はてなキーワード: ビーパとは
俺はゲーマーだ。いや、かつてゲーマーだったという言い方が正しいのかもしれない。
■年齢一桁代
スペースインベーダーがブームになった頃。ゲーセンは学校で禁止されていた。
当時なぜか、仲の良かった友達の家にスペースインベーダーの筐体が置いてあり、そこに毎日入り浸って取り憑かれたようにプレイしていた。
■10代
ファミコンブーム到来。と言っても、ファミコンは持っておらず、ホビーパソコンを使って自作ゲームでよく遊んでいた。でも今考えると当時は、ファミコンもパソコンもグラフィックが随分しょぼかった。
ゲーセンのゲームはそれに比べると遥かに高次元で、ファミコンやパソコンのゲームで物足りなかった俺は、ゲーセンに入り浸るようになった。学校帰りは常にゲーセン。
ファイナルファイトなんかの横スクロールベルトアクションや、縦スクロールシューティングが主流で、ハマった。ゲーメストも愛読していた。
■20代
パソコンで海外製のFPS視点のゲームを好んでやるようになる。ハーフライフやアンリアルとか。
だんだんインターネット環境が整備されてきて、オンライン対戦が主流になってくるとそちらへ移行する。アンリアルトーナメントやカウンターストライクにハマった。シングルプレイとは異なる楽しさのあるマルチプレイにのめり込み、眠る間を惜しんでプレイする。日中は普通に会社で働いていたが、常に寝不足状態だった。
■30代
引き続き、パソコンでFPSをやっていた。CODなんかのシングルや、L4Dなんかの協力プレイのマルチにハマったりしていた。
この頃までは、FPSの新作が出る度に、それを入手してプレイしてクリアするのをルーティンワークのように繰り返していた。ビデオカードの進化に合わせて、どんどんキレイになっていくグラフィックに圧倒された。
相変わらず楽しかった。
■40代
誰も知らないと思うが、FWZHというFPSのマルチゲーがあって、これが死ぬほど面白かった。VRなので、実際に銃器を手にして戦場を駆け巡っている感覚を肌で感じることができた。外人とボイチャしながらひたすら戦い続けた。思えば40代前半は、ずっとこればかりやっていたような気がする。
既存の2DのFPSでは、PUBGなんかのバトロワ対戦ものが流行っていたみたいだけど、俺にはまるで面白さがわからなかった。
■そして今
来年で50歳になるんだが、ゲーム自体まったくやらなくなってしまった。今でもジャンルや形式に関わらず、あらゆるゲームが市場に流通しているが、なんかどんなものにも関心を持てなくなってしまった。
俺が子供の頃は、大人の人でゲームをやっている人なんて全く見かけなかったし、大人になったら自然とゲームから卒業するものだとなんとなく思っていたが、まさか自分もそうなるとは思わなかった。
ゲームをやらなくなってしまった理由を自分なりに考えてみたんだが、
1.体力の低下。反射神経とかいろいろ、現在のFPSに対応できなくなってしまった。
2.FPSというジャンル自体に飽きている。今まででやりつくしてしまっていて、何をやっても同じことをやっているように感じる。
3.YouTubeとか、他の手軽に楽しめる娯楽に意識がいっていて、ゲームの方に回らなくなっている。
俺ぐらいの世代のゲーマーって、今ではどんな感じになっているんだろう。
○ご飯
朝:なし。昼:ネギ納豆たまごかけご飯。夜:ネギ納豆たまごかけご飯。サラダ。豚汁。間食:ポテロング。アイス。
○調子
携帯電話で展開していたサイコミステリーシリーズの第一弾というか第ゼロ弾というかのニンテンドースイッチ移植版。
あの探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの元気が開発しているのでちょっとしたクロスオーバーっぽいシーンもあったりするが、テキスト主体のゲームでそのライターが異なるためかなり味わいは異なっている。
突然三つの記憶しか保持できなくなった高校生の主人公が、何故か自身の恋人にナイフを刺してしまうところから物語が始まる。
記憶の中で何故こんなことが起きたのかを探って行く内に、恋人の件だけでなく自身のルーツにまつわる大きな問題にも立ち向かうことになる、サスペンスなドキドキ感と、記憶を逆に辿って行くことによる時系列が前後する物語の妙を楽しむ作品だ。
……とは書いたものの、正直テキスト量が少なくて個性を感じられる場面が悪い意味で少なかった。
