はてなキーワード: アイドルヲタとは
聴覚障害持ちだけど音楽バリバリ聴く。女性アイドルが大好きで、NMBや乃木坂やハロプロやももクロなど色々聴く。
アイドルヲタクやっていて悔しいのは握手会などで推しと上手く会話できないこと。周りが騒がしすぎて推しが何いってるのかわからないんだわ。Twitterに握手レポが流れてくるたびになんでそんなに聞き取れるんだ?と不思議に思う。
あと曲のイントロがわからない。だからライブで「次はこの曲です!(イントロ流れる)」で盛り上がれない。その時のフォーメーションやダンスを見て「あ、この曲か」と確認することが多い。一回くらいみんなと盛り上がってみたい。
健常者の耳ってどんな耳してんの?なんでそんなに聞こえるの?すごい不思議
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49366?page=6
つまらないやつだと思われないために、メンヘラっぽい言動であろうが開示して人と接するようにしている。
男友達にもそうしていたら、1番仲が良いと思っていた友人がメンヘラっぷりに辟易していて、地味にショックだった。
自分を曝け出せば曝け出すほど良いと思っているところがあるが、果たして本当にそれでうまくいくのかというと、非常に怪しくないか。
本音で生きるとか、本音を話すことがいかにすばらしいかを説く人というのは、信者ビジネスをしたい人たちばかりである、ということに、なんとなく気づいてきた。
本音で〜というのは、信者の耳に心地良く、教祖にとって都合の良い教えだ。
常に本音だけで生きている人間など存在しないというか。そもそも本音とはなにか。
本音とは、建前の対語であって、建前があって初めて成立するもので、つまりは建前並に脆い概念だということだ。絶対の真実のようなものではない。
本音を言うようにしたらうまくいくようになったみたいなフィクションがよくあるが、あれはフィクションだ。
本音100%でうまくいくなら、ストーカーとか底辺Youtuberとかアイドルヲタクは、もっと報われていいだろう。
つまるところ、本音かどうかって、たいして重要じゃないのかもしれない。
本音だからいいでしょとばかりに自分の発言に甘えてはいけない。
本音かどうかというより、少なくとも相手を不快にさせないことが大事なのだと思う。
メンヘラっぽい言動をして、99人引いても、1人引かない人がいるかもしれない。
その1人だけ残ればいいというのは、楽だが、99人に迷惑をかけている。
やたら嫌われる勇気が押される時世にあっても、嫌われない、相手を傷つけたり不快にさせないというのは、とても大切なことなのだ。
ナンパの頃の思い込みの名残で、会ったその日にを目指す習性が残ってしまっている。
まずは嫌われないで、また会ってもらえるようになるところからはじめたい。
気がついたのは中2の時。
ずっと幼馴染みだった子が何故か気になってしまう。一緒にいたいと思ってしまう。
最初は恋なんかじゃなくてただの友情の中の1部の感情だと思っていた。
でも、それは他の幼馴染みや友達に対するものとは明らかに違うものだった。
それからは、女子っぽい服や行動や持ち物が嫌になって、今まで持っていたものはほとんど使わなくなった。ずっと伸ばしてきた髪もバッサリ切った。何が変わった訳でもないけど、少しスッキリした。
正直恥ずかしくて、どんな顔をすればいいのかわからなくて、頭もあげいられなかった。
そして、最後に必ずこう言う。
「だからみなさんは、LGBTの人たちを差別しないようにしましょう」
まるでこの中に張本人が居ないみたいに。
一般的障がい者のように、LGBTの人達はノーマルの人達と違う学校に通っている訳では無い。この中に本人がいるかもしれないことくらい分かるはずだ。
想像力ないのかな。同じ立場の人達を差別するなって言われて、授業が終わったあとに「LGBTって正直気持ち悪い」と囁く同級生を見て、私は何をすればいいのかな。
ここまでが、私の教師嫌いの話だ。
そしてここから、私の私嫌いについて話す。
一番最初に言ったとおり、私は幼馴染みを好きになった。
私の世界は『男』と『女』ではなく、『恋愛対象』と『それ以外』になってしまったのだ。
