はてなキーワード: レトリックとは
非実在児童ポルノ、著作権侵害罪の非親告罪化、インターネット・ブロッキングに続き、青少年のネットゲーム時間規制問題も、韓国の後を追うように出てきました。
国際法・国連システムをレトリックに用いた表現規制の動きに対抗するために、我々もいっそうの国際協力を進めていく必要がありますね。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) 2020年1月22日
しかしこうしてみるとやはりこの手の規制を押し進めようとしている連中って統一系なのかな?と思ってしまうね。
この手の規制は色々な団体の思惑もあって一概には言えないけど、統一系がこの手の規制を率先して進めていたのは特に児童ポルノ関係の件で社説とかまで出していた時点で明らかだしな。
お隣の韓国で実体経済に見合わない大幅賃上げしたら景気壊滅して失業率くそあがった話でもする? https://t.co/JFP2Km8TU6— もへもへ (@gerogeroR) January 17, 2020
まだこのレトリック使ってるのか…。
れいわの政策では政府保証により最賃上げ分の負担を担保するとしている。併せて消費減税により中小企業の負担も軽減できるという二段構え。
韓国の最賃上げは負担が企業にかかってしまうので似て非なるもの。
…と何度説明しても彼らはデマを止めないんでしょうね https://t.co/ElluwgcP94— cargo🌹🐾💴 (@cargojp) January 17, 2020
これイジメっ子は大助かりだろ。
「単なる自意識過剰。お前ごとき〜」論法で相手を問答無用で黙らせられるだけじゃなく、周囲も同調してくれるんだからやりやすくて笑いが出るはず。
実際、「誰もお前なんか興味ない」でぐぬぬと黙らせたすぐそばから挙動真似して後ろで笑い者にする陰湿グループとか学生時代のあるあるだったわけじゃん。
だから「誰もお前なんかに興味ない」って「肩の力を抜いて」って意味のアドバイスでも言わないほうがいいと思うのですよ。定番のレトリック込みアドバイスにもはやなっちゃってるけど。
過去に集団ストーカーに加担したことがある身としては、「誰もお前のことなんか興味ない」が強すぎるフレーズになってる現状に危機感を覚える。
私はあなたに滅茶苦茶にされたい。
私の心に一生消えない爪痕を残してほしいし、あなたの作品に触れる度に情緒を乱されたい。
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“こんな風にキャラクターを作るといい”
“最低でもこういう風に作品を作れ”
“キャラの口調はこういう風に設定するといい”
近頃一時創作における「創作論」を目にすることが多くなった。“小説家になろう”みたいなサイトで一般の人でもうまくいけば出版してもらえることが増えたからだと思う。得れる作品を作ってワンチャン。wannabe。俗にいうワナビが増えたんだろう。
前述のアドバイスは“売れるため”にこうしたらいい、というアドバイスであるらしい。売れたいけど売れていない作家向けの善意のアドバイスなんだと思う。
こんな風に作ったら皆に読んでもらえるよ、皆に愛される作品になるよ。売れるよ。
本当にそうだったら素晴らしい。
私自身、作品を作っているから「読んでもらいたい」という気持ちはわかる。作者としてはいろんな人に自分の作品に触れてほしいし、愛されたい。作品を愛してほしい。「この話いいよね、刺さるよ」って言われたい。そういうものを作りたい。誰かの心に一生消えない爪痕を残したい。
