はてなキーワード: バスケットとは
A-1:アーティスト(http://beauty.tiary.jp/list_video.php?c=5&kid=255)
F-1:フォーミュラカー
G-1:競馬
I-1:(航空機)
K-1:打撃格闘
L-1:ライターイベント?よくわからない( https://compe.japandesign.ne.jp/ruido-l1-2019/ )
N-1:(ロケット)
O-1:(大腸菌)
P-1:(哨戒機)
Q-1:新潟のサーキットイベント(https://tantora.jp/nologin/tantora-champ/article/sample0323)
S-1:ムエタイ
T-1:前橋ローカルの飲食店イベント(http://www.t-1gp.com/)
U-1:(潜水艦)
V-1:(V1飛行爆弾)
Y-1:(見つからなかった)
[B! 小池百合子] 小池都知事「東京五輪中止はあり得ない」 TBS NEWS
中止とか絶対に言えるわけない。そういう立場の人でしょ。IOC・JOC・日本政府が中止or延期を求めてきたときまで「中止はあり得ない」と言い続ける。ヒントはマラソン札幌開催の一連の流れ
これこれ、私はこの視点を持ってなかった。
酷暑のドーハ、深夜出走でも棄権4割超 女子マラソン - 一般スポーツ,テニス,バスケット,ラグビー,アメフット,格闘技,陸上:朝日新聞デジタル
だから、深夜スタートのドーハ女子マラソンで棄権者が多く出たのをきっかけとして、五輪マラソンが少しでも暑さの抑えられる札幌に変更になったとき、
あ、そこ折れちゃうんだ?って思った。誰が何を言っても無駄って雰囲気だったのに。
マラソン札幌開催は「決定事項」=IOCコーツ氏が小池都知事と会談:時事ドットコム
小池都知事は会談の冒頭で「一生懸命、準備に励んできた。東京で行う気持ちに変わりはない」と述べ、30日から都内で開かれるIOC調整委員会で議論していきたいとの考えを示した。
マラソン札幌開催が正式決定 小池知事「合意なき決定」 - 東京オリンピック:朝日新聞デジタル
このままだと再び同意なき決定がなされるかも。
あとIOCが少しでも小池知事に暖簾に腕押しの諦めた対応をして、開催地変更を強行しなかったらどうなったんだろうとかも思ったり。
スポーツも色々あるから一つぐらいは世間の空気に流されないところがあるかもと思ったが、ここで大規模イベントを行う陸連は素晴らしい。さすが日本を代表するスポーツだけのことはある。日本中の陸上観戦ファンが歓喜しているだろう。
そういえば、ライブも沢山中止になりアーティストは苦境に陥っているが、そんな中でもやるアーティストはカッコイイと思う。
実名Twitterなら言いづらいけど匿名だから言える。今の状態ならイベントの自粛は必要ないと僕は思っている。
観光地などの一部の場所は少ないかも知れないが、日常生活はそうさして変わらない(少なくとも僕の周りは、電車も混んでるし店もガラガラではない)。なのに、イベントだけを中止する意味は僕は分からない。
スポンサー筋の中止も一部にはあるそうなので、大規模イベント自粛の必要がないと思っている東京マラソンのスポンサーにも感謝したい。
選手の皆さんは、外野の声に気にすることなく最高のレースをしてほしい。あなたがたの力がコロナに打ち勝つのです。大規模イベントの自粛など必要ないことを見せつけてください。
協賛 スターツ、山崎製パン株式会社、アシックスジャパン株式会社、大塚製薬株式会社、
ビー・エム・ダブリュー株式会社、近畿日本ツーリスト、第一生命保険株式会社、
セイコーホールディングス株式会社、セコム株式会社、東レ株式会社、
日本マクドナルド株式会社、株式会社みずほ銀行、株式会社セブン‐イレブン・ジャパン、
アサヒビール株式会社、アメリカン・エキスプレス・インターナショナル, Inc.、
全日本空輸株式会社、株式会社フォトクリエイト、全国労働者共済生活協同組合連合会、
