はてなキーワード: リヴァイアサンとは
まず、今回の問題に解しては「全ての暴力(とりわけ殺人)は悪である」という言明から始めることが不可能であるのはもはや明らかだということをわれわれは認めなければならない。
なぜならわれわれは通常この命題にはある種の「絶対的正論(否定不能なドグマ)」として機能し、対話の土台を提供することを期待するが、今回においてそれが機能していないのは明らかだからである。「暴力は悪である」の後に、いともたやすくわれわれ(少なくとも私は)が「……しかし、」と続けたくなってしまうこと、それがいかに異常であるかを考えなければならないと私は思う。
しかしそれでも、どれだけ山上に同情的な人であったとしても「山上の行為は弱者が福祉を頼るようにその状況下ではベストな行いで仕方なかったから、同じ境遇にある人々は同様の行動にぜひ出るべきである」と思っている人が(山上含め)いないことを私は信じる。私は私の直観を信じるし、他の人の直観も信じている。
だから、もはや私は暴力を暴力であることによって否定する「旧社会しぐさ」を方法論的次元において否定する。
「暴力は悪である。しかし」、人類史上この論法が最も大規模に振るわれてきたのはむろん戦争の際である。そしてわれわれは戦争を例外状態とし、平和(少なくとも非戦争)を通常状態として考えている。しかし同時に、その「例外」が近代以降に限定してさえ実はむしろ多数派ですらありうることも、われわれは何となくわかっている。そのため「暴力は悪である」という命題に対して、われわれは完全に従いながらも、実は腹の底ではどこかしらけた態度を取っている。
パスカルがパンセの中で述べていたように正義と力の関係とは、何が正義かを確定させるためには人類の寿命を超えるかもしれないほどの議論を要するのに対して、誰が力を持っているは誰が見ても明白であるという特徴を持つ。だから「力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である」。そして常に暴力は無力を退けそこに君臨する。だからわれわれは、正義に力を与えるのではなく、力に正義を与えることにした、パスカルはそう主張する。
むろんパスカルはフランス革命について何も知らないので、その点について注意する必要はあるが、それにしても優れた洞察であると思う。われわれは何か正義のために社会を構築した=社会が正義である、というドグマから解放されなければならない。社会=旧社会はリヴァイアサンを鎮めるために持ち出された道具的存在にすぎない。
言論的次元においては暴力に対し積極的にエポケーを行いながら、具体的手段においてはあくまで暴力を否定し続けること、それが私と旧社会の理想が重なり合う正義であると私は言いたい。
ここでキリスト教における基礎の一つ、「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」について考えてみたい。駄洒落以上の意味があるかどうか疑問に思うだろうが、実際それ以上の意味は無い。
山上の垂訓とは「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」から始まる、死後に神の救いを得て天国に行ける人とはどのようなものであるかを説いた有名な部分である。ここでいう「心の貧しい人」とは一般的な日本語の意味ではなく、自分の足りなさを認め神を求める、ぐらいの意味に解釈されることが多いようである。
たしかにキリストは力ではなく正義の側に立とうとした人であったと思う。他方そうであるがゆえに2000年前の現世においては無力であった。しかし、と考えてみたいのだが、キリスト教-山上の垂訓的な倫理は今や明らかに無力な存在ではない。われわれはもはや正義に力を与えることが可能である。
だから私は所与の力に正義を与えんとする「思想-的-テロリズム」については私の正義に基づいて否定するが、正義に新たなる力を与えんと言論の次元に留まる「テロリズム-的-思想」を断じて肯定する。
おそらく女なのでは? 女は市民として物理的に戦うコストを支払っていないから、リヴァイアサン状況の話をされると困るわけだ。と言うか考えたくないと言うか。
ライオンがインパラを弄んで食べたりするのを正義不正義で話しても仕方が無いだろう。そう言う野生なのだから。