もちろんその幼馴染みは好きなままだが、それと恋愛対象は別の話だ。
もう私は、同性の友達と回し食いも同じ風呂に入ることも出来なくなった。
回し食いは、しないと空気が悪くなるので事前に『衛生的に誰ともできない』と言ってある。
友達に嘘をつく自分も、友達を少しでも恋愛対象として見てしまう自分も嫌いだ。
これは全く関係の無い話だが、どうにか吐き出したいので聞いて欲しい。
友達に『○○ちゃんは好きな男の子いないの?』と聞かれることがある。
好きな男の子はいない。だって今好きなのは女の幼馴染みなんだもの。
でも友達がそんなことを聞いている訳では無いことは分かる。
その短い質問から、女は男を好きになるべきっていう固定概念がはっきり見えて悲しくなる。
最後に、ここまで読んでくれた方は本当にありがとう。大変読みずらい日本語だったと思う。
恥ずかしいので読み直さずに投稿する。誤字脱字おかしな日本語には目をつぶってほしい。
ちなみに自分は男性アイドルヲタ・アニヲタ・腐女子プラス乙女ゲーム大好き人間だ。二次元の推しはほとんど男性で女子キャラの推しは1人しか思い浮かばない。本当になんで同性を好きになったんだろう。早く嫌いにならなくちゃ。
女性アイドルと一言で言っても音楽ジャンルもコンセプトも多様である。
音楽ジャンルで言うならば、王道のアイドルポップもあればパンクもメタルもニューウェーブもテクノもヒップホップもEDMもプログレもアイリッシュもジャズもアキバ系もあって、大衆音楽の主要なジャンルはまあまあけっこうな割合で網羅されている。この界隈も本気で掘ればあなたの好みにあうアイドルはかなりの確率で見つかるはずなのである。なので、アイドルに関心が持てるかどうか、という話であれば、基本的には「掘りが足りない」という話になる。
ただ、問題は、めっちゃ掘ってお気入りのアイドルを見つけたところで、それで元増田の「好きな人」と会話が成立するかどうかである。前述の通りこの界隈もけっこう多様な世界なので、アイドルヲタ同士でも全然話が通じない、っていうことはそれなりにあるのである。自分個人の話をすれば、日本語の歌に関しては99%アイドルしか聴かないが48・坂道・ハロプロにはほとんど興味ない(坂道系では欅坂はちょっと聴く。今のハロプロではこぶしファクトリーはちょっといいかなとおもうけどライブに行くほどじゃない)みたいなことがあるのである。アイドルあんまり知らない人からすれば、48・坂道・ハロプロ以外にアイドルなんているの?てなるかもしれないが。
元増田の「好きな人」が具体的にどういったアイドルのヲタなのか、元増田が普段どういう音楽を好むのか、どういうアイドルを聴いてみてダメだったのか、などなど重要な情報が足りていないため、ドルヲタとしても有用な情報を提供できないのである。
気持ち悪くて聴いてると死にそう
はやく町中から消えてほしい
せめて耳元でエンドレスで歌うアイドルヲタの俺の友人、黙ってくれ
聴いたことない人がいるかもしれないから理由を説明すると、歌詞がドレミソラシドなのにメロディがドレミドソミドなんだよ
ドレミがわからない人もいるかもしれないから更に説明すると、いろはうたをあいうえおで歌われるようなもんだ
違和感に殺される助けてくれ
追記:京急ってファソラ♭シドレ♭ミファソ〜じゃなかったっけ?最近乗ってないから忘れた
追記:そうそう、問題は後半で、移調してるのはそこまで問題ないんだけどミより3度低いソなんて存在し得ないから気持ち悪いんだよ
4つのうちの1つは小学生のころに衝撃の出会いをしてからずっと好き。
もうあっちもデビュー18周年迎えたし、こっちもヲタク歴は17周年超えたね。
いわゆる"古株"と言えるような、昔から好きなファンかなあとは思う。
一方で、今一番熱量高く推してるグループも、15年越えのキャリアをもつ。
但し、私が推し始めたのはここ3年くらい。
いやあ、かっこいいっすよ、イケてる。売れてないけど。
これをグループBとする。
んで、不思議だなあと思うのがね。
「新規黙ってろよ」っていう古株のやつら。
あのさあ。
馬鹿なんじゃないの?
まず問いたいのはさ、そもそも古株って何をそんなに威張ってるわけ?
私たちが長年支えてきました~って?
