はてなキーワード: ガチャとは
同じ性能だけど見た目がカッコイイやつがガチャで手に入るのは良いとしても、
レアリティ低いスキンの見た目がダサく作られてるのが気に入らない。
それって「うわぁ早くもっと高いレアリティ欲しい~」と思うようなダサくてチープで苦痛なデザインを
おい、なあ、知ってるか
ショックを受けたり悲しいと感じる感情パワーは200と2倍になるそうだ
嫌なことの方がよく覚えているのはそれだけパワーがデカいかららしい
それが人類の歴史にどう影響したかどうかは今はどうでもいい、多分ショックがでかいほうが生き残る確率が高いんだろう
他にも命中率90%とか当選確率90%とかあるだろ、つまり嬉しい確率が90%ってことだ
その90%ってのは人間感覚的には70%に感じるらしい、どうだろう、なんとなく経験は無いか?俺にはある
10回中9回は当たるが1回は失敗する。紛れもなく90%の確率なんだが、体感は10回に3回は失敗しているように感じると思わないか?
それで、だ。俺が言いたいのは次のステップの話、ここからが本題
もし人生の喜びと悲しみの数が50:50だった場合、悲しみは2倍に感じて50:100になる。
バランス良く半々なはずなのに、体感では悲しいことが多い人生に感じるってわけだ
ショックってのはデカい、それはここで語るよりも自分の人生を振り返れば分かることだろう
しかもショックってのは結構耐え難い、気付いた時点でダメージが受けるし、避けられない
時間が解決してくれることが大半だが、時間ってのは先取りできない
ショックを減らすってのは多分かなり難しいと思う
前にこれを攻略してやろうと無感情になりKUMONのロゴみたいな顔でガチャを回したことがあるが
あれはダメだった、嬉しさも無くなって結局楽しめなかった
だからよ、俺はこう思うわけだ
大げさでも良いから嬉しいことがあったら2倍喜べば良いんじゃないかって
命中率90%の技が当たった時は「ま、当然当たるわな」と思うんじゃなく「よっしゃああ!!!」と声を出してガッツポーズを取る
よく分からんアプリの毎日引けるクジで5等じゃなく4等が当たったら「あーまあ、5等よりはマシかな」じゃなく「っしゃーおらああ!」と姿見で決めポーズを取る
そうやって嬉しいことを2倍喜んで2:1にすれば、体感値も1:1になってハッピーになると思わないか?
話は以上だ。こっからは蛇足だが、お前のまわりにハッピーなやつはいないか?Youtuberでも芸能人でも良い
そういうやつを見ていると自分まで明るい気持ちになるだろ、しかもそういうやつのまわりってハッピーなやつが集まってるはずだ
類は友を呼ぶというやつだ、だからもしお前が嬉しいことを2倍喜べば、それを見てまわりがハッピーになり
陽気なやつが集まって、良いことがジャンジャン舞い込んで、自分の性格も明るくなって、おしゃれな服着て
おしゃれな服着た自分にも2倍喜んで、おしゃれな服着た自分を2倍喜んでくれる友達がいたらよ
席替え、
班決め、
リレーのチーム分け、
飲み会の席順、
親ガチャ、
50年の人生、何の取り柄もない私はありとあらゆる場面においていわゆる”ハズレ”だった。
小学校で私がとってしまった遅れを必死に取り戻そうとして、ギリギリ負けてしまったアンカーの小林君は悔しくて泣いていた。
中学で私とダンスのペアを組まされた太田君はあからさまに怒りを露わにしていた。
合コンで私の目の前に座った男性は、私と目も合わせようとはしなかった。
もし生まれ変わったら、その時は、次こそ誰かの”アタリ”になりたい。そう願ってやまない人生だった。
席替え、
班決め、
リレーのチーム分け、
飲み会の席順、
親ガチャ、
50年の人生、何の取り柄もない私はありとあらゆる場面においていわゆる”ハズレ”だった。
小学校で私がとってしまった遅れを必死に取り戻そうとして、ギリギリ負けてしまったアンカーの小林君は悔しくて泣いていた。
中学で私とダンスのペアを組まされた太田君はあからさまに怒りを露わにしていた。
合コンで私の目の前に座った男性は、私と目も合わせようとはしなかった。
もし生まれ変わったら、その時は、次こそ誰かの”アタリ”になりたい。そう願ってやまない人生だった。
それ以外の大学に進学するくらいなら、進学せずに歌舞伎町、アキバ、渋谷のどれがで働いてる方が絶対に良い。
10代を都心で生活したかどうかでその後の一生は完全に別れる。リカバリーできん。
つーかその時期を東京で遊べないなら日本に生まれたメリット、国ガチャで勝ったのを完全に捨てるのと同じ。
卒業してから都内で就職しても大学生と同じような生活はできないし、都内の大学出た人間と決定的なまでに生活基盤が差がついてる。
それが無理なら都内の繁華街でなるべく遊べる仕事する。これ一択。
ここで一生負け組かどうかとっくに別れてる
