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はてなキーワード: ドグマとは

2022-09-01

同意さえあれば生きた人格のある人間セックスしても誰も傷つけない」とかいう対人性愛者のドグマ、そろそろ何とかしないとヤバいよ。

2022-07-23

山上が犯した唯一の過ちは「暴力」ではない(令和最新版山上の垂訓)

まず、今回の問題に解しては「全ての暴力(とりわけ殺人)は悪である」という言明から始めることが不可能であるのはもはや明らかだということをわれわれは認めなければならない。

なぜならわれわれは通常この命題にはある種の「絶対的正論否定不能ドグマ)」として機能し、対話の土台を提供することを期待するが、今回においてそれが機能していないのは明らかだからである。「暴力は悪である」の後に、いともたやすくわれわれ(少なくとも私は)が「……しかし、」と続けたくなってしまうこと、それがいかに異常であるかを考えなければならないと私は思う。

しかしそれでも、どれだけ山上に同情的な人であったとしても「山上行為弱者福祉を頼るようにその状況下ではベストな行いで仕方なかったから、同じ境遇にある人々は同様の行動にぜひ出るべきである」と思っている人が(山上含め)いないことを私は信じる。私は私の直観を信じるし、他の人の直観も信じている。

から、もはや私は暴力暴力であることによって否定する「旧社会しぐさ」を方法論的次元において否定する。

 

暴力は悪であるしかし」、人類史上この論法が最も大規模に振るわれてきたのはむろん戦争の際である。そしてわれわれは戦争例外状態とし、平和(少なくとも非戦争)を通常状態として考えている。しかし同時に、その「例外」が近代以降に限定してさえ実はむしろ多数派ですらありうることも、われわれは何となくわかっている。そのため「暴力は悪である」という命題に対して、われわれは完全に従いながらも、実は腹の底ではどこかしらけた態度を取っている。

 

パスカルパンセの中で述べていたように正義と力の関係とは、何が正義かを確定させるためには人類寿命を超えるかもしれないほどの議論を要するのに対して、誰が力を持っているは誰が見ても明白であるという特徴を持つ。だから「力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である」。そして常に暴力は無力を退けそこに君臨する。だからわれわれは、正義に力を与えるのではなく、力に正義を与えることにした、パスカルはそう主張する。

むろんパスカルフランス革命について何も知らないので、その点について注意する必要はあるが、それにしても優れた洞察であると思う。われわれは何か正義のために社会を構築した=社会正義である、というドグマから解放されなければならない。社会=旧社会リヴァイアサンを鎮めるために持ち出された道具的存在にすぎない。

言論次元においては暴力に対し積極的にエポケーを行いながら、具体的手段においてはあくま暴力否定し続けること、それが私と旧社会理想が重なり合う正義であると私は言いたい。

 

ここでキリスト教における基礎の一つ、「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」について考えてみたい。駄洒落以上の意味があるかどうか疑問に思うだろうが、実際それ以上の意味は無い。

山上の垂訓とは「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものであるから始まる、死後に神の救いを得て天国に行ける人とはどのようなものであるかを説いた有名な部分である。ここでいう「心の貧しい人」とは一般的日本語意味ではなく、自分の足りなさを認め神を求める、ぐらいの意味解釈されることが多いようである

しかキリストは力ではなく正義の側に立とうとした人であったと思う。他方そうであるがゆえに2000年前の現世においては無力であった。しかし、と考えてみたいのだが、キリスト教-山上の垂訓的な倫理は今や明らかに無力な存在ではない。われわれはもはや正義に力を与えることが可能である

 

から私は所与の力に正義を与えんとする「思想-的-テロリズム」については私の正義に基づいて否定するが、正義に新たなる力を与えんと言論次元に留まる「テロリズム-的-思想」を断じて肯定する。

無職になる自由行使する。生活保護FIREする方法実証済み)

https://anond.hatelabo.jp/20220722185337

2022-07-20

我々はなぜ統一教会が嫌いなのか

近代合理主義者と化した保守

安倍晋三暗殺事件きっかけに統一教会世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者ひろゆき山本一郎なのは興味深い

一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的1970年代まれ以下の世代は、保守愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。

無論、1970年代まれ以下の世代でも立場はさまざまだ。

東浩紀1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会擁護というより、スターリニズム連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダン思考原理主義的なドグマにしてしまった模様。

一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会利害関係があるらしい。

https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12

http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html

東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。

今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国中国民主党だけでなく、森喜朗代表される体育会系マッチョ価値観自民党重鎮も不人気で、平然と皇室コケにする書き込みだって多数あった。非合理的宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係肯定する主張は評判が悪かった。

かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか

ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国韓国儒教国家からダメだ」と言う人間が少なくない。お笑いである戦前までの日本だって支配階級の基本思想儒教だった。幕末尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代朱子学が普及して、「幕府天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇教育係の元田永孚西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教価値観産物だ。

だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想日本は、最初から西洋価値観近代国家だったらしい。彼らには古代中世日本伝統価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌能楽歌舞伎浄瑠璃より、漫画アニメゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽予算を削減しようとしてたな。

保守愛国を唱えながら近代合理主義何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代から見れば非合理な考え方に従っていた古代中世人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄から天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。

そうなれば、単に力(財力、権力情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵ワタミ大統領になったら本当にイヤだぞ。

共産主義統一教会環境産物

統一教会2015年世界平和統一家庭連合改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。

https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808

まり統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的山上徹也個人の家庭を破壊した。

週刊文春7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年秋葉原通り魔事件や、2019年京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったか説明が抜けている。

リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段継承するために血統の存続が重視され、先祖から連続性が意識されていた。漁村商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。

ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供家族から切り離され、父親母親子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界歴史 第25巻』(中央公論社)270p)

統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想伝統的な家族観破壊した」と主張するが、この解釈因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果からまれ思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統共同体解体して蒸気機関工場労働者を世に広めた資本家がいたのである

逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業全否定して国民農村強制移住させたポル・ポトカンボジアこそが理想かよ?

