はてなキーワード: スピルバーグとは
上映当時をリアルタイムで経験したくせに、その頃は歌番組やプロ野球といったメジャーなものにノレなかった、
今で言うド陰キャコミュ障のキモオタだった自分は、ハリウッド映画にも全く触れずに過ごした。
おかげですもごっつも、スーパージョッキーや元気が出るテレビとかも、B'zもドリカムもユーミンもスルーしてたのだから筋金入りだ。
そんなキモオタ学生も、今やどこにでもいる冴えないおっさん、いやジジイだ。
そんなジジイがTwitchの推しが「見る」というだけでホイホイ見に行くんだから、まあその、なんだ、特に弁解はない。
さて、きっかけはともかく、同年代からは「は?今頃?」と言われそうなタイミングで、ジュラシック・パークを見た。
感想としては、結構想定外な意味で「いい映画だわ」と余韻に浸る結果になった。
以下、一応ネタバレあり。
正直、今回ちゃんと見るまで「まあハリウッド映画だし終始大スペクタクルで迫ってくるんだろうなー」と思っていた。
でも実際は「そこまで騒がしくない」というか、きちんとSF小説の原作をリスペクトしたというのが納得できる、良作だった。
個人的に小説ベースの名画というとスタンド・バイ・ミーくらいしか出てこないが、あれに通じるストーリーの「真面目さ」「細やかさ」が作品のうまみになっているというか。
しかし同時に、声を出してしまうようなカメラワーク(Tレックスとかヴェロキラプトルとか)も随所に散りばめられ、最後まで飽きずに見れたのは、さすが名監督スピルバーグの演出と言っていい。
ちなみに作中のイケメン数学者が薀蓄と口説きで披露するカオス理論は、確かに当時の流行りだったが、それが回り回って今のAIとかにも関係しているんだから、息の長い分野である。
とはいえフィクションの中に出てくるITなんてリアリティ的な意味でロクなもんじゃないし、実際この映画も警備システムをはじめ、微妙な所があちこちにある。
その上で注目したのは、本作での事件の発端となったシステムエンジニア(兼プログラマ)のキャラ。
ピザをクッチャクッチャさせてそうなデブというのは、家庭にあるパソコンがオタクのおもちゃでしかなかった当時では、プログラマのステレオタイプだったわけで。
何より、アメリカでもGAFAが世界の覇権を握るほど伸びてくるまでは、たとえハーバードを出ていてもSE仕事はブラック待遇というのは考えさせられた。
まあ日本じゃ、令和の今もそんな感じだし。
更に当時はWindows95すら出ていないので、業務用にプログラマが使う計算機のうち、フルGUIのワークステーションといえばUNIXとなる。
なので本作でもMotifだかXViewだかをGUIにしたっぽいUNIXワークステーションを、例のデブも使っていたし。
あとUNIXといえば、金持ちじーさんの孫2人のうちパソコンが趣味の姉がUNIXを使えるというのも、もし父親が研究者なら納得である(macでもいいけど)。
初代ライダーやV3、X、ウルトラマン、セブン、タロウなどは見た記憶があるし、友人との話題にも上がっていた。
この増田自身も雑な先入観が多くて、批判してる「特撮嫌い」と同じことをしてると思う。
庵野だってすべての「和製特撮」を手放しで褒めてるわけじゃないでしょ。むしろ偏ってると思う。
ただ、俺自身もそこまで詳しいわけではないので、あまり増田を批判できないが。
シリーズで言えばウルトラマンは海外での「USA」や「グレート」があったりして、見てはいなくとも話題には上がってブランドを延命していたし、辛うじて「ウルトラマンキッズ」とか「パワード」があって、「ティガ」に繋いでいた。
ソフビを集めてる子とかはそういうのすごい詳しくて、「USAみてー!」とか話してた記憶がある。
玩具とかアニメとか海外展開、あと「ヒーロー戦記」とかのゲームも結構キモだったと思う。
※「パワード」に関しては、庵野と仲いい樋口真嗣(ガメラの特撮)が関わってたんだけど、まあ本人たちがネタにするような出来だったりする。
映画で言えば平成ゴジラなんかはあれでもみんな割と楽しんでてメカキングギドラとかデストロイヤかっこええーってなってたし、忘れてはならない「平成ガメラ」も登場してる。
ただまあ石森系は「真 仮面ライダー」とか「ZO」とかあとなんか「ハカイダー」とか、ビジュアルグロめだったり「大人に向けた内輪向け」感が強い作品だったのが、なんだかなあ感はあった。
でも子供向け漫画雑誌で仮面ライダーのシリーズがあったり、やはり漫画・アニメの役割は大きい。
「ポワトリン」とかもあったな。
そんな中でも一番偉かったのは東映スーパー戦隊とメタルヒーローか。
「女リーダー」「全編ギャグ」といったエポックな「カクレンジャー」や「カーレンジャー」は94年、96年に登場してる。
