はてなキーワード: ネクストとは
昭和の価値観からすれば、女とセックスできるなんて大層なことだった。
しかし、今ではネットで美女を見ながらオナニーできてしまうので、女とのセックスに大層な価値を感じられないと思う。
しかし、じゃあそれに対応した価値観ってなんなのか、昭和生まれのモテないおっさんである俺は知らない。
もしかしたら、当たり前に存在しているかもしれないその価値観が無いから、いまいち現実の事象を理解できない。
なぜ、価値が無くなった女が偉そうに恋愛における優位を仕事場なんかでも持ち込むのかが理解できない。
女性を大切にする価値観は、そりゃリア充はセックスできるから意味があるかもしれないが。セックスすることもない非リアにその価値観が押し付けられる意味が分からない。
セックスだけで言えば、オナニーでセックス以上が得られる世界になっちゃったじゃないか、と素朴に疑問に思う。
女は非リアに対してセックスチャンスゼロでいいし、それなら男同士のように対等な付き合いできてほしいんだけど。
なぜか、アファーマティブアクションもらってる側が偉そうにしている。おかしいと感じるが、何らかの価値観があるんだろう。その価値観ってなんなんだ。
論理的に異常に感じてしまうのは、昭和感覚からすれば当たり前だが、昭和とは社会構成が変わったから新しい価値観ができたんだと考えるのが妥当だろう。
その価値観ってなんなんだ。昭和的価値観しか持ってないから、その違和感をずーット感じている。
でも、現代に生まれる子供世代はそういう新しい価値観の中で生まれているわけだから、その空気を当たり前として生きる世代がいるんだろう。
その価値観、教えてほしい。子供達に頭を下げて授業してほしいくらいなんだわ。
俺が生まれた世代ってのは、戦争世代やバブル世代とはまた違った価値観を確かに持っていた。
だから、今生まれている価値観ってのもあるはず。だって世界がコンだけ変わったんだから。
でも今じゃネットでそこらの人の意見が簡単に分かるし、映画のまとめもウィキペディァで明確に分かる。
こうなってくると、映画評論で映画を感じていた人間とはまた違った価値観が生まれる。
俺は、映画評論的な時代の映画鑑賞には価値を感じなかったが、今はいくらでも見たそばから感想を見れるため、映画を見るのが好きだ。
『桐島、部活辞めるって』を見た後は、『リリイシュシュのすべて』や『大怪獣、東京に現る』や『ゴトーを待ちながら』といった関連作品をスグ知って速攻世界を広げられる。
こういう価値観の中で見る映画への価値観は、1990年代とは全然違う。
こういう価値観の中で映画を見ることは俺はマッタク抵抗ない。だって、その世界の価値観を知ってる側だから。
でも、セックスの価値観は未だに分からない。もしかしたら、皆も知らないんじゃないかとすら思っている。
俺と同じように、リアル女性と関わるリスクとリターンより、xvideosアサリやエロ漫画アサリのほうが当然いいよねって考えのほうが当たり前だしスタンダードなのかもしれない。
皆、この新しい世界での新しい理屈に対応できず、価値観がずれてるんだけど、対応できてないみたいな不安を感じているのかもしれないと思えてくる。
実は、20歳のアイドルやってる女と援助交際をした。デートして、飯食って、セックスした。4万円弱。
数回やったが、価値を感じなかった。素人とやった感はあるんだけど、昔なら感じていたレアリティーを感じなかった。
AVで美女を見れなかったり、二次元がこんだけ進んでいなかったら、多分相当価値があったことだったんだろうけど。昭和ならすごい価値あることだったんだろうけど。
マッタク価値を感じずビビッタ。むしろ、コンだけ金とってこの程度なのかってビックリした。
エロゲー買うほうがまし。DMMで見放題登録したほうがましだった。快感だけで言えば。
素人とやったとか、その女とやったみたいな価値がマッタクなかった。
これで、よく皆納得して彼女作れるもんだとビックリしてしまった。
もちろん、セックスだけじゃないんだろうけど。じゃあその価値観ってなんなのってのが伝わってこない。
たとえば、ユーチューバーのリア充を見ると、リアルでリア充を見る価値ってのが伝わってこない。
ネットで絵画や演劇を見て楽しんだら、リアルで見るのはダルイ。ってか、コスパ考えるとリアルに赴くコストに対して得られるリターンが小さい。
でも、もちろん、たまには行くよ。そりゃ行くよ。そこで得られるものもある。
でも、相当な部分がネットで代用されるから、相対的にリアルの価値は小さくなる。小さくなった価値を補填するだけのサービスを受けられない。
リアルでの活動は、これまでより値段が下がっても大きな買い物になっちゃったのに、それでも、価値観を変えずにリアルはリアルで続くんだろうか。
そこは違う価値観が生まれてると思うんだけど、じゃあその価値観ってなんなんだ。
でも、旧来の価値観や人間がそのまま受け継いでネクストステージを生きているように感じる。
新しい価値観、みたいなのってないんだろうか。
http://jp.reuters.com/article/toshiba-chip-restructuring-idJPKCN0V104J
ちょっと前まで南武線に中途採用募集みたいな広告だしてたような気がするけど、盛者必衰早すぎるだろ。
NECの半導体部門がRenesasに統合されたと思いきやすごいリストラして、その人達が東芝結構行っただろうし、富士通とPanasonicのSoC部門合体したとき、見切った人も東芝行っただろうし。。
なんてったって半導体売上世界ランキングトップ10内に入ってるからね。
http://news.mynavi.jp/photo/news/2015/08/10/221/images/002l.jpg
みんな次どこいくんだろう?SoCはソシオネクストに統合?車載はRenesas?
