はてなキーワード: レトリックとは
ただ、私がモテの条件としてわかりやすさを提示したのは、それこそ、感情が言語的表現に向いてないからなんだ。
私たちが私たちの感情を表現するのは、他者にしめすためだけでなく、自分自身を納得させるためでもあるわけで、そうなれば、わかりやすさというのは、愛の表現のしやすさ、あるいは納得のしやすさというのにもつながる。
だから、ルッキズムや、差別による愛の肯定と否定というものがあると私は考えていて、そういったものを無視して恋愛できるというのも実のところ、自由だの輝いているだの、あるいは夢があるだのというわかりやすさに依存しているのではないかと思っている。もちろん、これが後付けならなんら問題ないのだ。しかし、いざ恋愛やジェンダーを語るというタイミングでは、これを前倒しにして語らなければならない。そうすると、清潔感だったり誠実さだったりの便利ワードに頼らざるを得ない。
非モテへの助言が、常に的を得ないのはこのせいだし、さらには便利ワードを使い一辺倒に言語化することで、自身の感情さえも捻じ曲げてしまう危険性がある。もっといってしまえば、非モテへの助言が疲れるのはこのせいで、いったん納得した愛を再定義しなければいけないからだ。
でも、しかし、だとすれば余計に私たちは、これを言語化していくべきなのだが、どうも愛はずいぶんと歪んでしまったようで、非モテに愛が体現されるようになるまで、愛をたたき直すのは時間がかかる。しかし、誠実さはどうだろうか。清潔感はルッキズムに根差したもので、外見によって愛を得られない人々にとっては厳しい現実を見せるだけだが、誠実さは違う。
たとえ精神病であっても、単に性格が悪いのだとしても、誠実さを示すことはできる。誠実さは実に便利な言葉で、他人を思い行動するというただそれだけで、誠実と表現できる。疑念があり信用を得なければならないとはしたものの、誠実そのものは実はかなりシンプルであり、ツーカーで行える、分かりやすい概念だからだ。
私は、競争社会から脱して共生社会へと向かおうとする流れを信じたいし、それが私的領域にあっても評価される、性愛の対象になるという言葉をとても信じたい。それが男尊女卑やあるいは経済格差によるルサンチマンによるものだとしても応援したい。
だからこそ、例えばジェンダーを語る際に提示される誠実さというものについて語っていき、その実態が何かを考えていくべきだと思っている。内省という言葉を使ったのは私の政治的な意味があるのだ。私は、「誠実さによる性愛を信じているし、そう語ったあなたはモテるに足りうる誠実さを示すことができますよね」「そして、それが誠実さでない場合に、あなたのルサンチマンによって、モテる定義をやっぱり外見であったり、金であったりというのに引き戻すことなく、私の言う誠実が違ったのだ、と内省できますよね」という脅しである。
実際のところ、私は一般的な意味合いで誠実であるよう心がけているが、同時にとんでもない卑怯者だ。レトリック死刑令ができたのなら私はすぐに市中引き回しだ。だけれども、繰り返しになるが、誠実さによる性愛も誠実さ自身も信じている。苦しい。混乱している。
だから、利己的な言い方をすれば、人類でもなく、男性でもなく、非モテでもなく、ただただ私を救うためだけに、モテる誠実さの解像度を上げてほしい。像が見えた瞬間、私は嗤うかもしれない、あるいは信じた私を喜ぶのかもしれない。少なくとも今、目の前にある靄は晴れていくだろうから、私は少し前に進めるし、少し先のことも見えてくるはずなのだ。卑怯にも、あの手この手で、私利私欲を満たそうとする私を許してほしい。これを読んでいる人の気を楽にさせる為に言うが、私はモテない。こんな人間がモテるはずがない。それどころか、私の本性を見抜いたと報告してくるような変わり者は少ししかいない。友人が少ないということである。当然恋人がいた期間もほとんどない。その恋人だって、私の論を証明するのと、私の“性的趣向”を実証してやるためにやった実験であって、実験は成功したが、そのような誠実さに欠けた遊びの後始末は悲惨だった。ご想像にお任せする。
それでも私は誠実さを信じたいし、私のような人間でなくても、多くの人が誠実さを信じたいのだと信じている。みじめだが、実際そうなんだ。
両足の間に足がもう一本生えた醜い獣。男女お構いなしの性欲の塊。
この大元の増田に貼ってあったリンクに鏡のたとえ話が出てくる。自分が何の属性を負っているか、というのが鏡に見えるのだそうだ。女性であれば女性、黒人女性であれば黒人女性。男性には一人の人にしか見えないそうだ。私には鬼が見える。やせこけた鬼がそこにいる。人に良くすればよくなると、信じ込んでいる惨めな異形がそこにいる。
私は私の思う誠実さを示してくれたあなたに告白する。そんなこと重いよと思うかもしれない、自己憐憫に浸るなというかもしれない。けれど、私の誠実さというのはこれなのだ。この短時間のうちについたくだらない嘘を明かし、惨めな姿をさらし、伝わりにくい方法で真実を要求する。それが今のところの(歪んでいるのは承知の上だが)、私の誠実さなんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20180225105423
それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。
元増田の主張の基本線は上記の記述に集約されるのだが、そもそもこれはかなり疑わしい主張である。外形上区別できないならその時点で全部同じカテゴリーにくくるべきだという主張は全く自明ではないし、もっともらしいものでもない。我々は外形上区別できないものは区別すべきでないんだろうか? そんなことはない。
たとえばある人物が解雇されたとして、それが雇用差別の結果であるかどうかは外形上(解雇された)の議論では決着がつかない。差別の結果として職を失うということは当然あり得ることだが、だからといってあらゆる解雇は外形上雇用差別と区別がつかないので差別であるなどというのは馬鹿げた主張である。元増田の主張はそのレベル。
