これがわからないと、スピルバーグやハーバーマスのように醜態をさらすことになる。
]]>多数派の日本人は、同調圧力に耐性がなく、白い目で見られないようにする=世間体。
日本人は挑戦しなさすぎだし、真面目に問題解決しようとしません。
日本人の学生は、「自分は創造性ある」と思っている人がとても少ないらしいです。
挙句の果てには、小泉政権に「B層」という言葉を使ってマーケティングのターゲットにされています。
あなたはSNSを本当の意味で活用できていますか?
SNSにはハーバーマスの公共圏的な可能性があるのに、
趣味や娯楽にばかり使っていませんか?
変なエロ画像見るためばかりに使ってませんか?
世の中、多くの不条理があります。
それを解決するために、有意義に動きませんか?
何においても、哲学の重要性が高いはずです。
何故なら、B層の多い日本をもっと有意義な国にできるからです。
そこで質問があります。
その方法はどんなものがありますか?
一緒に出し合ってみましょう。
私は、以下のような方法があると思います。
・Twitterの姉妹サイトとして、例外的に13歳未満でも親の許可があれば使える社会問題を議論する場所を用意する
・コミケに社会問題を解決するための同人誌(社会問題をテーマにした同人誌)を置くコーナーをつくる
・学校で「どう生きるか」を考える授業を小1からする
皆さんの意見を聞かせてください。
]]>今の若い子はすさっまじいの
情報収集をインターネットで行いインターネットが逆流して現実のCMにも流れ賜う
輝夜月に可哀想に❗がテレビCMに出たかと思へば、コンビニではSUSURUにちいかわのコラボ商品が世を騒がせ賜う
]]>社会学的想像力 ライト・ミルズ
社会理論と社会構造 ロバート・キング・マートン
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー
現実の社会的構成 ピーター・L・バーガー、トーマス・ルックマン
ディスタンクシオン ピエール・ブルデュー
文明化の過程 ノルベルト・エリアス
コミュニケーション的行為の理論 ユルゲン・ハーバーマス
社会的行為の構造 タルコット・パーソンズ
行為と演技 アーヴィング・ゴッフマン
]]>https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=14438
赤ちゃん連れのママやパパも大歓迎
「スターバックスのミッションは、“人々の心を豊かで活力あるものにするために一人ひとりのお客さま、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティーから”です。お客さま一人ひとりに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいと考えています。ですから、ぜひ、ママや赤ちゃんをはじめ多くのお客さまに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいです!」
マニュアルでなくホスピタリティ・マインドで赤ちゃんに対応
「スターバックスのブランドのコアは、“人々の心を豊かで活力のあるものにする”という考えです。スターバックスには、サービスマニュアルがありません。“お客さまがスターバックスで過ごす時間が、どのようにしたら豊かになるのか”。このブランドミッションを元に、一人ひとりのパートナー(従業員)が、自分なりのホスピタリティとは何かを考え、お客さまへのサービスにつなげています」
スターバックスのパートナーさんには、子育て中のママも少なくないとか。そのため、赤ちゃんが泣いてしまったら、あやしてくれることもあるんですね。
最近ではキッズスペース併設のスターバックスもできたりしています。
https://media.l-ma.co.jp/sns-baby-mamalife2525-1
ちょっと背伸び感のあるハイブランド、スターバックスリザーブロースタリー東京もキッズ向けスペシャルメニューやチェアなど用意しています。
https://enjoy-overseas-life.com/2021/03/28/starbucksreserveroastery-withkids/
アメリカ本国でもファミリー利用が盛んです。
https://chanto.jp.net/articles/-/27312
はっきりしているのは、スターバックスのブランドメッセージは決してキッズを排除しておらず、むしろ妊娠中のママや育児中のファミリーも等しくウェルカムしている、ということです。スターバックスは日本全国に1700店、アメリカ本国では13,000店以上を展開する「大衆向けのカフェ」です。一部の利用者がスタバという空間に「こうあるべき」という思い入れを持つのは構わないけど、運営企業の思惑をも無視して自分勝手な「べき論」を押しつけ、自分とは違う誰かの利用を苦々しく思うのは、カッコ悪いと思います。
そもそもカフェというのは、さまざまな立場や意見を持つ他者が集い、交雑する場所として始まりました。フランス革命はカフェでの議論から始まったし、ハーバーマスはカフェをヒントにして「市民的公共性」とか「公共圏」という概念を確立しました。たとえ言葉を交わすことはなくても、カフェのような場所は、自身にとっての「他者」のありようを目の当たりにできる良い機会だと考えてみてもいいのでは。
