はてなキーワード: ものとは
クリエイティビティ溢れるアッパーミドル層が持つべきものを、貧困層が無理して持たなくてもええんやで
リニアの延期で静岡県が槍玉に上がっているが、現在の制度上国と地方は対等で、国策などの都合で引き倒されないための地方自治でもある。数多の利害関係者がおり、総論賛成各論反対があり、その中で粘り強く、泥臭く、着地点を探っていくのが肝要であり、それを国策だから押し通すのを是とすると地方自治は損なわれる。
私たちの住む地域の向かいたい所と国策の向かう所が一致するとは限らない。全国的な世論と一部地域の世論が一致するとも限らない。自分の意見が多数派というのは偶然の産物である。たまたま多数派にいることをもって、少数派の地域を軽んじるのは、その矛先が自分たちの地域に向く可能性を考えていない点で楽観的であり、多数派に安住できるという傲慢である。
いち開業地域に住む人間としては、リニアには乗ってみたいし、静岡県知事の軽率な言論には眉をひそめる。経済効果的な面でも関連ビジネス的な意味でも歯がゆい思いをして恨み言を吐きたい人がいるのもわかる。しかし、だからといってこの泥臭くて面倒臭いプロセスを軽んじる言説は、民主主義の学校たる地方自治を自ら打ち捨てるようで如何なものかと思う。
「第一志望の会社から内定出ました!」みたいなポストがちらほらあがってて、
本当に今は求職者側が強いんだなって思いました。
氷河期真っ最中のワシらの時代は、そもそも志望する業界の求人が全部トップ大学に取られて、
就職課から「この業界だけは止めておけ」って名指しされるような先物投資くらいしかなく、
きゅうり好きによる小話なのできゅうり苦手な人はお帰りください→(Yahooへのリンク)
きゅうりが好きで毎晩食べてるんだけど。
今までスライサーで細かくしてサラダにしたり乱切りしてポン酢で食べたりしてたんだよね。キムチと混ぜたりトーストにマヨネーズと乗せても美味い。万能きゅうり。
でも今日の夕飯のおかずがショッパイものしかなかったからドレッシングやポン酢やマヨネーズすらもきゅうりにつけたくなかったのね。塩分気になるし。じゃあ乱切りにして食べるか…と皿を出そうとして、ふと切るのも皿洗うのも面倒だから齧るか?と気付いちゃったの。頭良すぎ。
んで丸かじりしてみたら美味いの。
濃いし甘いしみずみずしいし。
Theきゅうり!!って感じ。もちろん何もつけてない。だからこその美味さよ。
五感について考え直す機会があった。ちょっと語らせてほしい。気に障る箇所があったら申し訳ない。
五感というのは、いわゆる味覚、嗅覚、触覚、◇、聴覚の5つである。第六感とか、セブンセンシズとか、阿頼耶識みたいな特殊なものは含まない。
子どもの頃から気になっていた。一部の感覚がおかしいのではないかと。増田民やブクマカの皆様から見てもそうかもしれない。
ひとつずつ、エピソードを交えて話していく。一応、マジで悩んでいる。
鋭くはない。むしろ鈍いと思う。グラタンとかカレーとかケーキとか食べても、となりで食べてる仲間ほどには感動できない。味を感じないのだ。名店にある各メニューを食しても、味の感覚がボヤっとしている。
塩味やアルコール味には敏感である。例えば、先日居酒屋で鯛納豆(鯛の切り身+ひきわり納豆+醤油)というのを食べたのだが、正直無理だった。鯛は美味かったが、納豆と醤油の塩味がダメで残した。
同じく日本酒も飲めない。味が濃すぎて、喉に入る時にオエっとなる。同じ理由で焼酎もウイスキーもブランデーもダメだ。水や炭酸で割れば何とか飲める。
ダントツで一番弱い。小学校の頃だった。妹と一緒に家に帰って、台所に入ると父が鍋でカレーを煮ていた。鍋には蓋がしてあった。妹は、「カレーおいしそうー!」と言ってた。
でも、私にはわからなかった。鼻で嗅いでも、ニオイが伝わってこない。どうしても感じなかった。皿の上にカレーが乗って、鼻を近づけたら何とかわかる。
こんな具合で、自転車通勤中にバキュームカーが汲み取り作業をしていても、汗だくの職場仲間が傍を通っても、山手線の駅構内で女子高生が下水の臭いにオエっとなっていても、私は何も感じることができない。雨の山中で半日ほど履いたソックスでも、鼻を近づけて「ちょっと不快」という程度である。
原始時代に生まれていたら詰んでいた。こんな嗅覚では狩猟や戦争などできそうにない。おとめ座のシャカに天舞宝輪を食らっても、さしあたり何の影響もない。あの技で最初に奪われる第一感は、たしか触覚だったっけ?