自分でいい学校に入り、いい稼ぎ口を探すことが出来れば自分自身で最低限のセーフティネットを保有することになる。更に周囲の環境が「ある程度以上に稼げて、ある程度以上にいい学歴の人たち」に囲まれることになるので、そこから選べば、少なくとも2のガチャについてだけ心配すればよくなる。自分で学んで自分で稼ぎ口も見つけられるように努力できた人間なら、仮にガチャがはずれても生きていく力が残る。
一家の大黒柱を父親が担い、一家の無賃労働すべてを母親が担うという役割分担で人口が増えた
→母親が夫の分だけじゃなく、成人した息子や娘の分の無賃家事労働を担った。また、住宅費生活費も大黒柱の父親が担い続けるケースが増えた
→息子や娘は生活能力がないまま稼ぎを全額お小遣いにして、イケメンや美少女などの推しにつぎ込んだ
→孫世代が消失し、App StoreやGoogle Playが潤った
こどおじ/こどおばは、家事労働を母親に頼り、生活コストを父親に頼り続けたから、育休を取らないし高い給料も求めないという、格安で使い勝手の良い労働者として資本家層・株主層に好まれた。
子持ちが住宅・車・教育費等を使うのに比べて、独身者の娯楽(イケメンや美少女のコンテンツやグッズ)は原価が比較にならないほど激安なので利益率が高いビジネスでもある。
資本家層が性的願望系のデジタルコンテンツを積極消費して資産形成をせず、育休も取らず高賃金も求めない便利労働者としてこどおじ/こどおばを回した結果、人口減少して円の価値が低下という流れなんじゃないだろうか。
デジタル異性コンテンツオタクのこどおじ/こどおばって、資本家にとって非常にお得な存在だろ。特に30%のプラットフォーム手数料を課すApp StoreやGoogle Play、中韓美少女ガチャゲーなどの外資にとってウハウハだ。
母親を家政婦にして父親をATMにして、ひたすらシリコンバレーと中国韓国に定期送金しながら、女叩き男叩き毒親叩きと被害者面だけを繰り返している本当にしょうもない生物。
○ご飯
朝:サンドイッチ。昼:サンドイッチ。サラダ。夜:玉ねぎ、人参、シメジの和風スープ。目玉焼き。納豆冷奴。ギョニソ。キュウリ。バナナ。ヨーグルト。間食:ファミチキ。柿の種。
○調子
ワカナのガチャを忙しいとガチャ運が上向くジンクスを試してしっかり天井。
○ウマ娘
エアメサイアで同上。
急いでざっくり書くわね。
めちゃんこよかったわね!
前回、夜巡者の戦争の設定にとても不満である旨を述べていたわけだけど。
今回の話でまさに「そうそうこういうのが見たかったの!」という気持ちになったわ!
国のみんなと竜が一致団結して敵に臨むってこういうのよね!戦争ってこうゆうのよね!
各地で転戦するのも(神の目の力以外で)個々人の抵抗を描きつつ局所的勝利が大局を左右しないというストーリー的な負けイベントをストレスなく受け入れさせる出来でとてもとてもよかったわ!
主人公が喋ると毎回ドキッとするのだけど、今回はシチュもあってグッと来てしまうので、ここら辺の出し惜しみ?使いどころの切り方には毎度感心してしまうわ。
あと隊長ファデュイ隊共闘もなかなか熱い展開なのだけど、直前で氷ファデュイの弱体化が入ったから前のままの氷ファデュイなら絶対アビス追い返せてたのに…!と思っちゃったりして。いやー強かったね。弱体化前の稲妻を知らないのでヤバい雑魚筆頭でしたわ。
部族そろわない段階で全面戦争を描いた点は不満だけれど、再度の山場があると期待して今後を待ちますね。
シトラリもオロルンもシロネンもいつもどおり見た目も性格も若くて賢くて良い子で…。本当に…いつもどおりで…。
0は最初ということで三人とも好きだったけど、だから次はひねってほしかったかな。
謎煙の主で黒曜石の老婆でなシトラリには期待してたのに普通の少女キャラ。ガチャゲーアクションゲーで弱った老人キャラは難しいだろうけどそこはメカ車椅子とか自分は動かない設定でなんとかしてほしい。なあ傀儡くん!
敵か味方かオロルンもひっぱらずあっさり謎が明かされて、ただのいい子ちゃん。あの性格と生活様式であの服装はちょっと無理がない?農作業服がデフォでしょあの子。
シロネンは言うこと特になし。本当に刺さらず…祈願しない言い訳にできたけど。部族見聞は死後の設定がもうなんか分からなくなってきたわ。幽霊あり、死後の世界で希薄化あり、死後何百年も戦い続けるのもあり、記憶から再構成もあり?難しいですね。
いまさらではあるけれど、原神のキャラの性格容姿にあまり幅がないことに気がついてきて、それがモヤモヤになってきた。もっと頭からっぽなキャラが欲しい。
その辺は花神誕祭のわちゃわちゃで結構モチベリカバーできたのでまあいいです。
そんな感じで、ストーリーはよし。新キャラの魅力はイマイチ。な5.1だったかな。
稲妻のひどい戦争と比べれば格段によくなってるし、ミツムシイベントといいフィールドを大きく使う演出が多くて満足感があるので進化を感じる出来になっております。
空とぶ一人反応チャスカにインフレを恐れつつ、5.2、復興などにも着目した新バージョンに期待してます。
イアンサ!