先進国では工業社会さらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1高度経済成長期に中卒や高卒都市工場商店就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。

こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家従属する義理はないか上京以来ろくに親元に帰らない。長男長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地家業を持ってるのではないのだから仕方ない。

統一教会のような保守派は、家族大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造問題にまったく踏み込めていない。

信者にとってのカルト宗教の魅力とは何か?

困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムカルト団体帰属意識を求める者が増える。

エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀から1930年代昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。

統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者気持ち理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいか狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。

先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルト宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルスティーブ・ジョブスのような英才も、最期近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、合理的ものへの免疫をつけておくこと必要だ。

そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営団体も同じだ。

こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いか社会制度近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。

あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場第三者一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。

これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的洗脳する側に忖度するように”誘導”することであるhttps://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。

その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初カップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間常識だと錯覚したという。

これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。

信者教祖や教団幹部個人命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。

思想だけで世の中は動かない

2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合統一教会的なるもの――家父長制バンザイカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。

実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラパワハラは嫌われ、体罰理不尽校則廃止される方向に進んできた。

ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。

近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホコンビニAIドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働人件費の安い海外アウトソーシングしたり国内視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生世界では、依然として日本相手なら許されないパワハラが横行している。

いか自由平等人権といったリベラルイデオロギー字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスアメリカ奴隷制廃止したが、それはリベラル人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。

統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なもの嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観へのPermalink | 記事への反応(1) | 23:06

2022-07-14

あずまんにもわかるようにあずまんの何が不味かったのか説明するよ

あずまんさあ、おれはあんたのこと、構造化――大塚風に言えば「見立て」――が飛び抜けて上手い学者だと思ってるよ。動ポモなんてまさにそうだし、クオンタムファミリーズだって小説としての構造にひねりがあって面白かった。そもそもソルジェニーツィン試論ソルジェニーツィン内面ブラックボックスであるまま、外側の構造精緻に描いくことで、逆に内面を描いてみせるという話だったはずだ。というかリアルのゆくえで「同じ構造論文を量産してた」みたいなこと言ってたよね?

からあずまん福島瑞穂の話の構造を取り出して、その構造問題であると見抜いたんだろう。実際福島の「自民党統一教会関係があったから襲ったと言っているが、その関係事実であれば問題だ」という話の構造は「彼らの宗教信仰しないから襲ったと言っているが、不信仰事実であれば問題だ」とか「大量破壊兵器があるから襲ったと言っているが、大量破壊兵器があるなら問題だ」とかの構造と同じであるように見えるし、後者2つはほぼ自動的不正言論であるとわかる。であれば、この特定状況における福島言論不正だ。そうあずまんは考えたんだろう。

でも、そうじゃなかった。なぜなら、それらの不正構造レベルにはなかったからだ。むしろ「不信仰は悪である」という絶対的ドグマ、あるいは「大量破壊兵器がある」という文が単に誤りであることによる。別の言い方をすれば、全ての行いは「それが事実であれば〔Xの文脈において〕問題である」の文脈の設定を巡る闘争とも言える。福島は〔政教分離という原則において政治として〕問題である、と言ったのに対しあずまんはそれを読み落とし〔安倍個人が殺される原因となったのだから問題である、と福島がただテロリスト的な問題意識をこじらせていると曲解する。福島のこと舐めすぎだとは思うけど、そこはまあいいや。

でもさああずまんそもそも今はもう構造自明に悪だったり善だったりすることがありえる、というのが死ぬほどダサいんだよ。構造構造しかない。東大スピーチ河瀬直美だってそうだろ? 文化相対主義的な構造は、たしかに常に正しさを確保している。だが常に正しい言説は無意味だ。ポストモダンという言説がどれだけ正しくて、どれだけ無意味であったかあずまんならよく知ってるだろう。

からさ、おれたちは考えなきゃならないんだと思うよ。考えんのつらいけどさ、考えないと、歩かないと取り残されるだけだよ。おれはもうすぐ35歳だ。人生後半戦。35歳問題についても考えてるよ最近。でもそれを言えば51のあずまんだって後半生の後半生に突入するわけだろ? あんたは今、あんたが35歳の時に考えてたくらい考えないと、せっかく35歳を乗り切ったんだからさ、もう一回やってくれよ。俺も後から行くからさ。

続き

https://anond.hatelabo.jp/20220714195314

2022-07-12

まっちーおれかなしいよ

https://twitter.com/tomomachi/status/1546609830734942208?s=21&t=w5YqSRZoQNU7PM6LEf8D3A

政権宗教癒着のどこが悪い?」というコメントが来ているので説明しますと日本国憲法20条「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上権力行使してはならない」に反するんですよ。

こんなもへもへにすら論破されるようなこと言っちゃってまあ。もへもへはハゲ煽りしてくるから好かんのでその論破は貼らんけど。

「国がこの宗教やれ!この宗教規範に則れ!」はNG

宗教団体が政治参加!」はOK。ただ国民忌避感が強いだけ。

これだけなんだよね。なので政権特定宗教が密接な関わりにあろうが程度超えて宗教行事宗教規範押し付けなければセーフ。

まあ右翼史観とか家族観なんかは統一教会宗教規範みたいなもんだけど、ドグマ扱いするのは難しいわな。

国家神道反省みたいなスタンスから地鎮祭訴訟とか勉強したでしょ?

