はてなキーワード: インプットとは
テストの問題文の理解ができなかったり、問題文の日本語は読めるが表現が気になってその所を何度も確認して先に進めず1問目以降白紙などもあった。
このような状態だと学校や集団塾では改善はしないだろうと感じたので、自分が勉強につきっきりになることにした。
幸い、私はある程度勉強はでき、中学レベルなら英国数ならほぼ満点はとれる。
まず、問題文を読んで頭がパンクしてしまうことに関しては、深く考えるとパンクしてしまうということなので、そのパンクの兆候がでたらその問題から離れる訓練をした。
日々の家庭学習で問題集をとかせ、それが発生しそうなら知らせてスキップする。
そのあと、問題文でパンクする問題を一緒に説いて、問題文は何を求めているのか2人でじっくり考えるようにした。
そうすることで、問題文の表現のパターンが分かり、次第にテストの問題文の意味が分かるようになってきた。
もともと息子は社会や理科は興味があるので、問題文が読めればある程度テストでも点数が取れるようになった。
(一部追記)
なぜ小6から勉強ができなくなったのかというと、小学校の頃は雰囲気でやってもなんとかなっていたから。
しかし高学年だと英語もはじまり、内容も高度化して遅れていった。
私も「小学生なら特に何もやらなくても大丈夫だろう。」という楽観もあった。あまりテスト結果もみてなかった。だがそうならなくだんだんと置いていかれるようになっていた。
よって、6年からできなくなったというわけではなくて、表面化したという表現が適切かもしれない。
算数は小学校時代は苦手だったが、中学にきて意外にも好転してきた。
正負の計算や方程式が最初の関門だが、正負の計算で今まで『0より小さい数字になるような引き算はできない』というルールに感じていた気持ち悪さが解消され、調和した四則演算ができるので一気に数に対する理解度が増した。
方程式はやり方を教えて何度かやっているうちに、四則演算の理解度が高まっていたので難なく扱えるようになった。
その流れで、連立方程式も進んだ。
一次関数は数学の第2の関門だが、これは科学史への興味が効果がでた。
デカルトについてと、代数と幾何学を同じ計算でできるということを教えたら、興味が増し。
交点が連立方程式でとけることに感動していた。二次関数も自主的に予習していた。
興味がある本はどんどん買った。
私が持っている本も年齢的に理解できないとしても貸した。
はじめは音読で読んでいたが、次第に黙読になりスピードもました。
たまに私が読んでいた本を息子が読んでいるときに、理解をしているか要約させたりしている。
これが今もできない
元々、文章を理解して意図を汲むというのを苦手としていた上に、日本語と構造が違うので理解の糸口が見つからない教科だった。
ラテン語から、ゲルマン語、ノルマンコンクエストでフランス語が入ってきたといういくつかの文明の交わりで言葉が変わっていったというところ教えた。歴史が大好きなのでこういうので覚えてくれる。
曜日とローマ神話、月名とラテン語の数詞とカエサルとアウグストゥスなど、そういった言葉の語源も添えると覚えてくれる。
そのあとで、主語と動詞、特に中学校では後半にやるけど5文型は先に教えた。この子は構造を理解したら先に進めるタイプなので、文法構造からやった。
そのかいあって、単語並び替え問題等では最初は全くすべてをランダムにおいていたのに、今は少しずつ文法の構造はわかってきた。
文法は言われればわかるが、単語がどうも覚えられない(覚えてくれない)
単語の効率の良い覚え方はレクチャーしたが、英語以外の教科では理解をした後に一気にすべてがわかるブレイクスルーを体験したがために、どこか暗記に銀の弾丸があると思っている節がある。
1年1学期の白紙よりかは良くはなってきているが…今後、改善が必要なポイントだ。
テスト直前になると問題集を解くだけに忙しくなると勉強ができないので、2週間くらい先を進めて予習して問題集をやらせている。早めに課題を終わらせて、自分自身の問題点に向き合える時間をふやす。
余談だが、学校でもその問題集を使うので毎日持って帰るのが大変だ。今は学校では置き弁がゆるされているが(じゃないと運べない量)、ちゃんと勉強するとなると荷物が大量になるというジレンマがある。
インプットとアウトプットの間隔を短くさせるために、1ページごとに採点・間違えたところの確認・再度問題を解く・というサイクルを持たせている。
最終的に、独力で自分の課題の発見と解決のサイクルができればいいが、まだそこは難しい。問題がとけない原因を言語化させるように努めている。
採点の際には私も一緒にやって理解度を確認している。その際には、あてずっぽうで答えて当たったことをさせないために、回答の根拠をちゃんと聞くようにしている。