どうあっても自分にとって好ましからざる他者を排除した、均質で静謐な空間を求めたい人には、そういう人達向けの場所があるはずです。そういう場所が少ないとか値段が高いというなら、その人が求めている『均質で静謐な空間』にはそれだけの希少性や付加価値がある、ということでしょう。遠出して、あるいはエクストラチャージを払って、その排他的空間を利用すればいいのです。
アイデンティティポリティクスに道を開いたのはフーコー辺りなのかと思ってた。
セレブバイトのアレも、文学批評の作法をそのまま実社会での発話に当てはめて吊し上げをやってるように見える。
]]>いわゆるネトウヨが嫌い。テキトーなこと言って自国礼賛をしているバカは生きている価値が無い。百田尚樹を愛読してるような奴。あと、歴史修正主義者や余命信者は論外。こいつらは、頭が悪いから大嫌い。
ピラホロごっことかに興じてた、ハン板にたむろってたようなネトウヨが嫌い。あれは、あまりに恥ずかしいだろ。痛々しいオタクとか見たのと同じ嫌悪感が出てくる。
あと、自称ヲチャーとか言ってるやつら。こいつらも同じで、見てて居たたまれないオタクネタとかで偉そうなこと言うからからマジで勘弁して欲しい。銀英伝とか攻殻機動隊を引用したり、身内で位階作って褒めあったりしてるの。あれを良い大人が真顔でやっているというのが、噴飯もの。とにかく存在が恥ずかしい。
もちろんビジウヨも嫌い、平民とか。ほんこんみたいなウヨ芸人はただただ見苦しい、偉そうなこと言う前に学位とれよ。
これは保守系の政治家などにも言えることだけど、さんざん道徳だの愛国心だのエラソーなこと並べ立てておいて、その実、クソみたいな行為に手を染めていたりする連中が特にクソすぎる。ネットでエラソーなこといって配信していたボウズPを名乗る者が、シャブポンプで捕まったりね。今、バッジらしいけど。アホな有権者にはお似合いだ。
まあ、顔出ししてないまとめサイト運営者とかは、まだ許容できる。単なる商売だと割り切れるだけマシ。
死刑賛成論者とか、厳罰主義者が大っ嫌い。あくまで、国家が刑罰を行うのは、その人を更生させて社会復帰させるため。被害者や大衆が、厳罰下してスッキリしても、特に何も得るものが無い。そんな単純なことにも気づかず、自分のクソくだらねぇお気持ちで国家刑罰権を扱おうって言う料簡が全く許し難い。可罰感情というのは、感情に過ぎない。
これは、いわゆる保守系の応報刑信者もそうだけど、性犯罪者に厳罰を求めるフェミ系もそう。国家は、お前らの厳罰オナニーでスッキリするためのズリネタではない。頼むから死んでくれ。
ハーバーマスが大嫌い。こいつが諸悪の根源。思考実験の積み重ねで論理を作ってきたリベラルの系譜にとどめを刺したクソ左翼。社会契約論の自然状態にせよ、ロールズの無知のヴェールにせよ、そんなものが存在しないなんてことは、百も承知。こういう架空の前提の存在を否認したあげく、じゃあお前の判断基準が何かといえば「公共圏」。おいおい、ふざけんなよ。
結局、公共圏なんて吊し上げ大会にしかならないし、それは学生運動で痛い程わかっているはずなのに、自分を持ち上げる学生運動を切って捨てたクソ野郎ハーバーマス。そんで、アイディンティティポリティクスへの道筋もつけた。マジで万死に値する。今の政治的対立の諸悪の根源はこいつ。
単なる多数派の独裁。無批判に伝統を受け入れるだけのゴミ以下の思想。未開の土人やカッペのジジババ、あるいは胡坐をかく無能な貴族を正当化するためだけのカス。消滅した方がいい。
ハーバーマスの最悪の部分とバーク保守主義のマシな部分を合体させたウンコ以上ゲロ以下の何か。サンデルとかありがたがってるバカは三回ぐらい死んだ方がいい。
暴力なしでなんとかできるとかいうのがおこがましい。南米の司法権が及ばないカルテル支配地域とかで暮らしてほしい。管理された暴力のありがたみがわかるだろうよ。
このへんは、まじで許し難い。
]]>悪しざまに行ってしまえば、自治会とかのコミュニティでルール決めれば正しい程度の言い分。
もちろん、いろいろ留保はつけてるが、それが社会に馴染みにくい少数派に厳しいルールになるのは当然。
少し前のリベラル(これを、政治学用語でニューリベラルと言う)は、そういうしがらみを破壊して、変人にも居場所があるという感じだったんだが、サンデル他が叩き潰しちゃった。
これが、有名なリベラル・コミュニタリアン論争。
で、ここで捻じれがあるんだが、この時に、サンデルと一緒にリベラルをぶっ叩いていたのが、まあ左翼。
どうしても、自由主義というのは強者の理屈になりがちで、また道徳的に非難に値する連中に対してやさしい。
そういうのを批判していた人たちがいた。その代表格が、ユルゲン・ハーバーマス。北守とかが大好きな思想家だ。
ノリとしては、矯風会みたいな宗教保守とラディカルフェミニストが今日として、ポルノという悪しき自由を叩いているという構図に近い。
こういう背景を理解する必要がある。
]]>つまり、制度のせいで市民一人ひとりに政治参加の実感がない。故に政治参加しない。それが問題である。
という考えなのかな。
俺にはそれは、ハーバーマスのサロン的公共圏が崩壊した……というよくある話のバリエーションに思える。
サロンという狭い世界の政治談議にハーバーマスは公共圏を見たが、政治の範囲が広くなるとサロンで全体は維持できず公共圏はなくなった。だから規模を分割縮小すれば、サロンが(市民の政治参加意識が)再び作り出せる……という話ではないか。
たまに聞く話だと思う。
たぶん関連ワードで調べたらいろいろ出てくるんじゃないかな……。
