はてなキーワード: ジェームズ・ガンとは
ポリコレ・政治的正しさは確立(というほど基準が統一されてるわけではないけど)されてるし、
それを行動指針にしている人はもちろん存在しているよ。
何度も言ってるが、一から作ってそれが面白ければそれでいいんだよ。
でも現状ポリコレ汚染は既存の有名シリーズを乗っ取る形で進められてるし、
また「ポリコレにあらずんば人に非ず」みたいな風潮すらある。ジェームズ・ガンを見ろよ。
で、しかもそのポリコレってのが公平公正かっていえばそうでもない。
https://digital.asahi.com/articles/ASL8R4S75L8RUCFI00B.html
回答としてとても全うで、納得のいくものだった。だったのだが、当然回答者が岡田斗司夫である以上、「朝日新聞は岡田斗司夫が指導者という立場を利用したりして精神不安定な女性数十人と異性関係を持ったことが判明したあとも、彼を切らなかった。metooと程遠い人権感覚の会社だと思ってる。 」というブコメがついている。
ブコメをつけた人を非難したいわけじゃなくて、これは正にme tooにおけるある種の「正義」の本質を表している。つまり、「言動そのものや、その人が作り出したものの是非ではなく、その人の社会的状況に応じてその人の言動を判断する」。
これは、不正義の是正を誰かに任せるのではなく、評価者自身の判断で不正義を是正するものだ、ということになる。一面の真理はあると思う。社会は完璧ではないので社会や公的機関が必ずしも正しい在り方をしているわけじゃなく、それを正すのは社会に生きる人間であるべきだ。そのような仕組みが市民社会であり、社会的不正義に対して暴動や大規模なデモが起きるのはある種「健全」なこととは言えて、そういう事例が散見されるアメリカやフランスと違ってどうして日本は……という話題は、本筋からズレるので閑話休題(こういったある種の国ごとの政治態度や市民感覚の違いをまとめてる研究書どっかにないですかね。真面目に読むので割と本気で募集している)。
そういった考えの裏には、実のところかつてのモヒカン族とは全く逆の価値観がある。評価するかしないか、という価値判断だ。
上記の例で言えば、岡田斗司夫は評価されていい人間かどうかである。とりあえず自分の評価は差し控える。その全く真逆の例で言えば、〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー〉シリーズの監督を務めていたジェームズ・ガンが、過去の不適切なツイートを理由にシリーズ監督から降板させられた事件だ。その二つの違いはなんなのか。違いはいくらでも挙げられる。実際に問題になっているのが実在の女性との実際の関係に関する話題か、不特定多数に対する言及だけか。日本国内で活躍する批評家か、全世界的にヒットした作品を生み出した監督か。社会的な評価の違い。味方についた人がどの程度いたか、それが大きく報じられたかどうか。「不正義」とされるものは白か黒かではなく様々なグラデーションが存在し、「灰色は白である」=推定無罪の価値観はあくまで刑事事件=公的権力が市民を罰する際に発生するものであり、このような違いが発生するのは当然である。だが一方で、ジェームズ・ガンは擁護されるのに、『二度目の人生を異世界で』の原作者「まいん」氏が炎上した挙げ句にアニメ化が中止になるのは当然であるとされる。問題発言が日本における大きな政治的争点かどうか、という違いはあるが、それ以上に大きな違いは、2人がどんな作品を書いていたか、と言ってしまっても差し支えないのではないか、と個人的には思っている。一方で、慰安婦を揶揄していた「月曜日のたわわ」の比村奇石はさほど炎上せずに未だに活動を続けている。比村奇石が炎上しないのは不思議だなと思っているが、とはいえ自分自身、「うっわー気持ち悪いことしかやってねーなこの人、でもめっちゃエロい作品書くな。もっとやれ」って思いながら毎週月曜日を楽しみにしている。しかし本当に邪悪。
雑多になってしまったが、何が言いたいかというと、me tooというのは「何が正しいか」ではなく「どんなかたちの正義を指示するか」というある種の価値観、雑な表現であるところの「政治的態度」を求められている。正義に対するコミットメントである。だが正義は一枚岩ではなく、黒と白の間には無限のグラデーションが存在し、結果me tooのような価値観はある種のダブルスタンダードを許容する。
