はてなキーワード: 一級建築士とは
ttps://diamond.jp/articles/-/298736
珍しくちょっと内容がひどいので突っ込みを入れてみる。8割が欠陥だというが本当にそうなのか。
接合部金物不足について、もう少し補足すると、接合部金物は壁を強くすることで発生する柱への負担増加を補うために設置する。
柱への負担は壁の強さに比例するから筋交いがある柱に金物をつけましょうってのが基本的に間違っていないんだけど、本当に
金物がないのかというとちょっと疑問だったりする。建物の隅ではない柱につけるのならカメラから死角になるプレート金物
https://www.monotaro.com/g/00360487/ この辺当たりがついている可能性が高い。果たしてきちんと目視しているのだろうか。
それで代わりについた金物が https://www.monotaro.com/g/00212952/ 性能はだいたい同じくらい、10キロニュートン用の
適切なコーナー金物と思われるので、検査した人はきっと一級建築士の方か日本建築防災協会の耐震診断の講習を受けた方なのかな。
問題は下の耐力壁の下り。そもそも耐力壁を4スパンも設置したら、その家の反対の方角も同等の耐力壁を設置しないとダメだ。
しかも、都心の戸建てとのことでさらにローコスト住宅の作りであることを加味するとそこまで広いわけでもない。そうなると4枚も耐力壁
設置したら建物バランスが一気に崩れてしまう。反対側に窓が必要な居室があれば採光不足に陥るレベル。
こうなるとこの壁、仕上げのためのレベル調整用につけられた合板で耐力壁としての本体はその下なんじゃないかと思う。耐力壁として
性能を持たせたら今度は建物バランス悪化により、建物がねじれ変形を起こしてしまう。
耐力壁設置マニュアルも大事なんだけど、全体的な設計の意図を考えてから指導しないと大変なことになる。たぶんわかりやすい例として
写真を載せたのかなと思う。
例えば2016年に発生した熊本地震では、最新の耐震基準で建てられた7棟が倒壊するという衝撃的なニュースが報じられた。実はこのうち3棟は「接合部仕様が不十分」であり、最新の建築基準法にのっとっていなかった可能性があることが明らかとなっている。
接合部仕様じゃない、耐力壁仕様だよ。 引き戸の引き係部に筋交いを入れるエクストリーム設計をやっていたからだよ。職人のせいというより設計者のせい。
耐力壁に対する理解が少なかったせい。困ったことに決して珍しくない。東日本大震災あたりで一気に理解が広まったんだから。
ナーロッパに生まれた女性主人公はヨーロッパ系にはない合掌建築の技術を利用して神殿の回復について助言する。
すると異民族の奴隷身分でしかない扱いを受けていた彼女は神官として抜擢され、日本古来からの大工の技術と一級建築士の腕を発揮して図面の知識やノミなどの工具の伝授を行うようになる。
王に気に入られた彼女は戦争の際の城を一日で完成させ、一日城の〇〇、という呼称で呼ばれるようになった。戦線には多大な犠牲者が出て、戦争を疑問視した彼女は医療機関の設立などに尽力。しかしその頃街では「人が消える場所」、が有名になり始める。
やがて彼女は伝説の建築神官〇〇と比肩されて呼ばれるようになるが、実はその伝説の神官は彼女が二度目の転生を果たした姿だった。そのことを知らない彼女は消える場所へと近づく。
これでも手垢満載だと思うぞ。
別に教えてもいいけど、この中から有用なチャンネルを掘り出すのは結構シンドいと思うよ
はてな的には、徳丸浩のウェブセキュリティ講座 を実は知らない人も多いかも
あと どうぶつ奇想天外 と さまーず は自力で検索してて発見したので、このあたりも知らない人多いと思う
リストver2
年月日 名称 | 場所 | 被害者数 | 使用道具 | 犯人 | 犯行時年齢 | 生まれ年 | 人物 | 供述 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999.9.18 池袋通り魔殺人事件 | 池袋路上 | 死亡2+重軽傷6 | 包丁と金槌 | 造田博 | 23 | 1975 | 親が借金で失踪、大学進学断念 | 「真面目な人がさらにさらに苦しむ一方で、遊んで楽をしていられる身分の人たちがいることに嫌気がさした」 |
