はてなキーワード: リアリティーとは
私も胸の大きさが強調されるのはいかがなものかと思っている男性なのだが、それはそれとして、この増田が実は女性だというのは下記記事の説を支持する。
そして女性なのに男性だと偽って発信して説得力を持たせようとしたのはズルいやり方だと思うし、そのくせ全然尻尾を隠せていないのは愚かだと思う。
男性がある物を批判をする時はその「ある物」を主語として瑕疵や不具合を述べ立てますが、女性が何か批判する時は「自分の気持ち」を主語として被害の発生を申し立てるのです。
この「キャラにイタコのように乗り移り、自分はあくまでキャラの代弁者や庇護者として作者への不満や批判を述べる」という語り方は、極めて文化的な所作・女性オタクの奇習なんですよね。
もし私なら以下のようなことを書いているだろう。
男性が書くような理由というのはこのようにあっさりしている。確かに「押しつけがましさを感じる」とか、「目障りに感じる」というのは主観的な感情も含んでいるが、ちゃんと感情に理由をつけている。
あと「悪いけど」とか「ごめんなさい」みたいな無駄な枕詞、エクスキューズは書き言葉では使いたがらない。言っても無駄だからだ。特にこのような何かを論評するような文章においてはノイズとなる表現は排してなるべく簡潔に書こうとする。
「オエッてなる」みたいな大げさでそのくせ大した説明がない主観的表現や、勝手にキャラの心情を代弁してしまうイタコ表現は使わない。男性ならそういった表現は何となく気持ち悪さを感じるからだ。
前者は、強い表現、大げさな表現を使えば絶対に共感してくれて、共感さえさせれば絶対分かってくれる環境にいる人間の発想である。
男性はもともと共感能力に乏しいうえ、発達段階で何かしらの自分のことをわかってもらえない、寄り添ってもらえないという絶望を何度か経験するものなので共感してもらうことに対する諦観があり、何かを訴えかけるときには共感とは別のアプローチをとるものである。
そして実際のところ、嫌なことの是正を訴える文章では共感力ゼロの人間にもわかってもらえるように書くべきなのだ。
そして後者のイタコ表現については男性は使うと罪悪感を感じるから使おうとしない。勝手に人の気持ちを推定・代弁することは失礼にあたる・おこがましいと感じるのと、基本的に他人の気持ちはわからないという地平に立ったうえで話をするのがフェアだと考えるからだ。
私夢を見たの。
銭湯に行く夢。
ずばり銭湯に行く夢。
お師匠さんが私の頭の上に手をかざして、
そして、
潜在能力が引き上げられた私は
目を開け立ち上がり、
おお!私にもまだこんな力が残されていたのか!ってなるの。
さらに、
私が修行中にさらに負荷を加えるためにリストバンドの重りを付けていたものを外すの。
ドサッ!ドサッ!
その重さ約2トン。
ってそれは潜在能力!
たぶん
私の憶測に隠れたり見え隠れたりしている銭湯欲がふつふつと文字通りお湯のように湧いて出てきているのよ。
銭湯行こうかなー!って
それこそ帰宅中駅を降りて下車して2分で飛び込める、
まさにサトウのごはんをも彷彿とさせるぐらいの便利な立地にあったんだけど、
残念だわ。
そんでね、
その夢は
初めて行く銭湯で
のれんに私は暖簾に腕押しで大将やってる!って言いたいところだったけれど、
夢なのでそんな自由自在に動き回ることも出来ず
ただただ暖簾に書いてある営業時間が読めて14時からオープンとのこと。
夢の中ではもう回転していたわ。
それこそ私は夢の中だったので入店時に飛び込み前転することすら忘れていたけれど、
気持ちはそう心の中では飛び込み前転を忘れることなく入店したの。
なんか500円玉をだしていくらかお釣りが返ってきたからそのぐらいの値段だったのね。
そして脱衣所。
ロッカーが無いの。
みんな床にカゴもない感じの床にカゴすらもなく床に脱いだ物とかに持つとかが、
とりあえずの個人個人の領域の持ち物かなって分かるような形でギュッと固められておいていて、
お財布とかは番頭さんに預けておこうかなーって思ったの。
そこで目が覚めたのよね。
本当にリアリティーのあるリアルな銭湯の夢でリアルに行きたくなっちゃったわ。
これは行かねば!って
私がその近くの行動圏内にあるみかんの花咲く丘公園前駅の駅前の商店街にある銭湯はなくなってしまったものの、
他にはまだ遠くに歩いてはいけない距離ではないぐらいの距離の銭湯が何軒かあるから
そこも巡って行っていたところなのでそこにして行ってみようかなぁーって。
もう番頭さん私の顔忘れちゃってるかも知れないぐらい久しく行ってない季節なのよね。
ちょうどさ、
こないだ足が浮腫んで困っている話をして
サウナにでもかーんと行って汗流すために浮腫み解消の糸口になればって思っていた矢先の3本の矢も薪にして焼べたいぐらいお湯を温めるべくその銭湯に行かなくちゃって、
そこで終わっていた私の思いを
沸き上がるお湯のように!