特に感想はない。しいて言えば、40を過ぎた今でも握力が65kgある。子どもの頃から剣道をしていて、握力や腕力のトレーニングに余念がなかった。
じゃあ何? みたいなレベルだが、こればかりは普通だと思う。とはいえ、触覚の敏感さが普通なのかそうでないのか、他者のクオリアを感じることができない以上は意味がない問いである。
視力はいい方だ。子どもの頃からずっと2.0ある。今は土木仕事をしているが、パソコン仕事もする職種である。家でも休日にPCゲームをプレイする。遅まきながらに『グノーシア』にハマっている。
1日に最低6時間はパソコンモニターを見ていることになるが、それでも視力は落ちない。50才近くになったら老眼とかになって、間近を見ることができなくなるらしい。どんな感覚なんだろうな。
これもおかしい。他人の話を聞いていて、聞けているはずなのに理解していないということがある。なんというか、話の中の特定箇所の記憶がないのだ。ブツッと途切れるというか。こんな性だから、英語のリスニングテストはひどい有様だった。職場での意思疎通もフツーに難儀している。
アニメや映画を視聴している時もそうだ。せっかく楽しんで見ているのに、ある場面でブチっと理解の糸が切れて、何度も何度も10秒戻しのボタンを押すことになる。なんでこんなことになるのだろうか。イラっとするが、自分ではどうしようもない……。
いろいろ語りはしたが、増田民やブクマカの意見を聞くために当日記を書いた。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
多世界解釈は量子力学の観測問題に対する一つの解釈で、宇宙の波動関数を実在のものとみなし、その波動関数がシュレディンガー方程式に従って時間発展すると考える。
この解釈では波束の収縮は起こらず、代わりに重ね合わせ状態が干渉性を失うことで異なる世界に分岐していくと考えられる。
しかし意識がどのように一つの分岐を選択するかについては疑問が残る。多世界解釈ではすべての可能な結果がそれぞれの世界で実現するとされている。
意識が一つの分岐を「選択」するのだろうか。それとも意識のすべての可能な状態がそれぞれの世界で実現するのだろうか。
この解釈は物理学者や哲学者の間でさまざまな議論を引き起こしている。特に多世界解釈が「存在論的な浪費」であるとの批判もある。
つまり観測できない多数の世界を考えること自体が論理の無駄だというものである。
ところでエントロピーは一般的には系の「乱雑さ」や「不確定性」を表す量として理解されるが、エントロピーが低下するということは「秩序」が増すということを意味する。
観測によって情報が定まることによってエントロピーが低下するという観点から見ると、系の状態が特定の状態に「収束」するという意味で理解できる。
ここで情報理論について見てみると、観測者が持つ知識が、観測対象に対して影響を与えうるのではないかという疑問が生じる。
ジョン・フォン・ノイマンは、1932年の著書 「量子力学の数学的基礎」において、精神が現象に直接的に影響を与えないという前提が科学的世界観にとって基本的な要請であるとして、実験系と測定側の境界を置けなければならないと述べている。
しかし観測主体が対象のエントロピーを低下させるという事実を無視することはできない。これは環境と対象が相互作用した場合のデコヒーレンスとは違っているのである。
熱力学第二法則では基本的に2つのことを述べており、一つはデコヒーレンスによるエントロピー増加、もうひとつは観測によるエントロピー低下である。
観測者が系に知識をもたらすことによって情報が積み重ねられていった結果、現在の世界が存在すると考えれば、本質的に情報理論こそが量子力学の基礎を成していることがわかる。
しかしこの情報理論は諸刃の剣であり、つまり世界の安定性がなぜ保証されるのか不安になるので、当面の物理学の要請として量子力学から情報理論の側面を剥ぎ取ることが要求されるだろう。
どんどん白熱していく争いを離れたとこから見て、観客気取りでいる
どっちが悪いかはわからないので、双方をキショいなぁと中立的に見る
あと、見てる側からしたら争いの激化の果てに片方が発狂して何かやらかしても、不謹慎だけど「おお、盛り上がってきたな!」としかならんし
だってあくまで遠目に見てるだけの観客なので、双方を煽ったり叩いたりもしてないので無関係だし、テレビのニュースみたいなものよ
https://viewer.heros-web.com/episode/11341664176551636503
