はてなキーワード: マミったとは
たしかにメイドインアビスはそこからが本番とでも言うように冒険の熾烈さが増していってショッキングなシーンも増えるわけだけどさ、
序盤の平和な感じやキャラクターの柔らかい感じや能天気さは、むしろ最後の壮絶さを強調するための「ため」だと思って見ていればいい。
ちょうどまどマギの「マミった」現象と同じようなもので、あの柔らかい絵から想像できない「死」が突然リアルに描かれたときの衝撃と似ている。
なんて言われると、はあ~?ってなる。
この感想に、このアニメに限らず、さも壮絶な描写意外に価値はありませんみたいな評が世に溢れててまったくもって嫌気がさす。
確かにそういうのは目を引くよ、魅力の一部だろうさ。つくし卿だって楽しんで描いたろうさ。でもさ、そこだけじゃないだろ。
3話の孤児院の仲間との別れのシーンは?
オーゼンの伝える残酷な真実は大原さんの怪演も相まってぞくぞくしなかったか?
二人を送り出すマルルクたちのシーンの切ない美しさを感じなかった?
11話以前だって実に魅力は詰まってる。作者やアニメスタッフは魅力を詰め込んでる。
それを言うに事欠いて「ため」だとか。不感症ですか、あなた。どうせぼんやりとしか見てないんでしょう。
そんなんだから
特に、なぜ主人公たちは命をかけてまで危険な冒険をするのかの動機の説明が不十分で、視聴者は気持ちが追いついていかない。
一応、主人公たちの親や生まれに関する真実を知るために冒険するという説明はあるが、なにしろ情報があまりにもない。親との思い出の回想シーン1つたりとも描かれることはなかった。
だなんて得意げに書いてしまうんだわ。
途中で切らなくて本当によかった。正直序盤はやや退屈で切ろうと思うところがあったが、最後はとにかくやばかったので絶対最後まで見たほうがいい。
序盤の平和な感じやキャラクターの柔らかい感じや能天気さは、むしろ最後の壮絶さを強調するための「ため」だと思って見ていればいい。
ちょうどまどマギの「マミった」現象と同じようなもので、あの柔らかい絵から想像できない「死」が突然リアルに描かれたときの衝撃と似ている。
ただし、そこに至るまでに強い引き要素があまりないので途中で切りたくなるかもしれない。
特に、なぜ主人公たちは命をかけてまで危険な冒険をするのかの動機の説明が不十分で、視聴者は気持ちが追いついていかない。
一応、主人公たちの親や生まれに関する真実を知るために冒険するという説明はあるが、なにしろ情報があまりにもない。親との思い出の回想シーン1つたりとも描かれることはなかった。
根幹の動機が不十分のまま、とにかく冒険ワクワクするよねとか探掘家って憧れる~みたいな雰囲気で進もうとするので、ますます気持ちが離れていく。ワンピースで海賊王の定義もないまま、海賊王に俺はなると言い出してとりあえず冒険に出るくらい漠然としている。
たしかに、描かれている世界はかなり独特かつ緻密なので、それだけで魅せられる人もいると思うが、そういう独創的な世界観だけをひたすら見続けさせられるアニメなんだろうかと心配になる。
アニメ10話で魔女の真実を知ったマミさんが半ば発狂するシーン(みんな死ぬしかないじゃない!あなたも、私も!)が有名だけど
あれをさせないためにはどうすればよかったのか?
例のシーンに色々説はあるけど、個人的には冷静に発狂していた説を推したい。
「孤独+周りの不仲+自分の空回り+唯一信頼してた後輩の死亡(さやか)+魔女の真実+自分の目的の喪失(魔法少女として魔女の脅威から人を守る)」が全部重なったから最終的に「自分を含めた魔法少女を魔女化する前に死滅させる」って判断になってもおかしくない。
アニメの最初の回(マミった週)では魔女の真実知る前に油断して死ぬからわからないけど、あの週では結局さやかが魔女化しちゃうし仲がいいのはまどかだけだったからたぶん発狂する。
まどぽだとほむらとまどかに嫉妬するレベルで二人と仲良ければ、真実を知ってもぎりぎり踏みとどまることもあった。
おりこだと真実を知って愕然としちゃうけど、あんことある程度共闘状態でありゆまの叱咤もあったから踏みとどまった。
それを考えるとやっぱりマミさんは孤独じゃなければ大体ハッピーなのかもしれない
以下追記
思った以上に反応あったので、マギレコのおかげでまどマギ界もまた活気付いてきたのかなとうれしく思います。
(ガチャはクソだけど、ガチャはクソだけど!!!!!!!!!!!!!)
余り関係ないけど、ブコメで「孤独じゃなくなって魔法少女の仲がよくなると次は油断死するよね」ってありましたが
まったくもってそのとおりだと思います…
まどか新編は、テレビシリーズの起承転結の流れを踏まえつつ、新しい話を作った。
具体的には、起は、TVでいう魔法少女への憧れを映画では魔法少女戦隊キャッキャウフフにし、
承は、マミった後現状把握する流れを、映画ではほむらの推理劇に、
転は、さやか闇落ちからほむらの設定ネタばらしを、映画でも同じく。
結は、まどかアルティメット化を、映画ではまどか覚醒から更にほむら悪魔化の二段落ちにして、
じゃあフォースの覚醒はというと、具体的には初日来たばかりだから書かないが、
EP4~6の一通りの流れの起承転結を圧縮して同じように汲んでいるので
いい意味で懐かしさを感じるはずだ。(懐かしいのに新しいというのは新劇場版のエヴァにも似てる感覚かも。)
その上で次を期待させる終わり方だ。
つぎの土曜日からまどか☆マギカの劇場版が公開されるというから、まどか☆マギカのことを思い出してみると、印象に残っているのはマミったシーンだ。
ちょっと立ち止まってみるとヒロインが敵に殺されるというのは斬新というか捻くれているというか。ただ、まどか☆マギカの世界観では的の魔女は元魔法少女だし、魔法少女が魔女になるときのエネルギーを集めているらしい。ということはすでに役目を果たした魔女が魔法少女を殺すことは、債権の回収失敗みたいな感じではなかろうか。
少女が魔法少女になるときお願いを叶えてもらっており、少女がキュウべえから借りたエネルギーで、魔法少女から魔女になるときのエネルギーで、借りた分のエネルギーに利子を載せていると考えるのが、感情を持たずに効率だけを優先しそうなキュウべえの作った仕組なのだろう。
その仕組みのなかでマミさんがマミられることはエネルギーの借りパクのようなものだ。それを目の前にしてキュウべえが魔女に何もしない、出し殻の暴走を止めないのはなにか理屈が合わない。少女を魔法少女に勧誘するのも大事だけど、もっと大事なのは魔法少女が魔女化するように促すことだろう。借金するひとが増えるように広告をたくさんだするのも肝要だけど、そもそも踏み倒されてばかりでは商売にならない。
設定上も物語上もマミさんがあそこで死ぬのは理屈が合わない。じゃあ、どうしてマミさんがマミったのかといえば・・・ヒロイン的な美少女を首チョンパしてモンスターに食べさせたいという、倒錯的エロスのためと断言できよう。