はてなキーワード: 一時帰宅とは
はたちなので成人式に出席した.
・よかったこと
・着物でドレスアップしてる女の子を見るのが大好きなので,たくさん振袖の女の子を見れて最高だった
・振袖を着て会場まで移動してたらすれ違うおばさまに「きれいね」とか「おめでとう」とか声をかけてもらえた.自尊心が塵レベルなのでうれしい.
・一か月くらいダイエットとか自分磨き頑張ってきたから,再会した中学の同級生に「かわいい」って言ってもらえて報われた.
・悪かったこと(?)
・親などの付き添いなしでヘアメイク→着付け→移動をこなしたので,着てきた洋服などの荷物が邪魔で仕方なかった.駅のコインロッカーに入れることにはしていたが,想像以上に荷物が重くてずっと「さらっと荷物運んでくれるイケメンいねぇかな」とか考えてた.
・人身事故で帰りの電車のダイヤが乱れてて,成人式後の同窓会の前に一時帰宅しようと思ってたのにできなかった.まぁこれはどうしようもないこと.
「はれのひ」の直接の被害にあった子が周りにいなくて安心したけど,着付けをしてくれた業者さんは問い合わせとか取材の電話がかかってきてて大変そうだった.
10:00
この日段階で予定日を10日過ぎていた。これ以上は延ばせないということでクリニックに入院開始。診察中に破水し先生方慌てるものの嫁は平常心。
診察の途中から私も参加、促進剤についての同意書にサイン、入院部屋に行く。
3人部屋だがカーテンで仕切られており、なにより今は私ら夫婦しかいない。
窮屈さはないし清潔感あって居心地悪くない。
入って早々地元訛りの助産師さんから説明、促進剤の点滴開始。まずは20mlから。
11:00
自体は当面は動きそうにないので、ここで一人散歩に出かける。薬局でマスク買ってファミレスでカツ煮定食を食す。アラサー、カツ煮定食のコスパに感動。
途中で胎児の心拍低下による促進剤停止という事態があり飛んで戻る。
12:00
嫁ランチ。野菜カレーとカレイの揚げ浸し、スープ、サラダ、パイナッポー。目を閉じ多幸感に包まれながら食事を楽しむ嫁。
あまりに美味し過ぎたためか完食した嫁、お腹いっぱいになりすぎその後やや後悔したようだ。
13:00
Toco値(なんの値かよくわからなかったが出産までの進行度合いと解釈した)を注視してみたが高い値になっても「生理痛よりはマシ」とのこと。
やはり痛覚は個人差あるのかな。
入院開始時は前駆陣痛が5〜7分間隔だったものがこの時点で3分間隔に。まだまだ笑顔。この時点で促進剤60ml。
14:00
2度目の外出。動けない嫁に雑誌を買おうと近くのコンビニを探す。
地元で有名な産科が近いからか出産関係雑誌が1角を占める。澤穂希表紙が目立つ。
めぼしい雑誌はなくクリニックに戻ると駐車場から車が消えていた。どうやらこの日は通院する人が少ないようだ。
15:00
16:00
18:00
嫁と食べ物縛りしりとりをしたりアキネイターごっこをしたりして穏やかに過ごす。
20:00
面会時間が終わったためお義母さんに送ってもらい一時帰宅。明日再度促進剤投与をする方針になった。
21:32
嫁から電話。胎児への負担を考慮して急遽緊急帝王切開を取ることになったと嫁。
一時的に心拍がかなり下がったこともあり無理はできないという医師の判断だった。
急行。
「ハンカチある?ないなら貸すね。何用かって?出産後に感動した時用よ」とお義母さん。ハンカチを受け取る。
22:00
オペの説明を受けて嫁は早速手術場へ。
元々立会い出産を希望しビデオカメラを持参していたが、使うこともなさそうだ。
廊下でオロオロしながら歩き回る昔ドラマでよく見た典型的なパパっぽい感じになる。
22:17
手術開始。手術室前のロビーにてお義母さんと二人。時間が永遠に感じる。
しかし胎児への負荷が大きかったようで、胎児に呼吸器をつけてなんとか酸素補給をしている状態とのこと。
