はてなキーワード: 中学生とは
小学校1年生の頃は、知的障害の男の子を庇っていた。その子は男子にからかわれることが多く、その度に間に入って男子をたしなめていた。その男の子には懐かれて、からかわれるたびに私のところに逃げてくるようになった。2年生になるとその子は転校していった。
小学校中学年の時は、ある女の子が菌扱いされ始めた。○○菌がついた!汚ねー!みたいにはしゃぐ、クラスの邪悪な団結感が嫌だったから、私はクラスの全員が各々独自の菌を持っていることにした。足の速い子の菌がつくと足が速くなり、勉強得意な子の菌がつくと頭が良くなる。クラスの中で○○菌はご利益的な意味に変わっていった。テスト前に頭のいい子の菌を分け与えてもらうみたいになった。徐々に菌ブームは収束した。
その女の子は明らかに知的障害を持っていて、頭はフケだらけ、人前で鼻くそを食べたり、衣服が汚れているような子だった。人が嫌悪感を示す身なりをしていた。コミュニケーションをあまり取れない子だった。
その子にまともに話しかけるのは私と、後に生徒会長になる私の友達くらいで、別室登校しているその子に給食を届けに行ったり、クラスに1人で入れないときは手を繋いで一緒にクラスに向かったりした。
特別その子が好きなわけでも、仲良くしたいわけでもなかったし、正直汚いのは嫌だった。それでも、下手したらいじめに発展しそうな彼女の周りを取り巻く空気感が嫌だった。
クラスの人間達が、作文などで友情や絆の話をしたり、体育祭や文化祭で団結しようと意気込んでいるのをみても、その子の存在を無視したり冷たくしているくせに何言ってるんだと思っていた。
修学旅行のとき、班分けはその子と生徒会長と私、その他無害そうな男子で固められた。男子はこの班割りに不満げだった。移動中のバスで隣の席になり、私が窓側、その子が通路側に座っていた。その子が突然吐いてしまった。私ももらいゲロしそうになりつつも、この子がただでさえ具合悪いのに、さらに辛い気持ちになるのを防ぎたかった。大丈夫だよと言いながら、前の席に流れて行かないよう素手でゲロをせき止めた。徐々にバスの中に混乱が広がっていく。臭い、ありえない、キモい、みたいな発言が飛び交った。みんな根は悪いやつじゃないはずなのになんでそんな配慮のないことを言えるんだろう。その子は泣いていて、私はその子を慰め続けた。その子に貸したハンカチはゲロまみれになった。私も吐きそうで泣きそうだった。先生と私で一緒にゲロを片付けた。
そんなこともあってか、その子は私によく笑いかけてくれた。多分信頼してくれていた。でも私は同じ人としてというより、動物とか庇護する対象のように思っていたのかもしれない。
卒業したらその子は支援学校に行ったと聞いた。高校生になって地元のお祭りで、その子に再会した。昔よりも言葉もはっきりしていて、新しい学校で仲のいい子ができた、学校が楽しいと笑顔で話していた。会話もできるようになっていたし、身なりもまともだった。動物のようだったのに、人間らしくなったと思った。
そのとき私はぶっきらぼうな態度をとってしまった。庇護対象じゃなくなって、優しくする必要がなくなったから。私のそんな冷たさに彼女は気づいていないようだった。今も気づいていなければいいなと思う。
私は偽善者なんだろうか。
かつての同級生のことを冷たい奴らと思っていたけど、私の方がよっぽど嫌な奴なんじゃないか。
優しくすることで見返りが欲しかった訳でも、褒められたかった訳でも、周りから善人だと思われたかった訳でもない。その時はそうするのが当たり前だと思っていた。辛い思いをしている人を見るのが嫌だった。居心地の悪い雰囲気に身を置きたくないだけ、全部自分のためだった。他の人が面倒見るなら、やらなくていいなら別にやりたくなかった。中途半端な正義感なのか、義務感というか。
俺の場合。
【小学生】
本当に何も覚えてない。
【中学生】
好きな女子がいたけど陰キャな俺は当然一言も喋ることできず、一切関われることできず一年が終わる。
卒業式の日、会場の体育館に向かうときに偶然俺の目の前をその子が歩いていた。
テニス部だったその子の良い感じに焼けた小麦色のふくらはぎがセーラー服からちらりちらりと見え隠れするのを
穴開けるのかってほどガン見した。
それしか覚えてない。
【高校生】
本当に何も覚えてない。
【大学生】
式典が終わったあと、ゼミ生と研究室で打ち上げみたいなことをやったけど、
一年間一緒にいたにも関わらず誰とも仲良くなれなかった俺はいたたまれなくなって
3分くらいで退席した。
それしか覚えてない。
みんなも、そんな感じだよね?