追いつかないぐらいな追い炊き家庭風呂は
圧倒的湯量とパワーと温度をも持ち合わせる迫力があるのよね。
そしてそして
文字通りお湯を贅沢に文字通りの湯船の湯を湯水のように使う!って
ああーそう思うと
やっぱり贅沢わよね。
銭湯って。
だいたい感謝!
だから私はそんな夢を見たんだわ。
そこは朝からやっているというパワー系のコンビニの営業時間7時から23時までをもしのぐそれなんてセブンイレブンって言っちゃいたいような営業時間の銭湯があるにはあるけど、
人がパンパンなのよね。
それ以来行けてないけれど
今は事情が変わっている二乗のべき乗を思うほど状況が変化しているかも知れないので、
あと事務所のもう一軒近くにあるところは夕方からオープンだけど人も少なくて普通の銭湯だからこっちも穴場かも知れないわ。
でも海外のインバウンドのお客さんがもし多かったらっても思うし、
まあ暖簾を勇気を出して腕押しして大将やってる?って勢いで飛び込み前転して入店するぐらいの勇気は必要かも知れない。
夢の中で私に力を与えてくれたお師匠様の私の銭湯能力が無駄になってしまうわよね。
銭湯に久しく行ってないのでこれは予知夢だと言うことの逆夢か正夢か分からないけれど銭湯の意識は無意識のうちに感じ得ていたものなのでやっぱりいざ行かなくては行けない山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
よし!
近いうちに行くぞ!って
思うけれど、
行けたら行くようにするわ!
行きたいという気持ちはあるのよ!
うふふ。
あっさりとでもその存在感のあるタマゴの味を堪能できる味わい。
私は本当はタマゴサラダで溺れたいほどの味わいを楽しみたいわけなんだけど、
なかなかそうはいかないタマゴ事情もあるのは分かっているのよ。
でもその状況の中でも
絶え間なくタマゴサンドイッチやこのタマゴサラダパンを供給し続ける生産体制にはあっぱれよね。
またストック買ってこないと!
と忘れないように買い物リストに記し記ししておかないとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今回の地震についての雑感その1。俺は石川県金沢市の人間。金沢は本震と余震で揺れは酷かったが、海沿い以外は大きな被害は出てないらしい。
Twitterで、パヨクの二流言論人が好き勝手な事を書き連ねているのを見て、心底その金に魂を売ったような卑しさにうんざりした。またへずまりゅうや山本太郎の被災地訪問が叩かれていたのも、まあ茶番だなと思った。知名度のある人間が数名来たところで、励まされこそすれ迷惑になどなるはずがないだろう。また馳さんへのバッシングにも大してリアリティーを感じなかった。馳さんも特段、致命的な失態を犯したわけではない。
別に、腹が立ったわけではない。いちいち感情を割いている余裕がなかったのだ。外野というのは、どこまで行ってもリアリティーのない他人事なのだなあとつくづく実感した。東日本大震災や熊本地震の時に、Twitterをやっていなくて良かったなと、これほど思った事はない。
そして自民党のお偉い方は、不祥事の後始末と権力争いに忙しくて、ド田舎の災害なんぞに気を回す時間は惜しいらしい。災害対応など片手間でやってるようなもんだ。こういう連中がこれからも不祥事と権力争いを続けるなら、次の災害の時もまた片手間対応だろう。
だからと言って、馳に入れた石川県民が馬鹿だったとも思わない。彼は少なくとも形上は自民党ではなく、維新の推薦で選挙に出た人間だ。それに、「人ではなく党で選べ」というのは国政の理屈だ。都会は知らないが、田舎はただでさえ人が少ないのだから、いくら気に食わない党であっても、信頼できる人間がその党にいるなら「党より人」でその人間を選ぶよりないんだ。逆に聞くが、石川が自民党以外の人間を選んでいれば、今の中央政府の馬鹿騒ぎも収まっていたのか?それを自己責任だと言うなら言えばいい、俺たちはそいつらから救いの手を乞おうとは思わん。
とりとめのない話になったが、2本目は書くかどうか分からん
『水曜日のダウンタウン』の名探偵津田シリーズに関する書き捨てのメモ。
あのシリーズは、本質的にはミステリードラマを模したクイズ番組とも解釈することができる。ピラミッドかどこかに閉じ込められ、そこから脱出するためにパズル問題を解かなければならないという設定のクイズ番組を時々見るが、それのミステリードラマ版が名探偵津田シリーズと解釈できる。クイズの部分は、ミステリーの要点(「犯人はこの中にいる」)やトリックを津田さんが台詞として回答しなければならない点が対応する。
しかし、通常のクイズ番組では出演者が間違った回答をすると不正解者が穴に落ちるなど不正解である旨を明示する演出がなされるが、名探偵津田シリーズの場合、進行と関係ない津田さんのツッコミは無視され、津田さんが進行を阻害する間違った回答をすると、仕掛人が同じ台詞で状況整理を繰り返し、正解に誘導しようとする、という特異性がある。この点はミステリードラマという設定に寄せた演出であり、リアリティーショーのような要素ともいえる。
