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2022-07-18

同期に祝福二世がいた

可愛らしい女の子だった

ふわふわしてちょっと頼りない、男ウケいいだろうなという感じの子

本人は自分統一教会信者ということを周りの人間に隠していたと思う

でも噂というのはすぐ広まる。その子とかつて同級生だったという別の同期からいろんな話が回った

幼い頃に決められた許婚韓国いるか恋愛禁止とか、異性とふたりきりで部屋にいちゃいけないとか、期末テスト中に小さいマリア像を机の上に出してた、寄付金のせいでお金が無くて修学旅行に行けなかった、信者数人とシェアハウスしてるとか

どこまで本当かわからないけど、でもみんな腑に落ちてた。そういえば定期的に不自然な長期休みがあったり、変な本読んでるのを見かけたり、みんな何かしら違和感は持っていたようだった。もちろんそれを知った後も当人に何か聞いたりなんてことは誰もしなかったけど

ただ、お金を借りることが増えた時期があった。借りると言っても少ない額なのだが、その回数が本当に多かった。ごはんに誘うと来るんだけど帰り際にお金持ってなくて…と言って、誰かが立て替える。でもそのお金は返ってこないみたいなパターンほとんどだった

この頃、彼女の両親がふたりとも仕事を辞めてしまってお金が無いと、そんな相談を受けたという同期もいた。彼女は遠い実家に住んでいた。収入が無くなった上に寄付金も払ってるから金無いんでしょなんて、他の同期達と話していたのを覚えている。結局お金は返ってこなかった

彼女とはしばらく会っていない。韓国にいるという許婚とは結婚したのだろうか。あの頃流れていた様々な噂は本当のことだったのだろうか

anond:20220718152949

どんなに証拠を揃えて世に示しても、利益供与がある人たちがこの日本社会多数派から無理

ということに絶望したって山上以外の二世三世信者被害者も言ってるんだから

まぁ、今回も無理だと思うよ

anond:20220718032038

一番最後論理の飛躍

統一教会二世というドマイノリティ政治大勢を決することはない

仮に立憲の冬の時代が続いたとしてもそれは統一二世にそっぽを向かれたからではない

彼にとって、安部元首相と旧統一教会との関係性などどうでもいいのだ

https://anond.hatelabo.jp/20220717133326

 

山上容疑者信者二世としての境遇凄惨を極めたとしか言いようがない。

https://matomebu.com/wadai/twitter20220717/

それと関連して、韓国をひどく嫌うようになってしまったようであるさらには、左翼に対する嫌悪感も募らせている。

https://anonymous-post.mobi/archives/20577

彼は左翼をかなり馬鹿にしており、反安倍を掲げる左翼安部元首相・自民党批判する格好の手段として旧統一教会に飛びついて攻撃の手を強めることをあらかじめ予測していて、その引き金となるように安部元首相を襲撃し、かつ統一教会への私怨であることを自白したのではないか。つまり安部元首相の影響力と左翼の反応の双方を利用して、旧統一教会自分がなしうる最大限の打撃を与えられる、と計算したのではないだろうか。

彼にとって、安部元首相と旧統一教会との関係性の真偽など実はどうでもいいのだ。社会の中に、関係があると信じる人々が一定割合以上存在していれば、それでもう起爆剤としては十分なのだ

だとすると極めて頭の回る人物であり、現状、彼の望んだ通りに事が進んでいると言える。

彼がジャーナリスト手紙を送り、twitterログを閲覧可能な形で放置していたこともまた、社会に今回の事件をそのように読み解かせるための仕掛けを作りたかたからだといえよう。

