はてなキーワード: トリクルダウンとは
リバタリアニズムが自由最高ヒャッハーみたいな種類の思想だというのは、左翼や右翼やちょっと聞きかじった程度の半端な理解の人間による印象操作なんだよ。
ちゃんと調べて、まともな学者の書いた本を読めば、究極に理性的な思想だということがわかってくるはず。
北斗の拳みたいな世紀末状態がリバタリアニズムの終着、みたいな認識が2ちゃんやらの日本のネット上では書かれている事がよくあるけども、とんだ見当違いだよ。
じゃあどっちかというとアナーキズムか、というとそれも違う。アナーキズムだって、反支配ではあるが無秩序を望む思想じゃないし、むしろ調和をめざす非暴力の思想だ。
一部のアナーキストが、支配から脱するための暴力革命やテロリズムを認めているにすぎない。
話を戻して、リバタリアニズムは自由放任と表現されるけど、それがややこしくしている。その単語が表すイメージとは次元が違う。
きちっとした法治を是とするのは当然として、その場その場の属人的な裁量ではなく洗練された最小限のルールで世の中を究極にシステマティックかつシンプルにしようという考え方。
そうして、自由放任にしても大丈夫、人がどう動こうと失敗しようと必ず救いがあるし報いがある、だから寛容になれる、そういう環境をつくる、という意味での自由放任だ。
そのための最適なルールを、常識に囚われず考え続けることに余念のない人たちがリバタリアン。
もともとはリベラルと呼ばれた考え方だけあって、個人、人権を尊重しようとする考えはしっかり根底にある。
だから他人の自由を侵害することにも特に敏感で、それこそが右翼や左翼との違いでもある。
リバタリアニズム的な思考に基づく発言とか政策を切り取ってみると、傲慢や強欲を感じられる事もあるかもしれない。
でもそれは、国家よりもまず個人の幸福を尊重するからであることがほとんどだ。
長期的視野や全体的視野に立ってみると、国家に従属して集団の幸福を実現するより、技術的進歩に従って個人レベルの連携でもうまく機能する社会システムにシフトしていったほうが健全だし盤石だし平和的だろうという考えがあるから。
そういう感じで、一見突飛な意見も、より良い未来を導くビジョンに繋がっている。
そうではない、「怠惰な弱者は自己責任だから救済する必要がない」だとか「再配分は自発的な寄付、トリクルダウンで現状でも賄える」みたいな事を言う人は、
確かに昔のリバタリアンと呼ばれた人にはそういう人も多かったようだけれども(今でもいないとは言わないが)、もはや現代のリバタリアンはそんな強者の論理を振りかざす人たちとは違ってきていて、より柔軟で現実的になっている。
でもネットでリバタリアニズムを調べて出て来るのは、そういう古臭く悪印象な強者の論理ばかりなので、ほとんどの人がそこで学習が止まっている。
リバタリアンとされたミルトン・フリードマンだって、まじめに再配分を考えていて、負の所得税のような今で言うベーシックインカムに繋がる政策を考案したその人であるし。
彼のマネタリズムのようなリバタリアン的政策は、あの時代では失敗したけれども、現代そして未来のあらゆるものがデータとして数値・属性で可視化されるようになった世界では、
金融政策ではないにしろさまざまな分野でリバタリアン的な「裁量よりルール」が有効に働くようになってくるだろう。
リバタリアンと分類されて馬鹿にされる人たちの多くは、一般の人の想像が及ばないくらいの精細な未来の人類のビジョンを持っているように感じられる。
その人の専門分野、技術的知識によってその推測は本人的には裏打ちされているんだけど、他人からみると理解されない。
「いま」を生きる大衆目線で見ると愚か者の暴論にしか見えず、袋叩きにあうしかないんだけども。それでリバタリアニズム自体もなめられている。
CASHみたいなのってさ
要は殴り合いレッドオーシャンになりうる領域で上手く立ち回って
でかい会社に買収されて・・・っていう一見スタートアップのサクセスストーリーなんだけど
下々の者たちは
その殴り合いの前線で摩耗していくわけなのよ
