はてなキーワード: ひどい仕打ちとは
私は山手線に乗って、疲れきった体を椅子に預けて携帯を眺めていた。
新宿駅にたどり着いた電車から大勢の人が降り、その後マレー系のお母さんがベビーカーに子供を乗せて乗車した。
なぜマレー系かわかるかって?あの顔つきと肌色でヒジャブをまとっていたからに決まっている。2年間、シンガポールのころごまんと見ていた人の姿だ。忘れることもあるまい。
とにかく、彼女は子供と一緒に電車に乗り、旦那さんと思われる人が外からスーツケースを手渡し、中に入れ始める。
スーツケースが一つ入ったところで、ドアが閉まる。
母は大慌てでとっさに腕をドアに差し出したが、間一髪で逃し、ドアは冷たく閉じられてしまった。
ホームで見かねた誰かの所業だろう。非常停止ボタンが押された。
母はとても困った顔をしていたので、電車の中にいた私は拙い英語で、とにかく通じればいいなというレベルで彼女へ声をかけた。
「Send the message to him that you can ride next train what should come in 3 mins so far.」
(3分後に次の電車が来るから、旦那さんにそこに乗るようにメッセージしてね。)
「You'd better to ask staffs to help you in next time。They can help you.」
彼女の表情が和らぎ始めた。英語わからなくても、私の意図は少しは伝わったのかなと思った矢先だった。
私も彼女も初めて出くわす場面だが、手慣れているだろう。ドアを外からこじ開けようと力む姿が見えた。
スーツケースを入れてもらうのかな。
とにかくうるさいブザー音を消してくれとばかり、心の中で思っていた私が次に観た光景は、そんなことどうでもいいと思わせるようなものだった。
駅スタッフは、ドアをこじ開けては電車に乗り込み、ありったけのしかめっ面で、母とベビーカーを引きずり下ろした。当然スーツケースは眼中にない。
それもそうかも。何せ車いすのスペースに突っ込んだわけだし、その荷物が隣に立っていた人のものかもしれない。母の携行品はベビーカーしかないと思われても仕方はない。
それでも、荷物はただそこに置かれてあっただけ。
荷物は無事に外に母と一緒に追い出され、ドアは閉まり、駅スタッフは「一つの仕事をやっつけたぞこの野郎」と言わんばかりに、安全確認終了を知らせるランプを高く振りかざす。
これは、一日利用者数世界一を記録している駅で起こった、外国人観光客が起こした小さなトラブルだった。
仮にも世界一の駅スタッフが、観光客をマニュアル通りに、いつも通りに追い出すのか。
彼女がその時感じたであろう感情がどうだったか、想像すらつかない。
旅行って、旅っていつもそうだ。
どこかしらで必ずトラブルは起こる。
喧嘩だってするかもしれないし、財布だって落とすかもしれない。
はたまた決まったはずの宿が決まってないかもしれない。
今まで述べたトラブルと比べたら、電車一本逃して一行とはぐれるなんて、些細なものに過ぎないだろう。
その記憶が後で振り返ったとき楽しいハプニングとして残るか、散々な目に会ったという苦い思い出として残るかは、その場そこにいた人達がどう接したかにかかっている。
彼女(とその家族)は須らく、その類の数知れないトラブルのうちの一つを、須らく経験してしまった。
少なくともこの国の誇る鉄道の、いちばん誇らしい駅のスタッフは、間違いなく彼女に後者の印象を植え付けたのであろう。
なんてことを思う間にふと考えた。
仮にもオリンピック公式輸送スポンサー企業のスタッフがこんな対応でいいのか?
もしかしたら、彼女が私のアドバイス通りに、あらかじめ対応ができたら、駅スタッフだって乗車案内できたはずだ。
彼女は頼るすべを知らなかっただけ。
できるはずのことができないのは、観光客に対するおもてなしが全くできていないという証拠であろう。
いくら上っ面だけ広告宣伝に金を落としたところで、こういう実務的対応一つままできず、塩対応してしまっては元も子もないだろう。
みんなは連続ドラマ「おっさんずラブ」のことを覚えているだろうか。
恋愛単発ドラマから始まり、「おっさんずラブ」としてシーズン1が放映されたのは2018年の4月だった。
私はテレビの前にはりついているのが苦手で、ツイッターで流れてくる友人たちのツイートを眺めているだけだったが、放送時間になると度々トレンドに上がる「おっさんずラブ」は「今アツい流行りジャンル」といっても過言ではなかった。
ドラマの内容は、不動産会社に務めるモテない営業マン・春田が上司のパソコンに、自分の隠し撮り写真があることに気づいたところで日常が一変し、後輩の牧からも突然告白され、春田と春田をとりまく人々がおっさんたちの恋愛に巻き込まれるラブコメディだ。個人的に、ギャグ調でコミカルなところもありながらも絞めるところは絞める、気持ちのいい恋愛ドラマだと感じた。
ラストはいろんな困難を乗り越え、春田と牧が結ばれる形で感動的に幕を閉じた。
同年の6月にドラマの放送が終了し、その後、今年2019年8月に「劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜」が公開され、公開13日目にして観客動員数100万人を突破。映画の感想も好評なものばかりで、応援上映も10月中旬まで開催されていた。友人も何度も劇場に足を運び、舞台挨拶のレポートを嬉しそうにツイートしていたのが印象的だった。
やさしい運営とオタクもニッコリの手厚い待遇に、羨ましささえ感じていた。
9月27日を迎えるまでは。
9月27日に公式アカウントがツイートした内容は、「不動産編は劇場版で完結したので、冬から新しい世界へ向かいます。ということで、メインキャスト2人はそのままで、他のキャスト一新、舞台は航空会社で、また“おっさんずラブ”をはじめます」というものだった。な〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んやそれ。「新シリーズは11月2日からスタートします」ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
続投のメインキャストの2人は、春田とその上司の黒澤だった。テレビシリーズの「おっさんずラブ」〜劇場版「おっさんずラブ」に生きていた、牧くんを始めとする天空不動産を取り巻く人々の姿はどこにもなかった。
春田と黒澤は名前も性格もそのままで、また一から別の人たちと恋愛をやり直すというのだ。春田はCA、黒澤は機長に!いったいどんなラブトリップするのかなo(^▽^)oワ〜〜〜ッッ!ってなるかい!!!!!!!!!!
