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2017-05-23

熟女のすゝめ

俺のおかずスタンダード熟女。5060喜んで。

なぜ熟女なのか。熟女は汚れきっているからおかずにはうってつけなのだ

自分自身セックス未遂体験からセックスは汚いものという想いが染みついている童貞の俺には。

ちなみにセックス未遂に加えて今まで三回のキス経験がある。飲み屋店員の目の前で「お前でオナニーした」という奇妙奇天烈宣言をした直後べろべろに酔った俺に無理やり舌をねじ込んできたあばずれ女と、一生に一度は経験としていこうと思っていた風俗に「二度と行くものか」と決意させることになったイソジンの強烈な味のキスというトラウマを植え付けたピンサロ嬢と、「セックスセックスセックスオンザビーチ!」の鳴りやまないゴミの掃きだめみたいなクラブでべろべろに酔った俺を無理やり壁に押し付けて口の中を蹂躙してきた渡辺直美似のクソブスの三人だ。すべてディーーープなキッスであった。悲しいことに。

理想と相反する圧倒的現実に身も心もグチョグチャに汚されてしまったのも熟女さらに駆り立てられる要因だったのだろう。

若く綺麗な女性に対する幻想を捨てきれないか熟女へ向かうのだ。悲しいことに。

しかし、AVにおける若さは時として甘えになる。若い女、特にJKモノとかだと「JK」というブランドに頼り切って肝心要の演技がドヘタだったり、レーズンみたいな乳首だったり、ブスとは言わなくても中途半端顔面だったりする。それで何度落胆したことか・・・

若さに頼ってんじゃねえ。舐めんな。

そして若いそこそこにかわいらしい女の子のぐちゃぐちゃに汚れている局部肛門を見ているとなんだか悲しくなって途中で萎えしまうのだ・・・

最もそれを超越するレベルの美しい顔立ちや美ボディや技術の持ち主であれば話は別だ。今日おかずにした北野のぞみなんかはそうだ。そこまで来ると超次元存在から、「こいつはプロだぜ・・・」となるか、理屈抜きの天国超特急行きに乗車するかのどちらかだ。

熟女熟女というだけの価値では生き残るのは不可能だ。だから彼女らは年老いてもなお美しい顔、弛んだ、しかし魅力的な豊満ボディ、超絶技巧、股間に響き渡る素晴らしい喘ぎ声を持ち合わせている。淘汰され生き残って来た一部の美人のみが大手を振って出演出来るのが熟女というジャンルだ。もちろん俺だってその辺にいるかぼちゃだかなんだかよくわからんブスとして生きて来てブスとして死んでいくようなブスがただ歳を取っただけ、みたいな形態のクソババアには興味が無い。

老い美人の「私まだまだイケてるでしょ・・・?」「女としてもう駄目だと思ってたけど、まだまだ私もイケるじゃない・・・!」みたいな様を見るのは最高に興奮するし、その人の歴史を想って胸が熱くなる。

歳を取って美人から悲しき変貌を遂げるようなのもいるけれど、真の美人死ぬまで美人というのが俺の持論だ。

美しいが、汚れきっている。だから安心して興奮できる。彼女らはもうそれ以上汚れることなど無いのだから

安心安定のクオリティ提供する、それが熟女というジャンルなのである

2017-01-17

なるべくすばやくチームをつくる

ゲームをやっているとそういうことがもとめられます。いつでもフルチームをくんでプレイできればそれがいちばんよいですが、おっさんになってくるとそうもいかない。ひとりでランクマッチはいることになる。ではそこで漫然とプレイしていてもよいのですが、プレイ力がおとる人間リーダーシップによりこれをおぎなわなければいけません。

まずは構成提案する

偶然にチームにマッチングされたとしてもそれはチームであり、共通目的にむけてたたかうなかまであるわけです。とにかく即座に会話していかないとあっというまにチームはくずれてしまう。

2-2-2 or 3 tanks?

みたいな、とにかくこれだけでいいのでとにかくなにかいうというのがたいせつだとおもいますマクドナルド理論みたいなもんです。 2-2-2 や 3 tanks のようなテンプレチームがきらいなひとはそこで意見をだしてくれることでしょう。

速攻でヒラタンとりにいかない

2500 をしたまわってくるとヒラタン、とくにルシオハルトはやってくれるひとがぐっとすくなくなります。だからといって速攻でひとりめでヒラタン奴隷ペアをピックするのはかんがえものです。それはなぜか。ピックから緊張感がうしなわれてしまうからです。誰が奴隷をやるのか、そういうチーム内のよみあいによる緊張感というのはじっさいけっこうたいせつなものだとぼくはおもっていますふたりピックした時点で奴隷ピックされていなければ奴隷をとりにいくべきです。最後のひとりがしぶしぶルシオをえらぶ、というようなチームではまず勝利はのぞめません。

日本語によるフォロー

韓国中国のひとにとってゲームとは PC ゲームであり、英語であそぶものでした。もちろんいまは大作であればローカライズされますし、とくに中国では中国向けモバイルゲーム進歩がいちじるしいものがありますが。いずれにせよコンシュマーゲームによるぶあつい自国ゲーム提供された日本とはかれらは事情が違います。だいたい英語はつうじますしか日本人はそうではないです。なので、日本語によるフォローはかかせません。

Enter the room on the left PLZ!!!!!