フランス料理ってコースばっかりのイメージで、たまに定食形式で一品ドンと食わせてくれよって思う。
俺のフレンチとかあった気がするけど、あれがそうだったんたろうか。昔ちょっと話題になってたけどあんまり浸透してるイメージはない。
何かしらのオードブルが出て、何かしらのスープが出て、グラニテが出たり出なかったりして、何かしらのソースがかかった何かしらの肉や何かしらの魚のポワレなりパイなりが出て、デザートとコーヒーで〆る中で「これぞフレンチ」って感じのものがあんまり浮かばない。この食材を使ったこの調理法のコレ!って感じのが。
ロシアならボルシチピロシキなり、イギリスならフィッシュアンドチプスなりジェリードイールなり。アメリカもチリコンカーンやらハンバーガーやら、分かりやすい感じの代表メニュー的なやつがある。中華なんて日式の微妙なラインも含めたら無限にあるのに。
コロッケがフランス料理というのは有名な話だけど、ひき肉混じりのハッシュポテトを揚げたいわゆる日本のコロッケがそうかと言われると微妙っぽい。
エスカルゴもサイゼ以外では中々見ない。あそこ一応イタリアン名乗ってるし。
フォアグラもそう日常的に食うもんでもない。自分の肝臓がフォアグラになっちゃうし。
イタリアンは定食かと言うと微妙だけど、それこそピザパスタのメイン一品軸でサクッと楽しめる。フレンチもそんな感じで食いたい。
フランス人とて毎食毎食コース料理食う訳でもなかろうし、日常的な飯の中で自然に入り込んでくるフランス色みたいなのを楽しみたい。
犬のかがやきa.k.aなか憲人やべーな
工作にしてもまんがにしても手数の多さというか仕事の速さというかアウトプットの素早さに質が高いレベルで伴ってるの本当にすごいよね
なんかあっけにとられちゃった、今度の話は本当に
少ないページでわざとらしさもくどさもなくてただそこに至るまでの瞬間の積み重ねがあっただけというような鮮烈さでほんまにすごいね…
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/viewer.heros-web.com/episode/10044607041229994323
現代存命してる人の中でだいぶすごいほうの人に数えてる
センス…
小林製薬かあ。
昔、小林製薬創業者血縁の人と同じ職場で働いたことがあったけど。
まあ、性格がクソだった。
なにかあると、揚げ足を取ってきて詰めようとしてくるとか。上司でもなんでもないのに、なぜこっちを詰めてこようとするか、訳わからんかった。
気に入らないことがあると、キレ散らかす。上司にはそういうことは一切しない。自分の同僚か後輩にたいして、キレ散らかしてた。
上司には絶対にそういうことをしないから、案外、上層部には気に入られていたよね。
自分が気持ちよければ、それでよいけど、なにか気に入らないことがあるとキレ散らかす。まあ、ヒステリー気質か、甘やかされた子供の様な人だったのだろうと思う。
すぐにその職場を、異動で離れたから良かったけど。同じ様な被害を受けている人、今でもいるんじゃないかなあ。
今回の小林製薬の対応(大阪の紅麹工場を閉じる様な隠蔽工作を疑わせる行動、インサイダーを疑わせる様な行動)を見ると、さもありなんと思う。
自分は、運悪く?他にも会社創業者の御曹司みたいな人に会うことが多かった。
そういう人がクズの場合(そういう場合ががほとんどだったけど)、その会社の製品は、それ以降絶対に買わないようにしている。
自分がそんな小さな器の人間であることを気にしていたし、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言って自嘲して笑っていたけど。
逆鱗に触れるだとか琴線に触れるとか使うな、ってツイートが炎上して、「馬鹿でいることの危険性は女王の教室やドラゴン桜が証明しているぞ!!」って反論されてるけどさ、
まぁ反論してるやつの中に将来不安定な新米研究員、○○研究家(という名の一般人)、イラスト描きじゃなくて歴史研究同人誌書いてるタイプのオタクみたいなのが見受けられるんだよな。
もうはっきり言っちゃうけど、
お前らほんとは学問や学術や研究で食っていきたかったしその能力もあるんだけど、自民党が学問を疎かにしたからーみたいな理由であきらめざるを得なかったんでしょ。
それが嫌で嫌で仕方ないし、いまさら別の仕事なんてやりたくないから、何とかして学問が大切にされる方向に持って行きたいんでしょ?
