はてなキーワード: ものづくりとは
結論から言うと、この先アーティストやクリエイターがとても人気者になれる時代が来る
AIの進化により、論理的思考を伴う仕事から徐々にコンピュータに奪われていく
どんどん奪われる。
極論を言えば、この先の時代で論理的思考を伴った仕事はすべて性能の良いコンピュータが
行うことになる。
そうなると、人々はコンピュータが回す社会の中で「年金」のような給付金を
のびのびと遊びながら暮らすことになる。
そんな時代になると、論理的思考を伴った技術や情報はインターネットで一瞬で共有されて
そうなると、論理的思考を伴わない、アーティストやクリエイティブなものづくりができるかどうかが
今の時代は全く逆で、今の時代は仕事が出来る人(論理的思考が出来る人)が社会で評価され、会社員になって
安定した収入を得て、安定した生活を送れるかどうかが、社会人としての暗黙のステータスである。
ミュージシャンやアーティスト、クリエイターを評価してくれる人はごくわずかだ。
また、未来の学校では偏差値教育から、自分の個性をうまく表現できるかどうか、そんな教育へシフトする
コンピュータが作ったアート、という新しいジャンルも存在するが、一部の人たちにしか受けない
(会議室の灯りがゆっくりと落とされる。没個性と社会的協調を究むるスーツ達が長机とパイプ椅子に腰掛けている。衣擦れの音はほんの僅かにしか聞こえてこない。均質な空間の前にプロジェクタの光が投影され、上着を脱いだ男──クールビズだ──がマイクを持って人々に声を発し始めた)
当システム稼動開始70ヶ月という大きな節目を過ぎ、2ヶ月後には、運用6年目を迎えます。
私も上流担当になり、技術の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、SEとしての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、技術のオープン化が進む中、当システムもまたレガシーとなった場合、どのような在り方が望ましいか、SEという立場上、既存のシステム構成に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
入社以来、私は当システム開発運用を行うと共に、弊社開発組織の上流と位置づけられたSEの望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。運用の担当者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる技術と顧客の中にあって、弊社の開発部門が、いかに技術をオープン化し、いきいきとして社会に内在し、顧客の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の長期システムダウンを受け、加えてレガシー化による可用性の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように保守をしていくことが、弊社にとり、顧客にとり、また、私のあとを歩む社員にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。経営的観点から見て、幸いに顧客満足度は高くあるとは申せ、次第に進む当システムの大規模化を考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって顧客のニーズに応えていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私がSEの職務についてから、ほぼ2年、この間私は、弊社における多くの喜びの時、また悲しみの時を、顧客と共に過ごして来ました。私はこれまでSEの務めとして、何よりもまず部門の売り上げ目標に到達することを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として顧客の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。SEが上流工程を担うと共に、顧客獲得の要としての役割を果たすためには、弊社が顧客に、SEという上流の立場への理解を求めると共に、SEもまた、自らのありように深く心し、弊社社内に対する理解を深め、常に社員と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、社内の各部署、とりわけ営業部や企画部との交渉も、私はSEの上流工程に必要な行為として、大切なものと感じて来ました。PGの時代も含め、これまで私が上司と共に行って来たほぼ全社に及ぶ対話は、社内のどこにおいても、その部署を理解し、その利益を地道に支える社員の方々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、SEとして大切な、顧客を思い、ものづくりに励むという務めを、顧客への深い信頼と契約をもってなし得たことは、幸せなことでした。
SEの上流工程に伴う仕事の仕方が、開発工程や、そのマネジメントとしての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、SEが多忙であったり、出張などによりその業務を果たし得なくなった場合には、運用を自動化するクラウドを置くことも考えられます。しかし、この場合も、SEが十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、当システムの運用終了に至るまで責任者であり続けることに変わりはありません。
SEが配置転換により、担当から外れる状況に立ち至った場合、これまでにも見られたように、当システムがダウンし、顧客の満足度にも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの弊社の慣例として、当システムの運用終了に当たっては、複雑な手続きが連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後プロジェクト報告に関連する書類の作成が、1年間続きます。その様々な手続きと、新システムに関わる諸行事が同時に進行することから、当システムに関わる人々、とりわけ待たされる顧客は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、弊社経営陣の下、SEは方針に関する決定権を有しません。そうした中で、このたび弊社の長い開発運用の歴史を改めて振り返りつつ、これからもSEがどのような時にも顧客と共にあり、相たずさえて当システムの未来を築いていけるよう、そしてSEの務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
まるで自分に自信がない。
自信をつけたいと思い色々頑張ってみるが、
いつも心折れる。
29歳、ものづくりの自営だが儲かってないのでバイトしながらの生活。
金なくて暇もない、恋人もいない、女だから美容に気を使うが、既婚者や変なやつにしつこくされ、好きな人には好かれずいつも片思い。
いやいや、それだけが女の幸せなのかよ?と自問自答するが、ひとりぼっちに選択の余地は無いから愚問だね。
行った事の無い海外にでも行ってみたら、行動力が増して自信になるの?金が手に入れば、自由になって自信がつくの?