だから、“作者としての私”は、“作家としての私”はそのアドバイスを積極的に否定しようとは思わない。
おそらく、作品を作る人なら誰だって「自分の作品に触れてもらいたい」からだ。
その一方で読者としての私は「他人の創作論にすがるくらいなら筆を折ってしまえよ」と思う。
本当にそうなるか(売れるか、愛されるか)どうかわからない誰かのメソッドで安易に自分のスタンスがぶれるなら、筆を折ってしまえよと思う。
私は作家が好きだ。
作品を作る人が好きだ。
自分の内側にある世界を、自分の外側に作り上げる人達が好きだ。
だからこそ余計に筆を折ってほしい。
自分ではない第三者の、“当たるかどうかわからない”メソッドでスタンスがぶれて唯一無二のあなたの世界が歪むくらいなら。だったら今すぐ筆を折って、そのままのあなたで私の永遠になってほしい。あなたの世界を他の誰かのあやふやなメソッドで薄めて欲しくない。
これは持論だけれど、作品とは作家のもつ狂気が実体を得たものではないかと私は考えている。
絵画などの実際に形をなした作品でも、音楽や文章などの実際には形のないものでもそうだと思っている。
作家の持つ人生観、倫理観、何かに対する考察や愛、執着、すべてが入り交じって生み出されたもの。それが狂気であり、作品だと思っている。
自分の内側にある世界を自分の外側に生み出す行為。それに狂気がないなどとは思えない。
作品を作ることは自分と世界とを繋げる行為であって、いわば“呼吸”であって、第三者の目に触れることで作家は作家としての自己を得ていく。作家として生きられる。
作品とは作家そのものの“概念”だと思う。作家が今まで経験してきたものを概念レベルにまで落としこんで表現したのが作品だと思う。だから、同じ作家の作品には同じ匂いを感じる。共通する世界観がある。作家を感じられる。
その“作品”を、美しい狂気を、麗しく鋭く研がれた爪を、誰かのメソッドで一般化されたくはない。私はそう思ってしまう。
作家の持つ“感性”という雑じり気のない狂気に私は触れたいし、“作品”という爪でズタズタにされたいから。
まだ出会えていない作家の、まだ見ぬ推し作家の、本気の“狂気”を理論で塗りつぶされたくない。
作品から垣間見える人間性、人生観、作品へのスタンス。そういうものを鋭く尖らせた“表現”という爪を丸く整えてほしくないのだ。
作品として成立させるためにある程度の“理論”は必要だと思う。読みやすい日本語、情景をより伝えやすくするためのレトリック。そういう意味での“理論”を伝えるというなら私は大賛成だ。より多くの作家の“狂気”をより効率的に摂取できるから。作家の構築した世界をより分かりやすく感じられるようになるから。
でも、作品の本質にまで“理論”を出すのはやめてくれと思う。思ってしまった。キャラクターの“キャラ”の口調はこうした方がいい、こういう性格の方が取っつきやすい、世界観を作り上げるなら最低でもこれとこれとこれが必要だ──。
全部しゃらくせえ。好きなように書いてくれ。好きなように書いて好きなように狂え。あなたの狂気で私を満たしてくれ。あなたが考えた世界で私を狂わせてくれ。
分かりやすいキャラクター、分かりやすい話運び、そういうのは読みやすくて分かりやすくなるかもしれないが、結局“一般化”だ。誰が見ても何となくわかって、誰が触れてもまあ大丈夫なもの。量産品。いつものやつ。
でもそこに作家の持つ“色”はあるんだろうか。そこに作家個人の“感性”はあるんだろうか。
“売れるように”量産されて一般化された作品に何を感じればいい?
“どこかで見た”何かは誰かの心に爪痕を残せるか?刺せるか?