まあ確かに????恋愛ゲームだと????今攻略しているキャラクターが終わったら???
次のキャラクターを攻略しよっかな???みたいな???気持ちにはなるけど?????私は春田ではないし????
春田と愛をかわした牧くんはいないし????どゆこと?????私が応援していた2人は?
つまんない意地や見栄、色々な障害を乗り越えて結ばれたピュアなラブは????
ネット配信で遅れてドラマを完走した私でさえめちゃくちゃに混乱していた、その脇で友人は地獄で溺れていた。かける言葉がなかった。だってメインジャンルが「おっさんずラブ」の人間だよ?
仕事で胃を壊し、腰を痛め、不眠症になり、食事もろくにとれなくなった友人を、見事に回復させたのが「春田と牧がいるおっさんずラブ」だった。
え〜と、え〜と・・・「結婚できない男」も続編でたよね、あべちゃんと相手役のひとの恋愛は破綻してたけど…とも言えるはずがない。
「結婚できない男」は2006年に放送され、13年たってから続編をつくられた。ドラマの世界も、第1シリーズの13年後が舞台になっていた。
おっさんずラブの猶予はわずか1ヵ月あまりだった。成人して馬車馬のように働き出して数年がたち、日々時間が過ぎ去っていくスピードを感じている中の「1ヵ月」なんて、体感1週間ぐらいじゃん。置き引きじゃん。ちょっと目を離した隙にってやつじゃん。
前日に、2人がペアリングしている写真を掲載して「2人の幸せがずっと続きますように」とかいうフォーエバーラブポエムのせておいて、次の日こんなことする????クソの2コマ落ちか。
次に公式が起こした行動は、ツイッターアカウントの改装だった。アイコンと名前も、新シリーズ仕様になった。牧くんがいた天空不動産編の映画は公開中なのに。
普通は新作用のアカウントをつくり、そこで新しいファンや今までのファンへ情報を届けるべきではないのか。
ふと公式を覗くと、公式のツイートに対して「アカウントを分けてください」といった要望のリプライが多数つき、ツイッターでは「#牧凌太」がトレンドに上がった。
その影響を受けてか、公式アカウントはアイコンをタイトルロゴだけのものに変更した。でも名前に入れられた「✈️」はそのままだった。
ひどい仕打ちにショックを受けた友人は公式のツイッターをブロックした。
それと入れ替わるように、私は公式をフォローして過去の情報を遡り、ツイートを逐一チェックするようになった。
友人が楽しみにしていた劇場版のオフショットの情報が流れているのをみて、「あれ、牧くんの写真が全然投稿されないな」と気づいた。
私と同じようなことを考えている人もおり、「朝ドラの契約の関係で」「無断転載対策で」と様々な憶測が飛び交うなか、劇場版のオフショをツイートするたびにくっつく「牧くんは?」に声に懲りたのか、牧くんのちっさい後ろ姿の写真が掲載された。エッ・・・。
後ろ姿であろうが小さかろうが契約は契約で、ここで「朝ドラの契約で写真を掲載できない」という憶測が潰され、性格が悪い私は「新作をゴリ押すためにわざと牧くんを出さないようにしているのでは」と考え始めた・・・。
世界線が違うとはいえ、元カレの存在は危険すぎる、牧くんの存在をチラつかせればうるさいファンたちがキレはじめる・・・。だから牧君を消し・・・?いいや、オタクの悪い癖だよ、自分の都合のいいことばかり考えるのは・・・。そう思っていた。
おっさんずラブのシーズン1で存在した上司・黒澤のインスタグラムが消えた。
正確には、投稿していたシーズン1の記事だけが消えた。そのインスタグラムは、作中と同じく黒澤が「春田を隠し撮りした写真を公開している」程で運営されている、公式のオフショットアカウントだった。
こちらもシーズン2が発表されるや否や、機長・黒澤の投稿がされた。Twitterと同じく、前と同じアカウントで運営されるのかとフォローを外し項垂れていた友人の姿を覚えていた。それが一ヶ月後に突然シーズン1の記事だけ削除されたのだ。
非表示にされているだけなので、あとでアーカイブされるかもみたいな希望的観測はもうない。その空になったインスタグラムに、つぎつぎに投稿が行われ、新シリーズの登場人物たちの写真が並んでいる。埋めるように。今までを。誰かを。何かを。
それではまるで、フォロワー数だけ引き継ぎたい、シーズン1はもういらないと言われているかのようだ。
どうしてこんなことをするんだろうと心から思う。
友人の身に起こったショッキングな出来事をどうにか説明しようと思ったのに、途中から私だけが先行してブチギレている文章になってしまった・・・・。
アカウントの運営には仕事上の様々な理由があるかもしれないが、なんの説明もなく、こんなことをされた側はたまったもんじゃない。
