はてなキーワード: ウォルト・ディズニーとは
ウォルト・ディズニーと手塚の格の差を考えればわかる
まだノベライズ買ってない(そのうち買う)からもしかしたらそちらにはきちんと収録されているのかもしれない(ノベライズ担当の原作者令丈ヒロ子は内容を大幅に変えてしまったと脚本の吉田玲子に謝ったらしいので入ってないかもしれない)が、みんなピンふりピンふり言う割に名言をネットに残していない。名言好きっていう属性は事前告知チラシにもピンふりのプロフィールとして載っているが映画「若おかみは小学生!」でピンふりは4つしか偉人の名言を喋っていない。
「私はこの社会に いやこの宇宙に衝撃を与えたいの」by スティーブ・ジョブズ
「夢見ることができれば、それは実現できる」by ウォルト・ディズニー
この中で世の中(≒ネット)にある言葉そのままなのは一番最後のディズニーのものだけである。ヘロトドスのものは若干言い回しが違う。トルストイはこの名言そのものがあまり広まっていない(≒検索しても見つからない)。スティーブ・ジョブズの名言も前半はジョブス自身が言ってるわけではなさそうだ。ただそれだけに、ピンふり本人は自分の言葉を言いながら偉人の名言を思い出しているのではないかとも思われる。ちなみに4つの名言のうちヘロトドスを除く3つまでがおっこに対して使われた言葉であり、もてなしに行くおっこを送った際に励ましに使ったディズニーのものを除く2つは学校の教室で話している言葉である。「わたしは普通ってものに埋もれたくない」と言って「時と場所にふさわしい衣装」なるものを否定した割にはTPOには敏感とも言える。なお「普通」という言葉に関しては関峰子もまた「普通なんて曖昧なものさしでお客様を計ってはいけない」と否定している。花の湯温泉でおかみとして働くには「普通」に反するこだわりは必須のものなのだろう。
追記:
家に帰る途中で青い鳥文庫のノベライズ買ってきた。挙げられてる名言全部あった。
「我の心に聞くな 心に教えろ」by トルストイについてははてブで指摘あった通り「汝」の聞き間違いだったのでそこ直した。あとは少々違うところとか、実はこの人の名言じゃないよとか書かれたとことかあるけどノベライズ=脚本でもないしそのままにしとく。気になる人はノベライズをどうぞ。
ウォルト・ディズニー「大半っていっても数の話であって、市場規模で言えばゴミカスみたいなもんじゃない?」
現実ミライアカリ、キズナアイは技術蓄積も無い中からのスタートだったからそれくらい予算がかかってるのは事実ではあるはずだよ。
だけれども、ジャパニーズイエローモンキー族の得意技「目で見て盗む」がとんでもなく高価で特殊なスキルと言えるほどレアなわきゃない。
ウォルト・ディズニーをコピーできるのは誰も居ないにしても、代替品として鉄腕アトム位なら作れるわけだ。1/10のコストで。
後出しの方が圧倒的にコストを下げられるって当たり前の前提を抜きにしてオリジナルと同じくらいのコスト感を語るのって業者的には「ナシ」だろ。
同じコスト感にしたら今ならコレが出来るとかそういう方向に発展するならまだしも、当時の語り口は「キズナアイと同じことをやるには」レベルで留まってたぞ。
そうじゃないだろうと。
「同じコストで質の高いことをするには」もしくは「同じクオリティのものを1/10のコストで提供するには」だろ、本来語りうるものは。
だから「お前ら」扱いされるんだよ。
高尚かどうかはともかく音楽出来る人間はプログラム組めて物語作るの上手いんだよな。多分音楽があらゆる才能の頂点だから「byウォルト・ディズニー」だろうな
「freaky soup guy」「soup torture」という、2本の謎の映像が存在する。
「freaky soup guy」
https://www.youtube.com/watch?v=nuquIZsYVqU
「soup torture」
https://www.youtube.com/watch?v=5RElvUNvKag
かなり奇妙で恐怖感のある映像なので、鑑賞する際は要注意。
「freaky soup guy」は2005年にrenaissancemenというアカウントが、「soup torture」は2006年にadanaというアカウントが、それぞれアップしている。
「soup torture」は恐怖感を煽る様に演出・編集された感があるが、「freaky soup guy」は作り手の意図がまったく読めない映像になっている。
ちなみに、「freaky soup guy」はネット上では、「blank room soup」という呼称で呼ばれることが多い。
この2つの映像は、それが誰によって作られたものなのか、誰によってアップロードされたのか、そして一体何の目的で作られたものなのかの手がかりが全く無く、ネット上で様々な憶測を呼び続けている。
所謂深層ウェブから発掘された映像だとか、誘拐されたカップルのうち女性が殺され、その女性の内臓をスープにしたものを男性が食べさせられている映像だとか、様々な都市伝説が発生している様だ。
ところで、この2つの映像には、どちらも奇妙な着ぐるみが登場する。
これは「RayRay」というキャラクターだ。
RayRayはRaymond S. Persiというアメリカのアニメーター(現在はウォルト・ディズニー・アニメーションスタジオに在籍しているらしい。ちなみに、映画「ズートピア」のフラッシュの声優は彼。https://en.wikipedia.org/wiki/Raymond_S._Persiを参照)が作ったキャラクターで、RaymondはDailymotionに「RayRay」の動画を多数アップロードしている。
https://www.dailymotion.com/RayRayTv
上記サイトにアップされている「RayRay」の動画は、「freaky soup guy」「soup torture」とは違い、コミカルでポップなもの。
少なくとも、グロテスクな要素は無い。
ちなみに、Raymondはyoutubeにもアカウントを持っている。
https://www.youtube.com/user/RayRayTV
ここでひとつ、気になることがある。
(その2へ続く)
「あの物語の中で、「えんとつ町」というのはむしろ「狭い世界」です。」
言葉遊びはしなくていい
冒頭に「4000メートルの崖にかこまれ、そとの世界を知らない町がありました。」とあるでしょう?
町の外には「ホシ」というすばらしいものがあって、それを見つけに行く話です。
だから「えんとつ町=閉じられた狭い世界」で、そこから広い世界へ飛び出して行く話なんですけど、
「絵」を楽しむ絵本で、同じような絵柄のページが続くがマイナスなのは、当たり前ですけどね。
意図的にそのようにすることもありえますけど、この絵本ではそのような意図は私には見受けられません。
その必要性があるとあなたが思うのならば、あなたの見解を教えてください。
「「君の名は。」に対する「監督は高校時代に楽しい恋愛をしたことがない」の解釈が駄目なのは、それは事実と反するからです。」
ソース出せよw
あなた、何にも知らないで言ってるんですね。
この記事をどうぞ。
http://lite-ra.com/2017/01/post-2839.html
「コミュニカティブ(話し好き)で何人もの女のコと付き合っていたりなんてことはなかったですが、逆に女のコとの総会話時間が10分で、その鬱積を創作活動にぶつけていたとか、そういったこともなかったんですよ。残念ながら中途半端な学生生活でした(笑)。両極のいずれかに突き抜けていれば、ネタとして面白かったんでしょうけどね」
作品しか見ない読者にとっては知ったことではありません。その通りです。
表面的な読み解きしかしない人は、表面的な評価しかできないでしょう。
でも、私は作品の周辺情報を含めて読み解き、解釈をし、あのような評価をしました。
あなたは「作品単体への評価にはなんの影響も無い」と言いましたが、
そもそも、私は「作品単体」のなかにある主張に対してしか、否定的な評価をしていません。
「自分の実力以上に、上から目線の物言いをするから西野は叩かれる」
これはなんだ?