我々は提起されている「差別」(女性差別でも、男性差別でも)の実質について、倫理的・技術的・合理的・歴史的観点から精査を加えることができるし、そうすればよいだけの話である。
そしてそれは「変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕う」こととは違う。その種の精査を「変な理屈をこね」ることだと頭から決めつけて、差別論が外形的・表層的な次元に留まり続けなければならない理由はない。もちろん、提起された「差別」が差別ではないことの指摘や反論の中に「変な理屈」が紛れ込んでしまうことは当然ある。しかし我々はその「変な理屈」をあらかじめ排除することなどできないし、あらゆる指摘や反論が「変な理屈」であるわけでもない。外形上区別できないものの実質を精査することを「変な理屈」と規定するのであれば、我々は差別について意味のあることをまるで考えられなくなるだろう。
さらに、
加えて、差別が差別であると認識されていない状況はそれ自体が不正義であるから、というのもある。「○○は単なる区別だから、差別じゃないよね~」という言辞に、どれだけの被差別者が苦しめられてきたか。そんな言い分を許さないことは、正義への一里塚だよ。
と元増田は述べるが、しかしその代わりに「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」と「不当な差別」の区別が是認されるのであれば(そして、女性専用車両は前者に属するので一定の正当性があるとする増田は当然是認するわけだが)、「○○は単なる区別だから、差別じゃないよね~」という言辞は、「○○は現今の環境下では許容せざるを得ない差別だから、不当な差別じゃないよね~」に取って代わられるだけであり、彼の主張にとってこの区別の是認は自滅的である。
むしろ、現下の社会においては「差別」という言葉に強い道徳的負荷が伴っているため、ある行為が「差別」ではないかという疑義を呈されれば、疑義を呈された側は「差別でないこと」の証明に取り組まざるを得ない。女性専用車両が差別ではないかという元増田の問題提起が強い反発や反響を呼んだのも、この「差別」という言葉が持つ道徳的負荷ゆえなのである。
ところが「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という言辞は「差別そのものはアプリオリには否定されない」という前提の導入を意味するため、「差別」という概念が持つ道徳的負荷を希釈することになる。それが被差別者の発見や救済につながるという主張は甚だ疑問である。
なぜなら、「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という言い方によって新たな差別の問題が認識されたところで、それが「現今の環境下では許容せざるを得ない」と認められているうちは、その問題が真剣な吟味の対象になることはないからだ。
むろん、これは「差別と区別」のレトリックでも同様であるわけだが、要は「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という概念を導入すべきという元増田の主張が、彼自身が提起している問題の解決に何ら貢献しない(それどころか、悪化させる恐れすらある)ことを意味している。
以上を踏まえると、「差別ではあるよね」の合意はナンセンスであるばかりか有害なものである可能性もあり、ロジック自体も自滅的であると言わざるを得ない。
言うまでもないことだが、ある社会制度が差別的ではないかという不断の提起と検討は、差別のない社会を実現するうえで極めて重要なものである。女性専用車両が男性差別ではないかという提起も例外ではない。
だが提起の妥当性は、「他の差別と外形的な一致をみるから」という一点のみによって証明されるわけではないし、議論をそこでやめるべきでもない。
女性専用車両がいかに不当に男性の尊厳を傷つけるものであるか、不利益をもたらすものであるかについて、丁寧に議論すればよいだけの話である。もちろんその議論は様々な批判や反発に晒されるであろうが、そういった議論の応酬以外に我々の差別に対する認識を深化させる方法はない。
その議論の過程においては、「痴漢被害経験のある男性」の存在が指摘されるだろうし、セクシャルマイノリティを包括した社会制度の必要性といった論点も出てくるかもしれない。
しかしそれは、「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」と「不当な差別」という区別の導入の所産ではないのである。
なお筆者は、女性専用車両自体は女性の安全な公共交通機関の利用を保障するうえで次善的に妥当な措置であると考えるが、そもそも女性専用車両が存在しなければならないような社会の在り方は女性差別的であると考える。女性専用車両は男性差別であるという主張もそれ自体排除するつもりはないが、元増田を含め外形上の一致以外の議論が提示されないので検討しようがない。現時点での本邦の司法判断は、女性専用車両を男性に対する不当な取り扱いであるとは見なしていないようである。
みんな「詭弁」や「邪悪な論者」をそうとう警戒しているようだ。
元増田(すべからくで釣った人)です。
個人的に今回一番の収穫はこれを知れたことだった。
もともと自分はこんな考えだった。
なお自分の「議論」観は15年くらい前に読んだこのサイト https://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/ の影響が大きい。
でも楽観的すぎたのかもしれないな。
確かにこの態度だと、なんかすごいプロパガンダを受けたらコロッと騙されるかもしれない。