コニカミノルタ株式会社、久光製薬株式会社、大和証券グループ、資生堂ジャパン株式会社、
株式会社バンダイナムコエンターテインメント、ウェスティンホテル&リゾート、KDDI株式会社、
21 大迫 傑 Nike
22 設楽 悠太 Honda
29 堀尾 謙介 トヨタ自動車
有力選手のリストの上げておくから、皆様テレビでチェックするのをお忘れなく。バレーボールと野球は今週末あるが、サッカー、ラグビー、バスケットはないので、その辺りのファンの人は暇だと思うのでぜひ陸上を見てほしい。
「ノルウェイの森」の登場人物「突撃隊」の(うわさ上の)性癖。
アムステルダムの運河やゴールデン・ゲート・ブリッジ、氷山の写真などで自慰行為をするとうわさされました。
このようなタイプの人が実在するかは明らかではありませんが、実在すればなかなかのレベルといえるでしょう。
「性癖なのか?」(https://anond.hatelabo.jp/20191008091645)より。
「生命の危機に瀕すると子孫を残そうとして勃起する」みたいなメカニズムの派生でしょうか。
(ただし、上記のメカニズムの説明は、近年では否定されているようです。)
「ヤギについて」(https://anond.hatelabo.jp/20180315152105)より。
「絶壁にいて落ちそうなヤギ」の画像・映像を生涯見ることのない人もいるわけです。
そうだったら増田も、自分の性癖に気づくことはなかったでしょう。
もしかしたら、ノーマルぶってる多くの人も、自分の真の性癖に巡り合ってないだけなのかもしれません。
「顔の巨大な美女に欲情する特殊な性癖」(https://anond.hatelabo.jp/20170131142756)より。
単に顔が大きいだけではダメなようなので、CMが盛んになる前の時代に生まれたら気づきにくい性癖なのではないかと思います。
ところで、この増田とニトリのCMの増田、自分で動画のリンクを貼ることについて、「必死」で「きめぇな(キメェな)」と書いてる点で共通しているのですが、たまたまなのでしょうか。
こちらの増田(https://anond.hatelabo.jp/20180408185924)より。
一見するとほのぼのとした映像なわけで、対象の「日常」度が高いのも、(反社会性・非倫理性が高いのと同様に)特殊性が高く感じられます。
もはや「棒と穴」や人体の片鱗もありません。
本人の言葉を借りれば、この辺りが「ニッチな性癖として多くの人間が認識できるライン」ギリギリかもしれません。
「俺って異端でしょ?変態でしょ??」みたいなスタンスではなく、トラバでさらっと登場しているのも良いところです。
さて、ここまで特殊性癖を見てきましたが、本当にこれらは「特殊」なのでしょうか。
動物がシャーーッとしている映像を見て喜ぶのは、おかしなことでしょうか。
身体変化を伴わない性的興奮は、食欲や自己顕示欲、庇護欲、知的好奇心が満たされた満足感と区別できるのでしょうか。
知的好奇心の名の下に、他人のオカズについてあれこれ探ったりしていること自体のほうが、よっぽど「特殊」な行為なのかもしれません。
まず大前提ですが、コメダ珈琲のコーヒーは美味しくないです。アルミカップのアイスコーヒーも氷多くて微妙。たっぷりも本当に1.5倍か怪しい
飲み物は素直に長靴とかジャーに入ったジュース飲みましょう。豆菓子には合わないけど
で、本題だが、コメダは椅子と居心地と時間を買う場所で。決してコーヒーを味わう場所ではないと思っている。限りなくスタバ寄り。でも意識は低い低い
雑誌やスポーツ新聞をどんだけ読んでも追い出されないし、仕事したって寝てても基本は追い出されない。むしろ水やお茶いっぱいくれる。1時間毎になにか注文を~とか回転率とか言わない。個人経営の喫茶店寄りだからだ
だからこそあの不味いコーヒーを我慢できるのである。あれ飲んで30分で追い出されたら暴動レベル。むしろモーニングにあんこをデフォにしてほしいくらい。もしくは豆菓子増量。それが出来ないならコーヒー美味しくして欲しい