公式は発表できない事情があって…契約のタイミングがあって…をいったところで、公式がなにも言わない限りは憶測の域をでないし、
好きなものに関わっている人間が「自分にとって嫌な人間であってほしくない」という希望的観測が働いているのではとも思う。
真実はどうであれ、「アカウントを塗りつぶして、過去の記事を消した」のは変わらない事実だ。
写真や記事が消えても、春田と牧、天空不動産のみんなの物語はなかったことにはならないけれど、もっと他の終わり方を用意してほしかった。
楽しかった、嬉しかった、最高だった、大好き!・・・そして次訪れるかもしれない「おっさんずラブ」の存在を心待ちにしていたかった。
昨日はドラマシーズン1に登場する武川さんの誕生日だった。お祝いの言葉はなかった。
そして今日は牧くんの誕生日。公式は明日から始まる私と友人のしらない「おっさんずラブ」の新しいビジュアルを宣伝していた。
知らないドラマ、知らない登場人物たち、知らない黒澤、そして知らない春田・・・。
お昼にトレンドにあがった「#牧凌太誕生祭2019 」を見て、牧くんを好きな人がこんなにもいるんだと、それがわかっただけでも良かった。
「春田と牧くんじゃなきゃ嫌だ!」好きなものをずっと好きでいたかったのは、私のわがままでしかない。公式はそんなこと、知ったことではない。
友人が、そして私が春田と牧くんを愛したと同じように、明日から始まる新しいおっさんずラブを、空で生まれるピュアなラブストーリーを愛する人が生まれるだろう。
だが、これだけは覚えていて欲しい。
次は、
あなたの番です。
家族で受けられるカウンセリングみたいなものがあって、それに何回か行ってるうちに、家族の態度がびっくりするぐらい変わってきました。それまでは「働け、家に金を入れろ、でなければ出ていけ」と。常にではなく時々、何かの拍子に言い争いになった時だけなんだけど、そういうことは言われてて。
その間はこっちも「そんな風に言われて、そうですかと働いてなんてやるものか」という気持ちでいたんだけど。カウンセリングを受けてるうちに「お前なりに辛いことがあったのはわかった」みたいに家族の態度が軟化してきたので、じゃあいい加減働くかと思ったわけです。
そんなわけでバイトの面接を受けました。面接が終わって、採否はいずれの場合も来週メールでご連絡しますと言われて。そして連絡が来ました。
その◯◯については実は面接時点でも話題に出て、第一希望とは違うけどそれでも対応いたしますというのは既に伝えてあったことでもあり、「問題ありません、是非やらせて下さい」とメールの返信をしたのです。
それきり、会社からの返信はありませんでした。お盆をはさむので担当者が休みなのかもと最初は待ちました。問い合わせのメールもしました。反応はありませんでした。家族には「そういう会社もある、もう忘れなさい」と言われました。
忘れようにも忘れられません。履歴書で落とされたり、面接で落とされたりするのはわかる。辛いけどわかります。でもなぜ一旦採用しますとまで言っておいてこんなひどい仕打ちを受けなきゃならないんだろう。
ニートになる前は一応フルタイムで働いていたのですが、その頃友人と思っていた人からひどい目にあわされて、精神的に痛手を追って、その影響から職場でもささいなことで攻撃されたと感じるようになってストレスを溜め、かといってそういう話を当時の家族には聞いてもらえるでもなく、心療内科に行っても睡眠薬と軽い抗不安薬以上の処方は特になく、カウンセリングに行ってもその場ではすっきりできても後にはつながらず。
フルタイムで働いていた頃はシステムエンジニアをしていました。かといって技術力があるわけではない、いわゆる客先常駐・請負派遣の身の上でした。開発ですらなくシステムの保守を数年やっていました。しかし前述の友人とのトラブルがあり、ちょうどそれに前後して保守業務が終了するので別の新規開発をやってほしいと打診され、話を受けました。
しかし私は正直なところコーディングが異常に苦手でした。保守だけやっていた頃は温厚で頼りになったリーダーが「なぜあの詳細設計書でこのコードになるんだ」とレビュー中に怒り出すくらいでした。そして当の私には何が間違っているのか、何がわからなくて間違うのかすらわからなくて。
学生の頃は勉強は大してやらずともできた方だったのに、新入社員の頃に研修でフローチャートを書かされていても新人で一番のスピードで正答を提出していたのに、いつどこでつまづいて、できなくなったのかすらわからない。コードと設計書を持ち出して(当時はまだぎりぎりそういうことが出来そうでしたが今は無理でしょうね)相談できる相手でもいたら違ったかもしれませんが、そんな相手もおらず。そして客先だったわけなのでろくにコードの書けない私は常駐を切られ、前述の通りプライベートの人間関係でもトラブルがあって人と会うのも嫌になり、そのまま仕事自体を辞めて、10年です。