アンガーマネジメント覚えて、自己管理して、ちゃんと人と話して、人付き合いして、嘘でも笑って、精神的にオトナになれば良いのかな?
人生経験が浅いんだ。
ものづくりなのに、うすっぺらい臆病者なんだ。
否定されるのも暴力も怖くて、よく考えてからしか行動できない。とにかく色んなものが恐怖の対象で、可能性を失っている。
なんでなんだ。
セックスの強要やしつこい野郎のストーカーまがいの行動、そんなつまらない出来事をいつまでも思い出しては、自分は無価値だと言い聞かせてはいないか?
まだ暴力にまだ負けてるんだ。
あんな思いをしないように、注意をしながら生活すると、性的魅力を失い、誰にも好かれないから、自信がなくなる?
幸せに結びつける自信が欲しい。
大手SIerに特定派遣でいっていたとき、仕事はプログラム、科学技術、数学の諸々の知識が必要な仕事だった。客とその客は僕一人の作業について一ヶ月百数十万円の金額で契約していた。そして自分の会社と派遣先はその半分くらいだった。そして僕の給与の額面は19万5千円だった。アホらしくなって転職した。
転職先はベンチャー企業で新しいプロダクトの開発に携わって欲しいとのことだった。入社直前になってやっぱり派遣で外に出てと言われた。あとで自称ベンチャーと言う名の零細企業だとわかった。派遣先は製造業系の会社のIT部門だった。運良く新しい生産管理システムの、ほぼ全ての設計と実装に関われた。そのシステムで桁違いの純利益が産まれ、派遣先のリーダーはボーナスの桁が上がったと喜んでいた。でも僕が自社の上司から言われたのは「自社の業績が悪いからボーナスと残業代カットね」だった。自社と派遣先の契約は月60万円以下だったし、派遣先の売上が上がっても契約金額が上がるわけじゃない。無理もない。結局その会社は能力がある人は片っ端から派遣に出し、能力が無い人は派遣に出せないので自社で受託開発を行っていた。能力が無い連中だから受託開発で赤字を垂れ流し、その赤字を派遣で稼いだお金で埋め合わすようになっていた。そして肝心の新しいプロダクトの開発は能力のある人が派遣で外に出ているからできるわけもない。
次に転職したとき、その会社には業界で有名な人がたくさん在籍しているのを知っていたので、凄い人達と仕事ができると楽しみにしていた。入社数日後に派遣で出てくれと言われた。聞くとその有名な人もほぼ全てが派遣で外に出ており、一緒に仕事をしているわけではないらしい。マネージャー層は「エンジニアは派遣に出て当然」といった。ものづくり大国とかいってるけど、この国は商人の国だとわかった。エンジニアは使いっ走りでしか無い。まあそれでも、この会社のいる間にできた沢山の知り合いは掛け替えのないものになった。
今は自社サービスを持つ会社で働いている。自分のやったことが売上に直結し、マネージャー層はそれをどうやって社員に還元するかを試行錯誤してくれる。タスク量がちょっと多いこと以外は不満は無い。
小さいプロジェクト 1人で複数掛け持ちするくらいの大きさ 2人月以下
中くらいのプロジェクト 数人で行うくらいの大きさ 3〜25人月くらい
大きいプロジェクト 数十人で行う大きさ 25〜100人月くらい もしくは数十人のエンハンス、継続改修とか
巨大なプロジェクト 組織をまたぐような大きさ 100人月〜 もしくは数百人以上のエンハンス、継続改修とか
利点:すぐ仕事に慣れることができる、繰り返し試せる、効率化できればすごく儲かる
欠点:やり方がオレオレになる、タコツボ化する、そればっかりな人になる、色々抱えて抜け出せない、引き継げない、値崩れリスク
利点:適度な責任を負うことができる、リーダーや要件定義など上流に食い込みやすい、上流〜下流までやろうと思えばできる、スピード感を持てる、チームビルディングなども経験できる
欠点:人材の換えが効かなくていっぱいいっぱになる、意外とテンプレ化できなくて非効率なことが多い、人依存が強くチームに不出来なものが1人居るだけで割りと詰む、会社の規模が小さい場合が多い
利点:キャリアパスを描きやすい、給料も高め、人材の替えが効くくらいの規模になりやすい、頑張ればそのプロジェクトの中で大分成長できる
欠点:スピード感は無い、デスマ化しやすい、PM力に依る、上流に食い込みづらい
利点:職としては安定する、詳しい人が組織内に居ることが多い、有名なプロジェクトでやりがいがある事が多い
欠点:プロジェクトが長すぎて浦島太郎化する、全体を見通す力が失われる、世の中のスタンダードがわからなくなる、仕様書・伝言ゲーム・政治問題、頑張っても成果物の良し悪しには影響度が低い
規模を跨ぐだけで文化がガラッと変わるが、その文化がIT業界全体での常識だと思いこんでいる人が多い
一生同じ規模帯に居るならいいが、規模を跨ぐことがあるとカルチャーショックする場合もある
会社内に色んな規模のプロジェクトがなくて、行き来しづらいこと
同じプロジェクトや、同じようなプロジェクトに5年とか捕まると人材として凝り固まりそう
小〜大まで揃ってると心配はそれほどない
一人で黙々とやりたい人 → 小さい規模
職を安定させたい人 → 巨大な規模
技術を磨きたい人 → 中くらいの規模、大きい規模
ものづくりをやりたい人 → 小さい規模、中くらいの規模
上流〜下流まで磨きたい人 → 中くらいの規模、大きい規模
という感じだと思うが、何もわからずに規模を選択してしまい、それが常識だと絶望している人をたまーに見かける
巨大な規模のプロジェクトをやってる会社に正社員で入ってしまい
人を回すことが仕事になり、将来が不安になって出ていくのだが、そこで中くらいの規模帯の会社に入って今度は待遇の悪さに絶望する
巨大 → 大 ◯ よりプロジェクトに関われる
巨大 → 中小 × 待遇の悪さに驚く 30代くらいで世の中見えてきた頃ならいいかも?