何が言いたいか訳分かんなくなったが、
だと自分は思う。
間違っても1人で行ってかき氷とコーヒーのんで1000円以上払う場所じゃない。基本シェア。ミニシロノワールとか頼むくらいならシロノワールをシェアしろ
行ったことない人は店頭のメニュー表を見て欲しい。お一人様が頼むミニは量は少なくて値段は高い。そこからコメダの意思を感じれるだろう。『1人は帰れ』
何度も言うが、コーヒーは不味い。そしてミニではない食事も1人で食べたら腹一杯になるが、伝票見て一気に醒める。最低でも二人で行かなきゃお得感はない。シングル時代の日本には厳しいお店。それがコメダ珈琲
※追記
新宿に時間制限ある店あるのか。もうドトールで良くね?新宿で「わ~コメダだ~」とか言う奴はシロノワール頼んで写メ取ってクリーム溶かして皿ベトベトにするから90分で帰れってことか
コメダでコンセント付きの1人席とか、あの赤い椅子なら有りだけどドトールとかチェーンの窓際にあるような仕切りの無いテーブルと一人用椅子だったらコメダ行く価値の6割無いわ。
携帯と豆菓子とコーヒーとたまごバンズ置いたらテーブルの上大騒ぎだろうし、雑誌も落ち着いて読めないし
回転率とか客単価とか気にしちゃうコメダはさっさと上島か星乃珈琲店にでも変わっちゃえよ。それが出来なきゃコーヒー美味しくするか、豆菓子の量倍にして
※追記 その2
愛知県のモーニングってのは、平日もだけど休日家族が近所の喫茶店で合計2000円ちょっとで飲み物とパンとゆで卵とその他諸々を食べつつ昼くらいまで過ごす感じなんだよ。決して朝だとトーストとゆで卵がついてお得!じゃないんだよ
コメダには是非その空気を全国に広めて欲しい。休みにお母さんを楽させたろうよ。ヒレカツサンドを家族で分け合う姿や、4等分されたシロノワールを小皿に取って、さくらんぼを取り合う子供たちを見せてやれよ。カウンター席で1人でモーニングだけ食べるのはドトールとタリーズに任せとけ。スタバでラテとよく分からん甘いパン温めて食べてる人は同じ金払うならコメダが天国だぞ。ステッカー貼ったMacBookも居ないぞ
ちなみにバズってるミニコメバスケットは当たり外れ多く、見た目通りのサンドイッチと衣ばっかの唐揚げの事の方が多いので、再訪してガッカリするくらいなら良い思い出で済ませたほうが良い。あとミニサンドはミニだぞ。女性には良いが男性には物足りないぞ。そしてミニコメバスケットとコーヒーで余裕の1000円だ。雑誌読んでお茶もらって120分は居座りたいな!
この話題が好きな人はこれを読もう。いろんなスポーツの由来が書いてある。
https://web.archive.org/web/20190330172024/http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/4031/yurai.htm
例えば、なんでフットボールっていう足を使うスポーツの歴史が長くて、現代から見るとより直感的な気がする「ハンドボール」やバスケットなどの球技の歴史が短いのか、これを読めばわかる。
一方、脚(足)とボールに関係あるボールゲームのことをフットボールといいます。フットボールは多人数で争う対戦型のゲームで、ボールを相手方のゴールにたたき込むことによって勝負が決まります。サッカーもラグビーもフットボールといいますが、サッカーは手を使うことを原則禁止されていますが、ラグビーは手を使います。手を使うのにフットボールというのはおかしいといえばおかしいのですが、ここでフットボールと呼ばれるのには理由があります。ハンドボールのボールが掌サイズなのに対し、フットボールのボールは、両手でなければ扱えないほど大きなボールを使います。大勢のプレーヤーが密集してボールを取り合うので、大きなボールでなければ都合が悪かったのでしょう。この大きなボールは、革製でしたが、その中身は、牛や豚の膀胱が使われていました。この膀胱性の中空ボールは、弾力性に乏しく、ゲームは密集したプレーが中心となります。さらに、この膀胱性の中空ボールは貴重で、一般には革製のボールに布などを詰めたものが使われ、手でプレーするには重く、第一手が痛くなってしまう代物でした。結局、フットボールは、ボールをもって運ぶか蹴るとかいった、足と脚を使ったプレーが主体にならざるをえなかったのです。
