はてなキーワード: メサとは
インターネットで上手くいかなくてお気持ち垂れ流しちゃうような人の9割ぐらいはこういう人。
「どうして評価されなかったのかな。。。」って、そらお前、評価されるような事しとらんし当たり前よ。
アピールも下手くそで、例えば漫画好きで繋がった友達に自分で書いたオリジナル小説見せて「見て見て!」とかしちゃう。
それで見てくれなかったり、思ったように反応してくれなくて落ち込む。
そらお前、その人はお前の小説が好きで関わってるわけじゃねーし当たり前だわ。
で、技術や立ち回りの拙さを彼らがどうやってカバーするかと言うと、自分を差し出すんだよね。
「私可哀相だから助けてほしいな」ってメサイアコンプレックスの人間をくすぐりに行く。
ただ、大体メサコンはすぐに疲れるので離れていく。
"揃いバウム" の噂を聞きつけた私はアメリカはアリゾナの砂漠に飛んだ。揃わないバウムの幻影に惑わされながらいくつかの星の歌を聞き、昼はサボテンの花を汗に濡れた指でなぞった。バイオスフィアの跡地を蜃気楼の中で追いかけると、ナバホの居留地にたどり着いた。
酋長はいった。その昔二つの対となったバウムが接触したことにより世界は誕生した。南洋諸島に伝わる石器の硬貨はバウムの姿を形象化した力そのものだと。私は酋長にバウムの行方を聞いた。しかし酋長は首を縦に振らなかった。
「遠い友人よ、あなたは今や文明人だ。どうして我々があなたを信じられようか」
そこから私は臆病なサソリの友人を持つにいたり、彼に星々と共に語りかける様になった。どうすれば酋長は心をひらいてくれるだろうと私が打ち明けると、サソリは決まって恥ずかしがって去ってしまう。空の砂粒が眩しすぎるのだろう。たしかにここにいれば科学文明は遠く彼方に沈んだアトランティスの記憶のように思えてしまうものだ。
酋長は数週間後に重たい口を開いた。ホピメサ(ホピの遺跡)にはグレイト・スピリッツ(創造主)から伝えられたバウムの手がかりがある。
私はその言葉を頼りに再びサボテンの花に挨拶するため、砂漠へと踏み込んだ。優しい生地に縫い込まれた裁縫のようなブリトルブッシュを抜け、どこから迷い込んだのかわからない動物の骨が転がる場所へと迷い込んだ。予め調べた砂漠の光景とは違うように思える。酋長は出かける際にサボテンの精霊で作られた粉を渡す、と述べた。それの効能なのだろうか。私の目の前にあの時より遥かに大きなサソリが現れ、声もなく背を向けた。サソリはまるで自分についてくることを期待しているように見える。
私はサソリの導くままに再び歩き出した。砂漠に珍しく空は曇り始め、光ない雷鳴がサボテンたちを揺らす風を呼んだ。不思議と恐怖はなかった。もしかして私はすでに砂漠で倒れていて、別の世界にゆこうとしているのかも知れない。目の前はモノクロームで覆われ、美しいカワセミだけが鮮やかな青色を輝かせながらゆったりと横切ってゆく。
遠くのサボテンの花が一斉に開花し始めた。花の色とカワセミだけが眼に焼き付いて月の暈のように滲んだ。花の行列が私の横を通り過ぎてすっかり道を抜ける頃、雲間から啓示を思わせる光が射し込み始めた。ホピの信奉するオリオンが重大な真実を指し示しているかのように思える。事実それは目の前にあった。
巨大なピラミッドが三つ、広大な距離をおいて存在している。その一つの正面にある最も巨大なピラミッドが入り口を見せた。瞬間、入り口は大きく拡大してせり出してくる。私は入り口に飲み込まれるようにして中に入り、意識だけになった私の体はピラミッドの通路を矢のように突き進んでいた。砂袋の宝物をひっくり返した、星空に映える流星群のようにだ。そうしてほんの数秒のち私は小さく厳かな石室へと導かれた。
石室には光り輝く二つのリングが佇んでいた。リングはいくつもの層によって形成されており、この宇宙の成り立ちを示しているように見えた。私はこの出会いの最中に悟った。これが "揃いバウム" だ。そうして、しかしと言うべきか、必然的にと言うべきなのか、私の中にある悪心が顔をのぞかせた。あらゆる神話の悪はこうして語り継がれたのかも知れない。左右台座の寸分たがわぬ位置に配置されたバウムを動かしたい、という強烈な衝動が私のみぞおちから喉元までさかのぼってくる。いけない、これは今の世界を滅ぼしかねないものなのだ。私は念じるようにつぶやこうとしたが、ついに唇は動かなかった。そして指先だと自分が思い込んでいるなにかの存在――霊体というべきか――がそれに触れると、二つのバウムはつなぎ合わされた。