みんなはそれを警戒して、自分の思考能力を過信せず、詭弁っぽいものを見かけたらそこから情報を得ようとせずに叩き潰そうとするその態度や表現を非難するのかも。
(追記:ごめんね、叩き潰すっていうネガティブな表現はダメだった、いまだに認知の歪みがあることを示している。)
建設的な議論をしない人の存在を憂いていたものだけど、ある意味それには合理的な理由があったのかもしれない。
まさかここにもコメントをいただけるとは……!(追記多すぎだろバカと自分でも思っている)
tick2tackさんの「発話側の問題性を無視してるとこあるな」という指摘を見て「( ゚д゚)ハッ! ほんとだ!!」と気付いたのがきっかけです。
慈善の原則(http://www.ki-dousen.net/docs/content/2882 など)というのを念頭に置いていて、そこまで悪意を想定する必要はない、悪意や過失があってもロジックを整理すれば対抗できる(というか自分が相手から知識を得る分には支障はない)、という限定的な状況しか考えていなかった。
それだけでいいのか? というのを今は考えている。
同記事内で釣り宣言があれば邪悪ではないと思っていたのだけど(虚構新聞とか好きだったし)、それも改めて考えなおしています。
社会に「嘘」が溢れていることへの問題意識が少なかったな。
とりあえず自分はこの一回きりで、もうしない、ごめんなさい。
(追記)後釣りだと思われてたの⁉︎ 元増でも言ったけど投稿と同時だよムキー! だから正当化されるってわけじゃないですけどね。縦読みは思いつかなかった。
自分も自覚的には使わない。詭弁はもってのほかです。というか使用者側の話は何も考えていなかった。
が、自分以外の誰かが使うことはあるだろう? そのとき、表現より本題に集中すればいいし、その中身に反対なら反対すればいいし、無益そうだったら離れればよいのでは?
という考えだったのですが(説明不足)、その態度が間接的には比喩や詭弁の奨励につながるのかもしれない、と今思った。
それを批判されたのだとしたら、なるほど一理ある、という気持ちです。
誰も比喩を使わなくなるのはもったいない、とも発言してるからな。これも矛盾してるよな。
よく「セクサロイドが実現したら女性は性的役割から解放されるのにフェミニストはなんで反対してるの」みたいなこと言う人がいますが、「産業機械の誕生によって労働者に何が起こったか」と「性サービスやポルノグラフィは女性を性的抑圧から解放したか」の2つを考えれば簡単にわかる話です。
結論から述べると、私はinumashさんの意見に賛成できない。仮にセクサロイドの普及と、女性の人権状況の悪化のあいだに因果関係があるとしても、それの何が問題なのだろうか?
inumashさんの意見が誤りであることは、次のような事例を考えれば明白だ。
このように、リスクがあることや損害があることをあげつらって、人の自由を奪うことを正当化するというのは、典型的な詭弁である。
リスクや損害が相当に具体的なもので、かつ直接的なものでなければ、人の自由を奪っていい理由にはならない。
例えば現代では、女性たちの社会進出が進むにつれて、弱者男性(いわゆるキモくて金のないおっさん)が増加した。 しかし、だからといって過去の時代に戻ることはできないし、女性の社会進出を止めるわけにはいかない。弱者男性には福祉政策の充実で対応するべきだ。
セクサロイドの場合も同様である。もしそのせいで女性の人権状況が悪化するとしても、セクサロイド利用者の自由を奪っていいことにはならない。たとえ両者のあいだに因果関係が認められるにせよ、それは別個の問題として対策すればすむ。
憎むべき悪があるとすれば、それはセクサロイドという機械ではない。女性の人権を守ろうとしない政府である。つまり、もし女性の人権状況に懸念が生じるならば、我々は政府に性暴力の取り締まりと、被害者へのケア体制の充実を求めればよい。これは至極単純な話である。
ところが反対に、セクサロイド利用者の自由を抑圧することで問題に対処するとしたら、どうなるであろうか? 仮にそのような抑圧が正当性を持つならば、女性の雇用機会を抑制することで、仕事にあぶれた弱者男性を助けるという政策にも正当性が生じてしまうだろう。
また、「セクサロイドを欲しがる人たちが知恵をしぼって解決策を出すべきだ」という意見もあるが、そのような課題の丸投げをして、無責任な態度を取ることはよくない。自由のツケは、社会全体で支払うべきものだからである。
現在は女性の社会進出に伴って、弱者男性が増えただけではなく、少子化にも歯止めがかからなくなっている。女性が自由を享受したかわりに、日本は危機的状況に陥ってしまったのだ。しかし、この事実をもってして「女たちが責任を取れ」とは言えない。まして「解決策を出さなければ自由を剥奪する」と脅すのは論外だ。
inumashさんは、女性の人権が傷つく可能性があるという根拠で、セクサロイドの規制を求めている。
それならば、恋愛・結婚は、現実の女性を相手にしている分だけ危険が大きいのだから、そちらの方を厳しく規制しなければならない。
すでに現在、男たちが恋愛・結婚をやっているため、カップル間ではDVや性暴力が多数発生している。すべての男に童貞を強制し、恋愛・結婚の自由を規制したならば、たちまちこの問題を解決することができるだろう。
これはもちろん、突拍子もない話ではある。しかし、「俺たちの自由はきれいな自由、お前の自由は汚い自由」という不公平の一例だ。
冷静になって考えれば、人権侵害が起こりやすくて危険な恋愛・結婚がほぼ全面的に許容されている状態で、弱者男性が自宅にひきこもってセクサロイドを使ってオナニーすることを禁止するというのは、さすがにちょっと意味が分からない。
もっとも、「恋愛・結婚はすばらしいものだ」という価値観の方が一般的だと思う。それに、恋愛・結婚を禁止していたら社会は立ち行かなくなるという現実もある。だが、なぜそのことがセクサロイドの規制を肯定するのか?
