はてなキーワード: 上品とは
我ながら、私は本当に右翼系の人たちが好きじゃないんだなあ・・・と思います。どうしてなんだろうなあ。「右翼系」なんて上品な言葉を使っていますが、本当は「ネト○ヨ氏○」と叫びたいくらいに嫌いです。生理的な気持ち悪さ。ナメクジを飲み込むような・・・。
試合中にお菓子の箱を開けてビニールビリビリしながらバクバク食い出す破壊力。
小さいお菓子が画面の横にチラッと出てきて何食ってるのかわからないのはよくない。
だがお菓子なんぞにカメラがズームするのもあざとくって鬱陶しい。
ザッハトルテのような飾り気はないインパクトとカロリーの凄さは伝わるケーキを丸ごとムシャムシャしてくれれば見てる側も安心。
だが棒アイスはどうだ?
ガリガリくんを齧り青色の粉を将棋盤に撒き散らせば流石に下品っぽくなるのでは?
対面の棋士が上品なティーセットで一服している前で将棋盤に齧りつきながら一本60円のアイスに齧りつく姿が俺は見たい。
それでも威厳を保って欲しいし、失われてくれるならそれが見たい
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは青い芝の会という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ない。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
そもそも、少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。
発達は新しい人間。おめでとう。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
かわいくなりたい かわいくなりたいです
今まで一度も自分の容姿体型にコンプレックスなんて感じたこともなかった。外見でいじめられたことなんてないし、オシャレな格好をすると「かわいいじゃん」ってなる。そうなの、別に困ってるわけでも悩んでいるわけでもなくて、なのに今すごい自分がどうしようもない女に思える。日常は地味めだけど、遊ぶ時はオシャレしてメイクバッチリでめちゃくちゃかわいい!ってなるのが理想なのに、実際は背伸びしてるかわいそうな「かわいい」みたいで悲しい。
一浪した。わたし以外みんな現役。突然ごめんね、話がすっとんで。最近みんなのSNSがキラキラしてる。彼氏出来たり、知らない子が横にいることも多くなったり。自撮りなんてあげるタイプの子達じゃなかったのに、堂々としててびっくりした。なんかみんなオシャレで、みんなめちゃくちゃ可愛くて、ていうかもともと見た目には気を使っていた子達だけど最近すごい、すごい「めちゃくちゃかわいい」んだ。すごい。インスタのストーリー見て心臓がバクバクいってる。かわいい。すごくかわいい。スクショ撮ってアップにしながら見とれちゃうの。すごいかわいくて、笑い方も顔が歪んでなくて、楽しそうで、自然で上品で、すごい髪型も整ってて綺麗、自分に合ったお化粧も自由自在。つらいからインスタアプリ消した。スクショも消した。そんで最近削除した写真からも消した。心臓がどカンドカンいってる。
自分が、自分がなんていうか、かわいくなくて、あんな風には笑えないし、メイクも全然だし、服も全然垢抜けてない。おかしいな。かわいい、理想的だって思った服を上下セットで靴もカバンも一緒に買ってるのにおかしいな。学生時代は特別顔が整ってるわけでもなかった子達が、私と同じくらい凡庸な見た目の子達が、めちゃくちゃかわいいの。おかしいな、おかしいな。すごい。どうしたの。自信にあふれてる。自撮りをSNSにあげるのみんな興味なさげだったのに、それはちょっと……とか言ってたのに急にどうしたの。
わたしも、私も、かわいくなりたい。いまはイケイケのみんなと一緒に遊びに行くのが怖い。コロナに感謝しちゃうもん。最低だ。みんなは、私がノーメイクでジャージジーパンでも絶対引かないし悪口も言わないし、特に何も思わないであろう確固たる自信があるけど、やっぱり私も、わたしもかわいくなりたいよ。どうしよう、どうしよう、どうしよう、心臓がどカンドカンいってる。
この世のカレー屋さんでいちばんおいしいと思っている大好きなお店が突然閉店した。
お店に入った瞬間おばあちゃんちに来たようなあたたかさがある雰囲気に呑まれ
そこのおかあさんとおとうさんが上品に明るくいらっしゃいませと出迎えてくれる。
「ポークカレー、ワンでーす♪」と復唱するおかあさんは昭和レトロな落ち着いた雰囲気と合っていて
食べる前の雰囲気からもう満足で幸せなのでこのままお会計しても
ポークがホロホロしていて口の中でとろけながらルーの味と絡まりあうのである。
食べながらつい笑顔になってしまう美味しさだ。なんでこんなに美味しいのだろう?
こんなおいしくて雰囲気のいいお店を千円以下で味わっていいのだろうか?と
途中でおかあさんが笑顔で「お水おかわり♪」とついでくれる。
あったかい雰囲気を保ちつつ、周りのお客さん達への気配りも素晴らしく、
ホール全てワンオペでこなすおかあさんのホスピタリティにもうっとりする。
それを陰で見守りながら美味しい美味しいカレーを作っているおとうさんもすごいしとても素敵な夫婦だと思っている。
そんな素敵なカレー屋が突然閉店しただなんて。
どこに悲しさや寂しさをぶつければいいのだろうか。
先月立ち寄った際に最後の一口を味わっているときになんとなくだが(この一口が最後かもしれない、、なんでだろうもう二度と食べられないかもしれない)
と嫌な予感がした。だからこれからも変わらずに長く長くこのカレーが食べられますように。と心の中で祈りながら店を後にしたのだが
本当に勘が当たってしまった。こんなにうれしくない予感的中は今まであっただろうか。
とは言っても、どんなに悲しんでもカレー屋さんが閉店した事実は変わらない。
色々な事情があってのことだろうしこちらファンが復活してという権利はまるでない。
でもこれだけは言わせてほしい。
私の人生の中でいちばん美味しいと思えるカレーと出会えたことと、素敵な空間を提供してくださったカレー屋さんのおとうさんおかあさんには感謝申し上げたい。