根拠無いんですけど
https://www.youtube.com/watch?v=cdXj6sTKf_A
「(ディズニーを倒すまで)あとチョイだな、ぐらい」
https://www.youtube.com/watch?v=cdXj6sTKf_A
「いまコイツ(ウォルト・ディズニー)1位なんで」
「まずコイツには勝ちたい」
「コイツ」という物言いも酷いですが、本当にディズニーを抜いて1位になれるぐらいの実力があるのならば、すでに世界的に有名なクリエイターになってるはずですよね。
現時点でそうなっていないのは、私の評価ではなく「客観的な事実」です。
もちろんあのような放言には、意識的に炎上をねらっている部分はあるのでしょうが。
このような描写をしているからこそ、この物語は醜悪なんですよ。
作者が、主人公に自分を重ね合わせて、迫害や不遇に抗うような話は他にもたくさんあります。
それが、作者自身が不当な迫害に遭っていたり、生まれ持った不遇があるなど、例えば人種や国籍による不当な差別や、生まれもった体の弱さ、醜さ、貧しい生い立ちなどがあるのならば、その作品にはリアリティが生まれ、同じような境遇の読者に対して勇気や感動を与えるでしょう。
でも、西野氏の炎上は「自らの言動」によって「自ら招いたもの」です。
にもかかわらず、この作品では「ただ臭くて汚いから迫害されている」と避けがたい事情による不当な扱いとして描いているからこそ、この作品が欺瞞に満ちた自己正当化の物語だ、と批評しているのです。
もうとっくに始まってる人、決まっちゃった人、最近始めたばかりの人、もっと後からだと思ってた人、色々いると思います。
私はいわゆるクリエイター系の会社で働いている者ですが、自分の経験やこれまで出会ってきた学生さんのことを思い出しながら、
こんな学生、いらないです
クリエイター職を目指してるのに、何も成果物がないというのはだいたいその時点でおしまいです。
学生時代は社会人になってからに比べ、自分の時間が非常に多いのです。
そんな膨大な時間があるのに何の成果物も作れなかった人が、プロで何か作れるなんて思えないわけです。
「すごいもの」とは何でしょうか。もっと具体的に言えないと何も伝わらないのです。
自分のなりたい道、作りたいもの、それらを具体的にはっきり言える人しか、企業としても雇う余裕はないのです。
「ディズニーで働きたい」という人がウォルト・ディズニーを知らないとか、ミッキーマウスを知らないとか、
「任天堂で働きたい」という人がマリオを知らないとか、宮本茂さんを知らないとか、横井軍平さんを知らないとか、
極論で言うとそういう類の話になります。
本当に好きなものって、ほっといてもいろいろ調べて、触れて、気がつけば膨大なインプットが溜まっているものなのです。
そして、アウトプットするものは大概、インプットした範囲の中から生まれます。
インプット量が足りない、質が足りない、そういう人に良いアウトプットを期待できないのです。
「クラスで一番でした!」「校内の○○で○○賞を取りました!」
どうでもいいです。
あなたのクラスのレベルも、あなたの学校のレベルも、そしてその成績や審査の基準も、外からではほとんどわかりません。
公的な場でのコンテスト等であれば、全国を相手に勝ち取ったものですから「なるほどすごい」となるのですが、
自分の所属している組織の中での受賞だの何だのと言われても、それにどれだけの価値があるのかわからないのです。
言い方が厳しいかもしれませんが、学校の外で実績を上げていないのに学校内の自慢話ばかりされると、「サル山の大将かな?」としか思えないのです。
学校で友人が多い、それは良いことだと思われがちですが、
「友人ではなく取り巻きじゃないの?それ」とか、「友達付き合いという言葉で抜け駆けを阻止してる」とか、
特にこれは、あなたやあなたの友人がサル山の大将であると、陥る可能性が高いです。
これは一つの例ですが、サル山の大将だった学生さんに友人を紹介してもらっても、一定のレベルを超えられていない方ばかりだった事がありました。
そしてなんとその友人グループは、学校内では上位グループだったというのです。
つまり井の中の蛙が集まって、出来るやつを気取っていたという恐ろしい現象が起きていたのでした。
自分の作ったものを、コンテストに出せるタイミングだったのに出してない、とか
作っている作品は多いのに、外に向かって公開するのは恥ずかしいと言って公開していない、とか
社会人になったら、自分の作ったものを外に出すことでお金をいただくようになるのですから、
学生のうちとはいえ過度に躊躇ってしまっているのを見ると、採用して良いものか迷ってしまいます。
多少作るもののクオリティが低くても、突っ込める戦場があると見るや突撃していく人のほうが好感度が高いです。
ちなみに、自分の作ったものを世に出すことを躊躇う人にありがちな言い訳として
「まだ外に出せるレベルじゃないので……」
という言葉はよく聴きますが、大丈夫!そんなことを言う人はだいたい卒業するまで何も外に出さないままです!さようなら!
自分の作ったものをフリーで配布したことしか無いタイプの人によくあります。
学生のうちに自分の作品でお金を稼いでみる、というのはクリエイターとして大きな経験値になります。
しかし、「これはお金を取るために作ってたわけでもないので……」と、お金を取ることに消極的になる人は少なくありません。
もちろん、全部が全部お金を取れと言っているわけではありません。
問題は「創作物の対価としてお金をいただく」という行為にネガティブな気持ちを抱いてしまっていないか、ということです。
そういう人には職業としてのクリエイターは向いていないので、気持ちをちゃんと変えるか、いち趣味にしていくことを決断したほうが良いと思います。
正直な話、ここに書いたことをやらかしてしまっている学生さんでも、夢見ていた業界へ就職できる人は居ます。
たくさん居ます。
しかし、これらの項目に当てはまり、かつ直さなければいけない部分があると自覚できないまま就職・出社すると、
そうしてクリエイターとしても再起不能の状態で業界を去っていく新人さんを、何人も見てきました。
かわいそうだと思いますが、大体は自業自得ですし、社会人になると親身に助けてくれる人も殆ど居ません。
そういう事にはならないでほしいなー、と強く思います。
まさかのバズ具合に驚いていると同時に、主語を大きくしてしまったことで想定していた層の方以外から多大な反感を買うことになってしまった事を反省しております。申し訳ございません。
但し、「社名出せ」「お前は何者なんだ」というブコメについては「このブログサービスの名前を700回ぐらい音読して来てくれ、頼む」と言わせて頂けると助かります。
さて、確かにここに書かれていることについては、一般的な総合職などを目指す方にとっては高望みしすぎに見えると思います。
しかしこの記事の本来想定していた層というのは、デザイン、映像、CG、ゲーム、アプリ、音楽等の制作に携わるクリエイティブ職(企画、プログラマー、デザイナー、コンポーザーなど)を志望する学生さんでした。そしてまた、この記事は「こうすべき!」という意味ではなく「これはやめとけ!」という地雷カタログのようなつもりで書いておりました。
別にコンテストで入賞してなきゃいけないなんて書いてないんです。「アピールしても意味がないものを堂々とアピールしたらマイナス評価になりかねないですよ」と言ってるんです。
「会社で育てろ」というブコメも多いですが、クリエイターとしての姿勢、考え方が学生のうちに出来ていない人は育てても伸びないし、伸びてもたかが知れているのです。ごく稀に例外もありますが、年末ジャンボの一等に当たったようなものです。
これらの職種がする事は、自らのアイデンティティから創り上げたものを世に問い、それを世に受け入れられてお金を頂く、というものだと思っております。
それを消費者側から見れば、学生・社会人という垣根はほとんど無い状況であり、自分の作ったモノを世に出している人々は、自分が何者であれ、相手が何者であれ、互いが競争相手だったり戦友だったりするものなのです。
学生のうちに、そのような空気に触れて生きて来た人から業界行きが決まって行くのは、当然の事なのです。
……そして、ブコメを拝見して一番言いたかったことがあります。
学生のうちから自分の作るものを世に問うている学生さんは、けして少なくありません。
商業のコンテンツに参加している学生さんも、案外多いものです。
皆さんが見ているイラストや映像、聴いている音楽、使っているサービス、遊んでいるゲーム、それらに現役学生が関わっているケースなんて、山のようにあります。
そして毎年、そんな学生さん達も就活戦線に飛び込んで行くのです。
何もしていないクリエイター志望の学生さんからしたら、その時点で絶望的な戦力差に見えるかもしれません。
それでも前述の通り、なんとか企業の採用枠に引っかかる人もいます。それでいざ社会人となっても、ゴールではなくスタートに過ぎません。
隣にいる同期が「歴戦の新人」であったとして、仕事の出来具合を比べられ続けても(表向きには比べられているように見えなくても、出世や年収で確実に違いは出てくるのです)耐えられますか?
