はてなキーワード: アーティスティックとは
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
そのまま順調にいくかと思いきや東は劇団を退団する。
2019/03/02
https://ameblo.jp/281lisa281/entry-12443763952.html
ライブ活動は続けているが、この頃はほぼひとりでパフォーマンスをおこなっている。
2019.9.20『東理紗〜伝説から神話へ〜』LIVEフル映像
https://www.youtube.com/watch?v=0E2Mb5v5Yfk
一方、西井はアイドルユニットAPOKALIPPPS(アポカリップス)の活動を経て、大森靖子プロデュースで大森自身もメンバーであるアイドルグループZOCとしてデビューする。みんな一癖あるいわく付きのメンバーだが、曲も見た目も正統派アイドルで、西井の本来の志向もこの方向性だったという。
2019/04/22
https://www.youtube.com/watch?v=IytBgF3UhP0
ADHDで劇団の活動がうまくいかず他の劇団員からも理解されなかったこと、セクシャリティのこと、パートナーから受ける精神的DVで追い詰められていくことなど。
https://www.youtube.com/watch?v=-Z05_sd8jfU
アーティストとして活動を続ける東は再び火曜The NIGHTに出演する。このときは明るくてユーモアもあってテンションの高い状態だが不安定さはどうしても感じる。
元・生ハムと焼うどん東理紗はハイテンションキャラを演じていた!?NG無しで答えるアイドルの裏側に矢口真里も驚愕!『矢口真里の火曜The NIGHT #200』毎週火曜日24時からABEMAで生放送!
https://www.youtube.com/watch?v=K7wguOPLkYc
ここでも紹介された東の新音楽ユニット、ちょ!🍅's(chotto mattoz、ちょっとまとーず)。アーティスティックで演劇的でもはやアイドル時代の面影はない。
月子 - ちょ!🍅's
https://www.youtube.com/watch?v=EZ-v9VzKn2w
活動休止以降、東と西井が直接かかわることはない。
西井が正統派アイドルとして華やかな世界で活躍する一方、東は駅前などでストリートミュージシャンとして歌っている。
共通の知り合いで、当時西井と一緒にZOCで活動していた戦慄かなのが偶然東のパフォーマンス中に通りかかったときの映像。
このとき急遽東が歌った「贖罪」という曲は、生うどんの「食材」にかけて西井に向けて思いを吐露した曲と言われている。
2019/05/29
東のことが嫌いになってしまった人々へ、一度だけでいいので観てみて
https://www.youtube.com/watch?v=d7f1ejbST-Y
ちなみに現在もZOCで活動を続けている西井のツイッターアカウントのプロフィールには、今も「生ハムと焼うどんがだいすきなにっちやんです」と書いてある。
公益財団法人全日本スキー連盟(ぜんにほんスキーれんめい、英: SKI ASSOCIATION OF JAPAN、略称: SAJ)は、日本におけるスキーをはじめとしたスノースポーツの国内競技連盟。日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会加盟団体、旧所管は文部科学省。
公益財団法人日本卓球協会(にほんたっきゅうきょうかい、英: Japan Table Tennis Association、略称JTTA)は、日本の卓球全体を統括する国内競技連盟。
公益財団法人日本ラグビーフットボール協会(にほんラグビーフットボールきょうかい、英: Japan Rugby Football Union, 略称:JRFU)は、日本におけるラグビー(ラグビーユニオン)の高等学校・大学・ジャパンラグビートップリーグを総括している国内競技連盟。
公益財団法人日本水泳連盟(にほんすいえいれんめい、英: Japan Swimming Federation, 略称:日水連、JASF)は、水泳界を統括し、代表する団体として水泳および水泳競技(競泳、飛込、水球、アーティスティックスイミング(AS)、オープンウォータースイミング(OWS)、日本泳法)の健全な普及 ・発展 を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする公益財団法人。国内競技連盟(NF)である。
神事なん?