1999.9.29 下関通り魔事件 | 下関駅構内 | 死亡5+重軽傷10 | レンタカーと包丁 | 上部康明 | 35 | 1964 | 九州大学工学部卒一級建築士・離婚 | 「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」 |
2001.6.08 附属池田小事件 | 私立池田小学校内 | 死亡8+重軽傷15 | 包丁 | 宅間守 | 37 | 1963 | 182cm離婚4回モテ男・兄は事件前に自殺 | 「なんや、家が貧しい者は、ええ学校入られへんのか」 |
2007.12.14 ルネサンス佐世保スポーツクラブ散弾銃乱射事件 | クラブ内 | 死亡2+負傷6 | 散弾銃 | 馬込政義 | 37 | 1970 | 高身長フツメン・週刊新潮によると母→父の逆DV家庭 | 犯行後自殺 |
2008.3.19 土浦連続殺傷事件 | 茨城県土浦市民家・路上 | 死亡2+重傷7 | 包丁とサバイバルナイフ | 金川真大 | 24 | 1983 | 父は官僚・帰国子女 | 「死刑になるために殺した」「ライオンがシマウマを食べるとき、シマウマに悪いと感じるのでしょうか」 |
2008.6.08 秋葉原通り魔事件 | 秋葉原路上 | 死亡7+重軽傷10 | トラックとナイフ | 加藤智大 | 25 | 1983 | 派遣社員 | 「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」「本気で自分を『負け組』だと考える人のことは全く理解できません。また、自分の努力不足を棚に上げて『勝ち組』を逆恨みするその腐った根性は不快です。」 |
2016.6.21 イオンモール釧路昭和通り魔事件 | 北海道釧路モール内 | 死亡1+重軽傷3 | 包丁 | 松橋伸幸 | 33 | 1983 | 介護施設調理師・新聞配達員 | 「人生を終わりにしたかった。死刑になってもいい。殺人が一番、死刑になるかと思った」 |
2016.7.26 相模原障害者施設殺傷事件 | やまゆり園 | 死亡19+重軽傷26 | 包丁 | 植松聖 | 26 | 1990 | 介護士 | 「障害者は可愛い。自分を必要としてくれる。天職だ」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」「特に短期入所者の家族は、暗い表情でそそくさと逃げるように帰っていきます。重たい表情で疲れ切っていました。」「職員は死んだ目をしていた」 |
2018.6.9 東海道新幹線車内殺傷事件 | 新幹線 | 死亡1+重傷2 | 鉈 | 小島一朗 | 22 | 1996 | ホームレス | 『さらに私は言った。「私には生存権がある」「(警官)この場合はあたらない」』 |
2019.5.28 川崎市登戸通り魔事件 | 私立カリタス小学校スクールバス停 | 死亡2+重軽傷18 | 包丁 | 岩崎隆一 | 51 | 1967 | ひきこもり | 犯行後自殺 |
渡邊博史(犯行当時36歳・1976生・元派遣社員)の手記より
《自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。
しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
マンション購入時の財テクの記事が目に入ったので、もうちょっと郊外に住む前提で、某ハウスメーカーで家を建てたときに何を考えて、どんな手順を踏んだかをここにメモしておきたい。ただし門外漢なので、間違っていることもあるかもしれない。でもま、親戚にいる現職の大工に大筋いい見立てと言ってもらえたのでそんなに間違ってもいないと考えている。
じっくり検討・契約する前提で、さくさく進めたい人には向いていないやり方かもしれない。子供が小学校にあがる春までには入居したいと考えていたが、その2年以上前から動いていた。現在は居住してもうすぐX年目。