大 → 巨大 ◯ より職は安定する、リーダー的なポジションに付けば技術力も別の方向に伸びるのでは
大 → 中 ◯ リーダー職ならあり?
大 → 小 △ どん判
中 → 小 △ フリーランスとかなら有りかも
小 → 巨大、大 × 死にたくなると思う
小 → 中 ◯ 歓迎されると思う
大に新卒
30代で再び大に転職
フリーランスになり小〜巨大を行き来する
30代後半で中〜巨大の会社に潜り込む
もちろんこんな順調に行ってないけど?
そうなれば技術力が無ければ何をどうやってもこの先生き残っていけるわけがない。
なぜなら今の日本を支えてきた、支えきれなくなりつつある内需がどんどん右肩下がりとなるからだ。
終わる、終わる、終わる、終わる、終わる、終わる、終わる、終わる、終わる。
外注で済ませようとして結局外注元である技術者たちは条件のいい外資に転ぶ、転ぶ、転ぶ、転ぶ、転ぶ、転ぶ。
のけものにしたエンジニアたちから無能営業・経営陣の子孫は永遠に冷や飯を食わされ続ける。
馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿ばかり。
下町工場の奴隷を使ってものづくりを装うのも限界、限界、限界、限界、限界、限界、限界。
終わりの始まりはとうに過ぎている。
今は終わりの途中だ。
政府は消費税、国債、増税、消費税、国債、増税、消費税、国債、増税、消費税、国債、増税。
何を考えている。
何を考えている。
政治家は同じだ。
無能ども。
ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってからは自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。
そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題がニュースになったり、実況動画のユーチューバーに扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DSを発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。
俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代は任天堂に憧れ、ファミコンとディスクシステムに埋もれて育った。反抗期はメガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターンで遊んだ(結局スーファミもプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。
社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。
興味が無かったわけじゃないけれど、ネットとWebとコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。
仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックなホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなものを勝手に持っていたような気がする。つまり、ゲームを作る側でも無い普通の人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為はクリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。
そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSやWiiで遊ぶようになった。
でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲームが話題になることはなかった。俺自身もWiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラが面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的な感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分が少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚を体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。
我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機やゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチなクリスマスプレゼントだと思う。
その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。
かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである。
すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。
一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。
その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。
12月31日、仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分のIDを登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。
ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……
かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験の歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ。
操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。
正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
なんだこれは。
気持ち良すぎる。楽しすぎる。
気が付くと、がむしゃらにわけもわからずインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。
一体、なんなんだこれは……!!
