はてなキーワード: ネガティヴとは
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
俺は、いわゆる “表現の自由の戦士” です。皆さん、なんだか盛り上がっていたようですね。「表現の自由の戦士は敵がフェミ以外だと何故やる気をなくすのか」。血を血で洗うバトルが繰り広げられて、最後にブックマークコメントで暴言が投げ込まれて、皆んなの溜飲が下がって、終わった、らしい。
すべては昨日の出来事だ。俺は仕事が忙しくて見てなかった。戦災の跡を発見したのは、つい今しがたのことである。はてな匿名ダイアリーは今ではすっかり静けさを取り戻している。俺は改めて、ブコメに目を通した。——…「表現の自由の戦士はフェミが勝手に呼んでるだけ」「表現の自由を守ってなどいない」「自称してるやつはほぼいない」
え?
俺ら、擁護されてる? これ
俺は、表現の自由を守るべく表現の自由の戦士を名乗って活動してるんだが。確かに、「表現の自由の戦士」は呼ばれ始めた発端こそネガティヴな意味があったけど、オタクや腐女子と同じように、今では自称する人も多い。個人的には「表現の自由の戦士」には字面の格好良さを感じていて気に入ってる。俺の活動に不甲斐ない部分があるのは自覚してるし、たまに矛盾を感じたりもするのだが。しかし、自分では表現の自由を守ってるつもりなのだが。一部フェミニストの表現の自由破壊活動から、豊かな文化的資源とその伸び代を保護しているつもり、なのだが? そもそも…
これ、アンサーは反論になってないよね??? 第三者が味方のふりして敵側の考えに賛同してるよね??? 純粋に敵が増えるより無関係な一般人に敵側の肩を持たれる方が辛いんですけど???
ないわ
もともとは男性同性愛の要素を含まない作品の男性(的)キャラクターを同性愛的視点で捉えてしまう自らの思考や発想を、
自嘲的(じちょうてき)に「腐っているから」と称したことから生まれたといわれる。
使われ始めた当時はへりくだったニュアンスとして、自身の特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた。
多摩美術大学の溝口彰子は、「マスコミがねつ造したネガティヴなヤオイ愛好家像のステレオタイプに対するレッテルとして、
ヤオイ愛好家たちは抵抗を示していた」が、現在は多くの愛好家が自称として使うようになっていると述べている。
やおい・BLジャンルの作品が好きでも、男性二人を見るとカップリングを妄想してしまうといった「典型的な腐女子」イメージに合致しないため、
自身を腐女子ではないと考える人もいる。腐女子は「私」の存在を消したうえで、「対関係」となる男性キャラクター同士の関係を築くことを重視する。
タイトルの通り。
妻とちょっとした約束(来週〇〇買っとくね、とか、今度〇〇の予約取っとくね、とか)を忘れて、「どうなってる?」と聞かれて慌ててなんとかしたり、時すでに遅しだったりする。子どもの用事を忘れちゃったりする事もある。
こう書くと大したことないのに、約束を守れない=自分の果たすべき役割ができていない、妻目線では「信用できない」となって妻の負担が増える、と頭の中でネガティヴな考えがぐるぐるして、パニックになり何もできなくなる。
わかってんだよ、妻とか他の人からしたら「そんなのどうでもいいから約束忘れないでくれる?」「そんなことでパニックにならないでめんどくさい」「できないなら約束しないでよ」って言いたいんだろ。わかってるよ、わかってるんだよ!
俺はこうやって悲しい哀れな自分に浸ってるだけのクソなんだよ。お前のお気持ちとかどうでもいいからさっさと果たすべきことをやれよって。会社員として、父親として、夫として。
妻も仕事に子育てで大変なのに、夫がメンタルいかれてたらやってられないよな。クソだよ、死んで金だけ残したい。お金使う時間も趣味もないから金だけはあるよ。うわ、隙あらば自虐自慢かよ、死ねよ。
妻のため、子供のため、がんばりたいのに知力も体力も追いつかないから迷惑かけて、その挽回で疲れて、1人でへとへとになってる。
会社で大した仕事してないのに大変そうな人いるじゃん、要は容量悪い人、地頭悪い人。あれなんだよ俺。もっと下かな。逆に迷惑かける人。
1人でへとへとで妻にも嫌な顔されてんだよ。
いや、わかってるよ、お前さ、辛い顔してさ、「大丈夫だよ、私がやるよ」って言って欲しいんだろ、言わせたいんだろ、相手の罪悪感と優しさにつけこんで。クソが!大人だろ!一人前になれ!ちゃんと話し合え!あ?妻が怖い?違うだろ!相手が誰でも自分に意見されるのが怖いだけだろ!「違う」って言われるのが嫌なんだろ!プライドだけ高くて、要領も悪いやつとか、1番無価値なんじゃ!死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!