スキー板の購買基準はプリントデザインとブランドイメージで良いと思います。なお、異論は認めます。
鮮やかなブルーカラーと、潔い"RACE"の文字が特徴。S/RACEというモデル名を前面に出しつつ、テールには板の長さや細かいモデル名がわかりやすく表示されている。その反面、"salomon"のメーカーロゴの文字は非常に控えめで、簡潔なモデル形態と相まって非常にスマートなデザインに仕上がっている。しかし、ただスマートなだけでないのがこの板のカッコいいところだ。サロモンレースチームのコンセプトである"Sons of a Blast"のロゴマークがささやかに描かれているほか、20-21モデルではソール面に"SONS OF A BLAST"文字が大きくプリントされている。ゲレンデに吹く風のようにクールな外見と、その内に秘めるアツく激しい情熱が伝わる秀逸なデザインといえるだろう。
・Nordica DOBERMANN
赤黒のカラーリングと、ビンディングの前側に居座るドーベルマンのアイコンがイカツい一台。特に、小回り系の板はデザインのマッチョさがさらに映えており、SLレーシングモデルの"DOBERMANN SL WC"は板のトップに取り付けられたキャップがさらに力強さを際立たせている。ソール面にはトップにノルディカのロゴマークが描かれているほか、モデルによってはテールにドーベルマンのアイコンが描かれている。この板に乗るからには、固く締まったアイスバーンを凶暴にえぐりながらターンしていくような攻撃的な滑りをしていきたいところだ。
雪面で映えるオレンジのベースカラーに、黒もしくは藍色のメーカーロゴがシンプルに描かれる。一見シンプルすぎてつまらないデザインに思われるかもしれないが、ビンディングの前や、テールに記される"FIREBIRD"の文字に、翼をモチーフにしたアイコンがさりげなくデザインされている。削ぎ落したデザインの中にある細やかな工夫と、それに調和する"FIREBIRD"の名前に美しさが光る一台だ。
・ROSSIGNOL HERO MASTER 20-21モデル
14-15モデルから始まったHEROシリーズのデザインを踏襲しながら、さらにカッコよく進化させたデザインとなっている。鮮やかなオレンジ色のグラデーションや、ディスプレイにノイズが混じったような文字のデザインは、他メーカーの製品には中々見られないようなデザインながら、非常に完成度の高いものとなっている。鮮やかながら落ち着いたプリントデザインは、復活した老舗メーカーの新時代を想わせる。
・ROSSIGNOL Super VIRAGE V-LTD/V-TECH
"Super VIRAGE"は、かつて日本市場向けに開発され、日本中のゲレンデを風靡した憧れの名機である。この名機は約20年の時を経て、90年代を思わせるようなデザインをまといついに復活した。テールの"Super VIRAGE"のロゴマークはかつてのモデルを踏襲したものとなっており、ピンク色のベースカラーの上に描かれる濃いブルーの模様は、世界地図となっていて芸が細かい。そして、2021年現在ではかなり異彩を放つデザインにもかかわらず、トップに描かれるロシニョールのロゴマークが、他現行モデルとの統一感をしっかりと醸し出している。非常に賛否両論分かれるデザインであり、クソださく感じるスキーヤーも多いと思われるが、復活した往年の名機にふさわしいようなデザインであることには間違いないだろう。
1979年に誕生したロングセラーモデルの小賀坂Unity。14-15モデルから、白地に大きく"Unity"の文字を描く1979年当初のデザインが復刻し、「中身は毎年改良するが、デザインは極力変更しない」という理念と、本物を追及していく小賀坂の姿勢をひしひしと感じるデザインとなっている。他メーカーと比べて派手さや鮮やかさに欠け、垢抜けない雰囲気を感じてしまうものの、長い時を経てもなお強く流れる不変の小賀坂スピリットを感じるようなデザインであるといえるだろう。
