はてなキーワード: 中学生とは
https://anond.hatelabo.jp/20240621170217
投稿した日の夜まで眺めてて埋もれちゃったか~と思ってたんですが、いつの間にか伸びててびっくりしました(ちなみにぶら下がってるトラバに増田が書いたものはありません)。
たくさんのトラバ、ブコメありがとうございます。ぜんぶ読ませてもらいました。
今更ですが投稿した発端としては『その着せ替え人形は恋をする』を今更ながら一気読みしたことです。
面白く読めたのですが、私はラブコメとしてなぞっただけで、これは「推し」文脈が理解できないと登場人物たちの心理に理解が及ばないな、と思ったわけです。
さて、コメント群を読んで思ったのが、「推し」の定義自体がすごく曖昧だなあということです。
たとえば、
好きの言い換えだよ派
├推薦の意図なんてないよ派
└好きにもいろいろあるよ派
と人によって言ってることが違い、まさに「一人一派」って感じがしました。
次に気になったブコメ・トラバからいくつか引用と返信させてもらいます。
・萌えにあって推しにないもの:性的要素(エロに限定しない) ・推しにあって萌えにないもの:貢ぎ要素(課金に限定しない) というイメージ。
あ~これはわかります。たしかに。「推し」って言葉は性的な感情を意図的に排除してる印象がありますね。
「金を使え」って意味
課金するってことだよ
類する言及多数いただいてます。グッズにせよ投げ銭にせよ金銭が介在してると。これもなるほど。
なるほどなるほど。「○○が好きな私を見て!」って感情でしょうか。「推し」って言葉が流行る少し前にも缶バッジをめちゃめちゃ付けたオタクがいましたがあれも近しい感情なのでしょうか。
今の何かコンテンツが好きという形態には、SNSで好きなもの中心にそれに対しての感想やらなにやら諸々を発信する、それによって他者と繋がるって現象が結構な割合で見られる。
ただ自己完結、他者の存在はあまり意識しないという平成中期程度までのオタク活動よりゴリゴリに他者がそこに存在しているオタク活動がそこにはある。
これもかなり腑に落ちます。横の繋がりみたいなものを求める感情が含まれる、ということでしょうか。
好きなものに「続いて欲しい」
これがわからない。私は中学生から聴いてるバンドの大好きなアルバムがあるんですが、そのアルバムが好きなのであって新曲にはぜんぜん興味がないんですよね。聴いてすらいない。また、私とそのアルバムで関係性が完結してるので他人が褒めても貶してもどっちでもいいんです。
個別株も買ってます。でも、たとえばエネルギー系ならINPEX/出光/エネクス...みたいに何社かピックアップしてセクターに張るので大穴一点買い!みたいな買い方はしないです。なので特定の企業を応援したい!みたいなのもないかな。自動車メーカーの株主は応援して買ってる人が多いイメージです。
阪神が巨人に負けてファンが荒れてたら、真剣に理解できないものとして恐怖を感じたりするのだろうか。ワールドカップで日本が勝っても、へーよかったねとも思わないのだろうか
増田は例えば自分の所属チーム(学校でも会社でも良いが)の知人が良い成績を出しても一緒に喜べないのかな。「応援しているチームが勝つと嬉しい」はそれの延長線上にあると思う。
恐怖はしないですけど「なんでそこまで…?」とは思います。ワールドカップもオリンピックもただ日本人ってことしか共通点がないのにどうして自分のことのように喜んだり悔しがったりするんでしょう。
同僚や知人もそうですね、「よかったね」など言葉をかけることはありますが、私が嬉しいわけではないです。私の成果ではないのに私が喜ぶのはおかしくないのでしょうか?
…と考えて、「推し」という感情を理解するためには、"他人事が自分事になる(のように感じる)"というのがポイントな気がします。どうでしょうか?
皆さんたくさんのコメントありがとうございました。「これで推しが理解できた」というにはまだまだほど遠いですが、心情を紐解く足掛かりにはなりそうです。
"「推し」に乗っかりたい"なんて雑に書いちゃいましたが、文脈を共有したいというか、共感はできずとも理解はしたい、という感じです。なので、私の投稿について「単に推しって言葉が嫌いで馬鹿にしたいだけだろ」みたいに決めつけてくる似非エスパーな人はもうコメントしないでもらえると大変うれしいです。でも勝手に煽られた気分になって喧嘩腰でコメントしてくるような人たちにはちょっと難しいかな(書き方が悪いとか煽り返してるじゃんと言われちゃうかもしれませんね。ごめんなさい)。
通信制で友達を作る気持ちもなく誰1人も友達はできなかったけど今はすごくいい選択をしたと思う
不登校の勉強も全くできない人間だけど、小学生の頃想像していた自分よりも今居る場所が良いから今までのことを書いてみる。
小学校と中学校ではずっと勉強もしていないし、何も分からない授業に参加されられて泣いたり
別室登校ができるようになったら次は教室に入ろうと言われて行かなくなるの繰り返し。
中学生になり、学校に通えるようになりたいと思い1週間わからない宿題もして毎日登校した
高校に入ってバイトを始めて、週3日10時からのシフトに入った
親の金銭的な束縛から抜けられ精神が安定して親の機嫌も良かった
私がレポートをちゃんと出してちゃんとバイトに行ってるかららしい
2年生から美大受験のための予備校に通い始め、バイトのシフトは週3〜5ぐらい入った
授業中に眠すぎたら寝てもよくて、気持ちが楽で週2日1時間かけて通う予備校に一回も休まずに行けた
3年生はバイトを辞めて受験に身を入れて浪人生が通う昼間部に所属した
最初の半年はすごく体力的にキツかった、寝付きにくくて薬を飲んで寝たり
寝不足になって体がずっと眠かったりして授業中に寝てどうにか毎日通う
スクーリングに行った時に体力がついたのか、お昼頃に充電切れになって寝るようなことがなくなり
朝起きれるようになった
数回電車で吐き気と冷や汗の症状(おそらく規律性調整障害)が出たけどだいぶ付き合えるようになった。
