はてなキーワード: インタラクションとは
まだ第一部終わっていないけど、近作での不満点がすべて解消されたことに感動したので書く。
FEは暁の女神を最後に十年以上ずっと携帯機でリリースされてきた。その評価は概ね、SLGパートは練りこまれており携帯機の狭い画面でも遊びやすいUI、プレイをじゃ生しないゲームリズムではあるが、絵(グラフィック)とストーリーがいまいちというものであった。携帯機のスペック上どうしてもキャラクターモデルを用いたシーンは人形劇のようにチープになり、結果的に没入感が得られなかったのが原因だと思う。おそらくハードウェアの性能が足かせとなって製作陣が表現したい品質に達していないかったのだろう。しかし今、ようやくハードウェアの足かせが外れて携帯機で培ってきた遊びやすさと据え置き機のスペックを十分に生かしたストーリー表現を手に入れたのだ。
まだストーリの先、いつものFEのように悪竜を倒すのかトラキアのように人間の戦争になるのか、は分からないけどゲームの節々から作り込みが伝わってきて期待大である。つまるところついにストーリーに期待できるぞということだ。
FEというと歯ごたえのある難易度、パーマネントデス、そしてそれらの要素を盛り上げる魅力的な登場人物という評価であった。
古くは、話すコマンドによる会話とボスとの掛け合い、支援システム以後は支援レベル毎の仲間内での会話。このコミュニケーションスタイルは代を重ねる毎にキャラクターを掘り下げる方向へ発展していった。ただ、if(Echoesやっていない)あたりになると、コミュニケーション有りきの幕間パートとなっており、王道シリアスなストーリーとその幕間が乖離していた。例えばifではストーリーでどんな衝撃的な展開があっても(次元の間という設定の)拠点は平和そのものであり、仲間達も遊んだり風呂を楽しんだりしており呑気なものであった(個人的にこのマイキャッスルおよび子供世代による外伝というフォーマットは失敗していたと思う)。
つまりストーリー展開に対してキャラクターコミュニケーションの側面が機能不全を起こしていた。
だがしかし本作では学園という箱庭を極めて精密に作り上げることで、この不整合を完璧に解消したように感じる。主人公はクラスの担任であり、仲間は生徒や同僚である。彼らが週末の時間を各々好きなように過ごしているのは当然であり、話をしたり、お茶に誘うのも普通の学園生活で不自然さはない。例えばある食いしん坊筋肉バカは食堂や訓練場におり、動物好きで信仰にすがる少女は厩舎や聖堂で見かける(どのクラスを選んだのかバレバレの例)。キャラクターが自由に動ける空間を用意したことはキャラクターの掘り下げの面で素晴らしい決断だと思う。
個人的にハードウェアの性能向上により一番恩恵を受けた部分は世界観だと思う。今までFEはSLGパートがメインで、章の合間にストーリーが挟まるという感覚であった。魅力的なキャラクター達による群像劇というストーリーは一定の面白さはあったのだが、やはり世界は語られるものであり読むものであった。
しかし、学園という箱庭世界を用意し、プレイヤー自らその世界の要素へインタラクションをすることで、世界観に対する理解をぐんと深めることができるようになった。例えば今まで設定資料はメニューからただ読むだけであったが、本作では書庫まで足を運んでプレイヤーの分身が本を手に取る必要がある。例えば学園の様々なところで生徒や先生達が己が時間を過ごしているのを近くから遠くから眺め、話しかけることができる。世界観への没入度の深化により、魅力的なキャラクター達とストーリーの間を埋めることに成功したのが一番の改善点だと感じている。
実はこの路線はifのマイキャッスルですでにチャレンジされていた。しかしハードの制約があり中途半端なものになってしまっていた(自室に招くとか恥ずかしいしハラスメントだし…)。学園というしっかりとストーリーに裏付けされた舞台を与え、ハードウェアの性能を生かしてリッチな箱庭体験を用意する。それができて初めてストーリーとキャラクターの両輪が回り始めたのだ。
共同開発のコーエーの力かは分からないが、本作はとにかくテキストの語彙が格調高い。貴女、貴君などいわゆる古風(田舎風やロココ風の風)な言葉遣いではなく、本当に古い言い回しを多用する。三十年近く生きてきてそれなりに言葉を知っているつもりだったが「疾(と)く」はフルボイスで読まれるまで分からなかった。また言葉の使い分けも見事で、例えば三人の学級長だと歴史ある帝国の次期皇帝である皇女はそれはそれは帝王学を納めた口調であり、騎士の国の次期国王は力強く青年らしいが高潔な言葉遣いで、つかみ所のない同盟連邦の嫡子はくだけた話ぶりである。(歴史ゲームとか昔の小説でしかないような単語や読みが多くて、声優さん大変だったんだろうなーって思った。)
この確かな語彙に裏付けされた会話は、普段はテキスト速度をノーウェイにしてばしばし読み飛ばす自分も、つい自動送りで全部聞いてしまう魅力がある。
いまのところ全てのピースが完全に合致しているFEだと感じている。気になる点としては釣り用の餌が全然手に入らないところ。散策する毎に駆けずり回って餌を集めている。釣りがしたいよ。
お気に入りのキャラクターは、鼻持ちならない貴族で行動言動すべてが面白い愛されキャラのローレンツくん(ウォッチ対象)と青い長髪を持ちペガサスナイトまったなしの薄幸少女マリアンヌ(推し)です。
VR元年とは、HMDの民生品発売はもちろんやが、エポックはGTXが出たことで、最低限のVRインフラが民生品として出現したからこそと、UnityやUnRealというゲーミングフレームワークが速攻で対応したからこそやでな。
それからのVRは、一般人が目に見えるとこでは、PC方面はSteamがガバガバの開発窓口開放で、中国始めIT後進国がゴールドラッシュよろしくクソVRゲー(とも言えないデモにも及ばんレベル)を大量生産したことで、VR体験が最低最悪ならまだしも起動すらしなかった体験できない惨状が状態化したのと、PSVRはVRの必要の無いゲームかどうかも分からんコンテンツをクソ高い金払う罰ゲームやったからなあ。w
ほんまここ数年は俺も含めてご愁傷様としか言いようが無い被害状況が残念。