まとめると、名探偵津田シリーズは従来のクイズ番組ともドッキリともリアリティーショーとも異なる、全く新しい番組フォーマットだと思う。
そんなわけでプレイでローション使うのが好きなわけだが、先日、代用品として納豆を使ったことがあるという嬢にあった。
そんな人にはなかなか会えないので、興味わいていろいろ話を聞き、知見を得られたので残しておく。
最初は冗談かと思ったが、変なリアリティーがあって、もしものときに使えそうではある。
・一人10パックくらいが目安。風呂桶に二人分をいれ粘りけを出す。ヌルヌルを増やすため水を入れることを推奨
・ベッドにブルーシートかぶせプレイを推奨。シーツなどにこびりつかないで楽しめるとのこと。
・だし入りのタレは臭いニオイに興奮する場合や粘液フェチには推奨。肌が弱いとかぶれるのでそのときは入れるのやめておく
・プレイしているうちに水気がなくなるとベタベタ体がくっついて剥がすときに痛い。
・ホテルの部屋の水捌け悪いと詰まるので浴槽にお湯ためて中で体についたものをとるのがよいとのこと。風呂の床が滑りやすいこと多いのでつかまる場合があるとよいらしい
他にもいくつかあったが、ド変態ぶりにドン引きしてよく覚えていない。
嬢によるとつぶつぶローションみたいな感覚、ネトネト糸を引く感触と、あの納豆臭い匂いがたまらないそうで、いけないことをしている背徳感も手伝い、癖になって何度もやっているらしい。
ヌルヌルはともかく、あのニオイに興奮するのはなかなかの変態だなという感想。
あと片付けを考えたら実行する気が半分失せた。
ストーリーは高校生の主人公一人で遠く離れた東京の児童虐待に立ち向かわせたりと、
女性キャラクターに対する母性や自己犠牲の押し付けが最近の細田守映画の中でも特に酷いと言われて批判されてたよな
それって細田守の思想だけじゃなく、この人の女性蔑視の反映でもあるのかなと思った
この人、男性として女性と結婚し男性器を用いた性行為をして妊娠させておきながらいけしゃあしゃあと「自分は女だ」などと名乗るとは、あまりにも図々しく厚顔無恥だと思うんだけど。
本気で「心が女」ならば、どの面下げて股間のモノをおっ勃てて奥さんを孕ましたの?恥を知れよ
ていうか、この人、お子さんが『娘』だって、何を根拠に言っているんだろう?
もしかしたら性別違和があって自分は男の子だと感じているかもしれないのに。
でも女性に過剰な願望を投影している親だから、そんな事になったらお子さんを虐待しそうだな
女の子なんだから子供を産みなさい、母親になりなさい、って押し付けそう
『日本テレビ映画プロデューサーの谷生俊美、女性として生きると決めたパパだけどママになり、娘へ伝える思い』
「アニメ映画「竜とそばかすの姫」(2021年公開)などを手掛けた日本テレビの映画プロデューサーで、トランスジェンダーの谷生俊美さん(49)が、著書「パパだけど、ママになりました」(アスコム)を出版し、4年前に女の子の「パパ」となったことを明かしました。女性パートナーとの出会いや結婚、愛娘を囲む家族3人の暮らし、そして、男性に生まれながら「女性」として生きると決めた理由……。自らの半生を振り返り、つづった娘への「手紙」に込めた思いを、谷生さんに聞きました。」
医師に性同一性障害であると診断されていたので、性別適合手術をした上で戸籍を女性に変え、男性と結婚することも考えました。でも、あまりリアリティーをもってとらえることができませんでした。
実際、女性として婚活したら、どうなるんだろう――。そう考えたら、世界の見え方が180度転換するのを感じました。仮に女性だとして、40歳、未婚、国立大学大学院を出て、日本テレビに勤務。給料はこれくらい……、色々な条件を婚活市場にあてはめてみます。
そうすると、女性だと「バリキャリ」で「負け犬」と称されてしまうことに気づきました。同じ「スペック」でも、男性だったら「超優良物件」と言われるのに、です。まして、それがトランスジェンダー女性だとすると、客観的に見てめちゃくちゃ難しいと思わざるを得ませんでした。
Shin Hori氏の「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」というパワーワードが話題になっている。
ttps://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272
個人的な仮説だがこのパワーワードの起源は、旧社会党の綱領的文書であった『日本における社会主義への道』(以下、単に『道』と略す)にあるのではないかと思う。
『日本における社会主義への道』第一章第一節(3)福祉国家論批判
ttp://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm
(中略)
もとよりわれわれは彼ら(引用者注:資本家側)に譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさらに前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的な生産関係における労働者の民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層の革命的エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。