3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。
なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。
別に、大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分のお年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラで似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲームが現実になるなんて!」とバーチャロンに100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。
とんでもないものを作る人がいる。
そうだ、楽しいゲームをプレイしたときの体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界は過去より進化している。
かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。
だって、フィールドを思い通りに走り回り、リアルな人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。
去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ。
良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だって、ゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。
気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。
信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。
すさまじいゲームバランスと運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤーが前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロとローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂だからできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルなインクでいっぱいで、なぜだか不思議とクリエイティブな気分だった。
ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーションに特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。
普段、仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネットを特別なもの、得体の知れない不穏なものと敬遠する層があり、そういう世界がある。世代間ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアル対ネットの戦い」だとか、「紙媒体とWebメディアの二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。
仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。
しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネットは電気や水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ。
既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルかバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションがスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。
思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね。
対人で対戦できるFPSやTPSだって、オンラインのRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験はそれからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。
でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術や経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃。
20代の数年間SIで働いた。1年以上前に退職して今は別業界にいる。
今日、Evernoteを整理していたら「退職理由、SIの嫌な点」というメモが発掘された。退職直前のかなりストレスがたまっていた時期に書き殴った文章だった。学生の頃の私は絵を書いたりしていて、ものづくりで暮らしたいな〜などと思って始めたプログラミングが楽しかったので安易に受託開発業を選んでしまったが、その後悔が如実に表れていた。
一部自分でも覚えていない話もあったがコンテンツとしては面白かったし、今でもシステムインテグレーター業界で消耗する若者を減らしたいとは思うので公開してみる。
以下、同メモに加筆・修正したものなのでファンタジーだと思って読んでくれ。
受注した時点で売上がおよそ確定するので、後はその予定工数に収めて納品できれば御の字という考え方。よくある話だが、見積がおかしくても顧客と対等な関係が築けていないから追加請求もできない。時間(工数)をかければ良い成果物ができるかもしれないがそれを説明して顧客に嫌な顔をされたくないから、限られた工数の中での最善を尽くす。最善を尽くす、聞こえは良いが要は手を抜く。