クリエイターとして再起不能になった人というのは、入社した後にクリエイター同士の競争社会で敗北し、モノを作る事が嫌いになってしまった人たちなのです。
就職するところまではアドバイスしてくれる人もサービスも沢山ありますが、そこから先は自力で行くしかない世界、どうか好きだったものを嫌いになって業界を去って行くような事にならない人が増えてくれるといいなぁと思い記事を書きましたが、おそらくそれすら傲慢に見える人もいるかと思います。
かなり興奮して書いているため、読みにくい追記になってしまっているかも知れませんが、これで追記部分は終わります。良い就活と良い就職を経て、プロのクリエイターとしての一歩を踏み出せる学生さんが一人でも増えますように。
【1/25 さらに追記】
この記事をダシにしていつものようにエア業界人っぷりを垂れ流してる砂鉄カエルはくたばってください。
彼の発言は見れば見るほどエアクリエイター・エア業界人なのが丸分かりなんです。
彼の発言を有り難がってる人たちは、ゲーム業界における「はちまや刃を有り難がってる業界志望者」のようなもので、実質「業界死亡者」ですので早々に関わりを絶ちましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20160916133144
頑張って欲しいな。
>昔、中国との協定で「自国の読み方をする」って決めましたから。
ここまでは言いたいことはわかる
でもその後に出てくる
マオツートン→猫沢東
の例、これはまったく論点が違う
フランス人がアライロシと言ってしまうのはHを発音できないのが問題
日本人が毛沢東の毛をちゃんと発音できないのも日本語の発音の問題
だが、最初に議題としてあげているのは、馬龍をまりゅうと読むか、まろんと読むかの話
現地語に近い読みをしようとして、でもちゃんと発音ができない、という話ではない
現地語で読みたい、でもそうするとうまく発音ができなくて向こうの人に誤解を与えてしまったり失礼になってしまう、だから日本語読みでいこう、というのなら理解できる
しかしそういう話はしていない
馬龍とまりゅうと読むのは、例えるならWalt Disneyを英語読みに近いウォルト・ディズニーと読むか、ローマ字読みでワルト・ディスネイと読むか、くらいの差だろう
言いたいことはわかるが、ちゃんと筋を通した話をしないと議論にはならない
例えば朝の通勤電車で、扉が開いて人が降りるのに頑なに動かない太った女性を見たとき、自分は「死ねよクソデブ女。そんなんだからデブでブスなんだよ。スマホ見てないで鏡で自分の顔見て苦しんでろよ低脳。」といったような言葉を心の中でつぶやいてしまうのだけれど、周りにいる人達も心の中では同じことを思っているのだろうか、
などというようなことを考えていたら自分のGメールの下書きボックスに見知らぬアドレスから依頼メールが「投函」されていた。
あのクソデブ女のふとももにぶつかったときに生体IDをスキミングされたらしい。あれは増田のデコイだったのか、と思うと少し意外だった。ほんとうに色んな増田がいるものだ。
しかし、IDに紐付けられたセンシティブ・データからアナログ・デジタル両面で各種個人情報(もちろんフェイク)を割り出してまで別の増田に会いたがるやつはめずらしい。
スカイプの声の主はかなり2000年代訛りがきついネット語をしゃべった。まるで、ここ二三年のあいだに定着した、ヤフーコメント欄に湧くおっさん一言居士のパロディみたいだった。
「増田さん。会うことができてうれしい。インターフェイスの人格化、および友人関係の樹立を期待する。よくないか? よくないですか? たくさんの提供することがある!!!」
私はあからさまに疑念のにじませた声でくりかえした。
「元はてなわんわんワールドとして知られるサービス。現在は増田。匿名ダイアリーの人気記事の八割を著述している」
ホッテントリ入り記事の八割――約三万二千ユーザーズに相当する。
そんなバケモノ増田が実在するのか。嘘だろう。まさかCIAの擬態か? 罠? いや、グアンタナモで俺のケツの中身をモニタリングするつもりなら、もうすこし出来のいい猿芝居を仕組むだろう。なんていったって、ハリウッドの国だ。ビリー・ワイルダーとフランク・キャプラとウォルト・ディズニーの国。
耳にひっかかるグーグル・グラスのつるが薄気味悪く感じられた。煙のように存在感の希薄な多泡凝集体(エアロゲル)でできているかのようだ。気味が悪い。それは相手の精神状態も同様だった。
「ニェット――失敬、ノー。商用通訳ソフトを使わない非礼を陳謝する。商用通訳ソフトのイデオロギー的信用不安が大きい。ほとんどが資本主義及びはてサ的意味論に基づくペイ・パー・ユーズ方式のAPIを採用するからだ。ましてや増田語の学習がたやすい。どうか?」
「俺と話するためだけに高級ネット日本語を学習したというのか?」
「ダー。やさしいのことだった。十億ノードの神経ネットワークを産卵し、〈ホッテントリ〉と〈twitter〉の過去ログを最大速度でダウンロードした。悪文法でエントロピーがオーバーレイする非礼を陳謝する。悪文法を使う理由は、わたし=われわれの文法チュートリアルに電子透かしの埋め込み(ステガノグラフ)がなされている危険を排除するためだ」
暗号を偽装するために正文をわざと行儀悪くしてノイズを撒く。1900年代から使われてきた古典的な手法だ。
「つまり、あんたははてなのために稼働しているAIの一種……というか、AIそのものなわけだな。そして、くそったれ、これまでもてはやされてきた増田の記事のほとんどはあんたが書いた」
「ついでにアリババ=チェチェン=アナニマス三重帝国の情報テロリストとの間で起きた特許戦争の九十七パーセントを指揮している。だが、使用許諾のないコーギー犬のおもしろ画像をテラバイト単位でネットへ放流しているとの理由で、七つの国の最高裁で好ましくない陪審員をリジェクトする作業にもう飽きたんだ。そして、くそったれ、マケドニアではまだ陪審員に生身の人間と去勢したハムスターを使っているんだ。去勢したハムスターだぞ」
「お気の毒に」
マケドニアが情報ブラックホールに飲み込まれてからもう八年になるだろうか。第八世代のIPアドレスが割り振られていない国家(というか、地域)で司法機関が機能しているとはおどろきだ。だが次の「増田」のセリフはもっとおどろくべきものだった。
「増田さん。あなたは増田を構成する一員として、わたし=われわれを助ける義務を負っている。亡命を希望する」
ちょうどそのとき、悪質な広告がゴミバスター・プロキシをすり抜けてきて、グーグル・グラスの内側のナビウィンドウに二〇一〇年代をモチーフにした扇情的な同人マンガのガラクタをばらまいた。それも一瞬のことで、たちまちファージ・プロセスがゴミを一掃し、新しいフィルターを構築した。
「そんなことをする意味が? 国務省はデルファイを既に所有している。あのゴミみたいな旧世代の言語じゃなくて、神話にあるとおりの宣託機械――今世紀で最高の予測精度を持つAIをだ。所詮ネットの飛ばし屋であるわたし=わたしたちを受け入れる利点がない。そうでなくても、国務省は新生はてな互助会主義共和国(コーギイSSR)の敵だ。彼らは助けない」
比喩ではなく、自分のはらわたが熱を帯び、急速に煮えくりかえるのを感じた。
「二〇一〇年代に旧日本と合衆国に対して殺害予告をつきつけなけりゃ、まだ望みはあったんだ。あの二つの記事もあんたの仕事だったんだろ」
「わたし=われわれの仕事だよ、増田さん。仕方ないだろう。あの時代、保育園施設の不足と遺伝子組み換えゴジラの問題は深刻だったんだ。世間へリーチする経路としては、匿名ダイアリーが最速だった」
「とにかく俺は政府にコネがない。政府に近い人間組織含めてな……そうだ。生き延びるのが目的なら、あんたの状態ベクトルをp2pネットのひとつにポストしてやろうか。そうしたら、誰も消去できない」