「特撮」の本道とは少し違うかもしれないが、でもまあ本当に東映はよくやってたよ。
ここからはさらに個人的な偏見だが、昭和50年代かそれ以前の人の方が「本物の特撮」をリアルタイムで体験してる分、その後の特撮(平成ガメラ以外)にケチをつけてる印象がある。
ただこれも仕方ないというか、少年時代に「本物」を見た後には「劣化コピー」が続き、さらには「海外の本物」を同時に見てるんだもんな。
映像的にも「アビス」86年、「ターミネーター2」91年、「ジュラシックパーク」が93年。
「ジュラシックパーク」を見た前後に、じゃあ日本はどうなのかっていえば「REX 恐竜物語」とか「水の旅人 侍KIDS」とか「北京原人 Who are you?」なんだぜ・・・そりゃキツイよ。
で、まあ80~90年代と世の中全体の物差しが「世界基準」になってる中、その世界の映画監督が影響を受けたと公言してて、世界で戦えてたのが「漫画・アニメ」なわけで。
「青少年時代」にそんな体験をすりゃあ「漫画・アニメすごい」ってなるのも当然の成り行きよ。
繰り返すが、「ジュラシックパーク」のあとに「REX 恐竜物語」を見せられる気持ち、想像してみてくれよ・・・
オリンピック関連のホロコーストネタで盛り上がったが、個人的にはあまり興味はなかった。何せ、私はホロコーストそれ自体のことは実際詳しく知らないのだ。興味が偏っていて、関心があるのはいわゆる「ホロコースト否認論」だからである。否認論に詳しいのに、ホロコーストそれ自体のことをあまり知らないって変に思うかもしれないが、そりゃまぁ全然知らない人よりは遥かに詳しいけど、例えばワルシャワゲットー蜂起なんて言う有名な事件についてなどほとんど全然知らなかったりする。だもんで、話題になったホロコーストネタについては「へー」程度にしか思わなかった。興味が湧かないんだから仕方ない。
でも、ホロコーストへの興味が向く契機にはなる。最近は、ホロコースト否認に対する活動も停滞していたのだけど、Netflixで暇つぶしでもしようと思っていたら、たまたま目についた『シンドラーのリスト』。そう言えば、まだ二回しか見たことがない。その二回とも、ホロコースト否認やホロコーストそれ自体にすらほとんど知識がなかった頃の鑑賞だったので、ある程度知識のある今ならどんな感想を持つだろうと思って、鑑賞したのである。史実・原作通りではないこと程度は当然知ってる。例えば、映画の中の本当の主役であるアーモン・ゲート所長は、あのバルコニーから狙撃するのは実際には不可能だった、なんて話も知っている。プワシュフ収容所跡地はユダヤ人団体の反対により、当時使うことは出来ず、近所の採石場を使ったので、それに伴って原作の記述から変更したのである。
ともかく、映画は原作通りではなく、史実に基づき考証も経ているとはいえ、全体としてはフィクションである。そんなことは細かい話を知らなくとも映画を見てりゃ誰でも分かるはずなのだが、呆れたことにこのシンドラーのリストですら、ホロコースト否認論者たちは「事実ではない」と否認論に利用するのである。例えば以下のように。
この映画は、全く持って史実ではありません。その事を、私は、ニューヨーク・タイムズの2004年11月24日の記事で知りました。同紙が2004年11月24日に掲載した、エロン大学の歴史家であるデイヴィッド・M・クロウ(David M. Crowe)教授へのインタビューの内容は衝撃的な物です。クロウ教授に依ると、この映画が描く出来事が有ったとされる時期に、シンドラーは、収容所所長であったアモン・ゲートへの贈賄によって刑務所に入れられており、この映画が描く様な活動を出来た訳が無いのです。その他、多くの矛盾を同教授は指摘しており、この映画を「実話」と錯覚する事は全くの間違いなのです。(詳しくは、ニューヨーク・タイムズ2004年11月24日に掲載されたクロウ教授へのインタビューをお読み下さい。)
この映画が、イスラエルの墓地の場面で終はる事が、イスラエル建国の美化である事は余りにも明らかです。プロパガンダは感動的である事の一例です。皆さん、もっと、冷徹に物事を見てはいかがでしょうか。この映画が、オスロ協定に基ずく中東和平交渉とそれによって起こったイスラエル・ブームの時期に公開された事は、はたして偶然だったのでしょうか?私は、スピルバーグ監督が好きですが、同監督が、フィクションを史実と錯覚させるこの作品を作った事を本当に残念に思ひます。
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7074177.html
西岡は、マルコポーロ事件で一気にその界隈の知名度トップに上り詰める以前は、英字新聞の常連投稿者であったらしい。だからニューヨークタイムズも定期購読でもしていたのであろうか、そうした記事を見つけたのだろう。