そんな状態でようやく受けた面接で、どうして採用しますと一度期待させられてから地面に叩きつけられなきゃいけないんだろうか。叩きつけられても何度も何度も起き上がらなくては労働すらできないなんて。
労働は義務だと言われますが、なぜ権利ではないのでしょう。何かの精神障害に当てはまりもせず、どうして面接に行って、無理矢理言いたくもない建前を並べて我慢して面接担当者と騙し合って、採用ですと言われてもなおそれ自体が嘘だなんて。いいから仕事をさせろ。
・この後この会社からは連絡が来てバイトを始めましたが、自分だけ◯◯の条件だったけどほぼ同時期入社同ポジションの他の人達はその条件では働いていないことがもやもやしていたので、その後他の理由が出てきた時にじゃあもういいかと思って半年ほどで退職しました。辞める時は今まで喋ったことなかった偉い人が自席に挨拶に来て惜しまれた(建前かもしれないけど)。そこまで持ち上げるなら他のバイトと異なる待遇をなんとかしてほしかった……。まあトラバにもあったようにもともと合わない会社だったんだろう。
・その後ほどなくして良い会社に恵まれ3年働きましたが、契約上の理由から合意の上で退職しました。持ってるスキルを最大限活かせて居心地も良かったので居られるものならもっと居たかった。
・今は在宅で働いている。ユニバーサルマスク推奨派なのでずっとこの状態で居たいのだが、この仕事も契約期間決まってるんだよな。
その後も話していると、いつの間にか他の家族や本人を責めるような話になっている
言い返されると非は一切認めず、自分に都合の悪いことは必死な形相で話を逸らして誤魔化そうとする
そもそも逸れる以前の話自体もあちこちに飛んで支離滅裂なことが多い
こんな人と20何年間も暮らして近くで接していて、まともに何かのトピックを話し合ったり、重要なことに目を向けて問題解決に取り組んだりできるようになる訳がないと思った
兄弟揃って社会不適合者みたいに育ったし、何もしてなくても常にイライラする
既に一生分疲れてる気がするし、ものすごいハンデ背負ってる気がする
すべてを批判するつもりはないし、感謝していることももちろんある
親も親でそう育ちたかった訳ではないはず
2019年6月11日。デレステの恒常ガチャ更新で若林さんがSSRに昇格、ポンポンが可愛らしいチアガール衣装をお披露目した。
そしてこの日の更新で、担当アイドル「ヘレン」のカード実装間隔が2年を超えることが確定した。
ここまでひどい仕打ちをするなら、しんげきでサプボでも付くのだろうとウキウキでテレビを見る。当然そんなものはない。
さて、ここはてな匿名ダイアリーではデレステに関するお気持ち表明が流行っているらしいので、私も勢いでお気持ちを綴りたいと思う。
彼女は営業コミュやらアニメしんげきやらで声無しとしては破格の待遇を頂いているため、カードが実装されないくらいでちょうどバランスが取れているとの気持ちでいた。
いたのだが、他のアイドルにはどんどんSRやSSRが実装される。
同郷の声無しアイドルの皆様にも、次々とSRやSSRが実装される。
諸般の事情で追加雇用された新人アイドルの皆様にも、着々とSRが実装される。場合によってはSSRである。
気が付けばデレステのカード枚数がヘレンより少ないのはデスヤムンゴの3名のみ、彼女らもモバマスでの先行実装やら選挙実績などを考えると抜かれるのはほぼ時間の問題である。
幸いにして、現在実装されているヘレンSRの特技はCOMBOボーナスなので、しっかりと育成を行えばイベントを走る程度には何の問題もない性能ではある。
ただこの唯一のSRはイベントSRであり、LIVEPARTYをガン走りするかアタポンを25000まで走りでもしない限り、新規Pの目に留まることはないだろう。
そう、もう4周年も近いというのにヘレンには恒常カードがないのである。
正確に言うとNはあるが、SR以上の恒常がないのである。1枚も。
サイゲ運営には早く恒常SSRなりSRなりを実装しろと時節の要望を送っているが、どうにも反応が鈍い。
というか、営業コミュやらの追加でカードを追加した気になっている印象さえ受ける。
頂いたご意見は開発チームと共有させて頂いてるんじゃなかったのか。ちゃんと本文を読んでいるのか。カードを実装しろって言ってるんだ。
(コミュ自体はとても質が良いので、ライター様には多大なる感謝を捧げたい)
何が The time has comeだ。時なんか来てないじゃないか。
