はてなキーワード: キルギスとは
https://www.hochi.co.jp/sports/etc/20180729-OHT1T50097.html
性犯罪で前科のある柔道金メダリストが、キルギスの柔道連盟の総監督に就任したそうだ
この件について色々と意見があるのは、まあ分かる
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.hochi.co.jp/sports/etc/20180729-OHT1T50097.html
何が酷いってキルギスという国に対する偏見を、思いっきり垂れ流しているからだ
http://b.hatena.ne.jp/entry/368271209/comment/takekuma415
☆が集まっていたものではこれが酷かった
キルギスに誘拐婚という風習があり、それが社会問題化しているのは俺も知ってる
しかし、だからといって「キルギスは性犯罪に寛容な国」などと言える訳ではないだろう
少なくともそれが社会問題化するということは、誘拐婚を問題視する人々がいるということではないのか?
俺はキルギスに行ったことは無いし、キルギス人の知り合いすら居ない
だからキルギスが性犯罪に寛容か否かと問われても、分からないとして言い様がない
多くのはてなユーザーも同じ様なもんだと思う
だからこそ断定すべきではない
インド | シヴァージー(1627-1680) | マラーター王国の建国者。ヒンドゥー教徒を糾合し、周囲の各イスラム王朝と対決した。特にムガル帝国に対しては、大々的にゲリラ戦を展開して、当時のムガル皇帝アウラングゼーブを苦しめた。敬虔なヒンドゥー教徒であり、イスラム勢力と戦って独立を勝ちとったために、ヒンドゥー教国のインドでの人気が高い。 |
パキスタン | アウラングゼーブ(1618-1707) | ムガル帝国の皇帝。兄弟同士の後継争いを制し、父親を幽閉して即位した。数十年にわたって帝国を栄えさせたが、晩年は長引くヒンドゥー勢力との戦いで財政の悪化・国土の荒廃を招き、己の統治の失敗を嘆きながら亡くなった。厳格なムスリムとして、ヒンドゥー教徒を激しく弾圧したため、イスラム教国であるパキスタンでの人気が高い。 |
ネパール | アマル・シンハ・タパ(1751-1816) | ゴルカ朝の名将。ゴルカ朝がネパールを統一したあと、アマル・シンハはさらに西へ進軍して領土を拡大した。その後、グルカ戦争において主力を率いて奮戦するもイギリス軍の前に敗れ去り、失意の彼は聖地ゴサインクンドへ行きそこで亡くなった。グルカ戦争における彼らの戦いぶりが今も恐れられるグルカ傭兵の誕生につながるのだが、それはまた別のお話。え、「ネパールは釈迦だろ」? うん、そうね。 |
バングラデシュ | カン・ジャハン・アリ | もとはインド・トゥグルク朝の貴族で、ティムールがトゥグルク朝を破ったあと、ベンガル地方にやってきて森林を切り開き、いくつかの街を建設して、その地を支配した。イスラムの聖者ともされて、彼が建設したモスク群は世界遺産に登録されている。 |
スリランカ | ドゥッタガーマニー(前161-137) | タミル人を打ち破り、初めてセイロン島を統一したシンハラ人の伝説的な王。実在はしたらしい。現在でも、タミル人との民族問題となると、シンハラ人がドゥッタガーマニーを持ち出すらしい。 |
ブータン | ガワン・ナムゲル(1594-1651) | ブータンの高僧にして初代シャブドゥン。チベット仏教ドゥク派の後継争いに敗れてブータンへ逃れてきたあと、たちまち国内を統一すると、各地に城砦を建設し、たびたび侵入してくるチベット軍やモンゴル軍をことごとく打ち破った。 |
モルディブ | モハメド・タクルファーヌ(?-1585) | モルディブを植民地とし、キリスト教への改宗を迫るポルトガルからの独立のため、島から島へと移ってゲリラ戦を展開し、八年の戦いの末にポルトガル人を追放し、ウティーム朝を建てた。 |
カザフスタン | アブライ・ハン(1711-1781) | 「大いなる災厄」と呼ばれたジュンガルの侵攻のなかで勇敢に戦ったため「英雄」と呼ばれ、やがて大きく三つに分かれていたカザフの部族連合の上に立ち、清とロシアの双方から「ハン」と認められるようになった。彼の死後、カザフはロシアに対抗できなくなり、その統治に組み込まれていく。 |
ウズベキスタン | ティムール(1336-1405) | モンゴル帝国の後継を名乗り、中央アジアに大帝国を作り上げた世界史上屈指の軍事的天才。オスマン帝国との戦争でその皇帝を捕虜にしたアンカラの戦いは特に名高い。明との決戦へと向かう途上で死去した。 |
タジキスタン | イスマーイール・サーマーニー(?-907) | サーマーン朝最盛期の君主。サーマーン朝はタジク人最後の独立王朝でもある。サーマーン朝が滅びた後、この地域はトルコ系、ウズベク系、そしてロシアの影響下に置かれ続けることになる。タジキスタンの通貨「ソモニ」はサーマーニーに由来する。 |
トルクメニスタン | アルプ・アルスラーン(1029-1072) | セルジューク朝のスルタン。名高き宰相ニザームルムルクを重用して国力を高め、東ローマ帝国と戦ってその皇帝を捕虜とした。セルジューク朝は「トゥルクマーン」という遊牧民が建国したのだが、トルクメン人と「トゥルクマーン」の関係は明らかになっていないらしい。にもかかわらず、トゥルクマーンが建国したセルジューク朝のスルタンや、伝説上のトゥルクマーンの祖とされるオグズ・ハンを、トルクメニスタンが英雄視しているのは、そこに民族のルーツを求めているからなのだろうか。 |
キルギス | マナス(?-?) | 世界最長と言われるキルギスの英雄叙事詩に謳われる王。オイラト人の支配下にあったキルギスに生まれ、オイラト人やキタイ人と戦って勝利し、キルギスの王となり、北京への大遠征を成功させた帰りに、敵の斧を頭に受けて死んだという。実在したかはよくわからない。実在が確実なクルマンジャン・ダトカのほうがいいかもしれない。 |
アフガニスタン | アフマド・シャー・マスード(1953-2001) | アフガンに侵攻したソ連軍を幾度も撃退して「パンジシールの獅子」と呼ばれた。タリバン政権に対抗する北部同盟の中心人物として活躍したが、9.11の二日前に暗殺された。あんまり最近の人は入れないつもりだったけど他にいないのでは。 |
ユーリ!!! on ICE 、見てる?
「カザフの英雄」っていう字面を見て以来、ソワソワしていたものが、ユーリ・プリセツキーと友達になったあの瞬間に全てが弾けた。
カザフスタンを含む中央ユーラシア・テュルク系諸民族が持つ「民族英雄」の姿をはっきりと感じ取ったからだ。
カザフスタンは、歴史的にテュルク系諸民族が多く暮らしてきた土地である。
遊牧騎馬民族が繁栄した土地であり、彼らはテュルク系の言語と、それに基づく言語文化を持つ。
彼らの文化・信仰あるいは歴史は、口承文芸によって伝承された経緯があり、口承文芸のうちの一大ジャンルとして数えられるのが「英雄叙事詩」と呼ばれる物語形態だ。
カザフに限らずテュルク系諸民族の中で広く伝播した『アルパムス・バトゥル』や、キルギスの英雄叙事詩『マナス』は邦訳出版されており、母語によって英雄叙事詩の世界観に触れることができる。中央アジアを題材とした創作物でおそらく現在もっとも有名なのは森薫の『乙嫁語り』だろうが、作中に登場する馬などの名は、先述の英雄叙事詩にて確認できる。アルパムスやマナスとは叙事詩中での主人公にあたる英雄の名前であり、英雄たちは作中でもっとも強く、激しく、時に美しい。
「英雄叙事詩」の歴史や形態などについては省略するが、重要なのはカザフの地に育まれた文化には「英雄」の存在を待望し、受容する姿があるということである。
彼らは街や、施設などに英雄叙事詩中に見られる名付けをし、また街中では英雄の像を見ることもできる。余談ではあるが、キルギスの首都ビシュケクに立つ騎馬マナス像の馬には、立派なちんちんがついている。あと動物園の馬もなかなかのブツをボロンしてる時がある。
英雄叙事詩の主なテーマの一つに「外敵との戦い」がある。英雄が戦う相手は「異民族」や「異教徒」であることが多い。たまに超自然的な怪物と戦うこともある。
敵対する異民族や異教徒を、英雄は苛烈に打ち倒していくわけだが、全ての異民族や異教徒が敵となるわけではない。
盟友となった異民族とともに、英雄はさらなる敵を打ち倒していくのである。
(英雄叙事詩中に現れる異民族は大抵がモンゴル系の遊牧騎馬民族な訳だが、細かいことはいいんだよ)
敵についても、少し話をしたい。
英雄は異民族と敵対し、彼らを倒して強さを示す。異民族の長との一騎打ちはしばしば物語のクライマックスとなり、もっとも盛り上がるシーンであると言っても良い。
YOIにおける王といえば、J.J.ルロワに他ならない。
11話でオタベック・アルティンと対峙したJJの姿は各位の記憶に新しいことと思うが、ここでもオタベック・アルティンが持つ英雄性を感じ取ることができる。
そうして「勝利」を得た英雄は、やがて自集団を束ねる長となり、後世へと名を残す偉大な存在となるのだ。
英雄叙事詩はその他様々なエピソードによって構成されているので、興味を持った皆さんには是非読んでいただきたい。
ここまでの参考文献は以下の通りである。
坂井弘紀2002『中央アジアの英雄叙事詩:語り伝わる歴史』東洋書店
坂井弘紀訳2015『アルパムス・バトゥル:テュルク諸民族英雄叙事詩』平凡社
我々は幸運にも日本語でテュルク系英雄叙事詩に触れる機会を持った。最大の感謝をここに表す。
以下、蛇足。
オタベック・アルティンはサマーキャンプを経てバレエからは離れたようだけど、彼はその後どこに行ったのだろう?
