はてなキーワード: レンタル移籍とは
オレオレFCは今季、過去最高の5位に浮上。天皇杯は準優勝に終わったが、飛躍の1年となった。今回「下剋上の1年」と題し、野河田彰信体制初年度で飛躍した要因を3回連載で探る。
5位に躍進したオレオレFCだが、来季の更なる飛躍に向けて、このオフがカギを握りそうだ。上位に躍進したクラブがオフの編成で出遅れ、翌年は尻すぼみの成績に終わった過去がある。
既に野河田彰信監督の続投が決定。クラブの今季総年俸は約7億4700万円。人件費も約6億円とJ2レベルにしかない。今季は下部組織出身選手と新人に加え、外国人も低予算で獲得して乗り切った。ただ、躍進とコロナ緩和により、観客数は増加。入場料などの収入も増えたため、補強費は潤沢にはなったが、野河田監督は「そんなのはもう、全然眼中にないわ。補強なんか」と意に介さず。「毎年、新しい力というか、1人、2人は絶対必要よ。だからそこの上積みな。その辺は若いので、来年1月から何人か鍛えてね。トップの戦力にできるような選手を作らなあかんわな」と話すように、現有戦力プラスαでチームの底上げを図る。
チームは躍進の裏で、攻守ともに課題が山積している。今季のオレオレFCのチーム総得点は62。横浜FM、神戸に次ぐリーグ3位だった。大卒新人のFW森永が15得点、MF鈴木潤主将が11得点12アシストと牽引した一方で、控えはMF前田とFW浅田が3得点を挙げたものの、夏場に加入したFW植村とMFヤゴ・リカルド、FWトーマス・ノレジーが2得点に終わり、期待を裏切った。
守備も昨年リーグワースト2位の57失点から43失点と大幅に改善した。GK中原、夏場復帰したMF藤崎や大卒新人のDF大村は戦力になったが、13試合に出場したDF伊藤は9月に右腓骨骨折で長期離脱し、DFレナト、石田は負傷離脱を繰り返した。中津強化部長はG大阪戦後「正直、主力と控えの差はかなり開いた印象。最後は本職じゃない選手でやりくりせざるを得なかった」と振り返る。
来季はユースからはMF後藤、DF田曽野、大学からMF宮崎、DF赤堀らが11人の新人が加入。レンタル移籍していたFW佐藤、MF森田、DF小林の復帰が決定的ではあるが、彼らが戦力となれるかは不透明。中津強化部長は「5、6人リストアップしている」として、外国籍選手の獲得も視野に入れている。
また、今季の躍進で既にDF一条、奈良田、MF村松には他クラブからオファーが届いた。今後、鈴木潤や森永らにもオファーが届く可能性があり、マネーゲームでは太刀打ち出来ず、移籍となれば、かなりの痛手だ。11日から契約更改がスタート。中津真吾強化部長は「出来る限り、誠意を尽くしたい」と話す。
今季、上位を争った横浜FMには勝ったものの、神戸、広島、浦和には一つも勝つことができなかった。横浜FMを含めた計8試合を戦い、1勝3敗4分けの結果。更に天皇杯決勝の相手・川崎にもカップ戦を含めて2分3敗と勝てず。多良初徳会長は天皇杯決勝・川崎戦後「懸命は尽くしてくれたが、まだまだ優勝のところまで行くには、力が足らずという事でしょうね」と潔く力不足を認めていた。
J1昇格5年目の節目の年に躍進したオレオレFC。クラブはJ1残留、上位進出と同時に、クラブ創設20周年となる「2028年にJ1優勝」という目標を掲げている。来季は24クラブでJ1を戦い、うち6クラブが降格する厳しいリーグ。鈴木潤主将は天皇杯決勝後「来季は今までより厳しくなると思う。驕る事なく、今以上にレベルアップして戦いたい」と口にした。現場の選手や監督はもちろん、フロントの決意が試される来季になるのは間違いない。【終わり】
今年J1に復帰した横浜FCというチーム。カズこと三浦知良が本籍を置いているチームとして知られているが、これ、実は創価学会との繋がりが強いのである。以下、具体的な内容を記しておく。
詳しくは割愛するが、横浜FCは1998年度いっぱいで消滅した「横浜フリューゲルス」の後を継いで立ち上げられたクラブである。当時は特定の親会社を持たず、ソシオという制度を使ってサポーターがお金を出して支えると言う仕組みの先駆者でもあった。
2007年に一度J1昇格を果たすが、圧倒的最下位であえなく降格。話題になったのは当時在籍していた久保竜彦の超ロングシュートと、最終節で途中までJ1首位を独走していた浦和レッズの優勝を打ち砕いたことくらいであった。
