はてなキーワード: ハンディキャップとは
http://anond.hatelabo.jp/20080630164139
魅力がどうのってより反論が全部「人のせい」なんだよな
http://anond.hatelabo.jp/20071109182703
↑これを見てみるといい
「人のせいにするんだな」って言われて
ああ。あると思うよ。非モテというだけで蔑む人たちがいるかぎりね。
ってまた人のせいなんだよ。
自分を省みる事がない。
外見がどうのとか、自分ではどうしようもない先天的なハンディキャップを持ち出して尤もらしい言い訳してるだけ。
直接自分の責任ではないってのが言いたいんだろうなってあたり、責任転嫁と同じ事かな。
「後天的ということはそうなる原因があったんじゃないか」
みたいなこと言い出して、結局自分の責任から逃げ出そうとするんだよね。
非モテであることを最終的に「選んだ」のは自分だろうに、自分の責任はまるでシカトかよと。
「選ばざるをえなかった」
とか今度は返すんだろうけどね。
どこまでいってもとにかく自分の現状は自分に責任はないって方向に持って行きたがるから。
勝手に都合のいい(責任転嫁できる材料として)現実を作りだしてんだから世話ないよ。
それならリアルでもネットでも人様の目に触れるところに出てくるなと言いたくなる事がある。
「外に出ないから」「出会いがないから」「容姿が醜いから」「こういう性格だから」
いくらでも言い訳が出来上がる上に、互いの言い訳が他の言い訳の補足になったりして都合がいいわけだし。
「こんな俺(私)でも受け入れてくれる人がいたら…」
なんて受け入れきれずに夢見てるのなら動け、と。
自分がマイナス背負ってるんだと思うんなら数撃ちゃ当たるくらいのつもりで次々にアタックして受け入れてくれる人を探せばいい。
10人に断られたのなら11人目に突撃すればいい。
非モテの言うところから判断するなら、奴らに相手を選ぶ権利はないんだろうから。
選んでくれる人を探してエントリーしまくるしかない。
就職活動と同じだ。
そうじゃない上、非モテだからと受身のままの人間のくせに愚痴ること自体「寝言タレ続けるくらいならとっとと死ね」としか思えない。
2007.11.29(その3)
森田実の言わねばならぬ[757]
「稲は実るにつけて俯き、侍は出世につけて上向く」(日本の諺)
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11月中旬、東京の中心地で行われた経済人の会合に招かれた。40分ほど前に会場のホテルに着くと、主催者はすでに待っていてくれた。
しばらく3人の経済人と懇談した。それぞれかなりの大物経済人である。ひとりの経済人が言った。 「森田さん、最近、中央官庁が非常に強くなりましたね。戦後、中央官庁がこんなに強くなり、こんなに民間にきびしくなったのは初めてではないですか。国民は今の流れは“官から民へ”と思っているかもしれないが、実態は逆です。官と民の力関係は、官の側が強くなるばかりです。日本の現実は完全な(中央)官僚独裁国家ではないでしょうか」。
この見方は、私と同じである。最近、私の耳には各方面から「中央官僚が強くなった」「きびしくなった」「威張るようになった」「横暴になった」という話が断片的に入ってきていた。しかし今までの情報は経済界の中枢部からの情報ではなかった。今回の情報は日本の財界の中枢部にいる人の情報だった。財界中枢部にも冷静な判断力をもった人がいるのである。
数日前に、かなりハイレベルの経済人の集まりに講演に行ったときにも、同様の話を聞いた。ある経済人が言った。
「最近、公益法人法が大幅に改正されたのですが、実は法律ができあがってから、その法律のなかに当然入るべき“公益法人の定義”がなかったことに気づいたというのです。欠陥法律をつくったのです。そこで監督官庁で研究会をつくって、公益法人の定義についての議論を始めたのです。法律づくりがずさんなのですね。次々と法律をつくるものですから十分な審議が行われず、そのためにこんなひどいことが起こるんですね。ただ、公益法人法改正後、中央官庁の干渉はきびしくなりました。いちいち口を出してくるようになった。公益法人の自由度は狭まっています。最近、中央官庁は次々と法律をつくったり、改正したりしていますが、その都度、中央官庁の力は強くなっています。小泉内閣は“官から民へ”“民にできることは民に”と言っていました。国民はこれを中央官庁の権限を弱めることだと思いましたが、錯覚でした。逆でした。実態は、新法ができたり、改正されるたびに中央官庁が強くなっているのです。いまの日本は中央官庁の官僚独裁国家になってしまいました」。
小泉内閣以来の構造改革の結果、アメリカ政府とアメリカの巨大ファンドと日本の中央官庁の指導層が勝者となった。最大の勝者とみられていた日本の財界の地位はいまや傾きかけているのである。日本の「民」は中央官庁に負けたのである。中央財界からこのような告発がされ始めたことは、大変な進歩である。
山本尚利
1.猪瀬流の日本国批判
猪瀬直樹著「日本国の研究」「続・日本国の研究」文春文庫には、日本
の政官財の構造問題が事例中心に詳細に書かれています。誰でも、コレを
読めば腹が立ってくるでしょう。猪瀬氏は日本国の研究成果が認められて、
小泉内閣の下、道路関係四公団民営化推進委員会の委員に抜擢されました。
政府委員会は、これまで官僚からみてイエスマンの権威者を委員に選ぶの
が普通でした。小泉首相は、官僚の敵を委員会に入れたのです。この判断
は画期的でした。おかげでこの委員会はもめにもめて、マスコミに格好の
ネタを提供してきました。小泉首相は、同委員会に構造改革派を入れて、
国民の前に、道路族・国交省と小泉首相の対立の構造を鮮明にして見せま
した。この作戦は図星となり、2003年11月の衆院選挙で小泉は見事勝利、
国民に承認されたのです。衆院選挙後は、元のシナリオどおり、道路族と
手打ちして、道路公団問題のゲームは終わりました。小泉首相は、国民の
中に、悪役、道路族議員を支持する沈黙の人々が少なからずいることに着
目し、国民に紛れ込む無言の抵抗派を喜ばせたのです。まったく狡猾なパ
ーフォーマーです。日本において構造改革への抵抗派はバカではないので、
道路建設の無意味さを百も承知ですが、背に腹は変えられないほど切羽詰
まっているにすぎません。道路建設がまさに生命維持装置と化しているか
らです。構造改革派の猪瀬氏も委員に選ばれて、テレビへの露出頻度が上
がり、小泉首相へ大感謝です。ツケはまたも国民に押し付けられます。日
本国批判は、一定程度、ビジネスになることを猪瀬氏は証明してくれまし
た。これも小泉首相のおかげです。
小泉首相の手口は、野党的批判を身内に取り込んで、野党の攻撃を無力
化するものです。「自民党をブッコワス」というスローガンも同じ手口で
す。ほかの自民党議員より、若干スマートなだけですが、一時的には新鮮
な手口に見えました。
さて、前述の猪瀬氏は、日本の官僚、そして官僚に操られる自民党議員
がいかに私利私欲を追求しているかを克明に告発しています。彼は日本国
批判の急先鋒でしょう。日本国民の資産は、政官財の支配層によって、好
き勝手に食い荒らされていることが、猪瀬氏によって克明に検証されてい
ます。小泉首相は日本国批判のシンボル、猪瀬氏を取り込むことによって、
正義の味方、月光仮面を演じることに成功しました。小泉首相自身は、た
たき上げの鈴木宗男氏と違って、政治家ファミリーの2代目ですから、正
義の味方を演じるに十分、身辺はきれいであったのでしょう。小泉首相が
登場するまで、金権まみれの政治家しか首相になれなかったのが、運良く
構造改革の波に乗って、幸運にも首相の座を射止めることができたのです。
正義の味方は常に、悪役を必要とします。構造改革を標榜する月光仮面、
小泉首相の場合、官僚や族議員が悪役にさせられます。ところが小泉首相
の手口は常に、WinWinです。彼は悪役にこっそり耳打ちします「実は獲ら
せるから協力してよ」と。道路問題はこの手口で見事、成功しているよう
に見えます。その結果、小泉首相への評価は二分します。100点満点では
ないが、ソコソコ、健闘していると観る人、彼はごまかしている。インチ
キだと批判する人。
彼の新鮮な手口を今、もっとも勉強しているのは官僚でしょう。官僚が