近所のハウスメーカーに行ったり、不動産屋的なところをのぞいたりしてみたが、結果的に総合住宅展示場をぶらぶらしてあっちを見て、とするのがよかった。まだふんわりしている段階なので、ハウスメーカーとしての特徴とか比較するポイントとか教えて欲しい、という話をしているのに、不動産屋を紹介しだして速攻で決めさせようとする営業がいるところは速攻でお断りした。妙な営業に出会ってしまったことで、こちらの要望にそうように、丁寧に接客してくれる担当者がつく、を前提に、住宅展示場内のハウスメーカーを候補にしようと妻と相談。だいたい初回はモデルハウスの設備案内して、希望する家の大きさ、間取りなんかから、イメージが膨らむような話をしてくれるケースが多いと感じた。そのあたりの対応を見ながら、以下整理した方針
−− フロントで細々した要望を聞いてくれるのは営業担当で、コミュニケーションが多層化するように感じた。機能性より、オシャレな家を目指したい人はいいのかもしれないが、住宅設計にも流行廃りがあり、そのサイクルより居住期間の方が長くなりそうなので、機能性を重視するために決めた方針。
− 要望に対して、適切な指摘があるかどうか
−− たとえば吹き抜けの場合、冷暖房の効率は落ちる。開放感と引き換えに犠牲も増えるわけで、そういうデメリットを提示できる担当者かどうか。これは担当者の知見と資質の両方が必要だと思うので、この視点で見ていったとき、若手担当がついたハウスメーカーは選択肢から消えていった。営業と話した翌週に「すいません社内レビューでこういった問題の可能性が……」と提示してきた会社には感心した。
− スケールメリットを一定出せる程度の建築実績があるのかどうか
−− 話を聞いていくと、だいたいどのハウスメーカーもプレカットで、工場で加工した木材をくみ上げる形式だった。そうすると建具も必然規格品を入れることになる(そしてLIXILのすごさを知った、なんでも作ってるのねあそこ)。その場合、一定の実績がある方が品質・価格の面で安定するだろうと考え、年間建築件数の多寡を参考にいれることにした。
−− 最後に現場で仕事するのは大工になるので該当地域に腕のいい職人がいるのか、腕のいい職人がいるのかを確認したかった。ただこれは完全に運もあると思う。担当者に前述の質問をぶつけて、職人の腕について曖昧な回答しかできないところを除外した。
− 安定性
−− 逃げられるとかはあまり無いかと思いながらも念のため、と思い最終候補に残ったところは上司に相談してFORCASを使わせてもらって調査した。上場してるところは一応直近一棟あたりの営業利益などもざっくり確認。決算タイミングに契約すればおまけあるかもということも考えて決算月もメモ。
結果として自分でも納得感のある家ができたので、とてもよかった。問題に感じるのはコンセントもうちょっと増やしてもよかったかな、と思うぐらい。これはまぁそのうちやろうと思う。
上記をそれなりに満たそうとすると必然的に大手の1,2社になると思う。あとは好き嫌いで基準変えればいいのと、担当者ガチャはそこそこあるな、と思う。
私の父は世界一不器用でだめで、それでも脆いほどに優しい人だと私は知っている。
眼力が強く、冗談も言わない、笑わない、話しかけても会話は返ってこない、それから1度怒ると暴れ出し、弟と私をよく殴った。社会で上手く馴染めず仕事から帰る度に私たちに八つ当たりはザラで
自身の父ながら、父の家族や兄弟に友人、父の昔話や人となりの話も聞かされたことはなく、親父の趣味や好みも年齢もどこ出身であるかも小学六年生になるまで知らない、そんな未知な父親であったように思う。
仕事で家に帰ってくる事が少なく、また学校行事には来た事がない。親子の関係は冷え切っていた。
だが小学六年生のある日、とうとう母親に父親ってどんな人って思い切って聞いてみた。
父親=触れてはいけないもの、と思っていた私としてはかなり思い切った問い掛けである。
「おまえの父さんはな、親に捨てられて学校にも行かせてもらえず、橋の下で生活してた野生児やった」
と今ではありえない、漫画のような事を聞かされた。
最終学歴は中卒だが、厳密に言うと小卒レベルの学力で大人になってしまった子供だった、と母親は物思いに耽りながら答えてくれた。
借金を苦にした実の母親に捨てられ、近所の人に助けてもらうまで
アパートの一室で1人、それから大量のウサギ、犬、ネコ、ニワトリ、虫また、動物の腐乱死体(なぜ動物に囲まれていたかについては謎らしい)と共に糞尿にまみれ、
非常に飢えた状態で救出された後、施設から逃走し橋の下で半ば野生児のように生きたと父親談。
だがその後また施設に保護され、やがて青年になり父親は作業員として働いていた中今の母親と出会う。