そもそも、たまたまそのタイミングでそのグループを知る機会があった、ってだけだろ?
今まで知らなかった存在に気付いたり
知ってたけど、本人たちがスキルアップして魅力が増したりして
やっと好きの境界線を越えてきたってだけでしょうよ。
それは運営や本人たちやこういうくそな古株が居て、世の中に広まってなかったからだから。
金落としてくれる人数は多い方が楽だろうよ
お前らが石油王ならいいけどそうじゃなければ遅かれ早かれお前らの推しは消えるぞ。
食わなきゃ死ぬんだよ。
仲良しこよししろとか思わないけど、いちいち叩くのとかマウンティングするのとか
愚痴や悪口はLINEで言っとけ、なぜTwitterやら匿名掲示板仁書く。
お前ら友達いないのか。
そうかそうなのか。
それはどんまい。
HFが公開されたついでに、ZEROとSNを見直したりしていた。んで、snの人がわりとZEROを受け入れてないという話がちらほら聞かれるんだが、正直まったく共感できないので書き散らす。個人的に思うんだが、snとZEROをやたら違うといいたがる奴は、単にセイバーに対するキャラ萌えが足を引っ張ってるんじゃないか?ZEROでのセイバーの扱われ方が気に食わないから虚淵に噛み付いてるんじゃないか?
よくこういう反論を聞くんだが、これってそんなに重要なことなのか?ZEROで騎士道馬鹿みたいな描かれ方をしていたことが気に食わなかった、としか読めないんだが。ZEROにおいてセイバーの挫折と切嗣との決定的な考え方の違いや齟齬を描く上で、彼女の英雄としての立場と実際に救われる側の意識の違いは避けて通れないし、『祖国を救った救世主』が何故『民草の心が分からない人物』と評価を下されるに至ったかにおいて、十分説得力のあるデフォルメになっていたと思うけどな。ZEROでの出来事が彼女に大きな影響を与え、SNでの行動になっている、という考え方を大きく嫌う理由も分からない。単に気に食わない、というだけにしか聞こえない。SNにおける士郎の謎な『女の子は守る』行動なんかよりもよっぽどZEROにおけるセイバーの騎士道理念という行動基準は至極まっとうで納得できる設定に思える。それにSNでもセイバーは愚直で不器用な少女として描かれていたと思う。そういう意味でも、騎士道を前面に押し出す選択が何故そこまで矛盾と表現されるのかが分からない。さっぱり理解できない。
これも反論としてよく効くんだが、これってそんなに(ry 実際ZEROの影響を受けてSNで変わったと考えてもまったく問題ないんじゃないの?『選定のやり直し』も本質的には祖国の救済であることに変わりはないだろう。どこに矛盾があるのか??というよりこの二つにそれほど大きな乖離があるとも思えない。ただセイバーが自分自身がその役を辞すことを望んでいるというだけで、その理由も明確にZEROで示されているだろう。むしろZEROではセイバーの挫折をしっかりと描いているわけで、これほど説得力のあるスピンオフもないと思うんだが。
ここはむしろZEROの良いところだと思うんだが。やっぱりセイバーに対するキャラ萌えが起こしている不満なんじゃないか?セイバーの『人の心が分からない』理由は、『聖人的である』ことが原因だ、という至極全うな指摘だろう。イスカンダルやギルガメッシュが正しいとは言っているわけではないが、セイバーに欠けている資質をこれ以上ない仕方で言い表していたと思うぜ。実際よくあることなんじゃないか?人を大いに動かすのは夢を持つことであり、大成する人間はたいていそういうものをちゃんと持っている。それは言い方を変えれば『欲望』だ。学校で優等生だったからといって、世の中に出て大成するわけじゃない。優等生は優等生的な生き方しかできないし、大抵そういう子は世の中に出て挫折を経験してしまうものだろう。重要なのは自分がどうなりたいのか、何をもってして幸福になるのかをきちんと考えることであり、いわばそれは『利己的になること』そのものだ。そこを見据えずに幸福のための『自己犠牲』と『優等生的な生き方』だけを追求してしまえば、やり方は間違っていなかったはずなのにどういうわけか息子や娘がグレてしまった親=国を救えなかった王、となってしまうことはさほど想像に苦しくないと思うし、SNのセイバーと矛盾するとは思えない。
おそらくだが、イスカンダルとギルガメッシュが正しい、みたいな描かれ方が気に食わなかったんじゃないか?それはあくまで作中での描写であって別にセイバーが間違っていると断罪したわけではなく、そういう受け取り方をしたのは「あくまで視聴者」だろ。そしてそういう風に受けとれるような作品の作り方をしている。だってそういうコンセプトなんだもん。それを真に受けて「あんな書き方はないんじゃないか、セイバーの扱いがあんまりだ」と反感を買うのは、ぶっちゃけ作者の思うツボであって、むしろそういう読者の反応を引き出すことが出来ている虚淵さんが上手いと俺は思うけどね。
これってそんなに(ry こういう発言自体が疑惑を抱かざるを得ない原因というか、、やっぱりsnとの矛盾点を指摘する奴らのセイバーに対するキャラ萌えから来る擁護愛がすべての根っこだと思えてならない。お前らそんなにセイバー好きかよ??