小泉首相から学んだもの、それは国民ダマシのテクニックでしょう。その
秘訣は与党への批判派を取り込んで、野党を無力化する手口です。改革す
る振りして、実は何も変えない。インフルエンザの耐性菌のように、従来
の薬が効かないという厄介な代物です。しかし、この手口が通用するのは
一時です。批判丸め込み手口が流行すると、国民の不満は不完全燃焼する
ことになります。国民に精神状態が慢性不健康となります。これは、まっ
たく始末が悪い。
日本の官僚批判は、猪瀬氏の日本国の研究にまかせます。ところで、日
本の官僚の特徴とは何でしょうか。それは匿名の独裁性にあり、出る杭を
打つ習性です。官僚の天敵は、政治家ではなく、個人のカリスマ的独裁者
です。小泉首相が官僚の料理方法にどれだけ精通しているかは、実のとこ
ろ、よくわかりません。もし、小泉首相が名実ともに、日本国のカリスマ
独裁者になろうと野望を抱いたら、たちまち、官僚から引き摺り下ろされ
るはずです。かつて学歴のない田中首相は官僚から内心、軽蔑されていま
した。そこでロッキード事件によって無残に引きずり下ろされた。この事
件は、米国の事情と官僚の利害が一致したことで田中おろしが奏功したの
でしょう。その娘、田中真紀子氏は天性のカリスマ性を引き継いでいるの
を、官僚の勘で悟られ、たちまち外務大臣の地位を引き摺り下ろされたこ
とは記憶に新しいところです。
戦前の日本の官僚(軍部官僚含む)は、虚妄の独裁者、天皇を祭り上げ
て、好き勝手をやったとみなせます。ヒトラーとか、フセインとか、金正
日とかの個人のカリスマ独裁者は、官僚の匿名独裁が維持される限り、日
本では生まれにくいでしょう。しかしながら、民主主義精神の醸成がプア
な日本において、当分の間、日本の国家運営には、必要悪として所詮、な
んらかの支配者を必要とするのでしょう。そこで、日本では当分、官僚支
配か、カリスマ独裁者支配かの二者択一しかないかもしれません。戦後の
官僚は、天皇のカリスマ性を利用しないで、自民党という利権集団を担ぐ
だけで実質的官僚独裁を維持できたのです。この実績により、一部の官僚
は非常に傲慢となっている一方、子羊国民を内心、愚弄していることでし
ょう。米国覇権主義者は、日本には、想像以上に民主主義が根付かず、実
質的官僚独裁国家であることを悟っています。そこで、官僚人事権に介入
して、官僚経由で日本を支配しようと考えていると思います。小泉首相は、
米国覇権主義者と官僚に間で、適当に泳がされているという図式が見えて
きます。しかし、小泉首相はそれほどバカではないので、米国エリートと
日本国の有能官僚の駆け引きのテンションを巧みに利用して、首相の座を
守っているのです。
日本国民に民主主義が定着しない限り、日本の統治には、結局、官僚独
裁か、カリスマ独裁かの二者択一しかない。これは完全に必要悪です。ど
ちらが、子羊国民にとってリスクが低いかの選択です。カリスマ独裁者の
悪例は隣国北朝鮮を見ればよい。
リスクの点では、チェックアンドバランスがソコソコ機能する官僚独裁
の方がまだましです。支配者がある程度、好き勝手をすることは、避けら
れない。人間は神様ではないですから。カリスマ独裁の場合、10人に9
人は悪徳支配者でしょう。だから、世界支配を目論む米国覇権主義者にと
って、カリスマ独裁の方が、ある意味で攻撃しやすい。しかし、彼らにと
って、日本の匿名官僚制ほど不気味なものはないでしょう。フセインや金
正日の方がよほど御しやすい。敵が見えますから。ならず者国家と名指し
もしやすい。一方、日本は、民主主義を装う匿名官僚独裁国家ですから始
末が悪い。敵が見えない。かつて、日本は顔が見えないと言われました。
米国として、本音では、北朝鮮ではなく、日本こそがならず者国家なので
す。にもかかわらず、日本は民主主義の衣をまとっているので、ならず者
と面と向かって名指しできない。米国にとって、実に腹立たしい大嫌いな
国、それが日本です。旧ソ連の共産党独裁、中国の共産党独裁、ともにカ
リスマ指導者を頂きます。米国にとって、この方がまだわかりやすい。と
ころが、日本では、明治以降の天皇制時代でも、天皇がフセインや金正日
のように振舞っていたわけではなく、裏に匿名官僚集団が控えていたわけ
です。だから、敗戦後、戦犯天皇の死刑を回避すると決めたマッカーサー
の主張が通ったのです。イラクのフセインなら到底、独裁者の無罪は通用
しません。米国が日本にもっとも警戒心を抱いているとすれば、その警戒
の対象は不気味な官僚独裁でしょう。そこで米国の現ブッシュ政権は、戦
前日本のしたたかな権力構造をモデルにしているように見えます。ブッシ
ュ大統領を戦前日本の天皇のように扱っている。9.11テロ事件以降、ブッ
シュ大統領のオドオドした表情に、それは見て取れます。彼の個人的キャ
ラクターは育ちのよい、お人好しカウボーイです。決してヒトラーのよう
な実質独裁者には見えない。その意味で現代の米国の政治体制も民主主義
を装う特定資本独裁と言えます。日米政治体制を比較すれば、軍事・石油
資本のリモートコントロールに傾斜している現代の米国の独裁体制の方が、
日本の官僚独裁よりも、はるかに危険で悪徳であると思います。米国の影
の独裁者集団は、あるときは、共産主義者を敵だと騒ぎ、あるときは、テ
ロリストを敵だと騒ぎ、結局のところ、最後は戦争に持ち込むことが最優
先している。こうして戦争をビジネスとして、国際軍事競争力を維持する
ことを通じて、世界を支配するには、米国は世界中で定期的に戦争を引き
起こすしかないのです。刀は使わなければさび付きますから。テロリスト
のオサマ・ビンラディンも、フセインも一時、米国の手先となって、初め
て米国の本質を知り、ともに、過激な反米独裁者と化したのです。彼らの
間違いは、「目には目を」の戦略です。この発想では、永遠に殺戮が繰り
返される。その点、インド独立の父、ガンジーの非暴力主義のほうが絶対
に正しいのです。
さて現代の日米関係は、端的に言えば、上記のような危険な米国の影の独
裁者集団と日本の官僚集団の駆け引きです。戦前の日米対立構造と、その
本質は少しも変わっていないでしょう。大きな違いはただひとつ、戦前の
日本の官僚独裁が、軍事力をもつ軍部官僚に支配されていたのに対し、現
代日本の官僚独裁は軍事力を持たない点です。戦後、日本の軍事勢力再発
の封じ込めに成功している米国覇権主義者は、獲物としての日本に関して
は、1400兆円の日本国民の資産(レント)を狙っているでしょう。ただし、
獲物としての優先順位は、中東の石油資産の次くらいでしょう。だから、
日本は戦争に巻き込まれなくて済んでいるのです。石油が取れない日本は、
天然資源の資産価値はゼロです。このハンディキャップは、プレデター
(肉食獣)から狙われないという意味において、不幸中の幸いと喜ぶべき
です。さらに、イラクと北朝鮮は「ならず者国家」としては一括りにされ
ていますが、プレデター米国にとって獲物としての価値には天と地の差が
あります。北朝鮮は、イラクのように石油はない。日本のようにお金もな
い。獲物としては、まったくおいしくない国家なのです。それでは米国に
とって北朝鮮の価値は何でしょう。それは日本を、恐怖心を煽りながらコ
ントロールする上において、北朝鮮はある程度、利用価値があるにすぎま
せん。この点を、日本国民はよく認識しておくべきでしょう。私利私欲に
目ざとい官僚はわかっていると思いますが。日本における子羊国民の究極
の選択とは、その虎の子資産を、日本人の匿名官僚集団に好き勝手に食い
荒らされるか、それとも米国プレデターに好き勝手に食い荒らされるか、
どちらの被害が少ないかの選択です。どちらにしても、支配者というもの
はそれ相当のピンハネをするのが世の常です。前述の猪瀬氏の官僚批判を
逆手にとれば、私利私欲のかたまりのような悪徳官僚の方が、清廉潔白で
まじめな官僚よりプレデターの横取りをある程度防いでくれる可能性があ
ります。
何かと不器用なことで悩んでいる。
まず、体育。球技がだめ。ボールをうまく扱えない。サッカーも小3で始めたが1年もたなかった。気がついたら感じる劣等感。
バレーでボールが飛んできてもうまく返せない。なぜかボールがまっすぐ上がらない。なぜかサーブが入らない。
サッカーで飛んできたボールをうまくトラップできない。見当違いな方に蹴ったボールが行く。シュートなんてもってのほか。