その瞬間石室の壁は光り輝いた。いや、石室が光でかき消された。ピラミッドは流砂に巻かれた動物のように消滅し、大地は底を失い、星空は渦を描き始めた。すべての星々がぶつかり合い、やがて全ては圧縮されて潰され、黒くなってゆく。その巨大な重さを持った黒い塊は爆発して私の体が消えるような熱量を放出し始めた。黒いおもりにすべてが吹き飛ばされると、今度は急速に冷えた全体からいくつかの皿のようなものが見え始める。様々な皿の中には数多くの星々が連なり、やがて一つの岩石星へと私は吸い込まれた。
この星は嵐の夜を通り過ぎて、真っ黒で揺らめくものを蓄えた。それが海だと知るのにそれほど時間はかからなかった。小さな数珠のようなものから進化し、大量にそれらが増えたかと思った瞬間、海には様々なクラゲや魚が舞い始めた。魚の中からいくつかの種類は陸上で餌を取るようになり、しっぽはなくなってゆく。彼らは棒を道具として使い、火を起こすことを覚え、洞窟の壁に絵を描いた。
空の情景がいつか見た動画の早送りのように色を遷移させる。青、橙、青、橙。
彼らはやがて国を作り、王を決め、私の方へと向かって手を合わせたり祈りを捧げ始めた。火器が生まれると砲火が轟き、やがてきのこ雲が舞い上がった。大量の血を吸った大地から地響きのようなものが聞こえた。その音は何かを共振させるような、人を不安にさせる響きだった。それから人々はたくさんの船を用意して空へと漕いでいった。
成田空港の椅子で、うつむいていた私は背伸びをした。多分、場所が正しければここは成田空港のはずなのだ。語学留学の娘が帰ってくる。父として私はここにいるのだ。そうしてほんの数秒だけ念を押すと私は夢うつつから眼を冷ました。あと数分で娘は帰ってくるようだ。スマートフォンに娘のメッセージが入ってくる。彼女のメッセージを見て私は今の自分があることを安堵した。私は決してアリゾナに渡ったわけでもないし、ナバホの長老に会いに行ったわけでもない。
しかしその思いは砕かれた。ゲートをくぐって走ってくる娘の顔が浅黒い。日焼けしたと思い込もうとしたが、近づくたびに違いは克明となった。それは日焼けと言うより人種の違いに近い雰囲気を帯びていた。私の頭は整理のつかない混乱へと放り込まれた。自らがこの外人を娘だと認識しているのだ。この娘は私が知っている娘ではなく、しかし私が知っている娘に違いないことをだ。
娘らしき女性は私に飛びつくと軽く帰還の挨拶をした。彼女を迎える私の表情は彼女からしたら奇妙なものだったに違いない。
彼女の容姿は東洋系ではあるものの鼻は大きく、日本人的とは言い難いものだった。それはインディオに似ていた。私は彼女の機嫌を損ねないようにいくつかの質問をすることにした。例えば誕生日のこと、父と娘しか知らないこと、学校の友達。彼女は少し不思議がりながらも、自分の名前が何故か蠍から名付けられた蠍美(かつみ)であることを語った。
血の気が引く私を前にして、娘は土産物と称して二つの硬いものを取り出した。それは二つのバウムであり、今某遺跡の土産としてバウムを買うと幸運が訪れる、ということだった。
太平洋戦争の最中、じいさんは広島県の呉にいた。海軍のパイロット養成校(予科練と言っていた)に所属していたじいさんは、パイロットではなく整備工になるために入ったらしい。
呉は今では見る影もないが、当時は軍港としてかなり栄えていた。有名な大和と武蔵もその目で見たらしい。建造していることは内緒だったが、あんなでかいんはバレバレじゃ、と笑っていた。武蔵は山口の沖ですぐ沈んでのう、と目を細めながら言っていた。何人か、同期も武蔵と一緒に沈んだとも。
整備工になるために予科練に入ったじいさんだが、残念ながらじいさんが最高学年に上がる頃には戦況は悪化していて、訓練機すら飛ばせない状況だったらしい。
じいさんはその頃から毎日毎日、軍事工場で飛行機を作っていた。
元々、機械弄りは好きだったじいさんは飛行機を作るのは楽しかったらしく、メキメキと腕をあげたようだ。あまり戦争のことは話したがらない人だったが、海軍の飛行機がいかに苦心されて作られていたかは楽しそうに喋っていた。