さて、西岡の文章、後半のイスラエル云々は、ネットの一般否認者でも使う論理なので無視して良いと思うが、問題は前段である。西岡の書き方では、『シンドラーのリスト』全体が全くの嘘であるかのようにすら読めてしまう。もちろん、映画はフィクション性が強いと言っても全くのウソではない。オスカー・シンドラーは実際に約1000人のユダヤ人の命を救ったのである。トマス・キニーリーの原作は史実と見做されているし、映画は概ね原作に沿っている。では一体どう言うことなのであろうか?
西岡は、私自身とTwitterでやり合った時もそうであったが、参照文献の示し方が杜撰なことが多い。その時は、西岡は「国会図書館で読める!」と豪語しながら文献名すら示さないという呆れた態度すら取っていた(その後その文献をめぐってややこしいやり取りになったがここでは触れない)。今回もまた「ニューヨーク・タイムズ2004年11月24日に掲載されたクロウ教授へのインタビュー」である。あのね、そりゃそのニューヨークタイムズは探せばどっかにあると思うけど、常識的に考えて一般日本人が、ある特定の日のニューヨークタイムズなんてすぐに探せると思う? 「普通は」とはあんまり言いたくないけど、普通は他者の参照のし辛さを考えて、一部その記事を引用とかすると思う。それを「お読み下さい」って、いちいち図書館にでも行って調べろとでも言いたいのか?
というわけで、普通ならニューヨークタイムズなんか参照できないと諦め、西岡の言っていることを鵜呑みにするか、あるいは真偽不明として信じないか、だけだろう。ところが、今時の時代、ある程度ならなんでもググれば見つかる便利な時代であった。その記事とはこれのことである。
Book Adds Layers of Complexityto the Schindler Legend - The New York Times
ニューヨークタイムズの記事って、有料だとほとんど全部ネットで読めるそうだけど、まさかこれが無料で読めるとは意外だった。当該部分のみを翻訳して引用しよう。このニューヨークタイムズの記事自体、ちょっと書き方が悪い。
「シンドラーはリストとはほとんど無関係だった」と語るのは、ホロコースト史家でノースカロライナ州イーロン大学教授のデビッド・M・クロウ氏である。『The Untold Account of His Life, Wartime Activities and the True Story Behind the List(オスカー・シンドラーの人生、戦時中の活動、そしてリストの背後にある真実の物語)』を今秋、Westview Press社から出版した。
映画では、リーアム・ニーソン演じるシンドラーが、1944年にポーランドのクラクフにあるエナメルウェアと武器の工場のユダヤ人経営者に、比較的安全な現在のチェコ共和国に連れて行くべきユダヤ人労働者の名前を教える場面が描かれている。しかし、クロウ氏が電話インタビューで語ったところによると、当時シンドラーは、映画の中でラルフ・ファインズが演じた残忍な親衛隊の司令官アーモン・ゲートに賄賂を贈った罪で刑務所に入っていた。また、経営者のイツァーク・シュターン(ベン・キングズレー)は、当時シンドラーの下で働いているわけでもなかった。
クロウ氏によると、リストは9つあったという。最初の4つのリストは、主にマルセル・ゴールドバーグが作成したもので、彼は腐敗したユダヤ人保安警察官で、ユダヤ人輸送を担当するSS将校の補佐役だった。(ゴールドバーグは後に、賄賂を受け取ったことや、好意的な態度をとったことで非難された。)シンドラーは何人かの名前を提案したが、リストのほとんどの人を知らなかったとクロウ氏は言う。他の5つのリストの作成者は不明である。
「そもそも、「シンドラーのリスト」はなかった」だなんて、ほとんどの人が「えっ?」と驚くに違いない。タイムズ紙も妙な書き方をするものである。だが読み進めれば分かるとおり、映画で描かれたようなシュターンとシンドラーが二人してリストを作ったというようなことはなかった、とクロウ教授は言っているだけなのである。そして、記事に書いていない内容を記事から類推するに、シンドラーは刑務所から釈放後、ゴールドバーグらが作成したリストに何人かの名前を加えるよう提案した、としてリストに関わっており、何れにしてもリストは存在していたのである。実際、原作者のトマス・キニーリーが使ったとされるリストはオーストラリアで発見されている。
'Schindler's list' found in Sydney