今やっている範囲以外のことの理解も足りているかの確認もここでする。英語だったら授業範囲ではないが、以前やった単語や表現が出てきたらちゃんと理解しているかを聞く、
学校で指定されている問題集以外にも、たくさん解かなければ身につかないので、市販の問題集で補ってやっている。
試験を想定した実戦形式の問題の場合は時間を短めに設定して、制限時間内に終わらせるようにしている。
これはなるべく家庭学習で実戦より難しい状態にしておくことで、実戦が楽になるためだ。
それどころか、学校の教科書も体系立てて書かれておらず、そのまま読んでも理解がしづらい。
特に英語に感じたことだが、読む・聞く・話す・表現する を重視するあまり、文法や単語に関してはサラっと先に進んでいる。
指導要領が増えているため時間がないのかもしれないが、とにかく内容がスカスカだと思う。
to不定詞を例にとれば、名詞的用法・形容詞的用法・副詞的用法 があるがそれをまとめて説明しているページがなく、
旺文社の『中学総合的研究』など総合的な説明が書かれている本を買って、体系づいた知識にアクセスできるようにする必要がある。
これに関しては数学も同じだ。
また、受験に関しても中学校の教師はあまり良いアドバイスをしてくれない。問題の傾向などの情報も持っていないようだ
私は塾はなるべく通わせたくなかった。本人の集団学習に馴染めない傾向というのもあるが、それだけでない。
高校は義務教育でないにしてもほとんどが進学するようになった現在、進学への対策は義務教育の範疇だと思う。
貧乏でも義務教育をちゃんとしていればいい高校に入れるべきなのだが、塾に通わせなければならない現状はおかしいとおもう。
また、塾と部活をやると大人でも過労死基準の労働時間に相当する拘束時間になってしまう。それを子供に強いるのはおかしい。
なので、社会の歪みをそのまま迎合するのも避けたかったので、学校がクソなら親の私がその穴を埋めようとしていた。
だが、今年の春から中三なのだが、学校は高校受験に関する良い情報を何一つ持っていないので不安しかない。
また、英語がやはり伸びない。
私は勉強はできても教えるプロではないので、やはりプロの力は必要だと思い、個別指導に通わせることにした。
受験の開幕前だが、今までを振り返ってみるとまあ親としてちゃんとできたかなとは思う。
反響があって驚いている。
読み返してみると、勉強のことばかり書いていて詰め込みさせ過ぎなんじゃないかという印象を与えそうなので、一応勉強以外のことも追記しておこうと思う。
私がゲームをするし不公平だし、禁止したところで不満が出るだけだ。
ただ、ゲームも「負けて・リプレイをみて・問題点を改善して・試合に挑む」という姿勢は学校の勉強と同じだということ。成績の上位層の生徒はゲームも大体うまい。ということは教えている。
ただ、ゲームはカジュアルにやってほしいので、介入することはない。
スマホは問題をとく15分か30分はLINEをしないという制約をつけている。やることは一つに絞れと。
※スーパーや土産物屋等とにかく短時間で大量の客をさばかねばならない店限定で、ゆっくり客対応が出来るデパートや洋服屋等の店の話は除く。
時々レジで商品出すときに「袋要りません、箸つけて、支払いは○カードで、と先に言って親切で時短してやってんのにレジ係がいちいち聞きやがる、腹が立つ」と言う人がいる。昨日も芸能人が「先に言ってあげてるのにいちいち聞いてくる、苛つく」と言ってニュースになっていた。
機械なら先に入力すればメモリに結果を保持出来るだろうけど、レジ係はなかなかそうは出来ないのだ。にんげんだもの。
レジ係も色々いるので、人によっては入力結果を保持できるタイプの人もいるとは思うが、大半はそうではない。
客ごとに少しずつ違う流れ作業を短時間で最速でやるために、脳と体に最適化された動作を記憶させて半自動で動いているのだ。
基本的にレジは2つの作業を並行して行っている。一つは、品物をスキャナーで読み取り、場合によってはカゴに詰めていく作業だ。これは手を止めてはならない。スキャナー通しながら、重いもの、軽いもの、肉、野菜等属性考えながらレジカゴに入れていく。基本的に手は動かしっぱなし、慣れたレジなら脳は半自動で思考できる様にはなっているがそれでも脳のリソースをある程度は食っている。
それと並行して客からの要望インプットがある。スキャナーを最速で通しながら客からのインプットをこなすために、大抵のレジ係は聞く順番を決めメモリを一つにして流れ作業としてこなしているのだ。
・商品に割れ物がある→作荷台横に新聞紙がございます、等の案内
こんな感じでやっているため、客からのインプットを一度に全部やられるとその後の流れ作業が全部おかしくなる。
工場で「どうせ後で全部組み立てるんだから」と先に部品をすべてベルトコンベアにぶちまけるようなものだ。一度に一つずつでお願いしたい。にんげんだもの!
