はてなキーワード: ズールー族とは
https://anond.hatelabo.jp/20210708183653が字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足します
ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくまで事実として記載しただけです。無論、ISILが惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。
・ペルシス門の戦い
B.C330 アレクサンドロス大王の東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000
マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。
・マリツァの戦い
1371年 オスマン・セルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万
セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。
・ペンコの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万
スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。
・チャカンの戦い
ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。
・スラトの戦い
1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万
スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。
・サラタの戦い
1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万
サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。
・トルナの戦い
1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000
ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。
・コーレーガオンの戦い
1818年 第三次マラータ戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000
マラータ軍とイギリス軍が交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。
1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万
フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍と交戦し撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。
・ヴェコプの戦い
1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000
マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜を強奪することに成功した。
・チンハットの戦い
1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000
イギリス軍が反乱軍と鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。
・トゥエンクアン包囲戦
1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000
フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。
・ドガリの戦い
1887年 エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000
エチオピア軍の大軍がイタリア軍の大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。
・サポティラルの戦い
1927年 サンディーノ戦争(アメリカのニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上
アメリカ軍・ニカラグア政府軍は撃墜された米軍パイロット2名の救出に20名派遣する。救出隊は途中でゲリラの待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。
・フォルネブの戦い
1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80
ノルウェー航空部隊がドイツ空軍と交戦。ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘はドイツ軍の勝利に終わった。
1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツ・イタリア軍4万5000
ロンメル将軍指揮下の枢軸軍が自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍の勝利につながった。チャーチル、ド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。
・ヴェロニク作戦
1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援
フランス軍はFLNの活動を鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦を実施する。FLNはゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。
・ヴェラノ作戦
1958年 キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000
バティスタ政権は反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロ、チェ・ゲバラ指揮下の反乱軍に返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。
・サンタクララの戦い
1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900
反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララを攻撃、4日で占領した。その直後バティスタはドミニカへ亡命し、キューバ革命が成功した。
・ドゥヴロブニク包囲戦
1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000
ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。
・サパティスタの反乱
1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万
メキシコ最貧州チアパスで先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税の撤廃に反対、一斉蜂起した。政府はゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民の権利と文化を尊重するサンアドレアス協定が結ばれた。
・ファルージャ陥落
ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。
・モスル陥落
2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000
ISILがモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。
・バイジ奪還
2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援
イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISILは2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。
・ラマディ陥落
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
元『映画秘宝』編集部員の秋山直斗(ナオト)さんにも不正義や不公正と一緒に闘ってもらえるように、引き続き頑張ります。今回から、出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判2』(2004年、洋泉社)となります。発言者を「町山」及び「柳下」と表記。記述形式は
[ページ数]
(初出)
です。
なお、問題発言だけでなく「今から見返したら『味わい深い』」と云う発言も有ります。
〈警告!〉差別発言などの引用が含まれるため、読むと気分が悪くなる可能性が有ります。
[p022]
【※】『ブラックホーク・ダウン』の話題で『スターシップ・トゥルーパーズ』と比較。これら欧米の作品で描かれる「多勢に無勢の戦闘」場面の原点はズールー戦争に関する欧州人の記憶・イメージだとした上で、以下の発言が出てくる。
町山:南アフリカを侵略したイギリス軍が、原住民のズールー族と戦争になったんだけど、とにかく槍持って押し寄せてくる原住民を鉄砲でバンバン撃ち殺して、もう英国兵一人あたり百人くらい殺すんだけど、死体の山を乗り越えて、無限に押し寄せてくるの。土人が。
(初出『映画秘宝』02年vol.29)
[p033]
【※】『ビューティフル・マインド』の主人公のモデルとなった経済学者ジョン・ナッシュの話題。
柳下:映画でのラッセル・クロウは数学に夢中で女性に興味がなく、そんな彼の純粋さに惚れたジェニファー・コネリーとの純愛物語になってるけど。
(中略)
町山:しかも、男性の恋人とおおっぴらにキスするのを研究者仲間が多勢目撃している。
(中略)
【※】町山智浩の語り口は、まるで「同性愛は恥ずべき罪である」と言わんばかりです。その上、精神疾患患者は迷惑な存在と断言します。
(初出『映画秘宝』02年vol.30)
[p037]
【※】『スパイダーマン』
町山:しかし、ピーターってホントにイラつくぜ。キルステン(・ダンスト)におどおど「ち、ちょっと、しゃ、写真撮らせて」って頼むときのナヨナヨした声!いつも口元から消えない卑屈な笑い。
(中略)
町山:うー、ムカつく奴だ!目の前にいたらぶん殴ってやる!あいつ、スパイダーマンになったあともナヨナヨ声は変わらない。「僕はあなたの親愛なる隣人」って言うときも、「ぼ、僕はあなたのしんあいなるゆうじんでしゅー」って感じ。
【※】改めて思ったのは「本当は、町山智浩たち自身が、Jocksの一員になりたかった(そして、弱い者イジメを楽しみたかった)のではないか?」と云うことです。
【※】他者に対する攻撃手段として「ナヨナヨした喋り方の物真似をする」と云う手法をとるところが、いかにも「パワハラ常習者」っぽさに溢れているように思います。イジメっ子気質が有る人は、この手法を好むような気がしますね。
【※】そもそも、俳優の演技にオーケーを出したのは監督なのだから、文句を言うならば監督に言うべきでは?