もうコピペSSRでいいから、コンセでもいいから新規カードを実装してほしい。
https://www.sankei.com/life/news/190403/lif1904030028-n1.html
宇宙業界の端くれで働いているものとして、この出来事はあまりにも生々しすぎた。
どこの業界もそうなのかもしれないが、これには宇宙業界特有の理由があると増田は考えている。
JAXAのプロジェクトが国の予算の都合でポシャったり、宇宙機が不具合で動かなくなったりすると、
その時点で開発や運用・管制に携わっていた人間は必要なくなる。
出向・派遣はそのためのリスクヘッジで、不足の事態が起きると元請けの人件費削減のために一斉に首を切られるか、派遣元に戻される。
昔はそういうことが割と頻繁にあったので、現在でもそのような人員構成になっている。
上記のような理由もあり、JAXAを頂点にはっきりとしたヒエラルキーができあがっている。
しかも、少なくとも国内には他に宇宙の仕事をくれる機関は存在しないので、
数年前過労自殺した若者の背景には、こんな事情があったことも覚えておいて欲しい。
(こうして表に出してもらえただけ、彼の犠牲は無駄にならずにすんだのかもしれない。
もしかしたら自分のすぐ近くで、このような悲劇は起きていたのかも)
長いんですけどお付き合い下さい。
生物学的な性別、オスであるかメスであるかは先天的なもので、個人の選択によるものではないじゃないですか。その人自身ではどうしようもない、偶然与えられてしまっただけのものですよね。
でも個人の社会における性役割、男であるか女であるかはほとんどの場合その人の生物学的な性別によって周囲から規定されます。オスであれば男をやることに、メスであれば女をやることになる。そこに選択の余地はなくて、自分がどう思うかに関わらず(ほとんどの人は「自分がどう思うかについて考えるタイミング」さえ飛ばすことになる)、気づいたら人は男/女になっている。
生物の中で人間だけが、オス/メスと別に男/女という概念を持っていますよね。これは単なる性別ではなく、人間が社会を形成するために作り出した役割だと言えるのではないかと、僕は考えます。
個人(というか人間の力では)どうしようもない生物学的な性差に基づいて、人をオス/メスではなく男/女という役割に仕立てあげ、男女それぞれに仕事を設定することで回してきたのがこれまでの社会。
偉いものでこれまでの社会は合理的な形になるようにやってきているなあと思います。
こんなことを言うと怒る人がいるので怖いのですが、どう考えても男は働いて女子供を養った方がいいし、女は子供をうみ、育て、男を支えた方がいい。
従来の人類の発展を続けるのであれば。
人が増え、発展していかなきゃいけないという昔から信じられている人類の発展を今後も続けていこうという前提があれば、この考え方は正しくて、超合理的だと思います。
元来人の社会のシステムが拡大、発展するためには、男が働き、女が支え、耐え、食い物にされなければなりません。
人間の行為にはしばしば男女どちらが適しているかが明確なものがあります。
確かに赤ちゃんを育てるのは男でもできるかもしれませんが、一般的には女が育てる方が合理的です。
戦争をするのであれば、女も戦うことはできるでしょうが、兵士は男である方が合理的です。
そして総体的に、これまでの人類の発展に際しては、女が割を食うことが合理的でした。誰かがそのように社会を作られたのか、わかりませんが。
女が割を食う筋合いはないし、男が体を張らなければいけない理由もない。
それもそうです。そもそも男/女なんて、自分がたまたま人間のオス/メスだったがために周囲から規定され、男/女としての役目を果たすことを求められているのだから。
実は男も女もいない。
人間が成長するにつれ男や女という役割を課せられてしまうだけだし、その区別の元になっているオス/メスの区別も先天的なもの、偶然のものであって、その人自身がどうあるかとは何ら関わりがない。
ここまでが前提です。
僕は今、生物学的な性と、それに基づいて個々人に与えられている社会的な性役割を、あんまり意味がないものなんじゃないかと思い始めています。
〇子供を産むことについて
今の社会では女をやっている皆さんが割を食っていることは周知の事実であり、それをどうにかしようという流れはありつつも、まだ割を食っていただいているとで緩やかに従来の人類の発展を続けているような状態です。
従来の人類の発展は女をやっている皆さんが割を食うことで成されるものでした。
ではここで聞きたいのですが、
みなさんは人類を発展させていきたいですか?
みなさんは自分が死んだあとも人類が発展していくことを望んでいますか?