身長高いよね
でも他に言い方ないのかよ
いや、あるのかな?
まあ「デカくてワロタ」って別に悪口とか失礼とかじゃないしさ悪意はないんだなって思うけど
いや、あるのかな?
わかんねえ
「何頼む?」
「お前、チー牛頼めば?」
「嫌だよキッショイ」
「チー牛ってなんかキモいよな」
チー牛の名誉を守る為に、チー牛と呼ばれるキモオタ高齢独身男性は鏖殺せねばと思った。食べ物としてのチー牛に罪はなく、卑称としてのチー牛に合致するキモオタ高齢独身男性が悪いのだ。私はチー牛男性を生涯呪い続けるだろう。
はろ〜!ぺこら、ぺこ!今日は、文部科学省の統計について、ちょっと大事なお話があるぺこよ。
ぺこらの地元では、大学に行く人の割合が低いって言われてるぺこ。でも、それって本当なのかな?
実は、その統計の数字は、地元の高校の情報だけを使ってるんだぺこ。でも、ぺこらの地元の中学生は、ほとんどが市外の高校に行くんだぺこよ。
だから、地元の高校だけの情報で、大学に行く人の割合を出すのは、ちょっと違うんじゃないかなって思うぺこ。
市町村の規模が小さいところでは、高校生は隣の市に通うことも多いから、そこは考えないとダメだと思うぺこ!
でも、この統計を見て、「ぺこらの地元は教育に問題があるんだ!」なんて言っちゃう人もいるみたいぺこ。
それって、ちょっと早とちりじゃないのかな?よく考えてから判断しないとダメだと思うぺこ!
文部科学省の人たちも、この統計がどんな風に使われてるのか、もっと考えた方がいいと思うぺこ。
中学生のみんなにも、数字だけを信じちゃダメだよってことを伝えたいぺこ!
「こいつら自分が頭いいと勘違いしてるの 本当は頭しか使ってないだけなのにね」
読んだ当時中学生だったんだけど、これを何気なくポイッとぶつけられたのは衝撃だった。
オタクのダメなところはパッと見の印象で決めつけて全部わかったような態度取るところだぞ。
だから頭の中で全部決めつけていじけてないで実際に行動してみろよってのは作品全体のテーマだったんだと思う。
オタク達が現視研での人間関係を経て変わっていくだけでなく、裏で春日部さんも彼らを見て「こいつら思ってたよりもそんなに悪い奴らじゃねーな」と考えを改めていく。
俺はその説教が好きだったんだけど、いまいち読者に伝わってないように感じてて、だから2代目はもっと直接的なウザい感じの説教臭さになったんだろうな。
私はというと、中学生時代には「顔がブス」と言って毎日男子からも女子からも悪口を言われ、イジメられていた。
友人2人と、3人でご飯や飲みに行くと、2人はナンパの的になり、同じくらいの歳の男性や、年配の男性からひっきりなしに話しかけられ、個室居酒屋に行かない限り落ち着いて話すことはできない。
2人も気を遣っているのか、わたしのことを「面白い子」とか、「1番頭いい」と紹介してくれるが、聞こえていないかのように2人の話題に戻ってしまう。
今は人から「ブス」と言われることはなくなったが、やはり2人のように「可愛い」と言われることはない。
・「児童・学生時代に教師が日教組だった(せいでなんらかの不利益を被った)」
・「○○(思想・信条的な何か)をしたら職員室に呼び出された」
というたぐいの話が広く出回っている。これらの話には大体、平和教育、人権・道徳教育、同和教育への批判的見解が含まれているようだ。
組み合わせて例えてみれば、「平和教育の時間に日教組の教師が反自衛隊的な講話をした。それに対して冷静に反論する感想文を書いたら職員室に呼び出された」みたいな話だ(あくまで例えである)。
別の例を挙げれば、「人権 本物はやたらに言わない」と描かれた人権ポスターと、それを描いたとされる小学生のエピソードが、たびたびなにかの機知のように出回っている。(参考:https://twitter.com/PatriotNewsJPN/status/170058241861103616)