高学歴=99%富裕層なんで低学歴=99%貧乏人を代表する者は確実に必要なんよな
理想は半々
だが現状それは叶っていない
共産主義も社会主義も結局は国の中枢に近い方から特権を得るだけのものだった
どうすりゃいいのかね
そのさ、6%ないし3%を無料石の数十連分で運良く引き当てられないと天井9万円(実費で7万くらい?)コースに突入するか掛けた石が無駄になるかの二択を迫られるガチャシステム、もう耐用年数過ぎてると思うんだよね。
そのシステムだと、どんだけ新キャラをコンスタントに実装してても、結局みんなフェスまで溜め込んで同じようなキャラ引くことになるし。非フェスで推しが来たら、ほぼ確で愛のために9万近く取られることになるわけでしょ。異常だよ。
グラブル確かに絵はいいしキャラストも読み応えあるのは分かるんだけど、どう考えても釣り合ってないんだよね。思考が昭和バブリーすぎるというか。
原神以後の中華ガチャゲーみたいにしたほうが絶対いいと思う。具体的にはね…
基礎確率0.6%でまず運頼みでは引けないんだけど、74連から確率が6%ずつあがって大抵みんな80連前後で星5出ます、星5天井は2万くらいです、ただし50%ですり抜けて非ピックアップが出ます、
ただ一度すり抜けたら次の天井では確定でピックアップ(PUは常に1人)です、最大約4万かかりますが平均的には2.2万くらいで引けます、天井まで届かなくても次以降のガチャバナーにカウント引き継がれるのでどんな引き方しても必ず一定間隔で星5やPUは取れますって感じ。
石はログボ配布は1バージョン(6週間)で10連程度だけど新規コンテンツから回収できる分あわせると80連分(実質1天井=2万相当)くらいあって、1verに新規キャラは1~2体。課金は星5の獲得周期を狭めることで実質時短課金みたいなイメージだね。
あえて確率を絞って収束させやすい設計で、原神に関しては2連続/3連続ですり抜けると次が50%/100%ですり抜け阻止する仕組みも入ってて、本当に運による不幸や不公平感を低減しつつガチャ的な楽しさを残す意図が見える。
この仕様のおかげで、運に頼ってる感なく、狙ったキャラは無課金者だろうとほぼ確実に引いていけるんだよ。引けるタイミング(PU確定80連前後)を狙ったキャラの実装時に合わせるだけだから。ガチャが計画性の機能するゲームになってる。むしろ運よく早く引けると計画崩れるっていうね。
ただ、ガチャが優しいのは、ゲーム設計がスタミナ石割り前提の育成リソースきつめになってることも原因で、石も割らずバトルパスも買わずだと本当に追いつかない。
といってもグラブルみたいに素材あつめのために長時間周回が必要なことはない。スタミナさえあれば数分で終わるのは中国の未成年ゲーム規制(1日2時間)のおかげかもね。
あと、グラブルは武器といっしょにキャラがついてくる形だけど、武器ガチャは別になってるんだよね。これが沼で、中には鳴潮みたいに天井=PU武器確定になってる優しいゲームもあるけど
これは基本的に、ネットゲームで言う性能つきアバターガチャみたいなもんなの。キャラに見た目も性能もマッチした武器を持たせたいという欲に負けた人が回すガチャ。
コストはキャラと同等かちょい安くらいだけど、冷静に考えるなら、このガチャは月に万単位課金できる人でないと回さない方がいい(星4武器で間に合わせられる)んだけど、ここの自制心が効かない人は旧式ガチャゲーと大差ない金ドブ具合だね。
とはいえキャラさえ確保すれば追加コンテンツ的なゲーム性要素は9割体験できるようなもんだから、欲を出す段階が細かく分かれてるのはいいことだと思う。
そういう根本的なゲーム作りの違いがあるとしても、真似できる部分はあると思うんだよね。見習うならフェスみたいなのは廃止することになると思うけど、中華ガチャに慣れた人がグラブル等の旧式ガチャゲーに戻れない最大の理由が、ここにあると思うから。
ガチャがしんどい部分をどうにかすれば、コラボとか何かのきっかけで復帰できる人は多いと思う。コンテンツ力はあるからね。
グラブルって全キャラ所持してる人が中村悠一氏ただ一人なんでしょ?それもガチャシステムが誘引してるゲーム設計のせいだと思う。
逆に原神系は、月平均4千円くらいの微課金勢にとっては、全キャラ確保こそがもっともコスパよくゲームをしゃぶりつくせる引き方で、現実的に達成できるんだよ。だから全キャラ確保志向のユーザーは比較的多い。
ゲーム開発者の視点から見ても、せっかく作ったキャラなんだからなるべく多くの人に触れてほしいはずだし、全員がフェスの強キャラ性能を頼りにするよりも、いろんなキャラを確保して遊びの幅を拡げたほうがエンジョイできるゲーム作りにする方が理想的だと思う。
まあ引退ユーザーが偉そうになんか言ったところで何も変わんないけどね。
現実的にガチャ周りを変えられるとしたらグラブル2みたいな新アプリにして引き継ぐ感じになると思うけど、息が長いわりにそういう話聞かないよね。スピンオフは凝ったもの作ってるのに。
今年で10周年を迎える老舗ソシャゲ、グランブルーファンタジーのセールスポイントのひとつに「最新のキャラには及ばずとも、ある程度の性能が担保されたキャラクターが全ユーザーに無料配布されること」があった。
人気コンテンツとのコラボは、長い歴史のあるグランブルーファンタジーにおいて新規ユーザーを呼び込む絶好の機会。
これまでのグラブルの歴史の中でもそういうムーブメントが確かにあったし(e.g.鬼滅の刃コラボ)グラブルはこの文化を大事にしてるんだろうなぁって思ってた。