この日記の内容は、会社の後輩から「最近エクセルマクロを勉強し始めて(キラキラ)」という話を聞いて、先輩ムーブをかますために話した内容になります。
とにかくこれから説明する「計算用シート」が憎くて憎くてたまらず、ちょっと引かれるほど熱弁してしまいました。
ただ、他の方がどうされているのかや、逆に「計算用シート」を愛用する方の意見も聞きたくなり、増田に書いてみました。
エクセルマクロのお作法とか書きましたが、要するにエクセルマクロで「計算用シート」って色々な意味でよくないよね、という話をしたいです。
3行でまとめます。
〇 エクセルシートはユーザーインターフェース(インプット)か出力結果(アウトプット)のためのものとすべき
〇 データ加工をする場合には、原則配列や辞書型配列(連想配列)に格納して加工を行い、最後の結果だけシートに出力するべき
〇 何事にも例外はある。
エクセルマクロにも色々あると思いますが、今回は下記を想定します。
日付や人物名などを入力し、データベースや別のエクセルファイル、別のシートから取得したデータを入力された値を基に加工し、加工後のデータをシートに出力する
この場合、入力欄があり編集可能なシートがユーザーインターフェース、最終的に加工されたデータが出力されるシートが出力結果です。
(もちろん、ユーザーインターフェースの別の欄(セル)に出力する場合もあるし、その場合はユーザーインターフェースと出力結果が一体のものとみなします。)
また、データ用シートは同じエクセルファイル内に基となるデータが含まれる場合を想定します。
(これ自体が非推奨で、SQLデータベースかせめてAccessを使え、という意見はありますがそれは別にして…)
ではここで定義する計算用シートとはなにかというと、文字通り計算を行うためのシートです。
1.元となるcsvファイルをエクセルに読み出してシートに格納
2.そのデータは日付が数値型になっているので、日付(数値型)の入った列を文字列に変換した日付(文字列型)列を新たに作成
これは極端な例ですが、とにかく変数や配列を定義せず(あるいはエクセルのセルオブジェクトを変数のように扱い)、エクセルに値を入力し、それを直接加工することで目的となるデータ加工をしたり、様々な処理をします。
なんかこんな感じの処理をしているエクセルマクロ、どこの会社でも腐るほどあるんじゃないでしょうか。
ある程度マクロに慣れた気の利く人なら、このシートはロックや非表示にして、ユーザーから触れないようにするでしょう。
・・・これ、やめたほうが良くないですか?。
ある程度詳しい人なら同意してくれると思いますが、このやり方でダメな理由はいっぱいあります。
後で説明する配列や辞書型配列(連想配列)と比べると格段に処理が遅いです。
ちょっと詳しい人が知っている「画面更新の非表示」を駆使しても、配列を使った処理からみれば止まったハエです。
いったんエクセルシートにデータを格納して加工しているので、コードとエクセルシートを両方見る必要があり、とても読みにくいです。
変数として命名されていないのも致命的で、処理の意図が余計に分からなくなります。
計算用シートを事前に用意して、別のセルに関数を格納しておき、マクロと関数を使ってデータ加工をするものも見たことがあります。
あまり知られていませんが、セルの最大文字数は32,767 文字です。
セルの最大文字数を超えると自動的に隣のセルに値が入り、シートが滅茶苦茶になります。
他にもエクセルの数値を丸める自動変換の仕様とか文字列→日付の自動変換とか、いくつものバグに苦しめられます。
できる人だと、いちいち最大文字数が多い場合の処理を書いたり自動変換機能を殺したりしてくれますが、そんなことに手間をかけているから日本のGDPは上がらないんだと思います。
他にも、データが大きくなると処理が重くなり不安定になる、計算用シートを人が触ってしまうリスクがある、などいくらでも理由は上げられます。
(逆に利点は、目の前でガチャガチャ動いてスーパーハッカーになった気分になれるくらいしか思いつかない・・・)
配列を使いましょう。
配列とは何ぞや、という人はググってください。