受験直前にストレスで低音性突発性難聴になった、無理もできずストレス溜めると難聴になる
だいぶ昼間部の生活に慣れたのでバイトを始めることにした、全く違う自分になりたくて周りが殆ど会社員というバイトを始めた
緩くて時給も高く土日祝日だけのバイトだったので休日はほぼ消え
受験当日も全く眠れなくて薬を飲んだけど眠れなくて睡眠時間3時間で受けに行った
受かった
通院はなくなった
体を慣らしながら少しずつやることを増やすことでだいぶいい方向に修正できた気がする。
起立性調節障害の症状は今でも出るけど、朝ごはんを必ず食べてちゃんと水分を取って外に出て
毎日同じ時間に起きて予備校に行く生活になってから生活リズムが整ってだいぶ良くなった
こんな風に体のことも全部には向き合わなくてはいけないけどほどほどに離れてみないと生きれないなと思います。
私は美術の世界の緩さが合っていたしすごく好きです、何もかもがこうであれとは思わないけどもう少し高望みしなければ楽かもしれません
高2に通っていた週2日と夏期講習などの費用が大体50万
高3と浪人
予備校の昼間部は大体1年で画材費、講習費込みで150万を2年
大体これぐらい出せないと美大受験を諦めることが多い、受験生や大学で関わった人の親の大抵は大企業のサラリーマンや自営業が半々ぐらい
たまに自分で稼いで全てを賄っている人がいる
私の家はサラリーマンの良い方(中の下)ぐらいの稼ぎで美大界隈ではかなりお金がない方、平均から見ると中の下
就職に有利な名前の売れている私立に進学できる人は大体親が自営業か、1000万円ぐらいの奨学金を借りてる
エリートサラリーマンでもないただのサラリーマン家庭は大体1年までしかお金を工面できず受験できなくなる
私も1年までで諦めるつもりで受験して公立に受かって、名前を知られている大学なので美術界隈でなくとも就職はできるかなと
甘い考えだけど
美大受験や学費高い問題は大体就職を考えると名前がある大学に入らないといけない
でもそのためには受験をしっかりしなくてはならず
早めに受験対策を始めたり、浪人するから予備校費用でお金が飛んでいく、という所もあると思う
国公立大学の量も少なく競争率が高く、大学の上層部と下層部の間がほぼないのも問題。
中層部あったら私も浪人しなかった
ここまでお金を出してくれた親には感謝しているし、おそらく不登校で心配をかけていたので頑張ってくれているのかなと
私はさ中学生〜高校生あたりまでずっと「うちはお金ないんだ、貧乏なんだ」って思って暮らしてたんだよ。だって病院行くにも「あんたはほんま金かかるなあ」って文句言われるし塾行くにも編入するにもずっと金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金って言われて育てられたから。お金よりもまず娘の体調を心配して欲しいのに。だから私はもっとお腹を壊すのに。そんなにお金がかかるのが嫌ならなんで子供なんか産んだんだよってずっと思ってた。なのに妹がうちの家計についてなんて言ってたか知ってる?妹がが買ってもらおうとしていたものに対して「それお金かかるじゃん」って私が言ったらさ、「大丈夫、わたしお父さんとお母さんのこと信頼してるから!だって何でも買ってくれるもん🎶」だよ?
私だってわかってるよこの家が貧乏なんかじゃないことを。だってお父さんはいつも良い服着てるし子供のセーターを買う時には一直線にイーストボーイに行くし、お母さんは物価高に気づくのが私や世間よりずっと遅かったし、何より一馬力なのに物価高の今でも変わらぬ生活水準を維持できているし。平均以上、いやさらにそれ以上のお金がないことはないって気付いてた。ただ長女の私に余計なお金を遣うのが本当に嫌なだけなんだと。私は通信大学に入学が決まった時、「ああこれでまた『アンタは金がかかる』って言われなくて済む」って心底安堵した。それでもスクーリングの学費や交通費を申請するのは気が重くて、なんて言われるか怯えながら毎回お願いしてた。「アンタは金がかかる」って言われるたび、私は「アンタなんか要らないのに」って言われてる気持ちになるから。今年の冬、いつも自分で払ってる教科書代が、授業が重なって高額になってしまって、いつもお父さんが「教科書代は出してあげる」って言ってるのを信用して今回は出してもらえないか聞いたらさ、大きなため息ついて乞食扱いだよ?お金はあげる、それくらい自分で払え、父親と母親の板挟みで、信用したら裏切られて甘えようとしたら突き放されて。お金を貰える貰えないよりも、このやりとりが何よりもつらかった。
これが一貫して「子供にお金を遣うのが嫌な親」だったらまだ納得できたのに、妹にはポンポンお金遣ってるんだもん。そのうえ「アンタは金がかかる」と責めることもないし、「誰の金で生活してるんだ」と必要以上の罪悪感を抱かせることもしない、もちろん乞食扱いだって一切しない。ずるいと思わない?私なんか最初から要らなかったんだと思わない?私がいなくて妹だけだったら良かったのにっていつも思うの。
「遊びに行く時は毎度毎度お小遣い付き」「私がお金無くて友達と遊べないって相談した時は、『そういうこと言うと次から誘ってもらえなくなるよ?』って嬉しそうに言いのけたのに?それで私だけサイゼでお水飲んでたのに?」
「ルミネで可愛いブラジャー買ってもらえるんだ」「初めて下着を買った時、友達は生活必需品だからと親にお金を貰っていたから、私もと思って貰えるか聞いてみたら、大きなため息をついて『そんなお金ない』と言い放ったのに?」
「入学祝いのiPad」「私の入学祝いは自転車だったのに?しかも私の学割使えとか意味わかんない自分で買えよ」
「ジルスチュアートの財布」「電子辞書」「全身イーストボーイ」「switchもスマホもiPadも全部全部やり放題」私と妹との扱いの差は枚挙にいとまがない。
私のコンプレックスの根源は「両親に愛されたい」という強い気持ちが満たされないことにある。小学生の頃の私にとって、お母さんはいつも機嫌が悪い人で、父親は機嫌を損ねると大きな体と声と方言で怒鳴り出す人だった。しかもキレるポイントが理解不能。