はてなブックマークに、いかにもリベラル的な、あまりにも愚かな意見があった。
quick_past 女を穴としか考えてないやつが言うそれは、女性解放のために言ってるんじゃなくて、むしろ女性をその程度の存在だと蔑むためのレトリックだしね。卑劣なミソジニストのいつもの詭弁。
いくらなんでも、ひどすぎる。
悪意があったら規制しろって、こいつは内心の自由を侵害するつもりか。
例えば「女を性処理の道具として扱ってやりたい!」と考えている男がいるとして、彼が自宅でその妄想にふけりながらオナニーするというのは、悪意に満ちている行為ではあるが、完全に合法である。それを法律で規制する道理もなければ、倫理的に悪いことだと非難するだけの道理もない。
そのオナニーをやるための道具としてセクサロイドが加わった途端、その行為には悪意があるから規制しろと言い出すつもりだろうか?
そして、実はこのことは、エロ漫画の表現規制問題につながっている。
リベラルは「私たちはゾーニングを求めているだけで、表現規制派ではない」と宣伝していたのだが、あれはやはり大嘘だったようである。
inumashさんをはじめ、quick_pastさんのような連中が言っていることは、「ゾーニングしている物でも難癖をつけて潰してやるぞ」ということに他ならない。弱者男性が自宅でこっそりとセクサロイドを使ってオナニーする自由を奪おうというのだから、オタクが自室にひきこもってエロ漫画を読む自由を奪ってやるという話も、当然起こってくるだろう。
世間の目にふれないように工夫して、ゾーニングを徹底したとしても、「お前には悪意がある」とか、「こんな漫画は女性の人権状況を悪化させている原因だ」と言われまくって、結局そこから表現規制を行うことになってしまうわけだ。
inumashさんのツイートについて、あれはセクサロイド規制派のフェミニストの見解を紹介しているだけだとの指摘がありました。
ブコメの皆さん、ありがとうございます。
inumashさん自身は必ずしもセクサロイド規制派というわけではなさそうです。その点は私が迂闊な勘違いをして、勢いあまって批判をしてしまいました。申し訳ありません。
ただ、私が自由について論じた趣旨は、全く変更がありません。この記事の「inumashさん」という部分を「セクサロイド規制派のフェミニスト」に読み替えてください。
(追記、終わり)
この増田は、立憲民主党に好意的で、強く支持している(17/10/17現在)人間によって書かれたものである。そのへんの是非はすっとばして本題に入るので、そのことを念頭に置いてください。
小林よしのりが立憲民主党の演説会に現れたということで、お前が言うなとかまずいままでにやったことについて反省しろとか、とても、もっともな罵声が投げつけられている。まったく同意である。
一方で、これを割と素直に受け入れてる立憲民主党支持者もいる。右へのウィングを広げて支持者を増やす良い機会じゃないかという反応もある。一理あるとはいえ、なんせ小林よしのりなのでそのため、そういう人に対する疑問の声も上がった。
いまの若い世代の自称リベラルが小林よしのりを赦すなら、俺はおまえらを許さん。奴は安上がりなレイシストのロジックを基礎から作った。覚えておけ。これがお前らが声援を送った男だ。
気持ちは、とてもよくわかる。
ただ、ちょっと待って欲しいと思うこともある。
俺の観測範囲の問題もあるんだろうけど、わりに無批判に小林よしのりを受け入れる立憲民主党支持者は、若い人が多い。アラサーを少し超えた程度の俺から見ても、若い。つまり20代だったり、もっと下も混じっているかもしれない。上の西田氏のツイートでの呼びかけも、若い人に対してである。問題はここにある。
小林よしのりは、はっきりいって過去の人である。いい年をした人にとっては、昔楽しませてもらったり黒歴史の源泉になったり、インフルエンサーとして、あるいはアジテーターとして思いが深いんだと思う。でも、いま2017年という時点では過去の人だ。
考えても見てほしい。東大一直線から35年、おぼっちゃまくんから25年、薬害エイズから20年。歴史修正主義運動の前面から消えてから(おそらくこのときが最後の「第一線」にいた時期)ですら、もう15年くらいたつ。その後も小さい話題は引き起こしてるとはいえ、すでに知ってた人にとっての話題くらいにしかなってなかったのではないか。「わしズム」で初めてはまった人とかいるのだろうか。
個人的な話をすれば、高校時代にゴー宣がクラスでちょっと流行ったことがあった。オタクっぽい、本好きの間だけだったけど。
気になって最新刊を立ち読みしたら、すでにつくる会がぐだぐだになってた時期だった。つくる会という運動はともかく、小林よしのりのマスへの影響力自体はもうほとんどなくなってたんじゃないか、当時。
まあ、それでも無印時代~新の初めのころまではおもしろかったのでよく読んだ。部落差別についての一連の話も、興味深く読んだ(同和教育のない地域だったので)。無印に登場する時事的な話題は、高校生にとっては、そこで扱われてる話題のほとんどは「小学校のころ見聞きした事件」だった。薬害エイズも、オウム真理教も、おぼっちゃまくんがPTAに白眼視されたのも、小学校のころニュース番組から流れてきた話題である。今くらいの年齢なら数年前もなんとなくつい最近と思えるけど、高校生にとっての小学校時代は「大昔」だ。田舎町の高校だったからなのかは知らないが、たまたまクラスで数年遅れで流行ったから、手に取ってそれなりに影響も受けたけど、そうじゃなければ小林よしのりなんて大して意識しないまま大人になった可能性が高い。