あなたが人類の拡大、発展に最も簡単かつ効果的に貢献できる方法として、「子供を作り、育てること」があげられるでしょう。
子供を育てることは人類全体から見て非常に生産的な行為だと言えます。そもそも生物は繁殖してなんぼてすから、子作りは生き物として正解です。
でもあらためて考えてみると、子供を作ることははたして本当に良いことなんでしょうか。
あ、特に深いことや説得力があるデータを言うわけではないのですが。
単純に、僕はたまたま男だったので思ったのです。
その女が抱えるリスク(妊娠、出産のリスク)と仕事(僕が手伝うにしても、主として子供を育てていくこと)は、その人がたまたま女であった(たまたまメスとして生まれた)がために抱えざるを得なくなったリスクと仕事なのです。
僕には女を孕ませ、リスクと仕事を負わせた罪が生じます。女と子供を作るという合意があったとしても関係ありません。女は僕と同じ一人の人間なのに、たまたま妊娠と出産ができる人間のメスであり、かつ人間のオスである僕がいたために子供を作るという選択肢をとることができてしまい、それにまつわるリスクと仕事を背負ってしまった。
これは、幸せだとされてきたのです。
男は女と結婚して子供を作ることが幸せ。女は男と結婚して子供を産むことが幸せ。
しかしこれは、たまたま女に分岐していっただけの人間に、たまたま男に分岐しただけの人間がとてつもない重荷を背負わせているだけです。
人間対人間として見れば、とてつもなく残酷な行為に見えてしまいます。
しかしそれを男/女のレベルにとどめることで、「そういうもの」とすることができます。女は子供を産むものだし、男は孕ませるものなのだ、と決まっているなら飲み込めるというものです。
実は子供を作ることは、人間が人間にひどい仕打ちをしているだけなのではないかと、僕は思うようになったのです。
〇男女平等について
男も子供を産む苦しみを知れと(あるいは男もそれを知ろうと)、同じ重さの重りを背負ってみたり、鼻からスイカ出したりしようとします。
あれ本当にしょうもなくないですか。
今の男女平等の目指し方を考えた時に、僕は天秤を思い浮かべました。
天秤の片方の皿を男の苦労、もう片方の皿を女の苦労だとしましょう。今までは女の側に大きく天秤が傾いていました。
何度も言うように、社会は合理的なので、女の皿も男の皿と同じ高さにしてあげようと合理的に考えます。
そして、女の皿の下にどんどん台を噛ませ、不器用にも高くしていくのです。
女性専用車両、レディースデー、女性料金などといった「女自身でも正直ちょっと優遇されちゃってるなと思うこと」の数々は、あとから男の皿と高さを合わせようとテコ入れした結果のものです。
そして重要なのは、男女それぞれの皿にはもう片方の皿には決して載せることが出来ない重りがあるということです。
たとえば先程の妊娠と出産は、女だけが持っている重りだと言えるでしょう。男側にはどうやったって妊娠、出産の苦労の重りを載せることはできません。
この天秤は、男女が男女として関わりを持つ限り、その間に必ず現れます。そしてどれだけ双方の重りを調整しようとしても、必ずどちらかに傾きます。絶対にです。
今の社会は天秤の重りをいじり、皿の下に台を噛ませて見た目上の皿の高さを同じにしようとしていますが、それで男女平等が達成されることは永遠にありません。
ではどうすればよいのか、僕は「天秤そのものをなくすこと」がその答えなのではないかと考えました。
次で最後です。
〇本当の男女平等について
人間はたまたま男や女に仕立てあげられているだけで本当は男も女もいないという話、子供を産ませることは、人間が人間にひどい仕打ちをしているだけだという話、今の男女平等の目指し方では永遠に平等になることはないという話をしてきました。
では本当の男女平等とは何なのか。それは、異性との性的な関わりを持たず、異性を異性と思わず接することです。
僕が異性だと思っていたものは、たまたま異性になっただけの同じ人間です。よって、僕と同じだけの自由があります。
僕はかつて、女と付き合い、結婚し、子供を作りたいと思っていました。しかし、そうしようと思っていた女も僕のような男になるかもしれなかった人間で、たまたまメスに生まれたがために女として育てられ、男とつがいになることが幸せとされる存在の一員とされてしまいました。
女には付き合うことも付き合わないことも、結婚することもしないことも、子供を作ることも作らないことも自分で選択する自由がありますが、僕と関わることで選択肢が狭まる可能性があります。そして僕がアプローチをかけでもすれば選択の機会は奪われてしまいます。
同じ人間の選択や機会を同じ人間が奪うことは恐ろしいことだと思いました。やってはいけないとも思いました。
よって僕は、女と関わりを持つことをやめようと思いました。
女と関わりを持つ限り、先程の男女の天秤が現れます。この天秤はどういじってもどちらかに傾くので、関わり続ける限りどちらかが負担を強いられます。
そこで僕は女を女と思わないことにします。そもそも同じ人間なので、やろうと思えばできないことでもありません。
努めて同性と接する時のように、目の前の存在が女性であることに目を向けないように接します。
目の前の人が不当に低い扱いを受けていれば(周りはその人が女だから低く扱っています)、同じ人間なのにどうしてそんなことをするんだと怒りますし、不当に良い扱いを受けていれば(周りはその人が女だから良く扱っています)、同じ人間なのにどうしてそんなことをするんだと怒ります。
そして僕は、女と性的な関わりを持たなかったので、一人で死ぬことになります。
僕は本当は一人で死ぬことだけは嫌で、女を手に入れ子供も作ったことを幸せだと感じて死んでいきたかったのですが、そうするためには同じ人間を害する必要があることに気づきました。そこまでして幸せになるほどの者でもないので、あと他人を害することを躊躇う倫理観がある自分でいたかったので、一人で生きて死のうかなと思いました。
男女という概念を自分の中から徹底的に排除すると、男女という概念を基本として成り立っているこの社会からははみ出すことになります。自分もこの社会で育ったので、ここの幸せを理解しているし、本当は欲している自分もいますが、女が同じ人間であることに気づいてしまったからにはもう女を手に入れるという男の幸せは得ることがどうしてもできません。
最後に一つだけ。
この社会で幸せだと信じ込まれているものは、実は人類の発展に寄与するもの(そして結果的に同じ人間を害したり、同じ人間から害されるものだと僕は思います)です。
みなさんはそれでも人類を発展させていきたいですか?