配列にデータを入れて、データ加工は配列や変数に対して行い、一番最後の出力だけセルに値を格納する。
個人的にオススメしたいのは辞書型配列(連想配列)で、うまく使うとデータの管理が簡単になり、処理も爆速になります。
(参考)【VBA】大量データから高速で値を検索【Dictionaryを使う】
csvファイルもなまじエクセルで開けるだけに別のブックやシートで開きがちですが、これは悪魔のささやきです。
直接ファイルを読み出してLine InputやSplitで配列に格納しましょう。
エクセルとして開くやり方はコード書くのは簡単でも、実行時間に天と地ほどの差が出ます。エクセル開くと処理もめちゃ不安定です。
(参考)Excel VBAでCSVオープンするときのパフォーマンス比較
いや、冒頭のマクロを書く人の気持ちも分かるつもりです。自分もコードを書き始めたころは全部シート上で操作していました。
冒頭のマクロのほうが直感的なんですよね。自分が手で書くことをマクロにやらせる、というマクロ本来の趣旨にはあっていますし。
途中の計算過程もすべて目の前で展開されるから分かりやすいです。
ただ、それではダメなんです。。。処理は遅いし挙動は不安定だし後で改修・保守する人が死にます。
あと、エクセルシートやセルは当然エクセルにしかないので、エクセルマクロ(VBA)から他の言語に移れなくなります。
自分もエクセルマクロの里の出なので、計算用シート脱却には苦労しましたが、苦労して会得した配列や辞書型配列(連想配列)のスキルはそのまま他の言語に活かすことができました。
配列の中身を見る方法は別にある(ローカルウィンドウやDebug.printを使うなど)ので、リハビリに取り組んでほしいです。
(参考)VBA デバッグの仕方
計算用シートを許容できる、使うべきケースもあると思います。。
個人的には、
(最後のは、なんでも自分で確認しないと気が済まない上司の発注で、意味不明と思いましたしたがしぶしぶやりました。)
この場合、インプットのエクセルシートに直接加工するのは論外なので、計算用(加工用)のシートを用意してそこで操作を行うことは必要だと思います。
他にも、こういうときは「計算用シート」があったほうが良い、という状況があれば教えてもらえると嬉しいです。
そもそもツッコミとして、「データ加工するならエクセルマクロを使わずにpythonとかRとかもっとまともな言語使えよ」という言葉が来そうな気がします。
ただ、個人的にはエクセルマクロ(VBA)は大好きですし、初心者にもおすすめしたいです。
自分のような非エンジニアだと、セキュリティの関係などでPythonの開発環境とかすごく用意しにくいんですよね。
(あと、コマンドプロンプトの真っ黒な画面が怖かった)
その点エクセルマクロは、開発環境の用意はプロパティでチェック項目を一つオンにするだけだし、入門書がたくさんあるし、セルの挙動を追えば視覚的にプログラムを理解できるし、初心者に優しいです。
(そのやさしさが上述したとおり悪魔の罠なわけですが。)
最初は計算用シートに頼ってでもエクセルマクロからプログラミングを始めて、本格的なデータ加工をし始めたあたりで計算用シートという諸悪の根源から脱却する。
さらに本格的なデータ処理を行うために、PythonやRなど別の言語を習得したり、エクセルからSQLデータベースやACCESSなどに切り替えていく、というプロセスがいいのではと個人的に思います。
新しいものを作るなら「人間によって描かれた絵をインプット」ではなく「現実世界を五感でインプット」する必要があるかな。AIが。まあこれは時間の問題。
あと、絵を評価するのは依然として人だから、人が好む文脈やバックボーンは必要。
「そんなものはくだらない。絵が良ければ評価されるはずだ」と(ピュアな増田は)言うかもしれないが、錯覚資産によるナラティブが人間の価値判断なのよ。
「AIが描いた」という物語性が活きる場と「人間が描いた」という物語性が活きる場は分かれるかと。
人間が描いたと思っていた作品が実はAIが描いていた、という状況で「いい絵だから感動は変わらない」と思う観客はどれだけいるかな?