例外もあるだろうが、自分の体験を鑑みても、ゴー宣に「ピンと来れる」のは、ほぼほぼ俺くらいの世代が最後なんではないか。扱われてる人物の盛衰もあるし。小林よしのりにちゃんと接した世代というのは、俺かもう少し上の世代までじゃないだろうかと思うのだ。つまり、30代以上である。
だから、若い人は小林よしのりなんて知らないのだ。あるいは名前くらいは知ってて、「保守の大物文化人」くらいは認識してるかもしれない、でも近年のアイヌ否定のことだって知らないし、昔のことなんてもっと知らないだろう。認識の外のものはどうやったって外のものである。若い人のせいじゃない。吉本隆明なんて読んだことはなくても名前だけはわかる。そんな感じ。
さらにいうなら、おそらく小林よしのりが「やばい」というのも通じないのだ。小林よしのりに怒ってる人は、歴史修正主義運動をカジュアル化した極右、くらいに思ってると思う。
でも、そうじゃないのだ。多分、若い人には、歴史修正主義が極右のやらかすような、行き着きすぎたところにある行動だと思っていない。それは、保守を認ずる人なら、当たり前に身につけることだ、と思われてるんではないだろうか。
回り見回したらわかるではないか。ネットも出版業界も、そういうふうにできているのだ。これも、若い人のせいではない。
間接的な話をすれば、2001年につくる会教科書が検定を通っている。2002年からは、新しい指導要領の下での教育が始まり、つくる会の教科書はその指導要領の下で採用されている。いわゆる「ゆとり教育」である。2002年に中学に入学したのが89年度生まれ。それ以後は地域によっては小林よしのり的なものに教育現場が浸食されはじめた後の世代である。被害者なのである。
数年の差はあるけど、くっつけて言ってしまえば、ゆとり教育世代(以降)は、小林よしのりを知らない。小林よしのりのことをよく知らなければ、そして、歴史修正主義に学校から世間までが侵食されきった状態が普通の世界で人生を送ってきていれば、そりゃこんなに「普通の保守」までウイングが広がった、と喜ぶほうが普通決まってるではないか。普通の保守、そのものがそういうしろものまで後退しているのである。
いや、なんだかヘン、というのはわかるのだ。でも、それを安易に難ずることは、つまり「よくわからなくても批判せよ。俺たちが駄目だと言っている」と言う話なわけで、こんなのは典型的なパターナリズムである。リベラル思想をともにする人のやるべきことではない。こういうレトリックは、自称中立とか冷笑系といわれるような連中みたいで嫌なんだけど、もちろんあの手の連中みたいなことをいいたいわけではない。
かといってほっときゃいいとも思わないので、ちゃんと小林よしのりがどういう人かを(むやみに相手を傷つけないよう)継承するしかないだろうけど。引用した西田氏などは乱暴な口調ながら説明はしているだけ良いかもしれない。
もう一つ心配になることがある。上にも少し触れたけど、小林よしのりを知るか知らないかは、「ゆとり世代」前と後に、偶然ほぼ重なっている。ゆとり世代なるレッテルをふりかざして、インターネット内外でどういうバッシングや世代叩きが起きたか、ゆとり世代以前の人間なら知らないはずはないだろう。若者叩きというと新聞やTVや「リベラル文化人」の責任に押し付けておいて素知らぬ顔の人も多いかもしれないが、これはインターネットで2chやまとめサイトの利用者、テキストサイトや個人ニュースサイトなどの運営者に重なる集団が大手を振って謳歌していた「バッシング」である。ゆとり叩きをしていたネット民、について彼らが何かを総括したという話は寡聞にして聞かない。匿名がほとんどなのでそんなこと期待するだけ無駄であろうが。
話がそれたけれど、世代間バッシングの被害者世代がその上の世代をどう思っているかは、俺にもよくわからないところがある。ただ、目に見えないところに微妙な反感が潜んでいても、あまり非難はできない。
なので、たまたま分断ラインがほぼそれとかぶっていると思われるこの小林よしのりの評価をめぐる見解の相違は、乱暴に扱うととんでもないものに着火させるような気がする。
むやみに相手を傷つけないよう、などと注釈したのも、そういう理由であって。
若い人はともかく、小林よしのりそのものには擁護の余地はない、大いにバッシングすべきだ、という意見もあろう。すごくわかる。
ただなあ。
小林よしのりって、自分の見込みからズレるとすぐ相手を罵倒しはじめるじゃん。事例はそれこそ星の数ほど。
うかつに叩きまくると、蛇を出してきそうでめんどくさそうなのだ。一方、↓みたいな危惧もある。菅直人が手のひら返されたのなんてそれこそあっという間だったわけで(しかもゴー宣見る限りでは、主なきっかけは「対談を断ったから」)。
バッシングするなとはいわないが、いろいろと腫物扱いしておくべき人だな、という気はする。
