はてなキーワード: 一周忌とは
俺が反出生主義者で且つ常に希死念慮をもっているからかもしれないという考えに至りました
オリパラ賛成派、特に、出場する選手たちは、何年も前からこれを目標に努力してきて、こんな時勢にあっても、お偉方が周囲を焦土にしてまで用意してくれた舞台があるなら、遺族や被害者にボコボコに殴られてでも、遺族や被害者をボコボコに殴ってでも、それでも自分の夢を叶えたいという、恐ろしいまでに強い欲求があるわけでしょう?
俺は、スポーツだけでなく、何に対しても、そんなに狂気じみた欲求を持ったことはないんですよ
たとえば街で楽器を演奏している人が居て、いいなあ、俺もこんなふうに演奏できたら素敵だろうなあと思い、楽器の値段や演奏法やその練習法を調べて、それを習得するのに必要なコストを知ると、「や、そこまでしてまでやりたくはないなあ」と思い、そこで終わるんです
で、だいたいの趣味とか娯楽って、何かに金を払って、自分で努力して、それで初めて愉しみを得られるわけじゃないですか
さらにいうと、生活をするにあたってこなさねばならないタスク、家事、勤労、納税、教育、睡眠、食事、排泄、…にも同じことがいえて、やはり何かに金を払って、自分で努力して、それで初めて暮らせるわけですよね
そこまでしてまで生きたくはないんですよ
俺がいま生きているのは、昔から母親に強く言われ続けている「私より先に死んだら地獄行きやで」の言がこびりついてしまっているからで、いずれ母が死んで一周忌も済んだらいよいよ死ぬんだろうなあと思っています
逆に、皆さんはなんで生きてるんですか?
外ではこんなこと言うと変な人って思われそうだからここで書かせて
愛犬が亡くなって3年経つけど、たまに遊びに来てくれる
初めて来てくれたのは、亡くなって3ヶ月くらい経った時かな
ペットロスが激しくて、毎日泣いてばかりいて、辛くて立ち直れなかった
そしたら夢に愛犬が出てきて、なんか知らない場所だけど元気そうに走り回ってた
「あ、なんだ〜病気治ったんじゃん〜」とか思ってたら、私の顔見ながら飛び跳ねてくれて、走ってどっか行っちゃった
そこで目が覚めたんだけど、すごい泣いてた
どこかで元気そうにしているなら、私も頑張らなくちゃって
次に会いに来てくれたのは一周忌の時
実家にあの子が大好きだったご飯を持っていって、散歩コースを一人でぐるっとしてきた
その場所には景色とかなくて、白くて、私たち以外はモヤが掛かっているような
それからしばらくは来てくれなくて、元気に遊んでたから私のこと忘れたのかな
それとも私があの子をだんだん忘れていってるのかなって思ってた
けど最近、大きな病気してそこから不幸続きでメンタル弱って、インスタでペット動画ばっかり見てた
そしたらこの間また来てくれて、いつもの知らない場所でお腹撫でさせてくれた
でも起きた時に、手にはあの子の毛の感覚がハッキリ残ってて、やっぱり来てくれたんだなって
不眠続きだったのにその日はぐっすり眠れて、起きた時にすごく穏やかな気持だったことを覚えてる
叔母さんはお寺に払い込まねばならないお墓管理料が納骨されている数に比例して増えるので経済的負担が増えるのはつらいとおもったのでは。
実際ムスコがツルオカにいったあとは三周忌くらいからあとは面倒になってだれも祀らなくなる可能性も考えられる。
ここからは個人的意見だが仏教大変だな。田舎で土地があまっているからってそんな墓ばっかり増やしてないで集約すりゃいいのに。
都市部のお寺は永代供養の納骨堂として鉄骨ビル立ててるけどそのうちまた建て替えるのではないかなあ。
https://www.e-butsuji.jp/butsuji3-1.html
年忌法要は、年回法要ともいい、一般に法事と呼ばれているものです。
亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌です。三回忌からは亡くなった年も含めて数え、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と追善供養の法要を営みます。
母の一周忌が来た。
幼稚園頃だったと思う、自我の強い友人たちが「私」を使いこなしているのを見て、
見よう見まねで母に一人称としての「私」を使ってみた。
『私ってだあれ?』
…誰?確かに誰なんだ?