戦争に負けるな、とは何となく感じていたが、上官が怖かったし、そんなことを口に出せる空気ではないころ、呉にアメリカの飛行機が不時着してきた。
勉強がてら、じいさんは同期と連れだってアメリカの飛行機(グラマンといっていた)を見学に行った。
そこでじいさんは「あぁ、この戦争は負ける。」と確信したそうだ。
「わしらはな、飛行機を手でネジを締めて作る。アメサンのはどうじゃ。リベットうちじゃ。ダダダダダ、と作るわけじゃ。作る数がそもそも違う。こんな戦争、勝てるわけがない。」
グラマンがそもそも内地まで飛んで来とる。本土決戦で、みな死ぬ。
それが、17歳のじいさんの太平洋戦争に対する結論だった。死にたくはないが、死ぬしかない。
昭和20年8月6日、じいさんは工場でいつも通り、朝の体操をしていた。突如として、工場のガラスが、ビリビリ、と音をたてて鳴った。なんだなんだ、と外に出ると、有名なキノコ雲が広島の街のほうにあがっていた。
原爆だ。
じいさんの生死を分けたのは、宇品の工場に配属されなかったことだ。宇品に配属されていた同期は救出隊として投下直後の市内に入り、黒い雨を浴びてその後の10年でバタバタと死んだらしい。
運の悪い事にたまたま休暇で広島の市内に戻ってしまった同期は、大火傷を負って呉に帰ってきた。1ヶ月もしないうちに亡くなったそうだ。
そうして、知り合いや同期が死んでいく混乱のうちに、戦争は呆気なく終わった。
じいさん達の基地には進駐軍がやって来てキャンプをはったので、仕事もないじいさん達はキャンプに忍び込んでは物資をかっぱらい、闇市でさばいていたらしい。「あそこは元々わしらの基地じゃしのう。」とあまり悪びれずに言っていた。
実家に帰ってこないじいさんをひい祖父さんが連れ戻すまで、そうやって生計をたてていたらしい。
戦後、予科練は学校としては認められず、じいさんは小卒の学歴になってしまい、ずいぶんと苦労したらしい。職を転々としながら、職業訓練校に通って資格を手にし、最終的には水道工として定年まで勤めあげた。
飛行機を作っていた頃の経験が生きたのかは分からないが、子どもの頃のじいさんは自転車や草刈り機の発動機やら、何でも直せる人だった。
じいさんは戦争によって勉強することも出来ず、学歴も手にすることが出来ず、戦争を恨んでいたのだろう。戦争の話はしたがらず、呉には生涯、足を運ばなかった。
本当は、京都大学で物理学を勉強したかったじいさんは、自分の学歴の無さを生涯恥じながら、87歳でこの世を去った。
苦労しながら水道工として定年まで勤めあげ、身の回りのものは何でも修理できたじいさんは、恥ずべき事なく、立派な人生を歩んだと思う。
私の地元にはオリヒメサマという風習がある。年頃の娘がその年のオリヒメサマに選ばれ、6月1日に墨染山の頂上でおでこにデカデカとハンコを押す。「オリヒメサマ、この娘の体をお使いください」という目印らしいが、最近は子供や大人、観光客にも押すようになった。
オリヒメサマに選ばれた娘は、年末までオリヒメサマとして振る舞う。七夕に短冊を焚き上げて願いを本物のオリヒメサマに届けたり、8月半ばのオリヒメ祭りで彦星役と舞を踊って酒を飲み交わしたり、糸紡ぎの儀、機織の儀、衣染めの儀、灯籠流し、えびす講、松の文字下ろし、はては最近はカラオケイベントや盆踊りにまでも引っ張りだこだ。
オリヒメサマにいい加減帰ってもらうために、皆してオリヒメサマの悪口を言いながら山を登る。山を登った先では仏僧とオリヒメサマが参列者の頭に御神酒を注ぐ。年暮れだから当然凍えるように寒い。
かくしてオリヒメサマは天の彼方へと帰って行き、娘は解放される。
が、たまにオリヒメサマが帰らないことがある。
1月1日を過ぎてもオリヒメサマとしての言動が抜けなかったり、何やら奇妙なことを口走るようになって、その後半年で半分廃人のようになってしまうことが十数年に一度の頻度であったらしい。
昭和中頃までは「もらわれた」「よばわった」、あるいは「いらっしゃる」、「いごいた」など、我々はそのような娘を好き勝手に呼び、半分憐れみ、半分尊び、注目しながらも、目を背けつつ、みんなで世話をした。21世紀になって思うに、宗教的なものというよりは、年端も行かぬ若娘がまったくの別人格を無理やり与えられてチヤホヤされ、崇められ、その他全ての町人の上に立つという経験自体が精神に良くないのかもしれない。が、私は医者でも学者でもないので詳しい事はわからない。