大手メーカーのマジメなデザインとは違い、特徴的なフィッシュテールとアーティスティックなグラフィック、そして、遊び心あふれる工夫が存分に凝らされたデザインとなっている。年式によってデザインが大きく異なるが、魚の鱗を模した模様や、魚の形が浮き出るトリックアート、飛行機の絵など、どの年式のデザインも非常に美しいものになっている。そして、そのデザインを台無しにしないよう、メーカーロゴやモデル名のロゴはささやかに記されている。また、滑走面に描かれた「魚」の文字を模したマークは秀逸で、文字の一部が欠けているのは、この板の開発に携わったスキーヤーEric Pollard氏の頭文字"EP"をもじっているからである。
レーシングの世界で強い存在感を示すHEADであるが、板のデザインは少し残念に感じるところ。白地に黒でメーカ―ロゴなどを描くシンプルなデザインだが、白い雪面に対して白ベースのカラーなので、非常にデザインが薄味になってしまっている。そして、この薄味デザインは"World Cup Rebels(ワールドカップの反乱者たち)"という名前に対して完全に負けており、どうしても腰砕けな印象を受けてしまう。HEADのアルペンスキーシーンでの活躍は、(反乱者というより、むしろ支配者の気がするけど)決して名前負けしていないものであるが、デザインがその名前をショボく見せてしまうところが非常に残念だ。
プロの作家でも作風なんて大体どんどん変化するし、なんならデビュー作で出し切ってしまって後はひたすら後退していくだけって作家もいる。で、基本的には〈元には戻らない〉。なぜそうなるかというのは大体想像がつく。「最初のスタイルに満足できないからこそ変化した」わけだし、そんな風に「あるスタイルに満足できず変化する」ことこそが才能だからだ。
むしろ商売でやってる場合の方が、作られたスタイルをなぞり続けるというやり方でずっと変化しないという可能性がある。たとえばとある”世界で売れている”大物海外アーティストは、何十年も「レコードそっくりの歌い方」でライブを続けている。自分たちに求められているものが何かを完璧に理解しているから、まだ20代の青臭いガキだった時代の曲調、演奏法、歌い方を40代になってもそのまま完コピして演じて、それをみんなが喜んで見ている。それは商売だからだ。アーティスティックな活動とはまた別の話だ。
そもそも才能に任せて書いていた素人が、書く事を中断せざるを得ないようなトラブルを経て、それで帰ってくることの方が稀なのだ。その人は確かに書かずには折れない人で、そして確かに才能があるんだろう。その才能があるなら、また新たな境地に至るかもしれない。それは、最初の若々しい伸びやかな才能とは違ったものかもしれないけど、様々な経験を踏まえたもっとすごい何かかもしれない。そう期待して、しばらくは温かい目で見守るのがいいんじゃないかな。
新年も明けたことだし、この1年新たな目標を立てて生きていきたいと思ったので、絵の練習を始めることにした。
コロナ禍によるリモートワーク下で生まれた可処分時間で多くのアニメを視聴して、作品をただ消費することから生産することへの欲求が芽生えたし、
また、最近見たホッテントリである以下の記事に触発されたのも大きい。
【https://note.com/enzen3852/n/na1fecd0ac10b】
練習するにあたり、萌え系のイラストがある程度自在に描けるレベルを目標として定めることにした。
萌え系といっても幅が広いが、プリキュア・アイカツ・ラブライブあたりの『これぞ萌え』と言わんばかりのビビッドな絵柄も習得したいし、グラブルの皆葉英夫氏あたりの油彩風の重厚でアーティスティックな美少女画の絵柄も習得したい欲がある。よって、そのどちらも、あるいは、その中間あたりの絵柄の習得を狙いとして定めたい次第だ。
我ながら随分と曖昧な目標ではあるが、とにもかくにも大体そんな感じのロールモデルを設定して練習を開始し、今日は以下の2枚を描いた。
【https://www.pixiv.net/artworks/86735932】
【https://www.pixiv.net/artworks/86736089】
今をときめく美少女系イラストレーター森倉円氏のイラストの模写と、筋肉練習という、イラスト初心者向け指南サイトや教本で多く紹介されている入門メソッド(好みのイラストの模写+人体構造の学習)を踏襲したオーソドックスな練習内容だ。自分の元々の作画スキルは高校時代美術部に在籍して最低限度のデッサンを心得たことのみで、当然ながら漫画イラストのスキルは無い。だからこそ、デッサンノウハウが活かせるイラスト模写は実践が比較的容易で、萌え絵の地力を固める足場として最適だと感じた。