タイトルの通り、三つの記憶しか保持できなくなった主人公をコマンド選択式のADVというシステムに落とし込むため、手がかりや情報や証言を記憶という形で最大三つだけ保存できる。
逆に言うとこの三つの中だけでフラグ管理をやりくりするんだけど、このシステムが単なるプレイ時間の水増しにしかなっていないのが大変残念な点だった。
どの三つを保持するのかという取捨選択の楽しみは殆ど無く(皆無ではないが)、大半が話を読んでいれば自然と重要さがわかり保存できる。
これ自体は難易度が低いという意味ではそこまで批判したくはないが、問題なのは移動先すらこの三つでやりくりする点だ。
渋谷の街を行き来しながら、主人公が失った記憶を遡って行く展開のために、延々と移動しながらフラグを立てて行く。
フラグ立て自体はサスペンスな事件を追って行く楽しみもあるにはあるものの、それ以上に移動にかかる面倒さがずば抜けてて楽しめなかった。
移動先を教えてくれる人やお店が物語の進行によって変化する点と、一方通行の道が多い点の二点によって、シンプルなコマンド選択式ADVのマップにしては移動にかかる操作が多すぎる。
プレイ時間にして2時間かかるかかからないか程度だったと思うのだけど、体感では1時間以上は移動していたような気がする。(こういうのはロード時間と同じく体感が長く感じるものだけども)
正直、良かった点もあったと思うのだけど、この移動にかかるストレスが大きすぎて、忘れてしまった。
例えば主人公と恋人と親友というメインキャラ三人以外にも、渋谷で暮らす市井の人々のサイドストーリーっぽいものもあったのだけど、なにぶん名前すらないモブキャラである点、移動によって物語がぶつ切りにされる点、時系列がシャッフルされていることによるややこさとによる相乗効果で頭に殆ど残らなかった。
土地柄かナンパや不倫や逆ナンなど、粗雑な男女の関係にまつわるサイドエピソードが多すぎることも混乱を招く。
ゲームシステムでそれを整理するような仕組みも無いため、ただ事象が前後して描写されているだけの複雑かつ、それを整理したところで特に何か感慨に浸る部分がないというアッサリさとが際立つ。(名前も個性も知らない少女がとある男から逃げている理由が、メシだけ食べて後の行為に付き合わなかったことがわかったところで、それはなあ)
物語の本筋については、記憶が三つしか持てないことによる誤解と、男女の下手なすれ違い、それにサイコミステリーのサイコの部分の設定開示と言ったところだが、どれも文量が少なく、シリーズが進んでいけば布石として機能していくのかなあと、現時点ではあまり思い入れはわかなかった。
携帯電話の限られた容量で遊べるゲームを作ることは難しいのだろうが、ちょっと移動にまつわるややこしいシステムによるプレイ時間の水増しのせいで、テキストを楽しみという根幹がブレているのは残念だった。
とはいえ、こういうのは好みの問題でしかなく、昔の所謂ホビーパソコンの時代のアドベンチャーゲームは、作家性のあるテキストを楽しむというよりは、知恵比べやフラグ立ての複雑さを整理する楽しみが主流だったような気もする(ゲームの歴史を語るのは烏龍がましいので、雰囲気の話)ので、こういうのが好きな人もいるんだろう。
色々と文句を書いてしまったが、携帯電話で配信されていた今は遊べないシリーズをこうして楽しめるだけでも嬉しいし、後続のシリーズではこのシステムも採用されていないらしいので、是非とも次々と販売して欲しいし、発売の度に購入して追いかけようとは思えた。
俺が好きだったゲームはMTG、マジック・ザ・ギャザリング。
TCGの元祖、「遊戯王」「デュエルマスターズ」の元ネタとかって説明されることが多くて、名前だけは聞いたことがあるって人もいるかな。
ゲーム自体もとても面白いのだけど、今回は主にゲーム性じゃなく、それ以外の部分で俺が惹かれた要素と、「好き」が過去形になった理由について書いていく。
ゲームプレイヤーにも勝利を求めるガチ勢、楽しさを重視するエンジョイ勢と色々いると思う。
(俺はガチ勢ってのも互いに本気で勝利を追求する遊び方を楽しんでる人って考えてる)
他のとこは知らないけど、MTG界隈では競技(ガチ)⇔カジュアル(エンジョイ)って表現を使ってた。
競技なんて言うと「カードゲーム風情がスポーツかなんかのつもりかよ」って思うかもしれない。
まずは俺が惹かれたMTGの要素の一つである競技性を語らせてくれ。
ゲーム=競技ってことで、その競技性ってのはつまりプレイヤーがどれだけ本気で勝ちに行ってるかの指標って感じかな?