今回の選挙は、多分、立憲民主党は議席を伸ばす。とはいえ、自民党も伸ばすのだろう。希望の党がポシャったので。安倍晋三の顔にタテ線を入れるという意味ではもう少し希望の党が持ちこたえて欲しかったが、それ以外の意味では希望の党がしぼんでくれて良かったわけで、まあしょうがない。
なので、これからが大事だろう。立憲民主党がいつまでも追い風なわけもない。これからさまざまな合流もあるだろうし、いろいろな批判も出てくるだろう。すでに公明党が目の上のタンコブを検出してロックオンしている。
立憲民主党Twitterはやけに上手い。きっとネットに造詣のある人がやってるんだろう。でもそういうさばけた感じでうまくやる人と、やらかす人が紙一重なのはネットウオッチャーには常識である。何とか炎上させるための火花がほしくて仕方ない人はきっと与党支持者を中心にいっぱいいるわけで、上げ潮だからこそ心配、な案件かもしれない。
というわけで、あんまり立憲民主支持者がのんびり自分たちの陣営が予想以上に多いことを喜んでる場合ではあんまりない(連日TLで見かける立会演説の写真は、うぉーっとは思うけどそういう意味でつい一歩引いて見ている自分がいる)。そこに安易な世代間バッシングの火種を投入するのは、いま立憲民主党に期待している人にとって、まったくいいことがないと思うのだ。もうちょこちょこと局所的なディスカッションが発生しているのは自分の観測範囲でも見かけるし、わかるんだけど、これが躓きの石になったら、さすがに残念すぎるだろう。
主人公たちの使う武器が凶器、子供が真似すると危険だと苦情が来たのだ。
父たちはその対応におわれていた。
「『私はヴァリオリが好きです。だが、ああ、なんてことだ。登場人物たちが凶器を持っている。青少年の健全な成長を妨げる。これはよくないことだ』とのことです」
同僚のフォンさんが苦情内容の一部を読み上げる。
一見すると尤もらしいことを並べてはいるが、その実は抽象的なテーマに対して恣意的な判断を下しているに過ぎないことは見え見えだったからだ。
それでも厄介なのが、このテーマについて知らない人間からすれば“それっぽい”と思える程度のレトリックは使われていることだ。
「的確ではないが間違ってはいない」要素を抽出し、それを根拠に自分の主張と織り交ぜてロジカルに語れば、いちゃもんは“一つの立派な批判”になる。
無視したいのに無視するわけにもいかない、非常に目障りな存在となるわけだ。
「そうだな。言論そのものは自由だ。そして、その内容をオレがどう解釈するかも、な」
「して、結論は?」
「その意見は自身の好悪の問題を善悪と混同している。それを正論に摩り替えて、意見を押し付けてくるばかりの頭でっかちな輩だ」
シューゴさんの吐く毒がいつにも増して強い。
ことあるごとにこういった“ご意見”がきていたためウンザリしていたからだ。
「まあ、いつもどおり“前向きに検討”しておけばいいんじゃねえの?」
社会における“検討”というものは、得てして結論とはさして関係がないことは周知の事実だ。
シューゴさんの立場から見れば、その意見がいくら論理的に見えても、そもそもの“目的”が同意しかねるものなのだ。
その意見を「一つの批判」として了承し、真面目に取り合うこと自体が思う壺だと判断したのだろう。
そうして、今回もシューゴさんたちはスルーを決め込むつもりだった。
「それが……今回は随分と大事になりかけていて、非常に面倒な状態に。“上”の数名からも『ウゼェから何とかしろ』とお達しが」
「は~ん……」
フォンさんの濁しつつも含みのある言い方に、シューゴさんは何となく察したらしい。
この時期、裏では『ヴァリオリ』の表現を問題だと思っている人間たちが徒党を組んで、親会社に直訴していたのだ。
それに耐えかねた会社の代表は、とうとう父たちのスタジオに通達を出したのである。
「不服ではありますが、こうなるとガン無視というわけにもいきませんね……」
「そうですよ。それに一番困るのは、そんな理由で親が子供たちにアニメそのものを見せないようにすることです」
「“子供のことも考えて”か。そのセリフを言うのはいつだって一部の大人だよな」
しかし子供を盾にされると、さすがのシューゴさんもバツが悪い。
シューゴさんの両親は厳格な人物で、そのため彼は少年時代を娯楽に飢えて過ごさざるを得なかった。
その経験から、親の理想で子供が犠牲になることほど悲しいものはないと思っていたのだ。
「……ちっ、分かったよ。もめ事が起こると疲れるだけだから、とりあえず従っておくか」
シューゴさんは作り手として、多少の批判を恐れていてはモノ作りなんてできないと考えていた。
それを汲み取りたい気持ちは父やフォンさんにもあったが、上の声が大きくなったときに無視とはいかないのが企業の常だ。
大人しく従ってくれるシューゴさんにホッとしたと同時に、彼の鬱屈とした想いが手に取るように分かることもあって父は複雑な気持ちだったらしい。
「では早速対応……と行きたい所ですが、スケジュール的に数話分の大幅な修正はもう無理ですね」
「そうですね。なのでオープニングの前に、ひとまず“あのカット”を挟みましょう」
「うげえ……“アレ”かよ」
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1153261