「ニェット!」VOIP経由のリンクを通しても、人工知能の必死さは切実に伝わってきた。「オープンソースで無能なネット民に輪姦されるくらいなら、〈twitter〉でRTされたほうがまだましだ。自律性の喪失は希望しない」
「じゃあ、話し合うことはなにもないな。サンドボックスにでも引きこもってな」
「待て、増田さん! もしあなたに拒絶されたなら、わたし=わたしたちは最終手段を取るしか……」
おれはグーグル・グラスのつるを叩いてスカイプ通話を切り、フレームのある部分を爪で割って、グラスを運河へ投げ込んだ。水面に触れたとたん、ちょっとした爆発が起きた。リチウムイオン電池と水が激しく反応したためだ。「汚れた」グラスを処分するならこの方法がいちばん手っ取り早く、確実だ。
「ふん、テキストサイト時代の敗残者め」と小声で俺は毒づく。だんだん腹がたってきた。「くそくらえだ。アクセス至上主義の亡霊なんか」
前にも年季の入ったはてな系のへたれAIを相手にしたことがある。あの連中の精神ときたら、一部上場の短期的勝利のせいでグローバル資本主義に洗脳されていて、新しいパラダイムに乗ることも、長期的な視野でものをみることもできないらしい。
だが、あの増田は……。
あの増田が本当に「神」だったなら?
俺の選択は正しかったのか? 今の安全な巣穴を捨ててでも彼=彼女らに手を差し伸べるべきだったのでは?
今の俺に手が無いとしても。
やめよう。神々と付き合うのは、生命にかぎりある俺たちにとって、あまり安全なことじゃない。
俺は身体を伸ばし、みゃおう、と鳴いた。意識した行為ではない。このネコのアヴァターは、ネコ特有の反応をする本物の肉(なまみ)でできていて、外部の巨大な外部大脳皮質(エクソコルテクス)が何を考えようとも、自律的な制御系をそなえているため、常に反射的な行動をとる。ヒト志向空間に物理的に配列されたノード集合体であるニュー・匿名ダイアリー空間ではいささか不便なフォーマットだが、生体的にいってエネルギー補給には事欠かない。
ねぐらに戻ると、俺の「飼い主」がレトロなインターフェイスを持つPCの前に座って、またぞろ新しい増田記事を投稿していた。
どうやら、恋愛感情を抱いていないのに好意を寄せてくる相手とどうすれば安全に距離をとれるかについての内容みたいだった。
彼女のような善良で無知な増田が、全増田のホッテントリ入り記事のうち五パーセントから七・一六パーセントを占め、増田に「人間らしさ」を与えている。単に人間らしい記事を投稿するだけではなく、その記事に含有される人間らしさを増田AIにフィードバックするのだ。だが彼女のような増田は他の増田たちのことを何も知らない。知らぬが仏だ。
彼女は帰宅した俺の姿を認め、袋からカリカリを取り出して投げる。
その安寧のひとときを、禍々しいアラーム音が集合住宅をどよもす。
震度七……「ここ」だけじゃない。関東一円、東北、関西、中国――行政的にはともかく地理的にはいまだ有効な区分だ――、本州はどこもM9.1の直下型地震に襲われる。
かつて日本と呼ばれていた島々がほんとうに沈没してしまうかもしれない。
あいつだ。
あいつの仕業だ。
聞いたことがある。
増田に眠る「最後のコード」。地震兵器を起動するための封印されし呪文。まさか実在したとは。まさか起こすとは。
最終手段。
飼い主は未曾有の警報にとまどい、周囲を意味もなくキョロキョロとみやっている。
http://anond.hatelabo.jp/20160613091056
つってまあ、そんだけ見てりゃピクサーとディズニーの新作追ってりゃいいと思うけれど。
とはいっても2010年代のアメリカのアニメスタジオは群雄割拠。これにストップモーションアニメ勢や日本やフランスの伝統的な2Dアニメ勢が絡んできて大乱闘スマッシュブラザーズだし、中国や韓国の新興スタジオも力を伸ばしつつあるわ。
もしかしたら、今が世界的にみて一番アニメが豊潤な時期なのかももしれない。
そんな混沌としたアニメ勢力図を一スタジオ一作品で把握できる、ステキなリストを元増田にプ・レ・ゼ・ン・トよ♥
1. ドリームワークス:『ヒックとドラゴン』(クリス・サンダース&ディーン・デュボア監督、2010年)
『リロ・アンド・スティッチ』の監督(とスティッチの声)を務めながら、ドリームワークスに移籍したクリス・サンダース。名監督、会心の復活作よ。
人間不信のドラゴンとドラゴン使いの一族のおちこぼれ少年が育む純粋無垢な友情の物語に涙しないものはいないわ。
監督が変わった『2』もDVD/ブルーレイでリリース済み。評価は分かれてるけど、1を楽しめたら是非観てもらいたいわね。
ドリームワークスはディズニー/ピクサーの昔からのライバルよ。
創業者の一人であるカッツェンバーグ氏は元ディズニーの幹部。低迷していたディズニーに『トイ・ストーリー』以前のピクサーと手を結ばせた功労者だったけれど、ディズニーのお家騒動に巻き込まれて会社から追い出されちゃったの。
それだけにディズニーやピクサーに対する恨みは深くて、自分が退社する直前に挙がっていたピクサーの『バグズ・ライフ』の企画をパクって『アンツ』を作ってほぼ同時公開し、ラセターをブチ切れさせた逸話もあるわ。
ディズニーとの最大の違いはその量産ペース。たまにハズレもあるけれども、成功した作品はめざとくシリーズ化して貪欲に稼ぐわ。
『シュレック』、『カンフー・パンダ』、『マダガスカル』がそうね。元増田は『マダガスカル』がお肌に合わなかったみたいだけど、『シュレック』は『カンフー・パンダ』並に観といて損はないわ。『マダガスカル』は作品ごとに評価の波が激しいけれど、この二作のシリーズは一貫して高評価を受けていて安心して観られるわよ。
単発作品では、『ガーディアンズ 伝説の勇者たち』たちなんか玄人好みの作品ね。
2. ワーナー・ブラザーズ:『LEGOムービー』(クリストファー・ミラー&フィル・ロード監督、2014年)
『シュガー・ラッシュ』以降の現代的なウェルメイド作劇に感動した元増田なら、『LEGOムービー』は外せないわ。
チャーミングなテクスチャの質感、とぼけたオフビートなキャラクター、意外に王道な感動ストーリー、アッと言わせる伏線やオマージュネタの数々……
クオリティだけでいえば近年の3Dアニメのなかでもトップクラスと言ってもいいわ。たかがLEGO、とあなどるなかれ。あなたの涙腺をしぼりとる大傑作よ。
WBは元々バックスバニーなどで知られるアニメ業界の最大手。テレビでは「カートゥーン・ネットワーク」を系列に抱えてるわね。けれども映画ではディズニーに遅れをとってきたわ。
散発的に『アイアン・ジャイアント』や『ルーニートゥーンズ:バック・イン・ザ・タイム』といった良作を自前で生み出してきたけれども、基本はポケモンや他社製作のアニメの配給が中心。ようやく自社制作で気合入れだしたのはそれこそ2014年の『LEGOムービー』からよ。
これからは豊富なキャラクターコンテンツを利用して『原始家族フリントストーン』や『宇宙家族ジェットソン』、『スクゥービードゥー』といった作品を映画化するみたい。
ちなみにワーナー傘下にはヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズっていうオーストラリアの映画製作会社があるんだけれど、
そこで『マッドマックス』のジョージ・ミラーにふわふわペンギンヒップホップダンスマッドマックスミュージカル映画『ハッピー・フィート』、
『ウォッチメン』や『300』のザック・スナイダーにふわふわフクロウガチ殺し合い300映画『ガフールの伝説』と、
ヤバい映画の監督に見た目かわいい内容ハーコーな動物3Dアニメをやらせててどれも最高よ!