前提として“売りたくて作る”作家と“作りたくて作る”作家がいることははっきり認識している。私は後者だ。作りたいから作る。
でも前述のアドバイスを自分に取り入れるのは前者だろう。売れる方法があるなら試さない道理はない。売りたいんだもの。だからそれを積極的に否定しようとは思わない。合理的だから。目的に対する手段が一致しているから。
でもそれ、“作家”なのかなあ。
そんなことをずっと考えている。
最初に見た他人のレビューが安っぽく狂気狂気と書き立てるものばかりで失望した。アーサーは狂ってなんかいない。むしろ最初から最後まで一貫して、彼には完全な判断力があったし、正気だった。
僕が一番好きだったのはゲーリーを逃がすところだ。この映画のそれ以外の全てと釣り合うほどに素晴らしかった。映画史に残る名シーンだと思う。
家に二人で訪ねてきた元同僚の片方を滅多刺しにして殺し、もう一人も手にかける——、手にかけるだろうと、そう観客は予想する。しかしアーサーは彼の事は見逃した。行っていいと。しかしドアの鍵が閉まっており、小人症で手が届かない彼が、殺人者である当のアーサーに開けてくれと頼む。アーサーは鍵を開けてやり、彼を送り出す。ただ気紛れに見逃したのではなく、ゲーリーのことは本当に殺すつもりがなかったのだと、ここではダメ押しでそう強く明示して見せているのだ。「優しかったのは君だけだ」と額にキスまでして。
なんて涙ぐましいシーンだろうか。アーサーはただ愛が欲しかっただけだ。誰かに愛されたくて仕方がなかったんだろう。愛されればそれに報いることができる正常な人間だった。正常だからこそ、自分に降りかかった世間の悪意に正しく報いて、彼はジョーカーになったのだ。映画的なレトリックでそれを説明し果せている。この直後に初めて、あの紫のスーツの、お馴染みのジョーカーの姿になり、あの階段を下った。晴れ晴れとダンスを踊りながら。しかしゲーリーとのあの別れの直後だけに、どこか空っぽの乾いた悲しみを感じさせる。
「優しかったのは君だけだ。」アーサーはすべて、ちゃんと言葉にして語っていた。正常な知能と判断力の賜物だ。ウェインを訪ねた時も。金が目的だろうと言われ、違う、そうじゃない、欲しいのは温もりとハグなんだと、言葉にしてちゃんと主張してみせている。しかし、返ってきたのは暴力だった。最後にTV番組に出演した時も、司会者に自分の主張を過不足なく説明している。何もない奴を笑いものにし、足蹴にするとどうなるのか見せてやると。そして銃で撃ち抜いた。
作中の事件を伝えるニュースでは、犯行の動機として「格差」があると触れている。これも良く計算されて織り込まれていたと思う。今この時代に、悪役を主人公としたこの映画が作られたことの必然性がここにある。
証券会社の三人組も、チャップリンの映画を見ているシーンでも、金持ちたちは皆、小綺麗な黒のスーツを着ていたのが印象的だった。これは明らかに意図的なものだ。創作作品一般の「悪者は黒色で表される」という不文律を上手く利用して、アーサーの目から見た世界を描いているのだ。彼にとって上流階級とは自分を疎外し苦しめる悪者でしかなかったから。ここに善悪の相対化が、全くの反転がある。「狂っているのは俺か?それとも世界の方か?」という序盤の問いかけは、敢えてこう言い換えてもいいだろう。「冷酷な殺人鬼とは俺の事か? それはあいつらの方じゃないか。」
小綺麗でピカピカな正義のヒーローが、正しい暴力を振るって悪者を懲らしめる。その昔ヒーローものといえばどれもこんな風だった。単純化されたストーリー。分かりやすい善悪。悪者はボコボコにされて言葉を奪われ抗議することもできない。何故ならその暴力は「正しい」のだから当然だ。
みんなヒーローの方に自分を重ねていた。勿論バットマンを見て育った子供たちも。しかし現代ではこの悪者の側に感情移入する人も多いのではないだろうか。やんごとなき上流階級の人々が、政治的に正しい暴力を振るい、庶民を搾取し痛めつける。この社会にそっくりだ。皆自分が殴られる悪者の方なのだとうっすらと自覚している。小汚い貧乏人には抗議する権利もない。何故ならその暴力は「正しい」からだ。“悪者”は黙って殴られていろと、社会システムが無言で言っている。
誰がやりたくて悪者をやるだろうか。誰が好き好んで罪を犯すだろうかと、今になって分かるのだ。あのピカピカの正義の味方に殴られていた「やられ役」は、生きていく中で仕方なくそうせざるを得なかった「弱者」ではなかったか?