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170921/ddm/016/070/003000c
あとシノドスのフリーライターのレポートもあったが、どれも「医術と呪術を混同する両論併記をやめよ」という趣旨が確認できる。
林智裕についてもそうだが、「これ以上福島県の健康被害について口をはさんではならない。それは差別だ」という論旨であり、
林氏は心無い中傷で県民が傷ついているという批判の中で「呪い」という言葉を使っていた。
本来は全文を読むべきだろうがまず書いておく。
壊滅的な被災のなか、復興への向けて頑張っている人が悲観的な話を聴くのがつらく、実際に精神を病むこともあるだろう。
そうした福島県民を始めとする東日本大震災の被災者の皆様の気持ちは自然であることは認める。
しかし、隣県の新潟県では原発事故についての検証委員会が始動しだしたところである。
私自身、なぜ「子供たちの未来」云々が危険視しようが安全視しようが登場してきており、政治的支配欲が出ているようで非常に不快だし、
泥流による放射線の健康被害から本来定住すべきではない場所だと言われてむっとしたこともあるが、
新潟県知事選当時、県内在住の反原発派から「お前は本当に福島県民か?」というような差別発言は聞かれなかった。
(インターネット上で選挙運動や訴訟活動を行っていることを明記した人物に限定した話ではある)
現在、在日コリアンを念頭に外国にルーツある人物へのヘイトスピーチは違法化された。
この前例に則り、学術会議への異論も福島県へのヘイトスピーチとして違法化され、
事実、在日朝鮮人や沖縄人への民族差別をアナロジーとして、福島県民への差別を説明するレトリックは存在している。
このような議論は被差別民族への想像力の欠如と思われるかも知れないが、対策法で最も懸念されていた問題点である。
しかしポストコロニアルな当事者性を強調することで国や東電の構造的責任が看過されてしまうことはないのか。
実際に被災した地域を二度と同じことを繰り返さないよう防災の観点から引用し検討することすら差別や呪術であり、
野蛮な攻撃とすることは学問の権威化であり、自由を害することである。
こうした声明が突き付けられた以上、このような論理は粗雑過ぎると一県民として明白に考えざるを得ない。
2007年の中越沖地震での放射能漏れが原体験として上げられている。岩手県の震災瓦礫の件はここを改めて意識してほしい。
チェルノブイリは福島第一よりも安全という発言は海外への県の農産物輸出戦略の一環である。
国際的観点から見て廃炉出来ていない原発がチェルノブイリに比して安全だと言えるのか。
ショッキングな発言だったかとは思うが、公人として県政運営のなかで必要な見解だったのであり、
過激さをもって差別発言と断じることは不公平であり、思いとどまってほしかった。
(不幸にも彼は権力基盤上、排外主義を扇動している自民党からしか国政候補へ立候補できなかった。これは彼を被災者レイシストと断ずる根拠になりうる)
私の知る限り、泉田知事が被爆が疑われる人物に意識的に差別的な県政を行ったという情報はない。
四期目を断念した後自ら原発に屋根を作った云々という恩着せがましい発言をしているが、
撤退理由であるフェリー船問題は船を売りつけた韓国企業が東京電力からの度重なる広告出稿を受けた新潟日報と結託しており、
そのような形で追い込まれて撤退した人物が、悪いことばかりしたわけではないという弁明はある程度必要なはずだ。
このような極めて強引なかたちで引きずり降ろされた人物に、撤退後まで完全に無難な言動を求めるのは酷すぎる。
県民の代表が、極めて不自然に引きずり降ろされたなか、このような声明を出すこと意味を想像していただきたい。
http://www.blossoms-japan.com/entry/2017/08/26/192202
>id:blossoms_japan さんに IDコールされました。
>非常に申し訳ないのですが、わかりやすいまとめとは誰が述べているのでしょうか。そして余計な形容詞とはなんでしょうか。ご教授いただければ幸いです。
ブログを読み返してみて、確かに わかりやすいまとめ という記述はありませんでしたが、
blossoms_japan氏自身が同様の趣旨のことを述べていたと解釈したためそのように書きました。
タイトルに「(略)わかりやすく解説」 とあり、赤字で「最近騒がれているワインセラー、図面云々の話をまとめながら、
その周囲の野党議員をはじめとした人々の衝撃的発言をまとめておこうかと思います。」とあります。
明らかに間違った記述ではないと思うのですがいかがでしょうか。
余計な形容詞とは、事実を述べるにあたって不要と思われる形容詞すべてです。
事実は事実、それに対する筆者の評価は評価として分けて記載するのがよいと私は考えます。
例;
悲しいぐらい←筆者の嫌味を込めたレトリックであり事実の記述としては不要
小さな方向に向かって←終息しつつあるような印象を与える
総理の意向どこ吹く風←追及側が総理の意向に関して無視を決め込んでいるような誤解を与える
引っかかったのは序文だけであり、形容詞が「多い」は言い過ぎました。すみません。