中学生の私にとって、両親は私を支配しようとする人たちだった。思い通りにならないから縛りを強くして、私はそれが耐えられなくて反発しての繰り返し。スマホを没収するための金庫を買ったのを見た時は、心の底からゾッとした。私を支配することに夢中で、私との戦いに勝たなきゃとムキになってるんだ、もうこの人たちには話なんか通じないんだと恐怖した。当然私の意見なんか聞いてくれなかった。中1の中間テスト期間に、数学のワークが終わっていないからと部屋に軟禁されて、足を組んで座ったお父さんがゲームしながら真後ろで私を監視していたあの日から、私の心はおかしくなった。
高校の時のことはもうあんまり思い出したくないし、脳が思い出さないようにしてるのかもうあんまり覚えてない。ただ、高3の時はお父さんの姿を見るだけで、頭が真っ白になって、全身の震えと涙が止まらなかった。本当。自分の体がいつも通り制御できなかったのは初めてだった。私は過食嘔吐になって1年間食べたものをずっと吐いてたけど、お父さんとお母さんには見て見ぬ振りをされた。
中学の友人にも、高校の友人にも、成人してから「あなたの親はちょっとおかしかったよ」って言われた。おかしいと思ってたのは私だけじゃなかったんだと思ってホッとした(もちろん、普通以上の暮らしをさせて、たくさんお金を出してやってるのに、とかそういう話ではないことをわかって欲しい。ここに書いてあるのは全て、『普通以上の環境と金銭を与えられたのに、どうして娘が心を病んだ出来損ないになってしまったのか』その理由だから)。
もう一つ付け加えると、「誰の金で暮らしてると思ってるんだ」って言われたことがあるって言ったら、それも友達にドン引きされた。昔の話だって言うのもわかるけど、もうとっくに大人だった2人にとっての10年前の発言なんて、覚えてないしそんなつもりもなかったんだろう。だけど、まだ心の柔らかい子供だった私にとっては、一度言われたことでもこうやって心の中心に根を張って残ってる。そんなこと今更言われたってじゃあどうして欲しいんだって言うんだろうな。ここまで読んできてまだそんなことを思うのであれば、この長い訴えはひとつも届いていないんだろうなって私が悲しくなるだけだよ。私はただお父さんとお母さんに私の話を聞いて欲しかっただけだった。
私は両親の機嫌をうかがって怯えながら暮らす方法なんて覚えたくなかった。なのに妹にはそれが許されてる。人生で一番辛かったのは不登校の時、二番目は過食嘔吐に苦しんでた時、三番目が、妹と自分の存在価値の差を見せつけられてる今。過食嘔吐はストレスの発散も兼ねていたけど、今は道具がないからもう吐けなくて、それに過食嘔吐は本当に辛かったからもう二度と吐きたくない。カショオができない今この家のリビングにいると排気ガスみたいな異臭がするようになった。耳鼻科では何の異常もなくて、ああ私はこの家にいちゃいけない存在だからこんな酷い異臭がするんだなと思った。過食嘔吐に戻りたいと思ったのは完治して以来初めてだった。
結局は家族なんて血が繋がってるだけで、個々の自我を持つ他人の集合でしかないのは事実だ。それに加えて昔からお父さんとお母さんは、保護者と子供の関係を一方的な支配による繋がりとみなしている面がかなり強かった。だから思い通りにならない子供を縛るし、対等な話し合いの場に降りるなんてあり得ない。話を聞いて欲しいなら同じ土俵にまで上がってこい、あ、ただしお前は誰の金で生きてるのか考えろよ?って。「親に逆らうな」「馬鹿にしやがって」「口答えするな」、今思うと私はあなたたちの幼少期の復讐の道具にされていただけだった。父親は祖父にファミコンを壊された恨みを私にぶつけて電子機器を隠して回った。母親は私のことを”理不尽な目に遭っても私たち長女だから仕方ないよね“仲間だと思っているけれど、私はあなたの娘であなたから愛情を貰うべき存在だ。私はあなたたちの人間的成長の犠牲になったというのか。
家族の関係が改善したのはお父さんとお母さんが支配を諦めたのと、私がお父さんとお母さんに愛されることを諦めたから。2人はそれぞれの人生をもつ人間だけど、私にとっては替えようのないたった2人の保護者だったのに。私の7年続いた反抗期は全部「私自身を見て」「私の話を聞いて」「私に興味を示して」「私を心配して」「私の存在を許して」「私のそのままを愛してくれ」ってSOSだったのに、私が大人になって全部諦めることで終わりを迎えた。とても虚しい。期待したって意味ないことに気づいたのだってお父さんもお母さんもただの血が繋がってるだけの他人であって、いくら私が望んだって他人を変えることはできないと知っているから。
私はお父さんのことがお母さんのことが大好き。大好きだから私ばっかり期待して、期待以上のものが何も返ってこなくて落ち込んでる。私はお父さんとお母さんのことが大好きなのに、お父さんとお母さんは私が心療内科で何の治療をしているか知ろうとしないし、過食嘔吐を知らぬ存ぜぬする割に嫌味だけは言いにくるし、そもそも私がPMDDで数年間悩み続けてコツコツ治療をしていることさえ1ミリも興味がない。どうにか興味を持ってもらいたい私が1人でペラペラ喋ってるだけ。妹と扱いが違う!と訴えても仕方ないってヘラヘラするだけ。ひとこと、やりすぎだったね、ごめんねって言ってくれるだけで多少は救われるのに。私の気持ちなんて考えたこともないんだろう。
私は妹のことが大好き。一人っ子だったらもっとお金出すことに文句言われなかっただろうなって思うことは何百回もあったけど、それでも妹がいない生活なんて考えられない。たった1人の妹。妹が自分と同じ思いをしないように私なりに頑張ってきた。不登校の妹が「もう死にたい」と泣いた時は抱きしめて2人でわんわん泣いた。そんな悲しいこと言わないでって泣きながら、頭の片隅で私が死にたいって言った時親はなんて言ってたっけって思い出してた。ただただ困惑されて、腫れ物扱いに拍車がかかったのを覚えてる。
私はブラジャー代貰えなかったから妹には入学前に持たせてあげなきゃって思って「買ってあげたら?」って言ったら本当に買うからびっくりした。じゃあ私は?なんで?そんなお金ないって言ってたのに?
