はてなキーワード: ディープとは
レコメンドに従ってるだけのやつなんてまさしく豚だろ
自分の興味ある界隈の動画投稿者やWeb発信者で、どのへんの人々がトップインフルエンサーなのか
誰が最新の情報を把握してるのか、テクニカルなセンスがあるのは誰なのか
そういうディープな部分にはレコメンドに頼っていたらたどり着くのに時間がかかりすぎる
上を目指そうとする人に下に戻れと圧をかけてくるものがレコメンドだから
それに従って何に対しても無知にほど近い低水準に留まり続ける人間のことを豚と言うんだよ
いかにリコメンドシステムが洗練されていこうと、本質的にそれはゴシップサイト週刊誌日刊紙まとめサイトいかがでしたか系ペラブログに浸るのと大して変わりないのだ
豚のように丸められるな
ガキの頃藤崎マーケットや小島よしおが流行った。今や何が面白いのかはさっぱり分からないが、ゲラゲラ笑っていた。小学校ではラララライだのそんなの関係ねーだのが流行りまくっていた。ハードゲイは今でもちょっと面白いと思う。
中学の気難しい頃は居間でテレビを見る事も減り、キャッチーなギャグで笑う年でもなかった。友達同士でお笑いが話題になる事もなく、漫画の話が多かったと思う。銀魂とかギャグ漫画日和のユーモアは新鮮で、一周回ってとかではなく逆張らず、順張りのノリで素直に面白いと思っていた。
オタクじみたのが多い男子校だったからか、グループ内ではニコ動を観てネットスラングで会話する事がクールな風潮があった。くだらないMADだかやらないかだかの話をして、PSPに落とした動画を観て盛り上がっていた。
スマホを持ってから家でまとめサイトを見るようにもなった。テレビでは見られないようなブラックでエッジが効いている「尖った」おもしろコピペを読み漁った。友達にネットの受け売りで話したおもしろトークはウケが良かったが、自分の言葉で喋るのが下手になったし、今でも尾を引いている気がする。
総じてテレビやお笑い芸人の「浅い」笑いから、「ディープ」でマニアックな笑いを好むようになった頃だと思う。まあ誰しもムキムキのアンパンマンやドラえもんのような「シュール」さを好むような感性の年頃でしょう。
一度姉に連れられて新宿ルミネの劇場へ行った事もあった。既に芸人への不信感(?)があったので、嫌々。当時の感覚で、退屈というほどではなかったが、フフッと笑える程度の面白さだった。ずっとムスッとしてるのも感じ悪いかなと思いそうはしなかったが、まあ我慢しようと全然耐えられる感じだ。一切笑えないコンビも少なからずいた。偉そうに素人素人言ってプロ面する癖にこんなもんか、というのが感想だった。
高校の頃にはすっかりネットに毒され捻くれまくったガキになったので、順当にテレビのお笑いが嫌いだった。「マスゴミ」が大嫌いで、バラエティ番組を観てるいような人間が低俗に思えた。捻くれた性格がインターネットへ導いたのか、本当にネットに毒されたのか、あるいは相乗効果なのかは分からない。
この表現は嫌いだけれど、高校にもなるとクラスで「陽キャ」と「陰キャ」とがかなりはっきりと分かれる。それについて色々と気にかける事も多い年頃だ。無論自分は後者で、それが「捻くれた自分」をアイデンティティにしようと思わせた部分もあるのかもしれない。
昔よくあったネタ見せ番組は消え、芸人を名乗りながらネタも見せない(劇場での興行が基本という感覚がなく、ネタはテレビで見せるものだと思っていた)。ロケで飯を食ったりスタジオでトークするだけ。こちらは芸人の先輩後輩など知りもしないのに、内輪ノリでくだらないギャグに愛想笑いする彼らに嫌悪感すらも覚えていた。
思春期の焦燥に強く駆られる時期で、「低俗」である笑いを求める事自体が減った気がする。などと言いつつ、学年中で淫夢が流行り、とにかく会話に語録を挟むのがクールだった(最悪)。最初は「は?野獣先輩?114514って何?おもんな……」と心の底から思ったたものだが、無事イキスギィでゲラゲラ笑う身体になった。今思えば凡庸なオタク高校生だが、当時はゲイポルノで笑うヤベー俺ら、みたいな意識があった気がする。