バスケなんて論外。あんな小さい輪っかに入るわけないっつうの。だいたいドリブルができない。ボールがついてこない。
当然他の種目もダメ。短距離走だけは平均ぐらいあったから何とかなったけど、長距離走なんか下から3番目から5番目くらい。
器械体操系はちょっとできたけど、別にめざましい活躍をするわけでもなく。
あと、カナヅチだった。中二のときは「生物は進化し陸に上がったのになぜわざわざ退化する必要があろうか」などと言っていたなあ。
図工、あるいは美術。
どうやったら絵が描けるのか分からなかった。大してやっていることは変わらないだろうになんであんな作品の質が変わってしまうのだろうか。
裁縫、ミシンなどは必ず残らされていた。終わるの後ろから3番目か5番目くらい。出来も下から3番目から5番目くらい。
先生の注意を反芻してしっかりやろうという意思はあるはずなのに、できない。
思うように手が動かず微妙にずれる、もしくは何かしら注意点とかやり方を忘れてやってしまう。
さらに、気がついたら作業が遅れている。友達と一緒にやっているように見えて、気がついたら二倍くらいの差がつく。
遅い上に雑でしかも回りにやり方聞いて迷惑をかけるという最悪な奴だ。
調理実習は野菜をとってくる、プリントを引っ張り出す、フライパンを洗う、箸を洗う、皿を洗う、そういうことしかしなかった。いや、できなかった。
音楽。これはもうちょっとましだった。小2からピアノを始めていたからだ。1年でやめてしまったが。
しかし、ましだというだけで、別に何もなく。
リコーダーは、指が回らなかったか音がちゃんと出なかった。まあ、それだけならみんなそうだから別に平均くらいなのだが、なぜか「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」を持っていたためにプライドは高く、ちょっとできないだけでずいぶんな劣等感を感じた。
そして、音痴だった。音を外す。歌っていると気がついたら音が外れている。「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」は歌には効果を発揮してくれなかった。リコーダーとか音がはずれるとそれを敏感に感じられたが、歌だと何も感じなかった。
中学に入って吹奏楽部に入って楽器を始め、結構頑張って楽器に関するコンプレックスはできずにすんだが、歌うことにおける音痴は直らなかった。カラオケなんかとんでもない。
授業だけでない。他の場面でもそうだった。
休み時間にするあやとり、折り紙。全然出来ない。あやとりなんかさっぱりだし、折り紙も、まず紙を半分にしっかりできない。裏側の白いのがはみ出る。どうやったらそうならずに折れるのか皆目分からない。
スキー、スケート。家族みんなができるのに自分はできない。中学のときに、4つ下の弟は思う存分滑っているのに自分は全然できなかったという記憶が残っている。
あと、自転車が乗れない。気がついたら乗れないままだ。
プログラミング。中学時代、周りにオタクが多かったんだが、彼らのうち何人かがプログラミングを始めた。自分も始めたが挫折。なぜかエラーが頻出する。周りはそういうこともなく形になっていった。
ゲームも苦手だ。対戦ゲームは最初っからへただし上達も遅い。後から始めた人の方がすぐうまくなるからやる気をなくす。ボードゲーム、カードゲーム、テレビゲーム問わず。
文化祭の準備で木材を切ったり、塗ったりするのも自分はできなかった。あまりに遅いし、あまりにできあがるものの質が悪いからだ。
とりあえず娯楽という娯楽、作業という作業において人より遅く、質が悪かった。
勉強だけはそこまでひどくなかった。
だが、これらのコンプレックスは消えない。何をやっても他人に劣る。
他人(いわゆるステレオタイプとしての一般人)よりできることは、まあ楽器がちょっとできるというだけだろうか。
でも、プレゼンテーションとか演説とかは得意。初対面となかよくなるのは得意。
しかし、人と比べると、当然のようにできることが出来ない上にしゃべることしか能がないのは本当にどうしようもない人間。さらに、病弱だとか家庭環境が悪いだとかのハンディキャップがあるわけではない。
悲しくなってくる。
このような悩みを共有できる人はいないのかねえ。
とりあえず聞いてほしくて増田に書いてみた。
何が悪くてこうなっちゃったんだろう。幼少時にずっと図鑑読んでて絵本も読まず折り紙とかそういうことを全くしなかったからか?
それとも、何事も続かない性格だったからか?
12月4日に開催されたひらコンレセプションパーティーでのおちまさと氏の発言。
ひらコンことひらめきアイデアコンテストは、ダイヤモンド経営者倶楽部が主催する、学生を対象に日々ひらめいたアイデアを募集するコンテスト。
応募総数12000、会員登録者数700、パーティー参加者300名超。
最優秀賞には10万円が送られた。
詳細はhttp://hirameki-i.jp/を参照。
おちまさと氏は、飄々とした人物という印象。
会場が温まっていないこともあったけれど、それ以上に彼自身特に話すことも考えてきていないようだった。
でも、調子が出始めてからは面白い視点も多々あったので、自分が気になった点のみ抜き出して備忘録とし、共有する。
・アイデアは、記憶と記憶の結合。だから、「どうやって記憶をプールするか」が重要。
また、記憶がありきたりなものばかりだと、人と同じアイデアになってしまう。
・記憶をありきたりなものにしないためには、人とは違う視点を持つこと。
例えばおち氏は子供の頃、友人の誕生日パーティーで、ロウソクを吹き消す子ではなく、それを変な顔で見つめる別の友達を見て面白いと思っていた。
しかし、同じ場に居た別の人たちはこれに気づいていなかった。
ほかにも先日渋谷のカフェで、109で働いている(ように見える)奇抜な格好の女の子がずっと貯金通帳を見つめていたのをおち氏は面白がっていた。
これも一緒に居たスタッフは気づいていなかった。
・おち氏も、デビューは「ビートたけしの元気が出るテレビ」での企画コンテストから。
・テレビ番組『学校へ行こう!』の1コーナー「未成年の主張」は野島伸司のドラマ『未成年』で最終回に石田一成が学校の屋上で叫んだのを見た記憶が元になっている。
番組開始当時、世は「キレる17歳」が話題で、テレビで学校が映るシーンといえば陰惨な事件ばかりであった。しかし実際は99%の学生はそのような事件の犯人とはまるで違う。
「学校はもっと楽しいものだ」ということを示したく思い、このような企画が始まった。
・企画=立案+実行+結果
立案だけでも、実行しても、それだけではまだ足りない。
・企画には「ポジティブプランニング」と「ネガティブシミュレーション」が重要。
思いつく段階では、「このアイデアすげー面白い」と自分のアイデアを高く評価する。
思いついた後は、発想を180度切り替えて「何故このアイデアはダメなのか」と考え、
とことんマイナスポイントを削っていくことにより、成功に近づくことができる。
・「ありそうなアイデア」ではもちろんダメ。「ありそうでなかった」をいかに作り出すか。
好例は「甘栗むいちゃいました」や「カルピスウォーター」。
「甘栗むいちゃいました」も、それが出るまでは誰も甘栗なんて食べなかった。
「カルピスウォーター」も、昔はカルピス原液に自分で水を入れて飲んでいた。
・見ていて「出所が分からない企画」ほどいい。
何故なら、どんなシチュエーションで思いついたかすぐに分かってしまう企画なんて、誰でも思いつくもの。
ここで「出所が分からない企画」を作るためには、やっぱり人間観察が必要。
自分の周りの変な人に目をつけておいて、その人を見ていること。
みんなと違う記憶をゲットすること。
それによって、使っていない頭が使える。
・人間は「振り幅」にやられるもの。
見た目と中身のギャップや、最初と最後のギャップがドラマを生む。
ディズニー映画の主人公は、最初必ずハンディキャップを負っている。
『ダンボ』然り、『美女と野獣』然り、『ファインディング・ニモ』然り。
・人間はこんがらがった紐を解くのが好きな生き物。
人は生まれながらにして、プランナー。
・(聴衆のような)若い時期には、「根拠無き自信を持つ」ことが大事。
何故なら、チャンスは貯金できないから。
得てしてチャンスは忙しい時に来るが、それを逃したら同じチャンスは二度とやってこない。