公明党が「国立仏壇建てるやで〜」とか言ったのに対して怒られ発生したのも有名な話。


昔は町山さん好きやったんやけどなあ。クサヴァーさんも草葉の陰で泣いとるわ。

2022-04-07

門外漢相対性理論量子力学を「最新の理論」と認識する一方、統計力学熱力学重要性とその哲学理解できないみたいな。

主語が大きい」という批判は時に重要な指摘になるが、「ミクロ論理が正しく、マクロ論理は間違い」というドグマ支配された人々には、逆に「主語が小さい」という批判は思いつかないのだろうな。

2022-03-19

ジーンズ履く奴は欧米ドグマ的「正義」の奴隷

https://bigissue-online.jp/archives/1079463289.html

ジーンズが反権力的って噴飯ものの主張ですね。

ジーンズ米国を中心とする西側諸国による暴力的文化支配象徴しかないですし、それを履くことは西側諸国提示する「正義」に隷従することを示すんですよね。

高校大学でみんなジーンズ履いていて「この人たちに自由意志はあるんだろうか」と本気で心配になった記憶があります

結局自由であるように見えて実際は西側提示するイデオロギーに操られているのでは?と思っていました。

東側(今はロシアとか中国)のプロパガンダは粗雑で強権的で「楽しくない」ので効果のほどは薄いです。

一方西側のそれは巧妙で、娯楽とかファッションのような「楽しいものを使って文化侵略を行うので効果的です。

 

西側無謬ではありません。民主主義の皮をかぶり新自由主義世界中蔓延させ、社会の存立基盤である基本的人権を脅かしています

西側に隷従することをアピールするのは、主体的個人の「死」です。そういうわけで自分ジーンズ絶対に履きません。寝るときスラックスです。

 

日本に関していえば、確かに米国による軍事的庇護のおかげで経済発展に注力することができ、世界有数の大国に発展したという事情はあります

そういうわけで米国やそれに付随する事物(例えば日米同盟)を十把一絡げに否定する気はありません。

ただ「西側こそ正義」という考えの蔓延が、日本の実情にそぐわない形での欧米文化制度(例えば日本雇用無視した新自由主義経済政策)の導入を後押しし、結果として日本社会に禍根を残しています

そういうことを防ぐためにも西側諸国提示する価値観に対してはいったん咀嚼し相対化する必要がありますが、ジーンズをはくことで無意識のうちに「西側=善」という粗雑な意識が醸成されるのではないか懸念しています

2022-02-10

「トレパク」は悪いことではありません

世間で「トレパク」と呼ばれている行為は、単なるイラスト制作手法ひとつに過ぎず、それ自体は何ら咎められるものではありません。悪いのは、

です。つまり、きちんと法律準拠して作品制作を行っており、人としてのマナーを弁えていれば、「トレパク」だからと謗られる筋合いは無いということです。

以下では、多くの人が「トレパクは悪」と思い込んでいる要因を指摘し、それらが間違っていることを説明します。

現状、非の無いクリエイターたちが「トレパク認定厨」の嫌がらせに遭ったり、彼らの嫌がらせに怯えながら活動しています自分では何も生み出さず、他人成果物に難癖を付けるだけのならず者どもが幅を利かせています。このような不条理は正されなければいけません。以下に述べるような正しい認識が普及し、健全創作活動が行われることを望みます

「トレパク」の定義

まず、認識齟齬が生じないよう「トレパク」という言葉定義をはっきりさせておきます。以下に述べる定義は、「トレパク認定厨」が警察ごっこ対象にしている行為の特徴を、過不足なく正確に表していると思います

他人視覚的な著作物(*1)の全部または一部、またはそれを編集(*2)したものを、「トレース元」と呼びます

トレース元」に描写された物体と、空間または他の物体との境界線(*3)を写した(*4)曲線のことを「トレース線画」と言います

トレース線画」を自身作品の一部として使用することを、「トレパク」と言います

(*1) 絵画写真映像など

(*2) 拡大、縮小、回転、反転、トリミング、色彩の変更、その他視覚効果を加えることな

(*3) 輪郭線が明示的に存在しない絵であっても、色の区別錯覚等を利用して、物体境界存在すると理解できるものを含む

(*4) 模写する、思い出して描くのではなく、トレース元の境界線認識できる状態で、それをなぞって線を描くこと

ポイントは以下です。

まず、「トレース元」が他人著作物またはそれを編集したものであることです。自分過去に描いた絵、または自分撮影した写真などであれば、「トレパク」とは言いません。

また、他人作品をそのまま使う場合だけでなく、サイズ変更や反転してトレースした場合も「トレパク」になります

また、トレース元の境界線をなぞって描いた場合のことを指します。模写した場合、思い出して描いた場合は「トレパク」に含めません。また、線画が部分的にでも一致していれば「トレパク」になります。たとえば、顔や手だけ一致した場合複数の「トレース元」をキメラ的に組み合わせたものも「トレパク」です。

「トレパク」が悪とされる理由

多くの人が「トレパクは悪いこと」と誤解する原因は、下記の3つに集約されます

  1. 「トレパク」は著作権侵害であるという思い込み
  2. 「トレパク」はクリエイター本来の実力を誤魔化すという思い込み
  3. 「トレパク」はクリエイターモラルに反するという思い込み

以下、これらがすべて誤りであることを説明します。

「トレパク」は著作権侵害であるという思い込み

まず、「トレパクは著作権侵害である」という主張は誤りです。

「トレパクかどうか」が「著作権侵害に該当するかどうか」の基準になることは、法律的にありません。著作権侵害に該当するのかどうかの基準は、「表現上の本質的な特徴を直接感得することができるか否か」です(下記サイト参照)。「トレパク認定厨」が指摘する「線画が一致するかどうか」と著作権侵害ほとんど無関係です。

イラスト類似著作権侵害になるかどうかの基準は、たとえば以下のページ等で弁護士が詳しく解説しています

法律的な観点からは、「トレパク認定厨」が騒ぎ立てるような「手の線画が一致している」とか「背景の小物の輪郭が一致している」とかいう要素が、著作権侵害に該当する可能性はほぼありません。それらが「作品本質的特徴」とは言えないからです。