いや、死ぬな、死なずに、滅私奉公しつづけろ。自分なんかない、働いて働いて働け!趣味も遊びももっての外や!滅私奉公!滅私奉公!滅私奉公!お前は!何も!できない!せめて!金だけは稼げ!誰でもできる仕事やって!金をもってこい!雑用をしろ!相手が喜ぶことを考えろ!失敗するな!ミスするな!滅私奉公!
4年くらい前に仕事のストレスで適応障害になってから薬飲んで、もうダメかもな。
時々こんなふうになるし、冗談みたいだけど本当に辛いんだよ。時々でもこうなる人とか、信頼も信用もできないじゃん。
ネット上の論争では理屈を弄ることを優先してしまいがちですが、理屈はあくまで理屈であって、人間はその言葉をありのまま放ったり受け取ったりする事は不可能です。
意識や感情というものは言語だけでなく個々人の経験や記憶からも想起されるものであって、一つの理屈や言葉を読解して思い浮かべる情景は人それぞれ違い、その時点で快と不快に別れてしまいます。
そしてその快や不快というものはロジックではなく、身体的な反応なのです。
それらを内面でどう処理するにせよ、この反応から逃れられる人はいません。
快を覚えた人はそれをより深めるために、不快を覚えた人はそれをなんとか回避しようと動きます。
私たちはそうした構造を通してしか現実を観測できません。その上で対話が成り立つ場というのは稀です。
どちらが論理的に正しいか、どちらが社会的な正義なのか、という観点は、政治や法律の領分です。
個々人という視点から社会を見るなら、それらはあくまでも「社会的に生活する上で必要な要素」ではあっても、「内面的に従わなければならない要素」ではありません。
人はしばしば自らと相反する言動を「自分が否定されている」と認識します。
ですが実際にはどの理屈や言葉を用いても互いに想定している相手や構造は異なりますし、理屈の上で勝とうが負けようがそれは政治的な綱引きの結果でしかありません。
私たちはネットを観測すれば避けがたく束縛されますが、それは必ずしも向き合うべきものではなく、その力に実効性はないと仮定しなければ生活できませんし、実生活においては無意識にそうしています。
身体的なストレス反応は現実として存在し、なんとかそれを発散しようとするのが人間だからです。
ネットに限らず、私たちは日常的にそうした反応を発信しています。
職場でつらいことがあれば美味しいものを食べたり、好きな趣味に浸って補おうとしているはずです。
それ自体は人としてなんら恥ずべきものではありませんし、他人のそうした現場を見たからといってネガティヴに捉える必要はありません。
つらかったんだな、苦しいんだな、と把握していればよいのです。
ネット上の論争に熱中する人は「もっと社会を良くしよう」「よりよい理屈を生み出そう」という熱意に燃えていますが、それは家族でも親友でもない赤の他人を介護するようなものです。
他人の生活を良くすることは自分の役割ではないことをまず自覚し、自分の快不快と真摯に向き合って精神的な安定を優先しましょう。
https://anond.hatelabo.jp/20221006071821
なんか「世界が2chみたいになった」という増田が上がっていたので言及するんだが、まず大前提として、そういうことを日常的に感じているならそれはかなり歪んだ世界観なので危機意識を持った方がいいです。
多くの家庭や職場は昨日から明日へと変わらない日常が続いているし、そこに大した不和はありません。
いくら世の中が弱肉強食と言っても、野生動物が普段は昼寝をしているように、人間社会だって生活の殆どをのほほんと暮らしています。
そんなこと当たり前じゃん、と思うかもしれないけれど、ネット上の言論に浸っている人はわりとその辺の認知が誤っています。
世界は常に争いに満ちており、それらの言論の根底にはその人たちの怒りや憎しみが渦巻いていると考えています。
でも実際には(少なくとも日本においては)犯罪は減っているし、治安は悪くありません。
物価が上がって生活が苦しくなったと言っても飢える人が出るような社会ではなく、また、コロナで自殺者がある程度増えてもそれは一時的なもので、長い目で見ればまた減っていくと思われます。
モラルだって昭和の頃からずっとずっと良くなって生きやすくなっている筈です。
メディアという媒体の性質上、そこで取り上げられる話題はネガティヴなものが多いですが、それらは実態社会を体現しているわけではありません。