最後には、著書の宣伝をして帰っていきました。
こういうことを書くと「偉そうに」と怒られるのかもしれないけど、ある意味TB先と同じ話だと思うので書いてみる。
http://anond.hatelabo.jp/20070826235204
私は親には相当程度恵まれていたクチで、別に裕福ではなかったけれども教育費に事欠くようなことはなかったし、親の勧めで進学校に進み、世間的には一流と呼ばれる大学に進んだ。自分自身その当時の境遇には満足していたし、親も喜んでくれたし、ささやかな優越感を楽しむことも出来た。
大学は楽しかったが、私は特に大学の成績には興味が無かった。先輩の話を聞いていても、大学の成績が良かったからといって、それこそ総代にでもならない限りは大したメリットは無さそうだったし、なにより自分が興味をもてない科目をちゃんと勉強するほどの忍耐力は子供の頃から全く無い。自分の好きな科目だけはすべて優でそろえてそれで満足していた。
卒業して就職し、何年か経つと、周囲の友人たちの一部が留学を始めた。それまで自分が海外で暮らすとか、海外で勉強するなどということは想像の遥か外側にあったので、そういうことが可能なのかということ自体に結構驚いた。その当時はそれ以上考えが進むことは無かったのだが、仕事をしていくとその分野で日本が決定的に立ち遅れていることが見えてくる。これはちゃんと勉強しておかないと10年後に必ず行き詰るなと思ってアメリカ留学の準備を始めたのだが、ここで壁にぶち当たった。
アメリカの大学院はどこも学部時代の(場合によっては高校も含めて)成績を重視する。GPAで3.3(優と良が半々で少し良が多いくらい)は足切ラインであって、それ以下だと申込書を送ることすら出来ない場合もある。もちろん、実際に一流校で合格を決めるにはそれよりも遥かに高い、例えば3.9(ほとんど全部優)とかが求められる。GPAなんてものは存在も知らなかった私の成績は3.3を割り込んでいた。
もうひとつ重要なのが推薦状。アメリカの大学で博士号を取り、出来れば本人も世界的な業績をあげている人に推薦状を書いてもらうことが望ましい。残念ながらそんな人はほとんどうちの大学にはいなかった。というか、そういう先生がごろごろしているのは東大他数えるほどしかない。しかも推薦状は3通必要。私は推薦状のネームバリューを考えるどころか、3人の推薦人を揃えるだけでも精一杯だった。
それでもなんとかアプリケーションを書き上げ、会社に隠れてTOEFLの勉強をし(この時期の平均睡眠時間はちょっとやばいことになっていた)、会社に迷惑はかけられないので合否の結果が出る前に辞める宣言をして代わりの人材を自力で調達し、やることはやって合否の結果を待った。結果はほぼ全滅に近かった。中堅大にぎりぎり引っかかっていたのは運が良かったとしか言いようが無いが、その当時はその幸運に感謝する気にはなれなかった。
その後アメリカに行ってから、自分がアプリケーションを出した大学のうち結構な数が「世間的には難易度がそこまで高くないと思われているが、募集人数が少なかったりして実は非常に入りにくい大学」であったことを知った。比較的まともな大学で日本人を積極的に受け入れるところがあったこともその後知った。東大からハーバードみたいなところに進む連中は、学部生のうちから留学準備をしている先輩を毎年見ているわけで、この辺りの情報は常識であったらしい。まぁ、ハーバードだMITだのに進む学生はそもそも私などとは比べ物にならないほど優秀だったので、特に腹も立たなかったのだが。それでも、うちの大学でもGPA3.8位あれば学部によっては超一流大を狙えた事を知ったときは少し堪えた。
中堅大のハンディキャップは就職活動に現れる。ハーバード、MIT、スタンフォード、イェール、そしてプリンストン(分野によってトップ5の大学は変わってくるが)。これらの大学にやってくる求人広告とうちの大学に来るそれとはかなり明確に差が出てくる。イェールの友人にそれを愚痴ったら、「ハーバードとMITは特別扱いなんだ」と愚痴られた。
もし日本の大学に入った直後にこの辺りの事情を知っていたら、そして自分にもそういった「とんでもなくエリートっぽい」キャリアパスがあり得るのだと想像できていたら、自分の人生はもう少し楽になっていたと思う。情報なら幾らでもあった。世の中には留学ガイドがあふれていたし、掲示板にだって色々なことが書いてあった(その頃はまだインターネットは無かったわけだが)。本屋でちょっと手に取っていれば必要な情報の半分くらいは入手できただろう。でもそうしなかった。そんなこと想像も出来なかったのだからしょうがない。親も友人も、海外にまで出て行く人間などいなかった。就職先で留学する人間に出会わなければ、今でも想像できないだろう。
結局、人間は社会に縛られる。それはしょうがない。誰かが悪意を持って情報を隠しているわけでもない。多分こちらから聞きに行けば喜んで教えてくれただろう。でも私はそうしなかった。想像力が足りなかった。想像力が足りない自分が「悪い」わけじゃない。ただ運が悪かっただけだ。それでも、そういう運の良し悪しも含めて自分の人生なわけで、それを嘆いても始まらない。架空の「すべてをコントロールするエリート」をでっち上げて彼らのせいにしたって虚しいだけだ。
結局私は海外で就職して必死に働いている。多分また無意識のうちに別の「社会」に縛られているのだと思う。もう少し世の中が見える人からは遠回りしているように見えるのかもしれない。でも自分に出来るのは手持ちの知識と能力と時間のなかでベストな選択をすることだけ。今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。
西暦2026年。日本にある奇妙な現象が起こった。出生率が激減したのだ。
もちろん、出生率の低下はつい最近に始まったことではない。前世紀半ば1970年ごろの、いわゆる第二次ベビーブーム以来日本の出生率は一貫して下がり続けていた。だが、2026年に起こった出生率の低下はそれを凌ぎ、前年度の半数以下にまで落ち込んだのだった。だれもが首を傾げ、専門家も市井のブロガーも、ありとあらゆる人がこの問題の分析を議論した。
21世紀の情報化社会にあっても、丙午の女性は男を食い殺すほど強い、という迷信が健在なのだというトンチンカンな分析をする社会学者も居た。
O社というある小さな会社の出した女性型ロボットが、その原因らしい。
そもそも、人間の基本的な欲求、適応度を上げると言う意味で生物的に基礎的な欲求は、あるレベルを超えれば経済学で言う収穫逓減の状態を示す。水も空気も食品も、あるいは快適な生活空間も人間の生存には無くてはならないが、ある一定以上を求めることは無い。もうおなかいっぱい、と言う状態が存在する。だが、男性の性的な欲求だけは例外であって、際限が無い。
三大欲求という言い方がある。食欲、睡眠欲、そして性欲を指すのだそうだ。このうち、食欲と睡眠欲は自身の存在を存続させる欲求、性欲は自身の存在を拡散させる欲求であると言い換えられる。では何故自身を存続させたいと思うのだろうか? それは、自身の存在を拡散させるため、自身の遺伝子のコピーを広げるためであると言える。生物の存在という目標のためだけに生物は存在し、またその目標が無ければ生物自身も存在し得ない。果てしの無い自身の再生産のためだけに生物は存在する。
男女の愛に関する悲劇の全ての源泉は、男女によって生物学的な適応度を高める方法が違うということに由来する。女性はいくら多くの男性と関係を持ったとしても、直接には子供の数を増やせないが、男性は数多くの女性と関係を持てば、原理的にはほぼ無限に多くの子供を持つことができる。それゆえ、自身の適応度を際限なしに高めることができる。だから、男性の性欲には限度がない。1000人、あるいは10000人と関係を持ったとしても、1001人目、10001人目の女性とセックスできるだろう。
だが、一般的な水準の容姿と金銭と道徳観念を持った男性にはそんなことはできない。だから、売春が生まれ、ポルノが生まれた。英語で"the oldest profession"「最古の職業」と言えば、売春のことを指す。古くは版画やグーテンベルグの発明から映画に至るまで、あらゆるメディアにおいてポルノは存在した。ビデオデッキの規格戦争においてVHSが勝利したのも、その影にアダルトビデオがあったのは有名である。軍事的な目的のために開発されたインターネットを一般人に普及させたのもポルノサイトがあってのことだ。ありとあらゆる技術は、男性の性欲を満たすために使われてきた。人間の経済活動は、男性の性欲に由来している。いや、そもそも言ってしまえば経済活動も含めたあらゆる人間の活動は、究極的に突き詰めれば、この男性の性欲の限度の無さに由来するのだ。人間の無限の欲望も、背後にある原動力として性欲によっている。もし人間から性欲が無くなれば、あらゆる種類の人間の活動は全て無意味になる。