上記の引用文の「彼らに譲歩を要求し...」が、「社会福祉だけはあってほしい....」の起源ではないかと個人的には睨んでいる。但し『道』においては、この後に続く言葉は「アナーキスト」ではない。では何なのか。
同(3)
したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。
つまり、「社会福祉だけはあってほしい....」の後に続く言葉は、「資本主義。但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」ということになる。
ちなみに『道』でいう社会主義とは、ソ連や中国とは異なる社会主義だそうである(詳細は同第二節「社会主義の原則と基本目標」を参照)。
『道』が示唆している考え方は平たくいえば、「福祉を拡充できるだけ拡充しろ。でも、給付と税負担の関係などトレードオフは考えない。だって、資本主義はどの道、社会主義に取って代わられるのだから」というものである。これは一見すると荒唐無稽な無責任に見えるが、実は筋が通った無責任である。例えば、3か月後に取り壊す予定の家に対して丁寧にメンテンナンスする必要はなく、好き放題して改造したり掃除をサボったりしても問題は起きないだろう。『道』の起草者たちにとっては、資本主義は3か月後に取り壊す予定の家のような仮初めのものであり、その維持に注意を払う必要性を感じなかったはずである。
『道』が旧社会党で承認を受けたのは1964年であり、まだこの時期の日本では社会主義化がリアリティーある構想であったことに注意する必要がある(日本が世界第2位の経済大国になるのは1968年)。問題は、資本主義が仮初めのものではなく、将来的にも社会主義化をしないのならば『道』の考え方はどうなるのか、である。
『道』を読むと、資本主義下での議会制民主主義に対するネガティブな評価が目につく。
http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_019.htm
したがって、現存するブルジョア民主主義としての議会制民主主義を、勤労大衆は、形式にとらわれて、すべてがそのまま、価値あるものとして考えてはならないのであって、そこに資本家階級の支配が貫徹している支配機構としての側面を見抜かなければ、基本的な誤りをおかすことになる。
先の「筋が通った無責任」と相まって、これが左派知識人に無責任体質の種をまいたのではないかと、個人的には推測している。
『道』策定時は社会主義化がリアリティーある構想であったが、時代が下るにつれてそれは荒唐無稽になっていったと思われる。そのため、おそらく1970年代末以降は「但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」の部分が忘れ去られた一方で、議会制民主主義に対するネガティブな評価は雰囲気として後世の左派知識人に継承され、「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」を誕生させたのではないか。「但し、その資本主義は...」を忘却し、議会制民主主義に対するネガティブな評価を雰囲気として継承された点が、「なんとなく」の部分として凝縮されているように思う。
『道』に通底する時代精神あるいは社会認識が、「貧困の文化」ならぬいわば「無責任の文化」を日本の左派知識人の間に醸成させてしまったように感じられるのである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a2db64ea2f73ca254034f757495ca0c41b3e4337
この件は裁判で真実が明らかになるだろう。でも、誹謗中傷はどんな場合でも許されないって、マスコミは忘れているんじゃないかな。人の命を奪うような行為に加担することは許されない。報道の責任と倫理を持って、真実を伝えるべきだ。ただのスキャンダル追求ではなく、人々の尊厳とメンタルヘルスを尊重する報道姿勢が求められるんだ。被害者を救い、社会を変えるために、マスコミは責任を果たすべきだ
テラスハウスは共同生活する男女の恋愛模様を描くリアリティー番組。原告側によると、花さんは令和元年9月から撮影を開始。翌2年3月に入居者の男性とのトラブルで花さんが激怒する場面がインターネット配信されると、SNS(交流サイト)で大量の中傷が寄せられ、花さんは同5月に自ら命を絶った。
この文章にもないな。
原告側は、花さんがフジテレビ側に提出した誓約書の違約金条項で、演出などについて強い拘束を受けていたと主張。番組には出演者が中傷を受ける構造的な問題があり、被告側は出演者の健康状態の管理や中傷への対処などの安全配慮義務を怠ったとしている。
キレてバックドロップかけたらまずいだろ。
この主張はひどすぎ。
フジテレビは「原告の主張には当社と認識が異なる点がありますが、見解は訴訟の中で主張していきます」とするコメントを発表した。
そらそうだろう。