はてなキーワード: イジメとは
イジメしてる奴が全て悪いで終わりだよ
「女同士の性被害」、あると思うし、再確認させてくれた元増田に感謝したくて体験を端的に書く。
小6〜中学生の時、私だけに後ろから抱きついてくる同級生がいた。
(他にも色々あった気がするが、記憶を抹消している可能性あり。)
苦痛だった。
素直に言うと滅茶苦茶気持ち悪かった。
でも私はずっと「きゃー!」と驚いてる仕草をしたり、「もうびっくりした〜」などといって彼女の行動を咎めようとしなかった。
なぜなら彼女は100%好意の愛情表現としてその行動を取っているので、無下にはできなかった。
ずっとずっと我慢していた。
ある日突然、鬱積したストレスが爆発した。
彼女と口をきくのも、近づくのもバッサリやめた。
「私に近づかないでほしい。貴方は本当に何も悪くない、頭のおかしい私が全部悪い。本当にごめんね。」
それ以来、彼女は本当に私に近付かなくなった。
最初はお互い孤立したが、次第にそれぞれ違うグループに所属し、距離を取るようになった。
でも引き続き、お互い関わらないことを選んだ。
(私が一方的に、だと思うけど。)
それで3年間穏便に…と思いきや、卒業間際のある日、下校時にたまたま二人きりになった時に話しかけてきた。
「私、ずっと悪い性格を治そうと、沢山努力したの。随分良くなったと思う。また、昔みたいに仲良くなれないかなぁ…?」
私は、顔面蒼白になった。
頭が真っ白になり、ドッと汗が吹き出るのを感じた。
沈黙したあとに私はこう答えた。
「ごめんね、貴方の性格が悪いわけではないの。全部私が悪いの。貴方が努力する必要ないの。本当にごめんなさい。私のことは、記憶から消して、幸せになってほしい。」
そう言って、逃げるように走り去った。
他の友人から聞いた話によると、
どうも同じ産院だったらしい。
お互い全く関わらない人生を歩んで、幸せに暮らしているということだ。
それはそれで、悪くない、と思いたい。
ただ、もしあの頃、「女同士の性被害」という言葉が存在すれば、もう少しうまく立ち回れたのではないかと思う。
ここまで長期にわたって傷つけ続けることはなかったと思う。
しかし、
「生涯の友になりえたのかもしれない。」
と思う一方で、
「やっぱりあの日々を思い出すと二度と関わりたくないな…。」
とも今でも思ってしまう。
どうしたことか昨日、関電の森社長が中間貯蔵施設の完成は延期されたと述べていたことが分かった
日本原燃は支援するが福井の搬出は延期だなどと言い出し、福井県知事が、経産大臣にわざわざ事実を確認しに行ったそうだ
(あるいはこれも保険会社の悪行三昧か)
統失と逆恨みを除けば、現実には職場でのイジメやパワハラに対する殺人という手段での復讐を完璧に自制した日本人ばかりだ(サラダ油で放火未遂で捕まった人とかあれマヌケなんじゃなくて完全に認知歪むくらい壊されちゃってるからだろ)
でも同時に、殺されても仕方ないくらいエグいハラスメントやイジメを職場で行っている人間はうじゃうじゃいる
こういうアンバランスな状況が続いている
これ凄すぎじゃね?
一旦、女性差別を脇に置いて
追記・
でも、当面の諸悪の根源はミソジニー(女性蔑視)だと思いますよ。
元増田さんが背の高さでイジメられた件に、正義の旗を掲げた殿方が殺到して叱りにくるのは、どう考えても異常でしょ。
返信欄に集まって「赤の他人をお前呼び」してる男性失格者たちがアカウントバンされないどころか特に注意もされない状況、おかしいでしょ。
あなたが挙げた男性差別問題とやらも、元凶は性加害男性ですよね。
176cm以下の男性、とかいうトピックばかりが有名になって、
男の人は、この状況、異常だと思わないんですか?