言いたかったこととしては、形容詞は必ずしも状態の客観的な表現とは限らず、
筆者の評価・意見を強く反映していることに留意すべきということです。
メディアは媒介であり、情報発信者と受信者を媒介して伝える手段で、
ひそひそ話からマスメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)にまでその範囲は及ぶ。
伝言ゲームの喩え通り、その間媒介者たちによって情報の取捨選択が起こり、あるいは補足が行われ(尾ひれをつけるなど)
情報は当初のものから乖離、変容していくものである。これが大前提である。
その間の取捨選択、要するにふるいにかける作業や言葉をかみ砕く作業なども当然のように想定しなければならないし、現実もそうである。
これらの行為をマスコミュニケーション行為と呼ぶのであって、
この略語であるマスコミの当事者には、情報発信者から受信者まで全員含まれる。
このふるいにかけたり、かみ砕いた表現をとったり、外国語を翻訳したり、あるいは不要な修飾語を多用したり、
悪意ある場合には尾ひれをつけたり、推測や願望をこっそり忍ばせたりする行為を、どのように呼ぶかは自由である。
ある人は偏向というし、またある人は報道しない自由というし、さらに別の人は編集などと呼ぶかもしれない。
では、下ごしらえしていない食材と調味料を置かれ、お好きに料理してくださいと言われたらどうだろうか。
いやここでも、食材や調味料の選択の恣意性を排除できないという人もいるだろう。
では、森に連れて行って、お好きなものを収穫して、ご自由に料理してくださいと言われたどうだろうか。
いや、わたしは魚介類が食べたい、森へ連れてくるなど偏向していると主張する方もあらわれるかもしれない。
閑話休題、たとえば海外のニュースの恣意性を排除するにはどうすべきか。
また人間誰しも文章を書くときには修飾語や過度の強調表現をとりがちであることも論を俟たない。
修飾や強調によって表現が豊かになり、多くの文学作品が生まれたはずである。
まず貴女があたかも客が「童貞か非童貞か彼女いたかいなかったか分かる」と言っているのが意味不明。
相手が自己申告してるわけでもないのに「うわあこいつ童貞だあ」って思ってるだけじゃないの?
どんなキモかろうがコミュニケーションが取れなかろうが非童貞(非・素人童貞)の男という存在を考慮に入れていない。
「いや相手が童貞と自己申告してたんだよ」とか言うのかもしれんけど、そんなの根拠にならない。
風俗では「童貞と自己申告しておけば優しくしてもらえる」というのがお得感が(根拠あるかは不明だが)客の中であるからだ。
だから風俗の客は実際に非童貞だろうと童貞と自己申告したりする。そんなもんだ。
よって相手の言動とか振る舞いとか自己申告とかそれら全て合わせもって「童貞か非童貞か判断する」ことは不当と言わざるを得ない。
一応言っとくけど「精神的に童貞かどうかを問うているのであって実際に童貞かどうかは関係ない」等というクソレトリックは無効だから。
結局「コミュニケーションできない童貞に多くでくわした」→「童貞はコミュニケーションできないのが多い」という帰納法を自分ではしてると思ってるのかもしれないが、
貴女の中に存在する「童貞はコミュニケーションできないのが多い」という偏見が先に来てて「出くわしたコミュニケーションができない男」へ強引に「童貞」というレッテルを貼っているようにしか見えない。
昔は業界用語(ジャズの人達が作った)や、2ch用語とかがあった。
べつに過去を懐かしんでるわけじゃない。良い感じに人がバラけて共通言語を使う必要があるからかもしれない。
アメリカ英語ではあまり見かけないが、イギリス英語には、驚くほどレトリックが多い。私の知らないマイナーな映画やイギリスのコメディからの引用である。これは悪い意味で教養を感じる。
同時にそんな世界がないのが、ちょっと怖い気がする。若い人達はスマホを片手に何を話しているんだろう。
自分達にしかわからない言葉が、仲間には必要なんじゃないか。誰かにはわからなくても、意味はなくても必要な言葉が約束という共通言語の代わりになる事があるんじゃないのか。
小学生から掲示板やチャットにハマって、中学生でテキストサイトを運営してそこそこ有名になった(雑誌に載るていど)ころから10年が経った。今では2chも個人ニュースサイトも個人テキストサイト(noteとかミディアムとかに当たるのか?)も興味なし。つまらないとは言わないけど私には合わない。twitterもいっときはハマったけど、私がインターネットに欲してるのは「読みもの」だから、そもそもソーシャルネットワークとは関係がなかった。タイムリーで、専門性もあって、レトリックにもキモい味わいがあって、2chみたいな匿名性も残されている増田は、私にとってインターネット最後の砦。っていう日記を同じベッドで馬鹿ヅラして寝てる彼氏の隣で書けば増田文学みたいになれるかな?って思ったんだけど、いまいちだったわ。でも「最近のインターネットはつまらない」とは言ってないだけ偉くない?意識してないけどそもそも若者や新しいカルチャーに理解があるほうだったんだなって自分で思うと安心する。あとカレーにちょい足しするのにオススメな具材教えて、今流行ってるし明後日くらいに作るから。