昭和後半になって、これらの行事はどこからともなく現れた「正式名称」で呼ばれるようになり、「正しく」紹介されるようになり、行事はやんわりと修正された。もっとソフトでポップな雰囲気が欲しかったのかもしれないし、観光資源化のために必要だったのかもしれないし、何か良くないことをしているから変えなければならないという自覚が旦那衆にもあったのかもしれない。
若い衆は何も知らずに、単にイベントとしてこれら行事を楽しんでいることだろう。しかし、年寄りはあのころのディープな記憶を持っている。
最近はオリヒメサマ選びはただの美人コンテストなのかもしれない。ただのまちおこしなのかもしれない。
でも、あの頃の記憶は忘れられない。オリヒメサマを持っていることによる神秘的な高揚感。他町民への優越意識。そして、どこかいけないことをしているような共犯意識。
今の行事には、あの頃の妖しい魅力と強力な毒はない。腑抜けた、という表現がぴったりくる。でも、きっとこれでいいんだろう。我々が皆死にゆけば、この町は普通の町になる。
この手の情報はググってもSEOで上がってきた胡散臭い所ばかりで信用できない。一体どうするのがベストなのやら…。
今年の夏場に腫れと痒みがやばくなって、一応泌尿器科もやっているかかりつけのクリニックを受診した。
都内だと、ググれば山のようにその筋専門の病院は出てくるのだが、まぁSEOで上がっているだけあってどこも胡散臭い。こういうのは専門外でも信用できる医者に診てもらって、難しそうなら専門医を紹介してもらうのが確実だと思った。
普通の内科中心のクリニックなので、受付は女性だけれども、向こうもプロだ。堂々と「陰部に痒みがありまして…」と言えば察してくれる。自分の場合は吃った挙げ句に訊き返されたので、その場で死にたくなったけど。
1回目の受診では、排尿時の痛みが無ければ細菌性の包皮炎だろうということで、グリメサゾン軟膏を処方された。
一応医師には患部を見られたが、こればかりは仕方ない。風呂とセックス以外で他人に下半身を晒したのは初めてだったので緊張はしたけれども、「これは医療行為これは医療行為…」と心の中で唱えながら何とかやり過ごした。
ちなみに、医師からは性病ではないので性行為や自慰は程々なら問題無いと言われた。まぁ、その時点では痛痒すぎてそんなことは考えられなかったけど。
軟膏は良い感じに効いてくれて、1週間くらいすると平時は全く痒くなくなった。
そこで、もう大丈夫かな?と思って試しに相棒のTENGA FLIP HOLEと念入りにゴム付きで致してみると、かなり緩めに握っても擦れて微妙にヒリヒリする。さすがに暫くの禁欲期間を経てのことだったので止まれずに最後まで致したが、おかげでカリ首と皮が腫れ上がって一晩辛い思いをした。
これはいかんと3週間くらい禁欲してひたすら軟膏を塗り続けて、ようやくTENGAさんとはゴム無しでも致せるようになった。
ところが、今度は本番が避けられない状況がやってきた。しかも相手はタコ壺の名器だ。病み上がりの如意棒(装着済)、タコに絡め取られて完全敗北。
このまま無限ループかと絶望しつつも軟膏を塗り続けたら、良い感じになってきた所で軟膏が切れた。
いい加減涼しくなってきたし、極力乾燥させておけば自然に良くなっていくのではないかという甘い考えで、暫く様子を見ようと思っていた。
甘かった。
2日後の夜、どうにもムズ痒くて嫌な予感がする中、いざ御開帳してみると、カリ首の下から包皮の間に白いカスがびっしり。どう見てもあかんやつ。迷わず再受診した。
もう一度医師に診てもらうも、診た所では引き続き軟膏で様子を見るのが良さそうとのこと。
一応カスのことを伝えると、念のためカンジダの検査もしておこうということになったけど、今の軟膏が効く分には多分カンジダではないだろうとのことだった。
「あんまり再発するようなら、余った皮の部分を取った方が良いかもしれないね」
え???
それってオブラートに包んでるけど、要するに包茎手術ってことデスヨネ?