個人的に、例の演技終了時のポージングからはコサックダンス(ホパーク)の匂いを感じた。
12話で明らかになるのだろうか、期待は大きい。
マスターキートンの中でも印象に残っていると言う人が多いであろう砂漠のかーリマンの話。
新疆ウイグル自治区、崑崘山脈から流れ出る2つの大河に挟まれ水の豊かなコータンは紀元前からシルクロード佐伯何度のオアシス国家として栄えていた。こーたん近くタクラマカン砂漠の下には東西交流の後を示すオアシス遺跡が数多く眠っている。その降誕北方110キロにある車は累積ここが舞台になっている。
遺跡の発掘と保険とは味切な関係がある。発掘参加者の紹介保険の丘後から発掘品の盗難破壊に保険をかける場合もある当然発掘されたものが保険の契約内容にふさわしい考古学的価値を持つか否かを鑑定する必要も生じてくる。故に保健委員の仕事も大いに関わってくる。
ウィグルと呼ばれる人々はトルコ系の遊牧騎馬民族で8世紀には中国北西部を支配する大帝国を形成したしかし9世紀後半キルギス人により滅亡現在は中国北西部の各州の民族自治区に分かれて生活をしているウィグル族は15世紀以降イスラム化した会長とはいちにち誤解目回の礼拝を欠かさない。
我々をイーグル足の上に立つの新の神のみであるだがかつてオアシスが水を持つ者が支配者だった私のように小作人として生を受けたものは様子吉田吉田の拍子に告示され続けた私はこの地にとどまった子後はマホメットに最も近い伝説の英雄さリコの生地とされていたからだ私が毛沢東の軍隊のために戦ったのも我々老いぼれ側の信仰の自由のためだ英雄サーディクのように。
われわれはついにあれを発見した。あれこそが1000年の昔この砂漠で戦ったauサービックの聖なる量の上に立った礼拝所の後だ。中央の壁の凹みは聖なる印だ。
「よくわからんが世界中にはよそ者がつかつか踏み込んでけない場所がたくさんあるってことです最近の日本人は平気で工夫を壊しちゃいますけれどもね。」
まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。
まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。
次に石をしゃぶったり音を掘り出して水を吸ったりと言う行動とる。
われわれは全員おそらく体重の10%位の水分は既に失っています。昼の朝から考えて後5パーセントでも水分をしなれれば我々みんな死んでしまいますまず水できれば塩分が確保できるまではここを動くべきではない。
我々の現在地およそ北緯37度50分タクラマカンの中央よりもずっと南にいます佐伯何度まで少なくとも60キロ2万はかかります北半球の北緯10度位北では北極星のコードから現在地が分かるまず本滝ノ町2開けた何お守りのついた糸を垂らすそして北極星を除く人が分度器で示した角度90度から引くと北極星の行動=色となる言時がない場合は指でも代用が可能である。
さらに花を用意してねずみ男捕まえネズミの血液を飲んでなんとか生きる。
さらに小便を濾過して水を用意する。
人間の体は脱水症状が進むほど帰って頻繁に名が出るもんなんですよ。
砂漠に穴を掘りその上をビニールで嘔吐、太陽熱で、ビニール布の下の空気は温められ血中の水分が蒸発し水滴となる。水滴は、穴の中央のビニール袋に落ちてた。。つまりこれは1種の天然蒸留器である。
彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しかし仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12を処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠の帰りマンとして。
彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しかし仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12を処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠の帰りマンとして。
水をやれ。水を飲ませてやれあいつわかり万だ。
さすがに女子高生コンクリ殺人みたいな事を日常的にやってるような国家と比べてマシってのは言い過ぎだ。
強姦されると家の恥だからと父親や兄弟から嬲り殺しにされたり、夫が先に死ぬと火葬の火で焼き殺されたり、バスに乗っていたら乗客の男共に集団強姦されて殺されたり、レズを治療するとかいう名目で強姦されたり、結婚したら早々に持参金目当ての夫に殺されたり、持参金が払えないからと胎児のうちに堕胎されたり、国策で子供一人しか作れないからと産まれてすぐになかった事にされて捨てられたり、その挙句農村部のゴミみたいな男の嫁に飼われて一生奴隷として生きる羽目になったり、都市部で好きな男との婚約を控え生き生きと仕事していたら突然田舎から出て来たカス男共に誘拐されて無理矢理見知らぬ田吾作の嫁にされたりってのは少なくとも現代日本ではまずあり得ないし、そんなことが起きれば犯罪としてきちんと裁かれるんだから。
(※「名誉の殺人」「サティ」「持参金殺人」「キルギス誘拐婚」あたりググってくれれば全部ネタじゃなくマジだってことはお分かり頂けると思います)
A=Australia(オーストラリア),Austria(オーストリア)
B=Brunei(ブルネイ),Bangladesh(バングラデシュ),Brazil(ブラジル)
E=Egypt(エジプト)
G=Germany(ドイツ),Georgia(ジョージア),Gunma(グンマ)
I=Indonesia(インドネシア),India(インド),Italy(イタリア),Iceland(アイスランド),Israel(イスラエル)
J=Jordan(ヨルダン)
K=Kazakhstan(カザフスタン),Kuwait(クウェート),Kirghiz(キルギス)
L=Laos(ラオス),Luxembourg(ルクセンブルグ)
M=Mongolia(モンゴル),Myanmar(ミャンマー),Malaysia(マレーシア),Maldives(モルディブ)
N=Nepal(ネパール),New zealand(ニュージーランド),Netherlands(オランダ),Norway(ノルウェー)
P=Philippines(フィリピン),Pakistan(パキスタン),Portugal(ポルトガル)
Q=Qatar(カタール)
S=Singapore(シンガポール),Sri Lanka(スリランカ),Saudi Arabia(サウジアラビア),South Korea(韓国),Switzerland(スイス),Spain(スペイン),Sweden(スウェーデン)
T=Thailand(タイ),Tajikistan(タジキスタン),Turkey(トルコ),Taiwan(台湾)
U=Uzbekistan(ウズベキスタン),United kingdom(イギリス)
俺たち日本はとんでもない奴らを相手にしようとしてる。。。。。
このまとめを見て、昨今のウイグル問題に関する文脈に一言物申したくなった。
僕は親中というわけではないけど、とりあえず嫌韓ネタ出しとけばいいや、みたいな思考停止が嫌なのです。
そして話題が話題だし、ちょっと重い話も含んで語りたいから、増田で書く。推鼓する時間も無いので、とりあえず取り留めなく。
僕は日本に住む日本人だけど、過去に中国在住8年。彼女がウイグル人で、向こう6年の付き合い。
まとめ元の井上氏とは、そういう意味でちょっと似てる立場なのかもしれない。
不思議と日本国内には居ないのだけど、大陸には「新疆地方」出身(※1)の知人・友人(※2)が何人も居る。
※ウイグル族には限らないです。新疆には沢山の少数民族が住んでいるし、漢民族ももちろん居る
※皆、いわゆる犯罪組織やヤクザのメンバーではない一般人ですよ
もう少し背景を付け足すと、2009年のウイグル騒乱前にも、観光ベースで新疆をブラブラしていた事がある。
実は天安門事件前にも一ヶ月間、新疆に観光へ行っていた。シシカバブ・ラグメン最高。ビールが気軽に飲めたらもっと最高なんだけどな。
上記の通り、僕は多少ウイグルに縁がある一般人というだけで、歴史学や地政学に特別詳しいわけでも、何でもない。
なので、僕はなかなか文脈の中に出てこない現地(ウイグル地方)出身の一般人、あるいは旅先で現地の人に聞いた事を客観的にそのまんま書く。
詳しいレポや現地メディアの状況は@furumai_yoshikoや@dongyingwenrenのような専門家の方がずっと詳しいし、ためになる。
気軽にヘイトに走っちゃう人はぜひ、彼らが過去に書いた記事も、よく見てほしいのです。
以下、現地の複数少数民族にきいたこと
・別に、何とも思ってないよ
・無能。特に公安。ウイグル騒乱の時、彼らは漢民族もウイグル族も守らなかった
・今度、政府が立ててくれる少数民族専用マンションに引っ越すんだ。
・他の少数民族と変わらないんじゃない?