特に、構図やポーズなどは著作権保護されません。それらは単なるアイデアに過ぎないからです。たとえば、「男女が目を合わせるのをローアングルから描く構図」とか「顎に手を当てて考えるポーズ」などは、美術表現上ありふれたものであり、著作権保護されません(こういうものまで著作権保護されたら、誰も絵を描けなくなるでしょう)。

そもそも、「著作権侵害である」と指摘したいのであれば、その要件に該当するか否かを議論すればよく、「トレパク検証」は全く無意味です。トレースであろうが、模写であろうが、思い出して描いたのであろうが、著作権侵害要件を満たしていれば違法であり、そうでなければ違法ではありません。

「トレパクは著作権侵害」という風潮は、単に法律的に間違っているだけでなく、「トレースさえしていなければ、著作権侵害にはならない」と言った誤解を誘発する恐れがあります。こういった認識は、クリエイター法律リテラシーや遵法意識を低下させるため、有害でさえあります

「トレパク」はクリエイター本来の実力を誤魔化すという思い込み

一部の人は、「資料、素材、ツールを使って描いた絵は、本来の実力ではない」と思い込んでいますが、これは間違いです。

この誤解の根本には、「"実力"のある人なら、資料などに頼らなくても、あらゆる構図やポーズが描ける」という思い込みがあります特に、絵の経験が浅い人ほど、こういう思い込みをする傾向がありますしかしこれは間違いです。頭の中だけであらゆる構図を絵の中に再現するのは、プロでも不可能です(もちろん、プロの方が見ずに描ける構図は多いでしょうが)。むしろ、実力のある人ほど、きちんと資料等を活用する傾向にあります

資料を使わずに上手い絵が描ける」というのは一つの芸ですが、「それが出来なければ"実力"が無い」ということにはなりません。魅力的な絵を描く人でも、「スケブ」などで一発で描くのは苦手な人はたくさんいます。一発で描こうが、アタリラフを何回も描き直そうが、資料を使おうが、最終的に完成した絵が、そのクリエイターの実力です。

そもそもデジタル絵を描く人であれば、誰でも「選択範囲」や「レイヤー」などのツールに頼っていますアニメ映画では、建物の崩落とか爆発とかを描くのにCGを多用します。「それらのツール機能自分の手で再現できなければ実力ではない」などと主張する人はいません。

「トレパク」は資料活用する手法ひとつに過ぎません。そして「資料を使ったら実力ではない」などという主張は間違っています。したがって「トレパク」だからといって、クリエイターとしての技量に難癖を付けられる謂れはありません。

「トレパク」はクリエイターモラルに反するという思い込み

上記2つの理屈通用しなくなると、「トレパク認定厨」が最後に縋るのが、この種の「モラル問題だ」という論拠です。

はっきり言って、「トレパク」をモラル観点から問題視しているのは、ネット上の一部の「トレパク認定厨」だけです。

普通イラストレーターが、「あなたが以前描いた絵と、手の線が一致する絵を書いた奴がいますよ」なんて報告されたところで、「知らんがな」と思うだけでしょう。趣味日記を書いてる人が、「あなたが以前撮った写真に写ってた桜の木と、背景の木の輪郭が一致する絵を描いた奴がいますよ」なんて報告されたところで、「だから何だ」と思うだけでしょう。普通の人は、見るから盗作を疑われるようなものでもない限り、ある絵が「トレパク」かどうかなんて、どうでもよいのです。

プロであれば尚更です。プロは、あるモチーフを描くために既に確立された表現があることを知っています。したがって、それに類似する作品が多くあることを知っていますし、自身もそういう作品を多く生み出しているという自覚があります。だから、絵が似ているなんてことは当たり前のことだと理解しています

同時にプロは「何がオリジナリティなのか」ということも良く弁えています。「トレパク認定厨」にはそれが足りていません。彼らは、線画が一致したり、絵柄が似ていたりすると、すぐに「パクリ」だと騒ぎ立てますが、その中にはアマチュアが見たって明らかに異なるものが多く含まれます。「トレパク認定厨」は、絵に関する知識眼力も足りていないから、異なる絵が一様に同じように見えているのです。

しかしたら、「トレパクは悪」と思い込んでいる無知クリエイターも、一部にはいるかも知れません。しかし、法的には「自分の絵の線画や構図をマネされない権利」は存在しません。存在しない権利を主張するのはただの我が儘です。鉄道会社に「遅刻しそうだから電車を30分遅らせろ」と要求しているようなものです。

そして、繰り返しになりますが「トレパク」は盗作でも著作権侵害でもありません。また、「トレパク」をしたからと言ってクリエイター技量が低いことにもなりません。事実に基づかずに、「あいつは盗作をした」「あいつは絵が下手だ」と他人貶めるのは、単なる誹謗中傷です。

なぜ「トレパク認定厨」は、「トレパク検証」とかいネットサーフィンの傍らにできる単純作業に夢中になって、他人を貶すためにネットの海を奔走するのでしょう?おそらく、思うようにならないことが鬱積しているのでしょう。その欲求不満を、生産的な活動で晴らさずに、「トレパクは悪」というドグマに縋って募らせているのが、「トレパク認定厨」という存在です。

「トレパク認定厨」へ: 人の道を踏み行いなさい

最後に、「トレパク認定厨」に言っておきたいことがあります。それは、

卑劣なことをするな」

と言うことです。

「トレパク認定厨のしていることは、クリエイターへの侮辱嫌がらせ誹謗中傷以外の何物でもありません。

彼らの手法は、「線画が一致している」ことを以て、「この絵は盗作だ」とか「そのクリエイター画力が低い」と論理を飛躍させること、あるいはその結論を言外に仄めかすことです。これは既に述べたように詭弁です。彼らは、法律絵画技術議論を避けるために論点をずらし、何の意味も無い「トレパク検証結果」をあたか重要証拠かのように演出し、クリエイターを貶めています。これは卑怯です。

