はてなキーワード: のれんとは
https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/201812/0011868043.shtml
兵庫県警兵庫署は1日、公然わいせつの疑いで住所不定無職の男(43)を現行犯逮捕した。同署によると、男はホームレスとみられ、ズボンがぼろぼろで、破れた穴から陰部が見えていたという。
駆け付けた同署員が付近を歩いている男を発見。近づいたところ、陰部が見えていたことを確認したという。「ズボンはまるでのれんのような状態だった。歩いていた路上も人通りが多く不特定多数が目撃していた。逮捕すべき案件」と捜査関係者。同署によると、男は「(陰部が)丸見えの状態なことは分かっていた」と容疑を認めているという。
とても寒くて晴れた元旦だった。ぼくは正月ということもあり、叔母の家に遊びにきていた。
叔母がぼくに言った。
「僕くんおいで!今年もお年玉あげるね」
ぼくは中学生になって「敬語」なるものを教わったので大人ぶってこう言った。
「ありがとうございます!大切に使わせていただきますね」
叔母はにっこりと微笑んだ。
一方、僕の心の中では、しめしめ今年も遊戯王カードとゲームを買いまくってやろうと思っていたが。
すると、後ろで談笑していたウチの母が、
「いいのに!もう!こんなガキンチョにお金なんてあげなくて〜。どうせロクなもんな使わないんだから。」
と社交辞令を返す。
毎年正月になるとやり取りをするのだ。この会話を見るたびに正月という感じがして、僕は好きだ。
このやり取りを繰り返して、祖父、叔父、叔母からお年玉を回収していくのが毎年の流れになっていた。
(あとから知ったのだが、母親はしっかりこのお年玉の分のお返しをしていたらしい。)
ところで、この叔父叔母には、3人の娘息子がいて、1番年上の長女、2番目の長男、末っ子の次男という感じで構成されている。
僕とは3人とも、とても年が離れていて僕が中学生だった当時、末っ子の次男氏は大学生だった。
とはいえ僕は1番年が近かった末っ子の次男氏とよく一緒にゲームしてもらったり、野球のキャッチボールなんかをしてもらっていた。
「僕、今年もパチンコ行くべ!」
そう、僕の親戚一家には変な風習があった。それは、毎年正月になると祖父、叔父、僕の父親含む男連中全員で運試しといって、パチンコに行くのだ。
もちろん僕は、中学生だったのでパチンコを打てるわけなく外から眺めてるだけだった。
大抵の場合、全員が大負けして帰ってくるのだが、その年だけは違った。
僕と仲の良かった次男氏がなんと、大勝ちを決めたのだ。
次男氏はこう言った。
また、次男氏は言った。
僕「あ、いいっすよ。」
そうして、彼に着いていくこと、15分が過ぎた頃。ワクワクも過ぎ去り、正直寒くて早く帰りたくなっていた。
次男氏が口を開いた。
「着いた!」
最初僕はそれがなにか、よく認識できなかった。僕たちが来た場所は、銀行でもATMでもなく、アダルトショップだったのだ。
のれんをくぐり、中に入るととてもあったかくて、つけていたメガネが曇ってしまった。
しかもあの、ビデオ屋特有のまったりしたような甘い匂いが鼻について離れない。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
目の前には女性の裸の写真が大量に並べてあるのである。新世界だった。ホールニューワールドである。
僕の愚息はすでにパンパンだった。
〜続く〜
ノーベル賞とキズナアイは両方まったく別ジャンルの高純度のエンタメなんだよ。
サッカー人気をカーリングにもちこもうとして、ジーコつれてきて流暢な日本語カーリング応援原稿読ませたみたいな話。
ほんとそのジーコってとこだけが邪魔。別に恨みなんかないけど純粋に好きな情報だけを摂取したいんだ。
フーリガンが暴れるのはよくないけど、空気読まずに強引すぎるコラボできっかけつくった国営放送が一番良くないと思うね。
一番最初に情報の暴力うけて辛い思いしてるのはグーグルにノーベル賞入れてトップ提示のあのサイトにたどりつかされる人でしょ。
いきなり心を殴られてびっくりしての「「「「「なんでキズナアイ」」」」はほんと素朴な感想だったとおもうよ。
だれもこれからジーコ(キズナアイ)のすごさを知るぞって検索したんじゃない。
純粋に、余計な情報をぶちこまれずに、ただ自分の知りたいことだけを知りたかっただけなんだ。
驚きと誤ったフォローが反響しあって情報暴力の連鎖になっちゃった。