みなさんはそれでも自分が死んだあと人類が発展していくことを望んでいますか?
僕はここまでずーっと考えていて、もうちょっと疲れてしまって、別に長くも短くもなく、今課されている責任を果たしたら、一人すっと死んでしまってその後になにも残らなくてもいいのかなと思いました。
東京タワー水族館がなくなるというので二人で遊びにいったあと丸の内のバーで彼に距離を置こう、と言われて4週間くらい経った。彼から連絡はないがからあげクンの抽選に応募しているところを見ると元気なんだと思う。お世話になっている同僚に贈りたいらしい。ふーん
わたしも悪かったと思う。わたしはわたしでいっぱいいっぱいになっていて、迷惑をかけたと思う。だからわたしは夢を追うのをやめた。いつのまにか追っていたはずの夢に追われて疲れ果てちゃう生き方は自分らしくないと思ったから。夢じゃなくてもふたりで生きていけたらそれでいいんだと思った。でももう遅かったんだと思う。問題はわたしと同時に彼も疲れ果てていたことだった。彼はわたしの発する些細な言葉たちにストレスを感じていたらしい。俺のこと否定するようなこと言うじゃん。あまりにも心当たりがなかったので具体例を聞いた。その日東京タワーに出発するとき、券売機の前での会話。TXは高いからわたしたちは駅近くの格安券売機で切符を買う。
どこ行きの切符買えばいいんだっけ
秋葉原じゃない?
詳しい文言は覚えていないがこんなようなことを言ったと思う。これが嫌だったと言う。自分が否定されたように感じたと言う。それを聞いてああこの人は疲れているんだなと思った。同時にこんなことにさえストレスを感じてしまうようになるほどわたしは無意識のうちにひどい仕打ちをしてきてしまったのだなと反省した。考えさせてほしいし、考えてほしい。彼がそう言うのでわたしたちは無期限で距離を置くことにした。
最近院生やら研究者やらの夫がどうのこうのという増田をよく目にする。タイムリーなことに彼は大学院生だ。研究室に彼以外に学生はおらず、全員社会人として研究をしている人たちだという。他の人たちは学生ではないので夏休みはない。だから彼にもないらしい。他の人が働いてるのに自分だけ休むわけにはいかない。それは分かるがその人たちは社会人でお前は学生じゃんと思ったがそういうことではないのだろう。彼は夏休みの間も毎日研究室に行っては教授に雑用を無茶振りされ泊まり込んで片付けていた。隣の研究室の教授に君毎日いるよね?少しは休んだ方がいいよと言われたと誇らしげだった。わたしは教授もそう言ってるんだから休んだ方がいいんじゃないのと言った。今思えばこの言葉も彼を否定していたのかもしれない。彼が休むことはなかった。
わたしと距離を置いたところで彼が休まることはないのだろう。わたしとデートをしていた時間で少しくらい休んでいてくれたらいいと思うがおそらく無理だろう。わたしはあれから毎日彼のことを考えているが、彼の方はどうなのだろう。夏休みも終わってますます忙しくなっていることだろう。わたしのことを思い出している暇なんてあるのだろうか。一瞬思い出したとしてもわたしとの関係を考えている暇なんてないだろう。このままわたしだけが彼からの連絡を待ち続けて彼は抽選で当たったからあげクンをお世話になっている同僚に贈る。地獄絵図だ
いつになったら終わるのだろう。つらい
折口信夫への旅 第1部 ~小説「身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家・山本吉之助)
http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm
という折口信夫『身毒丸』解説文の中に、日本の師弟関係がなぜ理不尽で暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、
もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。
例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。
そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。
なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)
それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。
しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。
「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。
身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。
一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。
春琴の教え方は 非常に厳しく、
「あかんかかん、弾けるまで夜通しかかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、
時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います。
『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである
本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、
摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた
それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという
また文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある
玉次郎若かりし頃「阿波の鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、
その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない
「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。
しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。
彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した
「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。
世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。
ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。
そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。
自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。
つまり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。
(中略)
神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。
だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。
それは神に対して意地を張るということでもあ ります。
折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。
神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。
神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。
既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。
しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。