ことを成功させるためにはネタバラシなどしないほうが良かったのでは、と思うかもしれないが、それは違う。

彼は舞台裏のヒントをあえて親切にばらまいて見せることによって、ほら、君にもできるよ、と我々を誘惑しているのだ。

誰もが山上容疑者の手のひらの上で踊らされているのだ。

正しい現実認識能力によって憎悪が消えることはないという現実

山上ツイッター

https://twitter.com/333_hill

を流し見た感想

山上はいわゆるネトウヨとは違い、それなりの正確さで日本の政治状況を把握しながらも自民を支持し続けてきた。

共産党民主党系の支持者になるほうが一貫しているように思えるが、なぜなのか。

とくに、反共統一教会を倒したいなら、共産系に流れそうというのがありそうだが、それはしなかった。

その理由は「実体験」に由来した強烈な反韓排外感情、そこからくる日米安保へのこだわりにありそうだ。


彼は完全な自民信者というわけではなく、むしろ他党議員フラット評価する発言も多くあった。

ネトウヨありがちな、他党の議員への全否定リプもそこまではないのだが、例外安保関連だ。

志位が日米安保破棄に言及したときなどは、とくに強烈に反応していた。

安倍に対する言及も、基本は振れ幅の少ない是々非々といった感じで、そこまで興味を持っている感じでもない。

しろ一般ネトウヨ等に褒められる経済面では格差拡大言及し、功罪両面に言及しながら総論では否定的雰囲気である

方向性をもって褒めているのは、ほぼ外交、とくに安保法制関連の整備に限られている。

他の部分では全て自民党以外の政党支持になりそうな傾向なのに、安保という一点で持って自民以外はありえないという政治的立場のようだ。


そしてその原因ははっきりとした反朝鮮民族的な感情だろう。

統一教会のメイン教義、とくに彼の母親がハマったのは、日本過去に聖なる朝鮮民族蹂躙した悪の国であるから、一生奴隷となって償うべきという思想だ。

これに苦しめられた彼は、統一教会だけでなく朝鮮民族全体を憎むようになってしまったのだろう。

からといって彼は日本戦前の悪行を否定しているわけでもない。

ネトウヨありがちな慰安婦捏造だとか、日本軍の悪行は嘘だというたぐいの発言は、全くと行っていいほど無い。

現実認識能力はそこまで毀損されていないのだ。

しかし、それでも、統一教会の悪行を、朝鮮民族性質に由来する悪行として一般化した民族憎悪的な発言はかなりの頻度で見られる。

他の事柄に対して発揮されていた現実認識能力は、憎悪によって目が曇り、朝鮮民族統一教会弁別に対しては発揮されなかった。

そして、他民族との戦争から日本を守るためには日米安保を守るしか方法がないので、自民を消極支持という感じのことを言っている。


統一教会二世がなかなか左派政党に頼らない傾向があると聞いたことがあり、不思議に思っていたが、多分類似理由なのだろう。

統一教会被害にあった人間は、朝鮮民族への強烈な憎悪を植え付けられ、朝鮮民族憎悪批判する左派と分断される。

とくに、日米安保脱却・東アジア親和傾向をもつような政党を支持することは決して無いように誘導されている。

しろ自民党は、安保強化を理由とした消極的支持によって彼らの票を吸収できる。

このことが示唆するのは、彼と類似政治傾向を持つ者は、仮に自民党へ失望したとしても、左派安保政策を変更しない限りは、むしろより右派流れるという現実でもある。

維新の伸長や参政党などの右派カルト政党の方向に合流するのだろう。


左派はこれを受けてどう動くべきなのだろうか?

安保政策を変更しないまま、彼らを説得して取り込むことは可能だろうか?

はっきり言って、だいぶ難しいように思われる。

事実認識を訂正することはできても、憎悪を消す事はできないのだ。

日米安保を弱め、韓国との関係を強化といった方向は、まず間違いなく支持されないだろう。

とくにそのために必要であろう、慰安婦問題の再精算や謝罪と賠償など言及した時点で、むしろテロの標的にされそうである

国民民主党のように安保政策を変更するという方向はあり得る。しかし、これは左派内ではあまりに大きすぎる政策変更だから、かえって内部分裂を招くだろう。

というか現に招いているのだが。


全く良くできた構造である

仮に反統一教会ムーブメントが強力に確立されたとしても、左派政党の冬は当面続きそうである

2022-07-17

さらだけど俺も二世なんだよな〜

俺も例のやつの二世なんだけど、家庭は普通に機能してた。

献金だか寄付だか知らんがウチはそんなに入れてなかったんだろうかね?

ちなみに片田舎の周りみんなそんな感じの地域の出。

ガチャ成功

anond:20220717180150

お前古参政治家バカにしすぎ。

あの時代は本当に政治家二世にするための教育を施して育ってるから賢いぞ

麻生だってお前らは嫌いでバカにしたいんだけど相手が賢すぎてどうにもついて行けなくて手当たり次第に切り取ってネタにすることしか出来てないじゃん

最近の本当に育ちの悪いバカアンドアホの政治家と一緒にするな

毒親問題

観測範囲だと毒親体験談にはかなりの頻度でカルトマルチが出てくる。

拝むのを強制されて拒むと殴られるとか

カルトは鞭で叩くとか

変な水を飲むように言われてからかわれるとか

風呂に入れなくて学校忌避されるとか

生活用品すら買う金がなく貧乏とか

不特定多数大人の中で性被害に会うとか

助けようにも親がヤバくて他人が近寄れないとか

「あの家の子とは遊んではいけません」と言われるとか

成人して離れてからも変なお札送り付けてくるとか

総じてカルトマルチにのめり込むのは母親が多く、父親は愛想をつかして離婚していたり家に近寄らず空気だったりする。またそういう母親自分否定的もの攻撃するので反発する子供に敵意が向く。逆に順応してしまうとカルト二世になり、困り事ではなくなるため彼らは透明化している。

この辺りから毒親問題を語れないだろうか。

2022-07-16

anond:20220716160019

統一教会二世って言ったんだね

それは流石に事実ではないんだろうし、躁状態という言い分も理解したよ

まあ自民党批判するけどね、あなたに止める権利そもそもないじゃんw

anond:20220716013856

当時どころか祖父の代からだし

安倍ちゃんもまた二世問題被害者ともいえる

他人の家庭壊して金儲けして奪う側だったけど

国葬に反対すべき理由テンプレート

そもそも国葬などない

国葬を定めた国葬令は1947年12月31日で失効しているのに、何をやろうとしているのか

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/国葬


国葬」の恣意的実施民主主義法治主義破壊行為

国葬を許す法律がなければ作ればいいじゃないと主張する人間は、一個人の都合で法律がいつでも恣意的に変えられることを是認している

それは法治主義ではなく人治主義ではないか

官邸関係者によれば、首相を再び前向きにさせたのは、安倍氏家族葬があった12日に党所属議員から受けた1本の電話だった。議員は「国葬を行った方がいい。安倍氏にふさわしい葬儀にすべきだ」と進言。当初は「根拠法がない」と説明していた首相だが、「法整備すればいい」と助言され、国葬実施可能と意を強くしていった。