その上、ネットにおける発言者は日常生活の様々な鬱憤をその話題に乗せて発信するわけですから、そこで起きている論争はある種の天災のようなもので、ロジックによって自らの内面と結び付けるべきものではありません。
少し前から唱えられるようになった「社会問題を自分事として考える」なんて風潮は大衆を政治に巻き込むための口実です。
惑わされないでください。
社会人の大半はそうした論争に関わる暇はありませんし、自分の生活で手一杯です。
間違っているのはネット上の言論の方向性ではなく、そこにフォーカスして世界を観測する自らの認識そのものです。
元増田の懸念は2ch全盛期の頃にワイドショーを見て嘆くことと変わりありません。
そういう世界ばかり見るのはやめて、明るい面を向きましょう。
同じ女子アナでも清楚ではないとか、清楚系だとか
言ってることが人それぞれで違いすぎる
こないだVtuberの女の子が視聴者に「お前は清楚じゃない」とか言われてた
性欲が清楚じゃないとか
条件がブラックリストネガティヴリスト方式の「清楚でない理由」ばかりで、イメージの輪郭が一向に見えてこない
誰々が清楚か否かで意見が割れるのは問題じゃない。物差しの長さは人それぞれだし
私はいままで愚直に、黒髪ロングなら清楚かな、と思ってたんだけど、世間を見ると全く違うらしい
誰か説明してほしいわ
追記・返信欄のコメントを興味深く読んでいます。アニメとかは本当に偏った作品しか摂取してないから、いまいちピンときてない(ヽ´ω`) 列挙してくといつかは当たるかも。。。私も自分でも調査開始します
前提として、第一子を出産した後、第二子は望めないような経済状況。出産後に夫の性欲が残ってしまう問題について。役割を果たしたのだから、加齢と共に萎んでいってもいいはずなのに、何故かそうはならない矛盾がある。
確かに、社会的に上の立場から、部下を動かすのに支配欲が大きい役割を果たすのは知ってる。それが性欲と一体であることも。また、ふたりは家族なのだから、お互いをケアし合わなくちゃならない。そのために相手に注意を向けて関心を保つエネルギーが必要だ。性欲には愛情をドライブする側面がある。
だけど、両方の機能において、男性が統計的に優れているというエビデンスは存在しなかった。
原始的な欲望に従属するだけではない高度に社会的な霊長としては、役目を終えた性衝動を理由に、大事な家族に余計な性的プレッシャーをかけるべきではないはず。
それでも、言葉で注意しても、素直に止めずに執拗に夜を要求してくる場合に対処法はあるのか。
典型的には、女性側が苦しみを訴えても、(そんなん言うならパートナーを性的に無視するよ?)と実質的に同義の脅迫的なことばを投げつけられてしまう許しがたい現実がある。
——しかしもちろん性的ネグレクトのような、ネガティヴな方法は用いる訳にはいかない。忙しくさせたりも同じく論外。かと言って「パイプカットして?」と打診するのは、気が引けるものです。
こんなにバズる予定じゃなかった
この努力の方向性は合ってるし言語化も腑に落ちるけど「[…]付き合うまでセックスはさせない女は、自己中気質だったり[…]」が引っかかる。女への恋愛指南としては「付き合うまで突き合うな」が鉄則だったりするし。
流石に文脈を端折りすぎたので追記。要はホテル行きますか?と打診して部屋までついてきておいて、お互いのために付き合うまでしません!と断る人をさしています。
打診しているときにこちらの性欲ギンギンなのは否定しませんが、嫌なら嫌と断るべきですし、断れずについてきてしまった人のテンションくらいは慮れますよ
増田は服を脱がすタイミングとか、オーラルとか、ノンバーバルのコミュニケーション全て含めてセックスだと思っているので、エロいこと全否定ではなくABCのここまではいいよと互いに歩み寄るコミュニケーションもできるのではないかな?と思うだけです。
特にパートナーとはいえ赤の他人にマイルールを遵守させようとする姿勢は、ことある意思決定のたびに突きつけてきそうだなと予感させるに十分かと思います。
互いにある程度の信頼関係があるうえで、ワンナイトをしてくれる女性は難しい文脈も汲み取ってくれる女の子が多い印象を持っている
ただセックスって互いの素を知るチャンスでもあると思っていて、オーガズムに達することが目的ではないと思います。
尋常じゃないくらい床上手なんだけどこの子昔苦労したのかしら?あるいは彼氏さんのことめちゃくちゃ好きだったのかな、好きな人にこれだけ尽くせるって素敵だなとか。