大学生になり、流石に対外的な社会性の大切さに気が付き、斜に構えた態度は内面とSNSで大切に留めておくようになった。
「普通」になりたいとは特に思わなかったが、普通の何たるかは知っておいた方が良いと思い立った。その一環として、人気バラエティの「相席食堂」を観てみた。面白いと言われている回を選んで観たところ、これが中々面白かった。いつしか素直に楽しむようになり、シリーズの最初から通して観ていた。その最中、かまいたちの山内が出た回が強烈につまらず、不快感すら覚えた。つまらない癖にsupremeを着ていたのに余計腹が立った。消えかけていた芸人への嫌悪感が急激に吹き出した。
あまりに不快で、逆に興味が湧き色々と調べてみた。M-1なるお笑い(漫才)界最大の大会の存在と、かまいたちがそこでかなりの結果を残している事を知った。
自分は漫才が特に嫌いだった。コントを面白いと思った事はあるが、漫才で笑った事はそれまで人生で一度も無かった。これはよく言われるエンタの罪なのかもしれない。ジャリの頃好きでよく観てたので。
こんなにつまらない芸人が最大の大会で良い結果を残せるなんてどれだけお笑い界はレベルが低いんだと思い、ネタを観てやろうと思った。2018だか19だかのM-1を観た。
かまいたちのネタを見て、初めて漫才で声を出して笑った。面白かった。優勝したミルクボーイよりも面白かった。この時完全に芸人への嫌悪感が吹き飛んだ。内輪ネタや共有されたミームに頼らない、最大公約数的なお笑いでここまで面白くできるのかと。毎年M-1を観るようになった。良いと思う芸人のバラエティも。
その後数年経ち、やや熱は冷めてきた。テレビ的お笑いをつまみ食いして、自分は芸人やテレビ的笑いが好きというよりは、単にかまいたち他数コンビが好きなだけだったのだろうなと思った。
ただ、得られた事がある。フン、つまんね。これでプロなのか。などと思いながら品定めをするように観るのが間違いだった。笑いを求める人間が、「我慢しようと思えばできる」などと喧嘩腰になるのがおかしい。
あと、内輪感に入り込むという事を知った。確かに大して知りもしない芸人の内輪ノリは、見ていて不快さを覚える事も少なくないだろう。でも、前提となるミームや空気感を知り、彼らのノリに慣れてしまえば中々面白いものだ。たまにくどいなと思う事もあるけれど。ネットのユーモアとて、所見で笑えるようなキレのあるものもあるが、前提となる感覚や風潮を要するものも多いだろう。
漫才コントが下ネタや内輪ネタより高尚な笑いだとは別に思わない。テレビではとても出せないような下品でエッジの効いた笑いも未だ大好きだ。しかし最近、(多分ほぼインターネットだけで)流行っているオモコロ的なユーモアが苦手に感じるようになってきた。マイナーだけど特定層に深く刺さるようなあるあるや、気の利いたシュールさは、つい上手いなあと思ってしまう事もあるものだ。これも今までずっと愛してきた捻くれたユーモアの類だろうに。結局逆張りじみた感性そのものは変わっていないのだろうか。
逆張りがいけないとは思わない。自覚的な逆張りを貫ける人は好きだ。でも自分の価値観や信念に基づくというより、単にミーハーなものへの嫌悪感がそうさせているのなら、少なくともそれに自覚的であった方が良いと思う。芸人がよく言う「批評家気取りの素人」は、そういう素直さの大切さを言っているのではないかと思った。もちろんポジショントーク的なマウンティングもあるのだろうけれど。一度素直に受け止めて、それでも合わないなと思ったらその気持ちは大切にして良いと思う。嫌いは好きと同じくらい大切だ。