https://www.jiji.com/sp/article?k=2022071500920&g=pol




私怨で殺された奴の葬儀民主主義擁護お題目でやるな

奈良県警犯行動機政治的テロとは無関係の「私怨」とみて捜査している

https://www.47news.jp/8053716.html

「わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示す」こととはもとよりなんの関係もない

弔意を国家強制するのは内心の自由侵害

たこうした形で「国葬」を行うことが、安倍元首相に対する弔意を、個々の国民に対して、事実上強制することにつながることが、強く懸念される。弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないことである

https://www.jcp.or.jp/web_policy/2022/07/post-922.html



本来は法の裁きを受けるべき人間葬儀を国を挙げてやるな


森友事件をもみ消そうとして、なんの罪もない財務省職員を死に追いやった人間を、「国葬」で偶像化しようとするとは何事か


桜を見る会問題は結局どうなったのか



どうでもいいことに税金を使うな

死んだ奴のために金を使う前に、社会保障費、安全保障費、コロナ対策費など、生きている国民のために金を使うべきことは無限にある



いままさに宗教絡みの疑惑がかかっているなかで巨大な宗教行事をやるな

カルト宗教支援した結果私怨を買って殺された人間により与党宗教との関係が明るみに出され疑問に付された

この期に及んで死者を偶像化する宗教行事をまだやるつもりか

国葬は命に貴賎があるというメッセージを送る

入管外国人が死んでも障害者が殺されてもホームレスが殺されてもニュースの一つとして流されていくのに汚職まみれの人間の命のほうが尊いと国がお墨付き与える



国葬統一教会承認し、信者二世を抑圧することになる

国葬政権与党統一教会の融合を明確に承認する行為であり

政治家警察SOSを出してもきっと動いてくれないだろうと

https://mobile.twitter.com/tomonoise/status/1547805620245790720

いうメッセージ統一教会信者二世に送ることになる



実施基準恣意的不明

自民党以外の首相経験者なら「国葬」は行われたか自民党は回答すべき



他には?

2022-07-15

anond:20220713203406

ピンドラ別に宗教二世とかを描きたかったわけじゃなくて、空気感とか運命とかそういうのをビジュアル化するのに箔付けというかリアリティモチーフとしただけだと思うが、アニメとして作画演出、全体が良く出来ててミョーに迫真さがあるんだよな。

anond:20220715163538

昭和平成あいだずっと「おまえら勝手に争え」ってしてたら令和で二世が爆発した件

エホバの証人って今どんな感じなの

8年くらい前に辞めた元二世ですが、今彼らはどんな活動してるんでしょうか。

教義も割とコロコロ変わるから変わったこととかあるのかな。

コロナ禍初期は現役の家族から手紙が来たりしてて、「あー玄関ノックして伝道活動はできないもんなー」と思ったりしてたけど、今はどうしてるんだろうか。

統一教会献金への圧のヤバさが話題になってるけど、エホ証は金こそ露骨にせびらないものの、時間奉仕伝道活動)にできる限り捧げるようにとの圧が強い。

正規開拓者」って立場になると毎月70時間奉仕しないとだめって縛りがあったりしたが、さすがに手紙書くだけで70時間も潰せないよな。

ダラダラ歩いたり公園お茶したりしてなんとか70時間やってたのに。

あと自分が辞める少し前から、「毎月一定額の寄付献金一種)を納めるように」ってルールができてたけどさらに厳しくなってたりすんのかな。

私たち自発的寄付しか受け付けません!」みたいなこと言いながら半ば強制し始めたのもヤになった一つの原因だな。

でも一番心配なのは独身の4-50代の信者な。

エホ証の中では熱心な信者ほど人気だから早く結婚できるんだけど、半端にダラダラ続けて独身のまま4-50代に突入した男女の信者自分地元には結構居た。8年後の今彼ら彼女らは何に幸福見出して生きてるんだろうか。

anond:20220715134746

https://togetter.com/li/1916222

町山は二世って言ったから間違い。

町山智浩は、私が人生で一回だけ勝共連合で講演したから、私を統一教会二世呼ばわりした。二世

って本人も言ってる。

まり二世ではなく、統一教会応援団

週刊新潮週刊文春がそれぞれ特集記事にけっこうなページ数を割いてるんだけど

新潮は、予想はしていたけど犯人境遇に同情してます風味のネットでチラ見せしていた記事最初の4ページのみで、後は全力で安倍元首相追悼。そらそうだ、もともと保守雑誌だし。文春もあまり変わらないが新潮まで露骨ではない。が、両誌とも、おそらく記者会見が締め切りに間に合わなかったのもあり、今のワイドショー増田はてブトレンドである統一教会真正から取り上げ、詐欺被害を報告し、宗教二世問題を取り上げる記事はほぼなし。その手のネタなんていくらでも転がってるだろうし取材先もわかりきってるだろうに。統一教会のものについて掘り下げる記事はなく、週刊誌忖度しまくってるんだなというのが露骨にわかる誌面構成宗教がらみの政界事情なんて一番得意なはずの週刊誌のくせに、完全に出遅れた形となった。

