどうとか、語彙力がどうとか、ネイティブはI'm fine thank youって言わないとかはっきり言えば全部雑音。

スラングや独特な言い回しは、必要ならば使っている集団に混ざってから学べばいい。

スウェーデン人の元上司も、英語で一番やり取りが難しいのは英国人だと言ってた。

勉強をするのは世界の人と意思疎通をする共通語を学ぶためであって、

英語圏の人に二級市民として認めてもらうツールを得るためじゃねえよ。

2019-11-04

お前らは全員フェミニズム理解していない

献血ポスターの件でまたあちこち燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。

これは「ポルノグラフィ法規制」に対してのフェミニズム観点テーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。

字数が切れていたので分割。

anond:20191104142158

以下本文

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1. 問題設定

レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。

2. ポルノグラフィ定義

最初検討されるべきは、規制対象たりうるポルノグラフィいかなるもの定義されるかということである。もちろん、いかなる性的描写ポルノグラフィであって規制対象たりうる、という立場自体不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。

まず、一般的ポルノグラフィ定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情総合し、その時代健全社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ要件(通常人羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。

判例立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり本来性的表現であっても、直接他者危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。

一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィいか定義たか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず写実的描写され、性的にあからさまな形で女性従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性レイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性性的服従姿勢提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態性的ものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記基準と比べるとこれは、はるかに明快である

ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制日本において考える際にも重大な差異であると考える。

最高裁におけるわいせつ概念定義は、三要件を用いたその定義から明らかに社会的性道徳、善良な性風俗といったもの保護対象としている。つまり、過度に扇情的ポルノ作品市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件控訴審における判決理由中の「かゝる文書猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動制御否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念わいせつ文書規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。

ミネアポリス市かいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィ規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。

ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的対象化objectificationするものである、とラディカルフミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性従属においては、不平等のものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等セクシーものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配服従をセクシュアルなものにする』」 。

ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまりポルノが消費されたときに、社会倫理的道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である

Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者観点の方が規制根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者アプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いか表現の自由価値絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。

3. ポルノグラフィ危害

ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィ一般的危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィ定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。

もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり女性傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である

危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的基準の定立が可能である一方で、主観的不快およびその深刻性については、客観的判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。

ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィ撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギネズミナイフピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的テーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的テーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィ女性憎悪純粋蒸留物であり、女性経験の中でレイプ女性殴打、近親姦強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィ擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。

実際にこれらが物理危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害のものであり、規制はされてしかるべきものであるしかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会ポルノグラフィ公認していると見做される旨主張する。

McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダンフェミズムの立場のもと、一定距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィ生産に対してとられるべき法的行為措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニスト目的根本的に寄与すると主張する。この産業女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どもとき性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春ポルノグラフィ従事させられるのであるポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィ存在している社会は、女性経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由からポルノグラフィ規制法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプ女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノン仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護要求するような、文化的コード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。

2019-08-28

anond:20190827162611

でおっでお、でおっでお

ってとりあえず言っておけばいい?

地上波だとミニしかないんだよな。

まあ、最近やっと男性家事二級市民扱いされていることが海外問題視されてきたところだから、輸入するのに10年くらいかかって、それから改名されるのでは?

2019-08-04

例の表現不自由展の話


国や県の補助金が入っているか政府が展示内容にいくらでも口を出してもいい、って本気で思っている人がいまだにいるみたいだけど、そんなことはないんだよ。

何故かというと、表現の自由保障するということは、政府国民の間で交わされる表現活動について中立的であるべきことも含意するから

これはちょうど、信教の自由保障政教分離原則が密接な関係にあるのと同じことだと思えば理解やすいだろうか。

国によっては、国教を定めつつもその他の宗教も一応認めます、ってところもあるけど、それではやはり国教徒以外は二級市民ということになってしまう。だから日本では、政教分離原則を定めて国家宗教に関わらないことにしたんだよ。

同じように、政府が、この表現は正しいか補助金を出します、この表現は正しくないか補助金は出しません、とやりだしたら、表現の自由保障はすぐに形骸化してしまうんだよ。

例の表現不自由展の話

国や県の補助金が入っているか政府が展示内容にいくらでも口を出してもいい、って本気で思っている人がいまだにいるみたいだけど、そんなことはないんだよ。

何故かというと、表現の自由保障するということは、政府国民の間で交わされる表現活動について中立的であるべきことも含意するから

これはちょうど、信教の自由保障政教分離原則が密接な関係にあるのと同じことだと思えば理解やすいだろうか。

国によっては、国教を定めつつもその他の宗教も一応認めます、ってところもあるけど、それではやはり国教徒以外は二級市民ということになってしまう。だから日本では、政教分離原則を定めて国家宗教に関わらないことにしたんだよ。

同じように、政府が、この表現は正しいか補助金を出します、この表現は正しくないか補助金は出しません、とやりだしたら、表現の自由保障はすぐに形骸化してしまうんだよ。

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