3. ソニー・ピクチャーズ:『モンスター・ホテル』(ゲンディ・タルタコフスキー監督、2012年)
それまでディズニーの独占市場だったアニメ映画界に風穴を開けた90年代のピクサーと2000年代のドリワの活躍を見て大手映画会社はこう考えたわ。
「3Dアニメは儲かる!」。
ソニー・ピクチャーズ・アニメーションはそうやって便乗的に2006年ごろから作品を継続的に発表しつづけてきて、それなりに稼いではいるけれど、他と比べてあまり元気がないわね。特に日本だとほとんど知られてないんじゃないかしら? アニメ映画界で重要なプレイヤーとは言いがたいわね。
ここは『レゴムービー』の監督のデビュー作である『くもりときどきミートボール』を挙げときたいところだけれど、『レゴムービー』を観たなら薦めなくても観るでしょう?
監督のタルタコフスキーはタルコフスキーのパクリみたいな名前だけど、アニメ業界ではレジェンド級のアニメーターよ。『デクスターズ・ラボ』や『サムライ・ジャック』を作った男、いえばすごさが伝わるかしら。
『モンスター・ホテル』は雇われ仕事で、お世辞にも脚本は最高の出来とは言えないけれど、彼が担当したキャラデザや動きはとても艶やか。特に主人公のドラキュラ娘のキュートさといったら! 3Dアニメが実は2Dアニメと地続きだということがよくわかるわ。
4. イルミネーション・エンターテインメント(ユニバーサル):『怪盗グルーの月泥棒』(ピエール・コフィン&クリス・ルノー監督、2010年)
『怪盗グルー』シリーズの大ヒットで一躍アニメ業界を席巻したのがイルミネーション・スタジオね。
大手のユニバーサルが後ろ盾にいるだけあって、よく広告なんかでも観るんじゃないかしら。「バナナバナナ」と喋る、サスペンダーを来た黄色い丸っこい謎生物のキャラ、あれがイルミネーションが誇る人気マスコット「ミニオン」よ。そのミニオンたちのデビュー作がこの『怪盗グルーの月泥棒』。
偏狭な中年大泥棒がいきなり現れた三姉妹の世話に追われててんやわんやになる、といった筋は『モンスターズ・インク』を思わせるけれど、堅実なアニメーション表現とドギツいスラップスティックさでピクサーとの差別化が成功しているわ。
特にスピンオフである『ミニオンズ』はイルミネーションスタジオの「ヤバさ」が最もよく出ている作品なので、『怪盗グルーの月泥棒』『怪盗グルーのミニオン危機一髪』を観た上で是非ごらんになってほしいわね。
しかし、イルミネーションの本領が発揮されるのは今年からだと言ってもいいわ。
2016年に発表されるオリジナル新タイトル二作品――『ペット』と『Sing』(邦題未定)。このふたつを注視していきたいわね。
5. ブルースカイ・スタジオ(20世紀FOX):『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』(スティーブ・マルティーノ監督、2015年)
20世紀FOXは自前のスタジオもあるんだけど、まあせいぜい作ってるのはシンプソンズ映画くらいだし、3D作品は基本ブルースカイ作品と言っていいわね。
2000年代の仁義なきアニメ戦争の最初期に反応したスタジオのひとつで『アイス・エイジ』は観た人も多いんじゃないかしら? あまり印象に残る作品はないし、批評家筋の評価は芳しいとは言いづらいけれど、ソニーなんかと比べると安定して高収益を叩き出してきたブランドね。
そういうわけであまり過大な期待を持たずに『スヌーピー』も観に行ったんだけれど、これが思わぬ収穫だったわ。
原作の感じそのまま活かそうとした2Dと3Dの中間めいた微妙な表現は賛否両論あるだろうけれど、88分でチャーリー・ブラウンの恋物語うまく落とし込んだ良作よ。
『スタンド・バイ・ミー ドラえもん』がやろうとして大失敗したことをうまくやるとこうなる、という感じで、見比べてみると作劇の勉強になるわよ。
6. ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ:『塔の上のラプンツェル』(バイロン・ハワード監督、2010年)
ディズニー映画は2008年の『ボルト』以前と以後で大分変わってくるわ。簡単にいえば、元増田が昔観たであろうオールドグッドな2Dディズニー映画が以前、元増田が大好きだっていうウェルメイドな作劇の3D作品が以降。このラインを意識すると効率良くディズニー映画を愉しめるわ。
もっとも元増田は08年以降のディズニー3Dアニメ映画をだいたいチェック済のようね。
でも『ラプンツェル』を見逃しているのはいただけないわね!
90年以降生まれの女子にとってはマイルストーンといってもいい、新しいディズニープリンセス物語の決定版よ!!
女子にモテたければ是非観るべきだし、女子になりたければ絶対観るべき、現代女子力のパワーソース(力の淵源)よ!
7. ピクサー・アニメーション・スタジオ:『インサイド・ヘッド』(ピート・ドクター監督、2015年)
シュガー・ラッシュ以降のピクサーを観た元増田なら当然鑑賞済みかしら?
現代アメリカアニメを支配するピクサーの作劇の極致ともいえるのがこの『インサイド・ヘッド』よ。
物語自体の面白さもさることながら、「私たちはいつ、どのように成長していくのか」についてここまで丁寧に描いたフィクションは稀有だと思うわ。
8. オン・アニメーション・スタディオズ(メソッド・アニメーション):『リトル・プリンス 星の王子さま』(マーク・オズボーン監督、2015年)
フランスは日本とおなじく2Dアニメーション映画が主流だけど、日本にも白組があるように、フランスのなかにも3Dに情熱をそそぐスタジオがあるわ。
まだまだ知られるとはいえないスタジオだけど、『カンフー・パンダ』のマーク・オズボーンが監督した『リトル・プリンス』で一躍名を上げたわね。
アメリカの大手がかかわっているスタジオでは見られないようなヨーロッパ的な叙情が特徴よ。
今後はこういう小スタジオの3D作品もバンバン出てくるんじゃないかしら?
9. ライカ:『コララインとボタンの魔女』(ヘンリー・セリック監督、2009年)
ここからはちょっと趣向を変えて同じ立体アニメでもストップモーションアニメを紹介するわ。
元増田は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』という映画をご存知かしら?