それ以降、どうしても使わなければならない時以降、
一人称としての「私」は使わなくなった。
一人称としての私を使うと、「誰?」が脳内にこだまするからだ。
ちなみに、この文章はミロを飲みながら書いている。
母にミロを飲まされていたのを思い出す。
小2ぐらいの頃、私が脚気と診断されて母は泣いた。
父と祖父に何か言われていたのであろう。(※生まれたころから母方の祖父と暮らしていた)
それを含めなくても、正直、母の飯は色々足りていないものが多く、まずかった。
母方の祖母(母の母)が早くに亡くなり、中学生くらいから家庭のことはすべて「やらされていた」のが原因だと思っている。
恐らく、誰にも教わることなく今まで来ていたんだろう。
それに関して、祖父も父も、指摘はするが学ばせようとしなかったのだろうか。
怒鳴るしかしなかったのだろうか。
母については、他人の愚痴を言っているか、怒鳴られているかの記憶しかない。
しかも母は、自分の子供の友人の親について、子供の前で陰口をたたくタイプの人であった。
こうはなりたくないな、しか思っていなかった。
そんなこんなで、本当はさっさと家を出たかったのだが、
母が笑うようになった。
話は戻るが、
私が小学生の頃から、聖書を持っている系の黒服女性2人が定期的に玄関に現れていた。
私は、月1でもらえる2種類の冊子をよく読んでいた。
ある時から、本当に来なくなった。
黒服女性が来なくなってから、母は何もない空間を見て笑うようになった。
父は「何か見えているのか?」と不安そうに私たちに聞いてきた。
そう思うんなら直接聞けよ、と思っていた。
笑うようになってから、母はだんだんうまく座ることもできなくなってきた。
座れずにそのまま転んで頭を打つこともあった。
笑う、泣く、ツイッターのbotのように出てくる支離滅裂な言葉、
だからできるだけ家にいないようにしよう
友人がアーケードゲームを教えてくれた頃だった。
陸上部は、母が学生の頃、家庭の事情で入れなかった部活だった。
運動が得意なわけではなかった私が、短距離であれば瞬発力だけでどうにかなった(と思っている)。
ゲームも凄く得意ではなかったが、音楽ゲームは難易度によっては瞬発力でできるものが多かった。
気付けば音楽ゲーム経由でいろいろな音楽を漁るようになっていた。
そして、聴く音楽で自分のメンタル状態を把握・コントロールできるようになっていた。
これは、今の自分を作ってきたモノたちだと思っている。
そうやって私が我が家からの現実逃避をしていくに従い、母の状況は悪化していった。
いつの年かの年始、家から飛び出し、踏切沿いで母が見つかったことがあった。
デイサービスを始めてから、私のことをデイサービスのお姉さんだと思って
「どうしたのお姉さん?」と娘の話を始めたこともあった。
「うちのお姉さんは陸上部が忙しくて帰りが遅いんですよ」と、大学生の私に向かって話した。
目の前にいるのに。
その時、珍しく母は笑顔だった。
その後、ケアマネージャーの方のおかげで母は若年でも入れる施設に入り、
昨年ようやく亡くなった。
死因は若年性アルツハイマー型認知症、病歴20年。
病歴を見たとき、人生の半分以上を母に持っていかれた気分だった。
母の一周忌が来た。
今までいろいろな物事を諦めたような気がする。
結婚なんてできる気がしない。
母と同じような結末を迎える気がしてならない。
この先どうやって生きていくべきか分からない。
でもまだ生きていたいから生きている。
ただそれだけ。
言い方はよくないが、母が亡くなったことで
一人称としての私は、取り戻し始めている。
2005.03.13 Sunday
2004年3月に死去したザ・ドリフターズのリーダーで俳優のいかりや長介さん(享年72)の一周忌法要「いかりや長介さんを偲ぶ会」が12日、都内のホテルで行われ、生前親交のあった芸能人、知人、親族ら約700人が出席。故人を偲(しの)んだ。