そしてその配布されたコラボキャラが所謂強キャラではないことで企業系攻略wikiの最強キャラランキング!!にコラボキャラが並ばないことでグラブルの世界観が保たれて、まさにグラブルへの導線としてコラボが機能していたように思える。
しかしそんな老舗ソシャゲにも変化は訪れるもので、今年からついにコラボガチャが実装されてしまった。
どうしてそうなったのかは分からないけど、そんな私の頭でもお金のためであることは流石にわかる。そうじゃなかったらビビる。
それ自体についての是非はもう論じていても仕方ないので受け入れはした(してない)が、そのコラボガチャの内容には驚愕した。
まずグラブルのガチャシステムについて軽く話をさせてもらうと、SSR確率が2倍・限定キャラ排出・新規キャラ追加のフェス方式のガチャが月に2回行われ、プレイヤーの99%がそのタイミングでガチャを回している。ちなみにSSR確率は恒常ガチャがSSR3%でフェスは6%で、9万円分引くと天井に到達して対象のキャラが1人もらえる。
じゃあこの度実装されたコラボガチャも当然フェスなのか?というと、まさかの恒常ガチャと同じ3%。
当然限定キャラも排出されず、肝心のコラボキャラピックアップ率は各0.5%の合計1%。
正直引いた。
事前のアナウンスでコラボキャラの有無で既存のコンテンツに差が生まれるような性能にはしないことが確約されていた以上、コラボ先のコンテンツに興味のない私みたいなプレイヤーはまず確実に引かない。
コラボ先のコンテンツが好きな既存のプレイヤーも、これから控えているガチャ(特殊な事情で1年間排出が止まるキャラの最後のピックアップやクリスマス、年末年始にある目玉ガチャ)に備えて蓄えたい時期で余裕があるとは言えない。
そして一番大事なコラボ目当てで始めた新規ユーザーも、いきなり数万円課金するのは流石にハードルが高いと思う。いくら恒常キャラの中にも限定キャラに近い性能を持つキャラがいるとは言っても、限定キャラが排出されない以上は副産物に期待ができるとも言い難い。
他のソシャゲだとコラボキャラって結構強かったりすることが多いイメージがあるけど、前述の通り別に強くはない状態で実装されてるキャラをわざわざ原作ファンが他コンテンツに課金して引くのか?そこもわからない。
ちなみに今回実装されてる転スラキャラはシオンとディアブロで、原作ファンなら強くあってほしい寄りのキャラっぽい気はしてる。
グラブルの良さのひとつをなくして実装されたコラボガチャがこんな出来になって、誰が喜んだんだろう。
陰湿な人達に「敢えて酷い出来にして既存のプレイヤーに炎上させることでこれから先のコラボガチャの存在を抹消する巧みな工作」なんて言われ方をしてるこのコラボガチャは誰が喜んだんだろう。
誰が私の好きなグランブルーをこんなにしちゃったんだよ。
ここ数年で、AIツールを使わないプログラミングに苦痛さえ感じる体になってしまいました。
IT分野におけるAIの活用は必然の流れだと思うし、その結果仕事が奪われる未来も議論するまでもなく、近い将来に控えていると思っています。
同じ考えのエンジニアは少なくないはずです。
ところが、別の分野、特に絵の世界になると、ご存知の通り、凄まじい対立構造が生まれています。
毎日のように、X上で激しいバトルが繰り広げられているわけです。
というのも、IT分野でのAI活用とは、文化としての背景が大きく異なりまして、非常にナイーブな問題ではあるのでヒートアップも致し方ありません。
ただ、その対立は、私のように外部からその流れを観測している者からすると、
不勉強から自らの価値を過信し、本来の「師」という言葉からは程遠いにも関わらず自らを絵師と呼ぶ厚顔無恥な人間と
誰かが作ったクリエイティブにただ乗りし、ランダムなパターンをひたすらガチャすることをクリエイティブと勘違いしたあまりに厚顔無恥な人間
両者の声が非常に大きく、互いに感情に任せ罵り合う、あまりにも稚拙で生産性のないものに見えてしまうのです。
ですから、冷静な情報が全く得られていません。感情論に寄りすぎず、AI絵に対する意見を知りたいという欲だけでこの日記を書いています。
前置きが大変長くなりましたが、以降、AI絵に対する意見を書きますので、ぜひ両者に反論いただきたいのです。
今更、中立な意見など書けないので、あえてAI絵師に寄せて書いてみます。
人が絵を描く時、意識をしていないにせよ、必ず「考える」という作業が発生します。
この「考える」という作業はこの議論において、非常に厄介です。場合によっては、あたかも本人の頭の中から、無から全てが出てきたように思えるからです。
これが「絵師」が「AI絵師」を叩きたくなる要因の一つです。自身の完全なるオリジナル(と思い込んでいる)創作物を他者にパクられてしまえば、誰しも怒りたくなるものです。
ところが、実際には「考える」は無から有を生み出す行為ではありません。単に、これまでの「経験」から結果を導く推論です。
この「経験」とは、一般に努力とも捉えられるかもしれませんし、学習とも捉えられるかもしれません。
そして、厄介なことにこの「経験」もまた無意識下に行われることがあります。顕著なのが、人の絵を見て模倣してしまうことです。
模倣のレベルは場合によって異なります、意識的に模写することもあるでしょう。模倣するつもりがなくても似てしまうこともあるでしょう。レベルが違えど、無意識下で影響を受けていることを否定できる人がいるでしょうか?