2009年にLEOCという給食事業会社が横浜FCの親会社になる。
この企業のグループ(当時はレオックグループ、現「小野寺グループ」)の会長兼社長は熱心な創価学会信者であるのだ。https://i-incz.com/blog/2485.html
週刊新潮2013年6月20日号においてこのような話が告発された。内容まとめているブログがあるので詳細はこちらを見て欲しい。http://yajyukouhai.blog.fc2.com/blog-entry-405.html
奥大介氏が現役引退後壊れてしまい最終的に交通事故で絶命した遠因は創価学会への入信をしつこく求められたことによるストレスであり、他にも入信強要を嫌がってチームを去ったコーチやスタッフが何人も出ていたとのこと。
1-2年で辞めた人ならともかく、何年も在籍している監督やコーチやスタッフがいたら、その人は入信したか元々信者であると思ってよいだろう。
昨年、小野寺グループが三ツ沢球技場の改築提案を突然発表した。昨年になって横浜市が手狭になった三ッ沢公園の再開発構想を掲げたことを受けて、小野寺グループが具体的な内容提案を行ったものである。https://www.onodera-group.jp/news/?p=3335
実は創価学会は三ツ沢を聖地の1つとして位置付けている。1957年に創価学会の2代目会長が「原水爆禁止宣言」を行った場所がここなのだ。https://www.sokagakkai.jp/in-society/nuclear-abolition-declaration.html
だから、他の非創価学会系企業に取られないよう、小野寺グループは先んじて手を打ってきたと考えられる。
学会系企業による提案だからか、いつもなら真っ先に反対の声を上げる共産党も大人しい。学会系企業が絡んでいない広島や京都や鈴鹿とかでは人間の鎖とか環境保全ガーって言ってきたが、横浜・三ツ沢のこの件ではあまり大きな反対の声を上げていない。学会系企業の提案に不用意に噛みつくと痛いカウンターを食らうことを恐れているのだろう。
最後に。カズが学会信者かどうかは、決定的な証拠が出てきていないので何とも言えない。ただ学会のフロント団体である横浜FCの広告塔としてこき使われていることは確かである。今年はポルトガルにレンタル移籍が決まっているが、移籍先のチームもこの小野寺グループ関連だったりするのだ。
94年~00年の小学生時代の中で、小2~小4のゲームに対する熱量は突出していたと思う。
地元にはファミコンショップ桃太郎とカメレオンクラブがあった。
新品を買えるのは誕生日とクリスマスで、それ以外はThe BESTか低価格な中古品しか買えなかったが、買えなくても行けばワクワクを提供してもらえる場所だったように思う。
ゲームは当時の俺の全てだった。
様々な選択肢の中から、時に、暇つぶしの仕方なさで選ぶ大人にとってのゲームではなく、スポーツ少年団かゲーム少年かという数少ない選択肢の中で、後者を能動的に選んだ。
同じように後者を選んだ連中との共通言語は必然的にゲームになるわけだから、
それは、もはや、「お前は喋るな」ということと同じだった。
カテゴリー的には、基本的に、スポーツ少年団とクラスで積極的に発言できる者が陽キャだったが、彼らの中にも、俺たち程ではないにしろ、ゲーム好きがいて、交流はあった。
多くのゲーム少年たちの本所属は陰キャだったが、風向き次第では、陽キャの下~中ぐらいにレンタル移籍されることもあり、陽キャ・陰キャをはっきり区別できなかった。
だが、そんな学校内での立ち位置なんか関係ないぐらい、俺たちの周りで起こること、俺たちの注目するトピックスが世界の中心だったし、世界の中心は俺たちだという自負すらあったと思う。
ゲームはそれほどまでに、コミュニケーションを、密に、充実させたものにしてくれていた。
学年を重ねてもゲームは続けていたものの、徐々に熱量は低下していき、4,5年貯めたお年玉をはたいて、VAIO J(ディスプレーは現役)を購入したのは中1のことだった。
Age Of Empires 2の楽しさをクラスの気心の知れた連中に広め、PCゲームやネットの面白さにハマるのと反比例して、ファミコンショップ桃太郎やカメレオンクラブに対する思いはなくなっていった。