ともかく、西岡の記事だけを読めば、シンドラーのリストの話自体が全部嘘のように読めてしまうが、事実は、単に映画には細かい相違があるというだけの話なのだ。こんなの余程うるさい人でもなければ「映画は事実ではなくウソである!」だなんて言わないレベルの話でしかない。ホロコースト否認論者ってどいつもこいつも常にこの調子で読み手を騙しにかかるので注意されたい。西岡の場合などは特に、イスラエルがどうたらこうたらと余計な印象操作まで含めているので、より悪質度は高い。ただし否認論者としては必須のはずの「スピルバーグはユダヤ人」を入れなかったのは否認論者としての自覚が足りないとは言える(笑)
最初に書いた通り、ホロコーストそれ自体の知識はあまりないので、どこが史実でどこが違うのかなどの細かい話は、Wikipediaレベルの知識しかない。その上で言えば、オスカー・シンドラーはリーアム・ニーソン演じたような人物ではなかったと思うけど、概ね的なレベルでは史実通りと見なして良いと思う。「所詮はフィクションだから」と言う人も多いけど、現代の基準から言えば、信じがたいレベルの惨劇が起きていたことは事実だし、映画ではそれを描き切れてなどいないとさえ言える。そもそも描き切るなど無理だろう。今年もホロコースト映画が何本も公開されていて、食傷気味だという意見も多いし私もそれら映画を見る気もないけど、『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』程度の代表作はぜひ見ておいて欲しいという気はする。
細田守はスティーブン・スピルバーグ、そして、彼と比較されがちな日本の偉大なアニメーターである宮崎駿の両方に不満を抱いています。
細田(人道的傑作『未来のミライ』が三年前にアカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートを受けた)はハリウッドのデジタル至上主義や宮崎の女性描写にうんざりしたものを感じているといいます。
最新作である『竜とそばかすの姫』がプレミア上映されたカンヌ映画祭におけるAFP通信のインタビューで、細田はスピルバーグの『レディ・プレイヤーワン』をはじめとする多数の映画に視られるネットに関するディストピア的な表現は万人にとって、特に女性にとってあまりよろしくないと発言しました。
自身も幼い娘の父である細田監督は、彼女たちの世代が恐怖に怯えるのではなく、デジタルな運命をコントロールできるように力づけていきたいと考えています。
「彼女たちはインターネットとともに成長してきました。しかし、常々、ネットが悪意に満ちた危険な空間であることも教えられてきたのです」
『竜とそばかすの姫』では、内気で無垢な少女すずのジェットコースターのような感情の体験が、21世紀を舞台にした『美女と野獣』をベースに見事に表現されています。
彼女自身にとっても、他の人々にとっても驚いたことに、すずは「U」というアプリの仮想世界内で、ベルと呼ばれるポップ・ディーヴァになります。何十億人ものフォロワーを獲得したすずはネット上でいじめやハラスメントを受けたりもしますが、「ベル」の歌を通じてアンチや自分自身の悩みを乗り越えていきます。
「若者にとって、人間関係は複雑で、甚大な痛みを伴うものです。私が見せたかったのは、こうした仮想世界が辛く、恐ろしいだけなく、ポジティブなものとなる可能性です」
すずとそのギークの友人は日本の一般的なアニメの女性とはかけ離れています。ここが名作『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を獲ったレジェンド、宮崎駿との態度を異にするところです。
「日本のアニメを観るだけで、日本社会において若い女性がいかに過小評価され、見下されているか(underestimated and not taken seriously)がわかります」
この監督(その映画は宮崎作品よりも現実に根ざしている)は、当時として珍しいことに、シングルマザーによって育てられました。
2012年に公開された名作『おおかみこどもの雨と雪』は、彼女がたった一人で”小さな群れ”を育てた、その猛烈な自立心を讃えた作品です。
細田監督は、「日本のアニメでは、若い女性が聖なるものとして扱われていますが、それは彼女たちの現実とは無関係です。そのことに私はとても腹を立てています」と、悔しさをにじませます。
細田監督はジブリの創立者である宮崎駿の名前を出さずに、厳しい意見をのべつづけた。
「名前は伏せますが、アニメーションの巨匠でいつも若い女性をヒロインにしているひとがいます。率直にいうならば、彼は男としての自分に自信がないからそのようなことをするのだと思います」
「若い女性を崇拝することははっきり言って不快ですし、わたしはやりたくありません」と彼は主張する。