練習絵の投下先としてはpixivを選択。最初は普通にはてなブログで始めようかと思ったが、練習内容の振り返りのための絵の網羅性・俯瞰性の高さからpixivを選んだ。ただ、pixivは絵に長文を添えて投下することにはあまり適していないので、絵の練習内容や振り返り、改善点を言語化するための文章スペースとしてはてなブログも並走させるか思案中。ただ、実ははてなブログは既に別ジャンルの記事を書く場として一応保有しているので、別のブログが良いか。(pixivだが、いわゆる『タグ汚染』としてユーザーの検索結果の邪魔にならないよう、有名版権キャラの練習絵を描いたとしても作品名タグは一切付けず、ただ最低限『練習』タグのみ付けて黙々とやっていくつもり)
そんなこんなで始めた萌え絵の練習だが、休日はなるべく多くこなして画力を速成したい。なので、この正月休みはずっと家に篭ってひたすら描くつもりだ。三が日が終わるまでにどこまで練習を積み重ねられるか、ゲームのスコアアタック感覚で楽しんでやっていきたいと思う。
例のホッテントリの記事に倣い、100日、あるいは、任意のn日(比較的長期間)練習して成果が見えたら、それをまとめた記事も書いてみたいと思う。
2021年は始まったばかり。今年の終わりまでにどれだけ上達できるか、まあ楽観的にやっていこう。
“すべての女性の「美」と「快適」に貢献したい”
11/2のタイツの日に魅力的なタイツを描いている女性イラストレーターを中心にタイツ女性の美しさを発信してPRする
(こっちは適当に書いたけど)
→みるタイツもアニメ化されたし、みるタイツに近しい女性イラストレーター+アーティスティックな女性イラストレーターを採用する(見た感じ半々くらい)
ここが大きな選定ミスなんだけど「みるタイツ」のアニメって知名度皆無で配信もごく一部の有償配信のみなんだよね
・ニコニコチャンネル、dアニメストア、ビデオマーケットにて土曜22時に配信
dアニメの動画見放題サービスか個別課金でしか見れなかった程度のものすごくマイナーな作品
企画の中でコンプラチェックもあったんだろうけども、「みるタイツ」は何も問題が無かったから発信しても問題がないのではないかと通せてしまう論理は存在した。
女性広報自身もTwitter運用を通して男性向けコンテンツに目を通していたり親和度が高めでフェチ度はあるけど問題ないと思って、「この人の女性目線」も通った。
企業Twitter見てて思うけど業界関係ネタ、企業関係ネタを収集しすぎて内輪の論理に染まりきってる人多いなって思うよ。その感覚のズレは炎上の引き金になりそうだなって今回の件で思った
表題の通り。
四連休の3日目の月曜日の今日、暇でゴロゴロ布団で惰眠を貪っていたんだけど、その時、歯車のような、流線型のような、模様のような黄色?の幻覚のようなものが見えたんだ。イメージ的にはお洒落な雑貨の幾何学ちっくなデザインのような、あるいは典型的なサイケデリック模様のような感じ。
特に昼寝の時、覚醒と睡眠の狭間にいるときに、多かれ少なかれ見るんだ。で、これは自分にとってまあまあ普通のことで高校ぐらいから見える、というか知覚できるようになった。当時、友達に話してみたけどわかんないって言ってた。増田のみんなで経験がある、またはその分野に詳しいという方、コメント待ってます。
以下追記です。
→閃輝暗点
偏頭痛もちだけど、その時は現れない。しかも、生理的な、単にギザギザした光の形というというよりは無意識、夢の世界に近くて、アーティスティックぽささえあるように思える。頭痛はないけれど、倦怠感はある。
→ ナルコレプシー
Wikiで調べたんですが、これ系ぽいですね。わりと慢性的にやや倦怠感があり、特に感情が高ぶったりすると、運動神経全般がぎこちなくなるような感覚があります。ただ、軽く力が抜けるという程度で、倒れたり、体が動かなかくなるというのはないので、この症状と上手く付き合っていきたいところです。なお、神経内科で診てもらうのも検討しておきます。