23:50
手術後の胎児に対面する。
顔が青ざめており、ひゃっくりのような小さな呼吸をかろうじてしている状態。
我が子への最初の声掛けは「頑張れ」だった。
産後の嫁に付き添う。労いの言葉も胎児の容態が気になりトーンダウン。もうここは祈るしかない。
しばらくして先生から緊急搬送を取ることにしたと説明。救急車で隣町の大型病院へ。
25:30
お義母さんの運転が優秀だったのか、救急車より早く着きすぎる。書類を記載して提出。
緊急病院の待合室は独特のピリピリ感があって苦手だ。
この日はなぜかオカマさん(顔以外は限りなく女性に近い)がいて視線を奪われる。
26:23
26:33
カンファレンスルームへ。ここからどれくらい待っただろう……時間が永遠のように感じられた。
部屋には山ほどの赤ちゃん関係の本が。その中には「赤ちゃんの死を乗り越える」というタイトルのものもあり思考のネガティヴループが加速する。
気づいたら私もお義母さんも文字通り祈るポーズをとる。ただただ生きていてくれ。ネガティヴモードを振り切ろうと廊下を散歩する。
27:30
病院の看護師さんに呼ばれて私一人でNICUへ。熱を計り徹底的に手を洗い清潔な状態で入室。
胎児は全身を管に繋がれながらもさっきより顔色のいい状態でスヤスヤ寝ていた。なんと可愛い寝顔だろう。
全体的にむっちりしていて丸顔で。天使ってほんとうにいるのだなと確信した。
「触ってあげてください」と看護師さんに促され頭を撫でる。剛毛で真っ黒でややパーマ。これはお母さん似かな。
よく頑張ったねと声が自然と口から漏れた。看護師さんも笑顔だ。
息子は「胎便吸引症候群」により体に強く負荷がかかり、更に肺炎を併発させて窒息ぎりぎり手前状態だったという。
クリニックの先生の緊急搬送判断(別のお母さんがその時間に手術予定だったが、我が家を繰り上げで対応して下さったよう。感謝しかない)、
大型病院のベッド空き状況/立地……などなど様々な幸運が重なったことによって生きることができた息子。
まだ頑張るところだがまずは人生のスタートラインに立てたぞ。本当によかった。
27:50
NICU責任者の先生から契約書類の説明を受けサイン。息子の名前を初めて書面に記す。出生届よりも先に書くことになるとは。
「**(名前、産前にもう決めていた)っていい名前ですね!私の親友が同じ名前なのですよ。いいやつでね……」と先生。この人は信頼できるとなんとなく感じた。
具体的な検査結果は翌AM11時に説明させてくださいと先生。先生も寝る時間がほとんどないじゃないですか……おつかれさまです。
看護師さんから書類を受け取ったのち「忘れてた!」と息子の写真を渡してくれた。
「処置中は目を開けてて「ここはどこなんだろー」って周りをキョロキョロしていたんですけどねー」と目をつむった胎児写真を説明する看護師さん。
ここにいる人はみんな味方だ。
28:30
安心感からか涙が滴り落ちる。自身がめちゃくちゃ強張っていたことにやっと気づく。
iPhoneを起動、嫁と使っていた妊娠/出産情報管理アプリを開くと表紙が親子3人になっていてまた涙。
「ハンカチ、ここで使うべきなんですかね」と涙を拭いた。
その後息子2ヶ月弱の入院を経て帰宅、順調に成長し、障害もなく元気に育ってる。
https://anond.hatelabo.jp/20171110125209
何よりも まず、ありがとうございます。
当時、担当して頂いた医師から説明を受けた情報ですので、現在では不正確かも知れませし、骨髄移植が必要な他の病気の方とも事情は異なるかと思います。御了承下さい。
・私の場合、発症後比較的速やかに地域中核病院での治療を受けられたのですが、
「骨髄移植を受けた場合。失敗して死ぬ可能性が1/3、病気は治せるが副作用が重く日常生活に戻れない可能性が1/3、最も幸運で日常生活に戻れるが 生活の質は大幅に損なわれる場合が1/3。」