あるいはおとなしい子かと思ったら結構感情が激しそうなので、不満を溜め込むタイプに見えるから定期的にガス抜きが必要そうだな、とか。
逆に増田も若かりし頃今思えばセックス中の立ち回りを相手に吟味されていたんだなと思う経験があり、なんて大人な恋愛なんだと憧れて真似しています。
ドがつくほどの偏見ですね
これは増田の好みですが、性的な接触に頼らず素を開示しようとする姿勢が見えると大人の女性だなと思いますし、体に頼らずコミュニケーションを取りたくなります。
自分がどう思っているかをそれとなく伝えてくれたり、頑固だよとか、こう言う喧嘩したことあるよとか伝えてくれると信頼を感じます。
増田のようなアスペ人は対人関係に怯えています。あなたと会話をすることは苦じゃありません、嬉しいです。を伝えてくれるだけで救われるちょろい存在です。
言葉の端々にまだ女見下してるフシあってクズいけどもっと酷い輩がネットには多いので進歩として許容する感じで褒める人も出るんだと思う。1年持たずに飽きて捨てるか捨てられた後で今のクズさを自覚するの繰り返し
同様に増田ことアスペは対人関係に怯えているので、今思えば防衛行動として妬みや見下しをすることで心を守っていたのかなと思います。
正直増田も昔はドがつくほどの味噌だったのは否定しませんし、多くの人に指摘されている点は正しいです。クラッシャーしてきた人々への申し訳なさは一生残ります。
ただきちんと自分が好きになれる人ができると、そういう防御衝動は減るもんだと思います。世の苦しんでいる人々はみんなパートナー作ろう。頑張って
決して短くも楽しくもない努力の果てに孤独から脱却することができたので、色々思い出しながら書いていく。
当然のごとく彼女いない歴=ほぼ年齢
地方の貧乏家庭出身で単身上京、金も人脈もない0からのスタート
彼女ができるまでの期間はおおよそ5年
彼女ができるまでに告白した人数多分20くらい、出会った数40くらい
ファッションの改善(服装、髪型、眉)をしてカッコよくなることへの恐怖から脱却すること
恋愛関係抜きで女性と交流する機会を設ける(趣味など)ことで女性の解像度を上げること
マッチングアプリや街コンでいろんな女性と出会うことで意中のタイプを言語化
女に自分の価値を認めさせられれば、どれだけのマイナスがあっても一定の理解はしてくれる。
増田はいわゆる加害性の塊である。とにかく彼女が欲しかったのでひたすらアタックし続けた。
既存のコミュニティを破壊しまくったし、こちらに敵意がなければほぼ全ての知り合いの女に特攻した
自分がモテないのはダサくて出会う試行回数が少ないからだ=ファッションを磨いてアタックしまくればいつかは付き合えると思っていた
増田のようなアスペアタッカーではなかなか上手くいかないのはわかっていたけど、それでも孤独に耐えられるわけではないし、試行回数理論を信じるしかなかった。
でもちょっとくらいは、いつか理解のある彼女ちゃんが現れて救ってくれるんじゃないかと期待していた。
非モテのほとんどが肌で感じていると思うけど、我々男のそばに理解のある彼女ちゃんは絶対100%確実に生えてこない
不細工とか金がないとかトークが面白くないとかそれらしい理由は色々思いつくと思うんだけど、
女は「女性の解像度が低い人間に愛情を持たない」のに対し、男は「ヤレる女に愛情を持つことがある」というのが増田の考え
うざい言い回しをすると女は心でセックスをし、男は体でセックスをする。
女の発達障害持ちは穴モテの果てに男が愛情を持ってくれることはある。男は女体さえあればセックスができるし、好きでもない女にも勃つ。
一方で女は、女をわかってない男を嫌悪の対象としてそもそも近づいてこない。
AV女優の深田えいみも言っているけど、女がセックスをするときには体の快楽よりも目線や献身の気持ちに興奮する。
女性の解像度が低い非モテはセックスができない(=互いに理解し合うコミュニケーションを取れない)と判断され、そもそもパーソナルスペースに入ってこない・
というのが理解のある彼女ちゃんが存在しない仕組みなんじゃないかなと思っている
実際彼女ちゃんとセックスをしていて思うのだが、セックスってただ肉欲をぶつけるだけじゃない
無言の中でお互いに何をしてほしいか探り合う献身のコミュニケーションは確かにある。