ありえなさそう。
女を叩いて女に復讐したいというキモチよりも、ブサメンが女に騙されないように警告している意味が強い。
よく、フェミや女叩きアンチの人が口にする「まともな男女は女叩きを気にしない」ってのはその通りで。
ブサメンに対する女の態度と、フツメンに対する女の態度は天地の差があるので。ブサメンに関わってくる女は基本ブサメンに害悪となるってことが前提に女叩きはなされる。
普通のまともな男にとっては、女はまともだろうけど。ブサメンにとっては女はライオンよりも危険な生物だってこと。
そういう前提で女叩きしている。
俺は、ずーっと女叩きをしているが、目的は、「女に搾取される男を減らす、ブサメンから女に出て行く出費減らす」というのがあると思う。
俺の父親はアスペ発達ブサメンの金持ちで、母親は海外の優秀な大学を出た天才型で、父親はATMにしか思っていないだろうと思われる。
当然両親はキチガイのようなケンカをしまくっていた。母親はケンカが終わるたびに、俺を呼び出して、海外に居た頃の恋人がいかに良かったかを語った。
これを見て、やっぱりブサメン発達みたいな奴らは結婚するべきじゃねーよ。という意識があった。女にしても、イケメンリア充と遊びたいなら、それで人生終わってろよと感じた。
もちろん、アスペ相手していると、カサンドラ症候群ってこともあるだろう。アスペによって配偶者の精神もおかしくなるって奴だ。母親はそれなんだろう。
このような不幸を目の当たりにしていて、しかも世の中のドラマでも「亭主は元気で留守がいい」あるいは、「パパ臭い」みたいなネタ。ああいうのを見ると、やっぱ不幸だなって感じる。
また、生まれた俺自身も発達障害の高IQ金持ちブサメンになってしまい、父親そっくりである。弟のほうは結構なイケメン高身長になったが。
都合がいいことに、昨今の結婚率は下がっている。
俺としては、ゲームをしてみたくなる。
「本当にブサメンが非婚化して、女が干上がる時にどうなるんだ」と。
女叩きをすることで、「女から利益を得られない」ブサメンが損得、コスパなどを考えて女から離れる。結婚しない。
これで、どうなるんだと。
リア充爆発しろってのも、ある意味リア充うらやましいですっていう持ち上げ。
マスコミに煽られて若い時間をイケメンに振り回されて行き送れるように持っていく。
兵糧攻めっていうかな。ABCD包囲網とか、そういう感じのゲーム。
その結果に出てくる世の中ってどうなるんだろうってのに関心がある。
この世にイケメン美女が溢れて、ブサメン差別は無くなるかもしれない(今の世の中は女性がイケメンと感じる男性が少なすぎるらしいから)
東南アジアやアフリカで余生を送る独身ブサメンが現地人と50くらいで子供をこさえるのがスタンダードになり、日本からブサメンが消えるかもしれない。
あるいは女に兵糧攻めが効いて男性の地位が上がるかもしれない(無いだろうけどね。我慢して結婚するくらいなら一生独身がいい女が30%は居るだろうから、そいつらは絶対妥協しないから)
とにかく、今の中途半端にヌルイリアルは生き辛い。生殺しって言うかな。政府も扱いに困ってるし。処分も難しい。なんだろ、粗大ゴミなんだな。
で、現状の世界を変えるには、ブサメンから女に流れる金を減らすことが大切になる。
キャバクラや風俗はいいと思うんだよ。だってさ、そういう女に流れたかねは一瞬でホストとかバンドマンに流れるから、女の手元に残らない。
しかし、結婚や貢君がヤバイ。これは数千万単位の受け渡しになるから。だからこそ、ブサメン男に勘違いさせないために、女の悪いところを書きまくって、ブサメンは護身しろよ!と言う。
ブサメンができるだけ時間と金を女に注がずに、女と絡まなくても人生よりよく生きられるようにどうしたらいいかと考えている。
・ブサメンが二次元やAVや風俗でリアルよりも充実した世界を堪能して朽ちる
・女が若い美空をイケメンやヤリチンの追っかけに使って中古となり、中古ババアというブサメンから嫌悪される対象になる
・イケメンやヤリチンを持ち上げることで、こいつらに若い時間を使った女の馬鹿さを叩くことで、女に男性嫌悪を植え付けて理想を高くさせ益々ブサメンから遠ざける
まっすぐにいこう。 全15巻セット (集英社文庫―コミック版) きら
☆コミュニケイションのレッスン 鴻上 尚史
クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫) 若桑 みどり
日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち (新潮選書) 板谷 敏彦
山本五十六 (下) (新潮文庫 (あ-3-4)) 阿川 弘之
心の力の魔術―驚くほどの富と幸福が得られる成功法則 ダビッド・J. シュワルツ
食卓からの経済学―ニュービジネスのヒントは「食欲」にあり (ノン・ブック―先見サラリーマン・シリーズ) 日下 公人
もろい青少年の心―自己愛の障害 発達臨床心理学的考察 (シリーズ 荒れる青少年の心) 上地 雄一郎
「死にたい」気持ちをほぐしてくれるシネマセラピー上映中―精神科医がおススメ 自殺予防のための10本の映画 高橋祥友
モテないのではない モテたくないのだ! ! (アクションコミックス) カラスヤ サトシ
もっと! Vol.4 2013年11月号 (増刊Eleganceイブ) 水沢悦子
ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉 アドルフ・ヒトラー
しろうと理論―日常性の社会心理学 アドリアン・フランク ファーンハム
グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA) 飛 浩隆
☆ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ペーター ガイス
ドイツの歴史【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ヴォルフガング イェーガー
ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 村澤 和多里
☆言葉にして伝える技術――ソムリエの表現力(祥伝社新書214) 田崎真也
滅びの風 (ハヤカワ文庫JA) 栗本 薫
大日本サムライガール (星海社FICTIONS) 至道 流星
☆少女マンガの表現機構―ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」 岩下 朋世
マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫) イタロ・カルヴィーノ
スティーブ・ジョブズ(1) (KCデラックス Kiss) ヤマザキ マリ
カリガリからヒットラーまで (1971年) ジークフリート・クラカウアー