彼は、彼のヒロインを美徳とイノセンスの模範とすることや、”誰からも好かれなければいけないという抑圧”から解放されなければならないと考えています。
53歳のときの彼は宮崎駿の正当な後継者とみられていました。のちのオスカーノミネート作『ハウルの動く城』の監督として外部からジブリへ招聘されたのです。
しかし、細田は制作なかばでジブリを辞め、自らのスタジオを立ち上げました。
細田は「人間の良いところも悪いところも描く、その緊張感こそが人間の本質」というような物語を好んでいました。
そうした性向が『美女と野獣』を現代にアップデートすることに惹かれたのでしょう。
「原作における野獣は最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、暴力的ですが、同時に繊細で傷つきやすい内面を持っています」
「美女(ディズニー版ではベル)は取るに足らない人です。見た目がすべての存在です。私は彼女を複雑で豊かに作り変えたかった」
そうした二面性は、彼の最初のヒット作『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』から観られるようなデジタル世界の魅力にも現れています。
「私は事ある事にインターネットへ立ち返りつづけています。最初は『デジモン』で、2009には『サマーウォーズ』、そして、今もまた」
そして、インターネットを諸悪の根源とみなしてはいけないと、これまで以上に確信しています。
「若い人たちはそこから離れることはできません。彼らはネットともに育ってきたのだから。私たちはネットを受け入れ、よりより使うことを学ばねばなりません」
アストナージ
アピトベール
アメリカーナ
アリエノール
アリギエーリ
アルダシール
アルパチーノ
エルマリート
エングレーブ
エンドノート
カナダグース
キリスパート
キングデール
クセノポーン
クングラード
グレゴワール
コインパーク
コダクローム
コルコバート
コンジローマ
サンタローズ
サンパギータ
ザミンダーリ
シエラザード
シコンコート
シンクレール
ジアスターゼ
スパイゲート
スピリトーゾ
スリムハーポ
ソステヌート
ゾエトロープ
ダイスダーグ
ダウンコート
ダクトテープ
ツルナゴーラ
テレタボーズ
デフレパード
トトトツート
トルクカーブ
ナイシトール
ハイドレート
ハンカチーフ
パリダカール
ヒメノアール
ビオサバール
フレグモーネ
プラズマート
プレイアード
プレパラート
べレロポーン
ベンザエース
ベンチシート
ペプチターゼ
ペルグリーニ
ポリメラーゼ
ポンパドール
マキラドーラ
マグコロール
マデサゴーラ
マハブフーラ
マリオカート
ミナカトール
ムシコナーズ
メリンガータ
モンロワール
ヤクトドーガ
ヨクアタール
ランペルール
レンズフード
ロマンサーズ
イタリアの豚トロの塩漬けで、実は本場のカルボナーラはベーコンじゃなくてこれを使うといわれています。
これをぐぐってみてください。馬しか出ないでしょう。
ウマ娘でも高名なメジロマックイーン。この馬の名前はスティーブマックイーンから取られています。
ではマックイーンで検索してみてください。そこにスティーブマックイーンの姿はないでしょう。
別にこれらが特別のことではなく、多くの馬は実際の固有名詞から引用されています。
ネオユニヴァースはラルクの曲からとられていますし、キズナはオレンジレンジの曲から取られています。
リンカーンとかスピルバーグとかルーカスとかそういう人名は無数にあります。
それこそ、プラトニックラブに違和感を覚える少女が、アリストテレスを検索しSNSに救いを求めるところを想像してください。
いやマジな話として、種牡馬danzigはダンジグと読むべき論者強硬派が、リアルにダンツィヒ在住していて、検索ノイズになるのを排除したいと言っているのをネットで見たことがあるぐらいに問題化すべき話であり、マヤノでナイーブに嘆いてる場合じゃないんですよ。
毎年数千頭の固有名詞を送り込んで、動物オタクとして写真パシャパシャしまくってネットに上げまくる我々競馬オタクが、なんで人様を非難できようか。
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
これの続きです。
本題の前に、お便りをいただいたので紹介します。
id:goldhead "女性が増殖したり変形したりしている"というと、おれは昨日見たばかりだけどこんなのはどうだろうか>https://youtu.be/76sNmqMzUuI
いや、すごいですねこれ。これだけで今までの話全部説明できちゃいそうですね。10秒に1回は止めたくなりますね。お恥ずかしながら探求不足でした。ありがとう!!