趣旨は分かるし、効率改善をこそ図るべきとの意見も良いと思うが、論旨に合わせて「生産性」の定義を意図的に捻じ曲げているのはいただけない。
間違いなく分かった上で書いていると思うが、生産性の定義は「投入能力あたりの生産量」ではなく「投入量あたりの生産量」でしょ。
投入量の部分が具体的に労働量(労働者数または労働者数×労働時間)なら労働生産性になるし、資本ストック量なら資本生産性になる。
増田は「個人が会社に提供した貢献量」をインプット側に置いて、それで生産量を割ったものが生産性だと定義していて、それは確かに会社システムそれ自体の生産性の定義としては正しいと思うが、いわゆる労働生産性とは別の概念だよね。
一般に言われる労働生産性は、インプット側を「個人が会社に提供した貢献量」ではなく「個人が会社に提供した労働時間」で定義していて、これはつまり、個人の能力が生産量を増減させる部分も会社の生産効率に含めると考えていることを表している。
個人的には「同じ動労時間でも貢献量に応じて賃金は変化すべき」というスタンスに立てば、増田の定義で会社の生産性を図る方がより実態に即しているという判断に異論はないが、それはそれとして、一般の定義とは異なる生産性の定義を既定のものだと偽って「なぜ生産性を理解しないのか」とうそぶくのは若干詭弁じみていると思われる。
自分は二次創作の漫画、イラストをお小遣い稼ぎを兼ねた趣味にしている。
個人的な好き嫌いで言えば生成イラストAIは好きではないし、自分でも使おうとは思わない。
でもSNSのおすすめタイムラインに頻繁に流れてくる生成AI規制派(以下反AI)の主張には頷けないし正直嫌いだ。
一番がこれ。端的に言って反AIの理屈は表現の自由にとって危険すぎる。
インターネットで活発に発言している反AI派は「無断」学習の禁止や固有の絵柄の保護を謳うけど、そんなことをしたらどうなるかは火を見るより明らかだろう。
自分が楽しんでいる二次創作分野も焼け野原になる可能性が高い。成人向け二次創作やってる連中はだいたい反AIだけど、生成AIは駄目でも人力のパロディはOKなんて線引きが可能だと本気で思っているのだろうか。
彼らは違法コンテンツのダウンロード規制騒動をもう忘れてしまったんでしょうか?警察が刑法175条をどのように運用しているのか知らないとでも言うのでしょうか。
そういった懸念を踏まえた上でなお生成AIを規制すべき、と主張するならわからないでもないけど、だいたいの反AIはリスクを過小評価しすぎている。
生成AI問題は純粋に経済的、労働問題として取り扱うべきだったと思っている。
著作権や著作者人格権を中心に据え、学習されない権利だの言い出した時点でオタク絵師の多い反AI派は巨大な弱点を背負ってしまったように見える。
正直言って今の反AIは負けている側だ。絵師の仲間内やオタク層の多いSNSではどうだか知らないが、行政や立法を見ると普通に負けている。
なのに反AI派は心を守るためだとか話が通じないだとか言って議論を拒否してブロックする人が多すぎる。オープンな場での議論は当事者以外のその議論を見ている人のためのものでもあるのだが。
負けている側がすべきことは味方を増やす運動であって、既に反AIとして結束している仲間内で盛り上がることではない。
現時点では生成AIを規制するべきではないと思っている人を心変わりさせなければならないのに、反AIではない人との議論、対話を拒否していたのでは先は無い。
この国は法治国家なので、損害を受けたと思ったら法的手段で回復する必要がある。
現時点で合法(もしくは指針となる判例がない)とされている、AIによるイラスト生成を行った個人や企業を泥棒呼ばわりしたりネットリンチを行う人が多すぎる。
合法的にAIイラストを楽しんでいる人を泥棒と呼んではいけません。
上にも書いた通りこの国は法治国家なので、損害を受けたと感じたら裁判を起こして判例を作る必要がある。
その結果、反AI派にとって不本意な判例が生まれたとしても、現行法では対処しきれない被害が発生していると感じるなら立法や法改正の運動に進むべきだろう。