ちなみに主にオーストラリアで人気のあるラグビー(ラグビーリーグ)は、いわゆるラグビー(ラグビーユニオン)がプロ化するにあたって協会が分化して、危険性を下げるためにスクラムなどを抑制していった結果、また違うフットボールのゲームになった。バックス主体のラグビーでこれはこれで面白い。
こないだ上司と飲んでるときに「結婚はしないの?」って聞かれた。わたしは26歳のSE。上司とは3年くらいの付き合いになる。毎日毎日9時から21時まで働いて帰って寝る、もしくはたまにこうやって飯屋に連行されて飲んで帰って寝る生活。平日はゴリゴリ働いて、週末は趣味の社会人サークルがあるからほとんど家に居ない。こんな状況じゃ自分の面倒を見るので精いっぱいで、恋愛も結婚もしてる場合じゃない、するなら部署変えてもらわないと無理です。ってこたえた。
それなのに全然ピンときてないみたいで、彼によると結婚に魅力を感じていないから時間がないとかを言い訳にしてしまうんだそうだ・・・。そして結婚することのメリットを羅列し始めた。
「さみしくない」とか「家賃も折半で済む」とか「子供はいいもんだ」とか。いろいろいってたけど。どぉーでもいい。黙れ。○ね。○す。
しまいには「俺もお前と同じくらい残業もして働いてるし週末も活動してるけど、家庭は維持できてる」だと。あーーー思い出したらイライラしてきた。
わたし「お言葉ですけど、奥さまは上司さんの扶養内ですよね?」
上司「そうだけど」
わたし「それで上司さんは帰宅したら食事とお風呂が用意してあって今着てらっしゃるスーツもバスケットに入れておけば奥さまが洗濯したりアイロンかけたりクリ―ニングに出したりしてくださってるんですよね」
上司「そうだよ」
わたし「上司さんは奥さまがお仕事諦めて飯炊き女に従事して下さってることもっと感謝したほうがいいですよ。わたしも上司さんと同じくらい手取りがあれば家事もできるジゴロ飼って結婚でもなんでもしたいですけどね。あいにくそんなお金もないし。今は自分の面倒見るので精いっぱいなので(あなたのような)自分のこと自分でできない男性やそもそも多忙な男性と懇ろにしてる場合じゃないんです。」
このことを考えるには「本とは何であるか」を今一度考える必要がある。
本はもともとは「情報を記録してより多くの人に伝達する」ためのものだろう。
「作者が金銭を得る」ことは本来なら「副作用」に類するものだ。
「本とは何であるか」を見失ってしまったから複製が罪とされるのだ。
もちろん、これは個人の感想に過ぎないが、もし間違っているなら教えてほしい。
本とは一体何なのか?
なぜ本を複製することが罪となるのだ?
※なお「本」をテーマとしているのは真偽は不明であるがダウンロード違法化は出版業界の要請であるとされているため。
もはや、この前提が正しくないのかもしれない。
ミリオンセラーを出せば巨額の富を得ることできたのが、よくない。
「良い商売」になってしまったから権力構造が生まれることになる。
当初の目的は忘れ去られ、一部の人間のための理屈が全体を支配する。
かつては「製本にコストが必要」だったから、その費用を請求したに過ぎない。
しかし現代ではデジタル技術によりゼロコストでの複製が可能だ。
「本を出したい側」すなわち「情報を記録したい側」「情報を伝達したい側」にとっては「無制限にいくらでもデジタル複製できる」現代の状況は本来ならば喜ぶべきことではないのか?
記録性や伝達性を高めるために生み出された手段としての本だが、逆にそれらを喪失しつつある。
複製が悪と言うならばテクノロジーは間違った方向に進んでしまったのだろうか?