皆が本気で勝ちに来るような方法って?そんなの簡単な話だ。商品を付ければ良い。皆が本気で勝ちに来るような商品って?これも簡単。「金」に決まってる。
今でこそゲームの大会に賞金が出るのなんて当たり前だけど、今から30年近くも前から「ゲーム」自体を主体に賞金制の大会があったってのは凄いことだと思う。
次にその大会の規模、まずGP (グランプリ)。世界各国で行われて、誰でも参加が可能。コロナ以前には日本国内でも年に4~5回開催されてて、最高人数は2500人程度、2000人↑は当たり前って感じでかなり大盛況だった。
優勝で大体100万円くらいで、結構大金だけどガチ勢にとって同じくらい大事なのが上位入賞者に与えられる副賞。
PTは世界各地で行われる。各国の強豪が集って、各々が練りに練ったデッキを持ち寄り優勝を目指す大会。賞金は優勝で500万円くらい。多くの競技者はこの舞台を夢見て、焦がれて、狂ってた。
このPTって舞台はMTGやってる奴には本当に羨望の的なんだ。昔はニコ生で、今はTwitchで配信してて、海外でやるから時差があったりで眠たさ堪えながら噛り付いて見てた。
さらにもう一つ大事なことがあって、MTGにはプロプレイヤーって呼ばれる存在がいる。
「プロ」の定義は論の種にもなる事なんだが、一つ明確な線引きがあってプロ・プレイヤーズ・クラブっていうMTGを制作した大元であるWoTC(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト)社が公式に制定した制度。
これはプロポイントってポイントを稼いで、それが一定数溜まったらそれぞれブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナと順にランクが付与されてボーナスが貰えるって仕組み。
このプロポイントを貰えるのが前述のGPやPTなどのグレードの高い大会。
誰でも参加可能なGPでも、このプロポイント1点取るのに結構苦労するんだが、MTGのプロプレイヤーはこのポイントを求めて世界各国を飛び回ってGP、PTに参加するってのが常だった。
国内だけだと4~5回と書いたGPだが、世界ではほぼ毎週のように行われてるので、プロやプロになりたい奴らはポイントを、PTへの参加権を求めて世界を旅してた。
WoTC公式からも「PLAY THE GAME, SEE THE WORLD」って言葉でその行動を奨励してた。
俺はこのプロプレイヤーってものに強く強く憧れた。最初はただゲ-ムが面白くてやってたんだが、次第に戦えるようになって、勝てるようになって、大きな大会にも出るようになった。
俺はいつの間にかこのゲームに狂ってたんだ。狂うのも悪くないけどな、好きなことに狂えるならそんな幸せなことはない。だから狂いが醒めてしまった俺からみると、未だに狂ってるような人を羨ましく感じたりする。
ここまでが俺がMTGを好きだった理由。ここからは好きじゃなくなった理由。
上に書いた競技性と、それを織り成す制度ってのが、俺がMTGってゲームに惚れた一つの要素だったわけだ。
結論から述べる。俺がこのゲームを好きでなくなったのは崩壊とも表現したくなる度重なる制度の変更が理由。
最も絶望するのは、それが他でもないこのゲームを作り出したWoTC社が原因となることだ。
2016年の初めあたりにWoTC社の社長が変わった。度々この社長がやり玉に上がる。
本当に社長のせいなのかは分からないが、実際にこの時期からWoTC社は数多くの制度変更を打ち出す。
色々と細やかな変更はあったんだが最大級のヘビーパンチが、2018年末のこと。
その内容は、前述したプロプレイヤー制度の廃止。そしてそれに代わる32名の定員でのMPL(マジック・プロリーグ)という新しい制度への移行だった。
元々、プロプレイヤーって呼べるような人間は世界に数百人いたと思うんだが、それに対してMPLの32名という枠はどう考えても少ない。
プロ制度の廃止に伴ってプロポイントも無くなり、世界を股にかけて飛び回る意義も失われた。
過去のプロ制度は、本気で目指して努力すればギリギリ手が届きそうと思わせてくれるいい線引きだった。
それに対し、MPLってのは百戦錬磨のトッププロが競い合う中で、そいつらを蹴落としてようやく入れるような場所で、明らかに必要となるコストの大きさが違うんだ。