反AI派はそうした地道な活動を拒否する人ばかりに見える。アニメ調のイラストを燃やして表現規制している人たちと何が違うんだろう。
現在違法でないものを規制したいのであればそれ相応の行動をとりましょう。
個人的には生成AI問題を現行法で対処できないという理屈が理解出来ない。
依拠性と類似性が認められると思ったら粛々と法的手段を取ればよいし、類似性が認められないのなら、そのAIイラストとあなたの作品は似ても似つかぬ別物ってことで大騒ぎすることでもないだろう。
人間だって他人のイラストと酷似したイラストを出力することは可能不可能で言えば可能だし、AIによって何らかの権利を侵害しそうなイラストが出力された場合は都度対応したら良いだけの話に思える。
学習だけでも許せない、泥棒だと呼ぶ人がたくさんいるが、学習されたところであなたは画力も絵柄も失うわけではないのに、何を盗まれたんですか?ちょっと繊細すぎやしないだろうか。
反AI派には「自分が気に入らない=悪いもの!」という思考スタイルを持つ人が非常に多い。
・嫌いだけど認めなければいけないもの
いずれもあり得る話です。
自分はこんなに嫌な思いをしたのに現行法では対処してもらえない!悪が野放しになっている!
もしかしたらあなたが受けた被害というのはそもそも悪でもなんでもなく、あなたが勝手に嫌な気分になっただけで規制の必要が無いのかもしれませんね。
有名な絵描きには信者みたいなファンがたくさんつく。その絵描きが白と言えばカラスも白くなる。
普通の人が社会活動や勉強に費やす時間を絵に投入してきた絵描きは多い。その結果得られるのは絵の能力であって、他の能力は一般人未満ということはあり得る。
我々人間のお絵描きだって、視覚的インプットを神経細胞ネットワークの構造として保存し、そこからまた出力しているだけでしょう。
性能の差があるにせよ、人間のお絵描きとAIによるイラスト生成を本質的に分ける理屈が思いつかない。本質などというものも多分無いし。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613
みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。
いや、定義自体が、人間にインプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的な観念/身体感覚に依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから、
「感覚をあいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。
新聞たまーに読んでるんだけど、
そうね、
ありのままにね。
それでどうしようかなーって
いつかそれを整理する日が来るとは思っていなかった昨今の今!
私は新聞スクラップもタブレットでしちゃおう!作戦の実行ができるかやってみたの。
なんでも
メモとは違うホワイトボードみたいなアプリがあってフリーボードってのが、
そこにペタペタ貼るだけなのよ!
めちゃ簡単!
写真は直接貼れないので共有のリンクのURLを貼り付けたら写真がカードになって勝手に貼り付けられて、
先に行っちゃうと最終書き出しをPDFにしてその写真のリンクもタップすればリンク先の写真が開いて見れるので、
これなんてマルチメディア?って思ったわ。
マルチメディアってもう誰も言わないぐらい浸透したと思っていたけど全然浸透してなかったわね。
そのぐらい感動つーか簡単つーか便利なのよね。
そんで写真のリンクをペタペタ貼って注釈をペンでメモれば簡単出来上がり!
糊もハサミも、
もっと早くにから気付いていたら良かったわ!って後悔あとを濁さずか後悔あとを立たずなのか
この際どちらでも良いぐらいの衝撃!
これはほんと仕上がったら、
だってさー
新聞も読んだら読んだですぐにその日のうちにもう窓から投げ捨てちゃうぐらいのレヴェルで整理しちゃうから、
せっかく読んだ新聞を内容何もスルーするってのはもったいないじゃない?