これもやっぱり否定された、と思ったのは「視聴者」であって(ry 切嗣とセイバーとの考え方の決定的な断絶を表す上ではこれ以上ないほどの表現であろう。セイバーと切嗣は根幹は似ているけど、置かれている立場が決定的に異なるせいで、視座の違いからどうしても見解が相容れないものになってしまった。間違っているわけではないけど、結果的に挫折に繋がってしまった決定的なセイバーの視点の見逃をここまできっちり描いているスピンオフは明らかに原作リスペクトからくるものだし、正直この点はきのこ氏の描き方よりも虚淵氏の描き方の方がはっきり言って上手い。むしりSNも虚淵氏が書いた方が、士郎のキャラクターとしての説得力がもっと増すんじゃないかとすら思う。そもそもZEROという作品は「騎士道を批判している」わけではないし、別にセイバーが間違っていると断罪する作品というわけではない。ただセイバーの『実直で気品と正道を重んじる在り方』(それそのものは正しく、そしてそれがあるからこそ世界を成り立たせている非常に重要な要素)=優等生であるからこそ、彼女は挫折した、という運命(フェイト)についてきっちりした情報補完をしただけ( というか優等生ってのは挫折するって相場が決まってんだよぶっちゃけ。もうそれは運命みたいなもんだ。彼女は別に失敗したわけではなくて、為政者としてあまりに優等生であり正解を選び続けて成功し続けたからこそ、運命的にというか優等生の宿命的に王として国が滅亡するという結果になったというか。そこに王としての自分のあり方はあったけど、もっとそうではない生き方についての考察がなかったというか)
なんでこういう感想(「セイバーの扱い方が不満」)になっちゃうのかというと、やっぱりキャラ愛のせいなんじゃない?「ボクのセイバーはこんな無能じゃない!!」みたいな?
これに関しては矛盾というか、印象論だと思うんだよな。だってSNであんまり切嗣の話しないじゃん。ほとんど語られていない内容に矛盾も糞もあんのかよ。
三回についてはSNの設定準拠だろ。というか、そもそも効率を考えるとコミュニケーションは重要だ、という主張そのものが間違ってると思う。だってコミュニケーションを取れない奴って現実にいるからね。コミュニケーションって言葉は基本「相手は自分の言うことを分かってくれる」という思い込みと押し付けから来る理想論であって、本質的に人と人は分かり合えないものだし、対立って本質的には決定的なもので落としどころを作って妥協するしかない代物だし。最終的には殺し殺される関係で結果だけがすべてを物語るという世界に生きて何よりもそれを重視してきた切嗣が、「正しさ」とか「語る」なんてまどろこっしいことするか?ぶっちゃければ軍隊みたいなもんだよ。「視聴者」として層が厚いだろうヲタクが一番大嫌いな体育会系の世界の理屈だよこれは。そりゃお前らには受けが悪いだろうけどさ、やっぱり問答無用じゃないと先に進まないことってあるぜ。それのどこが幼稚なのかさっぱり分からん。アイリを間に噛ませることで精神的なケアや軋轢をしっかりと回避しているあたりも、切嗣はしっかり妥協をしている。妥協できる奴っでのは子供じゃなくて大人の代表だよ。そういう意味でも、切嗣の行動が幼稚だという指摘は受け取り手側の問題といわざるを得ない。