しかしVRというインフラ自体は、その間にもビジネスシーンにおいては高付加価値方面では開発現場でのコストや手間の削減、ひいては予算削減やリモート作業の完備として普及して行ってるし、低コスト方面ではVR動画での社員教育やコンセプト体験という体感コンテンツとして活用されて行ってるでな。
個人的にはVRはそもゲームで普及するには時期尚早、無理が多すぎると思ってる。ゲームっちゅうのはどこまでも日進月歩でパフォーマンスを必要としてるし。RTXが出てすらリアルタイムレイトレーシングとか新技術でそのパフォーマンスもあっというまに食い潰されてるからな。
しかしVRとはCGでありインタラクションであり、分かりやすいニーズとしてVR元年当初からゲームこそが最適解であったし、それで認知を高めていくしか無い程に「あー、VRね、知ってる」という認識が実際のVR体験と大きく乖離しているという現実こそ問題であり、現状その問題を解消できないままだからこその「オワコン扱い」というのがもどかしい訳でな。
まあまだまだCPUもGPUも、デバイスの解像度も重量もサイズも必要に不足しすぎてるし、5年前のゲームクオリティレベルですらパフォーマンス求めりゃあ現在の最高級ゲーミングPCでも足りん、何作るにしても360度きっちり作り込まんとあかんし、金&技術バカ食いインフラやからなあ。
現状はまだまだ知識&スキル&創意工夫が必要やが、それさえセルフでなんとかできるんやったなら、仕事もゲームも気分転換も、人類史上全くの未経験を日常的に楽しめるようになってる現在はほんま素晴らしく未来やで。
そうした苦労をせずにお気軽に楽しむには残念ながらまだ数年を要するっぽいが、それまでは過渡期のAR、MRの方が楽しめたりするからまあそれらで遊びながら気を長くして待っとけばいいと思うで。
もちろん金積んでその筋の人探して頼めば現時点でも叶うやでな。
話し合ってもどうにもならないよ。
何を求めて話し合うの?奥様があなたの思い通りに行動してくれるよう説得するの?それとも、奥様と話し合うことによってあなたが納得できる理由を探すの?
どちらも無理だし、それが進むとモラハラになるよ。
あなたの感じ方が変わったんだかから、根本的な原因はあなたにあるんでしょ?あなたの気持ちが変わったからっていって相手を変えるの?何様?
ルー大柴みたいな書き方になるけどごめん。
自分でも言ってるけど、「元々許せなかった」んじゃなくて「許せなくなった」んでしょ。
それすなわち、あなたの奥様に対する「expectation(期待値)」が変わったってことでしょ。
奥様がしたことが、あなたの期待したこととずれてるからフラストレーションが溜まる。そしてあなたの奥様に対する期待値が何故か過去と変わってしまった。
これは、あなたの人生のタイミングだったり、仕事の状況だったり、能力の発達によって変わってくるから、別に悪いことじゃない。けど、ちゃんと自分でマネージしたほうがいいと思う。
仕事でも部下とか一緒に仕事してる人にイライラしちゃうことない?自分のほうが仕事ができると、いい年して仕事ができない相手にイライラしちゃうことがある。そんな感じ。
行き過ぎるとまじでモラハラ男になるし、今後子供ができるならその教育上もよくない。
自分でマネージするコツは、ちゃんとイライラが「自分の期待値と相手の行動が違ったことからくる」という点に着目して、まずはその期待値を可能な限り下げることから始めればいいと思う。
実際は、期待値を下げた上で自分の「譲れる所」と「譲れない所」を決めて話をすればいいと思うけど、その状態だと自分を正当化しがちだからとりあえず期待値を下げたらいい。
更にいうと、他人とのインタラクションの間で「譲れない所」なんて本当はほとんどあってはいけない。それは相手を尊重できていない証拠だし、嫌な所が慢性的にいっぱいあるならそもそも合ってないから、暴言を吐く前にその人と関わるべきではない。今は結婚してるんだから、本来はあってるよ。そこは自信を持っていいと思う。
往々にして「譲れない所」はモラル的な話に帰着するからそこは自分でたどり着けばいいと思う。
失敗すると離婚するよ。頑張って。
https://anond.hatelabo.jp/20190116002617
長くて切れてたwトラバでも長いとか煽られるしwww糞糞糞糞
では続きです。
一番肝心の話。スーパークリエイターでない人間が独立して売上をあげるにはどうするのがよいかという話を少し。
まあ俺も大して稼いでないのででかいことは言えない。というか反省からの知見という意味合いもある。
「Web系で独立開業するなら、会社員時代にめっちゃ仕事頑張って同僚およびクライアントに名前売っとけ」
これに尽きる。
独立したとき一番頼りになるクライアント候補は、会社員時代に在籍した会社だ。お互い仕事ぶりも人となりもわかっているのでローリスクで受発注できる。お前がすげー頑張ってたなら応援の意味で仕事くれるし、そこでまたいい仕事すれば安定顧客になる。だから円満退社は絶対条件だ。クライアントにしてもしかり。ある程度実績を積んでくるとクライアントとの雑談の中で「○○さん独立しないんですか?」などと、独立したら仕事出しますよ的なことを暗に言ってくるケースがある。真に受けすぎると危険だけど、そういうクライアントが複数あるならば、ある程度自信を持っていい。
「複数の制作会社を渡り歩いて上記の売り込みプロセスを繰り返せ」
たとえば最初の会社に3年、みっちり働いて力をつける。次の会社で3年、次は4年という具合に10年のキャリアを3社で積めば、超優良安定クライアントを3社確保できることになる。俺はこれをしなかったことを後悔している。1社に長く居すぎて、それはもちろん貴重な経験になったのだが、クライアントの幅、仕事の幅が限られたものになってしまった。どこかのクライアントがこけた場合のリスクヘッジという意味でも望ましくない。
なので3社くらい渡りあるいて、そのすべてで「こいつは使える奴だ」という評価をゲットして、辞めた会社の同僚などとも良好な関係をキープしておいて、満を持してフリーランスになる。同僚たちもそれぞれ転職や出世などで各自仕事の幅を広げているはずなので、その中で、最初は細い細い糸だったものが、あるタイミングで太くなったりする。