そんなにカッコよくもセンス良くもないのに彼女が尽きない男を嫌というほど見てきたけど、そういう連中はとにかく女性のことをよく知っている。
ポジティブな方向だと、女の子にどういうことをすれば喜ぶかを常に考える。自分の性格が刺さるタイプの女の子を絞って口説いている。一言で言うとキザを通す立ち回りでモテてる男。この立ち回りは自己肯定感が低い女の子には良く刺さるけど、容姿の整った女の子相手の場合はある程度自分の容姿も整っていないといけない印象がある。
ネガティヴな方向だと、ドロドロした人間関係を把握してコミュニティの解像度を上げる、それこそ男や女のタイプを即時に把握して会話のネタにできる力。相対的に自分に力があるように見せる(マイナスを見せない)ような立ち回り。いわゆるノンバーバルが強いアルファ気質の男がよくやってる。自分の価値をわかってる若い女の子やモテる女の子はこのタイプの口説きにめっぽう弱い印象がある。一方で陰キャ寄りの子や真面目な子は恐怖して近寄りにくい気がする。
ともあれ、こうした自分の強みを理解して、うまく特攻の効く女性を口説けている男は諸々見た目や金銭で劣っていてもそれなりに理解のある彼女ちゃんを持っている。
だけど自分の素の性格が刺さる層、自分が本気になれる女性のタイプを全く見極めていなかったので、いつも2、3回目のデートで見限られていた。
大事なのは天性の身長とか、顔面偏差値といった部分ではなくて、後天的な努力の部分だと思っている。
カッコよくなろうとする男は得てして自信があるように見える。
ダサい格好から抜け出せないのは、自分がカッコよくなることに自信がないことがほとんどなんじゃないかなと思っている。
以前の増田含め多くの男性が気づいていないことだけど、女性は生きていく上で強制的に可愛くならなくてはならないという社会要請を受ける。
高校生や遅くとも大学生頃には化粧や服装をそれなりにしないと女社会から爪弾きにされる
我々男は髪の毛のセットなんてできなくても社会人になれるが、女性はある程度の化粧ができることが前提の社会に生きている。
これは経験則だけど、だから女性はカッコよくなろうとする男性に共感しやすいのではないかな。
よくいう清潔感なる意味不明ワードは、男性が自分達と同様に垢抜ける努力をしてきているかどうか、その大変さや楽しさを共感できるかどうかをはかる言葉なんじゃないかなと思っている
なので非モテはとにかくカッコよくなろう。
youtuberの紹介する大学生っぽいファッションでいいからとにかくそれっぽい服を着てみて恥ずかしさをなくす。
例えば増田は短足なので最初は黒スキニーが恥ずかしくて履けなかったけど、それに合う大きめのトップを着ることで意外とバランスが良くなることに気づき、恐怖を克服した。
そうするうちに自分って意外とかっこいい服が着れるな?と気づき出して、ちょっとずつ幅を広げていくことができた。
おすすめはwearで自分の体格と同じ人のファッションをマネキン買いすること。大体の服はゾゾかユニクロで買える
自分と同じ体格の人をフォローしてその人を真似し続けるのが一番楽
大事なのはそれっぽいシルエットを作ることで、必ずしもオタクになる必要はない。もちろんブランドを覚え出すと面白くはなるけどね
髪の毛はちょっと高い美容院に行って相談する。増田は全く知識がなかったのでオリジナルのシャンプーを売っているような大手の美容院に行ってかっこいい髪型やセットの仕方をとにかく教えてもらった。
たいていの美容師さんはカッコよくなることを応援してくれるので、インスタでセルフセットの写真を送ればアドバイスしてくれたりする。
増田はとにかく自分のコミュニティさえも破壊しまくってアタックをし続けたけど、自分がどういう女性が好きなのかという一番肝心な部分がなかった
正直女なんてヤれればいいと思ってたし、化粧をした女の顔なんて全部同じだと思っていた。
だから自分でもやれそうな女の子、自分が話しかけても楽しそうにしてくれる女の子にひたすらアタックして玉砕してきた。
増田は極端に女を遠ざけて生きてきたので、もっと軽いところから女性を理解するべくリハビリをした。
もちろんナンパはせずに、純粋にゲームを楽しむことに専念した。
この手のトークゲームはルール上女性もコミュニケーションを積極的に取ってくれる。
また終わった後に感想戦を通して仲良くなりやすいので、とにかく女性の知り合いを増やしてSNSなどでたくさん交流した。