この程度でも日本のひとには通じないことがよくあります

左の部屋おねがいしま

とつづけて日本語フォローすべきですし、ほかのプレイヤー英語で指示をだしていれば随時日本語翻訳していくべきです。まあアヌビスバカひとつおぼえで左につっこむのもどうかと思うが。

たえずチームメンバー尊重する

たとえば自分いがいの人がルシオをやっていたとして、なんじゃそこみたいなタイミングトロップザビートをうつことがあります。それをやられると大変にイラっとするものですが、ルシオはしなないことが第一キャラなので、自衛のためだけにドロップザビートをうつことは「アリ」です。そういうときにすぐ Ult をせめるひとがいますが、これはよくないです。それをやられたがわは意地になってこんどはもっとへんなタイミングで Ult をうちます。もし完全にありえない Ult だったとおもったときでも、せめるべきではないですし、せめているひとがいたらフォローはいるべきです。

これがフルチームくんでるならいいですが、われわれはたかだか 30 分のチームにすぎないのです。あるいみフルチームよりももっとこまやかなきづかいがもとめられます

へんなタイミングで Ult うちまくってる人がいれば、

Let's synchronize Ult with me!!

とかなんとかやってこちらからうごきを提案していくのがよいです。

アタッカーはつかわな

ソンブラやトレイサーや D.Va でつっこんで場をあらしてそのあいだにみかたが前線をおしあげるというのは理想的ですが、これは上級者のありかたです。成功すればきもちがいいものですが。即席のチームにあってはザリアでじわじわ前線をすすめるスタイルがよりマッチします。

集合は徹底的にだす

うるさすぎると思うくらい「ここに集合」はだしていいです。

もしこういうことをしたくなければ、、、

こんなことをしていると FPS じゃなくて操作性がきわめてわるい RTS やってる気分になるんですが、まあそういうものです。

そうしたくないひとは DPSしまくれるように FPS 力きたえてひとりでつっこめばいいんじゃないですかね。

2016-12-11

ピカドンってアニメ

小学校で見せられたなあ、1年生の時、体育館の大スクリーンで。

顔の皮がぶよんと剥がれて骸骨になる(うろ覚え)ところでアッて思って、それ以降ずっと目と耳を塞いで下を向いてた。

心臓バクバクして吐きそうになって、それ以降おしまいになるまで顔を上げたり、耳を塞いだ手を外したりできなかった。

耳を塞いでても音が入ってくる恐怖に対抗するために、頭の中で鈴木あみBe Togetherをずっと歌ってた。

終わったときみんなはすげーとかやべーって言ってたけど、私はビートゥギャーザビートゥギャーザと震えながら呟いていた。

そんなことしたせいで、そのあとBe Togetherを耳にすると原爆が落ちてくる恐怖でパニックに陥るようになってしまった。

大人になってもまだ再見する勇気が湧かない。

2010-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20101001053518

死にたい。殺して。もうどうでもいい。このまま死にたい

(略)

セックスオンザビーチとかそういうノリで、化粧の濃いケツのでかい女とところかまわずやりまくりたい。

死にたい。殺して。もうどうでもいい。このまま死にたい

最初は嬉しかった。「男として俺は今世界最強」とかおもってた。

愛ルケとか俺だけが理解できるとか思ってた。

でも毎回言われるとしんどい。引くとかそんなレベルじゃない。トラウマタイズ。

どうしても彼女にいたずらしてきた奴らの影がよぎる。

それって、痴漢を毎日のようにうけて自殺未遂したのと関係あるのとか、そういうことを考える。

んで、俺はその部分には触れられない。

それが俺を苛んでる原因の一つ。でもそれはしかたない。

表面上はそこでとまって、受け入れてるつもり。

でも、俺はもっと楽しくてライトセックスがしたい。

セックスオンザビーチとかそういうノリで、化粧の濃いケツのでかい女とところかまわずやりまくりたい。

2008-06-20

みーんな疎外中。

 長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。

疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。

 なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。

 じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。

「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」

「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」

「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」

「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」

「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」

「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」

「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」

「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」

「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」

「その人を手当てすりゃいいじゃん」

 ……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。

「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。

 例えば教育。そもそも公教育制度って、政治社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像国民保証する」ことにあるわけです。

 だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。

 警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。

 他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列未来投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。

 だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?

 いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級リングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級リングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。

 だから、庵野監督大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)

 なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。

 ポルポト文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。

 ……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。

疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェ運命愛もちょっと似てるかも。

 ……でもこれって、

「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」

という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論ポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女ジジイ

 ……この「反疎外論シリーズ、いろいろ応用がききそうだな。

 例えば、

「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」

「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずく正義押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」

とか、

「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」

「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」

「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」

ライダーは二人も要らない」

「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」

貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」

「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」

(去っていくザビーゼクター

「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」

(半年後)

「もう疎外論も物象化論もないんだよ。影山、俺と一緒に転向しよう……。天道、おまえはいいよなあ、どうせ俺なんか」

とか。

 
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