トリクルダウンは滅多にない
あっちだと、殴り合いのレッドオーシャンであれ、良い物が作れれば下々にも恩恵がある
あそこまで額が大きくなるとトリクルダウンもあり得る
ITスタートアップのクソなところは、やはりイグジット周辺にあるんだと思う
買収、上場ででかい金が動いてしまうから、そちらにばかり世間の目が奪われてしまう
数年前、多くのIT関係者がゲームに流れた時、私はゲーム(遊戯)の一過性を嫌った
あれは花火のような一瞬のきらめきで、何かを積み重ねるものではない、そう思って行かなかった
しかし業界全体で見れば、今やあちらの方が充実しているように見えてしまう
人を感動させられるのなら、一瞬のきらめきで十分なのかもしれない
テレビ視聴に金はらうことができない人間にむけて民放で寄付番組とかもやめてください
ゴミになるその送り付けられて迷惑なものを売ったりして現金にかえてから募金できるようならその金で生活してます
ゴミを現金に換えることができないからゴミ屋敷に住んでるんです
貧者がボランティア好きななのは助けてといいたい自分を重ねて自分も助けてと言えば助けてもらえるのではないかと
そういう期待をもって寄付に前向きなだけでそれで億がたまったりするのは救うべきを見据えてじゃないです
金持ちが貧者から搾り取るのに金をださないのはその逆の立場だからでしょう
貧者は自分の財布からでる100円が1000円になって帰ってきてほしい気持ちで稚魚を川から大海に放っています
せめてその気持ちを売り払って金にすることくらいはしてほしい
届いたゴミがゴミにしかならないのだったら送り主であるいろいろと貧しい人間と同じだということをもっと言ってほしい
トリクルダウンやベーシックインカムやヘリコプターマネーや大発明でお金がはいってきてほしいんだと
それまでがんばるからみんなお財布からちょっとずつ現金をわけてほしいんだと
切り詰めて堅実に生活できない浪費貧乏のみなさんと同じ運営をしていますが助けてもらえませんかと
そうでないなら多額を寄付して節税に役立てませんかと富裕層にボランティア団体でも介して活動してほしい
おまえら頭がわるいからゴミをゴミとしてしかつかえないんだろというならゴミを金に換える方法をそこに一文そえてほしい
なんでクラウドファウンディングでありがとうの詩集を1万で発行するので金ちょうだいスポンサーには1冊贈呈しますとかしないの
ゴミしか送れない貧困層からの寄付なんて不要であるのなら募らないでください
現金最強なんでしょ?
企業の製品は孤児を見捨てたとか子殺し企業だと言えばだれも寄付を拒まないでしょ?
寄付額でどれほど人間をすくったか人数で競わせたらいいアピールにもなるんじゃないの?
なんでしないの?
2位じゃダメなんですかで話題だったころ研究室で教授が愚痴ってた話をする。
その教授曰く、要は大きな研究が重視される事が本当の問題だと。
話題になりそうな研究、日本すげーができそうな研究、ノーベル賞取れそうな研究
「問題はなにに金出してるかって話」
「結局、ビッグサイエンスなんだよ。ビッグサイエンス傾倒問題」
「でもだれも文句言わない。いつか俺たちも(甘い汁すいたい)って思ってるから」
「それに科学者って世間知らずで研究しか能がない連中が多いから、世の中のことわかってないんだよ」
いつだったか河野さんが申請書類のフォーマットを文部科学省に改善求めてた件で
大学のローカルルールを国が決めてるって勘違いして文科省に文句いってた人いたじゃん
文科省からそれは大学に言えよって返された件で思ったんだけど、大学教授って結構馬鹿なんだなって
だから書いてみた。
足の引っ張り合いをしろってんじゃないけど
泳げもしないのに飛び込んだり体力もないのに重量物を運んだりして
救ったつもりが問題を大きくしてるだけになったら「やらない善よりやる偽善」とでも言うつもりか
弱者が同じ程度ものやより上のものを「救おう」とした結果自分が上位者であることに気が付くことはあるかもしれないが
あくまで福祉をむさぼるために上位者を助けようとしてさらに庇護をうけなくてはならない結果になることものぞんでいるのは豚とかいうのもおこがましい