また、そもそも法律的に問題があるのは「トレパク認定厨」の方です。彼らは、クリエイター名誉を不当に傷付けていますし、「トレパク検証」と称して作品無断転載を行っており著作権侵害も行っています。実際に、「トレパク検証」のまとめブログ管理人が訴えられて負けた事例もあります前科持ちになりたくなければ、そういうことは今すぐに止めなさい。

「トレパク認定厨」へ。匿名からといって、何でも許されると思うのは止めなさい。自身言動が、親や友人に見せて恥ずかしくないか、胸に手を当てて顧みなさい。人の道を踏み行いなさい。

以上です。

2021-11-10

成長戦略ドグマ

成長戦略なんてものをしようと思えば、「ここに金をかければ成長する!煽れてそれっぽい数字も作れる!」という対象必要

始めっからそんなものなんてどこにもないのだろうが。全ては儲かる前の何らかの積み重ね。

だけど、そううそぶけるやつはいる。薄っぺら情報だけは集めてる。本当ホラ吹きみたいな存在だが。

竹中平蔵とか落合陽一みたいなやつ。

まあ、実際軌道に乗りかけのやつもそういうホラ吹きにうまく取り上げてもらわないと成長できないんだろう。一方で何らかの金で食っていけばいいや、あるいは税金を食い物にしたいという連中もいる。

経営者も夢を描くが、食っていかないとならないし、柵や過去関係技術でどちらと割り切れるものでもないかもしれないだろう。所詮濃度の問題で。

しかし、そもそも選択と集中で大地は完全に枯れてる。

それでも、なんとか煽り数字を作れるやつを起用しないと「成長戦略自体が作れないからまた竹中平蔵が取り上げられたのかもしれない。もちろん、大地が枯れるのは継続し続けるし、無論日本を食い散らかすのも続ける。

2021-10-31

anond:20211031172526

何をもって「人類の正しいありよう」とするかによるけど、

本能や子孫繁栄のみを是としない社会が既に構築されているわけで、

少なくとも日本では一夫多妻フリーセックスも男女不平等も認めないでいこう、となってる。

で、平等実現に向けていろいろすり合わせる際に、両者を完全に同じものとして捉えると齟齬や摩擦が生じるよね、という話。

男性は主に暴力や性欲の発露に於いて女性に気を遣うべきだし、

女性男性同士のコミュニティに分け入ってまで「あれはダメこれもダメ」などと意見すべきじゃない。

違いは違いで尊重した方がいい。

というか、実社会においてはみんなそう振る舞ってるでしょ。

ネットだと言葉けが前面に来るから

平等というお題目だけドグマ化されて、違いをケアするエチケット放棄されている。

2021-10-30

衆院選直前、11個の質問でみる各党の科学技術政策

https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20211030-00265675

維新はやっぱり返答なしだよねー。だって科学技術政策って、すぐに費用対効果がでないか新自由主義の連中にとって鬼門もの

上辺だけ選択と集中だ!

(選ばれなかったまだどうなるかわからない科学破壊される)

起業イノベーションだ!

(儲かるものの前には儲かるかどうかわからない段階の積み重ねが必要なんだが。起業イノベーションを起こすやつを雑草みたいにかってに生えてくるとでも思ってて、踏みにじっても構わんわ。だってかってに生えてくるだろ。みたいなのが新自由主義

とかほざくが、費用対効果がすぐ出るもんじゃいから、金を出すきはない。けど、どこかに隠れてるだけだ!そいつらを引きずり回せばいい!みたいなのでしかねーもの

国民民主党も返答なしというのは残念だが。

無論積極財政もいいし、「俺のは有意義だけど、他のやつの無意味だ」みたいなドグマに陥るから科学以外を無意味という気はない。だけど、儲かる前の科学政府しかできないし、次の産業の種となり、芽になる。

から積極財政特に使うのは科学技術予算が多いほうが良いと思ってる。だからきちんと返答してほしかった。

れいわはまあ順当だな。これについては立憲、自民共産ともに順当な返答だと思う。自民がやや選択と集中寄り気味だとは感じるがな。

2021-09-30

anond:20210930113032

RRD 家庭連合で家庭に不満のあるババアを取り込んだように、表現連合表現に不満のあるオタクを取り込もうという統一協会戦略が見える。あいつらは進んで不幸になりたがるから、なんとかしてやりたいんだけどなあ。

grdgs 反フェミ自民支持者は、自民党内に統一教会シンパが多いのは勝共連合つながりで今も付き合い当然と肯定的に見るのが多く、統一教会に肩入れしているといえる。保守利益のためなら反社とも平気で手を組む。

quick_past オタクの中でこじらせてる連中は昔からいたよ。2ch差別関係に近そうなカテゴリの板では、初期からそういうのが湧いてた。同時期のぁとか自アンなみかれではそういうのはあまり見なかった

zyzy ブコメでさえこれに反発して発狂モードに入っているいつものオタ勢の文章が割と取り込まれててヤバい感じなので、ガチっぽいなぁ。「どっちもどっちぃ」ってそれすでに取り込まれた人の「典型的な応答」でうわぁって

cinefuk #反ポリコレ の旗印のもと「ヒトラーはいい事もした!南京虐殺捏造731部隊捏造!」とやっている人たちに #国際勝共連合ドグマは心地よく染み込んでいく / 統一過小評価する投稿は、責任を負う覚悟あるのか?