地獄への道は善意のれんがで敷き詰められてた実例がまた一つ増えた。
2次元キャラは2次元キャラとして尊重される場でのみファンの前に出るほうがキャラとしての幸せだと思う。
一日所長、一日長官みたいな強引な知名度上げは軒並み失敗してやめたはずだとおもったんだけど。
しつこく強引なゲームコラボ程度だったら、今回のイベントは興味ないから周回しないしガチャも回さん、で済むんだが、
国民全員に強制課金させているNHKのトップ記事とのコラボだもんな。そりゃ叩かれるわ。
てか、「性的消費だから人目に触れる所でやるな(のれんの先などなら良い)」の合間に「いっそ店から出せば全部解決じゃん」という意見を混じらせてごり押しする奴がいるから
場が混乱しているんだろうと
基本的に自分は「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」には質的に差異があるという立場を取っている。
ラノベやBLなどのポルノは対象の人格をリスペクトするだけのものがなく、都合のいい世界の中でお人形遊びしている(そこに暴力性、差別性などがある)。芸術表現として許容される性描写は深い人間理解と同時に理解不十分というせめぎ合いの中で生まれる(個々人の人格のアンビヴァレンツ、曖昧さ、捉えきれない無限性。もちろん古典では雑な性描写もあるが、今回は女性の人権が拡大した現代の話)。
ラノベやBLによくある都合のいい男性描写女性描写自体が他者の尊厳に対する暴力であり(テンプレキャラクター化とでもいうか)、それを象徴するかのような下手で誇張された表紙は刺激の強いグロテスクな表現だ。ただし、これはポルノ商品に限らず通俗的な「物語」全般に常に含まれる問題でもある。今回ラノベやBLが取り上げられているのは、ポルノ商品はこういった暴力がより際立ちやすいという性質を持っているため。行き過ぎたポルノ商品は芸術表現としては到底擁護不可能であり、全年齢向けで平積みするのは不適切だと考え、適切なゾーニングを求める。
ポルノ商品も社会には需要があるので表現や出版自体を規制することは権力の暴走でもあり絶対に許されるものではない。しかし行き過ぎた暴力を自由として認めることは同時に他の誰かの自由を侵害することにもなり、そこに闘争状態が生じる。だから適切なゾーニングをして被害を受ける人の数を減らすよう努力し、穏やかに棲み分けられるようにしようという話をしている。ゾーニングされてもポルノ商品を求める人は問題なく購入できるし、同時にポルノ商品を求めない人たちはポルノ商品によって無差別な暴力を受けることをゾーニングによって回避することができる。デメリットは購入者にほんの一手間余計な手続き(のれんをくぐるなど)を要求するということがある。想像力の豊かな人はゾーニングが表現規制の引き金になってしまうと危惧するが、それは権力を監視することによって回避するしかないだろう(そういった監視が面倒だという議論はあってもいいが、個人的にはまったく感心しない)。
また、「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」を明確に区別することが困難であるという議論はあるだろう。まず間違いなくパラドックスが生じる。完全な境界線を引くことはできない。グレーゾーンは常にある。しかし完全な区別ができないからといって、不完全な区別まで不可能というわけではない。その辺りは政治の問題になってくる。全か無かの話ではなく、程度問題になる。だから冷静で建設的な議論が必要だ。
オタクが「こいつ話にならないな」と思うのは勝手だが、こういう考えの人間もいるということだし、社会の一員として生きて行くということは、こういう考えの人間とも折りあっていかなければならないということだ。フェミニストの言い分が100%通ることもないだろうし、オタクの言い分が100%通ることもないだろう。完全に論破して終わりではなく、妥協点をどこに見つけるかという議論が必要だと思われる。
最近、米国高配当株の関する本を出した、バフェット太郎という投資ブロガーがいるけど
日本企業の大型M&Aを戦略に掲げてる事を特集した、日経の『日本勢 国際M&Aの主役』を例に引き出して
「日本の大型株がオワコンである理由」という記事を書いてるが、あまりに無知蒙昧すぎて大笑いしたよ(http://buffett-taro.net/archives/32913303.html)