いや、実際の寺は世襲で嫌々とかが多いと思うよ
修行の場もみんな嫌々寺を継いでるような輩ばかりで、陰湿なイジメの温床になったりしてるみたいなこと、ネルケさんが書いてた気がする
そういう人たちが、真面目に修行しに入ってきた人を排除するんだよ
その点、ネルケさんは凄いよ
托鉢に頼らず、自分で田畑を耕して自給自足してるし、お金も一休さん同様に労働して稼いでいる
働かないで、お墓を管理していれば生きていける、なんておかしいんだよ
でも、最近はどんどん墓じまいする傾向があるし、これから寺はどんどん潰れるんじゃないかと思う
キリスト教の教会の牧師だって、サラリーマンと兼業とかが普通で、キリスト教教会はお墓を管理して檀家からお金をもらったりしていない
圧倒的に男が多い職場だから、男はラインで重労働かつ酷いイジメが横行してるけど、女は座りながらノルマ無し作業みたいなメチャ楽な作業。
圧倒的に女が少ないので超モテる環境を利用して独身の役職を引っかければ死ぬまで安泰の一流企業専業主婦ルート。環境でモテてるのを理解してる有能女はマジで職場で婚活してる
男はイジメで使い潰して追い出すから消耗品扱いだが女は現場の男達から抱えきれない程のお菓子を貰って退職。
3Kイメージ(実際3K)で女は入りたがらないがこれ以上楽な仕事は無いってくらい楽で男と同じ給料。マジでオススメ。俺も女になりたい。 男は・・・地獄だよ!マジで酷使されて寿命縮むから覚悟して anond:20240922085416
「ヒャッハー!殺し合えー!」
「上級国民様の血は何色なんだー?!」
「なんでもいいから血を見せろ〜」
お前らって☝️こうじゃなかったか?
なーにお高く止まってんだよ。
単なる僻みで噛みついてんなら、それに相応しい態度ぐらい取ったらどうだ?
30代になるくらいまでずっとどこか浮いてる感じで生きてきた。
中学時代は基本的に仲の良い友達と呼べるのは一人しかいなかった。誰かと一緒にいるより一人の時のほうが楽しかった。
別にスポーツもできないし大人しかったのでイジメられても全然おかしくなかったと思うが不思議と標的にはされなかった。
中三くらいになると一人でずっと机につっぷして寝てる感じで過ごしてた。
高校時代になるといよいよ学校そのものになんの意味も感じなくなって授業中含めて寝てる事が多かった。
周りからはなんかよくわからんやつという感じで、仲良くもならないしイジられたりもしなかった。
どこか不気味な感じがあったのかもしれない。とにかく俺は一人ぼっちなのにめちゃくちゃ堂々としていた。
大学ではなんとなく仲間みたいなのができた。
別に自分が好きな人たちと仲良くなっていったとかじゃなくて、たまたまグループの中になんとなく属してたくらいの。
大学でも基本的に一人で好きに行動してた。ちなみに中高大と彼女はなぜかできてた。でも彼女についてもそこまで執着してなかった。
卒業した後はしばらくはフリーターでバイト先の人らと遊んだりしてた。
虚無ってわけではなくてやりたいことっていうのは常にあって、一人で色んな事して充実していた。
具体的には車を買ってあちこちドライブ行くとか、見たい映画が山ほどあったり、音楽作るのにハマったのもそのころだ。
音楽に関してはバンドをやりたくなったのでそこは仲間が必要になったんだが、別に誰でもよくて楽器できる人がいたら声かけて一緒に遊んだりしてた。
そんな青春時代で、俺は人からなぜか羨ましがられることが多かった。
「なんか自分を持ってる」「他人に振り回されない」「どこか謎めいてて気になる(女性から)」そんな感じのことを言われる事が多かった。
周りもみんな若いからまだまだ表面的なとこで人を見てしまうのだ。
実際の中身としては特になんにも考えてないだけだったし、人から嫌われるのもイヤだったし傷つくことも普通にたくさんあった。
だけど人の気持ちが分からないから結果的に自分のしたいようにしてしまってるだけだった。
付き合った彼女なんかは別れる時には「なに考えてるかわからない」「もっと心を開いてほしかった」とか言われる事も何回もあった。