物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫) 大塚 英志
ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書) 荻上 チキ
アメリカの中学教科書で英語を学ぶ―ジュニア・ハイのテキストから英語が見えてくる (CD book) 林 功
☆☆「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか 鈴木 涼美
ぬばたま (新潮文庫) あさの あつこ
果てしなき渇き 深町 秋生
公平な目から整理。
(1)はすみ氏は元々安倍ファンを公言していた(ファングループも主催)
(2)しばき隊は反安倍(ぱよちんこと久保田、のっちこと石野はその急先鋒)
(3)∴しばき隊 →右翼≒レイシストと決めつけて敵視→ はすみ という対立構造の根はここにあった
(4)シリアの難民問題が世界的な話題に! → 日本でも連日報道され、メディアに乗り易い雰囲気
~~~~~~~~~~~~~~~~~ こ こ ま で 前 段 ~~~~~~~~~~~~
(5)9月頭、はすみ氏が「偽装難民で欧州が迷惑しているニュース」をみて「そうだ、難民しよう!」という偽装難民揶揄の
イラストをフェイスブックのコミュニティ上に掲載→元々のファン達が「いいね」を押したり、あるいはシェアをしてフェイス
ブック上に拡散
(6)約1ヶ月後、(たまたま?)はすみ氏の「偽装難民揶揄」イラストが政権批判の旗手・「SEALDsの奥田氏」の目に留まる。
(7)奥田氏、「ありえないっしょ!」と仲間・シンパ・信者に攻撃を指示
(8)「はすみとしこの世界」に対して、↑のイヤガラセ行為が開始される。当初は元々のコミュニティユーザーとの言い合い程度
だったが、調子に乗った久保田・石野を中心とした連中、仕事上の人脈等を駆使して、世界中に「ジャップがシリア難民を差別
している!」(←この時点ですり替えが行われた事に注目)と通報、その中で、久保田に近しいと思われる「Japan Times(ここも
アヤシイw)」が「公式報道」。それを皮切りに、外電が続々報道をしはじめ、それを引用する形で国内メディアも「難民少女を揶揄
したイラスト(まさに伝言ゲーム状態)が物議を醸す」式の報道を開始。
(9)気をよくした久保田・石野ら、「外国からも叱られたぞwww?みろ、ここでもあそこでも!」とはすみ氏のページへ貼りつけを
しまくって「攻勢」を強める
(10)ソレを全く意に介さないどころか、創作意欲高まったはすみ氏、不良在日問題、攻撃の発端となったSEALDs等を揶揄したと
(11)久保田ら激昂!「反省しないどころか挑発を続けるはすみを「どんな手段を使ってでも」絶対ぶっ潰す!!」と決意
(12)この間、はすみ氏は「偽装難民のイラスト」の参考にした難民少女写真の写真家と直接コンタクトを取り「あくまで偽装難民批判
であること」「迷惑がかかるので、取り下げます」と「和解」。イラストはフェイスブックページから消される
(13)問題解決、と思われたものの、(11)の件もあり「発狂」おさまらない久保田らは、はすみ氏のページそのものをフェイスブックから
消し去ろうと、Change.orgなどで「反レイシズム」をお題目としたはすみ叩きキャンペーン等を始めるも、イマイチ効果が現われず
(14)難民イラスト削除後もしつこくページに粘着し、同じ写真をひたすら貼り続けてページを荒らし続けた久保田に、コミュニティメンバーが
「いい加減ウザイ」とはすみ氏に苦情を入れる。はすみ氏は「誰でも自由に来てね^^」のスタンスだったが、苦情が入ったので
スタンプ王子(その時の彼のあだ名)こと久保田を「泣く泣く」アク禁とする
(15)久保田が消えた後、アンチである久保田の仲間筆頭の石野らが頑張るも、はすみ氏は全く馬耳東風、また、リベラルサヨクの習い性から、
ファンの「正論」に対して全く論負けしており、アンチの攻撃に効果が現われず
(16)アンチ「そうだ!はすみが頑張るのはファンがウザイからだ!!ファンを攻撃して嫌がらせしてやって過疎らせれば、はすみは
消えるはず!!」と次の一手を考え付く→久保田「ドイヒーなリストを作成中^^」と脅し、実際に作成、仲間の石野らと公開(11/1)、
それを使って「一般人のファン」(約400人)にウヨ・レイシストとレッテルを貼って恫喝を開始する
(17)それから数日
久保田のツイッターは「安倍●ね」的なツイートが並んでおり、はすみ氏のページでも「安倍の支持者がこんなレイシストでいいんですか?安倍首相w」
「レイシストが支持する安倍もきっとロクなもんじゃないww」「レイシストが支持する安倍を支持している奴もレイシストだww」という、得意の魔女狩り
理論満載の詭弁で政権叩きに繋げていたのをみると、当初目的は「レイシズム云々」ではなく、安倍政権にダメージを与える為の草の根戦術の一つだった、
と解釈できる。
のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間は馬鹿なんだ、馬鹿だから場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値でしかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観。価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日は喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期から育まれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるから俺なのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりとぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりごぼんやりとぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求、承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功、社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ。非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたものが必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率に必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊そのものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象を説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ。本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法は唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべきなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的なもので、一元的なものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的なものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代のメソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間の実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会、人間社会や事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものでしかなく、一次元的なものを一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮、一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間の構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり、一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間の構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さらに一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会に最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである。一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖は一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知の限界をたくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖でしか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知、しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知でしか我々が認知できる一次元的なものでしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄、進歩性を持つべきフェーズに我々あは、ネクストフェーズに差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日の宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在を認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的な事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りでしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなのである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、もの、もの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争の歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在、流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代、人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象、こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代の宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点、認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい。認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命が必要なのだ。現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間の一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものである、それからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的、人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会に蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学や産業、技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールでしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会に最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから、進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間のコミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会の病理のひとうつで一つである、一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面、人間という存在が認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識、認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念の偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきものを放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているものの本質は、破滅、破壊、終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象でしかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在、超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争、人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45
少年漫画か青年漫画中心に、面白いマンガ大人買いしたいから候補を挙げてほしい。
ぐらんぶる
ヴィンランドサガ(後半)
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【追記 & まとめ】
みなさんありがとう。全部買ったらいくらだコレ。
<kindleよりこれ使え>
eBookJapan
<この作者の全部読め>
うすね正俊
3月のライオン、BANANA FISH、BLAME!、BLUE GIANT、COPPERS、Dimension W、GIANT KILLING、Helck、HELLSING、HUNTER×HUNTER、MONSTER、SLAM DUNK、trash.、アイアムアヒーロー、アイアンナイト、アイシールド21、アカギ、アドルフに告ぐ、アバラ、イティハーサ、イムリ、インベスターZ、海皇紀、ウルトラヘブン、えの素、エマ、エリア51、エリア88、おおきく振りかぶって、かくかくしかじか、風の谷のナウシカ、ガンツ、ギャングース、きりひと讃歌、キン肉マン、クッキングパパ、ゴールデンカムイ、こち亀、ゴルゴ13、ザ・ワールド・イズ・マイン、さらい屋五葉、シグルイ、シグルイ、シドニアの騎士、シュトヘル、スピリットサークル、それでも町は廻っている、だがしかし、ダンジョン飯、ちおちゃんの通学路、ちはやふる、デスノート、テラフォーマーズ、ドラえもん、ドラゴンボール、ドリフターズ、ニンジャスレイヤー、ノラガミ、のんのんびより、バイオーグ・トリニティ、バイオメガ、ハイキュー、ハイスコアガール、バガボンド、はじめの一歩、バリバリ伝説、ハルロック、ハンターハンター、バンビーノ、パンプキンシザーズ、ピースメーカー、ヒストリエ、ヒナまつり、ピンポン、ブッダ、ブラックジャック、フリージア、ベイビーステップ、へうげもの、ベルセルク、ホーリーランド、ぼくらの、ボクラノキセキ、ポケットモンスターSPECIAL、マップス、マップス・ネクストシート、まりかセヴン、まんが極道、みなみけ、ミナミの帝王、モブサイコ100、ゆゆ式、リクドウ、レ・ミゼラブル、レッド、レベルE、ワールドトリガー、亜人、暗殺教室、宇宙兄弟、宇宙大帝ギンガサンダーの冒険、嘘喰い、横山光輝史記、王様の仕立て屋、乙嫁語り、俺物語、夏のあらし、火ノ丸相撲、火の鳥、覚悟のススメ、岳、楽屋裏、監獄学園、寄生獣、暁星記、極黒のブリュンヒルデ、銀の匙、銀英伝、軍靴のバルツァー、血塊戦線、喧嘩稼業、喧嘩商売、皇国の守護者、鋼の錬金術師、刻刻、国民クイズ、今日のあすかショー、殺し屋1、山賊ダイアリー、紫色のクオリア、七つの大罪、実は私は、宗像教授異考録、獣の奏者、祝福王、少年の国、食戟のソーマ、新世紀エヴァンゲリオン、深く美しきアジア、神戸在住、進撃の巨人、壬生義士伝、静かなるドン、石の花、蒼天航路、代紋take2、大使閣下の料理人、大日本天狗党絵詞、地獄恋、中間管理職刑事、鉄風、天、天空侵犯、度胸星、土竜の唄、東京グール、湯神くんには友達がいない、特攻の島、美味しんぼ、描かないマンガ家、風雲児たち、僕のヒーローアカデミア、墨攻、無限の住人、無邪気の楽園(?)、名無しはいったい誰でしょう、幽麗塔、惑星のさみだれ、聲の形、蟲師
たとえば北斎も肉筆だと
http://fast-uploader.com/file/6995210605446/
こういう写真かよ!っていう絵を描いているんだ。
なんで生首?
うーん、ほら、生首の絵の扇子で扇いだら涼しくなりそうじゃん(笑
単体ならっていうのは、透視遠近法みたいな絵がないっていうことかな?
有名な冨嶽三十六景は70代の作品だが、30代で既にたとえばこんなやつがある。
http://fast-uploader.com/file/6995210740539/
カンペキだね。
これと似たような構図を年代順にならべてやる。
http://fast-uploader.com/file/6995211010479/
70代
http://fast-uploader.com/file/6995211188891/
これ、よくみると、消失点が1点にならない。
左右の橋の梁の平行線を伸ばしてぶつかる消失点は水平線の彼方、両脇の屋敷の屋根の平行線を伸ばしてぶつかる水平線は橋の下かその少し奥。
これが、忠実な一点透視だったらつまらない作品だったとおもわん?
絵の中に動きがあるのは、ちょっと崩れてきてるおかげ。
80代
http://fast-uploader.com/file/6995211441686/
ぱっとみ同じ構図の一点透視のようで、二点透視にも見え始め、仰ぎ見てるようにも見えたり見下ろしてるようにも見え、ってことは三点透視かとおもいきや、そもそも透視図法(平行線がいつか交わる)じゃなくて投影図法(平行線はどこまでも平行)なんじゃないかと見える。
一番手前の人物にフォーカスを合わせるとそういう絵になり、その奥の人物にフォーカスを合わせても絵としてなりたち、人物を辿ってるうちに奥に奥にと視線が誘導され、そのたどる先には富士山。
多重視点というのは、「ピカソの絵は右から見た絵と正面から見た絵が合成されていて」みたいな説明をされるあれ。
ピカソの作品はそれだけじゃなくて、いろんな意味で工夫させすぎてて、話が脱線してしまうので、わかりやすくキリコ
http://www.geocities.jp/syu_58jp/we2/1.JPG
この絵のようなやつ。
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/251.JPG
線遠近法的に忠実に描くと、
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/252_4.JPG
こうなる。
人物やモノ画中にたくさん配置して、奥のモノ、人物は小さく、手前の物を大きく描くことで絵の中の遠近を表現するっていうのは、基本ではあるが、
それをやめて、横一列に均等に配置することで、絵にリズムが生まれる
これについても、似たようなことを既にやってる北斎
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-94-64/otyaken_suki69/folder/1050996/44/47018044/img_8?1382279701
なんというリズム感。
これ、どこがおかしいかわかる?