「このまま、抗がん剤治療の継続だけでも寛解≒快方する可能性も10%有り。悩ましいのが、この10%に入れた場合の予後≒快方後の生活の質が最も良い。」
「90%は抗がん剤治療だけでは助からない。また、90%側である事が分かった後では骨髄移植は間に合わない。抗がん剤で倒し切れなかったガン細胞が再増殖するため、抗がん剤治療の結果は待てない。骨髄移植の決断は近いうちに決める必要がある。ドナーさん側の事情もある。」
また当然、この時点ではドナー適合者、提供者の方が見つかるかどうかさえ分かりません。
正直に申し上げますと、私は この後の事はドタバタと目の前の状況に対処する事に必死であまり覚えておりません。
一例を挙げますと、
抗がん剤治療には周期があり、1クール終わると一時帰宅が許されるのですが、その間も免疫は止まっています。
食事は加熱後3時間以内の物でなければなりません。生モノ、冷蔵冷凍保存は不可です。
で、
幸運な事に複数の適合者と、更に最も遺伝子の型が近い≒副作用が少ない事が期待出来る方が提供者になって頂ける事になりました。
言葉では言い表せない程 有り難いことですし、極めて運が良い事です。 (骨髄移植が必要な病にかかる事は同等程度に運が悪い事ですが。)
・ザックリ言うと《骨髄移植》という治療法は、患者側からすれば分かり易く 「毒を持って毒を制す」治療法でして、
それまでの「悪性細胞を倒すために正常細胞の犠牲と副作用を我慢する」ではなく。
【ドナーさんの骨髄細胞と競合してはいけないので、患者本人の骨髄細胞は悪性も正常も関係無く致死量の抗がん剤を無理矢理投与する。】
→【生きるか死ぬかの ぐるぐるポン】
説明を受けた時は
「なるほど。ゲームのバグ技に有りがちな事を、現実に。現代医療で。実行するのね。」
また同時に、その際に ハッキリとした不安と恐怖も実感しました……。
担当して頂いた医師からも、「このような例は見た事がない」と言われております。
また……、ドナーさんの ご厚意を考えれば、差し出がましい限りではありますが……。
我々、レシピエント側は ある程度 ドナーさんが受けられる処置を認識しております……。
深く感謝しておりますが、手紙を出す事が ためらわれる事も上記の通りです……。
手紙を渡たす場合は、利益供与を避けるため個人を特定出来る事は書かないように指導されましたし、
内容は確認された上で渡されたかと思います。 私のケースでは返信は2回まででした。
誠実に書いた事は間違いありません。
が、正確には書いておりません。ご容赦下さい。
「正確な情報は皆さんでググって下さい。」と、言いたいトコロなんですけど、そうも言えない ご時世ですね……。
……。
えぇと……。万が一(私の場合は十万が一)、罹患した場合は分かり易いパンフレットと、詳しいパンフレット
両方、頂けます……。
私は40代の主婦。子供が三人いて長男は就職、あとの二人は高校生。共働きだけど、それでもたりないから私はバイトを二つ掛け持ち。へとへとの毎日。一方で隣に住む同い年ぐらいの女は無職で毎日楽しそう。娘も無職みたい。生活費をどうしてるかは謎だけど・・・。一つ目のバイトが終わって一時帰宅する際、無職の母娘がお出かけ。サングラスなんかして服も高そう。「なんなのこいつら」赤の他人なのに腹が立ってしまう。主人に話すと「もっと上をみろよ。無職に憧れてどうする」と一喝。もしかしたら嫉妬してるのかも。無職でもお金はある、世間体なんか眼中になく母娘遊んで生きてる姿に汗水働く自分がみじめに思えてしまう・・・。
バイト先の先輩は「私はお金があっても働く。張り合いが欲しいし」と。確かに働いていれば人間関係も広がるし、社会的立場も出来る。無職の母娘達にはないものを私は持っている。近所の目を気にしてコソコソ出かけなくてもいい。それに長い目で見たら隣の女たちも今の暮らしを維持できないだろう・・・。