ここで変な気を起こしてナンパをしては下の木阿弥である。この人は増田のことが好きなのかな?とよぎる瞬間があっても絶対に色恋はせずにゲーム友達の距離感を守って修行した
この交流を通しておしゃれそうな女でも男で言うチー牛みたいなメンタルの人がいるとか、発達障害気味でコミュニケーションに難がある人がいることを知った。
女はみんな恋愛経験が豊富で、男よりも高次なコミュニケーションをしていると勝手に思い込んでいたけど、意外と自分の性別を反転させたような女の子もいるんだなと気づいたのであった。
どうしてかアスペアタッカー時代はとんでもないブスでも彼氏が過去10人いたとかいう隠れモテ(姫?)にしか会ったことがなかったので、こんなに可愛いのに彼氏いない人もいるんだと驚いた。
女性が好む日常会話の温度感とかノリを知れたのも大きかった。ちょっと小ボケを挟むとか、馴れ馴れしいくらいのノリのほうが意外と受け入れてくれる(下心が見えてるとキモがられるけど)
それなりにSNSで女性の知り合いができるようになると、日常のコミュニティでも女性の友達ができるようになってきた。
やっぱり女の子と日常会話ができるのは大きい。些細な考え方とか、女性特有の視点に理解を持っているだけで、今までと比べて格段に信用されやすくなった。
ここまでくるのに数年かかった。並行して進めていたマッチングアプリでワンナイトも経験できるようになった。
ワンナイトは狙ってやったと言うよりも、流れで数回やった。この人は帰りたくないのかな?とか、めちゃくちゃ好感度が高い今押さないといけなさそうだと感じた時に誘った。
好んでナンパやワンナイトをしたいとは思わないけど、人生経験としてやっておいて良かった気がする。
互いにある程度の信頼関係があるうえで、ワンナイトをしてくれる女性は難しい文脈も汲み取ってくれる女の子が多い印象を持っている
逆に思わせぶりな態度をとっておきながら付き合うまでセックスはさせない女は、自己中気質だったり互いに譲り合うコミュニケーションが取れないことが多いので避けるようになった。
ただ肉体のセックスができても、長期関係にはなかなか結びつかない。
ここにきて、自分はモテやすい体面を取り繕って素の自分を見せていないことに気づいた。ヤレそうな女にモテる男のよくやる立ち回りを見よう見まねで通すことだけは上手くなっていた。
なので一度自分が本気で好きになれる女性を厳選した。自分のNGをどんどん出してそれに合わない女性にいいねを送らないようにした。
ある程度写真が盛れていて、女性が好む文面やコミュニケーションが取れそうな雰囲気を出せていれば、いいねは返してくれるようになっていた。この時点で自分がほんの少しモテるようになったことを自覚した。
同時に電話を重視し始めた。相手からは自分の素に減点要素がないか、自分視点では話した時の雰囲気とか、相手の気遣いが感じられるかどうか、価値観が賛同できるかを見るようにした。
結局女の子は自分が好意を持っている男性から好意を持たれることに弱い。自分のレベルを上げてきたので、あとは自分が本気になれる子にアタックするだけだった。
電話はいい。お金がかからないというメリットももちろんあるんだけど、遅くても遠くてもコミュニケーションが取れるのが大きい。
正直電話だけでいいとさえ思っている。何度も電話して、最後に告白をする手前で1、2回会うだけでいい。しっかりと信頼関係を構築できていればプロフに書かれた数字なんてそれほど重要じゃなくなってくる。逆に女の子の外見にしても、最初から好みじゃない女の子にはいいねを送らないので可愛さが担保されている。
それに気づいた時、やっぱり男は見た目じゃなくて人間性の高さとか、女性の解像度の高さの方が重要なんだなと思った。
電話で互いに知った仲になった後は驚くくらいスムーズだった。1回目のデートはとりあえず飲んで、後日デートをして、素の自分を隠さずともケラケラ笑い合って。いつまでもこの子を幸せにしたいという気持ちが強くなった。
そうこうあって彼女ができた。
恋愛って運命的に落ちるものではなくて、互いの価値観を擦り合わせていく作業だと気づいた。
結論は最初に書くスタイルで。自民党総裁の岸田文雄の「議席力」というものを仮定した時にそれがプラス1される。それ以上でもそれ以下でもないと思う。