いつものかいな仲間たちが「やりたいこと」が見えてくるだろw

でも最近、こういうのに眼鏡犬さんは絡まなくなったよなぁ

昔だったら嬉々としてオタク叩きに馳せ参じたろうに

2021-08-22

anond:20210822201308

ぼくもこれは思った

日本ドグマティークに極力従来と同じ形の開催にすることこそが唯一の成功と考えた

本当は1年の延期期間を利用して、コロナ禍に合わせてITをフル活用したリモート観戦の新時代を切り開くべきだったんじゃないか

それこそがレガシーとなり、後に2020東京からこれが始まったんだよねと語り継がれるものになった

半年後の北京にこれをやられて公開処刑状態

技術面でも、IOCや米テレビ局との交渉力でも、政治力でも、日本は二度と中国に勝てないと印象付けられるんじゃないだろうか

2021-05-25

anond:20210525093655

そんなマナー無いだろw

引き継ごうがなんだろうが「ドグマに囚われてる」って言ってるやつが一人で囚われてるだけだぞ

anond:20210525093208

まず俺は横ますだぞ、横ます相手に「お前が言い出した」とか言うの頭悪すぎるからやめたほうがいいぞ

差別が悪」であるというドグマに囚われてるから、「差別」と言い出したこと揶揄だと勘違いしてるんじゃん

差別は悪じゃない」という文脈で言えば「オリジナル差別発言をたくさん作って差別が悪であるという世間を変えよう」とも読み取れるぞ

anond:20210525092602

差別は悪」というドグマに囚われてるのはお前やろ

2021-03-30

80年代ハードコアパンク歌詞が恥ずかしい

外国の奴はよくわからんから日本限定だが、全部恥ずかしい

恥ずかしくないのを聞いたことがない

しかハードコア=暴力的=かっこいいみたいな古典的ドグマに真面目なあまり

乱暴に、吐き捨てるように、がなるのが輪をかけて恥ずかしい

2021-03-08

anond:20210308234025

独裁論というドグマを捨てられないんだね

アプリオリから

まあ一生言ってろと言うやつだなw

2021-02-09

anond:20210208221008

読書はした方がいいと思う派だけど、この増田のようにドグマティックな立場からではないことを明言しておきたい。

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

2021-01-25

お気軽に掌を反し続ける

そうやって人々は暮らしているのだ

ほんの少しの会話や意見交換などでがらりと見方が変わることすらある

人のドグマに陥るなと言ったのはスティーブジョブズだったか

多くの人から一部ずつ見本とし切り取り血肉となって行くのだろう

2020-12-28

女が身体を張ってもつまらない理由ははっきりしている

それは端的に言えば人権意識のなせる業である

今の時代女に無茶させるといろんなとこから抗議が飛んでくる世の中であり、ゆえに女が何かやってるように見えてもどうせやらせだろうし、早い段階でタオルが投げ込まれるとわかっているからそんなに面白くないのだ

もちろん男が身体を張るにせよ、メディアのやることだからやらせ演出はあるだろうし、実際には見る側が思うほど危険な目には遭っていないケースもあるのだろう

しかし男の命というのは社会的に安く、そして扱いが軽い

人権意識の高さを誇る自称リベラルの皆様すら、そこの格差是正しようとはしていない

からこそ「ガチ感」が出てくるのである

「扱いが軽い」というのは、つまり「どう扱っても大して文句が出ない」「どのように扱われるか予測がつかない」ことと表裏一体であり、だからみんな気軽に笑える

芸人が天下国家を語って悪いわけではもちろんないが、そうやって安易社会正義に頼らないからこそ芸人面白いし、おいしい思いをしてしかるべきなのだ

逆に言えば、女性のように「こう扱われるべき」「こう扱われるべきではない」みたいなドグマガチガチに固まった存在というのは、笑いとは非常に相性が悪い

余計な縛りが多いのだから悪くて当たり前だ

から芸人はわざわざ女を捨てなければ、男の芸人と同じ地平に下りられないのである

これは女性以外にも言えることで、例えば大昔のボキャブラ天国では「さぶ」などのホモネタが登場することが多々あったが、あれも当時におけるゲイの扱いの軽さあってのことである

もちろん今ならまず無理だ

仮にアレが今公共電波で流れたとしても、炎上とかLGBTとかそういうワードがよぎってしまって、笑うことすら難しいだろう

まりそういうことなのだ

人権社会正義はもちろん否定されるべきではない

しか社会的保護された分際でいっちょ前に笑いを取ろうなど、はっきり言えば百年早いのである

anond:20201228112809

2020-12-16

苦痛っていうのはルール

 苦痛っていうのは一種ルールに過ぎない。

 例えば痛覚は怪我をしないための一種センサーである。割とよく聞く話ではあるけれど、神経の異常で痛覚のない人が、頻繁に骨折などの怪我経験するように。

 要するに、「このライン越えちゃダメ!」と厳格なルールを人に知らせてくれるのが苦痛なのである。「そんなに激しく○○しないで!」ってな話なのである。「うるさいですね……」いやうるさくないんですってって話なのであって、苦痛の呼び声を聞かないと人々っていうのは簡単ラインを越えちゃうんですね。例えば働きすぎて脳みそに異常を来したり、あるいは、誰かの訴える苦痛だってそうで、その声に耳を傾けずにひたすら苛み続けることで、誰かにラインを越えさせてしまったりとか。

 そういうルール違反を人々に犯させないためにありとあらゆる苦痛っていうのは存在しているのである。逆に言えば、苦痛存在するが故に人々は謙虚なのだ。誰も自分が鳥だと主張して崖から飛び降りたりはしないのだ(比喩です)。それもこれも苦痛というルールが「それアウトよ、違反よ」と知らせてくれているからなのであって、そういうルールを飛び越えないように人はできている。本来なら苦痛ってやつは単なるルールであり一種審判員に過ぎないはず、だ。