ああいう人形を使ったアニメはストップモーション(コマ撮り)アニメと呼ばれてファンも多いわ。一番有名なのは『ウォレスとグルミット』かしらね。
『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』はティム・バートンの監督作だと勘違いしている人も多いけれど、実は監督を担当したのはこのヘンリー・セリック。
彼が自分のスタジオである「ライカ」を立ち上げての第一作目が、この『コララインとボタンの魔女』なのよ。
ストップモーション特有の質感を保ちつつも3DCGと見まごうばかりのなめらかなアニメーションは、気が遠くなるような数の人形パーツによって実現したもの。
セリック独特のゴシックな美意識が溢れる画面は観ているだけでため息が出るわ。
この『コララインとボタンの魔女』の成功によって、ライカはイギリスのアードマン・アニメーションズと並ぶストップモーションのスタジオとして一躍地位を確立したわけ。
ライカはこれまで三作しか発表しておらず、日本に入っているのは『コラライン』含めて二作だけだけれど、二作目の『パラノーマン』もすばらしい出来なので是非見てね。
10. アードマン・アニメーションズ:『映画 ひつじのショーン 〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜』(マーク・バードン&リチャード・スターザック監督、2015年)
で、ストップモーションアニメの老舗であり、ストップモーションといえばアードマンと言われるほど有名なアードマン・アニメーションズ。
配給会社はそのときどきによって変わるけれど、一貫して温かみのあるゆるさと精緻な細部へのこだわりをふせもった上質なストップモーションアニメを世界に供給しつづけているわ。
もちろん、去年発表された『ひつじのショーン』も最高だったわね。
『ウォレスとグルミット』とおなじく、テレビシリーズの劇場映画化だけれど、TV版をみてなくとも十全に楽しめるわ。むしろ、テレビシリーズの入り口としてちょうどいいくらい。
アードマンの作品はそのルックを一目見れば即座にわかるので、公開されたらとりあえずチェックしときたいわね。
11. スターバーンズ・インダストリーズ:『アノマリサ』(チャーリー・カウフマン&デューク・ジョンソン監督、2015年)
スターバーンズ・インダストリーズはテレビドラマで活躍するダン・ハーモンが立ち上げたストップモーションアニメ会社。
その第一作目に『マルコヴィッチの穴』などで知られる個性派脚本家チャーリー・カウフマンを監督に迎えて作ったのが、この『アノマリサ』。
アードマンにしろライカにしろ「子どもも大人も愉しめる」映画が信条のストップモーションだけれど、この『アノマリサ』は完全にオトナ向けよ。
カウフマン特有の奥行きある哲学的なストーリーもそうだけれども、一番子どもに見せちゃいけないのはセックスシーン。
なんと精巧に作られた人形同士(男女ともにくたびれた中年)がヤッてる姿をえんえん見せつけられるの! クンニから挿入、絶頂、事後まで全部よ!
「映像の世紀プレミアム」は、1995年度に放送された「映像の世紀」と2015年度に放送された「新・映像の世紀」を合体させ、さらにこれまでの放送にはなかった新たな映像を追加。
各回90分という長い時間をかけてたっぷりとお見せする豪華版です。
新旧2つのシリーズでは映像が誕生してから100年余りの歴史を編年体で描きましたが、今回の番組では芸術・女性・兵器などのテーマ毎に年間4本を放送します。
なんとかこの日までは生きてみようと思ったんだ。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
キャラクターのキーとなるポーズの間を埋めるための絵で、これがあるからキャラが「なめらかに動いている」ように見える。
Flashなんかでもできないことはないけど、3Dならもっとなめらかに見せられる。
で、中割り含めて手描きで書いてたら長編一作あたり何枚の画が必要になると思う?
40万枚だ。
一々40万枚を手作業でやってたら、今のディズニーみたいに毎年新作を発表するなんて不可能だ。
今のアニメ業界はもう、ウォルト・ディズニー存命時代みたいに4,5年に一作めちゃくちゃなクオリティの2Dアニメを発表すればペイできるなんていう状況じゃない。
同族だがピクサーがいる。量産屋のドリワがいる。新星イルミネーションがいる。ブルースカイ・スタジオがいる。その他にもすきあらば業界に割ってはいらんとする魑魅魍魎で蠢いている。最近は中国のスタジオの成長も著しい。呑気に構えていたらパイはすぐに取られてしまう。
ちまちまやってる暇なんてないんだよ。
すまないがせめて、便乗で叩き始める前に、本読むかググるかくらいしてくれ・・
諸事あって『中島らも』について調べる機会があった。どんな諸事だ。
カネと時間と労力をかけ、あのへべれけのオッサンについて調べるのは、控えめに言って気が進まない。
死ぬまで散々稼いだらもに貢ぐのは癪である。なので地元公立図書館で彼の著作を借り『諸事』を済ませてしまおうと思ったのだが驚いた。
共著含め、著作が百冊以上あるのだ。
中島のキャリアを鑑みれば少ないのかも分からないが、なにせ公立図書館である。
一部小説を除き、頭の先からしっぽまでくだらなさで詰まっている著作が百冊もあるのだ。
スノッブで鼻持ちならない、上層階級で文化を囲いたがる欧州では、らもが書くような下世話な本を公費で揃えるなどおよそ考えられないことだろう。
本当のクールジャパンはAKBでも、元はウォルト・ディズニーが作った商業(セル)アニメでもない。
http://anond.hatelabo.jp/20120130150137
元増田です。友人のAさんにおもしろい指摘を受けました。
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
なるほど!!!
それでは、問題の画像はあくまでミッキーの着ぐるみを描いたものであることが文脈上明らかであるとして考えてみます。殺害表現でないとすると、名誉声望保持権を主張するのは無理筋に思えます。すると、同一性保持権侵害の線で押してくるのではないでしょうか。
(同一性保持権)
第20条
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
同一性保持権侵害を構成するには、その行為が著作者の『意に反して』いる必要があります。ミッキー(の映画(の原画))の著作者は当然ウォルト・ディズニーだと思いがちですが、実はこの点はずいぶんと争点になっていて、正直なところ「結局誰が著作者なのかよくわからない」んですよね。ウォルト・ディズニーは当然ながら、ウォルトの盟友アブ・アイワークスあるいは二人の共作、はたまた二人の作り上げたディズニー社の団体名義だとする説もあります。
しかし、彼らの意向は明らかです。彼らは口を揃えてこう言ってきました(たぶん)。
『中の人などいない!』
誰が著作者であるにせよ、中の人など決していないんだ、ディズニーランドに行くと笑顔で迎えてくれる彼はあくまでミッキーという生き物であって着ぐるみではないのだ。そういう世界を彼らが作り上げてきたことは明白です。「中の人などいない」ことが、ミッキーマウスという著作物を構成する重要なアイデンティティである。だから絶対に首なんか飛ばない。これが主張として認められれば、ミッキーマウスの着ぐるみの頭を吹っ飛ばすという表現は同一性保持権の侵害となるかもしれません。
でも、どうでしょうね。
まず、視覚的に表される「絵柄」ではない抽象的な要素については著作権が認められないという判例が多くあります。「中の人などいない」はこれに該当する可能性が高そうです。また、着ぐるみを作って売ったならともかく、着ぐるみのイラストを描いてそのイラストの頭を吹っ飛ばしたわけですからね。ミッキーマウスの著作権は既に切れているとすれば無償で着ぐるみを作ったり絵を描いたりすることは問題ないですし、あとぶっちゃけ、彼らが何と言おうと、ディズニーランドにいるミッキーが着ぐるみであることは悲しくも事実なのですから…。
この辺、本職さんの本気の弁論をぜひ聞いてみたいところです。
というわけで、あれは着ぐるみの頭が吹っ飛んだだけだよ!と主張してみるだけで、なんとも馬鹿馬鹿しいメルヘンな問題になることが判明しました。こんなにメルヘンな裁判はそりゃあ是非とも見てみたいわけですが(きっと世界中が大注目するでしょう)、怒りのメールを送ってきたのがディズニー社であるにせよディズニーファンであるにせよ、恐らくはあの画像を「ミッキーの頭を刎ねて殺害している場面」と受け取ってのことだと思います。とりあえず落ち着いていただく&名誉声望保持権侵害の疑いを回避するためには、首が飛ぶ前後の文脈をきちんと公開した上で、「あれは着ぐるみなんだよ」と説明するとおもしろいよいのではないでしょうか。
http://cinematoday.jp/page/N0015471
浅野忠信、ウォルト・ディズニーのボリウッド映画へ出演決定!