シャチホコってさ、近くで見ると当然巨大じゃん。そうしたら、本当は
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg
波をシャチホコに置き換えたら富士山はこのくらい小さくないと絵としておかしい。
この構図になるのは、望遠レンズでズームで覗いてるという設定の絵だっていうこと。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201011/22/10/b0111910_1061561.jpg
http://tenkijuku.com/qa/kisyoudai/hugoku.jpg
当然もう残っていないけど、百二十畳の巨大な紙に、高いところからみないとなんだかさっぱりわからん巨大な絵とか描いたっていうんだ。
そういう高いところからみないとなにを描いているんだか本人もわからない絵というものは、「この座標でこの角度で線を曲げて」っていう座標の概念がないとどうやっても描けないわけで。
北斎というと、80過ぎてるのに110歳くらいまでの人生設計(当然自分の画力について)を立てる貪欲さで、当時の平均寿命の倍くらい生きてるのに死ぬ間際に「まだまだ描きたりねぇ(意訳)」といって死んだというエピソードが有名なので、描いて描いて描きまくったというイメージが強い。
しかし、その実際は、それプラス、数学も物理も幾何学も絵に応用して、古今東西、みたこともないものだろうと文献調査だけで描き(中国くらいならまあ、古代インドとかどうやって描くんだよ!!見たことないはずの象を右からも左からも正面からも後ろからもかけるとか、どうかしてる。)、漫画の効果線やトーンのかなりを発明し、その後の絵画の歴史で発明された技法をその100年前に実験しつくし、鎖国の時代なのに西洋の銅版画や油絵の解説書をつくり、中国画の技法も日本画の技法も操り、いうなれば、異星人。
まあつまり、線遠近法は北斎より少し前の時代に入ってきたんだが、カンペキに理解をしたのが北斎。
自在に使いこなし、それを捨て去り、違う境地、もう前衛芸術の実験のようなレベルに高めたのが北斎。
その後は幕末、文明開化で西洋画が入ってきて、もう一回遠近法ブームが起きて、
みたいなムーブメント。
油絵が始まり、浮世絵(版画)の絵師たちもそれに近い木版画を作った。
初めてやったのは小林清親って人で、水彩画風の版画、ついには油絵風の版画まで辿り着くが、結局彼の画風はいわゆる浮世絵的な絵に戻る。
写実的(性格な遠近法、陰影表現)ってのは、いちどはそれに熱中する麻疹みたいなもの。
その後の時代だと、吉田博、川瀬巴水とかが水彩画のような木版画で有名だが、小林清親は浮世絵の構図、モチーフを水彩画の手法、油絵の手法で再構築した感じなのに対して、吉田博、川瀬巴水は洋画を木版画にしましたって感じだから、浮世絵や日本画の子孫じゃあないと思う。
吉田博
みんな目の前のリスクが一番に気になるのは当たり前だ!!!!!!!
例えばだぞ!!少し前に騒がれた埼玉県警の痴漢抑制シール!!あれについて「冤罪が恐い」と書く!!すると「そもそもの痴漢の発生件数の方が多いのにそっちを無視して冤罪ガー」とか言う奴がいる!!!!!!!
うぜえええええええええええええええええええええ!!!!
痴漢の話をしたいんじゃない!!こういうやりとりだ!!!!!いいか!!みんな目の前のリスクが一番気になるんだ!!当たり前だろ!!!!
女は痴漢が恐い!!男は冤罪が恐い!!当たり前だろ!!女は男が感じる冤罪の恐怖は感じにくい!!男は女が感じる痴漢の恐怖は感じにくい!!これが当たり前!!!
いつから俺達は全知全能の神にならなくちゃいけなくなったの!?!? いつから自分とは違う世界中全ての人のリスクまで想定して生きなきゃならなくなったの!?!?!?
痴漢の例を引きずって悪いけど!!!こういうこと言うと「ホモもいるから男にも痴漢の恐怖は~」とか言う奴!!!
いいか!?!?!? 男と!女と!ホモの割合を言ってみろ!言ってみろ!
別に軽視するわけじゃない!!!!ホモはホモでいい!!!ホモも普通のこと!!! でも純粋に割合が違う!!!こんな数的事実まで叫びづらい時代!!!!!!!
この場合ホモまで議題に上げて話すのか!?!?!?ええ!?!?お前はただ相手が言及しなかった穴を突きたいだけだろ!!!!!!!!!!!
この場合、ホモはネクストステージの段階だろ!!!!!!!!!!!!!!!
みんな目の前のリスクが一番気になるし、まずはそれしか考えられないのが普通なんだ!!!!!!!