桜の花で飾られた祭壇の遺影は、葬儀の時と同じ99年のテレビCMでウッドベースを奏でる姿を撮ったもの。「1年って本当に早いと思います。でも、長さんが向こうに行ったことが信じられない」。発起人を代表した加藤茶のあいさつのように、ドリフターズのメンバーは一様に「まだ、どこかで生きている気がする」と口にした。
この日は4人のメンバーがそろって献花。「まだまだドリフターズは解散しません。4人でドリフターズのコントをずーっと続けていきたい。バカを貫いていきたい」(加藤)と“ドリフ続行”を、天国のリーダーに誓っていた。
少し気持ちが落ち着いたから今書く。亡くなった後だと書けないだろうから。
おばあちゃんが大好きだった。長男教のジジイと違って自分に優しかった。両親共働きで寂しいときに遊んでくれたのはおばあちゃんだけだった。お手玉したり神経衰弱したりしてた。料理も作ってくれた。
おばあちゃんは常に癇癪起こしてるジジイの横にいて諌めてたりしてた。おばあちゃんはジジイより先に老人ホームに入ったんだけど、ジジイはしょっちゅう会いに行ってた。その時にジジイがおばあちゃん好きだったってようやくわかった。
おばあちゃんて幸せだったのかな。田舎の農家に嫁がされていびられるは夫は癇癪持ちでフォローしなくちゃいけないわ、孫は一人も結婚しないままだわ…「孫が結婚するまで死ねない」って言っててすごく長生きしたのに本当にすみません。兄弟全員モテないんです。
老人ホームに週一で面会行って親戚の人含めたら週三で面会行っててすごく元気だったんだけど、コロナのせいで面会行けなくなって元気なくなったみたいで入院になった。入院中も一切会えなかった。
今日にとうとうってことで電話きてようやく面会に行けたけどもう話せなかった。でも電話より実際は元気だからーってノリですぐ帰されたのに夜にまた電話かかって本当にヤバイことになった。会いに行ったけど常にアラーム鳴ってた。
悲しいことに生きてるおばあちゃんに会いたい人達は皆高齢だったり免疫低下する薬飲んでたりで、この時期に病院には来れない人しかいなかったから誰も面会に来ない。
親もコロナにかかってるかもしれないので病院に迷惑かけられないから泊まれないで帰った。葬式するにしても超家族葬になる。家はど田舎だから葬式盛大にやる地域だしジジイの時もめっちゃ大変だったけどジジイは喜んでるだろうなとは思った。
面会もされず、葬式にも人が来ないっておばあちゃん寂しいだろうな。本当にごめんなさい。
でもコロナにかかってたら葬式どころか最後の面会もなかったし、そもそも医療崩壊起きてるのかみたいなときにコロナでもない90代を入院受け入れしてもらえるか疑問なので恵まれてたのかもしれない。コロナで家族亡くした人達に本当に悪いけど、そう考えなきゃおばあちゃんが可哀相すぎて嫌になる。ごめんなさい。おばあちゃんがそんなこと考えてるわけないから完全に自分のエゴです。ごめんなさい。
書いてて辛くなったけど本当に死なないでほしい。コロナ終息するまで生きてほしい。親戚苦手だけどお通夜も葬式も49日も一周忌も頑張るから。迷惑じゃないから。100歳まで生きてよ。
本当にコロナ許さない。寿命だろうがなんだろうか知るか。おばあちゃん本当にごめんなさい。
9:45追記
今葬儀の手配が終わりました。本当はこれを書いた30分後には容態が急変して病院に呼び出しされてたので、すぐ消そうかと思ったら1ブクマついてて残してました。今落ち着いて見たら優しい言葉たくさんついていてびっくりです。ありがとうございます。
おばあちゃんに増田やってるなんて言ったこともちろんなかったけど笑 今日はおばあちゃんにたくさん言葉もらったよって話しかけてみます。
親父はおばあちゃんはあえてコロナの時期に亡くなったのかもよと言っていました。気を使う人だったので、家族葬だったり親戚呼ばなくていいこのタイミングを選んだのかも、と。そうかなー?