これって矛盾なのか???切嗣はロボットになりきれなった人間。これを見事に表現できていると思うんだが。
これに関しては表現の問題としか言いようがない。が、別に矛盾でもないだろう。セイバーはもともと最優サーヴァントなわけで、そこにさらに「星の聖剣」を使える奴をセイバーとして召喚できたらそりゃ強いに決まってる。作品では内輪事情に踏み込んで表現されているからさほどそうは見えないが、相手からすりゃ十分脅威だったと思うし、結果的にセイバーは相手方のサーヴァントをきちんと切伏せているわけだからその名に恥じない活躍をしている。単に「扱われ方がセイバー推しには納得のいくものではなかった」っていうだけ。それにしたって、ZEROはセイバーの挫折を描くというコンセプトで作られているのだから、当たり前のことなはずだが。
なにが意味不明なのか分からない。切嗣の言葉には説得力しかないと思うんだが。そもそもこの反論ってセイバーが英雄馬鹿ではないとしたら成立しないのでは?彼女が英雄馬鹿ではないのなら、切嗣のこの考え方に賛同してもおかしくはない。戦場は地獄であり騎士道なんてもので誤魔化そうとも敗者は敗者でしかないし、そもそもいくら周りがなんといおうと本質的に兵士は英雄として死んでいくわけではない(※この辺は与謝野晶子でも読んどけって感じでいまさら語ることでもないだろ)このくだりを意味不明と扱うのは、やっぱりセイバーが切嗣にけちょんけちょんに言われているという扱われ方不満なのであって、ストーリーの完成度というよりは単にキャラ萌えの問題なんじゃないのか?
見ていて多分ここが決定的に違うと思うんだよな。増田は別にセイバー好きじゃないです。リビドーをぶつける対象ではあるけど、それ以上の目線は特にないです。別に彼女のあり方とか考え方とかにはあまり興味もないし、snを通してセイバーが最終的に救われたとも特に思わない。そもそも士郎自体が理解不能に描かれているので「士郎がどうにかしたいと思うセイバー」という存在にもあまり共感は出来ていないのがそもそもの原因だとは思う。ぶっちゃけセイバーENDよりもUBWエンドの方が好きだしな。。。士郎は何かとセイバーを不憫に思ったり彼女を救いたいと思ったりしているけど、セイバーってそういう存在だっけ??という違和感がどうしても先行してしまう。もともとヒロイン枠で作られた存在ではなかったというだけあって、やっぱり攻略対象としてはちょっと異質なのが彼女なんじゃないかなぁ。。。
ZEROの原作矛盾を批判する人はやっぱりどこかsnセイバー好きな感じがあって、snセイバーをものすごく神聖なものとして扱っている節があるんだけど、個人的にそれは癌だと思う。だってsnのセイバーってストーリー強度や設定で言えばかなりガバガバで無理がある存在なんだよ。あそこでキャラクターの個性をFixしてしまうと、そりゃその後の作品が受け付けなくなるよな、と思う。キャラ萌えもひとつの作品の楽しみ方ではあるけれど、もっと純粋にストーリーとしてのFateの考察をするべきでは?