・普段はいいけど、何か問題が起こった時に締め付けが厳しくなるのが面倒
列車に乗るのも一苦労
・チベット族ほどじゃないと思うけど、差別を感じる事はよくある
3. ラビア・カーディルって知ってる?
・知らないよ。誰?
・大きな事件があった時に名前を聞くけど、何をしてる人かは知らない
4. 2009年以降どう?
・漢民族とウイグル族の居住地区は、明確に分かれるようになった
※大きな街では、東西・南北で町並みが全然変わっていた。東側は中国風、西側はイスラム風みたいに
・めっきり、お互いの民族間で交流しなくなった。市場で他民族を見る事がなくなった
・(相手民族)が怖い。間違っても人通りの多い所には行きたくない。
・カザフ、モンゴル、キルギス族の多い北の方は、逆に景気良いよ
-.政府(※地方政府)がロシアから建築家招いて、超豪華な公衆トイレ作ってくれたんだぜ!日本のトイレみたいだろ!
眠たくなってきたのでこの辺でいったん〆るけど、なんとなく現地人の雰囲気が伝わるような物をピックアップしてみた。
総体的に、彼らと話していて感じた事は「民族としての連帯が非常に緩い」「人生楽しそうだな」という事。
今、よく日本で言われている「少数民族としての劣等感」「独立意識」「民族弾圧」のような要素を感じる事は無かった。
政府への不満はよく聞いたけど、それは中国に住む人であれば皆同じ事を言う類のものだった。
よく漢民族の言う「少数民族は優遇されている!」というのも、本当なのだなと思った。
日本で言う所の在日特権みたいな物も存在するんだけど、新築マンションの家賃8割政府負担は恐れ入った。
とはいえ、増え続ける失業者対策の一環なんだろうとは思いつつ。
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ちなみにウイグル騒乱の時は、彼女を通じてウルムチの様子をLIVEで聞いていた。広場でウイグル族に殴り殺された漢民族の女の子の話、
仇を取ろうと仲間を集めて家を出て行ったその子の父親と、それを必死で止めた、ウイグル族の隣人。殺到する群衆を恐れて、
橋の下で夜通し隠れていたウイグル族の親子。その親子が深夜、公安に保護されてようやく帰宅できた話。
異人系の顔立ちだから、漢民族・ウイグル族どちらからもターゲットにされてしまうカザフ族の話や、漢民族との勘違いを恐れて、
家の外に出られないモンゴル族の話。結果、ターゲットにされて腕を刺されてしまった男性の話。
この時、僕らは彼らに何も出来なかった。地理的な距離がありすぎたし、日本と違ってそもそも、支援する手段が無かったからだ。
※情勢が落ち着いた頃、新疆は冬が厳しいという話を聞いてユニクロのヒートテックグッズを送ってあげた。
腕を刺された男性は、後日傷を見せてもらった。痛々しかった。でも命があって良かったと思った。こんなので刺されたら、普通死んじゃうわ。
http://www.koohji.com/upload/2009/4/200904111726561635.jpg
全て彼女の身近な人だったから、サンプルとしては凄く少ないのだけど、民族間対立とは、紛争とは何か、
中国という国は何かを考えさせられるには十分すぎる体験だった。
これは未だに考え続けていて、答えは見つからない。今後も考え続けるんだろう。
答えが見つかる気はしないし、誰かが答えを教えてくれる気もしない。どうしたもんかなあ。
現地人に間違われることも何回かあり、
北京語で筆談しようとして漢字を書いた紙を見せても英語で返される。
街中に溢れる英語はcentreとか-iseとかイギリス式だった。
ちょっと落胆した。
同じような顔をした東アジア人、同じ漢字の知識を持つ漢字圏の人たちと、
来日アジア人学生とは日本語で話していたから気付かなかったけれども、
日本に照準を当てていない外国人とは、いかに文化的人種的に近い東アジア人であろうとも、
最近東南アジアに行ったときも、やはり現地人との会話には英語を使うしかなかった。
現地の言葉を話そうにも、「サワディー」「カムオン」ぐらいしか分らないんだから。
英語は分るのに、同じような顔をした人達の基本的な挨拶も知らないなんて!
自分を恥じた。
日露戦争の時は日本人と清国人と朝鮮人とベトナム人とは、知識人であれば会話は出来なくても漢文で意思疎通が出来たらしい。
安は日本人看守に処刑前に「為国献身軍人本分」という自書を渡した。
今や朝鮮人もベトナム人も平均的な戦後生まれは漢字を理解しない。
もっとも千数百年前は当時の漢文が今の英語の立場にあったのかもしれない。
英語で世界が均質化されるということは、逆に言えば今まで交流の浅かった遠い国との距離が縮まる分、
隣国との距離が相対的に広がるということでもある。
追記:
文脈によってその指す範囲は異なりますが、本稿では、文面から、
「漢字や箸や仏教や儒教を伝統文化として擁する東アジアの国々」から「モンゴロイドを主要構成員とする東アジアの国々」
までを漠然と指している、ということを、感じ取れないでしょうか?
形式的には「中華人民共和国」という国連の基準では一つの国家の中に含まれていても、
ウイグルやカザフやキルギスやウズベクやチベットを「東アジア」に含んでいないことを、感覚的に理解できないでしょうか?
だから、そのほかの文化が滅びていくことが無念だ、というのがこの日記の主題なんですよ。
安重根の辞世の句、これは漢文だから魂が込められているのです。
同じ文句を英語で安が発言したとして、意味は通じるでしょうが、それはもはや魂のない「記号」でしかありません。
(漢文も土着の言葉を蹂躙して君臨してきた事実を差し引いてもです。)
今の韓国人は安の遺墨「為国献身軍人本文」「国家安危労心焦思」を読めません。
安の遺墨に込められた魂は漢字排斥により子孫たちから断絶されました。
私たちは、英語を汎用できる利便性と引き換えに、それぞれ固有の文化が持つ魂を失いつつあります。
英語以外の言葉を学ぶにせよ、世界中の言語全てを「平等に」習得するのは無理ですから、
何にせよ取捨選択はしなければいけませんよね。
ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/taiwan3.html
(1953年度北京政府発行国定教科書『現代中国簡史』に基づく)
「中国」(満州・内モンゴル・ウイグル・チベット・東カシミール(アクサイチン地区)の占領地域を含む)
東南アジア(ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・シンガポール)
旧英印領地域(インド領シッキム・バングラデシュ・ブータン・ネパール領の一部)
これをご覧になられた方はどの様な感想をお持ちになるでしょうか? 現在、支那と東南アジア諸国が、領有権で係争中の南沙(スプラトリー)諸島や西沙(パラセル)諸島どころの話ではありません。支那の領土観に従えば、フィリピン・インドネシア(旧蘭印領)・東ティモール(旧ポルトガル領)・東マレーシア(カリマンタン島北西部のマレーシア領サバ州・サラワク州)・ブルネイ以外 ── つまり、支那と陸続きになっている東南アジア地域は全て「中国領」となってしまうのです。そして、現在の「中国」領以外の「潜在的中国領」は、現在の「中国」領に匹敵する程、広大なのです。と、ここ迄は、海を隔てた「他国の話」であって、自分達には直接関係無いと考えておられた方もおありでしょう。しかし、上記の表には「潜在的中国領」とされる地域の全てを記載した訳ではありません。実は、これにはまだ続きがあるのです。では、その続き ── 記載しなかった「潜在的中国領」とは具体的に何処(どこ)を指すのか?