仮定として、各国会議員には基本能力として「議席力」が等しく1で割り当てられていると考える。また、その他の特殊能力や挙動が個人ごとに細かく設定されていると考える。例えば、「地元の建設業の景気が良くなる」「保育園の建設が進む」「ワクチン関連法案は欠席する」「任期中に不祥事で辞職する可能性がある」とかである。タレント議員が当選した場合には、議員自身の「議席力」が岸田文雄にそのまま付与されることになると考えることにする。
岸田文雄には、岸田個人の議席力に加えて諸々の特殊能力がある。タレント候補が当選しても、岸田のそれらの特殊能力には影響しない。例えば、総理として、どの国際会議に出席するかとか、誰と会食するのかとか、そういったことにはそれなりの意味があると思うが、例えば生稲氏が当選した場合に岸田が余分に会議に参加できるとかメシの回数が増えるとかではない。
ただ、岸田氏、さらにいえば自民党が行使しうる総数としての議席力がプラス1されるということである。
国会議員トータルで千以下、自民党トータルでも数百でしかない有限のリソースである「議席力」が岸田氏に余分に1割り当てられるということはそれなりに影響がある。国会における決定がやや微妙な状況では、党内の揺さぶりも含めて、ラストの数議席がキャスティングボートとしての意味を持ったりする。そういう微妙な状況でも、岸田個人に付与された追加の議席力1は基本的に揺るがない。国会や委員会やあるいは総裁選などでの微妙な票読が必要とされるシチュエーションでは、一年生議員の数は安定したものとして数えるのが通例であるのが類似した事例かもしれない。
これは、きれいな言葉で言うならば、岸田文雄や自民党に対して安定感と推進力を与えるということである。ネガティヴな言葉で言うなら、少々の悪事ではびくともしないような防御力を与えると言うことにつながる。
選挙区で、候補者の名前を見て投票するという仕組みのそもそもの意味は、政党だけでは決まらない候補者の特殊能力(つまりは個性)を加味して投票先を決めるということである。それは、有権者に与えられた権利でもあり、また楽しみでもあると思う。タレントが立候補した選挙区では、ポスターにタレントの名前と写真が掲載されていても、そのタレント本人に付随する何かに投票していることにはならない。今書いていて気づいたが、「特殊能力が無い」は漢字で書いた時には「無能」である。仮に岸田に議席力を与えるという選択をした場合であっても、無能な人間に投票しなければいけない虚しさというのはある。
議員個人に特殊能力やら個性を求めなくてもいいという見方もある。政党政治を行う上で、それぞれの党派の議席数がいくつかということのみが重要だという考えで、確かにそのような考え方でもいいのかもしれない。また、議員の特殊能力や個性にはネガティヴなものもあるのだから、変にそういうものを纏っていないという意味での後ろ向きな優位性もあるのかもしれない。
言い訳がましくなるが、ここまでの話とは反する事例は上げようと思えばいくつも上げることができる。例えば、三原じゅん子は、全体主義カラーと子宮頸がんワクチン推進、という個性を纏っている。谷亮子は議員活動の末期で小沢一郎に造反するような動きをしたりしていた。扇千影あたりも元はタレント議員だったと思うが、保守党の党首をやったりしてる(どんな能力なのか知らないが)。とはいえ、立候補する段階で、なんらの主義主張も見せていないタレント候補に、そのような変化が今後生じると期待するのは難しいと思う。
今回のアレン様の件について
私はアレン様を去年の一月頃から認知し、面白い人だと思ってずっと拝見していた。ネット上の交流が得意ではないので、クリマン語(アレン様のファンが使う言葉)を用いたファンアカウントは持っていなかったものの、YouTubeやTwitterなどでアレン様を楽しく拝見していた。そんな立場にいる私が、私なりに、今回アレン様が炎上した件についての”考察”をまとめる。
今まで、アレン様の少々モラルに欠けるめちゃくちゃな言動や、独特な記号を用いた文章等は、強烈なキャラクターが、面白おかしく言うことで、エンタメになっていた。
ファンとアレン様が直接的な関わりを通じていても面白が成り立っていたのは、ファンがアレン様を傷つける事など、無かったから。
実際、アレン様は、ファンと写真を撮ったり、フォロー返したり、いいねを返したり、リプライを送ったり…とてもファンサービスが充実していた。それはファン達がアレン様に対し、肯定的な事しか言っていなかったから。
私自身FCに入っていないので実態はわからないが、金銭が発生している分、ファンの信用を損なうようなコンテンツになってはいけない。