数名レベルの小さな制作会社でも全然構わない。各社で5名繋がっておけば3社渡り歩いて15名、その5名がそれぞれ細い糸を5本持っていればそれだけで75本の糸になる。それプラス、クライアント方面の繋がりも同じだけあれば、リスクヘッジとしては十分だ。あとは自分の実力次第。大事なのは「1次繋がりとなる各社の同僚5名」がお前のことを評価してくれているということだ。そこがしっかりしてれば別に5名にこだわる必要はない。そっから先の2次、3次繋がりは自動的につながっていく。評判とはそういうものだ。
逆に1次繋がりが100人、200人いても薄い繋がりなら役にたたない。多くの名刺交換会や異業種交流会が無意味なのはこれが理由だ。もうひとつ、1次繋がりは太く濃いものでなければならないが、これは別に飲んだり遊んだりしてウェイウェイやれという意味ではない。そんなのはおまけで、肝心なのは「仕事の評価」だ。「こいつに任せれば○○に関しては安心」の「○○」を広く・深くしていこう。
昨今のフリーランス云々、社畜云々の話で俺が一番危険だと思うのは、なんか学校出てすぐフリーランスになれ!みたいなノリだな。
そういうのでワンチャンある業種、職種っつーのは実際あるとは思うが、クリエイター系の受託で食っていきたいならまずは制作会社や広告代理店に入ったほうがいい。理由は前述のとおりで人脈が超重要だからだ。会社員不適合の俺ですらそう思うのだから間違いない。
事業会社はどうかな。制作の一連の流れをカバーできないなら、すくなくとも最初は事業会社は避けたほうがいいかもしれない。ビジネス要件からデザインやレイアウトのコンセプトを立てて、デザインに落とし込み、HTML/CSSを組む、んでjsでインタラクションをつける・・・までひととおり出来る方がいいと思ってるのだが、まあこれは俺のような古い人間特有の考え方かもしれない。全部わかった上で「現場がわかって手も動かせるイケてるクリエイティブディレクター」として事業会社のしかるべきポジションに収まるならすごくいいと思う。
とにかくクリエイターになろうとする人間なら間違っても「社畜乙wwwフリーランス最高www」みたいな意識高い系()の態度は真似しちゃダメだぞ。そういうのを横目に地道にスキルを磨いて実績積んで認められる。これしかないです。それができればそこそこ安定した収入、自由な働き方、充実したワークライフバランスの素敵なフリーランス生活を遅れるよ。
ニュース / コメント / コメントへのコメント という3段構造(評価ボタンは今回はスルー)だ。元ニュースは配信元が決まっている。
ニュース / ブクマ & タグ付け という構造(こちらもスターはスルー)だが、ニュース自体はユーザーのはてブ数によってチョイスされる。
Yahooニュースには、個人ブログや増田の記事、個人のツイートやTogetter が登場しないのがポイントだ。
はてブの場合、上でも書いた通りユーザーがチョイスすれば何でも表示される仕様なので、個人ブログやココのページが取り上げられる。
それらのページは、往往にしてニュースや元ネタに対する評価、批判(メタ視点)だったりする。
そして、それに対してはてブがたくさん着けば、そこに対してまた評価・批判(メタ視点)のブログや増田が書かれ...のループが発生する構造になっている。
はてブ数を媒介として、メタ視点が連鎖しやすいところが、はてなの特徴と言える。
はてなはこの傾向と相まってPVを稼いでいると思われる。Yahooの場合も、プロによる評論記事見たいのあるが、それも基本単発でユーザーとのインタラクションもそんなないだろう。
これは単純に、知恵遅れはメタコミュニケーション苦手なんだと思っている。
評価軸を与えるような視点を嫌う人間が一定数いるのは、経験的に理解してもらえると思ってるんだけど、どう?
逆に、感情むき出しのコミュニケーション嫌う人も一定数いるよな。
この大きく分けて二つの種族が、Yahooの里とはてなの山に別れて暮らしているんだと思う。
ところどころ雑だとは思うんだけど、だいたいこんなもんだ。
HTML/CSSはリファレンスなしで書けるし、WAI-ARIAを用いたアクセシブルなコーディングもできる。
CSS設計を意識して保守性を大切にしたコードを書いているし、CSSアニメーションでインタラクションも操作できる。
SVGを一から書く方法やいくつものブレイクポイントを持ったページのコーディングスキルも身につけた。
Gitでバージョン管理をしたり、モジュールバンドラーやタスクランナーでscssのコンパイルやリントを通したりする能力も得た。
インプットが大好きで、毎日毎日様々なWebに関する知識を頭に詰め込んだ。
だけどJavaScriptは書けない。
JQueryをコピペして簡単なDOM操作を行うのが限界だった。
然しながら、昨今のフロントエンドエンジニアはJavaScriptが書けて当たり前だし、
各種JSフレームワークやWeb Assembly、Web Componentsを使いこなして開発している。
SSG, SSRが主流のこの時代、生のHTMLを書いているような人種は淘汰され、
バーティカルリズムや余白設計、配色理論を意識した整ったレイアウトをXDやIllustratorで作れるようになった。
でも「整った・整然としたレイアウト」は作れても、その先に進むことはできなかった。
だけど、藻掻き続けても道が拓けない。
もうこの先、どのように歩み進めればいいのかもわからない。
助けて欲しい。
何者にもなれない自分は嫌だ。
すでに学生でもないのになぜこの件について書いているか自分でも分からないが、例の穏便でない大学教授の発言にブーストされた感がある。
まず前提として、ID/パスワードを用いてスクレイピングを行うサービスそのものは、特殊というほどではない。そのようなサービスはすでにいくつも存在するし、最も有名なところでは口座アグリゲーションサービス(MoneyForward等)だ。彼らは業としてそのようなサービスをおこなっている。セキュリティのこと少しでもわかる人間ならそんなサービスやらない、というほどでもない。ただし、セキュリティが分かる人間であればあるほど慎重になる、というのは確かではある。通常ID/パスワードを渡すということは、全権委任とおなじだ。また、ログイン後の行動について、自分がやったか第三者がやったか、全く判別できない状況になる。さらに通常のWebセッションと同等だとすると、パスワードリセットから完全なアカウント乗っ取りまであり得る。つまり、サービス事業者に対してよほど強い信頼関係がなければ厳しい、ということになる。