 そのはずなんだけど、実際のところ苦痛というルールは、ルールという範疇に留まることをやめて、生命のかなり奥深いところに食い込んでいる。何ならそれは一部生命同化していて、単なるルール以上のドグマとして我々に猛威を振るう。我々の中にある苦痛というドグマが、我々に対して「私は生命のものです」と語りかけてくる。いや違うやろ、という声は届かない。彼らは本来単なるルールに過ぎず、そして我々が何かを越権して催促しないように見守ってくれているだけの存在の筈なのに、どこまでも深い部分まで彼らは浸透し、食い込んでくる。だから、彼らは生命とは隔絶された単なるルールでありながら、あたか生命のものであるかのように振る舞っているのだ。「私は生命なんですよ?」と。

 しかしまあ我々が苦痛に対して敬虔に振る舞い、彼らに対する精一杯の誠意を示さなければならないことは間違いない。「苦痛さま苦痛さま。今日もお見守り下さい。大人しく見守るだけにしていて下さい。私はラインを飛び越えたりはしませんし、他人ラインを飛び越えさせたりもしませんから。だからお願いですから見守るだけでいて下さい」と。我々はルールに対して拝み倒す。そのルールルールのままであってくれるようにと願う。仮にそれが単なるルールであることをやめてしまったら? それが現実化してしまったら? あるいは、それが生命の核に食い込んだ状態のまま、現実化してしまったら? その時我々はとても困ったことになる。一度現実化した苦痛は中々消滅しない。本来単なる抽象的なルールだった筈の苦痛は、この世界の随所で実体化し、そして時に生命の核に食い込んで自身生命と同一視した状態実体化してしまう。「私は苦痛です。そして同時に私は貴方生命です。貴方生命苦痛です」と言わんばかりに。


 でも、だからといって苦痛をこの世界から排斥してしまうわけにはいかないし、そもそもそれは不可能なことでさえある。我々が苦痛をこの世界から排斥してしまえば、それはそれで困ったことになるだろう。崖の上から自分が鳥である人間であるかを確かめるべく、多くの人が跳躍することになるだろう(比喩です)。そういうことのないように苦痛ってものはある。彼らは我々を見守っている。誰も、みだりに崖の上から自身存在を確かめるための跳躍を行わないために。勿論彼らは必要なのだ

 とは言え彼らの存在生命に食い込み過ぎている。

 話がループしている。


 しかし、苦痛役割は本当にそれだけのことなのだろうか?

 僕自身はこれまで十年ほどの間、「苦痛は単なるルールに過ぎない」と思い込んできた。「確かに人々の生命苦痛は大きく食い込んでいて、苦痛本来の大きさよりずっと大きく見えている。でも、あくまで彼らはルールに過ぎないのだ」と。

 でも、本当にそれだけなのだろうか?

 違うな、と昨夜ふと僕は気付いた。

 苦痛は我々を繋ぐかすがいでもあるのだ。

 子供が両親の関係を繋ぐように、苦痛は我々の関係をも繋ぐのである。つまり苦痛人間一人一人の関係を繋ぐかすがいでもあるのである。いわゆるショーペンハウアーの言う「ミットライデ(同情)」ってやつだ。人間というのは、苦しさを媒介しかお互いを理解できないようにできている。人が誰かを理解するというのはとても難しいことだけれど、同じだけの苦痛を背負った人と出会うと、不思議なことに人はその人のことをたちまち理解してしまうのである。「この人は僕と同じように苦しんでいるんだな」って。

 苦痛っていうのはルールだ。でも、人が誰かのことを理解しようとする時、人は人の苦しみを通じてでしか人を理解することができない。

 だから苦痛っていうのはある部分ではルールを超えている。それは他者認識の、そして自己認識の基本単位として機能している。もし仮に我々から苦痛が消えてしまったら、恐らく我々は我々自身のことを理解することはできなくなってしまうだろうから

2020-10-29

勝手死ぬな」「勝手に生きるな」と勝手に言われるし勝手に言う

要は自分が何を言いたいかというと健康診断検査つらい」なんですが。

それについていろいろと考察した長い文章が下に続いているだけ。

社会

日本人寿命が長いのって、国民皆保険があるからお金負担が安いことと、会社員が35歳以降に人間ドックを毎年受けることで早期発見治療しているかなのだろうか?人類医療で生かされてる(活かされてる)んだよな、健康的な意味でも、寿命的な意味でも。そりゃあそうだ。予防医学だよな。歯医者の定期健診を受ける、とか。

でも、トシくって様々な検査ちょっと辛かったりするのを目の当たりにすると、

検査をしたり医療を受けたりしてまでも生き永らえたいというモチベーションが、果たして自分にはあるのだろうか?」

という疑問が湧いてきてしまうのだよな・・・

積極的安楽死か、消極的安楽死か、なんか、そういうのが脳裏によぎる。

会社員でいる以上は、自分労働リソースとして供出しているのだから、その「労働リソースとして将来的にどのくらい使えるか」ということが会社的には気になるわけだし、あと法律で決まってるのかな?その辺の理由で、会社から言われたとおり健康診断を受けなきゃならない。「直せばまだ労力として使えるのならちゃんと直せ」というのが、営利企業や国力といった視点から論理と言えるだろう。

なんか、自分の体は自分だけのものじゃない」という感覚がする。「公僕」、会社社会の共有物かのような感じがする。

それは良いことなのか、悪いことなのか。

あ、検査がつらいんで受けません。安楽死しまーす。っていう自分の体に自己決定権利はないのかな。それ人道的にどうなのかな。

その「自分の体が自分のものじゃない」の最たるものが、家族意向により、胃ろうで生かされている人間でしょう。倫理的にどうなのでしょうか。かくいう私の親戚にもいます。こわいので面会していないです。いまはコロナで面会もままならないですが。

医学は、人為的に死をコントロールできる術です。進歩すればするほどコントローラブルな範囲が広がる。いずれは不老不死も実現するのかも知れない。

そのコントローラーを渡されて握るのは、本人であるべきなのか、他人であるべきなのか。自分というシステムroot権限は誰が持つのか。


えらい

それにしても、35歳くらいを超えてる会社員の全員がこういう検査受けてる、ってすごくないですか?