生まれてから外界の情報を遮断し続けた人がいたとして、ペンを渡すだけで、いわゆるアニメ絵を描けるでしょうか?
結局のところ、人の創作の大半は大量の「経験」をもとに「考えて」作られたものなのです。
だからこそ、普遍的に愛される素晴らしいものなのだと思います。
(あくまでベースとしては)こちらも大量の画像を学習させ、疑似的に「経験」を行います。そして処理する、すなわち「考える」ことで画像を生み出します。
とんでもなく大量のデータからの学習ですから、一つ一つの絵の結果に対する影響など微々たるものです。もはや、出力結果に対して、一人の絵師の絵の学習など、「無意識」に近いのです。
あえて乱暴な言い方をすれば、もはや人と同じではないですか。
こういう乱暴な言説を唱えると、当然、「AIは勝手に学習してるんだ」というお怒りの意見が来るでしょう。
ただ、それは人も同じです。
アニメを見て、きれいな絵だなと思った。その瞬間無意識下では「経験」として変換されているわけです。それに対して、誰も勝手に絵の参考にするななんて言わないですよ。
この話の難しいところは、いわゆるキャラデザと画風で話が微妙に異なるところです。
(反AIの絵師の方がパル〇ールドを随分楽しそうにプレイされており、大変驚いたのは本筋とは異なりますが面白いエピソードとして記載しておきます。)
では、画風は?
知り合いのデザイナーは、お客さんから某監督風の絵でと言われて、そのとおり納品したそうです。
客側の問題は置いておいて、こういった依頼があることは想像に難くありません。中には表現技法として、客からの依頼ではなく、自ら使う人もいるでしょう。
絵師の皆さんは、ことAIになると、キャラデザも画風も似ていればアウトと判断します。
これは、どうなのでしょうか?
AI絵師でも、追加学習し、完全に同じものを目指しはじめればそれは叩かれるでしょう。
絵師でも人の絵を無断転載しオリジナル発言をすれば叩かれます。
AI絵師でも、明らかに特定の絵に似せたものをクリエイティブ発言すれば叩かれるでしょう。
こいつらは、きもいのです。
冗談はさておき、AIなどというツールはあくまで道具であり、うまくそれと付き合い発展させていくことが、必要なわけです。
きもいやつらと全体を同一視し、感情にまかせ議論していては、生産性がないと思います。
日本のゲーマーに思われてるほど、買い切りとガチャゲーで「ジャンルが違う」なんてことないはずだよ。
同じアクションやRPGとして、ゲームとして面白くする作り込みのノウハウは同じ。
ただガチャゲーとして売れるには、継続的にキャラやマップやシナリオを高品質に追加しつづけていく体力が必要。
そこに関して、「ってことは金かけなあかんな」と真っ当な考え方をして人材確保や開発規模をあげて対応したのが、00年代の韓国オンラインゲームや20年代の中国モバイルゲーム。
前者は国策として支援金があったし、後者はバブル景気でお金を集めやすかったのがあるだろうけどね。
でも、日本がガチャゲーを作る時の考え方として土台にしたのは、貧弱なガラケーみたいなハードでスキマ時間を潰すための、くだらないゲーム。
低予算でとにかく射幸心を煽って競わせることで、チープなんだけど連帯感を持たせるバトルでゲームっぽさを演出するアプローチでやってきた。
ソーシャルプラットフォームに根付いてSNSのフレンドを引っ張ってくるからソシャゲなんだけど、文字通り社会性ゲームだと思うね。
つまり、日本は最初からガチャゲーをゲーム未満のゲテモノに貶めてしまったんだよ。それでもソシャゲバブルで大成功した企業が出た。
で、ユーザーも適応して、ガチャゲーは馬鹿になって遊ぶもんだ、という頭になってしまった。
そこに本物のゲームと化した、ガチャだけど上手にマネタイズする作品が入ってきたから、脳がバグってしまった。
スマホのゲーム性能が高まるにつれ、買い切りゲームと同等かそれ以上の開発費をかけなきゃいけなくなって、
それでも日本勢はビジュアルだけリッチにしてゲームの構成はゲテモノガチャゲーを引きずったものを作りつづけた。
かつての成功体験があったせいで、抜本的に異なるものを作る勇気あるメーカーは出てこなかったんだね。
さらに悪いことに、中華ゲーのガチャシステムも一見自分たちと同じようなものに見えていたから、見習うポイントを見いだせなかった。
ガチャ2.0的な排出地点制御を理解したとしても、かつて高確率設定をアピールしてアドレナリン中毒にさせてきた既存顧客に対して、「超低確率で天井までまず出ません」みたいなしわしわガチャを魅力的だと理解させるのは難しい。
非常識な方のガチャゲーを基準にしちゃってるから、モダンでお利口なガチャゲーのゲーム設計を受け入れにくい。