物理的に上から下に流れるがごとく自分がなすべきは自分より下位を救うことだけしかないのに
自分より知識のあるものに教えることといえば自分がいかに無知であるか愚かであることをみせ学習してもらうことでしかないのに
それらを相互関係ととらず、ほかに何一つ選択肢のない上下という言葉をもってきて
さらに中間部分はいちばん損をしているのでここはより手厚く、上位者はより多くの滴りを上流から流すべきだと飢えを乞うている
自分が「救われる弱者であること」を棚にあげてもいいが「そうやって自分という下流に施しをするのはもはや時代遅れ」と自虐をしてみせてどうしたいのか
相互関係として社会的に循環をしなくては滞りがあれば自分に滴るお情けがトリクルダウンという名前であれなんであれふってこない
ふってこないからと自分の支出を自分中心にお客様は神様感覚で上流にいるつもりで「下に流すのは損ではないか」と言い出す
ただの自滅ではないか
相互の発端となりもう上がないものの視点であれば、もう自分の懐から出すしか他あるまい
頂上はどこから恵をえるのか 既得権益でなければ「天から給わう」ことはないだろう
つまりだ
そういう考えそのもの構造そのものが中流への目くらましで 経営者感覚で世の中をみてる満足感につつまれて 自滅を選択させられてる
そういう部類がどういう話をしだすかといえば、今回のように「トリクルダウン」という単語をつかって話をしはじめる
自分が損得におもきを置かずに行動できる貢献は、そんなことで得をしない上位にむけて上位の負担を大きくするより
自分より下を救うことで上位の効率をたかめ中流は上流からの施しをより多くすることを望んでさえいればいいんだよ
自分より下流へ施さず下流の規模と程度をより大きくひどくしていけば自分より上位の負担はさらに大きくなり自分にまわす分も「さらに下流と同位にしよう」となるだろ
福祉への投資は確実に目に見える形で存在している。少なくとも、駅のホームに設置されたエレベーターは荷物をもった人にも優しい。ヘイトスピーチの規制は良好な環境に寄与するし、LGBTQへの配慮は人間関係を和らげる形で様々な人に利益がある。目を開けなくても手触りで確認できるシャンプーボトル、発達障害への理解が進み治安の改善に寄与すること、見やすい信号、シルバー人材を活用した安価なサービス……様々な形で、福祉への投資は社会の「住み心地」を目に見えて改善している。
一方、トリクルダウンについては、ほとんど幻想上の仮説とでも言うべきものだ。少なくとも、トリクルダウンが成立すると実証した研究はまだない。(「アベノミクス」の効果とやら言われているものは、トリクルダウンによるものではなく劇的な量的緩和と雇用の流動化がもたらしたもので説明がつく、経済政策としてはごく普通のものだ。)そんな両者をドッチモドッチするのは、あまりにも乱暴な扱い方だと思うぞ。
リベラルがよく言うこの理屈は、もう胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
この理屈からは、右翼のトリクルダウン理論と近いものを感じる。
右翼の言い分が「強者に尽くせば最終的には貴方も得をする」であるのに対して
左翼の言い分が「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」だと言う事だ
この両者の言い分が両方とも嘘であるならば、真ん中にいる人間の現状は、上と下の両方から搾り取られているようなものだろう。
福祉の削減や、弱者の切り捨てに賛成する人間の事を、「正しい損得勘定勘定のできない人間」というニュアンスを込めて、「肉屋を支持する豚」と呼ぶ事があるが、本当にそうだろうか?
「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」という言い分がトリクルダウン論者の言うそれと大差ないとしたら、弱者に尽くす者こそむしろ正しい損得勘定のできない人間ではないだろうか?