クラウド上で動いているかスマホ上で動いているか、という話は、それほどは重要ではない。クラウドにしろスマホアプリにしろ、すべてサービス事業者側の組んだプログラムの意図に従って動くものであることは確かだからだ。
ただしクラウド上ではユーザが想定していない動作を行っているのかどうかという検証しにくいという問題があるとはいえる。とはいえユーザが予め意図した行動から外れることをしてないのであれば、クラウドからのアクセスでも別にそれは問題ないわけで、その点で、Orario側の主張である「スマホで動かしているのだから」という主張は、ちょっと見当はずれではある。
なお、ユーザインタラクションを介さない自動的なアクセス自体がサービス要件に含まれる場合、スマホでは厳しいためクラウドにアクセス主体が置かれる、というのは、まああり得る。口座アグリゲーションはその典型的なものだろう。Orarioの場合は、たぶんその必要はないのだと思う。
正規の手段として学認があるのになぜしない?という主張は、マジでひどいと思う。普通に考えて、ぼっと出の1ベンチャーがトラストサークルに加えてもらえると思っているのか。このような主張は、Google/Facebookレベルに自由にAPIクライアントの登録ができるようになっていて、初めて言えるものだろう。通常は、世に受け入れられるサービスが出て初めて実行力を認めてもらえる、にわとりたまごの話ではないのか。そもそも、学認のShibboleth仕様で、そのような履修情報のやりとりがそもそもできるようになっているのか疑わしい。ホントはSSOできるだけではないのか?
大学側にお伺いを立てるべき、という筋論は、そりゃそうかもしれないけど、やっぱりにわとりたまごだと思う。ビジネスの筋論っていうやつは、内輪だけの論理になっている場合が多いし、正直ステークホルダーは既得権益側だったりするわけで、話が通じるとは思えない。そのようなものを破壊していくのは常に外部からだろうし、それを単なる破壊行為ではなくDisruptionにできるのは唯一ユーザからの支持であるわけだけど、Orarioは最低限そこはできていたようにもみえる。例の教授はどうも内側のメンバーの感じがひしひしと出ており、傍目から見ると、そりゃそのポジションじゃあね感が強い。
事業モデルがわからないから怪しい、事業が成り立つとしたら収集したデータの第三者への販売ぐらいしかないはずだ、という主張は、気持ちはわかるものの論理として弱い。怪しいサービスに預けるな、というのは、意見の表明ではあるかもしれないが、普遍的に怪しさを証明するには根拠が足りていない。利用規約レベルではまだなんとでもいえる。逆に言うと、Orario側は、そういう色が少しでもあったのでは?と思わせるような内容を否定してさえいけば、その点では勝てるが、やっぱりそこは何らかの形で検討して行きたかったのでは、とも思えるので、そういう将来の自分たちを制限することはことはあまりやりたくないだろうなとは思う。
結論を言うと、とりあえず大学側はもうすこしトーンを落としてほしい。このままではFUDだといわれても仕方ない。単位云々の脅しは傲慢以外の何物でもない。少なくとも卒業生にとってそのような大学にいたことを恥じるレベルである。嫌なのは分かるが、銀行とかだってそうだったはずだ。もうすこし長い目で見てあげられないのか。ID/パスワードを預けることのユーザへの注意喚起は、もちろん正当だが、それを認識して預けていることについてとやかく言うことは得策でない。
そして、Orario側は、自分たちがやっているサービスの説明に少し時間を割いてもいいと思う。特に何をどのように取得しているのか、明確にすることは重要だ。大半のユーザたちはそういうこと気にしないとしても、自分たち自身が自分たちのサービスを定義するのに役に立つし、今はEvilでなかったとしてもいつかEvilになってしまうのを防ぐという意味合いもある。面倒かもしれないが、取得範囲を明確にすることは信頼を得るということであり、最終的にユーザの獲得に寄与するだろう。
基本的にはこれまでの各種オープンワールドゲームを良く研究したうえで良いとこ取りをした総集編みたいな感じではありますね。
その上で、誰もが思いついたであろうが、調整やマップデザイン、ゲーム進行上の都合で実現できなかったであろう「ほぼどこでも壁登り」をゲームメカニクスの前提としたうえで、マップデザインから、各種 POI の配置まで再構築し、しかも滅茶苦茶高いレベルでやりきっているところがエポックだなーと感じます。
単にシステム的にどこでも登れるようにしただけでは、デバッグモードで遊んでるようなもので、攻略もクソもなくむしろ面白さを削いでしまう結果にすらなりかねないと思うんだけど、それを恐らく「300人での通しプレイ」を通じて、徹底的に磨き上げたんだろうなあ。
かつて時オカで、初めてエポナに乗ってハイラル平原を駆け回った時、ただ馬に乗って走り回っているだけなのに何でこんなに楽しく気持ちいいんだ!と感動したものだけど、今作では起伏に富んだフィールドをうろちょろしているだけでもなんかアスレチック的な楽しさがあって、意味もなくあっちを登っちゃこっちを登っちゃしたくなる。地形とのインタラクションのレベルが尋常じゃない。
マリオもクリボーとかノコノコとか敵も出てきますが、実は8割くらいはあれ、地形とのインタラクションですよね。敵の存在は、そこに加わるスパイス的なものというか。やっぱりファミコンの時代からそこを長年やっているという地力の部分が、出てるのかなあーと思います。
(グラビティデイズとかも、重力を操ってどのようにでも動けるのって、システム的には目新しいんだけど、「新感覚」レベル止まりと言うか、ギミックどまりというか、マリオ64に感じたような、動かしてるだけでなんかわからんけどとにかく楽しい!というところまで到達してなかったなー、って余談)
これを一回体験しちゃうと、例えば Fallout の移動とか、非常に平坦な "作業" で、なんてダルいんだと感じてしまうのではないだろうか。(いや、Fallout は好きですよ!)