MPLからあぶれたプロプレイヤーも、プロを目指していた競技勢の人々も次の目標となるものの遠さに驚いたと思う。
(ちなみにこのMPLももうすぐ終わっちまうらしい。それ以降のプロに対する制度の説明は現状一切ナシ。
推測の域を出ないが、界隈で多く見かけた意見は前制度にかかるコスト、金銭的負担の軽減が目的というもの。
PTのようなアメリカ、ヨーロッパ、時にはアジアなどで行われる大会の場合、世界各国からプレイヤーや運営する人材を派遣するだけでも多量の金がかかる。
プロプレイヤーへの報償も同様に、目に見えて分かりやすい直接的なコストのために制度が見直されたのだ…と。
競技性がMTGの魅力の一部でしかなく、皆が皆一様に求めていたものではないとは思うが、ゲームの人気の一端を担うものであった事も確かだ。
俺はWoTC社がそれを軽んじ、踏み躙ったように感じた。
WoTC社はそれ以外にも目先の利益に捕らわれた焼畑商業的な業務方針を繰り出した。
MTGには、「とあるカードセットで禁止カードを連発してしまい。開発陣は社長室に呼ばれて𠮟られた」という有名な逸話があるんだが、現在のMTGでは2017年から毎年新しいカードセットから禁止が生み出されている。
それ以前は偶発的なデザインミスで、禁止せざるを得ないようなことはあったものの、毎年のように禁止カードが続出している状況はおかしいとしか言いようがない。
ゲームデザインは非常に難しいことだとは思うが、発売からわずか17日で禁止が出たと聞いたときは流石に目を疑った。
本来の焼畑であれば、別の場所を耕作すればよいだけだが、MTGでいう土壌とはプレイヤーの事だ。容易に開墾できるものじゃない。
こうした事によって(俺の)WoTC社への信頼は地に墜ちることとなる。
人は信頼があるから金を落とし続ける。だから企業は顧客満足度なんてパラメータを得るのに躍起になるわけだな。
信頼=金ではないが、信頼≒金ではあるんだ。
友人にWoTCへの呪詛を吐き散らす奴がいたが、WoTCがクソなのなんて衆知の当たり前の事で、それを一々言ってる自分がおかしいのかもと言われて笑っちまった。
まず渡辺雄也は今例えるなら、「MTG界の大谷翔平」と言って差し支えない日本プロのトッププレイヤー。
競技シーンを知る人に「日本一上手いプレイヤーは?」と聞けば大体の奴はナベかヤソって答える。
次にマークド。これはカードに目印をつけて、裏面から見ても何のカードかを識別できるようにするっていうイカサマ。
事件の経緯は以下。
渡辺雄也選手は大会でこのイカサマを行ったとして失格処分を受ける。
↓
後日スポンサー(Cygames)と共に反論する旨の声明を出す。
↓
WoTC社はこれに対し報復とも考えられる重い罰(30ヶ月の出場停止、殿堂除名、MPL除名)を与えた。
・ジャッジや対戦相手などによって容易に物的証拠を作ることができてしまう。
・十数年間、イカサマなんてほど遠い、クリーンなイメージ像からこの裁定が下るなんてありえない。
俺は当事者以外があーだこーだ言ってもしょうがないと思ってる。
けど、一つだけ信じてるのは渡辺雄也って選手はイカサマなんてしなくてもこれまでの実績を疑わせないくらい強いという事。
この件でWoTC社に失望したのは、声明に対して納得のいく証拠の提出を一切することなく、異例なほど重い30ヶ月という罰を科したこと。
反則行為で失格になった時点で罰が与えられる事、それ自体は仕方ないことかもしれない。
しかし、求められた調査の開示がない事、不当に思えるほどに重い罰、あらゆる説明が足りなさ過ぎた。
結果的に日本を支えてきた英雄が不本意に、容易に、軽々しく選手生命を絶たれたとしか見えなかった。
この件を皮切りに実際にMTGを辞めたやつも何人か確認してる。
献身的にずっと日本のMTG界を牽引してきた人物でも、不透明な組織の指先一つで活動を終わらせられる可能性があるなんて、信じられないよな。
こんなとこで文句言ってんじゃなくて問い合わせろって?日本のWoTCに何か言っても無駄だ。
日本公式が駄目なら英語なり使って本社に言えって?俺は自分で声を挙げたことはないが、海外プロプレイヤーのWoTCへの不満がたまに流れてきてもゴミみたいな制度を連発してるあたり何言っても無意味ってことだな。