選挙が近くならないとなかなか注目しないが、コロナ騒ぎの中ふと気になって調べたら、昨年末自民党に参加したとのこと。東京生まれながら地元の交差点でよく立弁してる姿とか見て好感をもってた。民主党崩壊後は選挙のたびに違う党から出てるような印象だった。いろいろな野党に参加して苦労してそうな姿を見てきたが、何か信念を持ってのことかと思っていた。なんであんなに小さい党を渡り歩きしまいに無所属になってるのかと思ってたら、これを狙ってたのか。井出家は祖父の井出一太郎、伯父の井出正一と三代つづく名家。1993年以来の自民復党か。自民党を飛び出した伯父が一昨年亡くなったから一周忌をおいていよいよ自民へということなんだろうか。今すこし話題になってる年金支給開始年齢とか検察人事とかの法案にも賛成しちゃうのかな。しちゃうだろうなあ。麻生派に参加したようだし。
まいいや。
先祖代々とはいえ自力で10年築いた地盤を土産に自民に参加したんだ。今後のご活躍を心よりお祈りしております。
あーあ
去年の今頃祖母が亡くなった。
友人達と都内の居酒屋チェーンで行けもしない旅行の計画話をのんべりしていると母から「祖母が病院に運ばれた。すぐ帰ってきてほしい。」との連絡があった。
電話があった時点でもうだいぶ飲んでいたし、店から運ばれた病院まで結構な距離があったのでちょっと気の抜けた返事をしたら、めったに声を荒げない母親から恐ろしい勢いで怒られたので、本当にただ事ではないなのだと分かった。
酔いもどこかへ行ってしまった。私の腎臓はこんな時だけまともに働く。
祖母は痴呆がかなり進んでおり、「痴呆症」で検索すると出てくる症状の7.8割をクリアしていた。そして同棲している我々家族はみな疲弊していた。
病院へ向かうタクシーの中で「これはもう前と同じ祖母に会うことはできないのかもな」と痴呆の初期症状が出てきた時と同じことを考えていた。薄情な孫だった。
祖母と私はどうにも性分が似ているようで、祖母本来の性格も痴呆からくる性格も一切合切馬が合わず、喧嘩ばかりしていた。
常に祖母にイライラしてレス&ラップバトルをし続ける日々だった。無論泥仕合である。
(しかし“猛者”である祖母は、数分経つと喧嘩もその原因も何もかも忘れて「財布がない、誰かに盗まれたのかもしれない。」と深刻そうな顔で、3分前にしてきたのと同じ内容の相談を私に持ち掛けてきていた。)
だとしても祖母危篤にこんなに心動かされない自分に、祖母の危篤そのものと同じくらいショックを受けた。小4の時に飼っていたチビ(ジャンガリアンハムスター)の死の方が悲しく喪失感が大きかった。
あと15分ほどで病院につく、というところで母から「たった今亡くなりました。穏やかな顔です。」と短いメールが届いた。
毎日の仕事や家事に加え、祖母の介護で疲弊しギスギスしていた家族は心の余裕を取り戻し、家族の会話は祖母以外の話題が増えて家は昔のような居心地のいい空間となった。
特に祖母に一番心を砕いていた母は、かなり肩の荷が下りたようで、もともと多忙だった仕事の合間に楽しんでいた唯一の趣味にもかけられる時間が増え、比例して笑顔も増えた。
姉も在宅業務の合間に祖母の昼食や身の回りの世話をする必要がなくなり仕事に専念し始め、父も祖母の通院の足のために気を遣いながら会社を休まなくてもよくなった。
末子の私も祖母の遊び相手・話し相手という名の喧嘩稼業の看板を下ろし、平日の夜と土日の時間を完全に自分のために使えるようになった。(あと関係あるのか分からないが慢性鼻炎も治った。なんで?)