個人的には、そもそも現代の政治ってのはもはや国際規模であるべきで、しかし世界政府は無いので政治の力は制限されてしまっている。分割のし過ぎこそが今の政治の衰退に直結していると思うので、あまり賛同はできないな。
あとやっぱり、公共圏で市民が直接参加すればうまく行くとは、もはや信じられないっていう、さっきの話もある。
]]>なんで急にマルフェミの話するんだろうと思った
んで、マルフェミ的にハーバーマスってどういう扱いなの
コーヒーハウスでの議論なんて下手するとブルジョワジーの独占の再現だと思うんだけど
]]>日本の社会学者
宮台真司、上野千鶴子、小熊英二、佐藤俊樹、仁平典宏、
大澤真幸、山田昌弘、鈴木謙介、橋爪大三郎、本田由紀、
・・・
世界の社会学者
ウェーバー、フーコー、スペンサー、デュルケーム、コールマン、
ジンメル、マンハイム、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、
・・・
※千田有紀氏、古市憲寿氏の評価自体は保留
]]>「人文学・社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)
https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf
阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja
(太郎丸博氏の論↑の極私的まとめ)
日本の社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。
「学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである。
「社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。
一方、「理論形成」は社会の諸問題(経験的問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである。
創造的で想像力が必要な仕事であり、歴史的にはフーコーやハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。
例えば、新しい人間観や社会観の創造・採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。
日本でも「学説研究」から「理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論を形成できるようになるのか」というハウツーが世界中のどこにも未だ存在しない。
1970年代のアメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、
1.学説の専門家ではなく,統計や数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,
2.具体的な現象を説明するための理論=モデルをどう作るかを学生向けにひもといたものであり,
3.しばしば数式で理論のコアは表現され,
4.思想や哲学的な問題は最初に登場するだけで,その後はほとんど登場しない
といったものであった。
データの収集・分析が重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学者からは懸念されていた。
これは理論形成はデータから帰納や命題からの演繹によってのみなされるわけではないからである。
(「社会学の理論の役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論や存在論、人間観や社会観などの哲学的な問題が脇に追いやられてしまう)
また、理論を発展させるためには「解くべき問題の発見(未解決問題の発見)」が必要である。
「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説の研究(研究伝統の基本的な文献)が結局のとこと必要となる。
まとめると、社会の諸問題(経験的問題)を解くにはデータの収集や分析が重要であるが、手法の問題(概念的問題)の解決への手掛かりは学説の研究の中にある。
凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである。
(まとめここまで)
他
北条かや『インターネットで死ぬということ』
https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440
私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀と上野千鶴子、大塚英志や宮台真司に憧れて社会学を志したのだから、研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。
ここに挙がっている名前がすべてで、学者じゃなくて文壇の延長線上にいるコラムニストだよなという感じ。
権威付けで学者を名乗っているだけで、天才にあこがれて社会の諸問題を論じているだけの人々という印象。
]]>ですから、あなたの話だとヘーゲルが「公共性と自由主義の相性が悪い」と考える理由が、腑に落ちないのです。あなたの論の中核にかかわる部分だと思うので、そこの所をもう少し丁寧に説明していただけませんか?