その点ではモバゲーグリーに触れてこなかった若者のほうが有利だし、素直に「こっちの方が遊びやすい」と感じられるだろう。
このへんの世代間断絶はなかなか埋められなさそうで、そこが先が暗い原因だと思う。
Xの規約変更だとか、ウォーターマークとか、いろいろ目に入ってくるが結局の発端は「生成AI」だろう。
なのでここから先、どれだけ読んでもらっても「生成AIを滅ぼす方法」を求めている方のご期待には添えない。
これはあくまでも、絵師界隈で生計を立てていきたいが、生成AIが存在するこれから先の未来に不安を抱いている絵師に向けたものであり。
小説家界隈に住む私が、実際にイラストを勉強する過程で感じた二つの界隈の違いを言語化し、それを元に考察した一つの提言を届けたい。そういう趣旨のものだ。
これから先、イラストで食べていくことに不安があるのなら「オリジナルキャラクターを作れ」。
ただ単にオリジナルのイラストを量産せよ、という意味ではない。
あなたの頭の中にある「キャラクター」を絵という形で出力し、世間に認知させ、あなたではない第三者がそのキャラクターのイラストを描くようになることを目指す。という意味だ。
乱暴な言い方をするなら「絵を描かされる側から、絵を描かせる側にシフトすることを意識しろ」といった感じだろうか。
Vtuberのママ(キャラクターデザイン)を想像してみてほしい。
だいたいあんな感じの立ち位置が、私の想像力の範囲で今後も生き残っていける絵師の一つの形だと思っている。
なぜ、絵師はオリジナルキャラを作るべきなのか。その理屈を語る前に確認したい。
絵師界隈の方々は「同じクリエイターなのに、どうして小説家界隈はあんなにも生成AIに対する反応が薄いんだ?」と思ったことはないだろうか?
むしろ小説生成AIの方が、イラスト生成AIより先に世に出ているはずだ。
だが、実態として小説生成AIに対し、敵意や危機感を抱いている小説家は少数派だろう。
ではなぜ、小説家界隈が生成AIに対して他人事のようなスタンスになりがちなのか。
(以後、市場や、顧客、マネタイズシステム全てを包含した『社会』という主語を用いて記述する。)
そして、私が見るに絵師も小説家も、大多数がこの両界隈の違いに気づいていない。
その違いは
『社会』は小説家には「作品」を求め、絵師に対して「技術」を求めている。
この一点に尽きる。
誤解を恐れずに言えば、『社会』は絵師に対してほとんどの場合「作品」を求めていない。
絵師界隈のトップレベルの方々は、おそらくこの違いを認識しているように見受けられるが、逆にトップクラス以外の領域では認識していない人の方が多数派。というのが私の所感だ。
(一方で小説家界隈はトップクラス層もこの違いを認識していない人の方が多数派だと思っている。というか、クリエイターは全業界で「作品」重視で活動していると認識してそうな気がする。)
この違いがどういうことか、わかりやすい事例をあげよう。
例えば、ある無名の絵師がイラストコンクールで最優秀に輝いたとしよう。
その絵師は名声と得て、イラストの依頼が殺到するかもしれないし、あるいは協賛企業から何かしらの商業イラストを描く契約を結ぶかもしれない。
だが、肝心の『最優秀賞に輝いた絵』そのものがマネタイズの中心にはならないと思う。
あってせいぜい、短期的な限定グッズのデザインになる程度のはず。
おそらく絵師側も最初から「その絵」で稼ごうとは思っていないはずだ。
だが、小説界隈は違う。
企業も、小説家本人も、基本的には「その小説」で稼ごうとする。
2003年にスニーカー大賞に選ばれた『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2024年現在も市場に流通し続けているのが代表的な事例だ。
受賞した作品を脇に置いて、その出版社の編集が提案した全く別の小説を書かせる。というのは無いとは言わないが、そういう流れになると小説家側からはあまりいい印象は持たれないだろう。
つまり、同じ賞レースでも絵師界隈は「技術を持った人」を探し、小説界隈では「作品」を探している。というのがなんとなく伝わったはずだ。
「金を出すから自分の代わりに理想の絵を描いてくれ」が絵師と『社会』の関係の主流で
「印刷、流通を代わりにするから、その売り上げの一部をわけてくれ」が小説家と『社会』の関係の主流なのだ。)
つまり、『社会』が絵師に求めているのは代筆能力という「技術」であり、「作品」は依頼者の頭の中にある物を指すのだ。
さて、ここまでで絵は「技術」が求められ、小説は「作品」が求められている、というのは理解してもらえたと思う。
ここで一旦、生成AIの話に戻そう。
『現行の(少なくとも日本国の)著作権法は「作品」を保護してくれているから』に他ならない。