小さな子供である自分は、入院している病院から一時帰宅することになった。暗くなった頃に病院を出て両親と歩道を歩く。嬉しくて仕方がない。途中ケーキ屋にも寄る。
街路樹が並ぶ道は、右側に大きな病院、左側はよくわからないけど普通に建物が立っている。少し先には路面電車が走る通りがあり、そこにケーキ屋もある。路面電車には乗らない。ケーキ屋をすぎてさらに少し歩くと地下鉄の駅があるので、そこから地下鉄に乗って家へ帰る。
こんな嘘の記憶が昔からある。実際には入院したことなんてないし、この記憶の中の両親は実際の両親とは違う人だ。たぶん子供の頃、映画かドラマに感情移入し、その中の子供の立場で嘘記憶として頭にこびりついているのだろう。
それでもなぜかこの記憶は大切に思え、2chのスレでそういう話の流れになっていたとき、上記のことを大雑把に書き込んだこともあった。(ググってみたけど、どういう言葉で書き込んだかわからず見つけられない)
しかしある日ストリートビューで、これってあの記憶の中の場所じゃないか?というぐらい似ている場所を見つけた。その都市自体は好きで何度も行ったことがあるが、その場所は観光客が行くような場所ではなく、もちろん近寄ったことがない。
大きな病院を出て、病院を右に見ながら移動すると、ケーキ屋ではないけどお菓子屋のある角で路面電車と合流する。それを少し過ぎて左に曲がると今度は地下鉄の駅。あの記憶ととても似ていて心がざわつく。
でも同じ地下鉄路線の別の駅のほうがはっきりと病院から近いので、普通お菓子屋に寄るにしても遠いほうの駅までは歩かないだろうなと思う。また、ストリートビューで見るそのお菓子屋は、外観の雰囲気こそ記憶のイメージに近いが、ケーキ屋ではないようだ。
それでもなぜか少し泣けた。細かいことはどうでも良く思えた。
そして今日、その街に住んでいる人からたまたま、ストリートビューで見たお菓子屋の話を聞いた。あちらではそこそこ有名なチェーン店なので、そのチェーン店全体の話であって、該当店舗の話ではない。
そのお菓子屋は今でこそ和菓子中心だが、昔は必ずケーキを大々的に扱っており、そこのケーキが懐かしいという思い出の話だった。
まーだ繋がるのかという感じだ。
馬鹿馬鹿しいかも知れないが、一度そこへ行って歩いてみようかと思ってる。客観的に考えると、嘘記憶の元になった映画かドラマのロケ地かも知れないが、そうだったとしても歩いてみる価値はあるだろう。
最初に言っておこう。
失ったものに対しての取り返しのつかなさを感じるのは、そこから多くの物を得ていたからだ。
愛し合った分、憎み合うように。
すべての物は、そうやって釣り合いを取っている。
父を亡くしたのは、14歳の時だ。
2度目の癌で、1度目は胃で、2度目は喉だった。
告知の是非がまだ争われていた時代、彼は知ることを望み、
一時帰宅のときに、家族の食卓で自分は癌だと、必ず治して帰ってくると、そう告げた。
(なんとも日本人とは律儀な性格だ。正月は自宅で迎えたいらしい。犯罪者でも、末期の患者でも。)
すぐに目に見えて容態は悪くなった。
皮膚は乾き、黄色くなり、骨と皮だけになっていく自分の肉親を見る機会は何度もあるものではない。
だけど、そんなことは何も珍しいことではない。
どんなにひどい事も、どんなに素晴らしい事も、この世の中では起こりうるのだ。
何よりも、見た目以上に思い知らされたのは、人が内側から段々と腐っていくその匂いだ。
甘くすえた、その匂いを今でも覚えている。
今でも、何年かに一度ぐらい、町中でその匂いをさせている人にすれ違うと懐かしく思う。
もうすぐ死にゆく人の、その匂い。
そのためには、どんな事象も誤魔化せるのだ。
たとえば、肺に穴をあけて血と膿の混ざった水を吸いだしたり、真っ黒な血を吐いたり、
意識がなくなった父に看護婦が話しかけながら直腸に手を入れて汚物を掻きだしたり、