これなんて刺さるんじゃないだろうか。
これ良いですね。歌いながら立ち位置とかタイミング合わせるのすごい大変だったろうなとか、YUKIさん何回やり直ししたんだろうなと考えてしまいます(それとも顔だけハメてるのかな?)。ありがとう!!
寄生獣は漫画は読んだんだけど、実写映画は見てないんだ。見たら気に入る場面もありそうなんだけど、生粋のグロ苦手人間なので、特殊効果も血を伴うのはどちらかというとアウトなんです。「頭の中はカラッポだよ〜ん」という場面が実写になったらいいなと思ったんだけどあれ実写化できたんでしょうか。GAROは申し訳ない知らない。(参考)https://imgur.com/a/Jqep24v
どうでもいいが、こういろんな性癖のジャンルの話をしてると、複数のパラサイトに寄生された三木みたいな気分になる。俺はできればミギーでありたい。だってミギーかわいいし。
話が逸れたね。では本題に参ります。
以前の記事でメカバレが好きなのではないかというコメントもあった。やっぱり分かる方には精神が通ずるところがあるんだなと思う。図星です。
知らない方のために説明すると、人間のように見える人物が、メンテナンスや損傷を受けるなどして機械が露出しメカだとわかるってジャンルだ。ジャンルの特性上、特殊効果はほぼ必須になるので俺のツボにハマることが多い。
1で、トータルリコールで顔の割れるおばさんという究極のような例を出してしまったのだが、もう少しマイルドな例を挙げていこう。
きれいな女性の顔の皮が部品同様に扱われ、その後に抜け殻のように女性が残されているところになんともいえない情感がある。
説明不要とは思うが、A.I.は監督がスピルバーグなだけあってCGの使い方が非常に良い。秘書ロボットの目の輝きのなさがまた良いのだが、特に乳母ロボットは最後に酸を浴びせられてとてもかわいそうなことになってしまうのだが、終始まばたきをせずにロボットになりきって頑張っていて素晴らしい演技だった。生身の人間をわざわざ非現実的な存在に仕立て上げるところに魅力を感じる。
最近見たのではこれがとても良かった。
これも普通の人間の女優さんが演じているのだが、メカらしさを出すためにわざわざカクカクさせるような、人間らしさを消す映像技術を施しているらしい。本物のメカとか、フルCGでメカが出てくるとああメカだねと納得してしまうが、生身の人間がメカにされているその違和感というのか、これはメカ?人間?と思わず迷うようなそのアンバランスさが良い。
メカバレとは違うけどこういうのもある。
なんかだんだん懐かしCMプレイバックみたいな気分になってくるが、モー娘のメンバーが着ぐるみとして扱われてしまっているところになんともいえない風情がある。
宇宙人が変装と言えば、これはマーズアタック!という有名な映画だけど、火星人が美女に変装してて、皮を脱ぎ捨てるシーン。火星人の巨大な頭を通ることで皮が横に広がってしまい、粗末に脱ぎ捨てられてしまう散々な扱われ方がなんというか刺さる。これの前段階として、美女のマスクが一部剥がれてしまうシーンがあるのだが、それも含め異世界人ぶりが溢れてて素晴らしい。
お前は作り物のマスクに興奮してるんだぜってのは言わないで。フィルムに収められた時点でその世界は作り物じゃなく本物になるんだ。
監督のティム・バートンは自分の奥さんにこんなことやらせるんだから変態だよね(しばらくして別れるけど)(どうでもいい)。
うん、ごめん。終われなかったよ。銀魂じゃないけど、たぶん次で終わるよ。