また一つ具体的な事例を挙げよう。
かつて、「ハリーポッター」シリーズを学習したAIにオリジナルの「ハリーポッター」シリーズの新作を書かせる。という試みが海外で行われたことがある。悪意ある第三者がこれと同じことをしたとしよう。
もしその第三者が「ハリーポッターシリーズの新作」と銘打ってソレを売り出せば、著作権法は容赦なくこの第三者を断罪する。
では、それを避けるためにキャラクターの名前をオリジナルに変え、タイトルもオリジナルのものに変えて販売したならどうか。
ソレは「よく似た別の作品」の一つになり下がるだけだ。
書いたのがAIであろうと、人間であろうと重要視されるのは「作品」だから、そこの模倣がされない限りは脅威になりえない。というのが小説界隈の人が意識的にしろ、無意識的にしろ生成AIに対して抱いている感情だろう。
むしろ、広く開かれて文化の発展に寄与するべき。というのが基本スタンスだ。
「技術」をお金にしている絵師界隈からすればたまったものではないだろうが、これが実情だ。
「技術」の保護に舵を切るなら、それは著作権法ではなく特許法の領分になるが、特許の理念は「知財でビジネスを支援すること」なので、おそらく企業と繋がりのないアマチュア絵師は生成AIユーザー以上に苦しむことになると思う。
これまでの話を統括すると
・現代の絵師は「技術」を求められ、肝心の「作品」は依頼者の頭の中にある。
・現行の著作権法はその「技術」を保護していないし、「技術」の保護はアマチュアに優しくない。
これから先、代筆家として誰かのために絵を描くという「技術」を売る領域は生成AIに食い荒らされるだろう。
そんな未来でも絵師として生き残りたいのなら、依頼者の頭の中にある「作品」ではなく、あなたの頭の中にある「作品」を生み出すことを考えるのが良いのではないか。
という話だ。
企業依頼でPRキャラを描くという現行の関係性から、企業が「自社製品をあなたのオリキャラに使わせてください」みたいな関係になるのが、そこそこいい感じの未来予想図だと思わないだろうか?
仮に企業がお金をケチって生成AIでそのオリキャラを勝手に使えば、容赦なく著作権法で断罪できる関係性になる。
(他に思いつくのは、大昔のゴッホだ、フェルメールだの時代のように一枚一枚の絵そのものを「作品」として『社会』に売りつけて生計を立てる道。あるいは自分自身を「作品」にしてパトロンから庇護を受けて好きに絵を描く道、あたりか。現代で言えば、前者は同人誌即売会でイラスト集を売っている人たちで、後者はお絵描き系配信者としてファンの投げ銭で生計を立てつつ、絵を描いている人達だろうか。)
逆に、このことに気づかず、「技術」を守ることに執心し続けると、どこかでとんでもないことになるのではないか。私はそう思っている。
絵師界隈で育った人達は気づいていないかもしれないが、小説家界隈で育った私から見て、あなた達が確立している「技術の体系化と共有」の文化は素晴らしいものなのだ。
YouTubeでは多くの絵師がプロアマ問わず、自らの技法を公開しているし、有償の場になれば更に本格的かつ専門的な技術を共有しあっている。
おそらく『社会』が絵師に「技術」を求めていたからこそ、惜しげもなく場と資産を提供していたことで出来あがった土壌だろう。
無数の技術が公開されているから、その中で自分好みのものを取捨選択し、組み合わせることで理想の個性を形成できる。
私のような「最初から絵のプロになる気が無い人間」にも成長の手順が提示されているのは、非情にありがたかった。
ここからは、若干小説界隈のネガティブな内容に触れるのだが、ご了承いただきたい。
(しかも生産性がない話なので、絵師界隈の方はここから先を無理に読む必要はない。
ただ、この先の話を読んでくれた絵師から、こういう界隈の中で私はどうやっていくと良いか、そういう意見を貰えたら嬉しい。)
例えば炎の熱さを表現するにあたり、絵ならば「暖色の与える印象の理論」だとか「ぼかしによる蜃気楼の技術」といったものがあり、ある程度体系化、共有された技術があるはずだ。
だが、小説家界隈ではそういった表現技術を「作家の個性」として、共有せずに個人のものへと抱え込む道に発展してきた。発展してしまった。
我々は百の作家がいれば、百人が別々の言葉で炎を描写し、実際にどれが最も読者に熱さを感じさせられる表現だったのかを検証しなかったのだ。
我々小説家は今日も、読者が本当に熱を感じてくれるのかわからずに炎を描いているし、可愛さがちゃんと伝わっているかわからずに美少女を描いている。
「技術」を体系化しなかった、というのはつまりこういうことだ。
では「技術」を語らない小説家界隈が新人達に何を語っているのか。
それは「作品の作り方」だ。