これも結構あって、俺はわりと桜好きなんだよなー。Fate//EXTRA CCCとかのBBを見てると、桜はリビドーの対象としてもヒロインとしても実に正統派だと思うんだけどどうなんだろう。HFルートはいいと思うよ、あれ。桜嫌いって言う人がわりといるんだけど、結構な確率でセイバー好きが混じってる気がする。そしてそういう奴に限ってsnセイバーに拘ったりする。まあ楽しみ方は人それぞれだし、別に俺はキャラ愛を誰かと共有したいとかそういう願望はないんだけど、あえてここに切り込みをいれると、おそらくこういう層の楽しみ方や考え方ってある種アイドルヲタに似てるんだよね。自分の推しメンがいて、それを共有できるかできないか、みたいな思考回路なんだと思う。いいとか悪いとかではなくて、まあそういう思考回路なんだってことなんだけど。
問題なのはアイドル的な楽しみ方でFateを語るときに、そこにZEROとsnにおけるセイバーの扱われ方の確執という問題が起こっているに過ぎないのであって、決してZEROが矛盾しているというわけではないということを俺は断言したい。そういう意味でもイスカンダルを女体化ではなく渋い男として表現した虚淵をファインプレーと称えたいし、設定ガバガバで厨二前回の型月Fateシリーズの中で実に渋い出来栄えとなっているZEROを俺は推したい。ZEROという作品のおかげでFateはキャラ萌えだけではない作品になっているし、切嗣を代表とする厨二とはまた一線を画すキャラクターが織り成す絶望と儚く淡い幸福への渇望の描き方が非常に上手い、絶妙な作品になっている。OPの曲もいいしね。
43歳。男。フリーター。
生まれつき気が弱く、コミュ障、仕事も安定せず、10年以上心療内科に断続的に通っている。
もちろん童貞で異性との交際経験も無く、ここ数年で性欲も減退気味。
親元で暮らしてるのでなんとか家に金を入れて自分の生計は立ててるが、
親にも心配されてカウンセリングにも通い始めたが改善の道筋が見えない。
アイドルヲタクしてるだけマシかも知れないが徐々にモチベが萎えてきてる。
どうにも気が弱く、どうでもいいことで緊張したりして仕事でミス、周りの目や反応を気にして
もう少し図太くなれたら、仕事もプライベートも今よりマシになる気がするが改善できずにこの歳になってしまった。
ずっと独り言で「死にたい。死ね」はよく言っている。でもやる勇気はないんだけど。
ただそうしたほうがいい人生だな。と思う。でも親は悲しむだろうな、でも心配かけっぱなしだしいっそ…
なんてたまに堂々巡りしながら結局生きている。
ジャニヲタの皆さんは時々、はてなを賑わせるけど私は賑わせない方のジャニヲタ。
アイドルを中心に生活してて、アイドルヲタクがアイデンティティみたいなとこがあって私からアイドル取ったら何が残るの?というヤバめな、というか可哀相なヲタクです、私は。
もう毎日感想だけ呟いてる。ただ呟いて終わり。誰からも反応はない。私は壁打ちのようなことをずっとやっている。もう5年以上はそんな感じ。
私のことは誰も見てない。私のことをフォローしているのは人間なのか何なのかよくわからないアカウント。
そんなアカウントで、フォローしている人たちのツイートがタイムラインに流れてきてそれを見てただひたすらにアイドルのことを呟いている。まるで私も一緒に応援しているかのよう。誰も見てないのに。
最初は別にそれで良かったし、友達の輪を広げようと積極的に動いたことも無かった。
けれどかれこれそんなことをやってもう5年。
「最近好きになってヲタ垢つくっちゃいましたー」みたいな人がヲタ友の輪をどんどん広げてコンサート同行させてもらって楽しかった!みたいな流れ目にすることがある。
さらには
「前に譲ってもらった方から○○公演の分も譲ってもらっちゃった!」
みたいなツイートを見た日には「ツアー1公演しか行けなかったのになーまだ好きになって半年とかなのにそんなにコンサート行けていいなーあっという間に追い抜かされたなー」と大人げない感想を持ってしまう。
行きたきゃコンサート行けよって思われるかもしれないがジャニーズの人気グループだと、チケットを申し込んでもだいたい外れる。
だから友達同士でチケットを譲ってもらったりしてていいなと思うし、最近デジチケが主流になったことでさらにそんなヲタクの行動が羨ましく思えてくる。
私みたいなボッチの人間は「友達の友達までで誰かいませんか」の問いをスルーするしかない。
アイドルのことしか頭にない人間なのにアイドル界隈にも居場所ないじゃんと思えてきた。
なんかTwitterに書く私の言葉は壁打ちならまだいい方で、放った瞬間に消えてなくなるみたいなもんだと思う。
アイドル本人は元よりヲタクの誰一人として私の存在を知らない。
生きてるのか死んでるのか分からなくない?
「ジャニヲタは辞めるけどヲタクをしていなかったら出逢えなかったステキな友達ができました!」
というような文を見てきたが私にはそのような出会いがない。
ただただ羨ましい。私がもしジャニヲタを辞めたら何が残るかな?