人によっては人間ドックを毎年サボってる常習犯が居たりして、まあ気持ちはわかる・・・ってなっちゃう。

医療体制がすごいのもあるし、検査にみんな耐えてるのえらいですよね。

医療進歩して検査負担を減らす改善継続的に行われていて、胃カメラを口から入れるとき不快感を減らすためにイカリングみたいな白い輪っかをくわえると、かなりラクになるんですよね。あれ。ノーベル平和賞でしょ。10年前に受けた時あんなのなかったし肩に注射麻酔してたんですけど、最近はのどスプレー麻酔になったし1時間麻酔切れるし、カメラ自体も細くなった。昔の胃カメラトラウマになってる人もいると思いますけど、いまだいぶ負担減ってるんで、バリウム飲むよりもラクじゃないかと思いますよ。


加齢と経済消費傾向

若い頃ってさ、なんか、さまざまな「リソース」というもの無限であるかのように錯覚していた。

言い方を変えれば「有限なリソース」という概念のものが頭の中になかったのかも知れない。

健康時間も、仕事にかけられる労力も、無限だと思ってたので、スケジュールも何もなくがむしゃらに働いていたような。

でも社会に出て、あ、いろんなものって有限なんだなって気づいて。そのリソース管理がすごく難しいことに気づいていった。

そして30を超えると、「自分健康寿命」というリソースの有限さをひしひしと感じるようになる。

若いころはモノを買うときお金の使い方がコスパばっかり考えていたように思う。安物買いの銭失いだ。

それはそれで「将来への投資」の考えがなさすぎる、貧者の思想だとは思うけど。お金に対してそういう貧しい考え方で育ってしまったのだから仕方がない。トシとっていってお金の使い方が少しはマシになったし、服にかけるお金がふえたりした。

トシを取ると自分寿命が頭の隅にチラつくので、コスパが多少悪くてもペイするように意識が変わっていっていると思う。

「いまは時期が悪い」とか言ってチャンスを見送っているうちに自分寿命のほうがなくなっていくからね。

たとえ時期が多少悪くても、じゃあいまやろう。お金をポンと出してやったぜ。と。

経済の話でいうところの「機会損失」って、商品在庫があるとか、買える機会とか、開催期間が限定されたイベントとか、そういう「外的な機会」の損失するかどうかを焦点にしがちに見えるけども、それだけじゃないんだな。外的機会がある間に、かつ、自分健康もなければならない。健康でなければ商品を購入して満足することができないから。

健康が不足していて機会損失も大いにあり得るわけです。「大切な推しイベントなのに風邪ひいていけなくなった」とか。

これっていうのは「推しは推せるときに推せ」「孝行したいときに親はいない」と通じるものがある。

から商売するのって、「ちょっと健康不安が出てきて、かつ、そこそこお金持ってる人」を狙うのが効率よさそうですよね。健康商品じゃなくても。

ゲスいですが。足元見てる。

そういうターゲッティングして商売してる人間自体も、いずれはその該当者になるんですよ。

自己決定

「おれは長生きしないんだ」つって、暴飲暴食してる人、ラク死ねると思うなよ。苦しむぞ。みたいな脅しツイートを見かけたりしますけど、まあ確かにそうなんですけど、それも安楽死があれば解決するんですよね。

日本における安楽死議論での反対派って「イジメみたいに同調圧力によって安楽死自己決定を促されてしま危惧ドグマにしてますけど、

すでに健康診断圧力によってつらい検査を受けさせられてる」現状があるので、たしかにそうかも。そうなるだろうなあとは思われます

自殺と他殺」という対比の概念がありますが、それと同じように「自生と他生」とでもいいましょうか。

どう転んでも、自分の体の健康維持や死についての決定権は、自分けが独占的・排他的に所有してはいない(できない)ようですね・・・。やはり自分の体は公僕性、公共物性を帯びているようです。それは国民皆保険であるから、国としては保険治療コストの高い病気をなるべく支払わずに済ませたいので、治療コストの高い病気にかかるリスクを下げておくための検査コストを支払っておく(強制的に受けさせる)ほうがトータルでコストが安い、という計算なのでしょうか。

他者圧力によって胃ろうで生かされてしまうようなことがある社会と、

他者圧力によって安楽死で死なされてしまうことがある社会

どっちがマシなんですかね?

同調圧力存在すること自体は不変なんですね。


勝手死ぬな」

勝手に生きるな」

勝手に言われるし、勝手に言う。

介錯してラクにさせてあげたほうがいいんじゃない?とも思うし、

もっと生きたかったんじゃない?とも思える。

人為的に死をコントロールできてしまうということは、サバイバーズ・ギルトってやつが生まれる。生存者の罪悪感。

面倒なことにならないように、自分の生死を他者人為的コントロール下に置かれることが無いようにしたいですね。

やっぱ自分コントローラ握って健康診断うけるかどうか決めたり、コロっと安楽死理想なんですよ。でもそれって一貫性としては、このコロナのご時世で「公衆衛生を省みない自分勝手自由な行動に出ることの許容」をも意味してしまうのですが。感染症や、医療保険の有無、といった社会的な連帯関係のものは物議をかもしますよね。そりゃ。

タイマーをセットできればいいのにね。デスノートみたいに。

自分死ぬときVR-HMDかぶって、なんか、すごい音と映像で逝きたい。

臨床宗教師仕事の中に「VR機材の管理」も含まれてくると思うんですよね、今後は。「テクノ法要」もありますし。映像や音声のクリエイターも、その走馬灯のような「最期映像」をクリエイトする日が来るわけですよ。

からVR業界から法曹界医療関係転職するようなキャリアパスもあるでしょうね今後は。

塞翁が馬

みとりびと、おくりびと

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