ここで自分の被り具合について説明しておくと、フル勃起時は完全に亀頭がコンニチワしているが、萎えている時はタートルネックを通り越して亀頭が半分くらい隠れてしまう。
他人の剛棒をまじまじと見る趣味はないのでこれがどの程度の被り具合なのかはわからないけれども、日本人の7割は仮性包茎みたいなことも言われているのでよくあるレベルだとは信じたいのだが…。
それを踏まえた上で、美容整形外科とかでは包茎手術って積極的にやるけど、本来仮性包茎に手術は必要ないんじゃなかったの???という疑問が。
美容整形ではない純粋な医療として、亀頭包皮炎への対処に包茎手術というのは一般的なのだろうか…。
まぁ、信頼できる医師の言うことなので間違いは無いと思うし、保険適用であの忌々しい皮とオサラバできるというのであれば、確かに魅力的な提案という気もするが…。
敏感な部位だし、術後どれくらい禁欲が必要かとか、感度に影響しないかとか、色々気になる部分が山積みでして…。
30代なので若い頃ほどではないにせよ、まだまだ我が逸物には存分に武勲を立ててもらわねばならないので、慎重になってしまうのだ。
とりあえず、もう少ししたらカンジダの検査結果が出るので、そこでまた相談してみようとは思っているけど、それまでに似たような事例とか無いかなーとひたすら探している。
せっかくなんでタイ語の月名を全部書いておくと、
1月 | มกราคม | モカラーコム | 怪魚の大月 |
2月 | กุมภาพันธ์ | クムパパン | 瓶の極小月 |
3月 | มีนาคม | ミナーコム | 魚の大月 |
4月 | เมษายน | メサーヨン | 子羊の小月 |
5月 | พฤษภาคม | プルッサパーコム | 雄牛の大月 |
6月 | มิถุนายน | ミツナーヨン | 対の小月 |
7月 | กรกฎาคม | カラカダーコム | 蟹の大月 |
8月 | สิงหาคม | シンハーコム | 獅子の大月 |
9月 | กันยายน | カンヤーヨン | 少女の小月 |
10月 | ตุลาคม | トゥラーコム | 釣り合いの大月 |
11月 | พฤศจิกายน | プルッサチカーヨン | 蠍の小月 |
12月 | ธันวาคม | タンワーコム | 弓の大月 |
なんとなく日本語は中二病っぽく訳したけど、コムとかパンとかヨンとか日常で使う必要ない上にもともと日常で月名以外にはあまり使わない語彙なので(例えば蟹の現物なら、กรกฎาよりปูのほうが普通に使われる)、前半部分言うだけで月名としてはなんとなく通じるし、5月、6月みたいな「月」に「数字」を合わせた言い方も実は使ってる。時刻呼びが深夜、朝、午後(夕方)、夜の4分割(5分割)だけど24時間制でも話せるのと似た感じ。
toggeterを参照して書き直して見た。
【】部分は私のコメント。
1.聞きたいこと【元増田が聞きたいことが何かはいまいちよく分からない】
・第三者が自分に直接関係のないトラブルを警察に相談又は告訴できるか
・後述のAさんが警察に行ったという話は本当だと思うか
2.背景事情
あるゲームの二次創作において、ヘイト創作(注)がpixivなどに投稿され、これを嫌がる人、問題視する人が出始めた。
そこで、このゲームの二次創作において、ヘイト創作の投稿に際しては、タグ付けや注意書きによってヘイト創作であることを明示して棲み分けをすることを提案する人達が現れた。
注 原作への不満を解消するためにマイナスの感情を元に創作された二次創作作品。今回のケースの文脈では、自分の嫌いなキャラクターを悲惨な目に合わせる創作も含む。
3.登場人物
Bさん:2ちゃんねるにおいて専用スレッドまで立っているモメサ(揉めさせたがりの人)。棲み分けを拒否する人々が、棲み分け派の本アカウントだと根拠なく認定したアカウントの人(及びその人と同じサークルの2人)に対し、住所等の個人情報を晒すなどの嫌がらせを続けていると主張している。【本件と関係があるのかはよく分からない】
元増田:【誰?】
Aさんは、Bさんを「刑事告訴」しようと警察に相談に行った、警察からは、「告訴」について、内容的におかしなところはないと言われた、などと述べている。
5.toggeterコメント欄でのやり取り
Bさん作成のtoggeterにおいて、BさんはAさんが公開した資料を見ても告訴できる材料はなく、告訴は不可能だと述べていた。【toggeterは長すぎてどこで言ってるかは探していません】
これに対し、Aさんは、当該toggeterのコメント欄において、公開したのは警察に提出した資料全てではないと述べた。
これを受けてBさんが、「非公開の個人情報をAさんが何らかの手段で入手し、警察へ添付したということですね?」と聞くと、Aさんは、「いいえ、Bさんが自ら公開されていた個人情報をまとめました。警察も「違法性なし」と判断しています。」と述べた。