当時から結構な音楽好きで、サイケデリック・ロックやプログレッシブ・ロック(すまんが知らん人はググってください)をよく聴いていて、何となく幻想的な精神世界に興味を持っていました。初めてこの症状を見たときは、高1の冬休みに、チャイコフスキーの『冬の日の幻想』を聴いていた時で、(とは言ってもそこまで自分には響かず、退屈感も少なからずあった)目を閉じると幻覚的な光景が、色鮮やかに映し出されていって、不思議でもあり、怖くもあったのでますが、知的好奇心に身を任せ、束の間の風景を楽しんでいました。こうしてみると、この症状は少なくとも自分にとっては音楽と強い関わりがあるように思えます。
米津さん、インタビューとか昔のブログだとか読んでても、奇をてらってやろうとか自分の内相世界を克明に描ききりたいみたいなアーティスティックなエゴあんまり感じないんだよね。
曲聴いてても社会にちょっと意見してやりたいみたいな態度に出てくることもない。
影響受けたものとかはまっているものとかその時々流行っているものを素直に受け入れている印象。
なんかそこら辺が藤原基央や野田洋次郎のような先駆者や、常田大希、山口一郎あたりとは違うところだよなと思う。
ハチ時代からマスの中で自分の作ったものが共有され楽しまれることを第一に掲げてるように僕には見えた。
曲の中に広がる世界にしても「面白い話を思いついたんだ」と友だちに話すことの延長線上にある気がして、米津さんがやることや言うことを聴衆が「面白い」とか「カッコいい」っていってその気持ちを共有していることが軸になってるんじゃないのかな。
じゃないとあの時代のニコ動のボカロ文化にのめり込まなかっただろうし、メジャーデビュー時からのタイアップソング量産体制に舵を切らなかっただろうと思う。
米津さんがすごいのは独特な感性を持っているのに大衆性を全く取りこぼしてないところで、逆に言えば大衆的なアプローチを意識してもどこかしら独特な風合いを帯びてしまうことだと思う。
そしてどんなアプローチでも米津玄師らしいマインドというものが奥の方でブレなく残っているように僕には聴こえる。
また、おそらく本人は自分が素敵だと思ったものを無邪気に曲に盛りこんでいるだけだったり、みんなが楽しめるポップソングを真摯に作り上げたいと思っているだけで、最初から独自の米津ワールドを展開したいとは考えていない気がする。
結果的にそうなってしまうんだろうし、それでいて気負わずに聴けるポップソングとして未だに破綻していないから米津玄師は支持されるのだと思う。
僕は昔から宇多田ヒカルが好きなのだけれど、宇多田ヒカルと米津玄師はどこか近しいものを感じる。
宇多田ヒカルが今さらFirst LoveやDistanceの頃のテンションで曲を作ることはありえないし、それに反してFirst loveのような曲を求める人がいることも理解できる。
マスメディアの中に鎮座しながらも、最大公約数的な共感の世界に生きていない。作者の個人的な感情や自分だけが持つ脳内のイメージを、聴き手の心情に照らし合わせフィットしていくようなドアtoドアの世界。
少し付け足します。
自分はクエストとかお遣いとかストーリーに沿った動きが好き、というわけではありません。まったくそういうものがない某ゲームにはまったこともあり、自分がしたいことを目指すのが嫌いなわけではないです。
ただ、あつ森は創造的なものをする土壌とは思えなかったのです。どこまでいっても作業の積み重ねです。箱庭ゲーの特徴かもしれませんが、結果は作業時間に比例します。つまり作業を多くすれば結果は伴う反面、工夫の余地があまりありません。また、どこまでいっても蒐集の域を超える物ではありません。庭や建物を作るにしても、それらが相互に影響し合って予想もしないことに繋がるかと言えばそんなわけではないですよね。例えばマリオメーカーやマイクラのように、計算機を作るといった芸当はありません。
ポケモンの世界観を作る人は本当にすごいと思います。少ないものでアーティスティックなことをするのは素晴らしいと思います。だけどそこまででなければ自己満足の世界です。その自己満足の世界を形作るのには徹底的な作業ゲーでしか到達できません。その作業ゲーには住民との会話が含まれ、それが少しでも面倒になったらこのゲームは木を切るか石を割るか釣りをするかしかない単調極まりないものに変貌します。
資格勉強のために漢字練習帳を埋めるような行為だと私は思いました。いったいこのゲームはなにを目指しているんだろう。自分の見えないものを他の人は見ているんだろうか。