今作を持ってアクション系オープンワールドの水準は完全に一段上がってしまったので、これからこのジャンルのものを開発するデベロッパーは、かなりしんどいんじゃないかなあ。しかもそれが、単にシステム的に真似ればいいってものじゃないところがまた大変。がんばれがんばれー!
褒めるばかりではアレなので要望も書いておくと、ウチでは Switch 入手できなかったんで Wii U 版やってますが、セーブがアカウントごとに1つってのがね、めんどくさい。俺もカミさんも子供たちもみんなゼルダハマってるので、交代するときにイチイチ Wii U 本体のアカウント切り替えまで戻るの、すごいダルいんですよ!
アカウント切り替え後にまたソフトを起動するのでロードが入って、コレの待ち時間がもう全くのムダ! 普通にセーブデータ複数作れるようにしてくれれば、タイトルに戻って自分のセーブデータをロードするだけで済むはずなのにさあ!
任天堂はわりと 3DS なんかでもセーブ1コだけってのが多い (ポケモンとかな) ので、この辺はホントどうにかして欲しいなと常々思っております。
あと Switch 版と Wii U 版あるので、欲を言えばソニー的なクロスセーブ的な仕組みもあったら嬉しかったですね。いやまあ Switch 自体が据置であり携帯機であるので、PS4/Vita のような役割分担にはならないんだけども、今もう Wii U 版で始めちゃってるので、あとで Switch 入手できても移行できないなーって。Wii U → Switch への一方向引継ぎだけでもあったら嬉しかったなあ。まあ完全に個人的かつ贅沢な要望ですが。
31歳、WEB博物館の学芸員。大学の専攻はソフトウェア考古学。
行ったことのない人のために説明しておくと、WEB博物館はWEB150年周年を記念して設立された博物館で、WEBの歴史を振り返るとともに
各時代のサイトのデザインやインタラクションを体験できる日本唯一の博物館。古くは平面ディスプレイでのWEBページから、主流の空間型3次元MRの流れを体験できることが売りなんだけど、
まだ2010年~2020年代の展示が用意できていない。暫定的に、展示パネルでスクリーンショットを展示している。
この展示の担当者は俺。正直な所、ちゃんとした展示が開始できる見込みは立っていない。というのも、ソースコードはあるけれど、当時の技術背景がはっきりしないため、サイトを動かすことが全くできないためだ。
今時、平面ディスプレイなんて骨董品屋に行かないとお目にかかれないが、なぜか自宅の地下に眠っていた。
りんごのマークが描かれた物理キーボード搭載の、所謂ノートパソコンってやつ。金属ボディでかつ核シェルターに入ってたので、核戦争の時のEMPにやられずにかろうじて残っていたみたい。これを高校生の時に見つけて以来、徐々に二次元派になっていった。レトロPCマニアという区分の人間だ。
当時のソフトウェアを発掘、解析していくうちに、古い技術のソースコードを集めるのが趣味となり、大学ではソフトウェア考古学を専攻した。
大学時代にやってたことは、未処理地区に入ってストレージを発掘、残っている当時のソフトウェアを解析、当時のものを修復・復元などだ。
ここでは研究員がそれぞれの時代のWEB技術で作られた製作物を復元するプロジェクトに携わっていた。
で、俺の担当が暗黒の時代と言われた2010年~2020年代だった。
ソースコードは、骨董家から譲ってもらった。当時のサーバーやクラウドサービスは核戦争でほぼデータ消失しており、100年以上前のソースコードなんて絶望的だったが、ある企業が当時の中国のハッカー集団に抜かれたソースコードを保存していたストレージがたまたま現存していた。
開発に使われたJavaScriptという言語は、AIの解析によってバージョンが判明し、なんとか仕様が分かった。大学で近代プログラミング言語史の授業を取っておいてよかった。
とにかく、この時代はフロントエンドの開発環境の移り変わりが激しく、それぞれのパッケージが使われていた期間がとても短く、バージョンも多様に渡ることから、正解のパッケージが現存していない。
この時代は、まだIT教育がほとんどされていなかった時代でもあり、ソフトウェアエンジニアはほとんど独学で技術を身につけるのが普通で、そのためソフトウェアに対する価値観が多様であった。どんどん新しいパッケージが開発、公開され、そのため開発環境の移り変わりはとても激しく、特にフロントエンドは1~2年でガラリと変わっていたようだ。
すると、1~2年しか使われなかったパッケージなんて入っているピンポイントな生存ストレージなんか見つかるはずもなく、全然開発環境の復元が進まない。
別バージョンのパッケージが見つかることもたまにはあるので、それで代用を試みるけど、エラー文が多すぎてほとんど使えない。
ロール (役割) 制やヘイト管理はやや窮屈だったが、仕掛けへの対策を考えながら攻略していく感じは楽しかった。
ストーリーはそんなに悪くないのだが、クエスト自体は非常に退屈。
クエストマーカーへの移動、雑魚の殲滅くらいしかパターンがなく、判断や技量を要求される場面が存在しない。