あるいは、別に「放送委員として給食の時間に彰晃マーチを流したら職員室に呼び出された」みたいなものもその一種かも知れない。単に流行に乗ったのかそれともオウム真理教に対する何らかの確固たる意志があったかは分けられるだろうが。
私は90年代後半~0年代に、関東の一都市の公立学校で義務教育を過ごしたが、
教師が日教組であるとかそうでないとかを意識したことはないし、
あるいは何か「大人の建前に都合の悪い」ことをして職員室に呼び出された経験や、それを見聞きしたこともない。
(子どもらしい単純な悪戯や、非行、それに対する指導などは見聞きしたことはあるし、理不尽な教師の思い出もいろいろあるが)
もちろん、年代や、日教組の組織率など地域的な差はあるだろう。(一般的に東日本より西日本の方がその様な教育に熱心と言われているようだ)
しかし、そんなに、一言で言えば、アグレッシブな対立がしょっちゅう存在するのだろうか。
特に大きな疑問として「職員室に呼び出された」という話の場合、その職員室に呼び出された後の話がほとんど見受けられないのである。
それほど思い出に残る、思想的な挑戦の末に職員室に呼び出されたのなら、その職員室での対面の場で何か大きな教訓とでもいうべき体験がありそうなものだが。
2014年、横浜の中学生が、修学旅行先の長崎で、平和教育を行っていたガイドの被曝者に対し「死にぞこない」と暴言を吐いたという事件がある。(参考:https://hi-hyou.com/archives/1193)
これは学校という閉じた空間ではなく、学校外に向けて起きた事件といえるが、ネット上で見られるエピソードには当然これ程のインパクトがないし、裏付けもない。
普通のいたずらや非行とも違う、早熟ともいえる思想的対立を経て、「教師が日教組である」と喝破したり、平和教育などへの批判的精神を表明したはずの人々は、実際何を得たのだろうか。
もし、なにか、「担任教師が日教組だったから~」「(社会的・歴史的な何かについて)〇〇したら職員室に呼び出された~」といったエピソードを経験した(起こした)り、それについて見聞きした方がいたら、ぜひ反応を頂きたい。
できれば、大まかでよいので地方・年代とその時の歳・公立か私立か・職員室なり説教なりの対立で何が起きたのかなど、当時の環境も添えてほしい。
文部科学省の統計によると、私の地元の大学進学率は近隣市の1/4〜1/2程度で10%台半ば。県下でも最低水準とのことで、それをもって子育てに向かないやら教育行政に問題があるやらと語る人がいる。
しかしながら、私の地元や近隣市は、人口面でも面積面でも小規模〜中規模程度だ。市境を一つや二つまたいだ程度でそこまで学力に差がつくわけがない。肌感覚的な面でも、中学の同級生で大学に進んだのが5人に1人未満とは思いづらい。
ということでSNS等で貼られていた画像をもとに、ソースと思われる文部科学省の学校基本調査「卒業後の状況調査票(高等学校 全日制・定時制) 市町村別状況別卒業者数」(以下「件の統計」)を確認した。数字は件の画像と一致しており、確かに私の地元の大学進学率は低い数字であった。
ところが、よく見ると分母に当たる高校卒業者の数が、市内の中学3年生の人数の1/3程度しかない。年によって学年の人数に違いはあるが、丙午でもない限り1/3にまで減ることはまずないだろう。また、大体の人は高校に進学する上、中退がいても数が知れている。
そこでさらに調査方法を確認したところ、各学校が回答し、それを学校所在地の市町村が取りまとめる方式と判明した。
ところで私の地元は人口面でも面積面でも小規模で、高校は1校、名前を書けば受かると言われているようなものしかない。その高校の生徒数、進路実績を見たところ、件の統計と数字が一致した。