横にずれますが、某ゲームでは現実のフィールドにアーティスティックな絵を描くことが可能であり、それを利用した協力プレイをよくしていました。そのゲームでは自身の動ける範囲や選択肢がとても限られる上に、1ワールドゆえに他者からの妨害を受ける可能性が非常に高いのです。よって時間をかけて一つのサーバで大作を作る、ということは不可能であり、覆って一瞬で作業を行うために綿密な作業行程の周知や様々な協力をする必要があるのです。
ゆえにそのような協力プレイは総プレイ時間やゲームの腕前はあまり関係なく、むしろ実社会での能力や現実空間でどれだけアクティブに動けるかなどが求められます。ようは結果ではなく過程や準備こそが重要でした。そこにあらゆる可能性があったが故に面白みがあるのです。
しかしあつ森のような、自分の閉じた世界だけで満足しなければいけないゲームでは、結局プレイ時間を増やさないとやりたいことが一切できません。また街を発達させることこそが至上命題のような節があり、そこが自分に一切合いませんでした。だって家具・家電や住人に特に面白みがないのですから。
逆に好みのアイテムがあればそれでよかったかというと、そんなわけでもありません。そもそも蒐集が得意ではないのです。
単調作業の繰り返しでも面白いゲームはたくさんあります。ただ、あつ森にそれはいらないかなと。あえていうと青バラの要素が無数にあったら楽しめたのかもしれません。
飲食で独学のPOP屋をやってた程度なので適当に聞き流して下さい
POPを見たときの客の反応は「これ美味しい」って言う方が「美味しそう」っていうより多いです。
要するに実物を食べる前に視覚情報・文字情報を食って味わってるんです。
POP屋の仕事は客を満足させることではありません。POPの情報を試食させて、本物の飯を食わすことです。
完璧でアーティスティックなPOPで客を満腹にさせたら本物を買ってくれません。
腹6分目程度に満足させましょう。
そこまでしないと他店より優位に立てません。
文字レイアウトでダサくしても写真の価値はそれほど下がりません。
これなんの形を表してるの? 新しい。アーティスティック。
嘗て好きなように書けず苦労したのち、好きなように書ける御身分になった作家が、今度は言うに事欠いて己の意にそぐわない表現に対して「ガイドラインを作れ」(検閲)とか「滅びろ」(処分)と言うのが許されていい訳がない。
そもそも「少女漫画のせいで」とか「少年漫画の女キャラに自我がない」などと決めつけること自体が古臭い思い込みによるバイアスそのものではないのか。
あと20日で令和だが、正直ご自身がジェンダー齧ってた昭和時代から時が止まってないか?
自身が求める、ジェンダーバイアスを排除した(私は全然排除できてないと思うけど)芸術的でアーティスティックな作品を追求していくのは勿論構わない。
しかし「そうあることが好ましい」の範囲を超え「それが正しい」として漫画業界または漫画という文化そのもの、他の作家や読者など他者にまで「かくあるべき」として強要すべきではない。
ジェンダーバイアスを逆手に取り活かして売れ筋の作品を作る権利も、ジェンダーバイアスに嵌まらなかった故に嵌れた場合の世界を模倣する権利も、創作においてはある。
様々なバイアスにそれぞれガイドラインを作るの?そんな雁字搦めになったら新しい表現は生まれなくなる。
そして読者がどんな作品を選び、何を見て、どこをどう感じ、どのような選択するかという内心の自由もある。
それを「漫画に影響されてる」と決めつけ、他者の想像力、取捨選択能力を蔑み、作品から何かを読み取り思索し、新たにイマジネーションを得て空想する自由まで蔑ろにし、侵害している。冗談じゃない。
作品に在る女性像のように見目麗しく恵まれており社会性に極端に乏しく自分のことでいっぱいいっぱいな女性ばかりになったら社会が良くなるとは到底思えない。
ちなみに余談ですが、ジェンダーバイアスは設定詰めてないからとまるで作家のスキルが低いかのように仰ってたが、ご自身の思うジェンダー論=別のジェンダーバイアスを自己投影した人物にセリフで言わせるのは漫画のプロとしてはスキルが低い。
そもそも漫画と言うものにかなりのバイアスかけて蔑んでるのが感じ取れるので、漫画における表現というものに対する研究心向上心はないんだろうけど、キャラクターの特性、行動や性格に絡めて物語に組み込むのがセオリーだと思う。