なんでこんなこと早く気付かなかったのかしら?って
エコチャンバーかエコバーチャンかどちらでもいいぐらいどうでもいいことと同じなのよ。
うわ!私の写真で取った新聞のスクラップ大杉漣!って言うほど。
これで整理が捗るってもんよね。
それはそれで
暇があったら大いに整理したいところよ。
つーか
これ結構時間作業的に楽しいからついつい時間を忘れて時間が経ったことを意識してしまうのよね。
あとさー
思ったのが、
画面を切り替えているときも止まっていて、
貼り付けの指示を出したのに、
即反応してなくてもう一回貼り付けしたら2つ貼り付けられちゃったりして、
それでまた2つは必要ないので1つ貼り付けた余計な分を消すと
もーそんなの意味なくない?って
やりたいことを手を動かしているのがハードがモタモタしていたら足かせになるわ手作業だけどね!
なので一応は3年ぐらい前に買ったタブレットだけど相変わらず今もサクサク動いているところは素晴らしいわ。
なんかディスっているわけでは無いんだけど
こーなるってーとじゃない方のタブレットが快適に動いて素晴らしいの。
写真を選びながら貼り付けてって、
絵心がない人が電子ペン買っても日ペンの美子ちゃん以外役に立たないと思っていたけれど、
タブレットに直接書き込めるのは
字の上手い下手はあるにせよ便利よ!
デジタルなのにアナログなことをやっていて何か矛盾している様な余地があるけれど、
でもこれって、
マウスとキーボードがあればそれ以外は必要ない!って過激な論を展開するほどの支持はしないものの、
まあそのマウスとキーボードは大切よねって少なからず思っていたけど、
こうもインプットしたものをアウトプットしやすくまとめやすいツールを実感してしまうと、
いままでのこう言うパソコンでの作業がー!って強く論じる過激な意見は言えんのよね。
つーかその新しいエコシステムに気付くべきだわ人類は!って思うぐらい。
ちゃんと快適に且つまともに動作して動くタブレットの如何に重要なイカ2貫以外にも重要なことが分かったわ。
タブレットってコンテンツの再生装置ばかりだと思っていたけれど、
まさに目から鱗が落ちるほどのほどよ!
それがないようにしていき活用したいと思うわ。
つーかこれみんな知ってて私だけ知らなかったら
それなんて浦島太郎さん?って思っちゃいなよ!って思うわよね。
うふふ。
ねつきいいキツネ
とは大違いよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ツイッター構文のクソデカ誇張大喜利映画感想と地獄のミサワと初カキコどもと感情のない自分に悲しくなるコピペのすべてを組み合わせて煮詰めたようなセンスとテンションで書かれた言葉がもてはやされバズりそれがさも当然であるかのような認識がまかり通ったりジョークとして成立すると思っているような空気にまるでついていけない
TRPGで若いときの時間を食い潰すなだのインプットがどうだのの話があるが、少人数でセッションを繰り返すことでこういったあくまでも"身内"だけでしか成立しないような内輪ノリが全世界で面白おかしく通じると勘違いしてそれを見直す機会がなく増長し続けることが一番の問題に感じる
ソシャゲ、掛け持ちするとだいたいこうなる→「マジでやるゲーム絞ったほうがいい」「ご利用は計画的に」体験談も語られる - Togetter
ソシャゲを掛け持ちする辛さを「時間も体力も足りなくてキツい」としか表現できないとは……
そしてそんな画像に「分かるわ~~」の声が集まるのが今のオタク。
俺が若い頃の2chではこんな書き込みじゃ全く相手にされなかったぞ。
ソシャゲを掛け持ちする辛さの本質は「自分の意思でゲームを楽しむために時間を使っていたはずなのに、言われるままにイベントを消費するだけの作業になることの辛さ」だろうが。
・大量のコンテンツが降ってきた時に嬉しい悲鳴ではなく本物の悲鳴が出てくる
・ゲーム同士の時間の取り合いに巻き込まれて各ゲームへの没頭度が下がる
・イベントをプレイ中に「はよ終われはよ終われ」と唱えだし、衝撃の急展開さえ「まだ続くのかよ……」という絶望として感じるようになった自分の感受性への失望