もうひとつ再確認したこと。紙の記事ネット記事の使い分けが新聞でも雑誌でも露骨ネットで見せるところは誌面、紙面のほんの一部分で、政権批判的な記事であってもネトウヨが噛みつきそうな部分はネットに載せないし、上記新潮のような保守雑誌でもリベラル標榜してみせるツィッタラーが見たら噛みつきそうな部分は見せない。ネットあくまでチラ見せの広告エリアなのだから、わざわざ炎上しそうな内容を自分ネットに上げる必要がないのは当然なのだが、既存文章記事オールドメディアのほうがそういう使い分けに習熟してる。そうなると、逆にネットしか手段がない新規メディアは使い分けができなくて不利を被るだろうし、日々の情報摂取スマホ画面のネットバズ経由しかない大多数の人はこういう使い分けがあることも知らず文春砲とか持ち上げてみせたり旧メディアはクソと叩いたりし続け、自分最先端情報に触れてるつもりで取り残されてくのだなと思った。昔からそう? そうね

anond:20220714094742

担任二世?だった。

毎日のように授業潰して私ら児童説教?してたよ。気持ち悪かったよ。竹刀木刀ギター持ち込んでた若い教師で、気持ちよさそうにセンセイやってたよ。気持ち悪い。

学会員とかそういうのは後で知って、つながったわけだが。

創価学会二世としての記憶感想を私も書いておきたい・2

https://anond.hatelabo.jp/20220715032108 これの続き

偏見を感じる

とあるサークルに入ってみたら、カルトタブーギャグにする俺イケてる! みたいな感じで、部誌に全然似てない池ちゃん似顔絵原稿に描いてきた先輩がいて、部誌の編集に携わっていた私は、「これは良識的に考えて載せらせません」と断った。

私は誰にも私が学会員であることを明かしていないながらも、池ちゃんはそんな似顔絵で茶化される存在なのか…と思うとなんだか、ごく普通ことみたいに、胸が痛かった。

その様を隣で見ていた別の先輩(現在の夫)はいまだにその掲載謝絶エピソードを覚えていて、私にたまに話してくる。

社会人現在。そして雑感。

現在

非会員とほぼ同じ生活を送っている。

ほぼ、と書くのは、コロナ前まで、年イチ、元旦にある「新年勤行会」だけは親につきあって顔を出していたから。今学会どうなってんのかな? と見に行く感じ。

未だに新入会員とかいて(その場で発表される)「へー」って思ったり。私より若い人たちも意外と頑張ってたり。

私自身が活動しない理由はまあ、面倒くさいから、これにつきる。

背筋を伸ばして顎を上げ、腹から声を出し唱題することで感じる唱題ハイを感じたこともあるけど、毎日決まった時間仏壇の前に座るのは面倒くさい。仏壇という存在も面倒くさい。

ごろごろしたいか仕事の後会合なんて絶対無理だし、友達家族もいなくなりそうだから選挙折伏新聞啓蒙なんてもってのほか

周囲から偏見だってもちろん面倒くさい。

多額献金なんて私のまわりではきいたことないが(そういう会員がいてこそ、ヤフドも借り切れ立派な会館も建つってもんだろうから否定してるわけではない)まあそれでも年1くらいは、いくばくかお金もつつまないといけないだろうし。

新興宗教はとにかくマジであらゆることが面倒くさいし、見合うリターンがあるのかっていったら多分ない。

それでも、なんの活動もしてなくて、上のようなことを書くようになった今にいたっても、現金もので、どこか「ご本尊様」というのは心の支えになってるところは確かにある。

何かピンチの時に心の中で「南無妙法蓮華経」と念じると心が落ち着くところがある。

それは、人によっては別の宗教なのかもしれないし、おいしいパンなのかもしれないし、大事な人なのかもしれないし、野の草花なのかもしれない。

いずれにせよ、あなたの心の中にあるそれと、実際大差ないのではないかと私は思うし、心の中に支柱があるということは、精神の安定に他ならない。

とっさに念じられるものがある心は強いなあと、それだけは思う。

義姉はプロテスタントなのだけど、何か困難があってを祈る時は「主よこの困難を取り除いてください」ではなくて「私にこの困難を乗り越える力をお与えください」と祈るのだという。

どこか通じるところがある考え方なだなと個人的には思っている。

現在の母の信仰

熱心だったうちの母も、往時ほどには活発に活動していないし、「最近学会池田教にみたいになっていて嫌だ」とこぼすこともある。

私にこぼすどころか、同じ地区の会員らにはっきり「先生先生といって、池田教みたいになってることには抵抗を覚える。牧口先生戸田先生尊敬しているが、池田先生私たち信仰を導く同士であって、信仰対象ではない。私の信仰対象日蓮大聖人であり、南無妙法蓮華経であって、池田先生ではない」ということを伝えて活動している。

からっつって別にそれでハブられたりすることもなく、仲良くやってるようだ。

今は離れて暮らしてるので、母体のしっかりした、善人の多いコミュニティにいてくれて安心だなーと思ってるところすらある。昔に比べて会自体マイルドになりつつあることもあるだろう。

多様性真逆からな、折伏なんやって。

母は亡くなったら友人葬学会員葬儀スタイル。特段にお金はいらないと記憶している)で送ってほしいということだから、この前帰省した時、地域の取りまとめしてる方にご挨拶をして、実際にことがおこったとき誰に連絡して、どうすればいいのかという話をきいておいた。