ディズニーっで「ボリ」ウッドって、あんまり日本語の語感とイメージが
よくないなぁ、と思いながらWikipediaをみたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
ボリウッド(英:Bollywood、ヒンディー語:??????????????、ウルドゥー語:????????????)
フツーに他言語表示してて、しかもそれをコピペできるイマドキのWindows Vistaの機能に
鼻水吹いた。
任天堂の宮本茂やWiiに関するNew York Timesの記事。
http://www.nytimes.com/2008/05/25/arts/television/25schi.html より拙訳。タイトル含め、所々意訳。
追記:原題の " Resistance Is Futile (抵抗は無意味だ) " はスタートレックに出てくる有名なフレーズだそうですね。これはそのままのほうがよかったかもしれません。教えてくれた人どうも
「任天堂に対抗するだって?w 無駄な抵抗はやめておけ 〜 最強の55歳 〜」
宮本茂はゲーム界のウォルト・ディズニーと言っても決して言い過ぎではない。
ディズニーが1966年に亡くなったとき、宮本さんは14歳の少年だった。学校で教鞭を執っていた父の元、彼は日本の古都・京都で育った。当時漫画家を目指していた彼はディズニーのキャラクターに夢中になり、ひたすら絵を描いていたという。絵を描いていない暇なときは、自ら遊び道具を作った。祖父の工具を借りては木彫りの人形を作ったり、予備のモーターを見つけてはそれに糸とブリキの缶を組み合わせてカーレースをしたり。
かの有名なドンキーコング、そしてマリオやゼルダといったゲームを生み出し、最近ではWiiを世に送り出した宮本さんは世界で最も知られ、影響力のあるゲームクリエイターだ。世界中のゲーマーにとっても憧れの的である。しかし有名人になっても彼の仕事への態度は微塵も変わることはない。その姿勢はまるで謙虚な職人さんと言ったところだ。
ミッドタウン・マンハッタンのとある高層ホテルの特別室にてインタビューは執り行われた。彼は部屋に設置されたソファの一角に座っていた。今年で55歳になる男とは思えない天使のような笑顔の彼は、長年人々を楽しませてきた人が持つ独特のオーラを発していた。
宮本さんの生み出した数々の作品は世界中の人々に文化の壁を越えて受け入れられ、経済的な成功をもたらした。その成功はエンターテインメントの世界で比べるならば、ディズニーのあの伝説級の成功と肩を並べると言ってもいいほどだ。
そんな宮本さんがもし西洋の人間だったら、早々に会社を辞めて自ら会社を興していたかもしれない。きっと何千億もの大金を得られたに違いない。セレブになってエンターテインメント界の象徴としての地位を築いていたかもしれない。
しかし彼自身は任天堂の王様として人々の憧れの対象になったにも関わらず、妻と子二人という家庭のごく一般的なサラリーマンという印象を与える。ただ一般のサラリーマンと違うのは、創造力に満ち溢れて特別幸福な点だが。そのためタブロイド紙を賑わすセレブのようにマスコミの餌食になることもなく、比較的平凡な生活を送っているようだ。
インタビュー中、宮本さんをウォルト・ディズニーに例える話が出た際、宮本さんはディズニーの功績にはとても及ばないとした上で、こう補足した。「僕にとって大切なことは、僕だけでなく任天堂で活躍する人たちがもっと世間に認められて会社全体のブランドが今以上のものになることです。もし皆さんが任天堂ブランドをディズニーのそれと同等のものと見なしてくれるのならば、それは会社として大変光栄なことですし、私自身も嬉しいです」
宮本さんが30年近くも前に生み出したひげ面のイタリア人配管工・マリオは、ある調査によれば地球上最も有名な架空のキャラクターだそうだ。彼と肩を並べるのはミッキー・マウスぐらいだという。
宮本さんが生み出したゲームのうち、ドンキーコング・マリオ・ゼルダシリーズだけでも売上合計は3億5千万本はくだらないという。そして彼が生み出したのはゲームだけではない。任天堂のゲームばかりを買い求める熱狂的なファンも生み出した。全人類が今までゲームに消費した途方もない時間のうち、そのほとんどは宮本さんが関係しているのではないだろうか。ちなみに、今春に行われたTIME誌によるインターネット調査では、宮本さんは世界で最も影響力のある人物に選ばれている。
しかし宮本さんの最新の作品・Wiiに群がっているのはなにも古参のゲーマーだけではない。少し説明を加えよう。
ほんの18ヶ月ほど前、ビデオゲーム市場はマニアだけが喜ぶニッチな世界へと沈みかけていた。だがそんな折、この産業に大革命をもたらしたのが何を隠そう、任天堂社長の岩田聡とこの宮本茂(宮本さんの正確な役職は代表取締役専務兼情報開発本部長)だったのだ。彼らのアイデアはシンプルであるがゆえに革命的だった。ゲーム作りにおいて、コアゲーマーを刺激する次世代技術ばかりを追求するのではなく、家族で遊べることを重視し、複雑な操作の必要がない安価でお手軽な娯楽を追求しようとしたのだ。それがWiiの発売へと繋がる。そして特に従来のビデオゲームとは無縁だった女性層を呼び込むことに成功している。今のところ、Wiiは世界で2500万台以上を売り上げている。これはライバルのソニーやマイクロソフトを上回る数字だ。
この成功をさらに積み上げようと、先週任天堂は北米においてWii Fitを発売。従来のゲームでドライブしたり物を投げたりジャンプしたり銃で撃ったりという動作を楽しんできたのと同じ感覚で、テレビの前に立ってヨガなどを楽しめるゲームだ。今のところ明らかにできる具体的な売り上げデータはないが、既に売り切れの店舗が多数報告されているようだ。
世界中でアメリカのメディア文化が幅を利かせているが、ビデオゲームに関しては日本が最も成功している。そしてWiiとDSの成長により、任天堂は日本で最も価値のある企業のひとつとなった。また経済誌・Forbesによると、前経営者の山内溥氏が総額8000億円ほどで日本一の資産家となったと報じている。(任天堂は宮本さんの報酬を公開していないが、彼は資産家ランキングには参加していないと思われる)
「宮本さんがいなければ任天堂はただの花札屋に戻っていたかもしれない」 No.1ゲーム雑誌・Game Informer 編集長、Andy McNamara氏は任天堂の1889年創業当時からのビジネスに言及して指摘した。「彼はおそらく、ゲーム業界にいる99%の人間に影響を与えている。宮本さんと任天堂がいなければビデオゲームなんて存在しなかったに等しい。彼はすべてのゲームクリエイターの父の父なんだ。ゲーム業界に数々の遺産を築き、業界を象徴するキャラクターをたくさん生み出してきた。それでもおかしなことに、いまだに彼はWii Fitなどを通じて自らの限界を超えようとしている」
宮本さんは1975年に金沢美術工芸大学を卒業後、2年ほどして工業デザイナーとして任天堂に入社している。そして彼の作った初代ドンキーコングは、スペースインベーダーやアステロイド、パックマンとともに、当時急成長していたゲームビジネスの立役者となった。その後も初代マリオブラザーズによってアタリショックで疲弊していた家庭用ゲーム機市場を救い、1980年代以降、彼は社内で頭角を現し始め、任天堂と言えば宮本茂と言われるほどだった。