何も残らないかな。
私のヲタク生活は何も、もたらしてない。いや、アイドル好きぐらいで何言ってんだよって話なのは分かるが、かけた時間とお金と思いのわりに自分の手元に何も残っていない。もはや悔しい。
どーーんだけ好きでコンサートに行ってもメンバーには遠くの方にある大勢あるうちのひとつの光(ペンラ)でしかない。ヲタクなんてそんなもん。
そんなことは最初から分かっている。でも本当に私は光以外の何物も得られなかった。皆は色々なステキなものを得られているのに。出会えているのに。
SNSと2chでアンチに粘着されて気付いたことがあったので増田にメモしておく。
私は古参で現場にも通いつめてるし、できるだけ界隈が盛り上がるようにSNSで活動してきたつもりだからファンの間でも有名な方だと思う。
イベントでマナー違反を繰り返している一団がいて、その一団のことをブログで非難した。
SNSでは私に同調してくれる人も多かったけど、それから知らない人から叩かれることが急に増えた。
捨て垢だからブロックや通報をしてもまた新しい捨て垢に絡まれる。
2chのアイドルグループ関連のスレでも私を名指しで叩く人が現れた。
叩かれる内容は、私の容姿ばかり。
現場で知り合いといつも大勢で集まってるから、私を一方的に知っている人は多い。
それがここ1年はずっと続いてる。
叩かれることには慣れた。
ツイッターは捨て垢の飛ばす悪口がワンパターンだからキーワードミュートした。
2chはまた悪口が書かれてるとわかりながら自分からスレを覗いてる。
2chでネタにされそうだと思った私のSNSの発言は大抵話題にされてるから、どんな罵倒レスになるか予想して楽しんでる。
本題はここから。
私にも嫌いな人はたくさんいる。
死んでほしい人さえ何人もいる。
でもその人の悪口を1年間言い続けれる自信はない。
そんなモチベーションや時間があれば推してる娘のブログを1000000回読んでる。
この人たちは私の容姿を目に焼き付けて、SNSの発言を何度も読み返してる。
何時間も私のことを考えてる。
多分アンチの人たちにとってアイドルグループの娘たちのことより私のことを考えてる時間のが長い。
どうしてこんなに熱心に粘着できるんだろう。
これが1つ目に気付いたこと。
2つめに、私は自分がこんな風に思ってると気付いた。
「人の心をこんなに動かしてる私はすごいんじゃないか?」
2chのスレでアイドルの個人名より私の名前の方が多く挙がる日も多い。
アンチのほとんどは自作自演に見えるけど、この1年で私を知ってる人は増えたと思う。
本心を言うなら、叩かれて辛い思いはしてる。
どうしてこんなに酷く言うんだろうと泣きそうになる瞬間はある。
いつか現場で急に暴力をふるわれるんじゃないかって恐怖もある。
そんなネガティブな気持ちに蓋するため、心の安全装置みたいなのが働いて「私はこんなに人の心を動かしてるんだ、私はすごい」と自己暗示をかけてる気がする。
炎上してる有名人にもこの心の安全装置が働いてるかもしれない。
何度も炎上を繰り返す人は、この快感が忘れられなくなってるんだろうか。
これが2つ目の発見。
私は今の立場のままアイドルグループのヲタを続けるつもりだから、これからもアンチの粘着とは長い付き合いになるはず。
アンチの嫌がらせが度を過ぎてきたら何か考えるかもしれないけど、今の私はアンチとの関係を楽しんでる気がする。
読んでくれた人ありがとう。
もうすぐ、元SMAP3人がジャニーズ事務所を辞めて独立する日が近付いている。
私はSMAPヲタクでもなければ、ジャニヲタでもない、某女性アイドルがだいすきなアイドルヲタクだけれど、SMAP5人の行く末が気になって仕方がなく、ずっと情報を追っていた。
とにかく、私はTVや舞台の上で虚構と現実を行き来するアイドルという存在がだいすきで、数年前のSMAPの27時間TVで本気で感動した。正直年上すぎてSMAPのことを「テレビタレント」としか思っていなかったけれど、認識が変わった。
彼らは日本一のアイドルだった。彼らがノンストップライブをする姿を見て、私が推しのアイドルの子に立ってほしい未来そのものだと思った。
SMAPの公開処刑には絶望したし、もう日本の芸能界って本当に駄目だなあと絶句した。