元々現代は飽食の時代が過ぎてあらゆるコンテンツが時間を奪い合ってるからスマホゲー以外でもこの現象は起きる。
4クールのアニメを見終わって「楽しかったけど、これ見る時間で1クール4つ、映画なら12本ぐらい見れたと思うとなんか勿体なかったな~~~」と感じるような時代だ。
スマホゲーはメインストーリーの第一部完了までを突貫工事で追いでもしない限りはタイパが絶望的に悪い。
そのタイパの悪さを「共に歩んできた時間が、何気ないラスボス戦を最高のグルメに変えるのだよ」と楽しめない人間はスマホゲーをやるべきじゃない。
やっても第一部最終章が実装されてからイベ全無視でメインストーリーだけやってアンインストールするべきだ。
ひたすらスタミナ薬を割りまくってガンガン物語を読み進め、5年かけて積み上げた物語を5日で読み終えるぐらいの気持ちでやるべきだ。
スマホゲーを「熱中しながら」「効率よく」「いくつも」遊ぶという条件を満たせるプレイスタイルはこれぐらいしかない。
そうでないならプレイするゲームを絞りまくり、自分の日常と一体化しきった人生の一部としてスマホゲーに向き合わなければいけない。
なあ、なんでこの程度の言語化も出来ないんだ?
読み返してみてしょーじきこんなのレスが貰える最低ラインとしか自分でも思わんのだが、なんでこの程度の言葉も発せず「時間がなくて辛い……」しか言わないんだ?
世の中ではフェミニズムを巡ったいろんな論争が起こる。
しかしあまりにも潔癖感がある呟きが増えているようで、おそらくこれは教育の敗北なのだろうと悟った。
作品に込められた想いを読み取ることができなくなった人が増えた。それはキャラクターからも滲み出るもので初期は絵本などで学習するわけだが、それもおそらく、ごんぎつねの絵でしか読み取ることができなくなっている。
フェミニズムもフェチズムも真の意味で理解して批判している人は殆ど居ないのではないだろうか。
そして海外の綺麗な部分だけに憧れて日本を否定する。アメリカで放送した日本のアニメはどれだけの同性愛キャラが存在を消されてきたのだろうか。
結局、Xで突発的にある批判でメディアにも取り沙汰されず失笑されるようなことしか言えない人は基本的な文学、作家を読まないでいるから浅い批判しかできなくなっているのだ。
もはや最近の批判は読むに値しない。日本に対して無知がすぎる。
だからこそ今一度、下記の文豪たちの本をしっかり教養としてインプットすべきだ。
三重交通に騒いでいる人は、そんなことはいいから一度本を読みなさい。
・川端康成
……え、どうしても本は読めない?
物凄く前向きに言うなら、「自分なりの文体を確立することに成功しすぎてしまっている」という状態に陥ってる。
自分流のパターンをこれ以上成長させられない壁に閉じ込められているような感覚。
何をどう書こうとしても同じようになってしまう。
ふと自分の書いた増田を「ブクマつきまってくんじゃん~~~」と読み直しているときに、ふと気づいてしまったわけだな。
「俺どれ書いても何書いても大体同じような文章じゃね?」ってことに。
まず軽口っぽい言い回しと「」の多様が特徴としてあるようなのでこれを封印すればいいのだろうが、そうすると急に文章力が下がるらしい。
小学生が書いたような極めて簡素でカタコト的な言い回しばかりになる。
そもそもの原因は俺のインプットがインターネットの軽口文化中心だからであり、これを解決したいならある程度硬い文章を読みまくれば良いわけだが、現代にはそういう文章が不足している。
ビジネス書だろうが学習書だろうが、「こういう新設がマチャチューチェッチュで証明されたっぽいのを知っていますか?」「猫さんありがとう!これなら僕にも出来そうだよ。とお猿さんは言いました」みたいなのばっかじゃねーかよぉおぉぉぉぉ。
当然のように小説なんて基本的には口語調でもうなんか地の文は登場人物の独白も同然の状態がスタンダードじゃねえか?
論文でさえもなんかちょっと語りかけてくるような言い方するじゃん?
俺は、文語調が、読みてえ!って主張してんだよ!