葬儀屋の方も心得てるし、我々にも「しょうてんぎ長」(だったかな? 漢字わかんない)っていう係の人がちゃんといて、ネットワークがあるのでまったく心配ないとのことだった。

事前にどうすればいいのかわかんないとアワアワしそうだし、その話はきけてよかった。

公明党

公明党については…そもそも新進党がどうのみたいな紆余曲折も幼心に疑問ではあったのだけれど、大学のころくらいは、政党として悪くはないんじゃない、まっとうなんじゃないくらいには思っていた。

でも連立が長引くにつれてそういう気持ちは消えた。

チラッと書いたけど投票もしてない。

親はしてると思ってるけど、私は入れませんとか言って老い彼女を悲しませるのは本意ではないので、口では「入れてるよ」と言っています

ちゃんについて

スピーチ演説はめちゃくちゃうまいなという印象。

創価中・高増田はその内容の中身のなさを看破していたが、なんか普通に「キング牧師は言った! ○○と!」みたいな引用でも抑揚のつけ方、話し方がすごくうまくて、声にも不思議な魅力・よさがあると思う。

教えより何より池ちゃんスピーチ(中身がないのに説得力があり魅力的)が一番カルトっぽい。

こういってる私も昔の池ちゃんスピーチ新年勤行会でプレイバックしてるのきくとなんか感動してしまう。

ただし会館を出るころにはさっぱり忘れてしまうのだが。

やっぱここまででかい宗教になったのはひとえにこの人の力であり、この人を先生先生と言ってる限りはカルトのそしり免れ得ないのだろうな~と感じる。

そこがうちの母なんかが納得いってないとこなんだよな。

学会員メンタルについて

一般社会と同じでいろんな人がいるとしか言いようがない気がする。

ヤフコメで、「自分二世だけど、自分努力して成し遂げたことも、家族にはすべて「ご本尊様のおかげ」で済まされてしまい、自己肯定感が著しく下がった。今はそんな実家距離を置いてる。大嫌い」、みたいなことを書いてる人がいて、あーなんかこれ学会の人超言いそう、コメ主の気持ちはなんとなくわかるなと思った。

うちの母も「あんたがこんなにいい子に育ったのは私がご本尊様に祈ったからよっ! 子どもがほしくてほしくて祈ってできた。信心のおかげでさずかった」とよく言っていたから。ていうか今もいってる。

しかし私は、自分のあげた成果(たいしたことはいっこもない)を母に「ご本尊様のおかげ」と横取りされたと感じたことはない。

いつだって私自身をすごく肯定して育ててもらったなーと思っているし、今もほぼ全肯定でいてくれるありがたい存在から、私も母のことについて、できる限り肯定的でいたいなと思っている。

母が子を授かりたいと思って祈り、さずかり、育てながらやはり絶えず祈ってきたというのはただの事実であって、そこを否定する気持ちはない。

そういう経緯で生まれて育てられてきたこ自体も含めて私なんだろうなと思うし、それが嫌だなと思う気持ちはない。

全然関係ないけど、7年くらい前、長崎旅行友達に買ってきたお土産ミニよりよりを母が勝手に食べてしまい、わるびれもせずに「あんまりおいしくなかたった」と言い放ったことに対して、めっちゃ怒ってしまたことがあったんだけど、最近それをよく思い出しては胸が痛くなる。

なんであんなに怒っちゃったんだろう…別にいいじゃん、それくらい。

鎌倉より京へは

地元の会員さんが絵手紙に凝っていた時期があり、4年くらい前の誕生日に、色紙にあじさいの絵と『御書』の一節を書いてくださったことがあった。

うすあおく、うすむらさきでもあるあじさいの花にかこまれ、こう書いてある。

鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日あまり歩みを運びて、今一日になリて歩みを差し置きては、何として都の月をば詠め候うべき」

日蓮が書いた、新池左衛門尉への消息文より)

信仰思想信条にかぎらず、「途中で投げ出すなっつーに」というのは、いつだってどんな局面だってシンプルに心にしみる言葉だなと私は思っていて、いただいてとてもうれしかった。

色紙は実家に大切に飾ってある。(結局自分ちには飾れないっていうオチ

創価学会二世としての記憶感想を私も書いておきたい(クソ長文)

創価中高ですごした増田https://anond.hatelabo.jp/20220714094742)に触発されて。

今のわたしのように、たとえ大人になってから学会活動をやらなかったとしても、親の庇護下・監督下にあり、人間として成長段階でもある、幼少期・思春期青年期前半くらいまでを「二世」として過ごすって、人生経験の中で結構インパクトがある出来事のような気がする。

たまに誰かに話したいな~とか思うけど、世間的な見られ方から、「私親が学会で~」っていうのはいまだに言いづらく、そこでどんな活動をしていたかというのは周囲の非学会員には一切話したことがない。

増田になら…と改めて思ったので、書いておこうと思う。

生誕とほぼ同時に入会

うちは最初に母が入って、父が母につられて入ったという感じで、活動に熱心なのは母だった。

父は言われて新聞配達してたくらいで、仏壇の前に座るとかそういうことは一切しないライト会員。

私は生まれた翌年の桃の節句の日に入会した。0歳なのでもちろん自発的悟りとか目覚めとか釈迦みたいなことではなく、親に勝手に入れられた。

このシステムがまずすごいよなと思う。自発的意思が芽生えないうちから新興宗教に入会って人権蹂躙っちゃそうだろという気がする。

入会日を桃の節句にあわせたのは女の子だったからだそうです(シンプル理由

幼稚園(『お寺』との断絶)