【感想】パワハラ・イジメで思い出しましたが『映画秘宝』界隈の一人である中原昌也は、Corneliusの小山田圭吾と仲良しです。その小山田圭吾は、高校時代にイジメ加害者グループ内部で「いじめの発案者」の役目を担っていたと、悪びれもせずに自らインタビューで面白おかしく語ったことでも有名です。
高橋ヨシキとの共著『嫌オタク流』の中で、中原昌也が執拗にアニメオタクを攻撃していたのも、中原昌也の中に有る「イジメっ子精神」をアニメオタクの存在が刺激したからではないでしょうか?
以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイートの問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃんの献血ポスターについての議論を行う。
どこにあるの?
どうやって見つけるの?
それは反証可能性あるの?」
って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。
そもそも「社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造と人間の行為の関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。
人間が社会構造を作り、その社会構造が人間を規定するというのがどういうことなのか(ミクローマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。
この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています。
以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。
まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いものは科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなたの信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルトは科学ではないと結論されます。
しかし、である。オカルトが科学ではないのはいいのですが、すべての科学が反証可能性を持っているかというと怪しい。化学や物理学の最先端の研究だと、現状そこの施設(しかも営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーとかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーとかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーン、STAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。
反証可能性の理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学者コミュニティからのまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートンは万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートンは万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出しで理論のマイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います。
そういうのをコミコミで、普通「反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。
この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。
社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的に社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントとスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームとウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコント→デュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーとウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコント→デュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーとウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります。
さて、時代は19世紀初頭、フランスにコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけあまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会〈物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会がしっちゃかめっちゃかな状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオンが独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党と共産党が政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法が必要だよね。そのための方法が社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのは、コントが王様や教会の権威(当時は王様も神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまいますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。
それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養の講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会がしっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会が個人に影響する」という概念自体が存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的な社会的事柄を統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死や戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプが殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケームが社会と自殺の関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本の社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口に膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋か苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソードが個人的に好き。みんな知ってることを統計的に確認するのが大事なんです)。
このデュルケームの研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造が存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史に通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史の最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。
まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義がうさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能なこんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケームも自殺が社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソドロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧な概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。
それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義を批判した例として、イアン・ハッキングの『何が社会的に構築されるのか』『何が社会的に構成されるのか』(誤字指摘感謝! Twitterで「社会構築主義」と「社会構成主義」の違いを尋ねていた人がいましたが、場合によって一緒だったり違ったりします。ここではルーズにごっちゃにしていましたが流石に書名はだめですね)を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思います。ハッキングは学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているもののリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟、子供のテレビ視聴者、感情、事実、ジェンダー、同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民、自然、口述歴史、ポストモダニズム、クォーク、現実、連続殺人、工学システム、都会における学校教育、人口統計、女性難民、若者のホームレス現象、ズールー族のナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者のホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォークの社会的構築」とか「ポストモダニズムの社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具のメーターを社会的存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学は社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りのレベルに達してそうですげえなと思わされます。
ハッキングは中でも「ジェンダーの社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念はそもそも「生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初の20ページくらいまででまとまっているので。
長すぎたので続きます
https://anond.hatelabo.jp/20191103164229
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448