ストーリー進行の合間には時間稼ぎのための無意味なクエストが大量に挿入されており、さすがに途中から会話はスキップするようになった。
RPGでお使いクエストは仕方がないとしても、仲間NPCとの打ち合わせのために何十回も僻地に呼び出されるのはどうにかしている。
雑魚敵のAIは1種類しかない (PCにまっすぐ接近し、静止して攻撃を繰り返す) ので、プレイヤーのすることはたまの範囲攻撃を避ける以外は攻撃スキルを連打するだけ。
フレンドと4人プレイだったためコンテンツファイインダーを使い残りのメンバーを募集したところ、揃ってラスボス戦を締め出されるはめになった。
特にマナーの悪いプレイヤーと当たったわけではなく、よくあることらしい。
大筋は悪くないと思うんだけど、メンバー間で助けあうというよりはお互いのミスの尻拭いをさせられている感じ。
「敵の攻撃でPC1が窮地に陥ったけどPC2の助けでリカバリできた」というパターンではなく、「アタッカーが攻撃対象を間違えたのでヘイトが分散してタンクが被タゲを維持できなくなり、被ダメージが増えてヒーラーの負担が増す」とかそんな感じ。
敵キャラに対処するための情報は敵モーションからでなく主に床の範囲攻撃予告表示から得られるため、プレイしていると光る床を避けるゲームをやっている気がしてくる。
自分の場合はフレンドとプレイ出来たので、なんだかんだで楽しくはあったが、野良で進めるとしたらいまいちだっただろうなあとは思う。
civBG(『シドマイヤーズ シヴィライゼーション:ボードゲーム』の略称。日本語版公式サイトはこちら:http://hobbyjapan.co.jp/civ/)において「自分が勝つ可能性は消えたが、他の誰かを勝てなくさせることは出来る」という状況がしばしば発生するのは、プレー経験がある方なら大抵同意して貰えるものと思う。
実際には大小様々な例があるが、最も典型的かつ極端で、かつ厄介なのは以下のような状況だろう。
A,B,C,Dの4人で対戦。
Aは軍備を放棄して経済勝利一直線。手に入れた文化も全て活版印刷でコインに変換し、文化カードも一切引かないという戦略を採る。
それを見たBがAの勝利を阻止すべく、Bの首都に軍隊を差し向ける。
ところがAは一切軍備を行わず、他のプレーヤーCとDに「このまま私は一切軍備をしない。でもこのままだと私の首都が落とされて我々は全員敗北する。それが嫌なら私を全力で支援しろ」と要請する。
何もしないとCとDは負けてしまうので、仕方なくAに文化カードや資源を送り続けて支援する。
その結果、支援が足りて耐えたために全力疾走したお陰でAが経済勝利した。
A「わーい!勝ったー!」
いや、少し質問を変えよう。「CとDにとって、このゲームは楽しいだろうか?」
.
自分がAを支援すればBが勝てなくなりAが勝つ。支援しなければAが勝てなくなりBが勝つ。
また、支援しようがしまいが、全力疾走しているAより早く勝利条件を達成するのは困難であり、自分は勝てない。
出来ることは、ただ「敗者が誰になるかを選ぶ」だけである(この場合は、結果として勝者も選んでいるが)。
.
この問題はかなり根深い。少なくとも
という条件がある限り、この状況は容易には覆らないように思える。
勿論「そういう自分勝手なのは禁止な!」という紳士協定を結ぶ、などといった対策が出来ないことはない。
しかし、このゲームは大なり小なり「他人は放置して全力疾走したほうが早い」という側面があるため、結局は程度問題となり、根本的な解決にはならない。
全員が他人を放置して全力疾走すればいい?それも一案だ。しかしそれではただのソロプレー合戦になってしまう。対人戦での醍醐味である、他人とのインタラクションが激減してしまう。
一体どうすればいいのだろうか?
.
ここで筆者が提案するのは「チーム戦の導入」である。
これだけで、前述したような「敗者選択」をさせられることはなくなる。
Aとチームを組むCは全力で支援するのが自らの勝利に繋がるので意味がある(※1)し、Dは当然Aを支援しない(むしろBを支援する)。
また、チームを跨いだ交渉が無くなってしまうかというと、そうでもないだろう。条件次第では取引は成立し得る(※2)。
.
「敗者選択」しか出来なくなってプレーを続ける時間は、私は楽しくないと思う。
ただでさえ1ゲームが長時間になりがちなcivBGでは尚更である。
もし、敗者選択に辟易した方がいるのであれば、この「チーム戦」のアイデアを導入してみることを提案する。
.
.
※1:「サポートプレーを強制されるのは楽しくない!」という意見もあろうかと思うが、それはチームとして同意を取ればいい話であって、もしチームとして同意を取れないような相手が一緒に卓を囲んでいるのであれば、多分チーム戦をやろうが個人戦をやろうがこの問題は回避出来ない。
※2:そもそも、普段は「全員が敵」という条件下でも取引が成立しているわけで、チーム戦になったらからといっていきなり「有り得ない選択肢」に成り下がるわけではないだろう(優先度は落ちるかも知れないが)。
.