自分がして欲しかったことを妹に施すことで救われる自分と、より深く傷つく自分がいて、私は1人でどんどん気持ちを病んでいった。私は失敗作で実験体だと思った。3月からリビングはずっと異臭がしてた。これを書いている今もする。
妹の図々しさとか末っ子振る舞いにはイライラすることがある。それでも私も姉のはしくれだからか、顔を見ると全部許してしまう。私は妹がいなければ良かったなんて思ったことは一度もない。妹がいなかったとしてもその分の愛情が私に注がれることはない。私は可愛い娘じゃないから。いつもいつもいつもいつも「私が要らなかったんだ」と思う。「妹だけでよかったじゃん」って思ってる。
私はもう次に進みたい。もともと持っていたPMDDの治療もかなり良いところまで来ていて、ホルモン由来の不安定からはだいぶ抜け出せた。それでもいつも自分なんか要らないんだと泣いていて、そのきっかけは全部全部家のこと。親のこと妹のこと家族のことでしょっちゅう傷ついて、過食と無茶な生活で自分を痛めつける生活から抜け出したい。お父さんとお母さんと離れてもう何も期待しないで済む距離を保ちたい。許されている妹と許されない自分を比べたくない。家から出て一人暮らしがしたい。ここから一人暮らしについて相談する予定だったけど、親の顔を見るととてもじゃないけど自分の気持ちを話す勇気なんてもうとっくに枯れてしまっていて声が出せなかった。きっと両親は本当に何も考えていないだけなんだと思う。私の腐った心はもう元には戻らないのに。どうせ話したって何も聞いてもらえないのが身に染みてる。どこにも出すあてがなくなった日記の供養でした。私の両親、やっぱりちょっとおかしいよ。
どこにも書く先がないので投下する。
先日28歳を迎えたのだが、なんとなく忘れられなくて、思い出を書くことにした。書くことによって何かが変わるだろうか。
中1の隣の席になったことがきっかけで、好意を抱くようになった。顔がよく、優しい人だ。
12月頃だったか、ベタに放課後お呼び出しして告白して振られた。人生初の失恋だった。
お互い気まずさもあったが、中2の合唱祭の打ち上げ会場を俺宅で開催したあたりからなんとなく、話せるようになっていった。他の人と付き合ったりもしつつ、3年間同じクラスだったので、どことなく気にはかけていた。田舎過ぎてまだ携帯を持っている中学生はおらず、パソコンのヤフーメールでとりとめのないやり取りをしていた。
定期的にXでバズる「Re:が増えていくあの感じがエモかった」的な言説を見る度、彼女とのヤフーメールが思い出される。
高校は別になってしまったが、通学の電車は同じだったので、時間帯が合えばお互いの出来事を話すような関係が続いた。多分この頃もどことなく好きだったように思う。
大学も別で、俺は田舎の国立へ、彼女は都会の女子大へ。その頃からInstagramが流行り出し、お互いをフォローするぐらいの関係だった。中学の同級生で初詣に行った時に久しぶりに会った時も、ピカイチだった。
俺の就活で彼女が住む街に行き、飲みに行った時の事である。初恋の相手と酒が飲めるなんて、、とたいへん緊張もしたが、古着屋で一張羅を買い込んで張り切って臨んだ。昭和レトロな居酒屋を予約してくれていて、思い出話に花を咲かせた。2軒目は確かポテサラがとにかく美味い居酒屋を案内した。そこで、「こないだあなたの高校の同級生とヤッた、彼はヤリモクだから傷付いた」という内容を聞いてしまった。そこで俺は心がしんどくなってしまい、妙な沈黙が増えてしまったことは鮮明に覚えている。レモンサワーは普段より酸っぱく感じられた。
お互い社会人になり、3年目の秋ごろだっただろうか。彼氏が居ることを知っていたが、ランチに誘われた。そこで彼氏に浮気されて別れたことを聞き、チャンスだと思ったが行動には移せなかった。あの時のように気まずくなるのが怖かった。
その後も彼女が住んでいる街で友達の結婚式があり、前乗りして彼女と飲んだこともあった。ビジホを2人で予約しておいて、部屋で飲むことになったにも関わらず、手を出すことすらできなかった。朝起きたら手が触れ合っていて、それだけで満足だった。
ここまで色々と鮮明に覚えているものだなと我ながら関心するが、同時に気持ち悪いなとも思う。
送ったLINEは未読スルーされているが、インスタのストーリーには既読が付いて早1年。追いラインはNGと分かっているので連絡しないでおこうと思って早1年。
そろそろ、LINEの返信があってもいい頃だろうか。
それでもなお女にさえ生まれればイージーモードだって相変わらず思ってるんですか?
わざわざ2位は選ばんよ
シェアハウスにいるけどそういう鬱憤たまった謎ハーフにマウンティングされまくってだるかったなあ。
これはワイが学生でいうカースト底辺に見えるから、これだけ好き勝手いってるんだろうな
とか思ってんだが。もう会社員でいい年だし、ハーフに何かいったり知り合いだったこともないのにこの言われよう。
自分の親と自分の関係が狂ってるからって赤の他人にまで攻撃を拡張するな、迷惑
頭のおかしなハーフからの貰い事故ばっか起きててハーフへの見方変わったな
とっくに成人してるのに底辺地域の中学生レベルで頭おかしいやつで、子供のヒエラルキーで他人を認識、判定して中学生みたいな社会性で攻撃してくるっていう。めんどくせーやつ多い。
この辺の注意は誰も言わないんだよな
あーでも本当にだるいのがおおいと思う
アスファルト舗装された歩道の脇の草むらみたいなとことか、川沿いの土手とか、「よく落ちてる」場所は決まってたな
中学生の時海外エロDVD見つけて「無修正だ!」って大興奮して持ち帰ったらリージョンコード違うせいで見れなくて絶望した思い出
ツイ廃をしていると、弁当に冷食いれるなんて…て声を時々聞く。愛情がどうの手間がどうの。
なんならカップの占い付きのグラタンとかなんてむしろ入れて欲しいくらいだと思う。小中は給食だったので幼稚園と高校と専門、弁当暮らしだったけどカップのグラタンはうれしかった。
実際、幼稚園の時は偏食で枝豆と卵焼きとウインナーしか食べなかったそうだが、高校専門は冷食弁当だった。
チンした冷凍ご飯にふりかけ、おかずは昨日の晩御飯の残りとあとは全部冷食。卵焼きすら冷食だった。真ん中にカニカマみたいなものが入っている卵焼き。
冷凍食品おいしいし、別に冷食弁当だからって同年代の中や友人同士であげつらわれることもない。そもそも人の弁当の中に興味しんしんって子、結構おかしい部類…
パートして子供3人と父の面倒を見てくれた母には感謝している。
弁当なんて毎日洗ってきれいな弁当箱に、ナマモノや痛みやすいものを避けて、食べられるものが詰めてあれば十分だと思う。日の丸だって立派な弁当。
どちらかと言えば、子供としては「扱いに差がある」とかの方が全然気になるわけで。
うちなんて典型的な弟贔屓の母だったので、弟は冷凍食品2品程度に他は卵焼きを焼いたりトマトを入れて、朝ごはんを炊いてふりかけを小袋で持たせ、なんならスープジャーまでついていた。
私の5歳下の弟を、中学生頃まで丁寧に寝室に送り、明日の朝ごはんのメニューを確認し、小学生の時は代わりに時間割を確認し教科書をご用意して差し上げる母親だったので正直いつものという感じだったが、さすがにその扱いの差には引いた。ドン引きだった。
そういう事がなくても、差別は起こってるんじゃないかと思う。たとえば、下の子は偏食で食べられないものが多いから下の子だけおかずを手作りするだとか。ありそうな話だ。
子供はたぶん親の想定の数倍そういうことに気がついている。私はいまだにおやつの量が私と兄より5歳下の弟の方がずっと多かったことを忘れていない(笑)
冷食だどうだ、作り置きだどうだ、というより、兄弟間で差がある方がいやだな、と論争を見る度に思う。
いいじゃん冷食。楽していこうよ。
ここ半年のせっくすはねー。こんな相手で内容はこうで仕事はこうで、こんな場所でして。
出会い系でも何人かとあったけど、みんな受け身でつまらない。3人。3人とも年下で。
去年の夏の恋愛はひどかったなー。半分半グレだったもんなー。私も逃げるように。
増田さんは東京で遊ばないの?遊ばないなー。だってのんちゃんと遊んだら、
その他の女の子と遊ぶのはなんかつまらなくて。ふーんそうなんだー。もったいない。
あ、もちろんおなにーもしてますよ!空からおちんちんが降ってくればいいのにって。
私だって好きでエットなことしただけじゃないですよ!