他人を気にしない俺は優しく見えていたんだと思う。だけど付き合ってくうちに優しいっていうか私のことどうでもいい?って気づいたんだろう。
まあこっちとしてはちゃんと好きなつもりではいたんだけど、好きは好きだが心を開くってどうすればいいの・・って感じだったので泣かれて終わる事が多かった。
今振り返れば「自分の居場所」なんて概念自体まったく存在してなかった。
世界は常に自分とはあまり関係がないように思えて、精神的に居心地の良い場所なんて考えたことすらなかった。
そんな感じなので社会に出て当たり前に苦労した。
しばらくはメッキが剥がれてないので「こいつ不器用だな」って感じでけっこう可愛がられたとは思う。しかし自分自身が徐々にほころびを感じ始める。
「なんか俺やっぱなじめてないな」ようやくここで他者とのズレを認識しはじめる。会社組織というのはやはりそういう人間を浮き彫りにしてしまう。
それからの俺は他人を意識するようになった。その結果まったく魅力がなくなった。
今までの俺は中身がバカであれ、他人のことなどほとんど気にしてなかった。だからズバズバ鋭い意見も平気で言えたし、「自分の生き方」を持ってる人みたいな見られ方もしていたのだ。
しかし周りを気にするようになった途端、単なるポンコツと化していく。慣れないことなんかしないほうがいいのに、変に周りを意識しすぎてあらゆることがうまくいかなくなっていった。
その頃になると俺は「心地よい居場所が欲しい」と思うようになっていた。
仕事で自分が求められてると感じたい、人に愛されてると感じたい、そんな承認欲求がふつふつと湧いてきたのだ。
それから何年もの間周りに評価されよう、愛されようと努力していたがうまくいかなかった。こんなに求めてるのに認めてもらえない事で心は荒んでいった。
その頃学生時代の仲間と久しぶりに会うことがあった。
「増田君、来ないかもなって言ってたんだよ」「いっつもフラっといなくなってたし」
ついでに当時付き合ってた元カノとも会えた。
「そんなに自分の事話す人だっけ?」とおかしそうに笑っていた。
確かに自分の事なんてほとんど他人に話さなかったなと思い出す。
俺は今仕事でもプライベートでも、かつての自分を取り戻すべく意識的に心を閉ざすようにしている。
色んな人に言われて他人に心の扉を開くような努力もしてきたが、今はまったくそんな必要はないなと思っている。
仕事で成功するには仕事の出来だけじゃなく、それを正しく周りにアピールできる事が重要だと俺は思ってる。
@mora_nige
別れようと思っていたモラハラ彼氏との間に子供ができて、モラ彼から「これからは子供のために頑張るから結婚しよう」と言われて入籍した友達
妊娠中にモラ夫から受けたストレスによって切迫早産になり子供は死亡、友達自身も鬱状態になって自殺未遂。
モラハラは人を殺す。
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俺は愚者だから歴史ではなく経験からしか学べないんだけど、イジメ好きそうですね!!みたいな男に寄ってく女が多いから仕方ない
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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精神的な陰湿なイジメとかが世間で注目されすぎて忘れられてるけど、物理でやられるとモロに精神をやられるんだよね。
まず時間が経っても悔しさとか無力感が襲ってくるのは異常なことではなくそれ自体当たり前のことなんだと認識しよう。
そして傷つけられた自尊心は「治癒」することはない。しかし別の何かでおおわれて実質的に普段気にならなくなるのは可能。
その「別の何か」はそれぞれ生活の中で試行錯誤して探すしかないものだ。
極端な話、じぶんも加害する側にまわるということが「キズをおおう」効果を持つこともありうる。あるいは表現・創作のネタに昇華する人もいる。生き方と同じで人の数だけ正解がある。