支那が「潜在的中国領」と考えている地域に敢えて書かなかった地域、それは何と驚く事に、
だったのです。いや、より正確には、日台支三国で領有権を係争中の尖閣諸島(詳しくは、コラム『94.「お宝」目当ての領有権主張 ── 尖閣諸島問題』を参照)を含む琉球諸島全域(沖縄県)・奄美諸島(鹿児島県)・対馬(長崎県)と言った地域なのです。これらの地域は、今更言う迄もありませんが、日本国の施政権が及んでいるれっきとした「日本の領土」です。その「日本の領土」迄も、本来あるべき「中国領」と支那は考えているのです。最早、到底笑って済ます事の出来る話ではありません。
支那が何故、沖縄を「潜在的中国領」と考えているのか? それは、かつて沖縄が「琉球国」と呼ばれていた頃 ── れっきとした「独立国」だった頃に迄遡ります。(コラム『42.琉球独立!! 「沖縄基地問題」に対する処方箋』を参照) 沖縄が「琉球国」だった時代、琉球は支那(明国及び後継の清朝)に朝貢し、琉球国王は支那の皇帝によって冊封されていました。つまり、支那から見れば、琉球は支那の「属国」あるいは「属領」であり、単に「自治権」を与えていたに過ぎないと言う訳です。しかし、琉球は1609年以降、薩摩藩によって王国体制を維持した形での支配を受ける様になり(島津支配)、これ以後、琉球は日清両国に朝貢する ── つまり、日本と清朝と言う二つの「宗主国」から支配を受ける事となったのです。その後、明治維新後の日本によって1871年に保護国化され、1879年、遂に王国は解体、日本に編入され「沖縄県」となったのです。しかし、支那はかつての「宗主国」として、琉球が沖縄と名を変え、日本領となった現在も「自国領」との認識を捨ててはいないのです。
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
◎
「中国の近未来をいま一度考えてみると、これまでの固定概念的な地方軍閥、地域対立、王朝の腐敗、衰退という文脈から分裂に至るというシナリオは遠のき、むしろ現代中国に拡がった新しい空間、すなわちネットにおける反政府言論というゲリラ戦争、イスラムの思想的連帯という見えない武装戦争、利権争いの集大成としての個別経済ブロック化、他方ではグローバル化に波に乗った資産の海外逃亡などが次の舞台の開幕を告げるであろう」(あとがきより)。
「つねに未来がリスクに満ちていると仮定すれば、わたし達は日常的に危機に対応するシナリオを幾通りも用意しておく必要があるだろう。賢者は最悪に備えるという箴言もあるように、中国が分裂しないという保障は何処にも存在しないのである」。
「米国も英国も分裂気味なうえ、カナダも恒にフランス語圏の分離独立運動を抱えている。イラクにはクルド族独立運動、グルジアにはオセチア、アブハジアという「国内国」との紛争、スペインにもバスク独立運動。。。。。。。。。」
「フランスの人口学者、エマニエル・トッドは1976年にソ連の崩壊を予測した。当時、だれも彼の予測に耳を傾けなかった。あり得ないと踏んで、その仮説を嗤った。
ソ連を構成していた十五の共和国のうち、バルト三国(ラトビア、エストニア、リトアニア)はすぐに西側に飛び込み、カフカスのグルジア、モルドバ、アゼルバイジャンはモスクワ離れが激しく、そして”スラブ三兄弟”といわれたウクライナ、ベラルースもモスクワと袂をわかった。この趨勢をみていたイスラム圏中央アジア五ヶ国も便乗して独立した。カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンだ」。
「そもそもチベット、新彊ウィグル自治区、内蒙古自治区、旧満州はそれぞれが独自の歴史をもつ漢族とは異なる国家だ」。
「チトー大統領の強引な手腕で「国家」を形成したユーゴスラビア連邦は重圧な桎梏が消えると血なまぐさい殺戮を開始し、北からスロベニア、クロアチアがさっさとセルビアに反旗を翻し、ボスニア&ヘルツェゴビナとの紛争に手間取る間にモンテネグロとマケドニアも独立、セルビアが孤立した。加えてコソボが事実上の独立宣言をしており、ユーゴは六つの分裂から事実上は七つの分裂国家になる。
この伝でいけば中国が七つ前後に分裂するという議論はまったくおかしくない(本書の仮説は七分裂だか、必ずしも分裂後の中国が七つになるとこだわっているわけではない。五つかも知れないし、或いは十数に大分裂を引き起こすかも知れない)」。
本日発売
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%A3%82-%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1-%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/4484092344/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1253137807&sr=1-1
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英紙フィナンシャルタイムズ(9月9日)速報に拠れば、中国はオフショア市場で初めての人民元建て国債を発行する。
香港のオフショア市場を利用して総額60億元を世界の投資家から調達、発行は9月28日。ただし利率、償還期間の詳細は不明。
これは中国の通貨戦略の具体的発動で、自国通貨のハードカレンシー化への第一歩であり、注目される。
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ウラジオストック、ナホトカ紀行(その3)
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(承前)
ウラジオストックの中央広場にあるフェリー乗り場からおんぼろフェリーでルースキー島へ上陸して驚いた。
道路はぬかるみ、舗装は溶けて泥道、大雨のあとの水たまりの悪路を日本製のランドクルーザーが進むが、生い茂った森林の伐採作業場ばかりが続き、激しい凸凹道に車酔いを感じながら一時間後、ようやくイベント会場となる現場に到着した。
普請の騒音が高い。
現場は日本製のクレーンが林立している。ブルドーザ、シャベルカーも殆どが日本製だ。そうか、日本抜きにして開発は成り立たないんだ。
建設現場の横に長い看板、「2012年APECサミット会場」(ロシア語)がなければ何の工事かよく分からない。俄かづくりの観が否めない。アゼルバイジャンなどからの流れ者労働者が混在している理由も分かる。
建材や鉄骨が臨時の波止場に積み上げられ、労働者が居住するプレハブのマンションが周囲に建っている。「でも冬は零下二十度になるというのに、あんな住宅で大丈夫か」と問うと「真冬は工事が中断」という答えが返ってきた。会場になるコンベンションホールも外国代表の宿泊予定のホテルも、まだ影も形もない。
ふたたび鋼鉄が錆びてぼろぼろのフェリーでウラジオストックへ戻る。80歳を越えた老女がスターリン勲章を沢山つけて誇らしげに入ってきたので、意地悪な質問。大祖国戦争って何ですか。
▲ビルが林立して壮観だった
さて船から市内を眺めやるとウラジオストックは意外にも高層ビルが林立して壮観である。港には軍艦が三隻、写真を撮っても誰も咎めなかった。
瀟洒なレストランで豊饒なメニューの昼飯のあと、名物の「潜水艦C56博物館」を見学した。戦争博物館を兼ねる。
展示内容が「大祖国戦争」と「第二次世界大戦」ばかりでソ連軍の満州侵略に触れていないのはロシアの歴史観だから仕方がないにせよ、「日露戦争」の記述があまりにも少ない。ガイドに理由を問うと「あれ(日露戦争)は『小さな戦争』ですから」と答えたのには驚いた。
翌日、立派な高速道路を飛ばしてナホトカへ行く。
ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。
港は撮影禁止と聞いていたが、軍事施設もなく、石炭のバージ船が沖合待ちをしている程度、かつて日本のバック・パッカーの出発点だったシベリア鉄道の始発駅は閑散としていた。
ナホトカで一番大きなホテルは中国資本の遠東大飯店(ユンドァン)という。わざわざ見学に行ってみたが、ほぼガランドウに近く、対岸側にあるチャイナ・タウンの長い長い商店街も人が殆どいない。門前の四階建てのホテルは中華風のつくりだが、そもそも中国人客の姿がない。