私自身に学会員の自覚はなかったが、母はバリバリ活動していた。会合なんかにも連れられて行っていた。

地域役員地区部長とか? 的な人の家でやるやつと、文化会館といわれる宗教施設でやるやつ、どっちにも連れていかれていたが何の集まりかは全然わかってなかった。

人がたくさん集まってて、同年代の子ももいる集いにつれていかれ、後ろのほうで遊んだ絵本よんだりしてるくらいの感じ。

ちなみにこのころは、まだ学会日蓮正宗破門されていなかったので、普通に七五三等で日蓮正宗のお寺にも行っていた。

が、破門されたとたん日蓮正宗邪宗筆頭みたいな扱いになる。

戦前戦後の墨塗教科書感があり、当時ですらちょっと「え? もうお寺にいかないの…なんで…?」ってなってた。

小学校(自宅で会合が始まる・合唱団入団選挙活動

自宅で会合が始まる

母が地区役職についたようで、低学年のころから自宅が週2くらいある会合の会場になった。

家が創価学会会合の会場になるとか、もしかしたらかなりヘビーな悲劇二世体験のように思われるかもしれないが、実際にはに集まった大人の人らにかわいがってもらったりおしゃべりしてもらったり、同世代の子どもと楽しく遊んだりという記憶しかない。

家に人がたくさん来るのがシンプル楽しいので、自分から会合の場にいることが多かった。

嫌だな~と思ったことはなかった。日常風景みたいな。でもそれは小さかったからで、多感な時期からそうなってたら絶対嫌だったと思う。

会合最初にみんなで法華経方便自我偈をとなえたあと、唱題する。

低学年のころ、その方便品の教本(勤行要典という)をみて、会合に来た大人たちに「これは外国言葉なのか? 何が書いてあるのか?」ときいて困らせた記憶がある。ひらがながふってあるので音だけは読めたが意味不明すぎて…。

あと、会合してる裏で、当時家で飼ってた猫が産気づき、私が猫にかぶりつきで「がんばれー! もう少し!」とかでっかい声ではげましていたので、隣の部屋で会合中の大人らはこっちが気になってしかたなかったらしいということがあった。

会合座談会の内容は、『大百蓮華』(日蓮の残した著作(まとめて御書とよばれる)の抜粋がのってる会合用のテキスト月刊)の勉強とか体験発表とか、今思っても穏当な感じだったなと思う。

学会歌を歌う時間とかはもちろんあった。

家で歌われまくってたのと、中学くらいまで学会歌のオルゴール目覚まし時計(なんかの記念品)で起床していたので、今だにメロディーの一部をおぼえている。

https://www.youtube.com/watch?v=Z5ydB2Onbo8

朝この曲で起きてました。奇特すぎ。

役職についてる人がいるとはいえ子どもの目には会員同士の関係あくまフラットな感じに見えていた。

合唱団入団

今もあるのかしらないが、当時、学会二世キッズは、学会がやってる合唱団にさそわれることがあった。

しかしこれは入会時とちがい、親に強制的に入れられたのではない。

母に「やってみる?」ときかれたので、そのころウィーン少年合唱団にあこがれていたというただそれだけの理由で「やってみるわ」と答えた次第。

ウィーン少年合唱団にあこがれてなかったらたぶんやんなかったし、やんないならやんないで母は何も言わなかったと思う。

一応入団に際してオーディション的な歌唱テストもあったが、そこで音痴だったら落ちるのかっていうのはわからないし、多分そんなことないんじゃないだろうか。

入ってみたら、多分毎週ではなかったと思う駆れども、日曜日文化会館指導があった。

指導学校音楽教師してる等、歌舞音曲の心得のある会員が、おそらく無報酬でやっていて、学会歌ではなく一般的合唱曲練習をしていた。

たんぽぽ」(どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう♪)にここで初めて出会って、なんて素敵な曲なんだろう、情景が目に浮かぶぜ…とめっちゃ感動したのはいい思い出の一つで、いまだにとても好きな歌。でもタンポポ別にいらない…。

小学校が違う気の合う友達もできたし、先生の一人が若めのイケメンだったので合唱団は楽しみだった。

創価中高の増田も似たニュアンスのことを言ってたが、池ちゃん外国歴史上の偉人リスペクトしがちで、それが関係してるのかしらないけど、ある日突然第九…大晦日に歌うあれを練習しますーってなった。

小学生ながらに「フロイデーシェーネルゲッテルフルケン」とかって一生懸命練習したよね…。

なんのためにやってたかというと、当時、学会がヤフド(当時は福岡ドーム)を貸し切って、そこで池ちゃんがやってくる大規模な記念式典をやることになってて、そこに九州ブロック? のみんながあつまって第九合唱する…みたいな話になってたので、そのため。

このとき練習普段練習の20倍くらい気合が入っていて、池ちゃんが来ることの重み・貴重さ、池ちゃんの前で歌を披露できることがどんなに名誉かをめっちゃ説かれた記憶がある。