現在、小説家界隈で新人達に向けて語られているのはおおよそ上記の要素であり、それらをまとめると「作品の作り方」となると思う。
これもまた絵に例えるなら
「ラフ、下書き、清書の順番で書くと良い」とか、「線画と塗りは別レイヤーに分けたほうが良い」とか、そういうレベルの内容だと思ってくれていい。
それを十数年以上、場所を変え人を変えこんこんと語り続けている。
SNSで無数の新人作家たちに向けて情報発信をしている高名な小説家達も
「自分達が教えられるのはいわば『就活の履歴書の正しい書き方』だけだ。その内容は個々人で書くしかない」
みたいなことを常々言っている。
(で、まあ「特定の効果を与える技術」ではなく「作品を作品たらしめる作法」という名目なもんだから「not for me」の概念が適応されにくく、「正しい」「間違い」で定期的に燃えている。)
つまり、小説家界隈は「作品を完成させる」ことを教えることが主流であり、その質を技術によって高めることには非常に無頓着なのだ。
私の推測だが、これは絵とは逆方向の『社会』からの圧力と発展によるものだろう。
絵師には「技術」を求める以上、まぐれではダメだ。再現性がなければお金にはならない。
極論だが、出来が良ければまぐれでもお金にできる。そのまぐれの一つを拾い上げて市場に売り出せばいい。
だから『社会』はできるだけ多くの「作品」が出来上がる環境作りを自然と行ったのだろう。
「作家を作る」ことは頑張るが、「作家を育てる」ことはしない。
「プロになるつもりはないが、もっと上手くなりたい」という人間に対しても、絵師界隈の先達は「技術」を提供し、成長の道筋を照らしてくれる。
だが、小説家界隈では「プロになる気がないのなら、あなたの好きに書けばいい」の一言で終わる。
私のような無才な人間からすると、暗闇を手探りで歩くような感覚だった。
まあ、小説家界隈が無才に厳しいだけなら良いのだが、最近この界隈の「作品重視」の傾向が業界全体の問題として表面化してきているように思う。
その問題とは、端的に言うと「作品が増えすぎた」ということだ。
「小説家になろう」では毎年開かれているネット小説大賞という賞レースがある。
2013年に開かれた第一回では応募作は「1,135作品」だった。
これが五年後の第六回では応募作はほぼ10倍の「10,156作品」になった。
そして、今年の第十二回に応募された作品は「20,826作品」と、その数は恐るべきペースで増えている。
一般の新人賞公募と違って、小説投稿サイト主催の賞レースは過去に落選した作品も全て再応募する作者は少なくないからだ。なのでおそらく「作家」の増加数はこれほど極端ではないと思う。
だが、この仕組みと過去作を再応募し続ける風潮こそ、小説家界隈が「技術」を軽視していることの証左であり、問題の根源だ。
賞レースの選考員は一万以上の無数の石の中に隠れた玉を探すわけだが、さっきも言ったように、ネット小説の賞レースは過去に落選した作品も継続して応募されている。
つまり、玉と石の比率が一定ではない。拾い上げられた玉は減るが、石はそのまま翌年、また翌年と残り続ける。
そうなると、単純に選考員の負担が年々増えていくのは想像できるだろう。
ただでさえ、小説は受けての時間を奪う媒体だ。短編でも一作につき五分から十分。長編なら余裕で一作一時間を超える。
選考員を増やせば個人単位の負担は軽減されるだろう。だが、人を増やせば今度は運営の出資が増える。
必ずどこかしらが負担を負うことになる。
そして多分だが、小説家界隈……というかネット小説業界は、このリソースの限界をとうの昔に迎えてしまっている。
だが、玉探しに必要な労力は年々増え続けている。
ならば、別の所で手を抜いて調整するしかない。
連載継続するかどうか早めに決めよう。
といったふうに。
ざっくり言うと「プロ作家のサポートにかかる労力を削る道」も考えられる一つだ。
私の未来予測では、今後も出版社側の玉探しの労力は増加し続け、それと負の相関に基づいて出版社からプロ作家へのサポートの質は低下し続けるだろう。
作家が出版社を信頼しなくなれば、出版社は心置きなく作家を使い捨てられるようになる。
これを 『才能の狩猟社会』みたいなことを誰かが言っていた。希望の無い話だ。
「技術」を『個々人の個性』として体系化せず、共有しなかった小説家界隈。
「作品」を完成させることだけを重視し、質より量を推し進めた小説家界隈。
これはその一部で実現しつつある最悪の未来予想だ。
大人ありのパパ活したいなら、食事ありきで大人をするパパ活じゃなくて、デリガチャ引いて気の合う子と店外する、つまり大人ありきで食事もする方が全然良いぞ。素人 () が良い人はしらんけどね。月 10〜20 万の会費を出せるなら交際が一番楽で確実ではあるのだが。