母親は当時の親父とデートしてびっくりしたことが、まず服のセンスが壊滅的だったこと、また箸の持ち方やテーブルマナーが人並み以下だったこと、自分の名前すら書けず足し算レベルの計算もできず、学が無いため給料もちょろまかされている、感情の起伏が激しく癇癪をすぐ起こし警察沙汰になる といった親父の境遇と環境に、こいつを人間らしくしなければいけない と母親は強く感じたらしい。
いままで学と無縁だった親父の躾に苦労しながら、なんとか識字や計算、一般常識を覚えさせる事ができた所で、私が生まれたとの事。
私が産まれた時、滅多に泣かない(感情が乏しい)親父が泣いて私を抱き上げたのだ、と母親に聞かされた時、あの親父があの親父が泣いて喜んだのか、とかなりショックを受けた事を思い出す。
懸命に親父が母親のスパルタ指導で様々な事を覚える中、どうしても親父が理解できなかったものがある。
いままで誰にも愛されたことも無く、実の親に育てられず、人を愛せたことも無い人間であったため、私が生まれて嬉しいことは嬉しいがどう愛していいかが分からないままであったとのこと。
小さい赤子を触れることさえも怖くなり、ある日とうとう赤子の私を床に落としてしまった事から、私が小学生になるまで私に触れることも話すことも、関わることもできなくなったのではないか と母親が打ち明けてくれた事で、いままでの親父の素っ気なさと距離に対する違和感が繋がったような気がした。
親父の社会に馴染めなさ、おぼつかない字の書き方、下手な話し方、魚を食べるのが下手なところ、情緒不安定なところ、すぐ殴るところ 全てが親父の生い立ちに起因するもので、それらは未だに勉強中であるものだと分かった瞬間、親父にもっと関わろうと思えたのだ。
ある日親父に授業参観きてよ、って言うと親父の元々大きい眼が更に開き、びっくりしたように「行ってもええんか」と呟いた。
授業参観の日、仕事抜け出して泥だらけの作業着で見に来てくれた時は泣きそうになった。おやじも照れてて泣きそうになってた。
元々絵が得意な私に、普段の拙い落書きでも絵で賞を取っても「お父さん才能ないからなぁ、おまえ凄いな」と手放しで褒めてくれたこと。
繰り返していた自殺未遂と、シンナー吸引をやめて前向きになってくれたこと
「おまえ、これ好きやろ」と、好きな漫画のキャラが使う武器を木材で本物同様に作ってくれたこと。(親父は不器用だが、手先や工作に関しては神がかり)
「寒いやろ」と手袋を無けなしの小遣いで買ってくれたが、もう中学生なのにどれみちゃんの小さくダサい手袋を買ってきたこと、
夏休みの工作を手伝ってくれるが、完成度が高すぎて親父が作ったという事がバレバレなこと、
私が生まれてからも勉学でかなりつまづいていたが、とうとう一級建築士の資格を取得できるまでに努力してきたこと、
子供の私達にはしつけを厳しくしてくれたこと、またどんな人にも優しくするようにおしえてくれたこと、
冗談が言えるようになり、人付き合いも上手く行き部下に慕われるようになったこと、
箸の使い方も魚の食べ方も綺麗になったこと、穏やかになったこと
私が大学に行き、一人暮らしすることになった時、涙を堪えようとするけど鼻水垂らしながら号泣して見送ってくれたこと、
バイクの修理まで手伝ってくれること、
あの頃歩み寄って親父の事を聞いてよかったなって思います。
あの頃逃げてばっかだったおやじも、私と向き合ってくれたからここまで分かり合えたのかなっておもう。
たまにバカで雑でアホだけど、努力してきた親父は不器用だけど世界一優しいと私は知っている。
例外は何人も知ってる
(というか、例外の人たちはちゃんと勉強すればそれなりの大学入れたが、何らかの理由で勉強しなかったタイプだと思う)
なんだけど、ここらへん都合が悪いのか割と語られない
いや多分なろうと思えば今の時代なれちゃうんだけどひたすら苦しいと思う
そういう苦しんでる人と会うとこちらも苦しい、一緒に苦しい
例えば、医者になるならこのくらい、一級建築士になるならこのくらい、みたいなのって一般人でも何となくの最低ラインが見えると思うんだけど
PGはまあよくわかんないと思う
駅弁大学で若干きつい、地方旧帝大でちょうどいい、東工なら余裕、東大京大はPGにはもったいない ※個人の印象です
(アメリカはPGの地位が高すぎて東大京大クラスの人がPGやってるケース多いみたいだけど、完全にバブルだな。ちょっと前のメーカーみたいな感じ?)