今年の夏には私の持ち込み企画として家族全員(4人と一匹)で那須高原へ旅行にも行けた。
家に残してきた祖母とその面倒を見る家族のことを考えて申し訳ない気持ちになることも、連れてきた祖母がどこかへ言ってしまわないか気を張ってみている必要も無いというのは、こんなに楽で楽しいものだったのかと悲しくなった。
夏の那須高原は猛暑や我々の苦労など素知らぬ顔で気持ちの良い風が吹いて、地面に木漏れ日が落ちていた。その中を走る我が家の犬も必要以上におやつを与える人間がいなくなり、3kg以上やせて草原が似合うボディになった。お前元はそんな感じだったのか。
昨年急に自由になってしまった私は来年、海外留学を控えている。
皮肉にも社会人になった後も、祖母の介護で実家住まいだったので、お金を使う暇も機会もなかったのが幸いした。
今までできなかった分、勉強してスキルを身につけてバンバン稼いで旅行に行きまくってやるわい!と意気込み荷物を整理している私に「やっぱりおばあちゃんに似てるね」と母が古いアルバムを見せてきた。
中には祖母が友人や亡き祖父と共に国内外、様々な場所を旅してきた古い写真が大量に挟まっていた。
最後のページにヨーロッパの古城の前でほほ笑む若い祖母の写真があった。
痴呆が始まる前の祖母も、私も、外へ出て新しいものを見聞きするのが好きだった。
もうじき一周忌なので気持ちの整理をつけるために書き出したら結構な量になったので、ここに載せて祖母(と私の精神の)供養とさせていただきます。
50代の父親が末期がんで亡くなって1年が経った。
ホスピスに入院して最後の2週間は、自力でトイレも行けず、食事もできず、体力がもうほぼ無いのに胆液と胃液と血液が混ざったどす黒い物体を1時間おきに吐いてて、まとまった時間は眠れないようだった。
なかなか思ったように死ねないなあ、と呟いてた父の姿は多分一生忘れられないと思う。
そうしてるうちに、お医者さんから最期のタイミングまで睡眠薬で眠らせることもできると提案された。
ただ、人間は朝起きて夜眠る生き物ですから、あまりお勧めはしませんが奥様と娘さんの判断にお任せしますと言われた。
父の言葉を聞いていた私に迷いはなかった。
結局、父は睡眠薬で眠り続け、最期に少しだけ覚醒して、とても優しい響きの言葉にならない声を母と私にかけてから安らかに眠った。
苦しい思いはしたくないと言っていた父の希望を最大限汲み取れたとは思っているけど、それでもあのタイミングで睡眠薬を使うことが正しかったのかどうか、そもそも正しさなんてものさしで計ること自体間違ってるのか、
雨 雨 雨
今週末もま~~~た雨予報。
先月、出掛けるたびに雨だったんだが。
今月も出掛ける日に限って雨なんだが。
ずっと晴れてろとは言わない。
せめてずっと曇っててくれ。
いやいやなんで土日に限って雨なのよ。
しかも土日どっちか出掛けるって日に限って、出かけない方は雨降らないんだよ、なんなの。
ここまで書いて察しの良い人はお気づきだろう。
中学の修学旅行で雨に降られて、そんな状態なのに山登った(靴が死んだ)
高校の文化祭は前日に台風がぶつかって準備出来るかどうかの瀬戸際だった(チャリが滑ってこけたしんどい)
身内の一周忌でなぜか雹が降ってきた、痛かった(これ私のせいじゃない気がする)
今年行った時も雨降ってたよ。雨用のパレードやってたよ。正直何回も見てるよ、もういいよ。
友達にも雨女認識されてるから、「もう慣れた」って言われたよ。
ごめんな、傘持ち歩くの面倒だよね。でも恨まないで欲しい。
しかもさ、こういう記憶って晴の時より雨の時の方が覚えてるんだよね。
絶対いい天気の日に行ったとことかあるはずなのに、どんよりした時ばっかり覚えてるのは私が喪女だからなのだろうか。
明日は晴れてくれ、頼むから。なんで日曜日は曇り予報なのに明日は雨予報なんだ。
しかも昼間あーんな晴れてるのになんでなのほんとなんなの。
明けたところで雨女の戦いは終わらないけど。
7/21追記
ダム行って救世主になれるって行ってくれた人いたけど、雨女はな…自分の楽しみな事とかそういう時ばっかり雨なんですよ………。
母が自殺した。
もう3年も前の話だが、私の中では現在進行形だ。
いつもならば眠い時間で、無視して必要があればかけ直すのだが、父の名前が画面に表示されたので、何事かと思って電話を受けた。
え?お母さん?自殺?え?