つまり、どう頑張っても売上は同じなのだから、良いもの・価値を生むものを作ろうと考えない人が多い。社内で開発者と呼ばれる人間もそうだし、マネジメント層はそういうものづくり志向を持った人をリスク扱いすることもある。
これが諸問題の根源で、いかに述べるような組織・プロジェクトが出来上がっていく。
マニュアル作業の正確さをかたくなに信じてる人だらけで、ITとは何なんだと考えさせられる。
私は定型作業を効率化しようとjsやrubyでスクリプトを書いたりしていた。テストデータを開発用DBに突っ込んだり、テキスト処理して整形したり、Excelからコード生成したりするよくあるやつ。
あるとき上司に肩越しに自分の作業を覗かれて「何やってるの?」と聞かれ、そういうスクリプトを作ってると答えたら、工数とリスクの話をされた。曰く「そのスクリプト作るのに何日かかるの?工数に乗ってないよね?」「スクリプトのテストもちゃんとしないと結果が正しいって保証できなくない?」と。この時はイラッとして「30分でできる数十行のスクリプトだし自分の作業工数内で完結する。むしろ後工程や別の人でも同じことを再現性できて楽になる」とか真面目に説明してプログラムも見せたが、読もうとはせず(読めないので)1時間無駄にした。
前述したようなビジネスモデルだから、営業力と、予定工数で無難にプロジェクトを終えるマネジメント力が大事。IT企業だが開発者は自社で持たない。不況の時に待機コストが発生するリスクがあるし、自社で抱えるより単価の安い開発者が人材派遣系の企業や下請けにいっぱいいるから。
社長があるとき社内広報で「技術は買うものだ」と言っていた。文脈で明らかに技術=技術者のことだったので、使い捨ての人売り業と揶揄されていることへの自覚が無いと思う。
そういう人が集まっているor残っている組織なので開発者はほとんどいない。20〜30人ぐらいの課に1人ぐらいの割合でstaticおじさんがちらほらいるぐらい。大体20代からプロジェクトリーダーという立場をやり始め、だんだん大型の案件を扱えるようになっていき、後は出世ゲーム。部長のお気に入りが課長になり、部門長のお気に入りが部長になる。その繰り返し。
開発案件でのBP(ビジネスパートナー、委託先、派遣、下請け)比率は自分の周りだと1:5ぐらいが多い。プロパー社員一人が5人の開発を仕切る、みたいな形。案件規模によりだいぶ差があると思う。この比率が高い=マネジメント力のある組織と考える会社はこの数字を上げようと必死で、比率の低い組織は評価が下がる。
私は開発が好きだったのでエンジニアとして生きていきたい、というようなことを評価面談の度に伝えているが、その度に会社の目指す方向を説かれてモチベーションが下がる。
上述の通り、案件で接する開発者は基本的に社外の人間なのだが、彼らの技術力と意識の高さにはものすごいばらつきがある。言われたものはなんでもこなせる人、何でこの歳まで技術者やれてるんだと疑う人、このプロジェクトはおかしいと良い意味で騒ぐ人、何も意見を言わない人、CっぽくJavaを書く人、人当たりは良いが技術力がいまいちな人、すぐ休む人、バグやミスを隠す人…etc。
まぁ色んな人がいるのはどの業界のどの職種も同じだが問題は質だ。私の主観になるが本当にエンジニアとして尊敬できるレベルの人は1%いるかいないか。というのも、ほとんどの技術者は長年SIやその周辺企業と付き合ってきているので同じ体質に染まっているのだ。顧客が良いといえば良いという態度(この場合の顧客は私が所属する企業)、請負の場合は工数を超えない範囲で手を抜く姿勢、その他諸々。技術力だけをひたすら磨き続けてきたという人はごく一部だけだったし、そんな人でもGitHubアカウント持ってない・ブログやってない・OSSに貢献したことない、といった具合でクローズドな世界で生きている。
そうした技術者とやっていく中で最も厄介なのが教育コストだ。案件のあるなしで人が都度入れ替わり、新しい人が来るたびに同じシステム・技術要素の説明をして何とかやる気が出るようモチベートして、というのを繰り返すのに疲れた。私の会社固有の変なルールの説明はてきとうにしておいて、私は技術が好きな仲間が欲しかったので今のシステムの課題と技術面での改善や展望をよく話す。が、あまり食いつかれることはない。これは私の問題だが、そうした期待と落胆のループも疲弊の一因だ。
ある時、一つの課に6年近くいるというBPと一緒に仕事をする機会があった。その課にはプロパーの技術者が長いことおらず、彼がその課の技術的中心を担っているという話だった。抜けられると途端に色んなものが崩壊するからという理由で、その人の派遣元にはかなり高額の単価を支払っていたと聞いた。課員が口をそろえて「あの人はすごい」「何でもできる」というので初めはかなり期待していた。
だが、拍子抜けした。あまりにも仕事が雑なのだ。コミットされたコードはTODOコメントだらけだし、バグがあまりにも多かった。一度も実行されずにコミットされ、他の人がチェックアウトした時点で判明したバグなんかもあった。それでも声が大きく、プロパーが技術を知らないのをいいことに自分のブランディングに完全に成功していた。客先にも顔を出し、信頼を得ているらしかった。「自分は設計が得意でテスト以降の工程には興味が無い」と言っていた。確かに彼が関わった各システムには独特の概念が埋め込まれた設計があったが、その複雑な設計は保守性が低く、他の開発者が触ると容易にバグを引き起こしていた。
また、彼はJavaの有名なフレームワークであるStrutsを拡張したいわゆるオレオレフレームワークを開発しており、それの出来は悪くなかったと思う。そのフレームワークに欠けているものをうまく補うような形になっていた。だがフレームワークのバージョンを上げると壊れるというのが残念な点で負債になりかけていた。
私は異動したが、彼は今でもそこにいると聞いた。
(最低限のものしか作らないから)安くて早い!という触れ込みで売っているので、テストの工数が異常に少ないことも多い。特にテストコードを書くなんてもってのほか。そういう世界でやってきた人ばかりなので、30や40超えたマネジメント側は「テストコードって何?」状態だ。大型の改修案件が来た時にはコア機能だけでもテストを書いていこうと見積段階から社内で提案したが「顧客に『そんなメリットあるなら何で今までのプロジェクトではやってないの?』って問われるから、絶対言うなよ」と拒否された。