▲チャイナタウンは火が消えていた
中華門の傍で焼き鳥を焼いている中年男に「中国人か?」と訊くと「そうだ」。
「商売はどう?」、「うぅん最悪に近いな」。「中国人を殆ど見かけないが?」、「そうさ、北朝鮮、キルギス、ウズベキスタン、そしてアゼルバイジャンからの安い労働力に奪われ、殆どの中国人は帰ったよ」と言う。
われわれ四人組が泊まったのはナホトカで高級な、ガイドブックにも出ているピラミッドホテル。だが、これとて民宿に近い。地下のレストランは客も疎らで、ウラジオストックの繁栄ぶりに比べると天地の開きがある(ただし味は旨かった)。
ナホトカの町を歩いている女性のセンスも田舎風で流行遅れ、所得格差が歴然としており市内唯一のデパート「グム」を見学して品数の貧弱さに唖然とする。書店は絵本と小説くらいしかない。村上春樹の翻訳? ナホトカでは見かけなかった。
2006年に524人の遺骨が収容され、慰霊祭も行ったというナホトカの日本人墓地は台座が毀され荒れ果てていた。
慰霊祭から僅か三年後、お墓だった場所は草ぼうぼう、日本人墓地の標識は落書き、おそらく大理石だった台座がインテリアの飾りにでも使うのだろう、殆ど盗まれて、まるでハゲタカの被害にあったような荒廃ぶりである。
ウラジオストックにあったお墓のほうが立派で、墓園の入り口には花屋もあったのに。
ホテルの裏にこれ見よがしにあった日ロ友好の壁が虚しい気がした。
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通巻第2703号
米下院議会公聴会でタリバン研究の教授がアルカィーダとの繋がりを証言
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中国には新彊ウィグル自治区の独立をめざすETIM(東トルキスタン・イスラム運動),TIP(トルキスタン・イスラム党)のほかにも中国からの分離独立を狙う過激セクトがあって、「それぞれが地下組織として新彊ウィグル自治区のなかに潜伏し、テロの機会を窺っている」とタリバン研究家のワリド・ファレズ国防大学教授が、米議会公聴会で証言していたことが分かった。
ワリド教授に拠れば、イスラム“聖戦”の中核「アルカィーダ」は、新彊ウィグル自治区の若者をリクルートして、軍事キャンプで訓練し、テロ活動の実践のため、遠くチェチェン、アフリカの角などへ派遣している。
実際にパキスタンに送られたイスラム兵士には多くのウィグル人がいる、という。
ETIMを「テロリスト」と指定したのは中国、カザフスタン、パキスタン、米国、そして国連である。
02年にキルギスで殺害された中国人外交官も、北京はETIMの仕業と睨んでいる。
かれらは新彊ウィグル自治区の独立だけのために闘っているのではなく、チェ・ゲバラの永久革命のようにイスラム聖戦の大儀のためにはチェチェンであれ、アフガニスタンであれ、世界どこへでもテロ戦争の闘いに出かける。
武器は密かに密輸ルートで陸揚げされ、彼らを手引きするシンパ、資金援助をする胴元、イスラムの連帯は世界的な絆がある。
02年に米国務省がだした報告ではETIMの指導者=ハッサン・マシュームは1999年にアル・カィーダの首魁=ビン・ラディンと面会した形跡があり、兵士の訓練の他に軍事金の要請を申し出た。
すぐに実際の兵士をビン・ラディンは新彊ウィグル自治区へ送り込んだという。
ほかにETIMと連携するTIP(トルキスタン・イスラム党)の存在が確認されており、北京五輪前に爆弾事件をおこしたのは、このグループだという。
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)
中国からの刺客に無防備、米国はなぜ安全方面を考慮しなかったか
政治は風向きが変わると、その渦中にいた人間は、その運命が右から左へ、上から下へと突如翻弄されることになる。
台湾が国民党独裁の時代、中国大陸から逃げてきた亡命者を「投奔自由」と比喩し、国民党系のメディアは英雄扱いした。
私は中国からの亡命者のなかでもミグ・パイロット、京劇俳優、作家、医者(周恩来の主治医もいた)、物理学者(中国の核物理学者もいた)、通訳など八十数人にインタビューし、『中国の悲劇』という本にまとめたことがある。
ただし国民党の宣伝となってはいけないので米国へ逃げた人々も追いかけ、拙著の最後の場面は、台湾人作家で北京へ逆に亡命し、はては米国へ再亡命した奇異の存在、陳若儀をサンフランシスコに訪ねて「それでも中国に希望ありき」という談話で掉尾を飾った。
80年代前半まで、台湾には「同胞救済協会」のような支援組織もあり、亡命者が台湾にあらわれる度に、大きな記者会見を開催し、ミグ・パイロットには黄金数キロという懸賞もつけて賛美した。
第一に中国からの亡命者は台湾ではなく、欧米を目指し始めたこと。
第二に台湾は自由化を驀進しはじめ、とくに亡命者を賛美する風潮が掻き消えたこと。
どこかの国の状況と似ている。ベトナム戦争の英雄は、米国に帰ると邪魔者扱いされたように。
既報のようにグアンタナモ基地に八年間、「タリバン」の容疑者として拘束されていたウィグル人兵士13名は、パラオ諸島に移送される。
最初は17名と言われたが、すでにそのうち四名はバミューダで暮らし始めたことが分かった。
ウォールストリートジャーナル(09年6月23日)は、「はたしてこれらのウィグル人らはパラオ諸島で身の安全が保障されているのか」とする疑問を報道した。
まともな軍隊も警察もないパラオは人口わずか二万。二百数十の島嶼国家。台湾と外交関係があるため社会のインフラ建設と整備には台湾がおおきく貢献してきた。
その台湾が中国と接近している政治境遇の大変化も手伝い、中国の代理人や刺客の侵入はわけもないこととなる。
「南洋ののんびりした島で休養がとれることは彼らのメンタル回復に役に立つはず。なにがしか働き、貯金し、かれらの人生の夢は最後にメッカ巡礼なのだから」と。
パラオ諸島が、かれらタリバン兵士被疑者を受け入れたのは、米軍の二億ドルの援助であり、人道的理由は二の次だろう。
もしヒューマニズムが最大の動機というのなら三年前の米国の打診開始の時点で受け入れる筈だから。
▲両天秤外交も挫折の時代へ
さて中央アジアのイスラム国家、キルギス政府は「米軍の継続駐留を認める」と百八十度逆転の決定を『平然と』行った。
驚き桃の木山椒の木。
簡単に経過を振り返ると、アフガニスタン空爆の拠点としてキルギスのマナス空港を米軍の集荷流通センターのごとき兵站拠点としてきた。
昨年からキルギスでは「米軍は出て行け」という運動が(ロシアに支援されて)組織化され、ことし二月、キルギス議会は米軍の撤退を正式に決議した。
米軍は2010年8月をメドに撤兵する予定となった。背後にはプーチン政権の援助(水力発電プロジェクトなど20億ドル)があった。
この直後、或る米軍高官に聞いたことがある。すると、かれはにやりと嗤って「いずれ逆転がある」と意味深長に言った。『米軍の出費拡大がキィですよ』と。
両天秤外交は嘗てマレーシアなど新興アジア諸国でも顕著だった。当時は米国とソ連に援助合戦を競わせた。
▲政治とは不条理で成り立つ
キルギスは米ロに援助を競わせ、まんまと両国から援助拡大の約束を取り付け、米軍には空港使用料の値上げを認めさせた。
そこには倫理が介在する余地がない。私は嘗て高坂正堯氏が言ったことを鮮明に思いだした。
「宮崎くん、そうはいうてもやな。外交に道徳をいれたらややこしくなるで」。昭和四十三年春、セミナーが終わって大阪中之島から北新地の二次会場へ向かう電車のなかだった。私は外交と道徳について質問したのだった。
冒頭パラオのことに戻る。
南太平洋に存在する島嶼国家十二のうち、六カ国が中国に寝返り、六カ国が台湾との外交関係を続けている。
いずれも激しく両天秤外交で成果を味わい、とくにキルバスなどは、二転三転。援助の多寡で自由自在に外交関係を切ったり繋いだり。同様のことは中南米諸国とアフリカで顕著である。
変化の予兆は中台の「雪解け」「一中市場」「国共合作」からである。
政治的潮流の大変化とともに、中国も台湾も、援助合戦の無意味さを認識し始めた。
もとより札束により外交関係を維持するという外交戦術を選んだのは台湾国民党時代であり、その台湾が国民党の政権復活により、みずから始めた援助外交を終息させる。
不条理!