一瞬にして混乱の海に投げ出される。
父は続けて「救急車を呼んで、今待っている」というような事を言った気がするが、信じたくない現実に面と向かう事に必死でよく覚えていない。
鮮明に憶えているのは、呼び鈴と同時に入室してくる救急隊員の声と、それに答えて「救急車が来たからまた連絡する」といって電話が切れた事。
切れた電話のツーツーという音を聞きながら、その後どうしたか憶えていない。
夫の話を聞く限り、隣で眠っていた夫が話し声で起きて、どうした?と聞き、私は事情を話したらしい。
とにもかくにも、実家に帰って詳しい状況を聞かないといけない。
夫は会社に欠勤の電話をし、身支度をして二人で車で2時間の実家に行くことになった。
私はタバコを吸うのだが、母はタバコもタバコを吸う私も嫌っていたので、お風呂に入る時間をちょうだいと言って、急いでシャワーを浴び、髪についたタバコの匂いを落とした。
気持ちとしては、悪い夢の続きを見ているような変な浮遊感でふわふわしていた。
長い道中の事も憶えていない。
義父に頼まれた枕花を持った重さだけが、私を地上に結びつけているような気がした。
母の自殺が本当だとしたら、第一発見者の父の気持ちは荒れる海の波のようだろうから私はしっかりしないと…と、平静を装おうとしたが、玄関を開け、並ぶ見覚えのない靴を見て、父の兄弟が先に来ている…つまりは母の自殺は本当だと感じた瞬間、涙が溢れ出た。
しばらく泣いて落ち着いたところで、居間のテーブルに用意された席についた。
ふと、母が居るであろう場所を見ると、そこには何もない。
父にお母さんは?と聞くと、今は警察署に居ると言われた。
なんでも、救急隊員が駆けつけた際に死亡が確認された場合、救急車には乗せられないルールがあるらしい。
そして、自宅での死亡の為、原因の追求をする為に警察署での検死に回されると。
母は一人で冷たい場所にいるのだろうか。
早く会いたい、顔を見たい、それだけだった。
夕方、警察署からの連絡で、母の遺体を収容する施設に移すという連絡があり、その場に居た全員で手続きに行った。
涙を流さず、冷静に見える父の、必要書類に記入する手が度々止まる。
「妻っていう字が思い出せない、書けない」
ああ、父も心の中は混乱していて、いっぱいいっぱいなのだな、と思った。
叔母が字を教えて、ゆっくり、一画一画確認しながら書類を書く。
刑事さんが書き終えた書類を確認し、ご面会はこちらです、と案内された部屋に行った。
私は死んだ直後のままの母が居ると思っていたが、既に白装束に着替え、箱に収められていた。
首には吊った後が残っているのであろう。
首周りに綿の詰められたクッションのような物が巻かれていた。
枕花を頭の横に置き、周囲に流されるように手を合わせる。
これは悪い冗談なのではないかと、そうとしか考えられなかった。
母は残された苦しみから、「どんなに辛い事があっても、自殺だけはだめよ」と言っていた。
私はその言葉に助けられていた。
長い期間、学校でいじめられ続けていた私にとって、生きる事の大切さを教えてくれた母の為にも生きようと、これまで生きてきた。
でも、その母が自殺を選んだ。
母はパーキンソン病で、近い将来介護が必要になる事を嫌がっていた節があった。
その苦労を父や私にかけない為に死を選んだとしか考えられない。
苦労かどうか決めるのは私達なのに。
母の葬儀は、式場の都合で一週間程先になった。
それまでの間、毎日霊安室に通い、好きだったカフェオレを供え、なんで死んだの?と疑問をぶつけていた。
母は自分の将来に、綺麗に決着をつけたと思っているだろう。
実際はそうじゃない。
私も父も親戚も夫も、事情を知った全員がそれぞれに苦しんだ。
その罰があたったのか、もうすぐ葬儀だというタイミングで、綺麗だった母の死に顔に死斑が出た。
人前に出る時に化粧は欠かせない母だったから、このまま葬儀には出せないと、葬儀屋さんに頼んでプロの化粧をして貰った。
過去の心の傷と仕事のストレスで鬱になった私は、抗うつ剤と睡眠薬を長い事飲んでいたが、母の死を知った日から、それらの薬が効かなくなった。
父と母に会う時間の合間にかかりつけ医に臨時でかかって、強い抗うつ剤と睡眠薬を処方して貰った。
葬儀が終わるまでは、四十九日が終わるまでは、一周忌が終わるまでは…とにかく倒れる訳にはいかない。
それだけで動いていた。
アノニマスなインターネットが好きだ。私が私でいなくても良い、俺とお前らだけの世界。
アメブロやインスタのような、習い事☆手作り子供服☆DIY☆の世界は自分には明る過ぎる。「〜さんのセンス流石です!真似したくなっちゃいました^_^」なんて気恥ずかしい。「乙」一言で十分だ。
俺もお前も、匿名の無個性の画一化された卵アイコンであり、名無しさんであり、増田である。名前をつけられ、戸籍を与えられ、如何なる発言も自分自身と紐付けされる息苦しい社会からの脱出。重力を振り切って糞みたいな現実から逃げ出す、それが私のインターネッツだ。
でもどうして、女だと少しでもバレるだけで、それを取り沙汰する奴がいるのだ。
女の増田には必ずと言っていいほど、セクハラとうんちがぶら下がっているのは何故なんだ?