保守案件をやっていた頃、時間を捻出してコソコソとテストコードを書いたりしていた。その案件を離れてしばらく後、ある時リポジトリを覗いたら私が書いたテストコードがばっさり消えていて驚いた。コミットログから課内のstaticおじさん的な人が消したとわかったが、そのコミットコメントが「現在使用していないコードを削除」だった。これはもう問う気も失せて何も言えなかった。
先述したようにテストがそもそもないプロジェクトが基本なのでリファクタできないのだが、たとえテストがあったとしても勝手なリファクタは許されない。ソースコードは顧客の持ち物なので同意なしに改変することはいわば契約違反なのだ。たとえ内的品質が向上してコスト削減に繋がるとしても、そのためにお金を支払う顧客はまずいない。
私がいたどの案件にもコードレビューがなかった。リーダーと開発者数人という構成の場合、まず開発者は全員下請けでリーダーは技術の心得がない場合が多い。そうなると彼らの成果物の良し悪しを図るのは目に見えるシステムの挙動と実施されたテスト結果のExcel報告書だけになる。これが非常に非効率で、少しコードを読めばわかる明らかなバグや仕様理解の齟齬が頻発していた。特に受入試験と呼ばれるリリース直前の顧客側での最終確認や本番稼働中におけるhotfixは全機能をきちんとテストせずにデプロイされることが多く、そのhotfixがさらなるバグを引き起こしたりもしていた。
そもそもテストを書けという話だがテストが無いプロジェクトに足すのはかなり大変なので、レビューサイクルをきちんと回すだけでもかなり変わる。実際、私が入った案件ではすべてのコミットに目を通すようにし、明らかな問題は都度指摘することで品質の向上に繋がった。欲を言えば他の開発者にもレビューしてもらいたいが、下請けの彼らの工数を増やすことは嫌がられる。
無難にプロジェクトをこなすことと新しい技術を試すことの両立こそ技術者の腕の見せどころだと思っているが、ほとんどの場合それは許されなかった。新規にせよ継続にせよ案件を受注する段階で営業やマネジメント層と顧客間で「今回は過去に実績のあるこの技術でやります」という契約が結ばれているからだ。その技術(言語やフレームワーク)がいかに古く、保守性も将来性もないものだとしても受注できればよいし、その技術のサポート切れか何かの拍子で再度リプレイス案件でも受注できればさらにラッキーぐらいの考えでいる。
また横に倣えが加速してさらに悪い事に、同じアーキテクチャ・ネットワークを再利用するために既存のサーバに新システムも相乗りすればよいという発想も珍しくない。「資産の再利用によりコスト削減」という触れ込みだったが、ただでさえスケールしない低スペックのオンプレミスサーバ上で複数のアプリケーションサーバを運用した結果、予想通り耐障害性が下がった。
また、Oracleのライセンスが高いという理由で一つのDBインスタンス上に10数個のシステムが同時稼働しているなんてこともあった。1つのシステムが高負荷なクエリを投げたせいで関連する全システムが共倒れになったこともあったがOracleのバグとして報告していた。
新人の頃にOJTでstaticおじさんの下に付いたことがあった。そのとき担当したのはPerlでデータ連携用のバッチを書くという開発業務だったのだが、最悪の思い出だ。
まずプログラム構造仕様書というのを書かされた。メソッド単位でのモジュールを全てExcel上に記述し、処理の順番と内容を説明するという謎資料だった。あまりに意味がわからなかったので「UMLのクラス図を書けばよいのですか?」と聞いたら「Perlにクラスなんて必要ない。構造化プログラミングを研修でならってないのか」と返ってきた。「俺が前に書いたPerlのバッチがあるから参考にしろ」と言われ、あるリポジトリをチェックアウトして見てみると1ファイル4,000行の.plがいくつか並んでいた。その時の私は何もわかっていなかったのでそういうものかと思ってしまったが後で調べて明らかにおかしいと気づいた。
また、そのプロジェクトのメイン言語はJavaで、Eclipseを使っていたのでPerl用プラグインを入れてコーディング・デバッグをしていたらやめろと言われた。理由は「Eclipse上で動くPerlが信用できない。サクラエディタで書いてプリントデバッグすれば充分だ」と言われた。その時の私は何もわかっていなかったので、プラグインの品質が悪いとかそういう話かと思い「じゃあvimで書きます」と言ったら「サクラエディタにしろと言っただろ!」と一喝され、vim vs サクラエディタという史上類を見ないエディタ論争が起きた。
SI業界の中では高いのかもしれないが決してよくはない。4年目(たぶん25歳)ぐらいで残業込みで年収400万にやっと届いたがそこからほとんど変わっていない。30歳の先輩に聞いたところ「500万前後、残業してない場合の月の手取りは未だに20万切ることがある。残業抜きでは新婚生活が厳しい」と言っていた。いわゆる年功序列がきっちりしていてこのまま続けてもしばらくは給与が伸びないということがわかった。
個人での貢献で差がつくのは±10万程度。その程度ならいっそ無くてもいいのでは、と思う。というかそもそも生産性をきちんと評価する制度が存在しない。これはどの組織でも難しい問題だと思うが、形骸化した評価制度で上司の気に入った人間にS評価を付けているだけならいっそ止めたほうが時間の無駄にならなくてよい。
会社から貸与されるノートPCは低スペックすぎて開発には使い物にならない。なので開発者は基本的にデスクトップを使用せざるを得ないのだがこれもメモリ4G、1.2GHz程度で大したマシンでもない。本当に開発する気がない。
いつの間にかどこかで意思決定がされていて、関与する機会がほとんどない。だがほとんどの社員がそれで良いと思ってる。失敗しても自分が決めたことじゃないから上層の責任だ、そう言えるので楽だから。
情報共有をしない、というか意図的にしないようにしているとまで感じる。連絡はメールと添付ファイルベースで行っているし、共有のファイルサーバなんてのもあったが一部のフォルダは権限を持った人間しか見られない。何で他の部や課が行った過去の見積や提案資料が自由に見られないんだよ。