こんなことが続く内に、WoTC社に期待する方が悪いという風潮が当たり前になった。
面白くてゲームを初めて、企業に嫌気がさして、ゲームへの興味も失せた。
これが、俺がゲームを「好き」じゃなくなった経緯。
この手記が、MTGの魅力の片側から見た一方的な意見であり、カジュアルに遊んでる人が今も楽しくしてるのは知ってる。
まぁタイトルにある通り「愚痴」だからな。聞いて欲しかっただけだ。
こんなこと書きながら2,3年後にはMTGやってるかもしれないけどな。
滅茶苦茶ネガキャンしといてなんだけど、ゲームは本当に面白いので興味あれば触ってみて欲しいという思いはある。
今ならマジックアリーナって無料で始められるアプリもあるし。DCGの中では本当に金のかからない部類だしね。
カードゲームが趣味だったおじさんのか弱い嘆きを聞いてくれてありがとう。
書いてる最中に、存在すら知らなかったPTの代替となるCS(チャンピオンシップ)とやらが行われていたらしく、久しぶりに配信を見た。
Hyper-Threading 90 C++2Aのライブラリのサポートというのもでかいはでかいが ほぼ200に近い性能 アクセラレーションブーストの1つ といわれるだけはある
そりゃ おそくなるやつもいるだろう 100%より おそくなるやつがおおい。
だが200%にせまるやつも出始めた。
ライブラリが安定し始めたから 英語の情報が 多くなってきたのは助かる
アクセラレーションブーストの1つが Hyper-Thread 90 C++2Aの最新ライブラリが場合によってはパッチ込みで必要だが という条件付きで
まぁアクセラレーションブーストの1つがHyper-Thread 90 というのは ほぼ確定だと思う
そりゃ遅くなるだろう 90%になっちゃう
Hyper-Thread ならわかる だが200%にもできるやつがいた だから アクセラレーションブーストは遅くなる というやつもいたが 高速化するというやつもいた。
おれも 疲労度やくみづらさ を考えれば 予算が100倍とかならともかく 通常は 遅くなる とこたえていたが
様子を見ている限りは 200%に結構近いという方に 賛成 そりゃ180の意味を誤解するやつもいる だが200だと 180じゃ小さくて 誤解を受ける
死ぬ つかれた こんなもんの 解析依頼を出すなよT_T
Windows 10な 日米は 日米軍事同盟という 軍事同盟がる 盟友 戦ったこともあるほど 殴り仲間
昔と今のユーザーの違いは、PCの知識が無いプレイヤーがPCがあるだけで遊べると思い込んでる所。
↓これ見て、それがとてもよく分かる。
今回のウィンドウズアップデートもダメでした。 | 自由掲示板 | マビノギ http://mabinogi.nexon.co.jp/community/freeBoardContent.asp?dp=0&th=128502999&ix=128502
例えば、古くてすまんけどNEC王者時代のPCシリーズだと、サウンドボードからMS-DOSの一般的な操作まで覚えてきた。
サウンドボードは物によってはディップスイッチまで弄る事もあったし、PC本体そのものもいじる必要があった。
MS-DOSではコンベンショナルメモリの確保やら、インストールなど手打ちコマンドが必要だった。
Windowsになってからは、そういうのは減ってきたが、それでもWin3.0~Win2000くらいまではある程度知識を持っている人が遊んでいた。
XP以降になってからは、ゲーム自体も簡単なインストーラーなどが出てきたおかげでわかりやすくなったが、
それでも自分の環境で動かなくなるという事は多々あって、ユーザーが自力で解決しようと必死に学んできたわけだけど、
Windowsが新OSを出す度にかんたんかんたんと知識もろくに持っていないユーザー向けにしていくので、
今じゃ「Win10のアプデでゲームできなくなりました」と言った後にゲームに関係のないストアアプリのせいでゲームが出来ないと言い始める有様。
PC=ゲーム機としか考えていないという間抜けの恥ずかしい様だなと。
PCをゲーム機にするなら、ゲーム専用とするなりの設定を事細やかに行えばいいし、正直な所余計なことをしないデフォルト状態であれば遊べるわけだ。