(騎乗位のせっくすでイッたあと)。私ですね、人生の年齢を考えてて、
例えば22歳でなんとかとか、24歳で結婚とか。でもいまのこれは、
ああーん。なんかはやいなー。もっと年取ってからのはずなのに。こんなはずでは。
いまの、こんな気持になるのは、もっと、30歳とかで。もぅー。分かります?
いつもはあれしたいこれしたいって言ってくるのに、
今日は僕の言う事を何でも聞いてくれるおしとやかな感じ。
あなるせっくす?いいよ。あんあんあんあん。私の前の穴は他の人だったけど、
こっちの穴は増田さんが初めてですよ!(前回もあなるせっくすしたけどなあ)。
お尻に栓をして、増田さんの精液をずっと中に入れてて、感じてたい。
増田さん、愛してます。増田さん、好きです。ますださんは私のこと好きですか?
わたし、増田さんと結婚したら、せっくすは週に3回くらいかな。月水金?
でも土曜日もしますよね。火木土?せっくすもお風呂入って寝る前の10分くらいで、
自分だけイッて自分だけ寝ちゃう。前戯もなくてなんか胸をぱぱって。
21時には布団敷いて、それからスマホとか見て電気消して、手を繋いでなんかイチャイチャして、
いつもフェラシてくれるからクンニするねとか交代交代で、15分?30分?
いまは45分くらい?それで抱き合って寝ると22時くらいかな。
でも土曜日は昼間とかにするときもあるよね、昼間したら夜はしないのかな。
あーでもしたくなった時にすればいっか。それが普通か。だとしたら週6?やり過ぎ?
結婚したら浮気はしないで欲しいな。してもいいけどバレないようにしてほしい。
私は浮気はしないかな。浮気が絶対にバレなくて僕も気にしてなくて、
なんかイケメン男子が誘ってきたら?絶対にバレないならしちゃうかも。
バレルからしちゃ駄目なんですよね?僕は浮気はしても良いんじゃない派なので。
良いんですか浮気しても。僕が知らなければ。結局嫌な気持ちになるのが嫌なんだから、
楽しい気持ちになる浮気ならしてもいいと思う。浮気行ってきます!とか。
浮気お疲れさま。浮気も大変だよーとか。なんであんなやつと浮気するの?
「新幹線の時間があーだから、もうホテル出ようか」「もっと一緒にいたい」
「次のにすれば1時間伸ばせるけど、延長料金も考えるといま出るのが」
「私が払うから!」「でも1時間に~円は高いよー」「一緒にいたくないんですか?」
「一緒にいたいけど、また次も会えるし」「次は次ですよ!」
...
「分かりました、次のにしますよ」「やったー」「じゃあなにしましょうか」
「なにしましょうか(ぬぎぬぎ」「僕も中学生みたいに性欲だけなのは」「おっぱい」
「ほんと単純で、わかってるんだけど、じゃあまあそれでいいのか。おっぱい」
「おっぱい好きなの?」「のんたんのおっぱいがすき」「しょうがないなあ」
「もう一泊します」
「バイト先の神経質なキッチンが、私に『のんさんぐらいなら、おれやっちゃいますよ』とか言ってくるんです。
どうゆう意味だと思います?」「僕ののんたんにやっちゃうなんて軽々しく言うのは、なんかムカつくなあ。
そのバカはのんさんを舐めてるんだと思ます。普通女の子にそんなこと言わないし」
「のんさんなら全然余裕で俺やれますよ」とか「バカにされてるんで怒れたら怒ったほうが良いですよ」
「こないだお客さんに味噌汁こぼして救急車呼んじゃって大変でした」「おおお」
「ああ、いきそう。いきそう。いっしょにいけます?いっしょにいきたい。いっしょにいこう」
「のんたんのまんこが気持ちよくて俺もイク。ああ。(のんちゃんがくがく)のんちゃんのなかにしゃせいや!
「はー、はー、はー。。。のんさんかわいい。好き。」「あ、抜かないで入れたままにしておいてください」
「さっk俺っていってましたよ」「でへへ」「なんかきゅにいきそうになって、一緒にいけてよかった」「よかった」
じっとお互いの顔を黙って20分ぐらい見つめあう。あんまり可愛くないけど、これはこれで。
ひどい顔ならこんなに長く続いてないだろうしなー。ちゃんと可愛かったらどうだろうか。
可愛いだけでほかは変わらないか。なんでこんなかわいい子が僕と、とは思うのかな。
地方の公立中学のトップ5人の、それらが集まる高校のトップ10人ぐらいの学力の女子が入れる御茶ノ水。
中学で頭が良いと言われた加藤さんの高校でさらに同じくらい上位の女の子。
なのに、学力では線対称の反対側の僕と、僕に、そりゃ彼女はそんなこと考えてないだろうし、
逆にはなんだか申し訳ない気はしている。例えばワイが東大で中卒の女の子と付き合うか?そりゃあるだろう。
「別に私はたまたま勉強がよくできただけだから。そんな、ぜんぜんすごくない。
このおちんちんすごいよ、せっくす。おっぱい?おんなのこのおっぱい?
ああ有女の子たちは高校の時に毎日こうゆうことして過ごしてるから?
今なら言えるけど、おなにーするじかんもなかった。おなにーぐらいはしてたけど。言い過ぎました。
いま本書いてるんだ?なんか私モテるんですけど。他の男の人と寝てしまって、気持ちよかった。
多分その人のほうが好きになってくと思う。今までありがとね。恋終わりってこうなんだ。
最後に?うーん。もう気持ちはあっちだからしたくはいけど、いいよ。
角君のこと好きなのに、せっくすはこっちが気持ちがいい。わがまま?淫乱?
角君にせっくすを教えようか。ほんとに?マジで?3Pして?角くんがいいなら?
講習用の教材の動画も用意するの?気合入ってる!恥ずかしい格好だけど、私の好きな体位です~
今の彼女に会いたいんだけど、会って話したいことがあって。喧嘩じゃないし。
「フェラでイッたあとはティッシュは3枚で」「何枚でもいですよね」「3枚でした」
「私がいちばんかれのちんこのことぉ知っていて」「あなたとは違うせっくすをしますから!」
「せっくすはだいたいみんな同じですよ」「相手が違えば全部違いますよ!
「いまさら違う人とせっくすはしたくないよ」「じゃあ、3Pしよう。あ、4Pを。相手はね、」
...