僕はその後、更に他人の書いたレビューを読んでみて、やはり憤りを禁じ得なかった。
何も持っていないゆとりの無い人間に対して、それなりに足りてる奴が、安全な場所から、もっとこうすれば良かったとか、小人症の男と仲良くすれば良かったのにとか、あまつさえ大して不幸じゃないとか、上から目線の薄っぺらい正論を、自己責任論を披露する。それは正義の味方が「わるもの」を力一杯ぶん殴る構図そのものではないのか。
この映画に共感せずに済むような人たちは、自分がどれだけ恵まれていたかに気付いてない。絶望的に愛情に飢えていて、精神的なゆとりを根こそぎ奪われた人間が、どれだけ不自由でままならないか。それを知らずに済んだ幸運な人たちだ。「こうすれば良かったのに」だと? それができたらああはなってないだろ。「お前は怠けている」とでも言いたいんだろうか。できるならとっくにやっているのに。
「不幸すぎないから共感を生んだのでは」という意見は、少し違うと思った。少しズレている。正確に言うとこれは「福祉の谷間問題」なのだと思う。歩けなくて車椅子とか、目が見えなくて杖をついてるとか。誰の目にも明らかな障害者なら公的な支援を受けられるし、みんなに助けてもらえる。でも微妙な障害だったら? 見た目が普通で症状が分からない、健常者と同じように扱われるのに、しかし健常者ではない。実際には軽微な障害があり、仕事や日常生活で「現に」困っている。困っているのに、誰も助けてくれない。こういうのを福祉の谷間という。発達障害やチックなんかがそうだ。或いはアーサーみたいな、感情が高ぶると笑ってしまうという障害もまさしくそれだった。周りからはそれが障害だと分からないのだ。本人はとても苦しんでいるのに。そして誤解と偏見に満ちた視線のせいで二重に苦しむ事になる。それはこの映画に「大して不幸じゃないじゃん」と言い放った人たちの正にその視線である。ここに地獄がある。
“有色人種なら贔屓してもらえたのに” 白人だから何もない、自分は現に困っているのに、何の手助けも受けられない、ホワイトトラッシュと呼ばれる人たちも、谷間問題という意味では本質的に同じだった。彼らは事実ジョーカーみたいな政治家を支持した——。ドナルド・トランプだ。この映画はこういう人たちの共感を生んだのだと思う。だから社会現象になったのは必然と言えるし、解釈に分断が起こり、理解できる人とできない人とで真っ二つに分かれてしまったのも、必然だったのだろう。
「表現の自由」を唱える人たちが、ポスターを批判する側の主張を曲解した上で、よってたかって炎上で潰している風景は本当に酷い。なぜ矛盾を一片も感じないのだろうか。
「表現の自由」を語るのであれば、他者の批判(特に顕名で覚悟をもって発言している人の批判)に対しては謙虚に受け止め、その内容について丁寧かつ正確な理解に努めることが最低限だろう。この最低限に到達している人がほとんどいない。
しかも、今の時代こんなの当たり前だとか、エロに感じているのはお前だけだとか、若い人は違和感を持っていないとか、自分を「多数者」「時代の潮流」の側に置いて、「今の時代はこれが多数派だから正しい」というレトリックを濫用している。批判者が「時代遅れの少数者」だとして、その主張を尊重することが「自由」を尊重することではないのだろうか。
「自分の趣味をキモいと言われない権利」を主張しているならむしろ賛同するが(ポスター批判者も別にそれを否定している訳では全くない)、「表現の自由」を語る以上は倫理的な面での批判に謙虚にならなければならない。
元増田も酷いしそれに対する反論も酷いし何もかも酷い一連の増田なんだけど、こんな地獄を見ていちいち「同じ女性として」罪悪感を覚える必要ないよ。まあそれと同じくらいこんなお説教を読む必要もないんだけど。
私は男性だけど、「まんさんがー」とか女性ヘイトを垂れ流す男性を見ていちいち「同じ男性として恥ずかしい」なんて思わない。(昔は思ってたけどね。)ただ「差別は見ていて気分が悪い」それだけ。その方が心の健康にはいいと思う。
こういうのはもう男とか女とか以前の問題でしょ。知能と性格の問題。
というかまあ、言いたいのは単に「これに賛同しない女性もいますよ」ってことなんだろうけど。一般的な話として、主張は回りくどい皮肉やレトリックを用いるよりもストレートに言った方がいいよ。(実はそれこそ簡単じゃないんだけどね。)
そりゃ移住は簡単じゃない。だが自分と家族の命には代えられないからシリア難民は国を捨てて小さなボートで決死の覚悟で地中海に漕ぎ出してるんだろう?