画一さや没個性を嫌う気持ちは誰にでもあると思う。その気持ちは大切にして良いものだとも。ただ、単にメジャーの逆張りをした所で、それはメジャーの裏返しでしかない。マイリノティにはなれるかもしれないけれど、それもまた没個性的なものだ。ありきたりだが、個性とは自分の好き嫌いを大切に重んじた先にあるのだと思う。
笑う時くらい小難しい事は考えない方が良いですよ絶対。
ディープ全兄弟の仔であるキタサンブラックにはしっかり国産系の血が入ってたわけで、
期待されてないから高額ディープはつけられなかった、というのはその通りかもだが、
だからキズナ、リアステ、シルバーステート、サトダイ、ブリランテ、ダノンバラード、リアパク、ミッキーアイル、フィエールマン…どれもキタサンみたいな国産系の血を持ってない後継ばかりになってしまった。種牡馬としては現状はキズナがなんとか結果出してる程度。
今から国産系の血を持つ牝馬につけてもキタサンより1世代遅いわけで、
血を繋げるという観点だけで言えば、ディープ仔にもっと国産系の血が入ったのがいてほしかった。
「国産系の血を持ってる牝馬」はたいていサンデー系と掛け合わされてたし難しいんじゃね
ディープも思考停止でストームキャットばかりにつけずに、国産系の血を持ってる牝馬にももっとつけててほしかった。
キタサンはサクラユタカオーの血もひきながら、リファールのクロスもあるという面白い配合だったと思う。リファールの血はイクイノックスの母系にもあって、そのクロスも有効だったんじゃないかなー
「誇大広告と現実の違いを理解する必要がある」これはAIにしろ量子コンピュータにしろ言えることだ。
ロケットに関しても、火星に移住するようなレベルに達するのかというと、それよりも地球上で様々な問題が顕在化するのが先だろう。
AGIについては、誰もその方法を知らないと言える。ここ10年で起こったことを踏まえたら、それはヒントにはなるだろうが、その多くは非常に単純な技術である。
2030年にAGIが誕生する可能性はどのぐらいあるのか。50%でも希望的観測だと考えている。
ディープフェイク、チャットボット、音声合成、画像生成など色々あるように思うが、本質は「transformerにポン」だ。進歩しているのは莫大な計算資源を扱う人間のスキルであり、数学的な進歩はそれほどあったとは思わない。
「シンギュラリティ!」と発狂しながら言っている他界系は沢山いるが、「特定の能力を持ったAIを仕事に配備して何でも自動化する」ということが可能になる範囲には確かに興味がある。
例えば「新しい漫画を作りたい、そのために必要なリソースを設定してアウトプットを出してくれ。ストーリーは大体こんな感じだ」とAIに命令する。「リソースの見積もりができました。それを実行するためには500ドル必要です。支払いますか」「はい。支払います。ポチ」「しばらくお待ちください...出力がダウンロードできます」みたいなものだ。
現在のアレクサやらSiriやらは全然ダメで、特殊化されすぎているし、仕様もなんとなく投げやりである。この方向ではAGIにはなりそうもない。「人の声」なんてインターフェイス部分は本質ではない。
GPTなどの巨大言語モデルは、学習後のパラメータが巨大ではあるものの、ソースコードはとても単純で短い。
つまり今後進歩が望めるとすれば、一つはハードウェア的な進歩であり、1)ハードウェアの能力, 2)ハードウェアの価格, 3)ハードウェアが誰でも使いやすくなる、といった方向だろう。
AIの最先端企業で働く連中は「集団思考」に陥っており、それを避けるために独立して研究開発する人々もいる。投資先としての魅力があるかはわからないが、一つは潤沢にハードウェアを使えるかどうかが鍵だろう。
しかしダメな投資先とは、「OpenAIのAPIを使ってちょっぴりファインチューニングして画像生成とテキスト生成をしました」というタイプの連中だ。これは一時的な炎上で資金は貰えるかもしれないが、優位性がすぐに失われる。