社会において「理性的判断」というのは存在せず、人間は社会のなかでしか行動ができず、社会のなかで行動するなら結果的に社会にコミットしなければならない。あたかも村上春樹がデタッチメントからコミットメントへの転換をした(「せざるを得なかった」と言っていいのかは、正直わからない)ように、これはある種当たり前のことなのだが、その事実を前に困惑するひとは少なからずいるのではないか、と思っている。自分は比較的その変化を受け入れている側の人間ではあると思うが、困惑する人間がいるのはよくわかる。人間は矛盾する生き物だからね。
だがはあちゅうてめーは駄目だ。
オースン・スコット・カード(『エンダーのゲーム』の人ね)でも読むといいんじゃないかしら。アンチゲイ発言で有名な書き手さんらしいから、きっと趣味が合うと思うわ。
http://www.ishiyuri.com/entry/2014/12/19/jk-rowling-confirms-there-were-lgbt-students-at-hogwarts
作家の思想面は作品にまで悪臭がしみでるもので、当然差別的な描写があるだろうしたとえなかったとしても内容などかかわらずに作品も悪だと断じなければいけない。
エンダーのゲームの映画化の際に海外の正しきLGBTQの人々は反対運動を起こしたそうだけどもっと称賛されてしかるべきだった。
日本も今すぐすぎやまこういちも否定するべきだし、過去とはいえジェームズ・ガンも辞めさせられて当然。
犯罪者に甘すぎる。
人は変われる、大丈夫だ。
かつてB級映画のノリで差別的ツイートを繰り返していたジェームズ・ガン監督も、しっかりと謝罪表明を行った。
the expendables was so manly i fucked the shit out of the little pussy boy next to me! the boys are back in town!
確かにドン引きしてしまうツイートではあるけど、ディズニーで仕事するようになって少年性愛とレイプに関するジョークについて謝罪し、
何より現在はそういったツイートをしなくなって久しいのに、「そういう過去があるのでクビ」には希望を失ってしまう。
謝罪しても改善しても過去にやったことは一生許されずに職まで失うシステムって、正しさのレールから一度でも落っこちたら、
その後何を積み上げても終わりということで、村社会への回帰というか、しかもインターネットの拡散力のおかげでどこに逃げても
過去のやらかしに一生追いかけられて、旧型の村社会よりもハードになっているようにすら感じる。
ガン監督が問題ツイートを繰り返していたのは、仕事で認められていなかった時期だそうだけど、不遇な時期にも完全な正しさが要求され、
人生を通じてノーミスである義務を死ぬまで負い続けるのってきつすぎる。
ただ少年性愛とレイプにトラウマがある人にとって、それらを冗談にしてしまうのは侮辱的なことだし傷つくことだと思う。
多くの人が自分にとって不快なものを目にしない権利を欲しがる。駅のデジタルサイネージや中吊り広告に、
死体写真やゲイポルノが載っていたら嫌な人が多いだろう(ネクロフィリアやゲイであっても公共空間に引き出されることを望まない人が多いだろう)。
でも個人のSNSアカウントは、見た人が不快に感じる可能性が高い発信をしない義務をどれくらい負ってるんだろう。
商業目的で公共性のあるメディアが負っているポリティカル・コレクトネス検閲コストを、どこまでかける義務を負うんだろう。
例えば駅のデジタルサイネージや中吊り広告に死体写真やゲイポルノがある場合、通勤通学のために逃れられないけれども、
ガン監督の少年レイプジョークツイートの場合は、不快と感じたらアカウントをミュートできる。
その不快なコンテンツから逃れることが可能か、逃れながら生活することが不可能か、そこが基準になってくれれば良いのではないかと思うのだけど。
とにかく謝罪済みの過去の個人アカウントのツイートが原因でクビというのは本当に悲しい。