「本を売る」ということで作者の生活を保障するシステムだ……、というのは一理あるだろう。
だがシステムとしては欠陥まみれだ。拗れすぎてしまった。まるでスパゲッティコードだ。
通説では「本を売るだけで生活できるようになれば生活のすべてを本を作ることに費やすことができる」とされている。
しかし「売れること」への強迫観念が質的変化をもたらしてしまった。
「売れなければならない」から表現したかったことを切り捨てる。
だというのに本は売れずに儲かりもしないなら怒りも沸くだろう。
一体誰が得をしているというのだ?
「本が売れなければ作者は生活できない」とは作者になれた側の理屈だ。
日の当たることのないものは闇の中へ葬られ、なかったことにされているだけだ。
「本を出す」ということが「競争に勝利した」という別の意味合いへと変容しつつある。
半ば競技化した出版競争というものは他人を踏みつけた上にある勝利だ。
ジャンルにもよるが、作品の中でどれほど綺麗事を語っていても、背景にあるのは血生臭い権利の獲得競争だ。
トロフィーの価値が下がるから「本は売れなければならない」という逆説的理論が構築される。
目指すべきは「本が売れなくても生活できる」社会ではないのか?
ところで映画や音楽はいち早くダウンロード違法化を取り入れた。
しかし音楽なら公式にMVが公式に無料配信され、映画なら地上波で放映されるものも珍しくない。
有名な作品ほど、そうなる。
結局はダウンロード違法化とは裏腹に無料でデジタル・コンテンツが提供されている状況だ。
その一方で知名度の低い作品は人に知られることもなく消え去っていく。
ダウンロード違法化によってデジタルデータ販売の収益が得られるようになったのだろうか?
映画ならば映画館が、音楽ならばライブハウスやコンサートホールがある。
野球ならば野球場、サッカーならサッカー場、バスケットボールならバスケットコート、プールならプール、ゴルフならゴルフ場といった具合にだ。
「他人の土地に無断で立ち入ってはいけない」という始原的なルールに基づいているためだろう。
うまくいっているファンビジネスには施設があって、うまくいっていないファンビジネスには施設がない。
本は施設との結びつきが弱い。
「基盤となる施設の不在」こそが本の作者の食えないことの最大の要因であるとは考えられないだろうか?
本にも書店、図書館、漫画喫茶といった関連施設があるにはある。
デジタルデータのない時代、本は書店に行かなければ入手することができなかった。
書店は「発売日に本を手に入れる」という日常の中でのプチイベントを提供する施設であったといえる。
しかも売る側の人間が「本と電子書籍は同じ価値ですよ」と宣伝しているのだ。
書店でのサイン会のようなイベントは「宣伝になるから」という理由で無償であることが慣例となっているらしい。
むしろデジタルデータが無料でサイン会が有料であるほうが直感的ではないか?
テレビで放送されてこそ「遊園地で僕と握手」というシステムがなりたつ。
アニメ業界も同様に施設を持たないから金策に苦労するのではないだろうか?
イラストレーターならアトリエ、アニメならアニメスタジオのような施設はあるが、これらは工場に近い。
売れないといわれているアニメ業界だが、一部のアニメ映画はその例外のようだ。
映画館という施設のパワーを借りたからうまくいったのかもしれない。
もし何のアイディアも思い浮かばないようであれば出版業界になんの存在意義があるのか?
出版業界などダウンロード違法化と一緒に崩壊してしまえばいい。
もしも作者と読者が直接的に結びついてしまえば出版社はお役ごめんだ。
今後の生き残りを狙うなら出版社にも施設を用意する動機はあるはずだ。
商業施設というのはただそこにあるだけでなく「関係性」を提供するものだ。
演者と観客、対戦相手、講師と受講生、提供する側とされる側といった関係性だ。
お金を持っている人、お金を使う人、あるいは大勢の人との「関係性」を提供する「施設」だ。
ここでいう施設というものはまったく新しい概念でなくてもかまわない。
地図でも開いて目に付く限りの施設を本と結び付けて考えればアイディアのひとつも思い浮かぶことだろう。
中華一番が再アニメ化されるそうだけど、もう正直期待値下げてかないとやってらんないくらいリメイク版つまんないの多くない??