もちろんこのような言い分に対して「弱者に尽くす事は損得勘定以上の意味合いがあるのだ」と言う事はできるだろう。
しかしそのような事を言えば、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はますます嘘くさい物になり、信用を失うだけである。
私は冒頭で述べたように、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はすでに胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
福祉のリソースに上限があるという現実は、すでに十分見えてしまった。ここから先は綺麗事の通用しない奪い合いが繰り広げられる事になるのではないだろうか。
追記
現時点で約300のブックマークがついた。それを読むと「怪我や病気をした時の保険」というコメントが多い。
なるほど、確かに誰しも怪我や病気をする可能性はあるのだから、怪我人や病人といった「自分もなるかもしれない属性」を救う事は損得勘定として問題がなさそうである。
ではLGBTや外国人を救う事はどうだろうか?自分がそうなる事はまずないであろう人間がそのような属性の人間を救う事に意味はあるだろうか?
例えば「キモくて金のないオッサン」のような「救うべき綺麗な弱者」として認められる事は決してない人間が、女性やLGBTや外国人が今よりも生きていきやすい社会の実現に協力する事は本当に得だろうか?
「女性やLGBTや外国人が生きていきやすい社会は貴方も生きていきやすいですよ」というような言説は事実だろうか?本当にこのような言説は信用されているだろうか?
私はすでにこのような言葉は十分な説得力を失っているように思う。もしこのような言葉を信用する人間がいるとすれば、そのような人間こそ損得勘定ができない「肉屋を支持する豚」であるように思うのだ。
これ、ボイスレコーダーでも持っていったの?それとも記憶力抜群の人?
下からの声って、間違いなく人々の狭い知識に基づいた声だよね。それで政策やって大丈夫なの?
たとえば、絶対に増税に賛成しようって声は出てこないか超少数派になるだろうけど、その下からの声に基づいて政策を前に進めていくの?
あるいは、下からの声は利益の相反するものが大量に出てくるけど、それをどうやって調整していくの?それが出来る能力の根拠って何?
普通の人々は、時間もなければ情報源もない、専門知識もないから、政治家という専門家、あるいはその他の専門家に国民を代表して聞きに行ける政治家に任せているのだけど、
下からの声、草の根から進めていくとなれば、普通の人々にも今までより大きな責任が出てくるよね。その声が政策になってしまう可能性があるのだから。
でもそれって本質的には、「支持政党なし」とかいう名前の政党のインターネット投票政策みたいなものにならない?
豊かなものをさらに豊かにすれば、強いものをより強くすれば、そのうちその豊かさが国民の隅々まで行き渡る。安倍さんはそう説明しています。
これ、アベノミクスを批判する人が「アベノミクスはトリクルダウンだ!」っていう形でこのように言うけど、安倍さん自身がこう説明したことあるの?
相手の言っていないことを、勝手に言ったことにして、それを批判するようなことになっていない?
前原さんのALL for ALLのパクりだとも言われているけど、消費税の引き上げ分を教育投資に向けるとか、安倍さんはその過去の成功体験とかいうのと違うことを言ってるよね?
貧困格差の拡大によってぶ厚い中間層と呼ばれた、1億総中流と言われていた日本社会がどんどんどんどん分断されてしまっていて、遠心力が働いています。
ジニ係数とか、あるいは貧困率などを見ると改善しているけど、それでも貧困格差の拡大は続いているというの?
景気だって良くなるはずありません。
これはもう散々言われているけど、雇用の改善、正規雇用の増加が人口減少社会の中で起きている。
企業の設備投資も海外から国内に向けられるものが増えてきている。
これらを前に、景気だって良くなるはずありませんと言われても、だったらどこまでいけば景気が良くなったというの?としか思えないよ。
それは良い目標だけど、実際にはどうやるの?まさか介護職員や保育士の給料を上げるだけってことはないでしょ?
ルールを作るのは立法であり政治家の役割だろうけど、それを守らせるのは司法とか行政の役割だよね?