『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。
例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。
このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。
みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。
そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。
古代人の 生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。
そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。
貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。
民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。
神は別に何もするわけではないのです。
しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。
これが古代人が神に対する時の態度です。
源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。
まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。
それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。
神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。
我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。
しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。
過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。
折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。
つまり、
神の理不尽な怒り(地震・台風・洪水・旱魃・冷害や飢饉・病気など)
→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む
「神よ、この清い私を見てくれ」
これが、古代の神と民衆の関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。
なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマや物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代からの宗教的な感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。
中2の時に両親に精神科病棟にぶちこまれて未だに理由も正確な診断も不明だし、それからずっと苦労してる。
自慢じゃないけどそれまで勉強はできた方だったのに、気づいたら勉強の仕方がわからなくなって、気づいたら周りが国公立早慶ばんばん入ってる中、受かってもみんな進学しないような大学に行くことになった。知らない間に落ちこぼれてた。
教職とったんだけど、教職担当からは未だに悔しくなるくらいひどい仕打ちを受けまくって、単位が出なくって実習にいけなくなった。
(ちなみにうちの学年での評判は軒並み悪くて、周りはぼろぼろ「履修費返せ」と言いながら、もしくは精神的にぼろぼろになりながら教職をやめていった。教職担当を外部から呼んでる教員に相談したら「彼にはそういうところがあるから」と一蹴されて相談にすらならなかった)
そのせいもあって、春から定期的に診療を受けてるんだけど、保険がおりないから1か月に8000円くらい飛ぶ。大学生の8000円、きつい。教職科が賠償してくれりゃーいいのに。でももう訴える気すら起きないよ。うちの教職話にならないもん。
4年で周りは就職決めたりしてるのに、てんで学べない大学入ったもんだからこんなところで終わりたくない。院に行きたい。
休みあけたら勉強したいから、夏の短期で絞ってバイト探してるんだけど、倍率が高くて全然仕事にありつけない。すごく疲れる。
そんでバイト探すのに精いっぱいで院の勉強にまで手が回らない。診療行ってる話は親に言えないし(だって親が精神科にぶちこんだのがそもそものはじまりだと思ってるから)、なんでお金が足りないの? って言われる。お前のせいだよ。
入院しなければこんなに惨めな思いをすることなんてなかっただろうし、4年で無事就職できるような大学に行けただろうし、教職とっても不条理な目に遭わなかっただろう。人生に報われたい。もしくは金が欲しい。
■ 人々は不合理で、非理性的で、自分勝手です。それでも彼らを愛しましょう。
→ 人々ってひっくるめてそういう風に決めつけるの、不合理で、非理性的で、自分勝手な態度だと思う。
■ あなたが善い行いをなしても、人々は下心があると言うでしょう。それでも善をなしましょう。
→ 下心があっても善行なんだったらいいじゃない。
■ 成功をすると、偽の友人や真の敵を得るでしょう。それでも成功を目指しましょう。
→ そこ見分けられないと失敗するんじゃん?
■ あなたが今日した善行は、明日には忘れ去られるでしょう。それでも善をなしましょう。
→ みんなに覚えててほしいとか思うことがすでに下心だろ?別にまあいいけど、下心があるって言われるのがいやなんだったらそこ矛盾してない?
■ あなたの正直さや素直さは、あなたを弱くするでしょう。それでも正直や素直でありましょう。
→ 嘘つきで捻くれてたら強くなるの?逆じゃね?弱いから嘘つきで捻くれるし、強いから正直で素直でいられるんじゃん。
■ 大志を抱いた人々が、浅はかな小人に撃ち落とされるかもしれません。それでも大志をいだきましょう。
→ 撃ち落としにくるのは浅はかな小人だけじゃねえし。もうそこで差別意識が見える。
■ 人々は弱者に目をかけますが、結局は強者に従うでしょう。それでも弱者のために戦いましょう。
→ 強者になって弱いもの助けたらみんな従うじゃん。その方が早くね?
■ あなたが数年かけて築いたものが、一晩で破壊されるかもしれません。それでも作り続けましょう。
■ あなたが助けを必要とする人に手をさしのべたとき、彼らは恩を仇で返すかもしれません。それでも人々に手をさしのべましょう。
→ 恩を仇で返す人はもういいじゃん。別の人は関係ないから助けたらいいじゃん。
■ 世のために最善を尽くしたのに、ひどい仕打ちをうけるかもしれません。それでも世のために最善を尽くすのです。
突然だけど、私はルービックキューブが好きで、triboxというショップを利用している。
triboxはキューブ専門の通販ショップで、珍しい種類のキューブも多く扱っている。
日本でキューブを購入するとなると、すごく便利なショップ(というか専門ショップがほかにない)なので普段から利用している。
さて、このtriboxのツイッターアカウント(@triboxJP)なんだけど、現時点でフォロワーが2593人、フォローが1482人。
これがどう考えてもおかしい。
公式アカウントだったら、大抵、全員フォローバックするか、関係者だけフォローするか、だれもフォローしないかというパターンが多いと思うけど、なんでこんな中途半端な数なのか理解不能。
自動フォローバックもtwittbotとかの機能にあるし、手動でフォローするにしてもそこまで大変な数でもないと思う。
自分はフォローしてるんだけど、なぜかフォローバックされてない43%の人間で、非常に憤りを感じている。
今まで、このショップで五万円分くらい買い物してきたし、こんな冷酷でひどい仕打ちを受ける筋合いはないと思う。
運営の怠慢か、それともライトユーザーに対する差別なのかわからないけど、もうちょっと考え直してほしいと思う。
十万とか百万って単位で買い物しないとフォローバックしてくれないのかな?