方針演技とか丑寅とか、観てないけどキャぷツバとかも盛り上がってるってぜんぜん聞かないし、
なんかイー作品なんだったら盛り立てて欲しいのに、わざわざ評判下げるために再アニメ化してんのかなって気すらしてきた。
とかいって今ちょっとアニメ化して欲しいのは、クリームっぽいマミのスピンオフだけどさ!
ブギポップも、「ソレ今やるアニメか?」感が半端なくて。果実バスケットも当時だから観れたかも知らんけど。。。
イー作品だとしても、時代と合わないのこともあるのかもナァって。
いやでも、ひょっとしてバン!と当たったアニメもあったかもしれない・・・。記憶にないけど。
え・・・、ある?
高校の教員をしてる。管理職でない限り、全員が何かしらの部活動を受け持たないといけない。私は男子バレーボール部だ。
バレーボールは体育の授業くらいでしか触ったことがない。指導は、別に専門の先生がしてくださってる。だから私は見てるだけ。
でも、楽しい。
弱小だけど、みんな一生懸命で、中には練習をサボる子もいるけど、みんなバレーが大好きで……。
6時半に練習が終わっても、そのまま体育館に残ってボールを触っているから、私はそれをぼんやり眺めて、7時半になったら、まだ物足りなさそうな部員たちを追い出して、体育館を施錠するのが日課になっている。
自分のよく知らないものでも、誰かが夢中になって頑張っているところを見るのはとても楽しい。
と同時に、不思議でもある。
どうしてこんなに一生懸命になれるんだろう。
どうしてこんなに、こんなに…。
11月24日(土)
を観た。
好きな俳優さんのTwitterから、この公演のことを知って、劇団のHPであらすじを読んだ瞬間、絶対に観に行こうと決めた。
――――――――――――
<あらすじ>
そのコートで、失った熱量を懐かしんでいると先生に会ってしまいます。
促された松坂はシュートを打ちます。打って、それから、謝ります。
バスケット辞めてごめんなさい。
誰も知らないまま、辞めたのです。
ただ、バスケットを辞めたのです。
――――――――――――
何がそこまで私を惹き付けたのかわからない。
だから、観に行った。
客席に入って、まず目に入ったのは中央のバスケットゴール。そして床に描かれたバスケットコートライン。
フラットな舞台の両脇には階段があって、まるで体育館のギャラリーみたいだな、と思った。
下手側の階段の踊り場にはギターを抱えた人がいた。「間もなく開演です」のアナウンスのバックで、静かにギターを弾き始める。音が重なって、重なって、そして静かに反響しながら消えた瞬間。
そしてそれを少しずつ切り裂くように、そこにある、松坂の肉体。
先生がやって来て、松坂がシュートを打つように促される。高校時代が蘇る。
部活前の男子部員の空気が、本当にリアルで驚いた。シューズの紐を結びながら、他愛ない話をするあの感じが、私が普段目の当たりにしているものと同じ温度でそこにあった。
物語が進むに連れて、少しずついろいろなことがわかってくる。
ずば抜けて上手いのはキャプテンの吉住だけ。彼は素行が悪くてバスケが強い学校には行けなかったから、この学校で一からバスケ部を作った。ちょっとやんちゃで、先生に口答えすることもあるけど、それは結局のところ本人が甘えたなんだと思う。
主人公の松坂は、もともと野球部だったが、部員と折り合いが悪くて部活を辞めた。バスケ部に入ったのは、クラスメイトに「楽だし、初心者でも大丈夫」と言われたから。
部員の個性が見えてくるに従って、私は自分の部活の生徒の顔が重なるような気がしてならなかった。一人一人は全然違うのに、「ああ、いるよな」「ああ、あるよな」が積み重なって、まるで自分の話のように思えてくる。
中でも胸に来たのは、顧問の沖先生が授業準備が忙しくて部活に来れなくなるシーンだ。代わりに来た外部コーチに、吉住は激しく反発する。
「俺らのバスケ知らないやつに練習メニュー指図されたくねえ!」「お前、顧問じゃねえのかよ!何で来ねえんだよ!授業が増えたとか知るかよ!部活の時間は部活に来いよ!俺の言うこと聞けば勝てるって言ったよな?じゃあ命令しに来いよ!」
私も、授業準備や他の生徒の対応で部活になかなか行けない日がある。やっと体育館に行くと、もう終了の挨拶…なんてことも、何度もある。
生徒は部活に休まず来てるのに、顧問は部活に来ない…なんて、不満に思っても仕方ないよな、と思うけど、授業準備も部活動指導も、教員にとっては両方とも「仕事」だ。私自身はかなり部活が好きな方で、沖先生もかなり部活が好きな方で、でも部活よりも優先しなきゃいけないことがある状況は、すごくよくわかる。
でも、それは部員には「わかってくれ」と言ってもわかるもんじゃないよな、というのも、すごくよくわかる。
コーチが来て、彼らの練習風景はがらりと変わる。活気が出る。それまでだらだら惰性でやっていた練習が、意味付けされて、みんなが「勝つために」練習をやり始める。
新入生が入ってきて、二年生になった松坂たちは少しずつ「自分の武器」を身につけていて、チームは確実に強くなったことが肌で感じられる。
そして迎えたIH予選。
負けたら、三年生の吉住と當座は引退だ。
IH予選1回戦は、勝った。でも、ミスが多くて先生に叱られる。
そして當座が、「辞める」と言い出す。
「大学受験マジでヤバいから、バスケで大学推薦がもらえる吉住と違って、俺はバスケ頑張っても何にもならないから、勉強しないとマジでヤバいから」
當座は序盤から、勉強と部活の両立に悩んでいるような描写が繰り返されていた。だからいつかはこうなる予感があった。でも、それは今なのか。三年生の、IH予選で、1回戦は弱い相手にギリギリ勝って、2回戦は相手も強いからこうはいかないかもしれないけど、でもとにかく負けたらそれで引退の、三年生の、今なのか。