ソースコードのリポジトリも同様。外部に公開しないのはまだわかるが、プロジェクト外にすら基本は公開していない。別に奪われて困る大した技術もない。
会社が用意した提案資料共有サイトみたいなのもあったが、それに至ってはもっとひどい。課長以上もしくは部長から承認を与えられた者のみ閲覧可能。共有とは。
どうでもいいことを決めるにも承認や根回しや説得が必要になる。それがプロジェクトの利害関係者ならまだわかるものの、まったく関わっていない上長(課長や部長、時には部門長)を通さないと進まないという異常さ。
利益率向上のためにコスト削減ということがしきりに言われており、過剰なコスト削減対応が生産性の低下を招いている。たとえば顧客に見せる資料以外は白黒で印刷しろ、みたいなルール。色がないために情報が伝わりにくい。というかそもそも印刷せずに各自のノートPCで見ろという話だが、先述したようにノートPCは低スペックすぎるので多くの社員がデスクトップを使っている。ITとは。
本当に無駄としか思えない承認・申請フローの煩雑さに加え、使っているシステムの使い勝手も悪く、ひどい日は一日がそうした事務作業で終わる。しかもそのシステムは自社で以前開発したものだというから泣けてくる。こんな作業が定常的に発生するのでいっそ事務員を派遣で雇うべきという提案が何度もされたが、課の予算をオーバーするから無理だという回答しか返ってこない。
表向きは社員の健康促進という触れ込みで残業時間削減を全社的に取り組んでいる。残業減らせと声をかけただけでは誰も帰らないので、勤怠システムと入退館管理システムを監視し、削減できていない組織や人間の評価を下げるようになった。
その結果、サービス残業が復活した。30時間を超えると部長に説明しないといけない、50時間を超えるとその上へ…みたいなループ。表向きの残業時間削減・コスト削減としては成功したかもしれないが、社員の残業時間を管理するとかいう無駄な仕事を増やしたし、管理される社員のストレスとサービス残業に繋がったので下策だと思う。
他人の残業時間をExcelにまとめる仕事があって、そこに給与が発生してると思うと泣きたい。
そもそも無駄な作業や工数至上主義で作業効率が悪いから残業しているので、残業が少ない奴が偉いと一斉に舵取りしただけでは生産性をちゃんと評価できていないことに変わりはない。一昔前の残業多い奴は頑張ってて偉い、というのと本質レベルで何も変わっていない。
ジュウオウジャーの監督である柴崎貴行は、2006年の仮面ライダーカブトがデビュー作で、
メイン監督を務めるのは特命戦隊ゴーバスターズに続きまだ2作目。
脚本の香村純子はゴーカイジャーや仮面ライダーウィザードでの評価が高く、今回が初めてのメインでの参加。
一方魔法使いプリキュアのシリーズディレクター(通常のアニメで言う監督)は三塚雅人。
近年良演出を数多く繰り出し、今回が初めてのシリーズディレクター。
キャラクターデザインの宮本絵美子も、プリキュア5の頃から作画監督として活躍しているが、キャラクターデザインは初。
とまあどちらも若手のスタッフが目立つ印象だ。
しかもただ若いというだけでなく、その実力を評価されている人材が揃っていると言っていいだろう。
思えばここ数年、プリキュアや戦隊以外でも、長寿コンテンツにおける世代交代が進行している。
クレヨンしんちゃんでは、近年の劇場版を若手の橋本昌和と高橋渉が交代で務めており、
劇場版22作の逆襲のロボとーちゃんでは文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。
続く23作、オラの引越し物語サボテン大襲撃では歴代で最高の興行収入を記録した。
同じシンエイ動画のドラえもんでも、81年生まれの八鍬新之介が、新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜での堅実なリメイクで、初監督ながら評価を集めている。
ポケットモンスターシリーズの最新作ポケットモンスターXYでは、それまで監督を務めていたベテランの須藤典彦氏から、
28歳の矢嶋哲生氏が若くして監督職を継ぎ、キャラクターデザインやアニメーターも若手を積極的に入れ、
さらに作画の枚数制限をなくしたり、技を出す際のイメージBGを廃止するなど、積極的にそれまでと画面作りを変えている。
ウルトラシリーズ最新テレビシリーズのウルトラマンXでは、09年の長髪大怪獣ゲハラでデビューし、TNGパトレイバーなどで注目を集める田口清隆をメイン監督とし、
長期の休止状態にあったウルトラのテレビシリーズを復活させたギンガ、ギンガSの流れを引き継ぎ、
新怪獣や、GoProをつかったり主観ショットを用いたりと、新しい要素を取り入れながら正統派のウルトラシリーズを描ききった本作は、来年には劇場版も控えている。
2000年前後のデジタル機材への移行や、インターネットを中心にした新たな消費スタイルなど、それまでと違うものづくりの発想が求められるようになった。
そういった中で妖怪ウォッチやアイカツなど新たな作品の登場や、スマホゲーなどコンテンツ文化自体の世代交代が迫る中、長寿コンテンツ達はどのように今を歩むのか。
そして今後彼ら新しい世代のクリエイター達が、どのような作品を、そして、どのような時代を作っていくのか、ぜひ多くの人に注目されて欲しいと思う。
前のエントリ書いた人だけどね、ちょっと言いたいことがブレたので補足。
最近は無用な強度とか、耐久性とか、過剰品質っていって嫌われるところじゃん。
でもね、そういうのが大切だと思うんだ。
強度や耐久性なら、まあないよりあったほうがいいし、強度や耐久性はアピールポイントになるけど、こういう補助金もらう基準とかって、余裕でクリアっていうレベルでは開発しないと思うよ。
車だけじゃなくてさ、家電だって、医薬品だって、みんなそうやってるだろ?
これは、VWはグレーじゃなくて黒だったけど、どの分野でもほとんどがグレーに近いことしてる。
そりゃそうだろ。
消費者に訴えかける目的の性能は達した!ついでに補助金をせしめる基準もクリアして、粗利そのままに安く販売!
これが正義だもん。
基準が限りなくゼロに近ければ、1の検出が出ただけで∞に近いわけだし、今回のフォルクスワーゲンは別、悪質さがぜんぜん違う!