残業代ゼロ法を作る前に、今のサービス残業、ブラック企業、過労死自殺を止める、長時間労働を規制する、労働法制を強化しなければならないんです。
残業代ゼロ法っていうレッテルを貼ってるのは野党の側だけど、あれ中身はかなり厳しい労働時間規制だよね?まさに、長時間労働を規制するためのものだよ。
介護職員のみなさん。給料を上げましょう。おかしいですよ今。私たちの国は資本主義です。自由主義経済。価格、値段というのは市場で決まります。需要があって供給が少なければ値段は上がるんです。介護職員の数が足りない、命にも関わる責任の重い仕事、重労働にもかかわらず賃金が安すぎる。
保育士の給料も介護職員の給料も、広い意味で政治が決めています。介護保険の仕組みで例えば看護師さんは医療保険の仕組みの中で、保育士さんの給料も保育にどれくらいのお金を流すのかによって、保育士さんに払えるお金に上限があるから、人手不足でも給料が払えない。
この2つ、矛盾してませんか?
別に政府は介護職員の給料をこれ以上に上げてはいけないなんて規制をしていないですよね?だから、まさに今が市場で決まった給料なのではないですか?
むしろ、おっしゃる保健医療の仕組みによって、介護産業への補助金がある分だけ市場で決まる給料よりは高いかも知れません。
この保健医療の仕組みによって、市場で決まるより介護職員さんの給料が下がることはありませんよ。
だって、給料をこれ以上上げてはいけないなんて規制はないので、給料を上げて介護職員を増やしてお客を増やした方が儲かるなら、企業はそうしています。
需要と、「欲しい」というのを混同してません?需要というのは、単なる「欲しい」ではなくて、これぐらいのお金なら出せる、というのとセットのものです。
自由主義経済を無視して政府が重要だと決めたから介護職員には特別な最低賃金を設定する、それなら分かりますよ。介護職員だけそうするのが良いとは思わないので反対だけど。
「欲しい」はあっても需要が無いから問題が起きていたのではないですか?
介護職員の給料が上がって介護サービスの値段が上がったら、介護職員以外の人は介護以外に使えるお金が減ってしまいます。
介護サービスに政府が補助金を投入して値段を抑えても、その補助金は今か将来かは別として税金となって取られてやっぱり生涯での可処分所得は減ってしまいます。
つまり、集団的自衛権が安全のために必要だとすれば、改憲をしていくべきだということになりますね。
枝野さんは昔からそのように考えているところがあるのは知っていますが、はたしてあなたの支持者はそうでしょうか?そのことを前面に出して説明したことありますか?
でも、「目立つ議題ではなんでも反対の野党」という歴史を作ってきたのは、今の野党の祖先の政党ではありませんか?
ぜひ一緒に戦いましょう。
嫌です。
1.経済について
枝野の指摘通り。トリクルダウンは行われないので、再分配機能の強化が消費活性化のカギ。しかし民主党は最低賃金1000をぶち上げたのに、上げ幅が常識的な範囲だったので、枝野が底を支えると言っても誰もついていかない。介護職員だの保育士だの、個別のことを挙げても仕方がない。いっそ方向性を変えてベーシックインカムを枝野が言い出すべきだった。
2.憲法について
集団的自衛権について枝野は立憲主義によって批判的立場だが、議論の大本にある自衛隊の存在も憲法学者の7割は違憲と見ている。しかし自衛隊をどうするのかはなかなか言わない。
自衛隊の存在、つまり日本を守る(平和的生存権の)ために憲法に矛盾が生じているのだから、憲法を矛盾のないもに書き換えることを考えねばいけないところを、矛盾を放置して法律を正す方しか見ていないので論外。立憲主義の名のもとに自衛隊をなくされては困る。平和的生存権の侵害である。
3.一緒に政治をやりませんか。一緒に民主主義をやってくれませんか。
いいことをいっている。
4.一緒に戦いませんか。
もちろん、差別解消というのがモラルや人権の問題ということは承知しているが、
メリットで考えると、残念ながら弱者ほどそのインセンティブに乏しいと言わざるを得ない。
強者であればわかりやすい。反差別に乗れば、自分が正しい人間であることを大いにアピールできる。
政治家であれば、票を集めることだってできる。だが弱者がそれをやって何か意味があるだろうか。