たとえば、車は分かりやすいステータスシンボルであり、セックスアピールである。移動手段としては不相応なまでの高級車を持ち、ガソリン代、車検と不必要なまでのコストを掛けることは、生物学でいうハンディキャップ理論の表れであると言える。食欲を満たすという目的のためにはあまりに高級すぎる、人気のデートスポットであるフランス料理店。これも性的な欲求を含めなければ説明がつかない。動きにくく実用的でない服装や、映画や絵画といった美術ですら、究極的に突き詰めれば性欲に由来する。男性が権力や高収入を求める欲求が女性より強いのも、それが歴史的に女性を得る手段に直結していたからである。歴史を紐解いてみればいい。権力者、独裁者はほぼ例外なく側室を持ち、多くの子を残している。アメリカの元大統領のクリントンのように、権力者が複数の女性と性的関係を持つことが倫理的に許されないことになったのは、ごく近代のことでしかない。日本ですら、戦前までは政治家や財界人が愛人を持つことは当然のことであったし、社会通念的にも認められていた。明治天皇や大正天皇ですら、嫡出子ではなく側室の子であった。「英雄色を好む」という言葉があるが、これは生物学的に見れば一種の逆転である。英雄と呼ばれる人間だけが好色なのではない。そうではなく、あくまで権力を得た人間は自身の欲求を実現する方法をも同時に得られるということでしかない。
しかし、人間は婚姻という他生物には見られない独自の制度を持っている。世界中どこを見ても、結婚制度が存在しない社会は存在しない。「交尾でオスの役割は終わり」という生物とは違い、どんな社会においても、人間の男性は自身の妻や子供を養育する義務を持っている。(蛇足だが、人間の男性が若い女性を好むのも、長期にわたって一人の女性と性的関係を築く婚姻制度によって生じたものである。その証拠に、交尾でオスの役割は終わりというチンパンジーの一種は出産、育児経験のある中年のメスを好む。なぜならそのほうが自分の子供が生き延びられる確率が高いから)それゆえ、近代のテクノロジーが発達する以前の社会においては、自身の限度の無い性欲を満たせるのは、社会的に成功したごく少数の男性だけだった。付け加えて言うならば、有史以前、人間が貨幣を持つ前の狩猟採取社会においては、どうやら一夫多妻制度はまれであったらしいと言うことが分かっている。多くの皮肉屋の主張とは違い、資本主義の発達により貧富の差が生まれたことによって、多数の妻を養うことが可能になったようだ
だが、大容量のインターネット回線と、テレイグジスタンス、バーチャルリアリティ、そして人型ロボットの研究が男性の際限の無い欲求を満たすことを可能にした。
月々数千円も出せば、海の向こうの幼い少女からディスプレイの中にしか存在しなかった理想の美少女まで、ありとあらゆる女性とのバーチャルな性行為が楽しめるのだ。お互いの性器に装着したネットワーク対応の性器具と、データグローブとボディースーツ、そしてヘッドマウントディスプレイによって、その場に存在するような臨場感を持って、バーチャルセックスを体験させるサービスが提供されていった。インターネットのサービスは、地理的な障壁や囲い込みがないため、常に、全世界が競争相手であるし、容易に相手のイノベーションを取り込めるので、リアルでは考えられないほどのすさまじい速度で進化していくのが常だが、ネット経由の売春も、その例外ではなかった。
そして、流れが決定的になったのは、前年に発売された女性型ロボットだった。
ちょっとした高級車を買うくらいのお金を出せば、文字通り女性を所有することができるのだ。しかも、現実の女性と違って妊娠することも浮気をすることも歳をとることもない。なにより、飽きて捨てたとしても何一つ文句を言わない。
しかも、簡易ではあったが会話もでき、(ちぐはぐな受け答えが、逆に幼さを感じさせるとして喜ぶ男性も居るようだ)食事や掃除と言った家事をすることもできた。妻を持ちたくない、または持てない男性にとっては正に福音であった。
いや、もてない男性だけではない。中間層の普通に交際相手が居る男性にとっても救いであった。彼らは常に女性のご機嫌を伺い、足代わりに使われ、食事を奢らされてまで、不確実なセックスにありつくことに疲れ果てていたのだ。彼らにとっても、女性型アンドロイドの登場は救済であった。何も要求せず、見返りの無い愛を注いでくれる、いつまでも無垢な女性。有史以来の男性の永遠の理想の体現であった。
だがしかし、その後不可解な面白い現象が起きた。一体何が起きたのか?
数年間のうちに、出生率がV字回復したのだ。ちょうどそれは、60年前の丙午の翌年に起きた出生率の回復のようだった。
例え人形であっても、女性と生活を共にする以上、身だしなみを整え、生活習慣もきちんとしなければならないという男性が多少は増えたのだ。現代の情報化社会の中で、不当に抑圧され、自己肯定感を失っていた若い男性が、たとえそれがロボットであっても、全面的に肯定されることで自信をとりもどしたのだ。不当にワガママな女性に対しては、いつでもアンドロイドに戻れる、ということをほのめかし、恋愛において男性が女性と対等な立場で渡り合えるようになったのも大きい。
そして、性欲は人間の本質的な欲求であるが、それと同じくらい、子供を持ちたい、家族を持ちたいという欲求も本質的なものであるらしかった。擬似恋愛という一種のカンフル剤で人間性を取り戻した男性が、次々に現実の恋愛、結婚へと戻っていったのだった。
しかし、再び恋愛市場の中に戻っていったのは、男性全体から見ればごく一部でしかない。彼らはもとから女性に相手にされるだけの財産なり顔なりを持っていた幸運な男性なのだとも言える。大部分の男性は、そのまま「戻ってこなかった」 なにせ、どれほどのキモメンであろうと、振られる事はありえないのだ。大部分の男性は、理想の彼女と一緒に、自閉的な生活を送るようになった。それでも彼らは満足しているようである。
こうして今や、少数の結婚市場に復帰した男性と、大多数の「降りた」男性たち、そして、理想の彼女との競争に晒される女性だけが残った。出生率が回復したと言っても、日本の出生率は世界最低レベルを走り続けている。どうやら経団連は、労働力不足を補うために本当に移民の受け入れを考えているらしい。このままでは1半世紀しないうちに日本人は消滅すると予測している学者も居る。
しかし、再び現実の恋愛へ戻っていった男性も、擬似恋愛を楽しんでいる男性も、それぞれに幸せなようだった。
だが、、、これは本当に人類の進歩なのだろうか? はたして、テクノロジーは本当に我々を幸福にしたのだろうか? 科学技術の進歩によって、最後に生み出されたものが「自由意志による断種」「幸福に包まれた自死」でしかなかったとしたら、数千年に及ぶ人類の歴史は一体何だったのだろうか? 今後の人類の未来を考えるにつけ、私は絶望的な気分になる。
http://anond.hatelabo.jp/20070529105309#
http://anond.hatelabo.jp/20070702220146#
■やっぱりさ、温情なんかやめて
悪は徹底的に叩くべきだ。中途半端な叩きかたするから癌細胞みたいに悪は増殖するんじゃん。遠慮もなにもしないで断固粉砕でいいじゃん。
「善も悪もそんなのは主観なんだからそんなのはない」っていう人は自らが悪に荷担している事を知れ。こういう偽善者こそ大嫌いだ。分かったフりなんてするんじゃねーよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070719111334#
■転売がイケナイのって
今回のアニヤのバッグの場合、全然欲しくない人が転売の為にアニヤのバッグを買い占めて、他の欲しい人が買えなくなる事例が出ているのだけど。
その欲しくない人が転売の為に買って、高く売りつける行為は経済的な付加価値を生み出さないからイケナイんじゃないの?