つまり、各市町村の括りで出る数字は、正確には各市町村に立地する学校の数字の集合体であるようだ。件の統計において、高校が立地していない市町村に全く数字が記載されていないことも傍証となろう。
かくして私の地元は名前を書けば受かる高校の進路状況をもって、大学進学率が低く教育水準が低いと世の人に判断される状況になっているわけだ。
なお、先述の事情から、私の地元の中学生は大学進学意思がある人はもちろん、そうでない人も大体市外の高校に進学する。
小中学生であれば、私立等を除き基本的に居住する市町村の学校に通うため、市町村単位での集計はそれなりに参考になるかもしれない。
しかし、高校生にもなると通学範囲はぐんと広がり、通う市町村と住む市町村が一致しないことも増える。この状況下で、立地する高校の数字をもって市町村の数字かのように公表するのはいささか問題があるのではなかろうか。政令市や中核市、施行時特例市くらいの規模ならいざしらず、相互に人が行き来する中小規模の市町村においてその影響は大きい。
世間一般では学力水準は居住地選択において重要なファクターのようで、住宅関係や生活ガイド的なメディアでも指標として用いられているようだ。
だが、先述のとおり、こと高卒生の進路に関してはその公表の仕方に疑義がある。文科省も件の統計が世間でどう使用されているかを考慮の上、表現に気を遣って欲しいものだ。
それはそうと、大学進学率を気にする教育熱心であろう層が、件の統計について違和感を持たず鵜呑みにしてしまうことを考えると、何か皮肉めいたものは感じる。
覚えている範囲だと、中学生くらいから褒められることがとにかく嫌いだ。
そして本日、久しぶりに人に褒められてとても不快な気持ちになったため、いっそのこと深掘りしてみようと思った次第である。
相手が悪いのか、言葉が悪いのか、シチュエーションが悪いのか。
原因をみつけて今後の人生で避けていこう。
・どう考えても煽りの"褒め"などはみんな苦手だと思うので今回の話からは省く。
どんなシチュエーションでも言われたくない褒め
1.頭いいよね、物知りだよね
2.要領いいよね
3.育ちいいよね
想像してみてほしい。
3については1.2とはちがい、めちゃくちゃ育ちが悪いのを自覚して、努力で最低限のマナー等身につけたのに、親(育手)の功績にされていることに腹が立つのだ。
元はクチャラーだし鉛筆の持ち方も箸の持ち方もめちゃくちゃで、障害者をみたらモノマネするような育てられ方をしてるのを知らずに、親を上げるな!と腹が立つ。
ちなみに「育ち良さそう」であれば嬉しい。
4.行動力あるね
5.すごい(単体)
4.5の2つについては、基本的に不快だが、友人や自分をよく知っている関係性の人から言われる分には嬉しい場合もある。
そしてこのふたつについては、なぜ不快になるかよくわかってない。誰か考察があれば教えてほしい。
唯一誰に言われても嬉しいのは、
これは人一倍要領が悪い分、努力してきた自負もあることや、数字は客観的にみて事実であるため嬉しい。
家族、友人、尊敬している上司から褒められる分には1.2以外のことで褒められる分には素直に喜べる。
逆にそれ以外の人からだと、持ち物以外褒めないでほしいと思っていることを自覚した。
褒めることでコミュニケーションが円滑になる場面ならわかる。社会人だしね。
しかしそうだと感じない部分の褒めは意図がわからないため不快だ。
こうして文章に起こすと、数字に出ない能力に関する部分を褒められるのが嫌なのか?
しかし自分も「〇〇さん飲み込み早いですね」などと感想半分褒め半分で後輩に言ってしまったことがある。
そのとき後輩は喜んでいるように見えたけど、実は不快だったのかなと反省。
ただ、結果だけ褒めるのは良くないという論調もあるし難しい。
結局自分の考えすぎなのもわかるけど…と、
最終的になにがいいたいかというと、
褒められるの嫌いな人いる?
いたら何をor誰に言われたら嫌か教えてほしい。