それこそ桜木が言うような「自分たちがもうかる仕組み」を、自分が大好きでライフワークでアイデンティティになっている学問や研究で作りたいんでしょ?
ちょっと話ずれるけど、ぶっちゃけお前ら上に立ったらスポーツ事業ガンガン縮小するでしょ。
体育会系への怒りや憎しみがすさまじいし、アスリートへの敵視すごいし(北島康介が変な宗教の会合行ったら「アスリートなんてこんなもんだから持ち上げるな」とか)、ことあるごとに「体育廃止!!体育廃止!!」と叫ぶし、「スポーツの語源は気晴らし!」と論文書くし…
タイトルの通りだけど、だいたいこの手の話題は、机に向かって書籍を読むみたいな「学校のお勉強」がもてはやされるんだよ。
友人との交流、アルバイト、恋愛などで培われる「社会経験、社会勉強」みたいなのは話題にも挙がらない。
本で偉い先生が考えたご高説ではどうしても身につかない、知りようがないリアルな社会。
こういうことはあんまり言っちゃいけないだとか、なんとなく世間的に受け入れられているルール、不文律とかね。
学校のお勉強を重視する人たちって、ちょっと理不尽なルールがあろうもんなら「ならぬならぬぞっ!!!」って否定するよな。
正直そういう不文律みたいなものを学ぼうとしても、否定するでしょ。
こういうのを学んでおかないと結構大変なことになってさ
みたいな「うわぁ…」なことしちゃうわけよ。
そのうえ、仲間はそれを諫めるどころか褒めるんだよ。
知識・教養はあるけど社会の「普通」からは大きく外れている人を、うまくおだてて利用しているみたいな構図になっちゃってるのよ。
言い方悪いけど、悪い大人に騙されてる、良いように使われている。
桜木が言う「馬鹿」とは別方向の「馬鹿」が産まれちゃってるのよ。
両方やりゃいいって話なんだけど、これは正直水と油の関係でしょ…
自称進学校の「モットーは文武両道」みたいなものと同じで、言うのは簡単だけど全く別方向すぎて結局どっちかしか頑張れない。
生き残ることを考えるなら、机に向かって古文漢文や三角関数や微積を必死に頑張るより、友達と遊んで「こんな人間がいるんだな」、バイトして「働くってこういうことなんだな」っていう勉強を頑張ったほうがいいと思うけどな。
安全性に疑問がある着色料
見せかけの色で美味しそうに見せるのは優良誤認では?
名前をぼかしているなどで名誉毀損に該当するほどではなくても、軽犯罪法などでしょっぴくべき
みっつめ、エイプリルフール!
誰も得しないし、混乱を招くので辞めるべき
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
この、背中にバチクソスタッズを埋めたような恐竜は、サイカニアです。
背中のスタッズは自身の骨が装甲になったもので、この手の恐竜を装盾亜目と言います。
サイカニアの装甲は、あのステゴサウルスよりも硬いと言われ、カルシウムを自身の成長よりも背中の装甲に全振りしてまで硬くしてあります。
ですが最強の盾を持ったサイカニアにも致命的な弱点があります。それは、大型肉食恐竜の歯は防げないということです。
いくら硬く育てたといっても所詮は骨であり、ティラノサウルスやアロサウルスといった大型の肉食恐竜が嚙みつくのを防ぐことはできず、連れていかれます。