けーざいがく的に転売がイケナイのってそういうことじゃないの?
http://anond.hatelabo.jp/20070731115229#
■
更生できなかったら無期懲役。
更生の見込みがなければ無期懲役。
本当に更生できるかは刑務所の中の人の頑張り次第。
人のやることに完璧はない、という問題であって、
http://anond.hatelabo.jp/20070724093345#
■http://anond.hatelabo.jp/20070723224418#
技術革新はユーザーに驚きをもたらさなくなった、ある一定以上の複雑さはユーザーの限界を超えた、ある一定以上の高画質はモニターと動体視力の限界を超えた。
この頃のユーザーは0から共に育ったユーザーとは打って変わってもう大分進んだ先からゲームに触れた世代だというのもある、もともと高画質の世界を見てきた世代だ、いまさらMOVEの華麗さに声を上げることは無い。
360やPS3をHD対応のTVやモニタに繋いでプレイしてみろ。
戻れないだろ…。
http://anond.hatelabo.jp/20070811131813#
表に出てきていない。
実際に、この機械を使って初期癌を消した人もおり
末期癌患者はこの機械を使っているときに痛みが取れる、と話していた。
何故その機械を知っているのかというと、私もその機械を実際に使ったことも、治療に当たったことのある人間の一人だからだ。
特許も取れているし、量産して全国配備すればどれだけの人が救えるのだろうか。
7並べのカードのように、出さずに手元に持っている人たちが居るという事態が、私は許せない。
自己利益を求めるのではなく、多くの人が救われるようになってもらいたいと心から望む。
http://anond.hatelabo.jp/20070814113827#
■「どんだけー」を使う人間はIQ80以下、SS40以下と言う定説。
http://anond.hatelabo.jp/20070814102023#
ひたすら勉強だ。
学生時代もそうだが、大人も勉強しなくてものらりくらり適当に生きることは出来る。お前みたいに。だけど少しでもよりよい生活を、よりよい仕事をしようと思ったら、ひたすら勉強。学生時代と違って、受動的な勉強じゃなく能動的な勉強をしなければいけないから、出来ない奴は落ちこぼれる。
http://anond.hatelabo.jp/20070820171302#
■http://anond.hatelabo.jp/20070820161916#
「サラリーマン」って、給与所得者が自分の処遇を愚痴るときに使われる決り文句のような気がする。
夕刊フジや夕刊ゲンダイの記事に、いかにもありそうなんだけど、
とか。
http://anond.hatelabo.jp/20070822082933#
■アルコール抜き
昨日はアルコールなし
一昨日は氷結350ml
だんだん普通の生活?にもっていけるのかな
http://anond.hatelabo.jp/20070822003934#
■http://anond.hatelabo.jp/20070821215228#
http://anond.hatelabo.jp/20070823005253#
■職種と生産性
職種と生産性に関する素朴な考え。
最初に自分の考えを言うと、現在の社会では、作業量に応じて線型に利益が上がる職種、作業量に応じてステップ関数的に利益が上がる職種、作業量に応じて指数関数的に利益が上がる職種の3種類があると思う。
作業量に応じて線型に利益が上がる職種としては、美容師、料理人、介護士、小売店員、工員、医師等がある。
これらは、人間の命に関わる職種(医師)意外は、人材が買い叩かれる傾向がある。平均レベルの従事者では他の人と取替え可能であり、それゆえ低い給料に甘んじることになる。しかし、取替え不可能な非常に高度な人材、つまり高級料理の料理人、有名建築家、有名華道家などは概して高給である。
作業量に応じてステップ関数的に利益が上がる職種としては、メーカーの技術職、システムエンジニア、営業職等がある。これらの職種の多くは、大卒を最低保証とする程度の一定の知的技能を必要とするが、特定の組織の中での部分的な利益を出し合うにすぎず、利益の幅は限定的である。
最後に、作業量に応じて指数関数的に利益が上がる職種として、金融、マーケティング、広告、商社、コンサル、経営者等がある。これらの職種は個人の決定が他業界にも波及し、結果的に指数関数的な影響を与えうる。たとえば、金融はグローバル化が進み、非常に流動的である。トレーディングを最適化すれば(実際には不可能だが)、作業にかかった時間の何乗ものレートで利益が生まれることになる。また、商社は日本を中心とした二国間での物の流れ決定する。その決定はさらに、最終製品から原料にいたるまでの複数の国間の物や金の流れにも影響し、それがさらに日本にも波及することになる。したがって、周辺ノード(国)への波及という点で指数関数的な利益を生み出す構図がある。
今後、経済はよりグローバル化し、市場におけるひとつひとつの判断が大きな影響を及ぼすことになる。このような中で、定型の仕事や、組織の中での限定的な影響しか持たない仕事ではなく、不確実性に対処し指数関数的な利益を生み出す代えのきかない人材が求められることになると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070823233243#
■何でも楽しいという友人
「数学と現代文はパズルだし、物理や化学や生物や地学なんてさ、物体や宇宙や、物体の動きとか、そんな宇宙の根本的なところの話で普通に知ることが楽しいし、倫理なんかも人間の根本的なことだから楽しいし役立つし、しかも過去の超天才、超有名人たちのエッセンスだけピックアップして体系化して知れるんだから倫理なんてマジで超お得じゃん!現代社会とか政経なんて普通に新聞読む時とか実生活に即役立つし、歴史なんて、俺らと同じ人間の今までのビッグニュースを集めたもんだし、しかもなんせ歴史はマジで起こった事なんだぜ、楽しいよ。理科も、架空の事じゃなくてマジで今のここにある物体の仕組みの事で、リアルありまくり。全部即役に立つじゃん。楽しいじゃん。古文も、日本に文字とか文章とかの文化が生まれてから今までの超有名作がピックアップされててマジ便利。楽しい。漢文もそうだよ。だから勉強って超楽しいよ。ついつい夜までやっちゃうんだ。やめようと思ってもなかなか「あとちょっと」とかいってやめらんなくてさー」
大体奴はそんなようなことを言っていて、周りの皆は「理解できねえ」と苦笑いしていた。俺も含めてだ。
そして奴は、東大へ行った。
知ることが楽しいのだという。
他人の、自分の知らない趣味の話なんかされても、たいていの人は「へー」「ふーん」で流すばかり、気付けば一人で盛り上がってて周りは苦笑、てなのが常だが、奴はどんなことでも目を輝かせて聞く。
たくさん聞きまくるから、話してるほうは愉快で、もっと話す。奴はもっと聞く。困った事がただ一つだけある。奴がその後、その分野について、初めに話した奴より詳しくなってしまうことだ。そうなると相手はちょっと、面白くないようだ。
「どんな事でも楽しいよ。そりゃ最初から全部楽しいわけじゃないけど、どんな事でも、世界に一人はそれを楽しいと感じてる人がいるわけじゃん。どんなマイナースポーツでも、どんなマイナーな趣味でもさ。それだったら俺も楽しめるなって思うんだよ。楽しんでるその人がどういうところで楽しんでるのかって思いながら楽しいんだって軽く思いこみながらやってるとそのうちマジで楽しくなってくるし、楽しさがわかってくる。どういう所を楽しいと感じているのかってのが。基礎知識をある程度詰め込めば、それなりになんでも楽しくなるよ」
「でもその基礎知識を詰め込む時点では面白くないわけだろ?」
「まぁ、その時点ではその事に対して面白くて仕方がないってわけじゃないよ。でも、未知のものを知っていくっていうのは、楽しいことだよ。例えばサッカーを全然知らなくて、サッカーについて知ろうとしてるとき、そのときはサッカー自体について楽しくて仕方がないってわけじゃないけど、全然知らなかった未知のものについて、おおまかでも概要を掴むっていう動作が楽しいんだよ」