追記:誤解の余地があったようなので補足。冒頭の例において、Aは「交渉の余地が無いプレーヤー」だとする。すなわち、交渉材料には「自身の敗北回避」しか出さず、自身の勝利を遅くする交渉には一切応じないプレーヤーだとする。
1日に数回更新をチェックしてしまうほど、楽しみにしているネット上のある種の「コンテンツ」がある。
それは現在のところは、限られた人々によってのみ消費されていて、衆目に晒されていない。
(他のネットコミュニティに比べれば)情報強者の多いはてな民ですら、『ソレ』について言及したりブクマしたりしているのをほとんど見たことがないから、マイナーと言っても差支えないだろう。
だが、それは確実に、数万・数十万単位の人々に消費されても不思議ではない『面白み』を持っている。ポテンシャルと言い換えてもいい。適切なメディアによって適切な紹介がされれば、たくさんの人々が『ソコ』に集まって、『ソレ』について多くのことを語り合い、TwitterやFacebookでそのニュースが拡散されるだろう。ニコニコ動画には『ソレ』についての動画が大量にアップされ、ゲーム実況や歌ってみたレベルの一大コンテンツとしての地位を築くに違いない。これは俺の思い込みでは断じてない。今の状況は、本当に先述した予想を裏付けるのに十分なのだ。
そんなに面白いなら何で瞬時に広まらないのか、おかしいじゃないか、という意見はもっともなのだが、実は一般的な人々が『ソレ』にアクセスするには、飛び越さねばならない、ある『壁』がある。
俺はその『壁』を飛び越える方法をたまたま所持していたため、そのコンテンツを100%とは言わないまでも享受することができている。しかしその壁は、一般的な人々もその気になれば飛び越せる程度の高さである。一端大々的にその存在が知られてしまえば、その壁は悠々と壊されて、玉石混交の『消費者』たちがそのコミュニティに土足で上がり込むことになるだろう。
だから、俺は『ソレ』が衆目に晒されることを望まない。
ソレについて、まとめブログが話題にし、優に2,300を越えるはてブがつき、ネットに触れていれば一度は名前を聞くようになる、そういう状況を望まない。
そうなれば、『彼ら』には少数ながらも心ない言葉が投げつけられ、素直な『彼ら』はその一つ一つに丁寧に反応してしまうだろう。
そしてやがて、彼らはそんな不毛なコミュニケーションに疲れてしまい、そもそもの活動自体をやめてしまう可能性だってある。
俺は本当に『ソレ』を見たり聴いたり読んだりすることを大切に思っていて、そのコンテンツに関わる人々の人格や、彼ら同士のインタラクションを愛している。
だからこそ、多くの人にそれについて知られたくない。
好きなマイナーロックバンドがMステに出るようになったら嫌だ、という心理にも似ているかもしれない。
有吉の有名な言葉に『有名になるということはバカに見つかること』というものがあるが、俺はこの愛すべきコンテンツが『バカに見つかって』欲しくないのだ。それは考えただけで寒気のする、すごくいやなことなのだ。
だが、そのコミュニティもしくはコンテンツはココ数年で、一度火が付けば大々的に爆発してしまうほどに成熟している。
いつかは見つかって、心ない人々が彼らの心を傷つけるのは避けられないことなのかもしれない。
その日が今からできるだけ遠くなることを祈るばかりだ。
追記:
絶対来ると思ってた反応に返答。
だったら、ひたすら何も言わない方がいいのでは?
全く正論なんだけど、実際知られたら楽しいことになるのかなという期待もなきにしもあらずだから、ジレンマなんだよね。(もちろんバカに見つかる恐怖の方が何倍も大きい)
佐賀県武雄市が市のホームページを廃止し、Facebookページに移行したのは去年の8月のことだ。
ソーシャルメディアを活用した先進的な取り組みとして賞賛される一方で、本当に市民サービスにつながるのかという懐疑の声も多かった。
今回、Facebookへの移行に関する分析レポートが発表された。
武雄市が市のホームページをFacebookページに移設した目的は、以下の4つだそうだ。
1.市職員と市民がコミュニケーションを取る機会を設け、両者をつなげていく。(インタラクション性)
2.市の活動や施策などの情報を、素早く発信し、市民に限らず広く拡散する(拡散性)
3.SNSを使って広く誰でも見せることで「常につながっている」ということを意識させ、職務に対する意識も向上させる。(職員の意識の向上)
「武雄市民に対する市民サービスの向上を目的としてFacebookを活用する」と理解してよさそうだ。
「ホームページからFacebookへ移行した事で市民サービスが向上しているかどうか」は何を基準に判断するのだろうか。
レポートでは、コメントと「いいね!」とシェアの数を合計した「インタラクション数」を測定していて、「インタラクション数が多い」=「市職員と市民のコミュニケーションが活性化している」と定義している。
月平均1万件以上のインタラクション(反応・声)が発生しており、応援メッセージやいいね!の数で、どのような施策が評価されているのかの一つの指標を持てたという評価がされている。
つまり、Facebookに移行したことで、いままでは聞くことができなかった市民の声や反応を月平均1万件以上聞くことが出来るようになった上に、市の施策がどう評価されているかまでも把握することができるようになったというのだ。
では、本当に市民とのコミュニケーションがとれているかを検証してみよう。
レポートでは、市民向け情報提供の成功例として、2012年2月の水道管凍結に関する注意情報が挙げられている。
実際のウォールのイメージとともに、『こうした情報は、ホームページでは市民が見に行かないと行き届かず、「いつも情報ありがとう」「シェアします」といった感謝のコメントが続いて発生していた。』とキャプションが付けられている。
では、6件のコメントを一つ一つ見てみよう。
「鹿児島の今朝大変な事態になりました」
と、武雄市民ではなさそうな方々のコメントが4件続いていて、市民の方とおもわれるコメントは
「いつも情報ありがとうございます。はい気をつけます!」
の1件だった。
ちなみに、残りの1件は武雄市役所からの内容訂正(ウォールに書き込んだ水道課の電話番号が間違っていた!)のコメントである。
市役所からのウォール投稿数は月100件以上にのぼるとのことなので、市民向けの暮らしに役立つ情報も数多く提供されていると思うのだが、その中から成功例として選んだものがこの調子で、本当に成功していると言えるのだろうか。
ひょっとしたら鹿児島や名古屋に出張中の武雄市民の方がコメントしたのかも!と思い、ウォールで当該の投稿を探したが、確認することができなかった。
残念ながら本当に情報提供がされていたのかどうかも確認できない状況である。