「何なんですかあの人は!」「他にもいっぱいいるから」「いや合コンで、上智の学生とくっつけて、普通になっている。良かった。
あ、増田さん、久しぶりですね。まだ付き合ってますよー。彼が居るので増田さんとはしません。思い出しもしません。ちんこは彼のほうが大きいし。ざまあみろ。
旭川の女子高生殺人事件で、犯人グループと被害者が立ち寄ったコンビニの店員が、被害者が助けを求めているのに警察に通報せず見殺しにした。なんてことがネットで言われ批難されている。
私は北海道じゃないところのコンビニでバイトしている、しがないコンビニ店員なんだけれども、結果人ひとりの人命が喪われてしまった事件にいたましさは感じるものの、いやコンビニは当事者じゃないんだから関係なくね? とも思わなくもない。
そもそも、敷地内で客が起こしたトラブルへの責任は負いかねると、駐車場の立て看板に書いてあるんですが。
駐車場と店内では話が違うのかもしれないが、事件の加害者が店や従業員自体に何かしたんでもない限りは第三者でしかないので、通報する義務がないし、通報するという判断は個人の善意しか根拠がないと思う。
私個人の経験を言うと、店に全く責任がないのに警察に通報して軽く嫌がられたということはある。どんな案件だったのかというと、夜間に店舗のすぐ近所で自損事故があって、それをたまたま目撃した客が自分で通報せずに「事故があったから通報しといて」と言い捨てて自分はとっとと帰ってしまった、ということだった。自損事故を起こした当の本人は、壊したのがせいぜい車をつっこませた敷地にあった古い立て看板で、ひょっとしたら電柱にかすり傷を負わせたくらいのことなので、黙っていれば問題ないと思っていたらしい。あとで当店に「レッカー呼ぶから電話貸しつくれ」と言いに来たくらいだ。
そんなあらましの事故で通報をしたら、警察には「それってあなたには関係ないことですよね?」ってチクリと刺された。普通にパトカーを寄越してくれたけど。
コンビニには色んな人が来るし、人や車の出入りが激しいので事件事故がしばしば起こる。だからコンビニの従業員も経営者も良くも悪くも事件事故には慣れている。なので旭川の事件みたいな事に遭遇した場合の判断は、オーナーや店長などその時にいた責任者か、それがいなかったら各従業員がこれまでの経験に沿ってするかなと思う。
正直言って、私は前述のように当事者でもないのに通報したことで顰蹙を買ったことがあるので(オーナーは通報自体は良いことだと言ったけど、警察からチクリと言われた他にバイト仲間から余計な事してんじゃねえよと言われている)、旭川のようなことが自分の仕事中にあったら通報しようかどうかかなり迷うし、店長がほっときゃいいよと言ったら通報しない気がする。そもそも自分で判断したくないから店長に判断を投げているわけで、それででもでもやっぱりと勝手に通報するのはそれはそれでどうなのかと思う。
余計な通報をしたとして顰蹙を買ったことがある一方、助けを求めてコンビニに駆け込んで来た人に対応した事もある。といっても、助けを求めて来た人は店に入ってくるなり脇目もふらずにバイト仲間のAさんに助け求めたので、事情を聞いたり警察に通報したりということはAさん自らが担当し、私はちょうどピーク時間帯だったので、一人で接客対応を全部やるという役割分担。私はその件にほぼ関わっていないことになる。
Aさんに助けを求めて来たのは小学校高学年か中学生の男の子で、駆け込んで来た当初は親とはぐれて帰り道がわからなくなってしまったと言っていたのだけど、Aさんが詳しいいきさつを聞いたところ、近くの行楽地に母親と兄弟姉妹と遊びに来ていたが、色々あって自分一人だけ置き去りにされてしまったということが判明した。母親としては躾のつもりだったのかもしれないが行きすぎており、虐待と言われても仕方ないことだ。男の子がAさんだけを頼り私の方は一切見ようともしない点、母親くらいの年齢感の女を信用していないのかもとも思えた。
助けを求めて来たのが明らかに子供だし、ひょっとすると虐待で児相案件かもしれないので、大人の義務として通報しなきゃいけないからその件は話が速かった。ちなみに警察から呼び出されて当店に子供を迎えに来た母親は、旦那と子供複数を連れてやってきたのだが、夫婦供に一見普通に見えて癖の強い人達だった。
その件の事を思うと、被害者とみられる人が未成年である場合は迷いなく通報しても問題にならないような気がする。コンビニによっては地域の「こども110番の家」の掲示も出しているところもあるし、この通報は出すぎた真似ではありません。当然の事をしたまでです! と断言してもいいのかなあ。
まあ、コンビニ店員も人間である以上、個々の判断は個人の経験や置かれた人間関係に左右されるんじゃないかと思う。私個人としては、プライベートで何か外から悲鳴が聞こえてきたとかだったら迷わず通報しちゃうと思うけど、被害者にも加害者にも顔が見えている状況だとすると、あとでするにしても報復が怖くて通報を躊躇いそうだ。家族まで巻き込まれたら嫌だし。まあ、顔見られてる時点で、通報しようとしまいと犯人グループが捕まったあとでその仲間たちからの御礼参りは受ける可能性はあるけども。旭川の件の店員さんも今頃怯え暮らしているかもしれないよね。
と俺達は乗り込み、ガンダム動物園の前にヤバそうな中学生がウッキウッキとたむろしているのを見て
と俺達は別の場所へと移った。
その時始めた友人の1人はアーケードに通い詰めてクリアし「リッチャンハカワイイデスヨ」が口癖のバケモノになった。
それ以外の俺達は少しやってアイマスに飽きたのだが、家庭用が出たことでクリアしたのが1人、ソイツは「小鳥さんをババァと言ってる奴、お前既にタマ姉より年上だから」というわけのわからない理論を駆使してプロデュース可能になるべきであると力説するモンスターになった。
アイマスをやると頭がおかしくなって怪物になるのではと訝しんでいた俺達だったが結局モバマスもちょっとやったしデレマスもちょっとやった。
そして2024年、俺は学園アイドルマスターをちょっとやっていた。
ちょっとしかやってなかったのでついさっきようやくA+エンドを見た。
A+エンド、なんかちょっとうまぴょいっぽいアレ、それを見終えた後、俺の中でなにか長い旅が終わった気がしたんだよな。
スタッフロールって要するにカーテンコールみたいなもんだから、その劇の最初から最後まで参加した人間としてそれを浴びないと分からない熱があるんだと思うんだよな。
ニコニコでアイマスの動画はいくつもみたし、アイマスのソシャゲもそれなりにやってたけど、ちゃんと最後まで来たことなかったなと改めて思った。
プロデュースをちゃんと一つ終わらせたあとの行き場を失ったような感覚。
打ち上がったあとの花火の欠片がヒュルヒュルと情けなくしおれて地面に吸い込まれていくような状態。
やっと味わえたぜ。
長かったぜ。
学マスが始まって1週間でここまで行った人もいるんだろうな。
ゲームが上手くて凄いな。
俺は15年以上かかったぜ。
ニコニコ動画や日記サイトでアイマスの存在を知り、実際にゲーセンで遊び、小鳥さんをババァと呼び、小鳥さんがババァなら俺はヒイジジイだろって年齢になり、ウサミンよりも多分年上になって、そしてようやくアイマスをクリアした。
ひぐらしはリアルタイムでプレイして「おめぇ、戦略、戦術・・・」の所でブチギレそうになりながらクリアして掲示板に行ったら凄いことになってるのを見て逆に冷静になった。