何かで炎上するたびに「〇〇な人の事を考えてないよね」とか軽々しく言うな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!考えろ!!!!!!!!!!1
決して数的弱者のことを蔑ろにしてるわけでもない!!!ここまで読んでそう思うならお前はもうだめだ!!!!!!!!!!!
全ての事象において全人類のリスクを考慮した上で発言して!!!そんな!!ネットで!!いいのか!!いいのか!?!?!?!?!
おれはいやだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「言及していない」は「それについて考えていない」とイコールじゃない!!!!!!!!!!!
「痴漢冤罪怖いなー」「待って、それ痴漢被害の女性のこと考えてないでしょ」
じゃねーよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ばかか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
男が!!!!!!!!痴漢被害を受ける女性のことを!!!!!!!!!!!!!!同じレベルで!!!!!!!!!考えられるわけがないだろ!!!!!!!!!!
お前は親に隠れてオナニーをする男子中学生の悩みが分かるのか!?!?!?!?!?!?!?????????? 分からないだろ!!!!!!1
みんなわからないんだ!!!!!!!!!!!分かるのは目の前のことだけだ!!!!!!!!!!
いいか!?!?!?!? 相手のことを考えるなと言ってるわけじゃない!!!!!!!!!! ここまできてそんな揚げ足をとるようならお前はもうだめだ!!!!
俺達は全知全能の神じゃないんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
妻は au ユーザで10年以上使っており、メールアドレスも変えられないので機種変更して使い続けている。
iPhone5 を利用してちょうど2年経過したため、普通に機種変更して iPhone 6 にしようと au ショップ ネクスト京成船橋 にふらっと立ち寄った。
http://cs-ez2.au.kddi.com/auShopOut/Controller?COM_TO=ShopInfo.jsp&SHOP_ID=E-00943-002
機種変更なのでいわゆる「MNP 一括 0円」とかのサービス目的ではなく、普通に機種変更を希望。
お店に入り、希望する iPhone6 の色と容量を伝えて待つ。
順番が来たので、窓口に行って順に話を聞く。
旧プランで電話をほとんど使っていないので、プランはそのままですね、的な流れで進み、普通に終わるところで、
「auスマートバリューに加入するということで」とオプションを付ける方向で話を進める店員。
「いや、それは必要ないんですけど」と私がいうと窓口の仕切り裏に見えないように貼っていたお願い事項を取り出し見せてくる。
店員「ここに書いてあるようにAppleCare とauスマートバリューの契約を"お願い"しております」
私「(すげー、紙に隠れて見えていないのに思いつつ)いや、それはお願いですから受けられませんよ。外してください」
私「えっ?そんなこと au 公式にも書いていないし、ここは au ショップでしょ?そのお願いには受けられませんよ」
店員「他店ショップのことは知りません。私達はオプション契約をつけることをお願いしております」
店員「他店ショップのことは知りません。私達はオプション契約をつけることをお願いしております」
(あとはループ)
いや、わかっていますよ?オプションつけることでお店にインセンティブが入ることなんて。
契約の95%とかしらないけど、そのくらいの割合でオプションをつけていないとダメなことも。
でも特別な値引きがあるわけでもないのに、なんでこういう態度になるのでしょうかね。
それにauスマートバリューは最初の月が無料なのも知っていますよ。
妻も後で言ってましたが、あまり争い事が好きではないから、気持よく騙されたかったんです。
「すみません、最初の月が無料でお金かからないので、このオプションに入ってもらえませんか?」と相談してくれれば入っていたんですよ。
それなのに「(見えないけど)ここに書いてある。これはお願いだ」と高圧的に来られるとそれはいくら温厚な妻でも無理ですよ。。
結局、拉致があかないのでこちらが諦めました。近くのビックカメラで契約。こちらは何もなかったです。
待ち時間に顛末をビックカメラの店員さんに話すと、「同じ au なのにすみません」となぜか平謝り。
auショップの店員さんは接客時に後ろに新人らしき人をつけていたけど、、この接客がお手本なんでしょうね。
確かに面倒な客だし、どうせ au に言ったところで叱られないし的なね。
というわけで au サポートに言ってもどうせスルーされるし、消費者センターは昼間しか電話が繋がらないから、増田に書いて気晴らしました。