その他の成功例も見てみよう。
武雄市ではFacebookを通じて積極的に意見募集も行っているようだ。
レポートには2012年3月に投稿された食育の計画案に対する意見募集の投稿が紹介されていて、『ファンからはコメント付きで友達に広める目的とみられる「シェア」3件が実行されていた。』と書かれている。
実際に投稿を確認してみると、3件のうち2件は武雄市民以外によるシェアで、残る1件は市職員自らシェアしているものだった。
ただ、コメントやシェアは心理的なハードルがあるのは事実であり、気軽に同意を示すことができるものとして、いいね!がある。
武雄市が指標としているインタラクション数にも、いいね!が含まれているため、いいね!の数が重要になりそうだ。
食育の計画案にも、100件以上のいいね!がついており、一見武雄市民に評価されていると判断できそうだ。
実際にこの投稿にいいね!を押している人の属性を分析してみた。
武雄市職員 | 13% |
武雄市民 | 7% |
上記以外 | 80% |
なんと、いいね!を押している人の8割は武雄市の食育に関係なさそうな人だった。
その次に多いのは、なんと武雄市職員で、武雄市民は7%しかいないのだ。
ただ、食育への取り組みは武雄市民以外にも興味を持つ人が多いテーマであるため、武雄市の先進的な取り組みが全国的に評価されている可能性がある。
より正確に分析するには、武雄市民及び近隣の方に特化したテーマについても調べる必要があるだろう。
ほぼ同じ100件以上のいいね!がついている「楼門朝市5周年感謝祭」についても、属性を分析してみた。
武雄市職員 | 30% |
武雄市民 | 13% |
上記以外 | 57% |
このレポート(というか広告)の通りに、武雄市がインタラクション=市民の声として受け止めているのであれば、かなり危険な状況である。
かといって、いまさら何の参考にもしていないという訳にもいかないだろう。
4月からは武雄市の全職員400名がFacebookのアカウントを持つのだという。
民間企業では上司の投稿に、部下たちが我先にといいね!をつける行為が今も行われている。
別に民間企業がやるのは害は無いが、自治体が「いいね!」で仕事をやってどうするのだ。
僕の住む自治体が間違ってこんなことに税金を使ってしまうと困るので、武雄市民の方には悪いけど「民意を聞いてるごっこ」は武雄市だけでやってほしい。
だいぶ前に書いた自分のエントリが忘れた頃にRTされてくるとは思わなかった。
いくつか指摘されている事項についてのコメントは以下のとおり。
ご丁寧に「移行を行った会社」の社長から、「武雄市の求める効果の最大化が目的で動いてるのだから筋違いな指摘だ」 とのコメントを頂いたのには心底驚いた。
そんなのは当たり前の話すぎて議論の対象ではないし、もしかして「武雄市(not 市民)が満足しているんだからいいじゃないか」という開き直りなのだろうか。
武雄市の求める効果が最大化できていて、武雄市が満足してるんだったらそれで問題ないんじゃないの? わざわざコメントする必要もないと思うのだが。
でも、武雄市でなにが起きていようと、今のところ僕には関係ないのだ。
僕の払った税金は使われていないだろう(地方交付税を考慮しても僕の分は1円以下だろう)し、武雄市民でもないし。
改めて僕の考えを示すと、「武雄だけでやってくれ」である。
自治体は事例に弱い。あのレポートを鵜呑みにして、似たようなことを始める自治体がこれから出てくるだろう。
しかし、あのレポートを検証してみると、売り文句と実態とは大きく乖離していることがわかる。
他の自治体の方々は、自分たちの求めるものなのかどうかをしっかり自分で見極め、ハズレをハズレと見抜いてほしい。
そして、僕が願うのは、
僕の住む自治体が間違ってこんなことに税金を使ってしまうと困るので、武雄市民の方には悪いけど「民意を聞いてるごっこ」は武雄市だけでやってほしい。
ただこれだけである。
> http://anond.hatelabo.jp/20090106154017
原則
原則として、俺は知性あるものに最大限の尊厳(人権と同程度)を認めたい。ここで「知性」の基準は、言語的な(あるいはそれと互換性のある)意思疎通が可能であるかどうか。多少なりとも論理的な対話ができること、と言い換えてもいい。
(俺が捕鯨に反対しないのは、鯨に知性があるといっても言語的な意思疎通ができるほどではないからだし、喋る豚(ジブリ映画にいたな)がいたら多分俺はその豚を食べない)
胎児はこの意味で「知性」をもたないから、俺は人権を認める必要を感じない。堕胎が「人権」の侵害だとは思ってない。
ただ、胎児は遠くない未来に「知性を獲得すると見込まれるもの」ではある。未来に人権を獲得するもの、という意味で、なんらかの尊厳が認められるべきだと思う。ただしこの「胎児の尊厳」が、例えば「無条件の生存権」を含むかどうかには議論の余地がある。(強姦による妊娠、重い遺伝性疾患、母体の人権の扱いなど)
「妊娠12週」や「胎内外」といった基準に合理的な意味は感じない。「知性」という基準から考えたとき、いずれも「人権」を認めるには値しないと思っている。しかしその胎児・乳児が将来知性(例えば言語)を獲得し始める時期にはばらつきがあるし、どこからが「知性」だと認めるか、あるいはその知性をどう測定・評価するか、確たる方法論は何もないのが今の人類だ。
だから何がしかの基準を一律に適用して、「ある時期からは人権を認めます」というのは妥当な判断だと考える。「妊娠12週」が最適な基準かどうかはわからないが、少なくとも今の人類には十分現実的な一つの基準だと思う。
医学的な定義はともかく、ここで「死」とは、知性の回復が見込めない状態、としよう。
脳死・昏睡した人間は、言語的な意思疎通が一切できないわけで、(観測可能な)知性はない。しかし生体組織としては機能する肉体は持つから、知性の回復が「まったく見込めないわけではない」という点が問題になると考える。結局のところ、評価基準は「どの程度知性の回復が見込めるか」という点に集約されるんじゃないか。
ある程度以下しか回復の見込みのない脳死者に、人権(生存権など)が全面的に認められるべきだとは思わない。
しかしもちろんだからといって、いきなり生ゴミ焼却処分っていうわけにもいかないとは思う。なんらかの尊厳は必要で、それは「脳死者のために」というより、その脳死者に尊厳を認めていた「遺族(?)らのために」認められる尊厳だと考える。
その具体的な内容はともかく、「知性」を対外的に(言語による意思疎通、という外部とのインタラクションの上に)定義した以上、尊厳もまた対外的に、外部とのインタラクションという枠組みを踏まえて考えられるべきだ。感情移入の問題、というか。知性ない胎児に尊厳を認めるべき、という認識もこれに依拠してる。