東方は永夜抄辺りから入ってちょっと逆流して地霊殿ぐらいまでクリアした。
月姫はリメイクのCMを見た時は超盛り上がったんだが、なんかこう俺の中での月齢(バイオリズム)が型月と噛み合うタイミングがなかなか来ないので歌月十夜のリメイクが来てから一気にやろうかなと思っている。
俺の中の平成はもうすぐ終わる。
エヴァも終わったし、ガルパンも・・・多分そのうち終わるし、歌月十夜がリメイクされた月姫やるし、長い長い平成だった。
令和を5年以上やってようやく終わりに向かっている。
小中高生荒らし集団の「荒らし共栄圏」、リーダーの「ワッパステイ」が今年で高校3年生になり、今までも企業サイト潰して警察の世話になったりしたが18歳になったら流石に引退するつもりなので「最後に今年を荒らし元年にしたい」と抱負発表
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コレコレは荒らし共栄圏の活動を馬鹿にしたことがあるので粛清対象になっており監視が続いていた
コレコレに暇空が出演したことから暇空の存在が共栄圏キッズたちにバレ、アニメイト脅迫が発生
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様々なところへ爆破予告を行いサンリオピューロランドへも予告
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「飯塚軍」の「きりみちゃん」(腐女子中学生)が同名のサンリオキャラが好きなため、サンリオを攻撃した荒らし共栄圏のDiscordをスクリプト荒らし
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新学期になってみんな忙しくなりしばらく活動が落ち着き、たまに爆破予告する程度に
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5月病で不登校になったキッズたちが新規に加わり活動がまた活発に
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捕まっていた「恒心教」大学院生の判決が出たことで恒心教も活発化し恒心教名義の爆破予告も増える
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不登校なのでニコニコ配信者になったらブスだと言われた同志のためニコニコ動画とKADOKAWAが粛清される
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私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
私が欲しくないのにね!!!
結婚して約半年、旦那に「子どもが欲しい」と言われた。正確には、私に対して「子どもが欲しい?」という問いかけだったけど。
これを聞かれたとき、わたしはめちゃくちゃ驚いた。というのも、旦那は子どもが欲しくない派だったからだ。
結婚をする前、付き合っていたときにも、「子どもが欲しい?」と聞かれたことがある。私は「相手が欲しいなら欲しいけど、欲しくないなら別にいらないしそこまでではない」と答えた。これは私の本心だった。私の答えに対して、旦那は「自分は欲しくないかな〜」と言った。なので、私たちは子どもを作らず、二人で暮らしていくものだと思っていた。
旦那に「子どもが欲しい」と聞かれたとき、私はびっくりして「〇〇(旦那)は欲しい?」と聞き返してしまった。質問に質問で返すな。
旦那の答えは「いてもいいかな、楽しいと思う」的なものだった。それに対して、私は「〇〇が子育てをできる気がしない」と最悪な返事をしてしまった。でもこれも私の本心だった。
旦那は絶対に子育てができないと思う。旦那は私からすると良い男だし良い夫だ。でも、良い父親にはなれない。
私の中の親のイメージは、子どもが最優先だ。実際私はそうやって育ってきて、両親は私たち子どものためにあらゆることを犠牲にしてきたと思う。お金や時間、趣味、仕事、そういったものを全て子どもに合わせられるかどうか。旦那がどうかはともかく、私にはその覚悟や気概はない。
旦那に子どもが欲しい話をされて一番驚いた理由は、私に選択肢があると思っていたからだ。本当に最悪、最悪な女。
旦那は子どもがいらないと思っていたから、ずっと一人で悩んでいた。私が欲しいと思えば産むだろうし、私がいらないと判断したら二人で暮らしていく。勝手にそう思っていたし、結局「いらない」という結論に至って、子どもがいない人生を歩もうとしていた。
当たり前だけど、子どもの有無は一人で決めるものではない。それが分かっていなかった。あまりにも愚か。そして、旦那に子どもが欲しいという話をされてから1ヶ月以上経った今も、結論を出せずにいる。
子どもが欲しくない理由は大量にある。一方、欲しい理由は片手で数えられるほどしかない。この時点で、私は子育てができないと思う。
私の人生において、父親の存在はかなり大きい。父親は、常に私たち家族のために過ごしていた。
だから、昔から漠然と、もし私が子どもを産むとしたら子どものために人生を捧げられる人が父親であってほしいと思っていた。時間やお金、生活、趣味の全てを捨ててでも子どもを優先できる人。子どもが大好きで、子どものために生きられる人。
後述するけど、私は子ども自体がそこまで好きではなくて、多分普通の母親にはなれるだろうけど、並以上の愛情を注ぐことはできない。せいぜい一人分が限界だ。だから、私以上、せめて私と同じぐらいには愛情と手間を注げる相手でないと子どもは作れない。愛情が足りなくて子どもを不幸にしてしまうという強迫観念を持っている。
それでも、私は幸せに生きてきた。家族からの無尽蔵の愛情と、友人に恵まれたのと、勉強が得意だったことが主な理由だ。
子どもに遺伝した場合、子どもは幸せに生きていけるのかという不安がある。家族からの愛情は私たちで頑張るとしても、友人をはじめとした人間関係や学習能力はほとんど運だ。もし子どもが「産まれてこなければよかった」と言ったら、私にはかける言葉がない。私が原因だからだ。
私はとても自己中で、自分がしたいときにしたいことをできない状況が許せない。眠いときに寝たいし、お腹が空いたときに食べたいし、出かけたいときに外出をしたい。仕事は気分が乗ったときに取り組みたいし、お金は自分のためだけに使いたい。
幸いなことに、今は上記の願いが全て叶っている。自分の努力で望む仕事に就いたのと旦那の理解の賜物だ。
子どもができるとこれら全てが失われる、と思っている。子ども中心になって、子どものための生活サイクル、外出、出費。きっと私は耐えられない。私はまだまだ自分の人生を楽しみたいと強く思う。子どもの人生を優先させる未来が想像できない。よく「子育ては自分の人生の追体験」と聞くけど、私は自己中だしまだまだ自分が主役で生きていきたい。この座は譲れない。
そもそも子どもが嫌いという大きな理由がある。特に中学生以下が嫌い。
私はかなり器が小さくて、子どもだからという理由で許せることが少ない。子どもに手をあげそうな気すらしている。イヤイヤ期や反抗期を耐えられるわけがないと思っている。
「子どもが嫌い」というと「自分も子どもだった時期があるのに?」と言われることがある。そう言われてもと感じる。おじさんは、自分がおじさんだからという理由でこの世のおじさん全員を好きになれるのか?