]]>~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。
それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。
しかし、この「みんなで議論する場」というものが曲者である。人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パスが必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日の価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念を自由で幸せな社会のベースに据えていいのかという問題がある。
ハーバーマスは彼が理想とする市民的公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性の構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。
本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判が千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語の用法がいかに不適当ないしド適当であるかを示す。
以下ではハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』の第四章 第一四節「公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス」に基づいて議論を行う。
ヘーゲルは入場パスと公共圏の関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲルも最初からブチ切れたりはしない。「公論(公共圏における論議、もしくは公共圏そのもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由に意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である。
このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論はきらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等を止揚するどころか、むしろこれらを技能、財産、さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。
まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家に主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲルは最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後にハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。
ともかくにもハーバーマスが描く市民的公共圏というものは、こうした批判をスルーしては論じることができない。ここで重要なのは、ハーバーマスが公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲルの理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲルが批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。
まさにヘーゲルが批判した地獄の公論をインターネット上に出現させようとしているのである。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752
市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312
まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲルが批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないからである。
そして第二に、ハーバーマスの議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易な理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマスの議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間は幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマス的であるといえるだろうか?
第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家の規制を前もって回避するために市民的公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずである。であるとすればこれは千田氏のオリジナルのアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初のツイートの二文目は全く意味不明なものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもので炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
]]>その虚無感は、もうちょっと即物的というか、生物学的感情に根差してる気がするけどな。そういうときは、フーコーとか、もしかしたらハーバーマスとか、そういう思想に頼っても救いはないんじゃないか。
まだアドラーとか読んだ方が良くない?
なぜか流行ったから、軽薄に感じるかもしれないが。
]]>]]>プラトン『法律』
アリストテレス『政治学』
キケロ『義務について』
トマス・アクィナス『神学大全』
マキャヴェッリ『ディスコルシ』
ボダン『国家論』
スアレス『法律についての、そして立法者たる神についての論究』
グロティウス『自由海論』
ホッブズ『哲学者と法学徒の対話』
スピノザ『神学・政治論』
ロック『統治二論』
ヴィーコ『自伝』
モンテスキュー『法の精神』
ヒューム『人間本性論』
ルソー『社会契約論』
スミス『法学講義』
ベッカリーア『犯罪と刑罰』
バーク『フランス革命の省察』
ハミルトン他『ザ・フェデラリスト』
カント『人倫の形而上学』
ヘーゲル『法の哲学』
ベンサム『道徳と立法の諸原理序説』
ミル『自由論』
トクヴィル『アメリカのデモクラシー』
バジョット『イギリス憲政論』
イェーリング『権利のための闘争』
モムゼン『ローマ国法』
ウェーバー『法社会学』
カフカ『法の前』
モース『贈与論』
ケルゼン『純粋法学』
シュミット『憲法理論』
ベンヤミン『暴力批判論』
カントロヴィチ『王の二つの身体』
コジェーヴ『法の現象学』
ハート『法の概念』
ハイエク『法と立法と自由』
フーコー『監獄の誕生』
ドゥルーズ『記号と事件』
デリダ『法の力』
ルジャンドル『ドグマ人類学総説』
アガンベン『ホモ・サケル』
ハーバーマス『事実性と妥当性』
ルーマン『社会の法』
ポーコック『徳・商業・歴史』
パトナム『事実/価値二分法の崩壊』
ロールズ『公正としての正義 再説』
ドゥオーキン『法の帝国』
ヌスバウム『感情と法』
レッシグ『CODE』
しかしまあ、実際のところ
ブロガーがたたかれるのをおそれて、ほんとに専門以外のことを何も書かなくなったら、
ハーバーマス的な公共圏とか立ち消えるよね。
インテリが口数少なくなり、
公共的な議論はぜんぶ2chとかで匿名経由になったら、それこそ不毛な二極化だと思うがなぁ。
インターネットがハーバーマス的公共圏を用意する…!などというのは10年前の妄想だけれども、
いまのところ、ブログというのは、ギリギリそういった公共圏を可能にしている空間なわけで。
啓蒙と、自己顕示欲と、公共的討議とか様々な動機が入り交じるから、話がややこしくなるんだけどさ。
まあ、ないよりはいいんじゃないか。
]]>お釈迦様もニートだった、インドって素晴らしい
いや、ちょっと待って。
ゴータマさんは、出家前は王子(有職)だし、出家後は修行中(in education)、解脱後は教祖(有職)なんだから、NEETの定義には当てはまらんと思うわけですよJK。
それに「無職肯定論」って、一歩間違うと、賃金の低水準安定のための労働人口調整乙、って感じで微妙に寒気がするですよ。誰かがハーバーマスの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の話してたけど、それよりE.シューマッハーの「スモールイズビューティフル」でも嫁。とりあえず。
]]>