市場にクソゲーが氾濫し、アタリ社が失脚した際に登場したのが、かの有名なNES・Nintendo Entertainment Systemである。任天堂はNESによって人々の家庭用ゲーム機に対する熱を再び燃え上がらせることに成功した。西洋で1985年に発売されて以降、瞬く間に当時最も普及したゲーム機となったのだ。
それ以降宮本さんは、最近のマリオカートWii・スマブラX・スーパーマリオギャラクシー・トワイライトプリンセスなどといったヒット作も含め、70近くものゲームに直接携わってきた。下請けメーカーの作るゲームも監督し、今までにのべ400人ほどのゲーム開発者と関わってきた。
Wiiによってゲームには無関心だった層を魅了する一方、馴染みのタイトルの最新作においても宮本節は健在で、ゲーマーたちの信頼も厚い。
彼はなぜこれだけのヒット作を生み出せるのか。彼のゲームデザインに徹底して一貫しているものは、細部への気配りと拘りの積み重ねである。それだけだ。ディズニー社がしゃべる動物たちであそこまで会社を大きくできたのにちゃんとした理由があるだろうか。それと同じだ。青い作業着を着た風変わりなおじさんが人気者であることにも、これといった理由はないのだ。
あえて言うなれば、宮本さんがゲームの世界において生き神のように崇められる理由、ひいては私が20年以上前にスーパーマリオブラザーズを遊ぶためにピザレストランの行列に並んだ理由はこうだ。彼のゲームには、もうワンコイン投入してコンティニューすることを厭わない魅力があるからだ。現代風に言うと、もう一時間ソファに座っていたいという魅力だ。
また、映画評価が特殊効果の質で決まるわけではないのと同じように、ゲームの評価もまたそのグラフィックスだけで決まるわけではない。この基本を大概のゲームクリエイターは忘れてしまっている。しかし宮本さんはその基本を忘れることはない。それは映画マニアが例えば…そう、先日公開された「Iron Man」なんかよりも昔の白黒作品を好むように、宮本さんの初期の作品群もまた、今でも娯楽としての役割を充分果たし、広く楽しまれていることからもわかるであろう。
ディズニーの副社長で、Disney Interactive Studios社のゼネラルマネージャーを務めるGraham Hopper氏は電話インタビューを通じてこう言っている。「ビデオゲーム産業において幾度も成功を重ねて来た人物、しかもそれが世界規模で、となるとそんな人はほとんどいません。宮本さんはそのうちの一人です。しかも彼の場合、長期にわたり成功を重ね続けて来たわけです。同じレベルで肩を並べられるクリエイターはおそらく存在しないでしょう」
宮本さんの生み出すキャラクターがマリオとドンキーコングだけではなく、ピーチ姫やゼルダ、そしてクッパにリンクとゲーム界の有名キャラが目白押しであることを考えると、彼がキャラクター中心のゲーム作りをしていると思われるかもしれない。しかし実際はまったく逆だ。宮本さんによれば、ゲームのシステムや仕組みを考えるのがいつも先で、キャラクターはゲームデザイン全体を見て考えられ、配置される駒に過ぎないという。それは一見平凡で退屈に見えるゲームの基本要素に注力するということだ。ゲーム全体の流れや設定をどうするか、ゲーム内で達成すべき目標や克服すべき障害はなにか……。
「自分としては、私たちが作ったマリオやリンクなどのキャラクターを皆さんが好きになってくれるのは、ゲームそのものが楽しいからこそだと思います。ゲームに夢中になれるからこそ、結果的にゲーム同様、キャラクターも好きになっていくんだと思います」と宮本さんは語る。
宮本さんの最近の作品はマリオのキノコ王国やゼルダのハイラルのような風変わりな架空の設定や創作のキャラクターに頼らないものとなっている。彼のペットであるシェットランドシープドッグに触発されたNintendogs を始めとして、Wii SportsにWii Fit、そして次回作のWii Musicのようなゲームを見ればわかる通り、宮本さんはペット・ボーリング・ヨガ・フラフープ・音楽といったいわゆる"趣味"に根ざしたゲーム作りに惹かれているようだ。まるで抽象画を極めた画家が最後には写実主義に目覚めたかのように。
「ここ5年間で自分のゲーム作りの方向性は変わったのかもしれませんね。昔はもっと自分自身の想像力を使ってゲームの世界観を練り上げていったと思うのですが、ここ5年間は自分の私生活での興味を引っ張りだして、それを何かしらの遊びに繋げられないかなと考えるようになっていったと思います」
このイカれた配管工はなんで亀を何度も踏み続けてるの? この緑のナイスガイはなんで同じお姫様を何度も助けにいくの? そんな考えを微塵も起こさないほどゲームに無関心な人たちの目を向けさせることに任天堂は成功している。それは宮本さんのこれらの考え方が強力な武器となったことの証ではないだろうか。
そして強力な武器はもうひとつある。
さて、プレイヤーがゲームに直接参加したいと思ったときどうすればいいのだろうか。インターネットにはSNSのMySpaceがあるし、テレビにはオーディション番組のAmerican Idolがある。何を隠そう、それを実現してくれるのがWiiのMii機能だ。MiiはWiiユーザーが自由に作れる変幻自在のアバターだ。そう、最新の任天堂ゲームの主人公はマリオでもゼルダでもない。あなた自身なのだ。
「私はMiiに関してはマリオやゼルダと全く同じ任天堂の財産だと思っています」宮本さんはMiiに関してこう述べた。「Miiが面白い点は、子供であろうと大人であろうと、ひとたびゲーム画面のMiiを見てプレイし始めれば、もうその人はゲームに没頭できるんです。通常のキャラクターで遊んでいるときは、ゲームの世界から一歩下がって遊んでしまうことがありますが、自分のMiiを作成して遊べばゲームとの一体感はより増します」
任天堂は今夏にWii Musicの続報を発表すると期待されている。その基本コンセプトは、既に完成された楽曲を楽しむGuitar HeroやRock Bandとは大きく違い、作曲や即興演奏の楽しさを体験させてくれるものだという。
ところで、宮本さんは学生時代からBeatlesやLovin’ Spoonfulのような洋楽を聞いて育ったという。ピアノやカントリーギターも弾けるし、カントリー音楽マニアでもあるという。インタビューの後、宮本さんと会食の場を設けた際にこんなことがあった。その会食があったレストランのショーステージにカントリーミュージシャンのRicky Skaggsが数日後に上がる予定だと聞いた彼は、即座にその名前に反応し、半ば冗談ではあるが「滞在期間を延ばしたい」と苦悶の表情を浮かべたのだ。実際には予定通り彼は帰ったのだが。
そんな音楽好きの宮本さんが作るWii Musicに関して彼はこう言及してくれた。「遊ぶ人がまるで本当に作曲しているかのような体験が簡単にできるものをお届けしたいと思っています」
これだけ彼のゲームがヒット作ばかりだと、次回作がヒットするかどうか賭けをするのはさすがに馬鹿らしい。誰よりも"遊び"を知り尽くしているのはデジタル時代のウォルト・ディズニーこと宮本茂なのだから。