ホビーパソコン用途以外の事も行うから、余計に遊べなくなってしまう。
上記のURLでは、まったく知識がない集まりがとんちきな方向への意見を展開している有様だったが、
こんなのばかりが増えると、いよいよ何も出来ない世代だらけになってしまうんじゃないの。
AndroidもiOSも、本来の用途を間違えてゲーム機扱いしている人が多いが使いこなせてない子ばかりだろう。
文章編集もメールで良いなんて言ってる子がいたが、要するに他のアプリを使う知識が足りないからこれなのだ。
ブックマークでも人気のこちらを見て考えた。
80年代に隆盛を誇った8bitホビーパソコンの追憶の詩と映像である。若くてそんなの知らない向きにはこちら→Wikipedia 8ビットパソコン、ホビーパソコン
要するに貧相な計算能力ながらようやく「人間にも分かる」表示能力と発音能力を持った初期のパソコンの、ユーザーがその表現をプログラム側からながら自由に扱うことができるところに面白みのあった一時代についての懐古である。曲も素晴らしい。
もちろん私も8bitホビーパソコンのストライクゾーンユーザーだったわけで上記クリップの言わんとする感じは良く分かる。逆に世代が違うとそれだけでこのビデオ作品には何も感じないかもしれない。
しかしそんな懐かしズムについて語りたいわけではない。いや、むしろ猛然と語りたくてしかたないのか。ともあれ、この国産8bit時代に我々現30代はアーダコーダと雑誌を横に機械語まで弄ったりしたのだ。頭の柔らかい中学生ぐらいだから理系とか関係なく自然と言語を取り扱えた。いきなりバイナリでコードを組んでる姿は親からみたら異星人だったに違いない。それでもクラスに数人はいたはずだ。希少種というほどでもない。
そこで疑問に思うのがそんな我々30代が社会で中堅と相成った現在において、この日本のソフトウェア産業のレベルが低いのはどういうことなのだろうか。かように自主的にコンピュータの実習をしてきたにもかかわらずだ。
怪しい部分はいろいろある。
8bitパソコンにうつつを抜かしている間言われたのは「プログラマーでは食っていけない」という呪いだった。実際、私も特性があったとも思えないが選択肢から最初から除外していた。この辺の妥当性は現在プログラマーの人のコメントを待ちたい。外見的にはWebプログラマーとして人材が流れ込む現在とは対照的だとは思う。
また、90年代の停滞だ。Macintoshの廉価版と続くPC/ATとWindows95の普及まで「パソコン」は暗黒期にあった。さらに言うと2000年ごろのウェブプラットフォームが現実感として開けてくるまで80年代のような「パーソナル」さはなかったように思う。
思うに、80年代のパソコンと90年代(後半)以降のコンピューティングは全くの別物だったのではないだろうか。
そこで8bitパソコンがなんだったかというと、実際はパーソナル「コンピュータ」ではなくパーソナル「メディア」だったのだろうと思うのだ。(当時ログインで伊藤ガビンがPCメディア論を振るっていたが、ここではもっと画用紙同様の素直な意味である)今からみると惨めな表現力しかないのだが自由に、難しい表現だが、扱うことができた。サラリとその場でBASICを組めばキーに音を割り振れるような自由だ。いくつかの8x8マスのカラフルな独自“文字”を設定してテレビ局しか触ることのできなかったCRT画面を芝生“文字”や樹木“文字”で埋め尽くし草原にしてしまう自由だ。
特に当時は計算能力に限界があったためユーザーも遅くて動かないアルゴリズムに凝ることより表現に凝ることに走ったのかもしれない。
ゆえにコンピューティングの正統な進化たるMacintoshやPC/ATではそれを引き継ぐことはできず、ラピッドプロダクションで表現を行うメディアであるウェブの普及までその再来感覚がなかったのだ。
そしてこれはコミック(60年代??)、アニメ(70年代??)と続きゲーム(90??年)が引き継いだ日本のサブカルチャーの基底をなす一つでもあると思う。
だから大人になったパソコン少年※が作るのはウェブプラットフォームランタイムではなく『PC-6601が歌うタイニーゼビウス』なのである。