現実と虚構の境界線が曖昧な芸能界。あの瞬間、現実と虚構の線引きがハッキリしてしまい、2016年、長い長い夢の終わりが来てしまった。
でも、芸能界という虚構と現実が曖昧な世界を生き続けるために、彼らがいつかまた夢を見させてくれたら、それはそれで私はものすごく感動する。デビュー曲の「素敵な夢を見させておくれ」って歌詞が愛おしい。
キムタクはいい加減「キムタク」を卒業すべきって論調あるけど、キムタクがキムタクを卒業したら何が残るのだろう。
むしろ、キムタクは木村拓哉を卒業すべきだと思う。完全なる国民の公共物になるか、スターを辞め等身大の妻子持ちオッサンになるかの選択を迫られている。
ヲタオチ、したことありますか?私は時間を持て余すと過去ログを永遠と読み続けてしまうくらい、ヲタオチが好きです。私がよく見るのはアイドルヲタのスレで、内容は大体気に入らないヲタクのアカウント晒したり、インスタ晒したり、顔晒したり、うちわ晒したり、あらゆる手段でブスとかカラコン合ってないとか悪口を言うところ。読んでる自分何してるんだろうなとは思うんですが、とっても面白いんです。まず私がさっきまで覗いていた界隈ではアイドルと同じ飛行機に乗る「同便」とか空港出待ちとかする人間の情報が集まってる。本当なのか嘘なのかは分からない、でもこいつはこの国での海外公演に飛んでる、サイン会に積んでる、そのためにこういう手段で金を手に入れてるって情報が書かれている。例えば、水商売とか風俗とかいわゆる夜のお仕事をしてる、こいつの在籍はこことか店のリンクが貼られるみたいな流れって大体お決まり、こいつは親金って書かれたり。そんなの信じるの?って思われるだろうけど、海外と日本を行き来する追っかけって信じられないくらいお金がかかるはず。だから在籍店は嘘にしたって、この中に2割くらいは本当の話があるんだろうなと納得しながら読めてしまうのだ。私はヲタクで、犯罪しなけりゃどんな手段で稼いだ金でも別に好きに使えばいいんじゃないかなと思う。ただ、ヲタオチで見る人間みたいなことは自分には到底できないとしっかり理解している。10代後半~20代前半の女性がここまでアイドルに執着して人生投げうって生きている様子は怖い。そしてスレで名前が挙がる人間は大体公称だと私より年下か同年代で、もちろん心配になる。でも所詮他人事なので、殺戮映画でも観ているようで面白いという好奇心が勝つ。この人間たちの親は兄弟は?周囲は?何も言わないんだろうかとか、本人は何を考えて生きているんだろう楽しくてやってるんだろうかとか、考えは尽きない。理解できない人間のことを考えることが、他人の狂いっぷりを指1本で知ることが私の楽しみの1つで、狂っている人間の将来や人生を心配せず、狂ってて面白いと笑っている自分の方がたぶん狂っていて悪趣味だ。
あーひさしぶりだー
なんだっけ。
アイマスのことだったかな。アイマスっつってもあれな、シンデレラガールズの方。
優しい世界でいいよね、アイマス。でもなんで俺はそこにいるアイドルに闇をくっつけたがるんだろうな。
けっこう自己嫌悪してるんだよ。
例えばな、乙倉悠貴って子がいる。ジュニアモデル経験がある、という設定がある。
ジュニアモデル、だとしたらまあティーンズファッション誌のモデルとかかな、っていう解釈もいけるけど仮に実は
「ジュニアアイドル」だったとしたら?という勘違いから俺の心の嫌な部分は変な闇を見つけ出す。
親にだまくらかされて過激な露出のイメージビデオなんぞ撮られてたら?とか。
他にはウサミンこと安部菜々。デレステのコミュによって「メイドカフェでバイトしながら地下アイドルとして過去に活動していた」
ことが確定の設定となった。その後現在のプロデューサーにスカウトされる形でデビューするわけだが、じゃあこの「地下時代のファン」
はどうしてるのかと考えだしたらなんというかアイドルヲタ特有の古参新参戦争を思い出してしまってもはやウサミン星民族紛争が
明確なストーリーにでもできたらそれこそ薄い本にしたっていいしどっかの掲示板にSSでも書いてりゃいいんじゃねーのかという話かも
しれないがそこまでしっかりしたものを思いついてるわけじゃないんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。