4歳上の兄が先日一級建築士の製図試験(2次試験)を受けてきた。まぁまぁの手応えだったようだ。
兄は中学生くらいの頃から建物を見たりデザインしたり、そういうのが好きで高校の進路選択も迷わず理系、建築系の大学を志望した。
ある意味、長年の夢の成否が、箱根駅伝で言えば、丁度、往路のゴールテープを切ろうとしているところなんだと思う。
兄は、頭が物凄く良かったわけではないが、クラスの人気者、運動神経もよく、部活も高3の夏引退まで続け、
その後猛勉強、中堅高校から現役でMARCHの建築学科に進学、まるで予備校のパンフレットに載ってそうなサクセスストーリーだった。
兄は、第一志望の国立大には残念ながら落ちてしまった。そこは物凄く悔しそうだったし、当時中学生の自分から見ても可哀想だなぁと思っていた。
兄は、大学で未経験ながらある体育会に入って、主将まで務めていた。理系で製図が大変そうなのに、寝る間を惜しんでバイトしたり、練習したり、辛そうだけど生き生きしていたとおもう。
もちろん、それの裏には血の滲むような努力をしていただろうことも十分わかる。
憧れの教授がいるとかなんだかの理由で英語ができないのに、授業が英語ばかりの研究室?院?に入学した。
学部時代の成績が優秀で、院の授業料は免除になっていた。お前、体育会の主将で、、何か才能を分けてくれよ。
それで、就職2年目、就職してから毎週末は建築士の勉強をした結果、今にも夢を叶えようとしている。
一方、弟である私は、兄よりは頭のいい高校に進学、そこそこの成績を保っていた。ただ、部活は途中で辞めてしまったし、クラスではどちらかというとインキャ軍団で少し輝いている程度だった。
多分、自分と同じくらいの成績の、高3夏まで部活もやってて、クラスの人気者タイプが自分の入学した国立大に受かって、自分が落ちてしまうビジョンが死ぬほど怖かった。
その国立大で叶えたい夢とか進路とかそういうのはまったくなかった。
ただただ、その、落ちて負けたくない、周囲に後ろ指を刺される感じが嫌だというインセンティブで勉強していたと思う。
そもそも、文理選択のときすら、なんとなく〆切前日になって理系から文系にチェンジしたし、これが得意とか、あれが苦手とか、そういうものもなかった。
大学ではそこそこの体育会に入って引退し、まぁまぁの企業に内定を貰い、可もなく不可もなくな人生を歩むのだろうと最近何となく思う。きっと。
特に、親友らしい親友はこれまでできたこともないので、そのまま会社に入っても適当な立ち回りで、下の上くらいのポストについて、そのまま死ぬんだと思う。
全てが中途半端。
兄より勝っている所、それはペーパーテストの点数と学歴くらいだったが、社会に出ればそんなのはもうほぼほぼ関係ないだろう。
夢に向かってバイタリティあふれる人間と、夢のないただ漫然と生きている人間の差をいよいよ痛感させられる時が間もなく来るのだろう。
お菓子なんて興味もないし、そもそもそれほど好きでもないし、大学に進学するのが当たり前のそこそこの高校だったから、そんな選択肢はすぐ捨象してしまった。
小学生、中学生と振り返っても「将来の夢」というような作文が大嫌いで、書くことが最後まで思いつかなかった。
「俺はパイロットになりたいんだ」「私は犬が好きだからペットの関連のお仕事がいい」「水族館で働いてみたいなぁ」
なんでこんなことを周囲が平気で口に出すのかわからなかった。
夢を語るのが恥ずかしいと思っていた節もある。
夢なんて殆どのやつは叶わないんだろう、って冷めた目で見ていた節もある。
でも、22歳になって、夢があるってかっこよかったんだなって思う。というか、羨ましい。
夢のない小学生なんて、可愛くもないし、絶望している虚しい存在、俺が親なら心配するはず。
兄はいよいよ往路のゴールテープ目前。復路は建築士としての更なる飛躍の人生だろう。
大抵の大工は二級で事足りるので一級を取得しようと思わないということをいいたかったのか、
大工は一切図面なんてひかんでよいし作図ができるはずもないと思っているのか、どっちなんだろう。
ちなみに一級と二級の違いは扱える建造物の規模の大小で、並の大きさの住居や延べ面積500㎡の公共施設なら二級で設計できる。
なので某リフォーム番組に出てくる一級建築士に違和感を感じるのはある意味しかたない。
本来は豪邸や集合住宅、ビル、図書館、美術館なんかを手がけるはずの人に狭小住宅を作らせているのだから。
もっといえば内装や調度品はインテリアデザイナーと大工に任せたほうがいい。
また構造設計を担当する構造設計一級建築士、設備設計を担当する設備設計一級建築士という免許もある。これらは一級建築士資格がなければ取得できない。