「それ楽しいか?」
「楽しいよ。概要を掴むとか、体系化するとか、そういうことが俺大好きなんだよ。段々世界を把握できていく気がして、すっきりする。怖いのは、そういう事をしていって、ついに知ることがなくなったらどうしようって事だけど、でも今の時代そんな怖さは全くないから。無限にある。いつまでもある」
「そういうもんかなあ」
「うん。そんで、大体概要が分かると、細かい事も知りたくなってくるんだよ。あと、日常でも、今まで見えなかったことが見えてくる。これは比喩じゃなくて、さっきのサッカーのことでいえば、今まではネットでサッカー関連のニュースがあっても、たとえ目がそこに向いても実質見えていない状態だったりするわけなんだけど、それが、目に付くようになる。「あれ?サッカーの事ってこんなにやってたっけ?」って気付き始める。そうすると、また知るだろ。そんで、知ると、また知りたくなる」
言うまでも無く奴は非常に博識である。
だが奴自身はそんな風には思っていないようだ。
小学校の時、嫌な場所の掃除当番になったときも、奴は面白がっていた。
「どうとでも楽しみ方はあるよ」
「どこがだよ。つまんねーよこんなん」
「めっちゃがんばって綺麗にすれば、楽しいじゃん。今まで汚かったのに、俺らがめっちゃ綺麗にできたら、楽しいし、すごいじゃん。先生も褒めてくれるし、優等生気分じゃん」
「うーん」
「それか、時間でもいい。めっちゃ綺麗にしなくても、いかに早く、大体を終わらせるかってのを目標にしてもいい。早くする方法を考えるの、楽しいだろ?それに、早く終わると、楽しい」
「まあそれはそうだけど」
「一番楽しくないのは、楽しくないって思って、ダラダラやることだよ。それは全然面白くなんない。つまんないとか嫌なことは、つまんないとか嫌だって思って嫌そうにやると嫌なままだけど、開き直って、おっしゃ、やってやるって、目標立ててやると、結構面白いよ」
俺らはかつてないほどその場所を掃除した。ただし時間内には必ず終わるように。だからすっげー必死になってやんないと終わらないから、チャイムがなったら急いでその場所にいって、嫌だとか考える暇もなく、ただおりゃーって頑張ってやってた。手が汚れるから嫌だとか前は考えてたけど、やるって決めてからはんなこと考える暇もなくてただやりまくってた。そして気付いた。手が汚れたら洗えばいいんだと。めっちゃ綺麗になって、俺らは先生から帰りの会で褒められた。
http://anond.hatelabo.jp/20070824125319#
■http://anond.hatelabo.jp/20070823233243#
知的好奇心つながりで一つ自分の話を。
自分は東京の街並を眺めるのが好きです。
特に新宿の高層ビル群とか、東京タワーとかレインボーブリッジとかの巨大な建造物が。
ちょっと近づいて地上数十メートルの巨大な建造物、
その部品に使われる小さなネジ・・・
と、だんだん小さな部分に注意を向けていきます。
で、はたと気がつく。
今、自分の視界に入っている、凄く巨大なものから凄く小さなものまで、すべてどこかの誰かが作ったものなんですよ!
普通に考えると当たり前の事なんだけど、よくよく考えるとこれってもの凄い事だと思いません?
こういう視点で街やいろんなものを見てると、素直に「人間て凄いなぁ??」と感動してしまいます。
こんな風に街を見てる人って少ないのかなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070829100649#
■格差と想像力
こういうことを書くと「偉そうに」と怒られるのかもしれないけど、ある意味TB先と同じ話だと思うので書いてみる。
http://anond.hatelabo.jp/20070826235204#
私は親には相当程度恵まれていたクチで、別に裕福ではなかったけれども教育費に事欠くようなことはなかったし、親の勧めで進学校に進み、世間的には一流と呼ばれる大学に進んだ。自分自身その当時の境遇には満足していたし、親も喜んでくれたし、ささやかな優越感を楽しむことも出来た。
大学は楽しかったが、私は特に大学の成績には興味が無かった。先輩の話を聞いていても、大学の成績が良かったからといって、それこそ総代にでもならない限りは大したメリットは無さそうだったし、なにより自分が興味をもてない科目をちゃんと勉強するほどの忍耐力は子供の頃から全く無い。自分の好きな科目だけはすべて優でそろえてそれで満足していた。
卒業して就職し、何年か経つと、周囲の友人たちの一部が留学を始めた。それまで自分が海外で暮らすとか、海外で勉強するなどということは想像の遥か外側にあったので、そういうことが可能なのかということ自体に結構驚いた。その当時はそれ以上考えが進むことは無かったのだが、仕事をしていくとその分野で日本が決定的に立ち遅れていることが見えてくる。これはちゃんと勉強しておかないと10年後に必ず行き詰るなと思ってアメリカ留学の準備を始めたのだが、ここで壁にぶち当たった。
アメリカの大学院はどこも学部時代の(場合によっては高校も含めて)成績を重視する。GPAで3.3(優と良が半々で少し良が多いくらい)は足切ラインであって、それ以下だと申込書を送ることすら出来ない場合もある。もちろん、実際に一流校で合格を決めるにはそれよりも遥かに高い、例えば3.9(ほとんど全部優)とかが求められる。GPAなんてものは存在も知らなかった私の成績は3.3を割り込んでいた。
もうひとつ重要なのが推薦状。アメリカの大学で博士号を取り、出来れば本人も世界的な業績をあげている人に推薦状を書いてもらうことが望ましい。残念ながらそんな人はほとんどうちの大学にはいなかった。というか、そういう先生がごろごろしているのは東大他数えるほどしかない。しかも推薦状は3通必要。私は推薦状のネームバリューを考えるどころか、3人の推薦人を揃えるだけでも精一杯だった。
それでもなんとかアプリケーションを書き上げ、会社に隠れてTOEFLの勉強をし(この時期の平均睡眠時間はちょっとやばいことになっていた)、会社に迷惑はかけられないので合否の結果が出る前に辞める宣言をして代わりの人材を自力で調達し、やることはやって合否の結果を待った。結果はほぼ全滅に近かった。中堅大にぎりぎり引っかかっていたのは運が良かったとしか言いようが無いが、その当時はその幸運に感謝する気にはなれなかった。
その後アメリカに行ってから、自分がアプリケーションを出した大学のうち結構な数が「世間的には難易度がそこまで高くないと思われているが、募集人数が少なかったりして実は非常に入りにくい大学」であったことを知った。比較的まともな大学で日本人を積極的に受け入れるところがあったこともその後知った。東大からハーバードみたいなところに進む連中は、学部生のうちから留学準備をしている先輩を毎年見ているわけで、この辺りの情報は常識であったらしい。まぁ、ハーバードだMITだのに進む学生はそもそも私などとは比べ物にならないほど優秀だったので、特に腹も立たなかったのだが。それでも、うちの大学でもGPA3.8位あれば学部によっては超一流大を狙えた事を知ったときは少し堪えた。
中堅大のハンディキャップは就職活動に現れる。ハーバード、MIT、スタンフォード、イェール、そしてプリンストン(分野によってトップ5の大学は変わってくるが)。これらの大学にやってくる求人広告とうちの大学に来るそれとはかなり明確に差が出てくる。イェールの友人にそれを愚痴ったら、「ハーバードとMITは特別扱いなんだ」と愚痴られた。
もし日本の大学に入った直後にこの辺りの事情を知っていたら、そして自分にもそういった「とんでもなくエリートっぽい」キャリアパスがあり得るのだと想像できていたら、自分の人生はもう少し楽になっていたと思う。情報なら幾らでもあった。世の中には留学ガイドがあふれていたし、掲示板にだって色々なことが書いてあった(その頃はまだインターネットは無かったわけだが)。本屋でちょっと手に取っていれば必要な情報の半分くらいは入手できただろう。でもそうしなかった。そんなこと想像も出来なかったのだからしょうがない。親も友人も、海外にまで出て行く人間などいなかった。就職先で留学する人間に出会わなければ、今でも想像できないだろう。