いや、政治とは不条理そのものではないか。
イランのガスはパキスタンから中国へルートが確定、米国勢は敗退
そもそもの新グレートゲームの始まりはクリントン政権のときである。
中東から南アジアにかけての資源争奪戦争は冷戦後新しい局面を迎えていた。
「ユノカル」は米国石油メジャーの後発企業で、カリフォルニアが地盤、ただし海外に鉱区の開発権を多く抱える。米国内での政治的コネクションが薄く、主流のメジャーは共和党系が多いため、ユノカルは民主党を頼った。
出発からボタンの掛け違いだったかも知れない。
クリントン大統領はホワイトハウスに実習生モニカ・ルインスキーを招き入れ、情事にふけっていた。
後日、大統領弾劾裁判において、「あれは挿入していないからセックスではない」ととてつもない言い逃れの詭弁でクリントンは危機を切り抜けた。
そんなおりに遠路はるばるとアフガニスタンから珍客があった。タリバン幹部である。
要件はなにか。
トルクメニスタンのガスを、アフガニスタン経由でパキスタンの港へ運ぶ。総延長1560キロのパイプラインを敷設する。これをユノカルが主導する。
米国を引きつけた魅力の第一は、このルートは「悪魔」のイランを通過しないこと。
ソ連崩壊後、世界帝国の輝きを取り戻したかの錯覚のなかに米国は酔った。
クリントン政権はこのプロジェクトに前向きで、カリフォルニアのメジャー「ユノカル」はトルクメニスタンとアフガニスタンを根回しし、それからパキスタンから分岐してインドへも輸出ルートを追加でつなげようとインドを訪問した。
インドも工業化を急ぎ、ガスは必需品、プロジェクトに乗ってきた。
これをトルクメニスタン→アフガニスタン→パキスタン→インドの頭文字をとって「TAPI」という。
直後、タリバン系アルカィーダがタンザニアなどの米国大使館を襲撃し数百の犠牲がでた。
クリントンは激怒し、ただちに報復としてインド洋上の米艦からトマホーク・ミサイルを五十発、アフガニスタンのアルカィーダ軍事基地にお見舞いした。
当時、カブールでタリバン政権に協力して電話工事をしていたのは、中国の企業だった。不発弾のトマホークを中国はタリバン政府から買った。
もちろん1560キロのパイプライン・プロジェクト[TAPI]はご破算になった。
01年9月11日、NY貿易センタービルとワシントンDCのペンタゴンが、テロリストの奇襲を受けた。ブッシュ大統領はただちにアフガニスタンへの空爆準備に入り、まずはロシアを口説いた。
旧ソ連衛星圏のカザフ、ウズベク、キルギス、タジク上空を通過して爆撃機は飛んだ。
米本土からは長距離爆撃機がウクライナ上空をかすめ、NATOはトルコの基地から旧ソ連イスラム諸国家の上空を飛んだ。
そればかりか世俗イスラム国家となったウズベキスタンとキルギスンは空軍基地を米軍に貸与し、タジキスタンには訓練基地、パキスタンも四つの空軍基地を貸した。
グレートゲームの変質を知覚していなかった。表面的に米軍の装備が優れていたため、地上戦、ゲリラ戦の抵抗をかるく想定してしまった。
仇敵ロシアとその配下だった国々がテロ撲滅戦争に協力するという目的で米軍とNATOの活動を支援したことも見通しを曇らせた。
そしてアフガニスタンに米傀儡のカルザイ政権が発足し、カブールにしか統治が及ばない新生アフガニスタンが誕生した。
ユノカルは、「あの話」(TAPI)を復活した。カルザイ政権発足直後にトルクメニスタンとアフガニスタン、パキスタンの三カ国は、例のパイプライン敷設プロジェクトで正式に合意した。
これを不快に見ていたのは第一にイラン、第二にロシア、そして第三が中国である。
密かな反撃が準備された。
イランは中国と密かに武器輸入などを交換条件として、ガス鉱区を与え、さらには25年の長期契約でガス輸出を許可していた。イランが中国からえるものは武器と核技術である。
中国は上海シックスの主導権をもつが加盟六ケ国(中ロ、カザフ、キルギス、ウズベク、タジク)にオブザーバーとして、イラン、インド、パキスタン、モンゴルを加え、あたかもNATOに対抗するかのような、東側の軍事盟主の立場を確保し始めた。
解体されたワルシャワ機構に変わるものとしてロシアは「全欧安保」を言いつのり、CIS間では個別あるいは集団的安全保障条約を結んだが、バルト三国とグルジアと、そしてトルクメニスタンが加わらなかった。
プーチンはがむしゃらにロシア帝国の栄光の復活を夢見て、バルト三国とウクライナへのガス供給をとめ、グルジアには戦争を仕掛けた。
同時に欧州がロシアルート一本のガス供給ルートを多角化するためにナブッコ、ジェイハン・ルートの建設を始めるや、同時に対抗して北方ルート、黒海ルートを提示して欧州を揺さぶっていた。
とくにオーストラリア、ブルガリア、ドイツにはそれぞれが薔薇色のシナリオを提示し、欧州の団結をそぎ、利益誘導型で西側の分断パイプライン建設を妨害する。
トルクメニスタンは砂漠の国だがイランやクエートの匹敵するほどの天然ガス埋蔵があり、いまのところ地政学的にロシアへ流通を依存せざるを得ない。
だからこそニヤゾフ前大統領はガス輸出の多角化に乗り気でアフガニスタンルートの開発が急がれた。これを“脱ロシア”化と捉えるモスクワは不愉快である。
直後、トルクメニスタンの中立路線は変更となり、新政権はややロシア寄りに外交姿勢を修復した。
そして延々と中国へ輸出される総延長7000キロものガス・パイプライン敷設工事が始まり、TAPI・ルートへの比重は軽くなった。
いや、というよりも投げやりになった。
(所詮、アフガニスタン戦争は片付かない。パキスタンは所詮、米国にはつかない)。
トルクメニスタンは変心した。
イランはこの機会を待ち望んでいた。
もともと内陸部のトルクメニスタンとアフガニスタンを経由して、パキスタンの港を目指すというユノカル案は、「イラン回避」ルートである。
だとすればイランはガス油田から運搬ルートを南下させ、南の港へパイプラインを敷設していた。全長900キロのうち、残すところはあと250キロ。
地図を凝視していただきたい。この地点からパキスタンのグァイダール港は「となり」なのである。
すでにパキスタンのムシャラフ前政権のときから、治安の悪いバルチスタン地域に中郷は労働者を運び込んで道路を建設し、資材を運び、グァイダール港を近代的港湾設備を持ったものに改築してきた。
つまりイランからパキスタンの隣町へ運ばれるガスを、この地で精製し、パイプラインでパキスタンの西安から北東へ貫き、しかもインドへは分岐せず、この点でイラン、中国、パキスタンの利害は完全に一致した。
パキスタンは白昼堂々の裏切りを演じた(ここで「裏切り」と穏当でない語彙を用いるのは米国の契約概念からみれば、そういうニュアンスだから)。
中国が最終ユーザーとなり、中国、パキスタンがともに天敵であるインドへは分岐しない。
パキスタン西端に位置するグァイダール港は、すでに中国の資本と技術をもって港湾のかたちをなしており、大々的改築(新築に近い)が進み、アラビア海に面する深海は将来、中国海軍の原潜基地になりうる。
げんに中国の六隻の軍艦はアラビア海、ソマリア沖の海賊退治に参加している。
パキスタンから中国への高速道路も着々と工事がすすみ、嘗てのカラコルム・ハイウエィは完成しているため、ガスの運輸ルートはこれに添ってパイプラインを敷設すれば良いのだ。
中国がこのルートに執着するのはマラッカ海峡への依存度を低減させるためで、ほかにもアンダマン沖合のガス田から(開発成功後は)ミャンマーを南北に貫くパイプラインを建設して、マラッカ海峡への依存度をさらに激減させる計画がある。
中国にとっては、ユノカル買収を土壇場で拒否された米国への心理的復讐劇にもなる。
パキスタンはこのパイプラインの通貨料収入を年間五億ドルと想定、つまりこれをAPAI計画では、アフガニスタンがもともと受け取る予定だったのだが。
イランとパキスタンとの正式調印はイランの大統領選挙の直後に盛大にテヘランで開催される(アジアタイムズ、5月27日、6月3日付け)
敗者はインドとアフガニスタンと米国、勝者はイランとパキスタンと中国。
ほくそ笑んだのはロシア、臍を噛んだのはトルクメニスタン、そして日本はいつものように、こうしたグレートゲームの変質さえ知らず、ユウセイの人事とか、セシュウ制とか、およそ世界の現実とは無縁の矮小な論議にエネルギーを費やしている。