人間とても法と言う縛りがない世界ならば、強者が弱者を好きにするのは当たり前だ。良い悪いではない。水が上から下に流れる、と言うのと同じ意味で当たり前なのだ。
国の上には法を担保してくれる存在は無いので(国際法はそれ自体が国々の担保に負うている)戦争に至る野生においてこういう結果になってしまった以上、ウクライナのオペレーションにも落ち度があったと言うのは自明のことだろう。
②治安回復要員として期待されそうな成人男性たちは窓から逃げた
と言う2点、興味深い点がある。
①のおばちゃんは、バスジャック事件と言う非常の時にあって、「おばちゃんと少年」と言う常態のアプローチをしたため、自分は刺殺されて、更には他の乗客の危険をエスカレートさせたものである。このおばちゃんは責められるべきかどうか。安全に責任を「あなた」が負うているのであればこうした跳ね返りに対しては厳罰を科すしかないだろう。もっと言えば、カップルが不良に絡まれている時、女がどうせ自分は殴られないと思って不良を詰って激怒させたら、男の方は「おいおい勘弁してくれよ」と思うだろう。それに対して不良の方を批判すべきと言うのは、しょせん「女には不良も手出しをしないもの」と言うコードの範囲内での無責任なフリーライダーに過ぎない。
そして①のようなおばちゃんを守るために戦わされるのが嫌であったから②の成人男性たちは逃げたのである。
ウクライナが責められているのは、無法状態で、ヤクザ同士が抗争しあっていて、争いや話し合いの中でようやく均衡と一時的な平和が保たれている時に、空気を読めない鉄砲玉が暗黙の合意を無視して、相手のシノギを邪魔するような真似をしたからである。そもそもそうしたイキった言動も、大NATO組の子分杯を受けられると勝手に思い込んでいたからで、「末端のはねっかえりのせいで全面抗争になったらかなわんがな」と思っているバイデン組長は早々に、「うちら派兵しませんで」と言ったわけである。ロシアにとっても、アメリカにとっても邪魔な行動しかしていないではないか。
ウクライナが責められているのはヤクザのシノギとしての話であって、話をおおごとにしながら自分だけではケツを拭けないから「ブリジストンさん、三菱さん、あんたらロシアと手切れしなかったら自由の敵でっせ」とせっせとプロパガンダやっているわけである。自分は昨日まで香港弾圧した中国にへいこらしていたくせに。ちなみに国連人権委員会での香港弾圧に関する中国非難決議には、ウクライナはスルーして棄権している。韓国もな。バルト三国はきっちり賛成している。
被害者とは「ある限定された局面において被害者であること」を意味するのであって、加害者にならないという意味でも無いし、善人だというわけでもない。ましてその外交政策が適切であったことを担保するものでもない。
大国同士は直接ぶつかれば傷を負うことは分かっているので、相当に注意深く状況をコントロールしようとするが、ウクライナのような認識力が甘い小国は、はねっ帰りを引き起こして状況コントロールを著しく毀損することがある。
ポーランドが第2次大戦を引き起こした主因とまでは言えないにしても、状況をエスカレーションさせたのは間違いなくポーランド政府の数々の愚策であった。
こう言うことの検証が、ポーランド=被害者と言う構図が成立したらきちんとなされていないのではないか。そのことがウクライナのはねっかえりを生じさせたと言える。
もしかすると増田が好きなのは壁そのものじゃなくて、「世界の秘密」や「外世界の探索」じゃないかと思ってそういうのを挙げたい。いくつかには実際に物理的な壁も出てくる。
既に挙がってる『都市と星』が典型だ。大人たちはみんな世界ってのはこういうものだと思っているけど、好奇心・冒険心に富む主人公はそれに飽き足らずに何かを求めていたり、ある日その限界の外から漂流者がやってきたりして、世界はみんなが思っていたのとは違うということが次第に明らかになる。今まで世界の全てだと思っていた狭い領域の外にある豊かさや危険に触れながら冒険していく過程は、主人公の人間としての成長あるいは救済や贖罪とリンクする。そういうやつ。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。