結局、人間は社会に縛られる。それはしょうがない。誰かが悪意を持って情報を隠しているわけでもない。多分こちらから聞きに行けば喜んで教えてくれただろう。でも私はそうしなかった。想像力が足りなかった。想像力が足りない自分が「悪い」わけじゃない。ただ運が悪かっただけだ。それでも、そういう運の良し悪しも含めて自分の人生なわけで、それを嘆いても始まらない。架空の「すべてをコントロールするエリート」をでっち上げて彼らのせいにしたって虚しいだけだ。
結局私は海外で就職して必死に働いている。多分また無意識のうちに別の「社会」に縛られているのだと思う。もう少し世の中が見える人からは遠回りしているように見えるのかもしれない。でも自分に出来るのは手持ちの知識と能力と時間のなかでベストな選択をすることだけ。今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。
http://anond.hatelabo.jp/20070904222327#
■http://anond.hatelabo.jp/20070904214759#
増田とか2chとかうろうろしてるとやたらにクズな奴の話とかが出てきて、ついこの世はクズばかりかと錯覚してしまうのだが、これと同じで、単に「普通の人」とか「いい人」の話はあんまり皆書き込まないだけなんだよな。「え?なんでこの人たちこんなに類稀なクズばかりが周りにいんの?有り得ないだろ。ネタ?」(実際ネタもあるんだろーが)とか思っちゃうんだけど、そういう類稀なクズに出会ったからこそ書いてるわけで。リアルにいるときはそんな事忘れてるんだけど、ネット上ではついそうやって勘違いしてしまう。こんなクズたちに会ったことのない自分はめっちゃ幸せもんなのか?とか思ったりするけどそうじゃないんだよな。
http://anond.hatelabo.jp/20070904225227#
■そうね
クズに会う確率は誰でもそんなに変わらなくて、
書き込もうと思うかどうかのほうが人による気がする。
俺もうちの社長のこと何回書き込もうと思ったことか。
http://anond.hatelabo.jp/20070905094121#
■http://anond.hatelabo.jp/20070905015711#
自分、5桁代前半(1xxxx)だけど、その頃の事を言いたかった。当時は知らない人の所見て回って、ついた足跡から仲良しになるなんて日常茶飯事だった。
そんな雰囲気の事を言いたかったんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070906151611#
■1000から2000字ていどの文章書いてと言われたら
俺がいつも念頭に置いている基本形(だが変形することの方が多い)
http://anond.hatelabo.jp/20070906150600#
- 思いつくネタを箇条書きにする→マインドマップでもよい
- オーソドックスな三段構成(はじめ・なか・おわり)で配列してみる→おそよの筋を見つける
- 筋に必要な話題を追加し、入れると構成が取りにくい話題を削除
- 箇条書きのネタを膨らませていく→実際の文章を書く
- 構成の再整理
追記:
もっと長い文章を書く場合、小見出しをつける癖をつけると良い。構成のとき、最初からおおざっぱな小見出しを書いていくというのも変形の一つ。話題のグルーピングがしやすい。
http://anond.hatelabo.jp/20070906153931#
■Re: 1000から2000字ていどの文章書いてと言われたら
http://anond.hatelabo.jp/20070906151611#
私が苦手なのは接続詞。「しかし」「したがって」「そして」「さらに」などなど。
これらがワンパターンになりがちで困る。気が付くと、重ねて使ってることが多々。そして、どうつなげるのか悩む。
なので、最近は、まず接続詞はなしで書く。どんどん切る。その後、つなげていく。すると、そもそも書くべき順番を間違えていることに気が付く。
でも、やっぱり苦手。
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/gamescramble.aspx?n=MMITew000005012007&cp=2
を読んだ感想。
いろいろ思うところはあったのだが、特に下の記述に違和感を感じた。
一部だけ切り取って批判するのも問題があると思うので、記事の要旨を推測してみたら、こうなった。
「IT革命によって世界はフラットになった。その結果、ゲーム産業にとっても最大のコスト要因は人件費になった。英語圏は、スケールメリットがあり、情報量とアウトソーシングの面で有利である。(ので、日本人も英語圏へ飛び込もう!?)」
普通に考えて、現行の英語の教育システムには問題があると思うし、英語を学んでも損はないと思うが、日本人であることがハンディキャップになるというのはおかしな話だと思う(単にマスコミにありがちな煽りなのかも知れないが)。もう少し話を整理してみる必要があるような気がする。
例えば、日本の「アニメ」は、アジア各国にアウトソーシングしているが、英語で意思疎通しているんだろうか?IT関連は「日本語」で意思疎通しているようだが。大体、英語の非ネイティブスピーカー同士が英語で意思疎通すると、もともと日本語が持っていた微妙なニュアンスがフィルタリングされるのではないだろうか?
何が言いたいのかというと、意思疎通のツールとして英語を使うと、出来た作品も英語チックなものが出来上がるのではないかということだ。なぜならば、思考は言語によって規定され、言語によって文化が規定されるからだ。(もちろん、例えば、英語が「他言語を取り入れて」、英語としての新語を作ってしまう場合もあるが、その定義自体、英語圏の文化の影響を受ける(mangaとか))
つまり、日本人にとって、自分が日本人であることは最大の利点なのではないだろうか。
大体、フラット化した世界では、文化という不合理性(=偏り)が、有利に働く気がするのだが。わざわざ、日本人がネイティブスピーカーや語学の得意な民族などのような人たちと、英語圏という同じスタートラインで不利な戦いをする必要がどこにあるのだろうか?
結局、この記事の何が問題なのかというと、ローカル文化の日本の会社にグローバルな欧米英語圏の会社と同じ解決方法をとらせようということにあるのだと思う。繰り返すが、わざわざ相手が有利な立ち位置で戦う必要など微塵もないのだ。
言うまでもないが、日本の製品である「ニンテンドーDS」は世界中で売れている。
では、そこにリソースをつぎ込むのが当然の戦略ではないか。日本はローカル文化なのだから、資源は限られている。日本には全ゲーム産業を仕切る資源などないし、一部の勝ち組しかいないグローバルスタンダードで戦う必要性がどこまであるのか非常に疑問だ。
むしろ、日本に必要な戦略は、日本語圏の維持ないしは拡大を行い、最も質の高い消費者を持つ市場として安定させることだと思う。
当たり前だが、消費者の目が肥えているほど、求めるものがシビアになる。偽悪的に言い方をすれば、娯楽産業は、より高度な「インチキ」で消費者をだまさなければならない。そして、些細な材料から作られた高度なインチキは高い粗利を生む。それが文化力ということだと思う。
良く、DSは、任天堂のソフト(と一部のメーカー)しか売れていないといわれている。
しかし、ネットを徘徊していて気が付いたのだが、サードパーティの新作の洗練されたうさんくささというか、カオスっぷりがすごい。私はそれに非常に可能性を感じる。だから、日本のゲーム制作者には怪しげなソフトをたくさん作ってもらいたいし、それが日本のゲーム制作者とユーザーの幸せにつながるに違いないと思うのだ。
『くるくる◇プリンセス ??フィギュアできらきら☆氷のエンジェル??』
http://www.famitsu.com/game/coming/2006/12/27/104,1167202459,65080,0,0.html