あと、合唱のほかにも「夢や目標をもったら、それがかなうように唱題(お題目を唱える)を一生懸命やりましょう」的な指導があったのだが「でもお題目を唱えるだけではだめ。目標をかなえるためには、そのための努力もかかせない。努力に加えてお題目も唱える。どっちかだけでは意味がない」ということを先生が言っていたのを今でも覚えている。

今の私は別に努力だけでいいだろと思うが、現世利益志向宗教として、特段変な教えじゃないよなってのは思う。

なんの催しか忘れちゃったんだけど、発表会のために合唱団員の何人かからダンスするメンバーを選ぶってことがあって、私は踊りとかドへたくそなのになぜか立候補

練習時点でグダグダの踊りを披露してたんだけど、そのとき自分でやるっていったんだから責任もってしっかりやろう」という、もはや信仰とかなんも関係ない普通ダメだし(指導)受けたのも印象に残っている。

選挙活動

学会二世には「選挙祭り」って感覚持ってる人がいるんじゃないかと思う。

実際祭りだし、会員はその時期になると手弁当で友人知人宅を突撃し、候補者のビラをわたし投票のお願いをしていた。電凸とかじゃなくて、家凸。やば。電凸もしてました。

でも不思議なことに、母って、当時凸ってた相手と絶縁どころかいまだに仲いいし、最近できた非会員の友達(母はめちゃくちゃ社交的で友達が多い)に対しても、投票日に投票所に連行する「連れ出し」とか平気でやってるのに、不思議と嫌われてる様子もない。こないだ連れ出し被害食らった人と母と私の3人で飲んだくらい。

私は自分友達に同じことやったら絶対ドン引きされて絶縁されるだろうなと思うんだけど。このへんは世代感覚なのか、母のキャラゆえなのか、いまだによくわからないところ。

とにかく私は同じことはできないし、したくもないし、そもそも公明党には投票してない。

話がそれたが、当時の家凸は、同じ地区の会員同士で車とかに乗り合わせて回ることがおおくて、子どもの私も車に同乗していた。

完全にお出かけドライブ気分だし、乗り合わせする家の同世代の子とかも来るので、普通に楽しんでついてってた。

あと、当時は親のやってることや信じてることを当然に受け入れていたので、乗り合わせた子といっしょに、信号停止中、後部座席からリアガラス候補者のチラシを掲げて、後続車にアピったりしていた。

若いカップルがにこにこ笑って、オッケーマーク出してくれたの未だに覚えてる。向こうは覚えてるかなあ。

今おもえばひたすらめちゃくちゃ寛容な人たちだ…それか会員だったのか?

中学校(活動に疑問を持つようになる・教学試験

活動に疑問を持つようになる

小学生のころから国語社会歴史)が好きだったんだけども、中学生になると古文の授業がはじまり日本史の分量も増えたこともあり、その分野への興味関心は増していった。

母の蔵書である古典文学全集解説書、文学文化財の図録本などを開くのが大好きで、たのしみな時間だった。

円地文子清少納言枕草子解説している文章リリカルかつキリリとした美しさに感銘を受けた。

腐女子としての目覚めとこじらせも発生していて、その脳のままに平家物語現代語訳を読んで、平経正守覚法親王関係都落ちに際して琵琶返しにいくあれ)に爆萌え

絶対修学旅行では仁和寺に行きたい!! って心に決めて実際行ったり、数多のいにしえの物語随筆舞台になった京都、その登場人物である彼女ら彼らが参詣し今も残っている古寺への興味がすごく高まった時期だった。

しか学会員は寺とか神社とかを蛇蝎のごとく嫌っており、母もそういうメンタルだったので、京都や、京都に限らず、寺や神社積極的に行きたがる私との間でちょっと揉めた。

寺や神社を頭ごなしに否定する学会員の在り方に疑問が芽生えてきたのもこのころだった。

教本には、勤行の最後には「諸天善神のおんために」祈ると書いてあり、ご本尊にも「南無妙法蓮華経」の字のまわりに、いろんな神様名前が書いてあるのに謎すぎる。

(ちなみに改定が入った現在の教本では諸天善神のおんために、部分は割愛されてるらしい。祈れよ)

私は母に、はるかから善男善女が祈ってきた場がそんなに悪い場所であるとはどうしても思えない。貴重な文化遺産歴史の息吹を感じさせるすてきな場所だとしか思えない。そんなに嫌うなんておかしい、というような趣旨のことを懸命に訴えた。

訴えられない、訴えても聞き入れてもらえない学会の家の子もいたのかもしれないけど、私の母はそういうタイプでもなく、私の考え方や言動によって、寺や神社への抵抗感は薄れたといっていた。

そんなわけで、母とはのちに一緒に京都旅行を何度もすることになったし、そんなときには寺や神社にも普通に詣でた。

世間一般学会偏見をもっているんだなあ…ということを知ったのもこのころだった。

中学友達立正佼成会で、呼び出されて逆折伏されそうになるっていう出来事もあってしんどかった。そして世間からしたらどっちもどっち

政教分離的なところでも疑問が生じてきて、もやもやすることが増えてきた。

でも学会は小さなころから当たり前に傍らにあるもので、うちは別に多額の献金とかで破産してるわけでもなければ、活動生活破綻してるわけでもない。どころかその時点で、楽しい思い出がいっぱいあった。

(今もって)学会の一側面しか知らないにもかかわらず「世間で決めつけられてるような団体じゃないのに…」というジレンマを感じていた。世間で決めつけられてるからには理由があるだろうに…。

ちなみに、法華経方便品は一体何を言ってるのか? という低学年のころ解消されなかった謎は中学生の時まで続き、ミネルヴァ書房から出てた法華経日本語訳を読んで解消した。(文化会館の、数珠とかうってるグッズ売り場で普通に買えた)

読んで「シャリホツ!(なるほど!)」みたいな感じあった。(?)