ウィグル人の居住区とイスラムの文化遺産を破壊しつつ辺境「開発」。
景気刺激策のばらまきで少数民族の習俗をついでに破滅させる一石二鳥。
アルタイ山脈はモンゴル、露西亜、カザフスタン、中国を東西に貫く。
その頂点とみられる、ベルーハ山は標高4506メートル、カザフと露西亜の国境を分ける。中国側の「アルタイ市」は、地理的にウルムチの北方およそ600キロ、「阿弥泰」の漢語を当てるが、原住民はもともと漢族ではない。
ちょうどアルタイ市の位置は中国、モンゴル、露西亜、カザフ国境であり、北のロシア側はアルタイ共和国。
アルタイ山脈の雪解け水は中国領内で「ウルンクル河」と呼称される河川がカザフスタン側へ注がれ、ザイサン湖にたまり、そこからカザフ語の「イルティシ河」となって、カザフ北方を東から西へのび、ロシアへ流れ込むと西シベリアのオムスク市あたりまで達し、他の河川に合流する。
山岳地帯だが、水資源には恵まれる。
アルタイ市の北側は北屯鎮をいわれ、河の北岸を新都心「北屯新区」とする計画が決まった。景気刺激策の57兆円プロジェクトに便乗し、三年間で四億元を投資する。
くわえて民間企業への貸し出しを十億元以上と見込むそうな。
2010年にはアルタイに繋がる鉄道、高速道路開通も予定されている。巨大な開発は新都心つくり、新空港整備などに置かれ、アルタイは樹氷でも有名なので、冬の観光客が見込めると「取らぬ狸の皮算用」もやっているが、真の狙いはレアメタル確保である。
そしておそらくは過激派の温床となるのを防ぐために新都心を築くのだ。
すでに新彊ウィグル自治区には14の空港がある。予算の分捕り合戦、あげくに地元デベロッパーの賄賂、手抜き工事。危なっかしい工事が予測される空港を、新彊ウィグル自治区では三つ、新たに増やし、合計17の空港を構築する。イーニン、アクス、ウルムチなどの空港は大規模な改修工事、クチャは移転工事が進んでいる。
新彊ウィグルの西端、カシュガルという砂漠のオアシス都市は世界的にも有名だろう。キルギスと国境を接する街、イスラム教の聖地エディカル・モスクがあることでも知られる。
このカシュガル周辺がM6・8の地震の襲われたのは08年10月5日だった。同地区では1902年にもマグニチュード8・0の大地震があり800名前後の死者がでたという記憶がある。
夏は摂氏30度、真冬は零下十五度という寒暖差がはげしいカシュガルはシルクロードの要衝として古くから栄え、駱駝が闊歩して胡人の隊商が行き交い、むしろ漢族の入植が遅れた。
殆どがイスラム教徒だった。
中国のイスラム教徒にとって、カシュガルのエティカル・モスク参拝は、メッカ巡礼のごとく聖地への憧れ、1422年の建立。正門12メートル、ミナレットは18メートルの高見櫓として左右に立ち、壁面にはイスラム文化の文様が彫り込まれている。
カシュガル市は、このエティカル・モスクを中心にユスフ・ハズ・ジャジャブ(カラハン朝の大侍従)の墓、シルクロード博物館、バザールが拡がって「カシュガル旧市街」を形成した。
近郊にはアバク・ホージャ(新彊イスラム白壇派指導者)の墓、30キロ北東には千年以上前の莫爾仏塔が砂漠のなかに蜃気楼のごとく残る。
このカシュガル旧市街という文化遺産を「地震対策」を名目に建て替え、住民を近郊に「新市街」を建設し、高層アパートに移転させるという無謀なプロジェクトが展開され始めた(ヘラルドトリビューン、5月27日付け)。
すでに900世帯が立ち退き、残り13000世帯も「地震がくるから移転を急ぎなさい」と市当局から煽られて、強制的な引っ越し準備に明け暮れている。
「これはイスラムの文化遺跡破壊ではないか」と前掲ヘラルド紙が批判を繰り出した。
カシュガル市当局は対象住民と何回も話し合いを持ったと言い張るが、住民側は立ち退き日程と保証金を聞かされただけ、プロジェクト全体の費用はとりあえず4億4000万ドル、これに57兆円の景気刺激予算から追加の配分がある、という。
二十日以内に立ち退けば、保証金の他に30ドルの報奨金、一ヶ月以内なら15ドルの報奨金が貰える、と即物的なカネの宣伝を繰り返し、ウィグル人の住居という習俗、文化風習を無視してプロジェクトを急ぐ。
この結果は、さらに漢族支配への敵愾心を増幅させたようだ。
どうやら中央政府は治安対策上、イスラム教徒過激派の集合場所を分散できると踏み、省政府とカシュガル市政府の高官はプロジェクトでカネが転がり込むと踏み、土建屋的発想が文化遺産保存という考え方もついでに破壊した。
北京の文化関係者のあいだにも不評で「愚かな政策」と吐き捨てる者がいるが、国連ユネスコ「世界遺産」登録リストから北京政府は意図的にカシュガルをはずした。「これは政府高官の命令と思える」と文化遺産関係者が憶測しているという。
政情不安。
ビシュケクは緑豊かな学園都市でもあり、大学が十七校ほどある。教育に力を入れてきたので、カザフスタンやウズベキスタンからも多くが留学にくる。
ところが肝腎のキルギス国内に産業がないので、優秀な学生の多くは卒業後、資源リッチのカザフスタンやモスクワへ就労していく。
さらにキルギスはイシククル湖を挟んで南北で対立があり、南のオシュでは何回も暴動が起きた。
現在のバキーエフ大統領は南部出身。北部のインテリからは嫌われている。
政敵サデルクロフの突然の「交通事故」は政治的暗殺だとして、野党連合が団結し、3月27日に大デモンストラーションが行われる。
バキーエフ大統領の周辺は秘密警察長官的な、大統領の兄弟ザンイシが弾圧、暗殺司令の張本人ではないかと言われ、大統領の息子マキスム・バキーエフとは仲違いしているという情報もある(ISNニュース、3月17日付け)。
水資源と鉱物リッチ、これから開発を展望される国で何が起きているか
2005年に独裁者=アカ―エフ大統領を追い出した“チューリップ革命”とは、いったい何だったのか?
期待の星といわれたバキーエフは、権力を握るや民主の顔をかなぐり捨てて、前のアカーエフ一族よりもひどい腐敗、汚職、部族重視の体質をもち、非民主的政治をおこなってきた。
メディット・サデルクロフは過去二年間、キルギス大統領府にあってバキーエフ大統領に仕えた。
モスクワへの急傾斜やビシュケク国際空港の米軍使用などを烈しく批判し、09年一月に大統領府を去った。
モスクワへ行ったバキーエフ大統領が、ロシアからの23億ドル援助と引き替えにマナス空港から米軍を追い出すと宣言した直後である。
2001年9月のテロ事件直後、同年12月から米軍はキルギスの国際空港に駐留してきた。2010年8月に撤収することになり、米軍は代替地を捜している。
つぎの事件には、こういう背景がある。
ウォールストリートジャーナルの独占インタビューに答えたサデルクロフは、「嫌がらせや脅迫は日常茶飯で、死んだ人の指やら、肉片を送りつけるグループがある」と恐怖を語っていた。
サデルクロフは交通事故により、突然死んだ。2009年3月13日の金曜日。そう、13日の金曜日はイスラム圏でも何かが起きるのだ。
「この悲劇は事故である」とビシュケクの大統領府は記者会見した。
疑惑は晴れなかった。
このサデルクロフとともに辞任したエルミラ・イブラヒモバ副首相は、「これは間違いなく政治的暗殺だ」と言った。「ほかで殺されて、死体を移動し、交通事故に見せている」と。
キルギスは中国北方にいたトルコ系民族が17世紀頃までに移動してできた遊牧民国家。『突厥』や『鉄勒』の流れをくむ。
十八世紀あたりまではコーカンド・ハーン、1855年にロシアに併合され、1918年露西亜革命後は、ソビエト自治区。つまりモスクワの衛星国家となった。
1990年にアカーエフが登場し、91年独立、93年にキルギスタン共和国を「キルギス」と国名変更。
アカーエフは学者出身。いつしか身内、部族で権力をかため、米軍の基地使用は、これさいわいと基地の燃料供給サービスから付帯事業の悉くを一族が経営する企業と契約させ、米軍の基地使用料も私物化した。
こうした遊牧民的な近世の首長支配統治の典型は、カザフスタンに見られる。
もともとナゼルバエフ「大統領」は、地元遊牧民が「ナゼルバエフ・カーン」と呼んでいる。
カーンは「汗」。成吉思汗(ジンギスカーン)を連想すれば良い。
1991年、ソ連から独立したカザフスタンは、共産党時代の書記だったナゼルバエフが、そのまま大統領に就任し、爾来18年間、この国の独裁者として国家を壟断してきた。