そんなことを目の当たりにしても、家族は信じるのだ。
「これで悪いものが全部出たから、あとは良くなるだけだ。」と。
廊下に面する個室のドアが閉じられたら、それは隣か、その隣の患者が死んで運ばれるサインだ。
癌病棟の個室は、治療のためのそれというよりも、順番を待つための場所に近い。
不思議なもので、どんなことにでも人間は慣れ、希望を持つことができるのだと思う。
癌病棟でもまた然りだ。
それでも意識を取り戻さない父親の横で、ポパイの「ぼくたちのセックス」特集に夢中になった。
どんなことも、釣り合いが取れているのだと思う。
こんなにも悲しいのは、きっと、こんなにも愛されていたからなのだと。
静かに、いつの間にか彼は死んでいた。
母親と弟が仮眠を取っている間に。
わたしが、介護用のベットで7月の雲の流れているのを見ていた間に。
最期には、痰も腹水も出なくなり、人間は乾いて死ぬものなのだと知った。
何のために、あの8か月は必要だったのか。
何でもないと、今ならば思う。
すべては、私たち自身を慰める、その鎮魂の前払いのようなものだったと。
少しずつ、少しずつ、わたしたちは覚悟を重ねてきたのだ。
見たくないものを認めるために。
後悔をしないために。
誰のせいにも、しないために。
すべての物から得ることはある。
そうだ。わたしは怖くない。死は既に、自分の中にある。
だから、弟が事故で死んだ時も、私は比較的冷静さを保つことができた。
私はもう、14歳ではなく29歳になっていた。
馬鹿みたいなその死因を聞いた時も、少しだけ安堵した。
事故で良かったと。
それなら誰も憎まないですむ。
大きく腹部を膨らませて、全身の穴から血の混じった体液を流す弟の体を拭き、
検死後にドライアイスを置いていかない警察の不親切を苦々しく思った。
仕方のないことだ。警察は葬儀屋ではないし、五月に死体は長持ちしない。
(いつか覚えておくと役に立つかもしれない。)
2度目の―今度はあまりに突然な―身内の死に途方に暮れながらも、
誰も憎まないでいいことに、少しだけ安堵した。
誰かのせいにすること、
誰かに責任を見つけること、
憎しみを将来に繰り延べることは、
死をポケットに入れて。
棺に入れた弟の好きだった詩集は、灰となってなお文庫の形を保ち、火箸で突くと粉となって崩れた。
20代の、5月の生の盛りに(flower of life)、弟は死んだ。
途方に暮れる母を支え、喪服美人妻を気取り、
火葬場で弟の骨を見た時は、とても申し訳なくて笑うしかなかった。
どこも損なわれていない、こんなに立派で太い骨なのに。
どうしようもないことは、どうしようもないことだと思う自分は、どこかおかしいのだろうか。
私は、釣り合いをとるために、手放すことを選んだのだ。
今でも、ふと思う。
自分の中の死を。
自分の周りの死者を。
どうしようもない、役割とか、病とか、不正とか、エゴのことを。
昼間の汗や尿と同じように、夜中の暖かい布団の中で流す涙のことを。
何かを失ったと思っている人へ。
失った分、同じ大きさの何かを得ている。
何かを失ったと感じたのであれば、それは既に、それだけのものをあなたが受け取っていたからだ。
あるいはその痛みは、あなたとあなたの亡くしたものだけで組成されたものだ。
まだ生物とも呼べないような、たった8ミリの物体の写真を見て、少しだけ、泣いた。
大きな喜びと、大きな喪失の両方の可能性を持ったものを、私は孕んでしまった。
だけれど、ともに時間を過ごし、それを失った時に、
わたしは自分を壊さずにいられるだろうか。
死は、私の中にもセットされている。
その事を怖いとは思わないが、少しだけ、祈るような気持ちになる。
どうか、どうか、私が愛する人たちに、沢山の何かを与えることができますように。
釣合いなんて、とれていなくていいから、
たくさんの、―できれば喜びを―、残すことができますように。