はてなキーワード: レトリックとは
https://anond.hatelabo.jp/20201230010318
1+2 = 生まれ持った性質に基づいて馬鹿にしている。という、大変な危険行為、国際的に炎上するアレやソレとイコールなんですけど。でも婚活コンサルはそれをわりと堂々とやっているのがすごい。もうちょっとオブラートというか、レトリックを駆使するなどして、ポリコレからカムフラージュした物言いにしたほうがいいんじゃないか?って思うけども。無防備すぎやしないかな(助け舟)。まあ駆使したところで見抜かれてしまうんですが。
個人的には1単体は同意なんですよ。同じ見解を持っている。確かにモテる人間って、「まず女の子と食事に行くとするじゃん?」から話を始めるけど、そもそも非モテはそこにたどり着けないんですけど。というスタートラインが決定的に違いすぎて話がかみ合わないやつ。ただ2は否定ですし1+2も否定ですねー。
じゃあ先天的モテを持たざる者として生を受けてしまったら、どうやって結婚すればいいか?というと結婚は実際問題難しいだろうねハードル高そう。個人の努力ではどうにもならないやつだ。それが昔であれば国民皆婚体制という社会構造によってハードル低くなっていたけど、いまはもうそうなっていない。
じゃあ、いよいよもって、先天的非モテはどうやってよりよく生きていけばいいのか?というのは、まあとても難しい問題ですよね。僕もそうだし。みんなして手探り状態だよね実際。
今回のアツギの件では、多くの二次絵批判と同じく「性的消費(性的搾取)」といった用語による批判が見られた。
(https://digital.asahi.com/sp/articles/ASNC46FQKNC4UTIL00Z.html の有料部分など)
フェミ学者がこれらの語を用いて、表現物の中身について性差別の存在を仄めかすレトリックの結語はいつも「性差別を助長する恐れがある」である。
と二段構えにすることで、表現物にあるはずのない性被害の責任を表現物の側に押し付け、不快感にすぎないそれを性差別に偽装するところにある。
例えば、性的な内容を含む表現物を見せることを"強制"したり、性的な内容を含む表現物を間に挟んで"囃し立て"を行ったりした場合だ。
しかしこれらはあくまで強制や囃し立てという行為が悪いのであって、表現物が悪いのではない。
どんな表現物であれ、それを通して人権侵害を行うべきではないという倫理は、表現物ではなく人間の側に求められるのだ。
表現規制が行われるべきギリギリのラインは、表現物そのものに明白な人権侵害が含まれている場合に限られる(例えば「◯◯人を殺せ」のようなポスターなど)。
(もう一つの可能性としては、助長するのが差別的行為でなく、性に対する個人の意識=内心と想定されていた場合が残る。「二次絵は人々の性意識に悪影響を及ぼす」と。
だとすればフェミニズムはローマカトリックばりの中世に退行した思想である。フェミニズムが目指すべきは近代の徹底だ。)
「恐れがある」とは、「表現物が差別を助長する」という破綻したロジックについて、それはあくまでも可能性/蓋然性の話ですよと逃げを打つためのエクスキューズだ。
しかし可能性/蓋然性のレベルに下げてみた所で元々のロジックの破綻に変わりはないし、
この「かも知れない」可能性に抱く恐れこそ、「不快感」と呼ぶに相応しいものだ。
この全ての表現物について人々が抱きうる、そして表明されてよい「不快感」のレイヤーの話を、可能性の話に下げることで前段のロジックの破綻を曖昧にし、「恐れ」という言葉のニュアンスで表現物の側に責任を負わせるレトリックが「恐れがある」だ。
「国家による規制には反対です」と譲歩のニュアンスが続くケースも散見されるが、
国家による規制云々以前に、そもそも表現物自体に対して「差別=人権侵害」のニュアンスを含ませた批判の理路が誤りなのである。
このように「性的消費」を支えるロジック="性差別を助長する恐れがある"は破綻しており、扇動的ですらある。
また「助長」にも「恐れ」にもエビデンスがない以上、表現物単体で「性的消費」という概念が成立する余地はなく、オーディエンスは単にその表現物を通して「不快感」を受け取っているとするのが正確だ。
もちろんその不快感は自由に表明されてよい。しかしその不快感は、その表現物に差別が内包されていることを意味するものではない。
https://anond.hatelabo.jp/20201107053636
真面目な話あの手のレトリックを使う人らは救心のお世話になるべきだと思う
あのさ、何としても萌え絵=セクハラ(=悪)、という構図に落とし込もうとして、レトリックが破綻してるよ。
企業の公式垢だろうが、そのツイートを見なければ済む話だし、企業垢にリプライで文句を言うこともできる。逃げ場のない職場ではない。
増田が批判してる雑な属性認定の極北が、実は「女性」カテゴリだよね。
今回のタイツ案件なんか、「女性」カテゴリが完全に崩壊してる典型的なケースだった。
それでもまだこれは「性的消費/性的搾取」だと言い続ける人たちのタフネスは見習いたい。
たった一つ、揺るがない事実があるとすれば、それは「あの表現を見て不快に感じた人がいた」という一点だ。
それだけは無視してはならないし、何かしらの配慮を必要とするものだ。