女であることは避けようもない私の一部であり、逃げ出したい現実の一部でもある。女と明かすことは、仮面舞踏会で仮面をとるようなルール違反なのか?無個性の列からはみ出した罪になるのか?ノーマルは男で、女は亜種だから?でも私は生まれた時から死ぬまでずっと、女なんだ。それは私のノーマルだ。
何故異性になった途端、増田でなく女増田にするのだ。男増田は男増田って言わないのに。姫も女神もやらないから、オンゲでやたら優しくしたり、掲示板でおっぱいうp言うのやめてくれないか?何を言ってもいいからって、いちいちセクハラしなくていいだろ。別に異性として書き込んでるんじゃないんだよ。
こんなの増田で書いたって何も変わらないのはわかってる。だから、もっぱら現実逃避先に選ぶのは同性しか居ない、5ちゃんねる「もてない女」だ。キラキラしない、マウンティングもない匿名の庭だ。それなのに!糞雑魚ゴミカス童貞君は、男子禁制をやぶって入ってきてはおまんこぺろぺろ言って、中学生か。
スーパーで舞茸78円だったー、みたいなレスに一々俺のキノコ云々。父の一周忌で寂しくなったレスに、俺が慰めてあげる。
百合に介入する男みたいな、余計さある。鬱陶しいだけ。
Aviciiを初めて知ったのは、アルバム「True」が発売されて半年後くらいだったと思う。きっかけは、Twitterでフォローしていた誰かの呟きだった。Aviciiに関するニュースだった気がするけど、詳しいことは覚えてない。
でも、YouTubeでWake Me Upを初めて聴いたときの衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。これまでの概念が完全に崩れた瞬間だった。EDMに似つかわしくないカントリー調の演奏、どうしたって印象に残る力強い歌声と、一度聴いたら離れられない旋律。その全てが初めて経験する音楽だった。
とにかく率直に思ったのは、こんな音楽とまだ出会えるのか、ということ。これでも一応30年近く生きてきて、大抵の音楽は知ったつもりでいた。もう音楽で心を揺さぶられることなんてない。明確に決めつけたつもりはなかったけど、無意識に、でも確実に諦めていたと思う。
だから、Aviciiのファンになるのは、曲が終わるよりも早かった。むしろ遅すぎたくらい。Wake Me Upをきっかけにリリースされた曲は全て、何百何千と聴いた。特に「Avīci (01)」は新婚旅行で行ったモルディブで一晩中流して、今でも聴くと必ずあの美しいエメラルドブルーの海が蘇る、妻との思い出のアルバムとなった。
***
Aviciiが引退すると聞いたとき、そしてその理由があまり前向きな理由ではないと知ったときは寂しかった。でも、今振り返るとそれは大したことではなかったように思う。昔ほど精力的ではないにせよ活動はしているようだったし、不意打ちのようなタイミングで発表されるリリースは嬉しくもあった。
ただ、突然の訃報はそんな細やかな楽しみも全て打ち消した。確か休日の朝だった。眠気が一瞬で覚めて、大声をあげて飛び起きたのを覚えている。でも、心のどこかでこれは現実だと冷静に受け止める自分がいて、驚きは波のように引けていった。その後はただただ悲しみだけが満ち溢れた。
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今でもあなたのことを思うと何も考えられなくなる。偉大な才能だったのに。大切な存在だったのに。なぜ多くの人にとって希望だったあなたが、この世から居場所を失う必要があったのか。もしこれまでの作品が、あなたの尊い命を削ることで生み出されたものだとしたら、私はそれを聴く権利があるのだろうか。正直分からない。
ただ確かなことは、私含め残された者はあなたのいない世界を生きていくしかない。そのとき、きっとあなたが残してくれた作品は人生の大きな支えになるということ。これまでも、仕事で辛かったとき、人間関係で悩んでいたとき、「Wake Me Up」がどれほど心強く響いたか。どれほど勇気付けられたことか。
あなたのおかげで、また前を向いて頑張ろうと思えた。その事実は決して否定できないし、きっとこの先も変わらない。だから私は、あなたが投げ出してしまったこの世界を、あなたの作品と共に生きていきたいと願う。