また、強者は例えばLGBT向けのサービスを展開し、ビジネスチャンスをつかめるかもしれない。
だが、弱者は従業員としてLGBT向けの(従来の感覚で言えば変な)サービスに対応させられても、
それで出た儲けが自分たちまで実感を持って十分に行き渡るなんてことは、おそらくないだろう。
それで済むならトリクルダウンをバカ正直に信じていればいいのだ。
彼らに優しくしていれば、いつか自分たちにも回ってくると言われることもある。
確かにそうなのだろうが、そういう物言いにリアリティを感じられるかというと正直微妙だ。
学校でいじめられている側やその予備軍にしてみれば、自分たちは平気で軽んじられるのに、
その属性でいじめられるのだけはダメなのかという気持ちにもなるだろう。
こういうことを言うと強者の皆様方は、だったらお前らも団結して行動すればいいだろと気軽に言う。
しかし、仮にそうしても、アピールできなければ、金が儲からなければ、肩入れなどしてはくれない。
結局、メリットで動いているのは誰も彼も同じではないのか。
「真実はいつも一つ」といったとしても、私は、ジーザス・クライストでも、工藤新一でもないから、事実認識のなかからその真実が見極められるというわけではない。
(徳川武家慣習が依然とする)封建国家の日本では、長幼の序とか、男尊女卑とか(女ですら劣後させられるくらいだから、ゲイとかトランスジェンダーとか……)、教師は聖職で絶対権力であったり、先輩が絶対的に偉かったりする。少なくとも戦時中まではそれが当然だった。
同じ日本人であっても、徳川時代以前からの和人の方が先輩だから偉いわけで、後から編入させられた沖縄人や、北海道開拓使で征服されたアイヌ人とかは、差別されていたわけで。(いわゆる「純粋の日本人」とはそういう差別的表現だ。)
ましてや、日韓併合で日本国民の端くれになっていた韓国人の扱いなんて、最下層であるわけで。
やっぱり身内である日本人がかわいいから、危険職種は身分の低い人にさせたいと思っていたわけである。同じように、いわゆる穢れ仕事もそうだ。
例えば土木建設工事なんかでも、現場で命がけで肉体労働をする層にはいわゆる外国人労働者を使う。事故なんかで災害死しても、日本人が死んだとなれば立派な慰霊碑かなんかが建ったり、新聞報道で実名が載ったりした。それに対して、韓国人労働者だとかが災害死しても、およそまともには扱われなかった。
今のように機械やエネルギーを贅沢につかってでも人命最優先ということは、当時は不可能だ。だから、「使い棄て」が要り、死人が出ることもいわば「必要悪」かなにかと思われていたのだろう。例えば北海道の開拓には、刑務所の受刑者が従事して沢山死んだ。少なからぬ土木工事に「タコ部屋」もあった。
かつて「江戸にもない」景気の江差でニシンを獲ったのは、出稼ぎの季節労働者の「ヤン衆」で、(身分が低いし、教養もないし、将来のことなんか考えないので)資産を溜め込めないからパアーっと遣うので活況になったのは当然だ。ヤン衆を雇う網元が最も儲かり、資産を貯蓄しても非難されない。
炭鉱の採掘にしても、危険職種で死ぬことも多い、死ななくとも身体がやられるのだが、賃金は出る。生命と身体と引き換えに稼いでいるというのが実際だ。いわゆる「軍艦島」なんて、当時では物凄く贅沢な暮らしができていたようだけれど、多くの時間を島の中で閉じこもって生活するわけだから、自由は少ない。
「トリクルダウン」(おこぼれ)で「恵んでやる」ということだ。つまり明らかな社会的格差があって、強者が弱者にチャリティーで恵んでやる。そういう社会。
日本社会では身分の低い層であれば、出稼ぎしてでも稼ごうと思う人は多いわけで、甘言で騙すなどということもそれはあったとは思うけれども、たとえ騙しじゃなくたって、被差別層(社会的弱者)は事実上、穢れ仕事でもせざるをえないことに往々にしてなりがちだ。
たとえ徳川時代からの日本人が同じ職種に就いたとしても、日本人の方が優遇されるというのも明らかにあったわけであり。
あとは、言うこともないだろう。
その社会的事実を、どのような価値観に基づいて主観的に評価するか、そういう問題が「歴史認識」と呼ばれているようだ。主観的評価なのだから、一つにはなれない。