そんな當座に、吉住は噛みつく。「何でだよ!」と詰め寄る。
そして溢れる當座の本音。「俺がいなくても、俺より上手い後輩がいるから大丈夫だよ。俺が試合に出るよりも、後輩が出た方がいいよ」
「下手でもお前出ろ!俺のパス受けろ!」吉住の激昂。二人きりの三年生。吉住と當座と、顧問の沖先生の三人だけでやって来た一年間。少しずつ後輩も育って、やっと勝てるようになった三年生の、IH予選。
でも、頑張ってどうなるんだろう。将来どうするんだろう。部活を頑張った、その先は?
私も、自分の高校時代、勉強を理由に部活を辞めようとしていた同級生を必死で引き留めたことがある。結局、彼女は三年生の夏まで部活を続け、一緒に引退したけれど、今でもあのときの私は正しかったのかとたまに思い出す。もしかしたら、あそこで私が引き留めずに彼女が部活を辞めて勉強だけに打ち込んでいたとしたら、彼女はもっと上の大学に行けたかもしれないと、考える。まあ、最終的に決断したのは彼女自身なのだから、そこに私がとやかく言うことに何の意味もないのだけれど、私は最後まで彼女と部活ができて、とても楽しかったのだけれど……。
教員になってからも、勉強と両立できないから部活を辞めようかと悩んでいるという相談を受けたことは何度もある。そのたびに、私は止めてきた。それが正しいかはわからないけど。
今でも、必死に練習する部員たちを見ながら考えることがある。バレーを頑張ったからといって、進路の保証があるわけでもない。この時間を、補習やアルバイトに費やす方が有意義な生徒もいるかもしれない。でも、この経験はきっと、いつかどこかで、何かの役に立つんじゃないか…。
「これが将来にどう活きていくか」なんて、考え出したらキリがない。とくに教員の仕事なんて、どんな指導をしたとしても、本当にそれが生徒にとって良かったかわかるのは、5年後が10年後か、何年先になるかわからないし、もしかしたら一生わからないままかもしれない。
それでも、今一番良いと思えることをやるしかない。
IH予選2回戦。
格上の相手に、チームは苦戦する。でも、全く勝てない相手ではない。今、自分たちにできる、最高のプレーを。
残り時間あと6分。点差はわずか。負けたら、ここで終了。勝ったら、もう少しだけバスケができる。
今年のIH予選。地区大会は勝ち抜いたけど、県大会は1回戦から格上の学校が相手で、良いプレーはしたけど、負けてしまった。
バレーボールに制限時間はない。先に25点取った方が勝ちだ。じわじわと、相手の点数が25点に近づいていく。
「ああ、このまま、このまま終わってしまうのか。もっと見ていたかった……もっと見ていたい……いや、まだ終わってない、希望はある……うちがここから○点取れば…………」
そんなことを考えながら祈るように試合を見ていたことを思い出した。
そのときの、バレーコートの中の選手の気持ちはわからない。でも、今、目の前の、バスケットコートの中の選手の気持ちは、客席まで伝わってくる。きっと、同じだ。彼らも、彼らも。そう思うと涙が出た。
舞台上の試合のシーンでは、本当にバスケの試合が行われていた。
もちろん、ある程度の段取りはあるだろうが、シュートが決まるかは打ってみないとわからないところは、試合と同じだ。シュートが決まればこう、外れたらこう、みたいなパターンはあるのだろうが、それも、試合と同じだ。
何のスポーツでもチームで行う競技すべてに言えることだろうが、上手いチームは「いるべき時に、いるべきところに、いるべき人が、いる」と感じる。
それは、演劇も同じだと思う。
何をやるのが良くて、自分は何がやりたくて、それがどう自分のこの先に繋がっていくかは誰にもわからない。
何かをやるにしても、何かをやめるにしても、自分が「良かった」と言えなきゃいけない。
いろいろなものが重なって、なんだかもうわけがわからなくなって、最後の方はほとんど泣いていた。
泣きすぎて拍手ができなくて、それだけが心残りなくらい、泣いていた。
だからいつも感想はTwitterで呟いたりするのだけれど、今回はあまりにも自分のプライベートな事象とリンクしすぎてしまったから、匿名ブログに託すことにする。
観に行って良かった。
データは探せばあるだろうが、カードキャプターさくらの原作漫画はアニメ公開後にブレイクスルーを突破して男性を含めた漫画読みに親しまれた。
そして、今でいう所のフルーツ・バスケットだったりみたいな「男性にも読まれる少女マンガ」カテゴリを生成するに至った訳だ。
女性側にとっては今も昔もこれからもあの絵柄は少女マンガ以上未満それ以外でもなかったが、男性にとってはナニを扱くのに十分な絵柄だったわけだな。
もちろんレイアースもその嚆矢ではあったろうが、本格的にそのブレイクを果たしたのはCCさくらからだぜ。
『プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
これは100点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。
まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しかも社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって、学生にはわからなさすぎでしょ。
ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラックな労働をしているクリストファー・ロビン。仕事と家族の間で板挟み。人生の迷子になっちゃった。プーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマや物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。
がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。
映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビン(ショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。
シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。
クリストファー・ロビンは楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これからは時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって、諦観してるんですよ。
その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんとピグレットやティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台の丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンとプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。
そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ(大事なのでもう一度いう)美少年のクリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶と郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。
あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリンと出会い、求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。
大企業のカバン製造部門の責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門の効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日も家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリンからは失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。
予定されてた旅行にイヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰で仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。
懐かしい友プーに出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物のプーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんとクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさんの脳天気っぷりに、時間が黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンのクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんがベタベタのはちみつで汚してしまった廊下を掃除している間にも、刻一刻とリストラのタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいうプーさんの言動が癪に障るのは、まあ、仕方ないです。
送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。
「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。
良いよね。
良い。
失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。
それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。
この時の表情も、良いのです。
「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。
この時クリストファー・ロビンは「いいやプーは特別な友達だから捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別な友達だからこそ、そこで嘘はつけず、自分も相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。
40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実や言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子になっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生の迷子になっちゃったわけです。大事で大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみのプーは必要なわけです。
つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。