ただし、いくら性的な絵がSNSで目に入ったからといって、その表現が「女性」というカテゴリから何かを奪ったかのような悪質性の高い行為=「性的搾取」であることを意味しない。
タイツを用いて性的アピールをしたい女性もいる、そうした女性にアプローチしたい女性担当者もいる。
そのように「女性」というカテゴリが成立しない案件である上に、絵を目にしただけで何か(尊厳?)が奪われたかのようなレトリックは、もはや自分の感じた不快感に錦の御旗を付けたいだけの、不誠実極まる行為だ。
例えば面と向かって、或いはSNSなどによるリプライなどの直接的な応答で、本人の性的特徴をあげつらったりする行為、これは性的消費の枠組みで批判されていい行為だ。
しかしたまたま「本人にとって」性的な絵を見せられたことをもって、「性的消費/性的搾取=差別を助長する行為」と認定するのは、以上の理由からあまりに粗暴な行為という他ない。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
以前、行政改革に名を借りた利益誘導の欺瞞について増田を書いてから三週間経ったが、基本的にその印象は覆っていないどころか、ますます強まっている。
そのうえで、菅総理大臣は、「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた。省庁再編の際に、必要性を含め、在り方について相当の議論が行われ、その結果として、総合的、ふかん的な活動を求めることになった。まさに総合的、ふかん的な活動を確保する観点から、今回の任命についても判断した」と述べ、今後も丁寧に説明していく考えを示しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201005/k10012649301000.html
例の六人をなぜ外したのか、という質問に対して「前例を踏襲してよいのか考えてきた」というのは答えになっていないが、ここでも事態に対して「私(=権力者)は支持されているから正しい」「敵は改革への抵抗勢力」というアングルをつけようとしている。あれ、この「聖域なき構造改革」風のレトリックって十何年前にも見たことが無かったっけ…?
哲学というと難解な用語と訳の分からないレトリックだらけの本をイメージする人が多いけどそんなこたぁない。なんならセンター試験の方がムズい、たぶん。
初心者といっても普段本を読まない人をここでは対象にする。本を読む人は偉いのでそのまま自分流に頑張って下さい。
まず、知識として学びたいなら哲学用語図鑑でいいと思う。パッと見れるし漫画チックだし。で、ここで気になった哲学者とかの本読めばいいいじゃん(完結)
で、それもめんどくせーという人間に向けて三冊。
やっぱりギリシャ哲学読まなきゃ始まらんでしょ!という方はこちら。対話形式で読めてプラトン流のソクラテスの考え(所謂イデアってやつ)が書かれてるぞ!でもやっぱりメノンの方がサッと読めるからメノンの方がいいかもしれんわ、選べ。
えっ、あの我思うゆえに我ありの本!?と思うであろう本書、デカルト自ら寓話だと思って読んでくれと言ってるので内容も難しくなく読めちゃう!なんてったって訳を除けば100頁もない!
おいお前マルクス主義者か?と思うのも待って欲しい。というのも第二次世界大戦後の哲学者というのは大抵は資本主義の問題に直面せざるをえなくなっている。そこでやっぱりマルクスが与えた影響というのは大きすぎるわけで、重要な古典でもあるわけです。だからこれからニューアカとか読んでみて~となるなら読んどくべきなんですなぁ。(いかんせん頁数が少ないのでいい)
と、紹介したけど結局は気になる哲学者から読め。あと90分で分かる~とかそういうシリーズもいいとは思うけど原本も読むべき。まぁ、やっぱり頁数が少ないのは正義だよなぁ。
リングフィットアドベンチャー買えない皆様どうも、私も一ヶ月くらい粘ってるのに未だに抽選当たらずで買えてない人間です。
さて、この転売ですが大半の人間は批判的だと思います。ツイッターのTLにもそのような言説がまぁまぁの頻度で流れて来ます。
で、そこであったのが「転売ヤーは如飛虫堕処という地獄に落ちる」という内容です。如飛虫堕処というのは安く買い高く売り、儲けを得ても儲からなかったというような言動をする人間が落ちる地獄らしい。
しかしこれ資本主義発生前に書かれた言説であるし、仏教をプロテスタントに無理やり解釈するってどうなの?しかも転売ヤーは儲けていることを隠していないので本来の内容を誤読しているはずです。
そもそも仏教を持ち出すなら資本主義は欲望で動くのだからそういうのから抜け出すためのものであって寧ろ買いたくなって躍起になってる欲まみれの人間も輪廻の中に落ちると思うのですが。
で、結局こういう言論というのは社会主義をレトリックにして共感を求めるというしょーもない手法なのですが、この手法はもはやどの分野のツイッターでもマストアイテムになっております。
共感止まりで実際に路上で転売反対デモなんかしたりしてないのにギャーギャー言ってるのは、もはや実際に転売してる方が論理通ってるなぁと思ってしまいます。
ネタから現実へ政治的な発言を語らねばならない時、真面目にやってるのは明らかに転売ヤー側であってそりゃ転売ヤーなくならないよなぁ、と。