はてなキーワード: アニヲタとは
好きな声優さんがいる。仮にA子さんとしよう。
そのとき一度だけ握手会にいったのだが、受け答えもしっかりしていて、さらに高感度が上がった。
しかしその後A子さんはグループを卒業。それからまもなくグループも解散した。
A子さんは着々と声優としてのキャリアを重ね、現在はアニメ?ゲーム?から派生したバンドでも活動している。
さて、私はA子さんに何ができるだろうか。
A子さんの出演しているアニメを見る。しかしどれも私の好みのアニメでなく(そもそも俺自体がアニヲタじゃないからそんなにたくさんアニメみない)、また見たとしてもどれがA子さんの声かわからない。深夜アニメに出てる若い女性声優の声はだいたい一緒に聞こえる。
Aくんの作文、A 子さんの作文、バイクでいくぜ!などと呼ばれている小噺の元ネタを探しています。
ネット上の断片的な情報をもとに、まずは90年代前半の学研の科学と学習を調査中。
もし、元ネタに心当たりがある方はどんな情報でもいいのでコメントをください。お願いします。
A君は作文の書き方が分からなかったので料理中のお母さんに「お母さん、作文教えて~」と聞きました
お母さんは「あとでね」と言いました
A君は作文に『あとでね』と書きました
次に、A君はお父さんに「お父さん、作文の書き方知ってる~?」と聞きました
お父さんは「あったりめぇよ!」と言いました
A君は作文に『あったりめぇよ!』と書きました
次に、A君はアニメを見ている小さい妹に「作文ってわかる~?」と聞きました
妹は「アンパンマーン!」と言いました
A君は作文に『アンパンマーン!』と書きました
次に、A君は彼女と電話しているお兄ちゃんに「お兄ちゃん、作文教えて欲しいんだけど……」と聞きました
A君は作文に『バイクで行くぜ!』と書きました
そして、次の日
A君「あとでね」
A君「あったりめぇよ!」
A君「アンパンマーン!」
A君「バイクで行くぜ!」
先日この話を思い出してネットで元ネタを調べても分からず、気になって仕方なくなったため。
本当にそれだけです。
知恵袋のベストアンサーに学研の科学と学習に載っていたとのコメント
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321798893
ピクシブ百科事典では
バイクで行くぜとは1980年代後半以降、全国の小学生の間で同時発生的に流行ったネタの事である。
(中略)
また、2chまとめブログのコメント欄で「科学の投稿でみた」「学研の付録漫画で見た」とのコメントあり。
以上から、80年代後半〜90年代で学研の科学と学習の本誌、あるいは別冊付録に元ネタがあると推測しました。
80年代後半〜90年代では範囲が広いので、ひとまず90年代前半に絞って資料を調べました。
→90年代前半には別冊付録がない(あるいは所蔵されてない)ことが判明。
・科学と学習の別冊として学年毎に年2冊刊行された「読み物特集」
また、90~95年の科学と学習本誌を100冊ほど閲覧したがこちらも該当するものなし。
不確かな情報をもとに元ネタを探すのは厳しいと思っていましたが、予想以上に大変です。
掲載年や形式が不明なので1冊1冊を集中してみる必要があり、かなり体力と精神力を奪われました。
当時パチンコのCMで流れてたときってニコニコの存在も知らない女子でもヤンキーもお父さんお母さん世代もみんな曲自体は知ってたじゃん
あれ今考えるとめっちゃ凄くない?
ぶっちゃけアクエリオンなんて当時も今も人気ないし原作パワーなんてなかったじゃん
紅蓮華が鬼滅無しでなんかのよくわからんソシャゲタイアップ企画のCMとかで流れてる曲だったら多分こうはなってないでしょ
それに当時は今よりもアニヲタとかキモいって風潮強かったからアニメソングってだけで敬遠される方がむしろ強いくらいな気がする
前情報とか先入観とか全くなしで曲と歌詞だけであれだけ大勢の耳に残って『なんか知らんけど良い曲』として浸透したって今考えるとすげーよなぁって
アメリカのフェミニストがゲームなどの創作物に向ける批判は色々なものがあるが、その1つに、出てくる女性が少なすぎる、みたいな主張がある。
有名な「ベクデル・テスト」なんかもその1つだろう。映画において女性が主体性を持って描かれているかどうかをチェックする際の基準として、「少なくとも2名、女性が出てくる」「互いに会話をする」「話題は男性以外のものである」というものを挙げている(もともとはレズビアン漫画家のジョークだったらしいが)。
しかしこんなものは日本のオタク界隈にいれば「???」となってしまう基準であろう。アニヲタの私が見た範囲において、最もこの「ベクデル・テスト」に適合しているアニメは『ストライクウィッチーズ』や『ガールズ&パンツァー』や『ハイスクール・フリート』や『ウマ娘』であり、最も適合していないのは『刀剣乱舞-花丸-』だった。だが、前者は男性向けで後者は女性向けというのは常識だ。
以前、姉と「(『FGO』や『グランブルーファンタジー』のような)主人公のキャラがある程度立っていて主人公の性別選択が自由なソシャゲをプレイするときはどちらにするか」という話をしたところ、見事に、私は女性を選ぶし姉は男性を選ぶ、という結論になったことがある。そりゃそうだ。私はぐだ子やジータのようなかわいい女の子の活躍を見たいし、姉はぐだ男やグランのようなかっこいい男の子の冒険に興味があるのだ。異性愛者としては当然だ。
しかしこの感覚が意外とアメリカ的なカルチャーの文脈では通用しないのかもしれない。彼らは物語の主人公に自分を投影できることを求めている。
日本でも、子供向けの作品にはそういう傾向がある。女性キャラばかりが登場する『プリキュア』は女児のためのものだし、男性キャラが主役を張る『仮面ライダー』は男児のためのものだ。しかしこれが大人になると逆転する。成人男性オタクは『艦隊これくしょん』のような女ばかりの世界に耽溺し、成人女性オタクは逆に『アイドルマスターSideM』のような男だらけの世界を求める。つまり成人すると、創作は自己を投影させて楽しむものではなく画面の向こうを眺めて楽しむためのものになる。
そこでは、別に自分と同じ属性の者がいなくたって何も困らない。むしろいたところで邪魔である。『ラブライブ!』シリーズを見ていて、見事に画面に男が映らないことに安心する。男なんて鏡を見ればいくらでも見ることができるのに、わざわざ萌えアニメの中でまで見たくない。そりゃかっこいい男キャラを楽しみに見るアニメもないではないが、美少女アニメを見るときにはそういうのは求めてないのだ。
けれどアメリカではどうも違って、自分と同じ属性の者が少ない、という文句が社会的に受け入れられているように思える。もちろん自己を投影して楽しむという楽しみ方も別に悪くはない。それは個々人の自由だ。ただ、その楽しみ方が普遍的であるとは思わないでほしいなぁ、と思う次第である。日本では、主体性を持った女性キャラが大勢出てくるアニメは主に男性によって消費され、女性が好むアニメは男性キャラばかりが出てくるものなのだから。