中国の新彊ウィグル自治区に隣接するため、鉄道を繋ぎ、それを活用して中国に石油を売った。
カザフスタンは、いまではガスもパイプラインを敷設して中国に売るかまえ、しかし、基本的には多くのパイプラインがロシアへ繋がっているため、モスクワの顔色を窺う。
メドべージェフ(ロシア)大統領が就任後、まっさきに訪問した外国が、このカザフスタンである。
オバマ米大統領が就任後、真っ先に外遊した先がカナダであるように、隣国関係の文脈で、ロシアはカザフスタンという資源リッチの国を極めつきで重視している。
ウズベキスタンもキルギスもふたたびモスクワの家来の道を選んだが。。。
2009年二月現在、ガスの国際価格は1000立方メートルにつき400ドル強。
ウクライナに圧力をかけたロシアは十八日間にわたってパイプラインを止めガス供与を中断したが、1月18日に360ドルで合意した。
ガスは生産価格が謎なので、流通の情報の一部から推定すると、おそらく1000立方メートルにつき300ドルだろう。
1月23日、メドべージェフ大統領はタシュケントに飛んで、カリモフ・ウズベキスタン大統領と会談している。
この結果、ウズベキスタンのガスは全部がロシアに輸出されている。「全部」である。
地政学的に海への出口もなく、カザフスタンと露西亜に挟まれた格好のウズベキスタンとしては他に手がない。とはいえ全てをロシア任せ、つまりロシアの完全な価格統制下にはいったという事態を意味するのだ。
08年の購買価格は160ドル、09年の価格は305ドルで合意、ウズベキスタンの価格はトルクメニスタンのガスを独占しているロシアの思惑よりちょっと高い程度と専門家は見る。
三年前の06年1月1日にもロシアは突如、ウクライナへのガス供給を中断し、値上げ交渉の武器とした。
09年1月にもおなじ暴挙を演じ、18日間、ロシアはガス供給を止めてウクライナを締め上げたことは述べたが、ウクライナから先へ伸びるパイプラインが供給するEU諸国分が激減し、EU諸国が悲鳴をあげた。「プーチンはガス供給の中断を政治的な武器として脅した」と。
▲プーチンの人気に大きな影
欧米の経済危機が深化する中で、ロシアの思惑だったガス価格値上げはうまく機能せず、どちらかといえば中途半端に、今回の恐喝騒ぎは中断した。
「まったく商売の下手な実りなき闘争」という批判がロシア国内にも沸き起こる。
ロシア経済は好況から暗転、目も当てられない惨状となっている。
第一に「ペトロ・エコノミー」と別名されるロシア経済で、GDPの大部分をしめる石油とガスの収入が激減したため財政赤字がGDPの5%に達した。
第二に09年に支払いを迎える対外債務合計は1600億ドル。外貨準備は4000億ドルと言っても08年には、このうちの1300億ドルが海外へ流失し、さらに09年1月第二週だけでも外貨準備から303億ドルが減っている。
第三に経済見通しの暗さ。
09年のロシアGDP成長率は2・4%に落ちるだろう。反面、消費者物価は13%値上がり予測だ。
為替レートは一ドル=24ルーブルが、36に落下。50%もの通貨下落となれば輸入物資の価格が暴騰するだろう。
そこへもってきて中国と露西亜の間を結ぶ石油パイプラインの建設が世界大不況と原油価格暴落の影響をもろにうけて暗礁に乗り上げたようだ。
東シベリアの資源を延々とパイプラインを敷設して、最初は分岐ポイントから中国の大慶を運ぶという計画。その次にパイプラインをさらに延々と敷設しナホトカまで運んで日本向けとするという世紀のプロジェクトが挫折する危機を迎えたのだ。
▲当初見積もりの十倍以上
ESPO(東シベリア・太平洋・石油パイプライン)プロジェクトだが、当初の見積もりより十二倍のコストがかかるらしい。事業主体「トランスネフツ」社のニコライ・トカレフ会長によれば総予算122億ドル(当初見積もりは10億ドルだった)。
第一期工事のスコボロディロから中国の大慶区間は3億ドル。タラカン↑タイシット間1100キロの工事は、すでに83%が完成した。
しかし83%完成という数字はパイプライン敷設だけ、ポンプ拠点は65%しか完成しておらず、難工事区間に至っては27%しか工事が終わっていない。
この区間が完成すれば年間3000万トンが中国向けに輸出される手はずだった。
第二期工事区間はタイシット~フコボロディロで2009年末の完成を目指す。これが出来ると年間8000万トン。
ところが専門筋の見通しによれば2020年までにせいぜい年間5000万トン、その裡の2500万トンがESPOに供給され、残りはロシア側へ運ばれるという。
あまつさえ東シベリアに眠るとされる無尽蔵の資源は、当初予測を大幅に下回り、このプロジェクトはコストに見合わないと露骨に反対するロシア側の学者も出てきた(欧米メジャーが逃げたのは、これが理由だった)。
さらにややこしいのは中国側の事業主体「ペトロチャイナ」社とロシア側事業主体「トランスネフツ」との最終的詰めが成立せず、最終価格、信用枠とくに利子の支払い、中国側の建設主契約を誰にするかなどの問題で、依然として話し合いはもつれ、紛糾を続けている。雲行きはじつに怪しくなっているのだ。
アフガニスタンへの最大兵站拠点を失う。
米国退役統幕幹部のリチャード・マイヤーズはAFP(2月20日付け)のインタビューで、キルギスのマナス空港を米軍が使用しているのは主として燃料補給であり、代替はいくらも可能という「強がり」の見解を示した。
米軍はマナス基地を撤収することになる18ヶ月後にそなえ、ひそかにカザフスタンとタジキスタンに基地使用交渉をしてきた(ユーラシア・ディリー・モニター、2月23日)。
またウズベキスタンとも基地使用再開の交渉を秘密に開始したという噂も飛び交った。
理由はトルコがNATOの一員でもあって米軍との共同作戦が多いうえ、トルコは地政学的にもカフカス、中東、そして中央アジアに近く、恒久的な戦略ポイントであるからだ。
オバマ政権によるアフガニスタンへの増派が決定した以上、2010年8月までに代替基地を建設するか、外国の既存の基地借用を決める必要がある。
それも早急に代替基地を見つけなければならない。
一方、受け入れに熱心に見えるトルコだが、この世俗イスラム国家の国内にはイスラム原理主義が猖獗を極めており、アルカィーダがトルコ国内に多数が潜伏、とくにユダヤ人を標的にテロを再開する動きがある。
08年12月にもトルコ警察はアルカィーダのメンバーと見られる二十数人を拘束している。
テロリストの攻撃目標は国際都市イスランブールのほか、NATO海軍基地があるイズミール、加えて首都のアンカラだ。ユダヤ人観光客を狙うという情報もある。
こうしたテロ情報により、これまでテルアビブとトルコを結んでいた航空機もフライト中断に追い込まれた。
ユダヤ人観光客への攻撃を恐れたこともあるが、トルコの飛行機は、イスラエルの警備員を登場させないため、安全保障上問題があり、同時にイスラエルの「サンドル航空」も、トルコ乗り入れ便を休便とした。
ビシュケクの国際空港マナスに米軍は2000人規模で駐留しているが、そこから30キロだけ離れた場所がロシア軍の駐留するカント空軍基地だ。
イシククル湖はソ連時代、秘密のベールに包まれた保養地だった。このイシククル湖を囲むようにキルギスという国家は地形的になりたつが、湖にロシア軍の海軍施設が残っている。
沿岸警備というより湖沼警備隊で、主たる任務は武器密輸の取り締まりである。
ロシアにはCSTO(緊急展開部隊)があり、キルギスのカント基地に駐留している700名は、このCSTO所属。
第一にビシュケクとカザフスタンを繋ぐ鉄道計画の着手と見られる初期工事を始めた。モスクワから鉄道工作兵30名がキルギス入りしたのが2月20日に確認されている。
第二にキルギス南部オシにある飛行場も軍事利用する可能性を探っている。これは近未来にタジキスタンのアンイ空港を本格化させて、カントーオシーアンイを結ぶ空のルートを確定する動きと見られる。
第三にロシアのカント基地にはミグ21が、48機配備されているほか、スホイ25,スホイ27,アントノフ輸送機(AN26)、武装ヘリにくわえて、L39訓練機などが駐機している。
オバマ政権のアフガニスタン増派に対して、米軍の有力な兵站基地がキルギスのマナス空港。背後から政治的に圧力をかけてバキエフ政権を動かし、米軍を撤退させる一方で、ロシア軍は着実に増加させる。
これがロシアの対応である。