『生きるか死ぬかの瀬戸際』、要するに本人の主観的にはシリア難民とさほど変わらない危機感を抱いているこの女性が今すぐソウル直行便のチケットを買って家族を連れて日本を離れない理由はなに?
少なくとも韓国に入れば日本人に殺されることはない。路上でホームレスやっていれば施設に収容してもらえるかもしれないし、万引きでもして拘置所に入るのも良いかも知れん。マスコミの取材に応じて「日本人に殺されそうになって逃げて来た」と涙ながらに韓国社会に訴えれば、同情が集まって当面の生計や職業訓練を受ける道も拓けるかも知れない。何よりも韓国籍なのだから、殺されるかもしれない恐ろしい日本に強制送還されることは絶対に無い。
それとも、『生きるか死ぬかの瀬戸際』というは、ちょっと盛ってみただけのレトリックでこの女性は本音ではそこまで危機感を抱いているわけではない、だから日本脱出のアクションは特に起こしていないということなのかな?
だとしたら、メディアが根拠無く「日本人が韓国人を殺そうとしている」などというヘイトを煽るアジテーション、ただの個人の妄言を報道するのはいかがな物かと思う。
もし韓国在住の日本人が「私たちはいま、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。韓国にいる日本人は殺されかねないと想像している」と大した根拠も無く妄言したならばどうか? この日本人は不当に韓国を貶したと批判されるべきではないだろうか?
「私は在日3世」。彼女は手を震わせながら、渋谷で聴衆の前に立った。
https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/korean-action-1
「私たちはいま、生きるか死ぬかの瀬戸際にいると思っています。今の時代は、個人情報を簡単に渡せるので、突然いろんな人がやってきて、連れ出されて殺されるってことも想像しています」
主にMMT economistsから。(尻馬に乗ってる奴もいるが)
https://twitter.com/paulkrugman/status/1164604703424090112 のリプライ
twitter.com/mtwestra/status/1164778010534244352 おめーもサマーズもMMTから一つ二つアイディアぱくってて乙 Looks like @LHSummers and yourself picked up an idea or two from MMT. Congratulations on finally catching up with reality!
TFW you look down your nose at the economic prowess of a Nobel laureate in economics. ノーベル賞受賞者の腕前を煽る
Your model was/is/always will be a fraudulent misrepresentation.Retire. さっさと引退しろウソツキ
Complete snake oil rhetoric... What a hyperbolic & disingenuous numb skull. Or he's intentionally fear mongering. 完璧にガマの油レベルのインチキレトリック、誇張、腹黒 大げさな恫喝
@RaulACarrillo (弁護士 lefty lawyer)
Why can't you and the others just recognize that you were wrong for YEARS while others were consistently right? 他の人が一貫して正しい一方で自分が何年も間違っていたと認識すればいいだけなのにそうできないのはなぜよ?
This is intellectual gatekeeping and a disservice to the public. A little integrity would be nice. 国民全体に対する害毒でしょ。
This is you. Spring 2011. When it mattered. @DeanBaker13 was right to call you out. 8年前にディーンベイカーに名指しで間違いを指摘されてたじゃん。
“All progress must come from the maintstream” ハイハイ、進歩は主流派からしか出てこない、出てきちゃいけないっていつものやつね。
shamelessly trying to force decades of heterodox research into a memory hole. 非主流派経済学の何十年もの研究成果に知らんぷりかよ。恥知らずめ。 8年前にフルワイラーに言われわたことを忘れたとは言わせないぞ?
@FadhelKaboub Economics Prof.(Denison university)
Paul, your intellectual dishonesty is mindboggling. おめーの知的誠実性の欠如にはめまいがするわ。こっちが30年も言ってたことを「2019年にジャクソンホール」で発見、だと? #恥知らず。
Umm. I remember when you bashed Stephanie Kelton for saying what you are now saying. Do I need to link to your own words of just a few months ago to spur your memory of your own words of just a few months ago?
おめーが今言ってることはほんの数か月前におめーがバッシングしたケルトンの主張そのものじゃねーか。記憶力に障害があんのか?