あと「自分の子どもは可愛いから大丈夫」とも言われる。そう感じる人もいるだろうけど、じゃあ仮にそう感じなかったときはどうすればいいんだろう。やっぱいらない、ができるわけもないのに。
これが一番大きな理由かもしれない。とにかく産みたくない。自分のお腹の中に別の命がいるのが気持ち悪くて本当に無理だ。しかも1−2ヶ月ならまだしも10ヶ月も…?
私は痛みにかなり弱い。少しでも頭痛がするとすぐに痛み止めを飲むし、病院での治療や検査は全て麻酔ありを選択する。でも、出産は痛みありきの行為だ。無痛分娩も痛みはあるし、妊娠中も不調や痛みがつきまとう。
妊娠の何もかもが嫌で、自分が子どもを産む可能性を想像すると、まず妊娠への嫌悪感でつまずく。
本当に最悪な話なんだけど、正直自分が男で相手が産んでくれるなら、子どもは欲しい。最低!このわがまま女!
私は自分の精神を安定させたいという気持ちが人一倍強い。自分の努力と行動の結果、今の生活は最高に幸せ。嫌なことを排除して排除してやっとこの状況に辿り着いたのに、子どもができると全てが崩れ去る。そうなったときに、自分の精神が安定しているわけがない。不安定でぐちゃぐちゃで、死にたいと思うだろう。
子どもを産むと、もう後戻りはできない。絶対に今の生活には戻れない。まだまだ今を満喫していたい。
あと、仕事を休みたくない。仕事が好きというより稼いでいる自分が好き。私の精神の安定には十分なお金が必要で、旦那の給料に頼って暮らす生活をするときっと自分を嫌いになる。100歩譲って、産んだあとに相手が育休を取って私が変わらず働くなら、もしかしたら子どもが欲しいと思えるのかもしれない。
子どもが欲しい気持ちも少しだけある。理由は、親に孫を見せたいという気持ちと楽しいと思える可能性があるという気持ち、これだけだ。
親は、孫を楽しみにしている。私に直接言うことはないけど、薄々伝わってくる。
兄弟が結婚して子どもができれば、私が子どもを欲しいと思うことはなくなる気がする。もちろん、兄弟には絶対に言わないけど。結婚するもしないも、子どもを作るも作らないも本人の自由で、周りが触れることではない。
子どもができると、なんやかんや「子どもがいて楽しい」と思うんだろう。
でもそれは、子どもがいる自分を無理やり肯定したいだけではないか。今が不幸1・幸せ10の人生とすると、自分は子どもができると不幸100・幸せ60になる気がする。幸せも増えるけど、それ以上に不幸が増える。
絶対量ではなく相対量で判断する価値観を持っているから、増えた幸せよりも増えた不幸に執着してしまいそう。
ただの予想だけど、本当は旦那も子どもが欲しくないのではないか、と思う。
旦那からすると、人と暮らすようになり自分の人生に他人が入ってきた。その結果、年収が増えたり生活が整ったり部屋が綺麗になったり食事が出てきたり風邪を引かなくなったりなどのメリットが手に入った。お互い完全別家計、趣味は不干渉で暮らしているから、ある程度の自由もある。
子どもができたら、もっと良い生活、楽しい生活になる、そう思っている気がする。
でも実際は、お金が減るし部屋は汚くなるし子どもの風邪が移るし自由も無くなるし、デメリットがたくさんある。あくまでも私から見てだけど、それを理解していないように感じる。
デメリットをちゃんと知ると、結局子どもが欲しくないと思うのではないだろうか、と勝手に予測している。本当にどこまでも勝手な女。
私の努力もあり、今の人生には辛いことがない。例えるなら、毎日海を見てのどかに暮らすような生活。定年後のような暮らしをしている。
子どもを持つことは山を登るようなものだと思う。厳しい道でしんどいこともあるけど、時折見える絶景や頂上という目標への道のりに楽しさややりがいを感じるのだろう。大変だけど喜びも多い、そんな日々。
普通の人の生活は、私からするとマラソンのように見える。コツコツと走って、辛いときもあれば楽しい瞬間もある。会社の人に怒られたり失敗したり、目標を達成したり褒められたり。
どうせ走るなら山を登りたい、と山登りに惹かれるのかもしれない。
私は海辺をのんびりと歩いているような日常だ。気分でなければ歩く必要もなくて、座って綺麗な景色を見ている。周りには誰もいなくてこの過ごし方に対して嫌なことを言われることもない。
そんな状態で山に登ろうと言われても、なんで?と感じる。もちろん山にもいいところだろうけど、わざわざ登ろうとは思えない。
それに、一度登ると今の生活には戻れない。息を切らして山を登りながら、「海に戻りたい」と二度と戻れない生活に想いを馳せ続ける人生は、私からするととてつもない地獄に思えてしまう。
まとめると、私には何も覚悟がないのだと気づいた。これを書きながら子どもが欲しくない理由ばかり思い浮かぶし、頭の中にはマイナスの考えばかり漂っている。
子どもが欲しくない理由も、全てが幼い。自分自身が成熟しきれていなくて、本質的には子どもだから、大人側になりたくないのだと思う。自分の人生を子どもに捧げる覚悟がない。子どもを幸せにする力も、自分が子育てで幸せになる未来も見えない。
私は考えがコロコロ変わるから、今はここまで欲しくないと思っても、いつかは欲しいと思うのかもしれない。今の考えを忘れないためにこれを書いたけど、後から見て嫌になってすぐ消す可能性もある。
てか、こんなところで勝手につらつらと書かれている旦那が一番可哀想だよ。ごめんね旦那。あなたは何も悪くなくてただただ私の幼稚性が悪い。
職場の昼休みで出てくる会話といえばアニメ・ゲーム漫画の話ばかり
昼休み中鬼滅の最新話がどうの新しく発売された漫画がどうのといい歳した大人が中学生みたいに話している
「それはちょっとどうなんだ」と小言を言おうものなら人事から戒告されるから素直に認めるしかない
飲み会の会話の内容も仕事の話とかビジネスマンとしての在り方とかそういうまともな話なんて一切出ずにずっとアニメ・マンガ・ドラマ・ゲーム…
俺が最近読んだビジネス書の話をしたら「へぇ、凄いっすね」とシラけた顔で流される
一昔前は大人の組織の中でアニメの話題なんて口に出すのも憚られるようなものだった
いい歳して漫画を読んでいるようなのは社会から排除されて当然だった
今じゃ駅にもアニメ絵のソシャゲの広告があふれているし音楽もよくわかんないアニメの曲ばかりがランキングに載っている
俺達の下の世代で「まともな大人の会話」ができるやつって今何人いるんだろうな
日本には幼稚なこども大人しか残らずにそのまま内側に引きこもってまともに社会を維持することすらできなくなってるんじゃないかな