また、小6時は図工クラブという、プラモなど、好きなものを作る超陰キャクラブ(6年の在籍数3人)に所属していた俺が、中学ではバスケ部という陽キャ部活に入部したこと、学習塾へ行かされたことで、TVゲームに費やせる時間が単純に無くなったことも大きかった。
そして、いつしか、ファミコンショップ桃太郎もカメレオンクラブも潰れてしまっていた。
ゲームを嫌いになったわけじゃない。
PS4を持ってはいるが、FIFAシリーズしかプレーしなかった。
今でもFIFAシリーズは好きだが、最新作の購入は見送り、PS4をラクマに出品している。
大人になり、ゲーム以外の選択肢は増え、YouTubeは毎日見ている。
でも、ファミコンショップ桃太郎やカメレオンクラブへ用もないのに行き、得ていた、あの持続的なワクワク感は得られなくなった。
未だにswitchなどのゲーム機がそれを担えているのだろうか。
昔の俺にとってのファミコンショップ桃太郎やカメレオンクラブが、今の子供たちにもちゃんとあれば良いなとそんなことを思わせる記事であった。
2011年10月23日、我々は日本サッカーの未来を託して見送ったはずのある男が日本に帰ってきていること、
彼がプロサッカー選手となって初のゴールを奪ったことを同時に知った
(もっとも、多少Jリーグに関心があるものは、2010年6月に彼と水野晃樹が帰ってきたことを知っていただろうが)。
有名高校生プレイヤーとしてJリーグ発足後初、国内クラブを経由せずに直接海外クラブとプロ契約した男の遅すぎるゴールだった。
2011年、10月23日というその日まで伊藤翔がなかなかゴールを奪えないでいる頃、我々は違う若武者に快哉を叫んでいた。
宮市亮、アーセナルの練習生ではないベンゲルに認められた若武者、正所属の上でフェイエノールトにレンタル移籍がなされあっという間に
欧州主要リーグの日本人最年少得点記録(2011年2月12日、18歳1カ月29日で記録)を決めた若武者にであった。
さて、このエントリの目的は、有名高校生プレイヤーとしてNPB発足後初、国内球団を経由せずに直接海外球団とプロ契約しようとする
大谷翔平が"翔"なのか"亮"なのか当ててみようということではない。甲子園に出れなかった防御率がそこまで低くない「球速160km」の投手、
日米親善高校野球で藤浪晋太郎にエースの座を触れさせてももらえなかった彼は、
確かに、「和製アンリ」という話題のみで実態が分からなかった"翔"と似ている。
しかし、海外挑戦前の"亮"だって、50m5秒台らしいものの、テクニックの不十分さは指摘されていたし、宇佐美貴史のような国際試合での
圧倒的な実績がある訳ではなかった。現時点で、"翔"なのか"亮"なのか当てることはあまりに不毛だろう。
重要なのは、"亮"の為には、"翔"が必要であったという事である。直接に、宮市が海外挑戦する際、伊藤を参考にしたことを示す資料はない。
しかし、ほぼ確実に宮市あるいはその周囲の判断において、先輩(実際同じ高校のでもある)伊藤の顛末が一番の教訓として機能していただろう。
リップサービスにのせられてはいけない、若手を教育する気がない海外クラブにはいってはいけないなど、学んだことは多かったはずである。
"翔"があってこそ、"亮"があるのだ。そして、"亮"があるからこそ、未来の日本人スタープレイヤーが生まれるだろう
もちろん、スタープレイヤー誕生には、Jリーグを一回経由することが重要と言う結論になることだってありうる。
しかし、その結論を出すためには、"亮"の未来、あるいはそれに続く直接海外クラブ契約する選手たちの行く末を見る必要があるだろう。
(高校生以下の育成については久保建英君の将来を見よう。しかし、久保君にも玉乃淳という見本がいたことを忘れてはならない)。
野球の"翔"のメジャーへの挑戦も、野球の"亮"を生み出し、そして、未来の日本人スタープレイヤーを生み出すだろう。
"翔"の挑戦は、日本野球界に貴重な経験を与えるだろう。もしかしたら、NPBの重要さを改めて認識させることなるのかもしれない。
誰かが捨て石になる可能性を覚悟してやらなければならなかったことなのだ。
であるから、大谷翔平よ、全ての誉れと怨嗟を受け止めながら、翔び立ってほしい。
そして、野球ファンは少なくとも"翔"が帰国して仮に日本のどこかの球団に入団して、1年は成績が悪くてもかつての挑戦者を見守って頂きたい。
もっとも、2年目も成績が悪いのなら、本拠地で彼にブーイングで浴びせようとそれは自由だろう。