金銭を払っているファンは、それらに対して「意見」を言う権利はある。
今回ファンが、FCについて意見したことで、アレン様はそれらを悪口や批判と捉えた。そしてネガティヴ発言と言い放ち、フォロー解除するなどしてファンを切り離し※、アレン様を過剰に上げるような発言※ばかりRTするからファンが引いてしまった。
※ここでアレン様自身、私も人間だしマイナスな意見を見たら士気が下がる。そもそもファンをフォロバする芸能人なんていないからね?等弁解しているが、意見に対しネガティヴや批判と捉えてしまっていること、自身がタレントとして、普段良い行いをしていると自身を上げる発言をして論点を変えてしまっていることが問題である
※「クリマンなんて所詮女の集まり」だし、と女性蔑視と見られるような内容の入ったツイートをRTした事に対し、「嫌なら黙ってさっさと辞めろよってことに同意した、女性蔑視かどうかは関係ない」等弁解していたが、あのツイートを見て女性蔑視と感じないところにも問題がある
FCについて、運営に言えば良い、アレン様に言われてもどうすることも出来ない、という言い分はわかる。実際、運営に向けてのツイートも多かったのではないか?アレン様も、運営を批判するような旨のツイートを過去にしていたから、ファンもそうして良いと思ったのだろう。
しかし、アレン様はそれらをネガティヴだからNO!と切り離してしまったため、ファンも当然困惑する。
アレン様は、嫌になったら、アレン様のファンをすっぱりやめろ、ぐちぐちツイートするな。と言った。
アレン様が好きで集まって、匿名で友情が芽生えていた集団である。アレン様のファンを辞めることはできても、そのファン同士の友情や繋がりを急に切ることに名残惜しいと思う人間もいる。だからその旨ツイートする。ここで辞める、とツイートするのはアレン様に向けてだけでなく、ファン同士でのコミュニティに向けての意味も大いにあるだろうが、残念ながらアレン様にそこまで汲み取ることはできない。
アレン様は今まで自分の気に食わないことは全てNO、恋愛はしない、性的欲求が満たせればいい、などの発言していることから、一般的な友好関係を築く能力が欠如している様に感じる。
ファンがアレン様を思って言った「意見」も、一度アレン様が良くないものと捉えてしまった以上、それはNOだし、分かりあうことはできない。ファン同士が交流する気持ちだって、多分わからないのであろう。
そしてアレン様がスペースで、弁解する際、イエスマンのファンで身を固めていた件についても、アレン様は「私も人間だし」と言っていた。この人間だし、というのは、私だって人間だから、わがままで不十分な部分もある。そこも認めてくれても良いでしょ。のような言い分かもしれないが、アレン様が傷つくことを避けて議論することは、問題の解決に繋がらない。とにかく、アレン様の中で、アレン様が良ければ良いし、嫌だと思ったらダメなのだ。覆すことは不可能なように感じる。
アレン様というエンタメは、金銭が生じたことで、崩壊してしまった。アレン様の哲学は面白い。でも言っていることは結構めちゃくちゃで、正しさはない。※その正しくなさに、ファンが当てられてしまい、どうしようもなくなってしまった。
※アレン様の破天荒さに元気をもらっていた人間が多いと思うが、今回の件でアレン様が私に歯向かうファンは許せない!と私のファンなら私に従順であるべき、と思っているような態度を見せたため、アレン様が自身を神格化しすぎていることで、更にファンとのすれ違いが生じた
アレン様は、結局、途轍もなく自分勝手で、自分の理想を裏切られるとブチギレる(その事は今までの動画を見れば大体わかる。)。今回の件で、ファンがアレン様の理想を裏切ってしまった。そうなっては、もう取り返しはつかない。アレン様に聞き分けはないのだ。
私自身、アレン様と深い関わりがなく、コンテンツとして、楽しく見ていた立場だったため、アレン様に裏切られた、失望した、等の感情はなく、寧ろ今までの性格を見て、こうしたことが起こりかねないことはなんとなく予想はできていた。それが今のタイミングだったのだなと思う。
これからも、アレン様はこうして好き勝手生きまくる人生を歩んで行くだろう。しかし、アウトデラックスが終わり、今回の件でファンが減り…と、客観的に見てかなり逆境に立たされている。一体どうなっていくのか、今後も見守っていきたい。