2月8日に西武ドームで行われたリアル車将棋のニコ生タイムシフトを見終えた。言わずと知れた羽生善治四冠と新進気鋭の豊島将之七段が対局したのだが、まず場所が野球場であること、対局者はそれぞれ4時間の持ち時間を持つが、普段の対局とは異なり時間切れの場合秒読み勝負とはならずその時点で負けとなること、また直接対面せずに一塁側、三塁側に設営されたテントの中で考慮し、マイクで指し手の宣言を行い、そしてそれを合図にドライバー達がグラウンドへ駆け出し、でかでかと描かれた「将棋盤」上に配置された「駒」である車に乗り込んで目的の場所へと移動することで対局を進めていくという、スケールの大きい、あえて別の言い方をすると非常に馬鹿馬鹿しい企画だ。
個人的には将棋は駒の動かし方と大まかな戦法しか分からず、見る方も有名な棋士はなんとなく知ってはいるものの棋戦を積極的に見ることはあまりない程度の者なので将棋の詳しい内容を語ることは難しいし、車に至っては公共交通機関の発達している都市部での乗用車利用は禁止してしまえばいい、くらいの考えを持ったことがある程度には車の所有欲がない人間である。
そんな自分がこの番組に興味を持ち、最後まで見続けることになったポイントは、なぜこのような企画を立て、実行できたのか?という一点に尽きる。
今回の番組はドワンゴに並んでトヨタの主催という立場で行われた。つまり番組の本質はトヨタの宣伝だ。ドローン空撮を利用した壮大なオープニングから始まり、MCやゲスト、解説の棋士が次々と入れ替わりながら途中休憩時以外ほぼノンコマーシャルで進行していくのは快適だ。ゲストは盤面の動きの多い序盤と終盤に将棋側、長考が多い中盤に車側を多く呼んでいたように思うが、盤面解説の棋士に対しても積極的に車のエピソードについても聞いていくというコンセプトで進められ、番組全体の長さは10時間を超えるものとなった。
駒となる車も、羽生側は往年のトヨタ車、豊島側は世界初の量産型燃料電池車であるMIRAIをはじめとした最新のトヨタ車が選ばれ、豊島側の歩兵、銀将、飛車が成ったときは専用の車種に入れ替わるという演出も用意された。展開の都合上、成銀と龍王の出番はなく閉会式での紹介のみとなったが…。
陳腐な表現だとは思うが、今回の番組はネット番組ならではの特性というか、地上波テレビではできないことを惜しみなく行う「良さ」を見た気がする。今回のような番組は当然ながら地上波では行えるはずもない。例え無尽蔵の予算があったとして、公共性が求められるとされる地上波放送においては10時間もの間、たった1社の宣伝のためだけの番組を生放送し続けることを許す土壌がないからだ。地上波で行うとなるとたとえば1時間とか2時間の枠に圧縮され、視聴者に分かりやすいように編集され、宣伝色も薄められたものが届けられる。それはおそらくクライアントの思惑と必ずしも合致しないものになるだろう。
登場するゲストたちも、次々に「こんな企画誰が考えたんだ?」と口にした。東洋経済の記事によるとドワンゴがトヨタに持ち込み実現した企画とのことだが、トヨタ側の真剣な取り組み具合もその記事から見て取れるように、この番組を通していわゆる「若者の車離れ」をなんとかしたい、というトヨタの思いが強く感じられる番組作りだった。ネット番組にありがちの低予算番組とはせず、社長決裁が必要となる規模で行うほどの企画を通した担当者の努力には敬意を表したい。
そういう意味で番組全体を通して特に印象深かったのは、終盤戦に差し掛かったあたり、レーサーの脇坂寿一氏とトヨタマーケティングジャパンの社員が登場した時間帯だ。脇坂氏がトヨタ社長の豊田章男氏自らレースに出場するというエピソードを紹介したり、チャーリー・チャップリンが「あなたの最高傑作は何か?」と問われたときの言葉を引用した「ネクスト・ワン」を会社のキャッチフレーズにしているといった話、そして企画担当者の話を通して、トップをはじめとした社員達がが商品を好きであることが企業にとって強い力であるということを感じた。
本論とは外れるがピストン西沢氏の言葉も車将棋ならではといったもので興味深い。「羽生陣営の玉将である二代目クラウンはエンジンが冷えてしまうと大変なので、車ファンとしては定期的に動かしてほしい」。玉将はいったん駒組みが終わってしまえば終盤攻められない限り動くことはないし、実際本局でもその願いが叶うことはなかったのだが、終盤羽生玉が攻められた際に、移動中エンストをしてタイムロスを起こしてしまうクラウンを見たときにはある種の痛快さを覚えた。
さて、このように自分としては今回の番組はクライアントであるトヨタの思いが強く反映され、それが功を奏した画期的なものであるように感じられ、それが最後まで見続ける原動力になった。もちろん100点満点の番組だったという訳ではなく、段取りの悪いところや会場のチョイス(他に会場の空きもなかったのだろうが、吹きっ晒しの西武ドームで10時間以上過ごすとか…)などの改善すべき点も見られた。トヨタの思いにマイナス方向の印象を持った視聴者もいるかもしれない。もしこの番組に続編があるとしたらどうなるだろうか?たとえば「○○社vs××社」のような企画となったとき、別の意味を持つことになるだろうか。また、今後もドワンゴがまったく別の業種に対して大規模な番組企画を持ち込み、それが実現した際にどういう番組になっていくかというところについても注目していきたい。
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。