自動車とかよくわからんけど、例えばミニ四駆をつくるじゃないですか。
実際、そのコースを走らせて、一番タイムが縮まるようにチューニングすると思うんですよ。
というか俺ならそうする。
とりあえずよかれと思うセッティングで走らせて、パーツを変えて走らせて、それを繰り返して、一番いいタイムのものを作る。
と思うんです。
ミニ四駆の大会ってのは、ワンチャンスだから、市販車でやらかしたフォルクスワーゲンのあれとは一緒に出来ないけどね、程度の差はあれ、試験を想定したチューニングにはなると思うんだよね。
今のエンジンって、ガソリンと空気をこういう比で混ぜてバン!を繰り返すっていう単純な構造じゃなくてさ、こういう場合はこのくらいの比率、こういうタイミング、ああいう場合はこの比率で、ああいうタイミングっていうふうに、ケースわけして電子制御で最適化を図ってるわけで、「こういう」「ああいう」を設定する時に、なにか基準があるならそれに寄せてそこに最適化しちゃうのはわからんでもない。
これがね、安全性能の場合だと、かなり設計上のマージンはとるだろうけどね。
どんなに最悪の状態でも、このくらいの性能は出せるようにと設計すると思う。
でも、極端な話、ローギアで60km/hまでぶん回したときの燃費性能やら環境性能なんてみないと思うんだな。
極端なたとえだよ。
で、程度の問題となると、どこからが悪意で、どこからが悪意がなかったかっていう問題になって、
燃費だったらさ、カタログ燃費と実燃費との違いはすぐバレるもんで
「10・15モードとやらでそうだっただけで、実際のところはこんなもんか」
ってわかるけど、環境性能はちょっとやそっとじゃわからないってのが詐欺と言われても仕方ないなと。
もちろん、なんの商品とか、そういうのは言えないんだけど、やたらね、国や団体のガイドラインに適合することの重きを置いてるわけなんですよ。
製造部の、工場で実際に生産ラインにいる俺とするとね、なんか違うなと思うわけ。
「これをクリアすると市販はままならん!」っていう基準やガイドラインってのは、それをクリアするのは市販するための条件の最低限っていうラインで、そんなものをゴールにした開発ってのはものづくりの現場としちゃどうかと思うんです。
他の試験法や、もっと厳しい規格やらで試験したほうがって常々言ってるんですけどね、
「それはオーソライズされた試験法じゃないし、判定基準もオーソライズされていないから、意味が無い」
って具合でね。
「これをクリアすると市販はままならん!」って話も怖いですけど、フォルクスワーゲンみたいに「これをクリアすると補助金あげるよ!ガンバレ!」
ってのも怖いなと。
開発に限ったところだけじゃなくて、いろいろあるじゃないですか。
高齢者を雇用すると補助金あげますとか、障害者を雇用すると補助金あげますとか、環境に配慮した企業経営をすると補助金あげますとか、地元の高卒をとるとなんとやらとか。
どこの企業をみても、らくらくクリアしてるようなところはなくて、なんとかギリギリでクリアで補助金はゲットっていうことやってると思うんですよ。
ああいうのもね、なにかの機会に
「てめー、ギリギリ詐欺まがいでの要件クリア出来てねぇじゃねぇか!今までの補助金に金利つけて制裁金じゃボケ!」
ってなる恐れもあるんじゃないかと。
「ははーん、この補助金は貰っちまうと危ねぇ。俺の直感がそう言ってる」
ってのが経営者の才覚なんだろうなと。
経営者というのは、決断するのが仕事っていうけどさ、社長が一から十まで技術的なことや制度的なものまで理解出来てるかっていえばかなり難しいわけ。
たとえ解っていても、社長まで来るときには、もうね、承認してもらう気まんまんで資料もってくるわけだしね。
「ペテンにかけて承認もらって売りましょう!補助金もらえるから、粗利そのまま安く販売できて、たくさん売れるから、承認よろしく!」
なんて資料もってこないわな。
っていう資料に決まってるわな。
どうみても安全そうに見える道で地雷を踏まないようにするスキル、だれもが地雷原かと思っててビビって原っぱを「実は地雷埋まってないんじゃね?安全なんじゃね?」とリスクをとってゴーするリスク。
そういうことが出来るのが経営者の才覚。
カフェとかこじゃれた風のダイニングとか塚田農場とかででてくる、ああいうデザートプレート(実際デザートは鼻くそサイズ)を喜ぶ女がやりがちかつやったらぶん殴りたくなる行動。
「happy birthday Masuda」というチョコペン(デザートは鼻くそサイズ)のデザートプレートを顔の横まで持ち上げて写真を撮る。
さらにまだいうて出会って2年弱くらいの年上の人のこともすぐ「お兄ちゃん」とか「町田のねぇちゃん」とか呼ぶ。
感想Facebookのpostなんだけど、ただ休日にプラバンでキーホルダー作っただけ。ものづくりものづくりうるさい。
ネイルをやたら凝る。月1以上でジェルネイルを季節に合わせて変えてくる。
とかのハッシュタグををただ友達の友達とカフェ行っただけでワンプレートのサラダの写真につけまくる。
いつもいつも音量が小さすぎる。
いつもいつも音量が小さすぎる。
http://hacku.yahoo.co.jp/openw2015/
http://live.nicovideo.jp/watch/lv234339079
Yahoo! JAPANが主催する学生のための「ものづくり体験イベント」、Hack U(ハック・ユー)の発表会
いつもいつも音量が小さすぎる。
もう一回言う。
いつもいつも音量が小さすぎる。
音量MAXに近いぐらいこちらが挙げないと快適に聞こえない。
他の放送だと音量10%ぐらいで十分なの、わかりますかヤフーのスタッフさんよぉ。