日本語として何を言っているのか? という謎は解消したが、内容は中学生には難しい部分も多く、あまり心に響くことはなかった。

教学試験

教学試験について説明すると長くなるので省く(説明はここ: https://www.sokanet.jp/kaiin/news/2022070101302/)けど、リンク先にもあるとおり、中学生になると、先述の「御書」やなんやから出題される試験を受けることになる。

一般的な検定試験と同じで、初級~上級みたいな段階的な区分けがあって、当然上の試験合格は難しいし、そもそも試験も年に1回きっちりあるいかそういうもんでもないらしいがよくわからない。

上級のほうになると、ある程度しっかりした活動してないと受験資格も得られないんじゃないだろうか。

ただ最初にうける、英検で言えば5級的な試験だけは、中学生になったらすぐ受けられるっぽくて、私も中学時代に受けた。

さっきも書いたけど、古文が好きで得意だったので、「御書」の勉強シンプルおもしろかった。夜にやってる勉強会も同世代が集まるからしかったし、普通に合格した。

でもそれ以降の試験は受けたことないし、受けろと言われたこともない。多分受験資格が発生してない。

母親は一番上まで持っていて、父親は未受験

高校同級生に会員がけっこういることに驚く・創価大学受験して進学しない)

同級生に会員がけっこういることに驚く

高校のころは学会活動への興味はほぼ0になっていたので、文化会館でやる大きい会合だけ顔を出していた。

信教の自由であるとか、折伏新聞啓蒙選挙活動についての疑問についてまじめに、ナーバスに考えていたのはむしろ中学生のころで、高校ではもはやあまりそういうことに囚われなくなっていた。

やりたい人がやればいいし、やりたくない人はやらなくていいい、自分あんまかかわりあいになりたくないかな、くらいの、ごくのシンプルなところに落ち着いてきた。

親は、そういう私の姿勢についてはじめのうちはいろいろと小言を言ってきていたけど、会話を重ねるうち「それも考え方だね」とむこうが折れた感じ。

高校生になると学区がかなり広くなり、生徒数も中学までとは比べ物にならないため、同級生二世について「あの子学会なんやな…」と会館である大きい会合の場に来て出くわして互いに知ることになる。

けっこういるのにおどろいた。

多分あなたのまわりにもいっぱいいると思いますよ、私がそうであるように口にしないだけで。

創価大学受験して進学しない

学会員の間では、創価大学は超絶いい大学東大にも負けない日本最高峰大学! みたいな扱いなので、高校に進学してから偏差値的に全く大したことないのを知って驚いたというか拍子抜けした。

めちゃくちゃいい大学なら目指すのもありかなと思っていたけど、そうでもなかったので、最終的に滑り止めの一環として受験した。

活動自体はどうでもいいかなと思いつつ受験しているの……もうこれは、幼少期から刷り込みしか言えないと思う。

偏差値的に大したことなくても、学会員の間ではめっちゃほめてもらえるのもわかってたし…。

当日の試験も易しかったし、学費免除の枠で合格したが、魅力を感じてるわけではないので進学はしなかった。

同じクラスの、割と熱心な二世からは「せっかく合格したんだから行かない?」と最後まで説得されたが「すまん、京都行きたいわ!」ってことで断った。

親でもそんなこといってこないのに…とおもってちょっと引いた。

大学学会ネットワーク驚愕偏見を感じる)

学会ネットワーク驚愕

そんなわけで京都に進学したら、すぐ現地の会員の人が面会に来て、京都の会館(堀川にある立派なやつ)に連れていかれたし、同じ大学の先輩ともつながらせられた。

ネットワークマジで驚いたしちょっと怖かったよな…。

ちなみに大学には創価学会サークルがあって普通に活動していた。

極左サークルとかはめっちゃ厳しく規制されてて、校内いたるところに掲示があったが、創価学会サークル普通に野放しになっていた。

別に実害ないってことなの? 今思ってもちょっと謎。

どっちにしろ私は入らなかったし、学会員としても一切活動しなかった。会館に行ったのも最初の一度くらいだったかな。

この時つながらせられた大学の先輩、1回生前期のかなり早い段階で連絡を取らなくなり、名前も覚えていないのだけど、この人に勧められて宮本輝の『錦繍』を読み、最終章で身も世もなく泣きまくったのを覚えている。

名前は忘れたけれど、今でも大好きで大切な一冊を勧めてくれた人がいたことはずっと覚えていたい。

続き(https://anond.hatelabo.jp/20220715032335

2022-07-14

anond:20220714232041

創価二世で同じこと言ってる人たくさん見た。

信じる宗教自分や周囲を不幸にしている現実信仰心の板挟みで凄く苦しそうだったよ。

一回物理的に距離を置いて自分の心と向き合うのも悪くないと思うよ。

それでも信仰が素晴らしいと思えたらまた戻ればいい。

自分一人だけでも信仰ができるのが宗教のいいところなのだから

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