>つまり、日本の大型株は配当や自社株買いなどを通じて株主に還元した方がよっぽど株主価値を高められるはずなのですが、古いタイプの経営者にそうした発想ができる人はほとんどおらず、いつまでたっても平気で他人(株主)のお金を使って割高なM&Aを繰り返すわけです
割高なのは、当然。それは「のれん」が上乗せされてるから。M&Aで「のれん」を上乗せした上で買収をするのは当然で、それでも、シナジー効果があるから買収するのだよ。そうでなければ、やる訳ないだろ。
稼いだキャッシュフローを再投資に回さないで、自社株買いとか配当に回せって、企業の成長戦略や企業の将来を犠牲にして、自己資本を減らして、バラマケって事だよ。
株主は、そういう経営陣より、将来の成長戦略や企業の未来に投資する経営陣の方を重視するから、日本企業は、M&A戦略を拡大するんだよ。
富士フィルムが、主力事業のフィルム事業が消滅した後でも、残る一方で、コダックが倒産したのは、富士フィルムが自己資本を蓄えて、新規事業やM&Aに活用して
みんなでお願い書いた短冊飾ってねのコーナーが出来てて
みんなそれぞれの短冊が飾ってあってお願い事してあったわ。
って今日だけじゃなくて七夕まで大喜利が繰り広げられてるけどね、
短冊どっさり付いてたわよ。
ウェブ笹竹なんてあったら盛り上がりそうよね。
まあただ書いて飾るってだけになっちゃうんだけど。
私もお願いしようかな!
夏までにペキカンボディーが欲しいですっ!って
うふふ。
そんでね、
帰り道駅そば食べようと思ったけどざるそば売り切れだって!!!
うーん
お蕎麦食べてご機嫌さんだったので、
叶うといいな!!!
あのタマゴサンドのタマゴのレシィピ自分で習得してしまったものなら、
この時期はもうしっかり水分補給してね!
乾く前に飲む!
食べる前に飲む!って
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昨日夜ほっと一息、
縄のれんをくぐって
パスタでもキメて帰ろうかなと思ったの。
私がいつもこだわってる慣れない人だととうてい食べたいメニューにたどり着けないでお馴染みの見掛けだけがグラフィカルに輝いてる食券機、
冷やしパスタを頼もうと思ったの!
そしたら時すでにパスタ!
いや違う違う、違うそうじゃない!
時すでに遅し、
あーあ、冷やしパスタ大盛り2玉キメようと思ってただけになぁ。
なんかもう冷やしパスタの口になってるだけに
それはそれで美味しいんだけど
ちょっとショックを隠しきれないわ。
一応、
食券機は売り切れと見せかけて大将に言ったら冷やしパスタあるよのパターンも諦めきれなかったから、
私思わず聞いちゃったの!
大盛り2玉でね!!!
うーん。
たまにはそういう時もあるわよね、
でも温麺もあるなら、
きっとでもパスタ職人の大将がそれを許さなかったんでしょうね。
いつも用意周到なんだわ、
だからきっとここにはシェフの気まぐれパスタランチなんてメニューがないのよね。
そう思った昨日の夜、
今日は、いや
そうお星様に願うわ!
キラーン!
あ!流れ星!
もう流れ星って言ってしまってる矢先に流れ星ちゅうえいの一発ギャグを思い出して笑っちゃったわ!
なんて。
うふふ。
こないだ食べてリピしたかったゆで玉子レタスサンドが置いてあってすかさずゲットよ!
最高!
難消化性デキストリン入りと
それが入ってない分とで作り分けておいて置く冷蔵庫のスペースがないわ!
週末は大掃除、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!おー!
隊長のふとした一言と某隊員の熱望により、ついに実現したツアーといえば、「第一回東京ブラックツアー」で決まりである。東京のディープスポットを探訪していくという、とてもわかりやすいコンセプトが唯一の自慢である。今回は初回であるし、ディープな場所から抜け出せなくなることを避けるため、ツアーは昼間に行われることに決まっていた。それなのにそれなのに、予想通りというべきかいつもどおりというべきか、隊員の集まりは悪い。全然時間どおりに集まらない隊員、この先の我々の運命を暗示するかのような曇天、どんどんと下がるテンション、等々の様々な悪条件の中、我々は出発した。その出がけ、玄関で見知った顔を見つける我々3人。当然のごとく強制参加させ、隊員の数は4人に急増した。4人といえばSPEEDと同じ人数だ、これでもう心細くないね!
曇天の上野公園、しのばず池にいる鳩や鴨達も心なしかブラックに見える気がしてならない。今にもあの平和の使者である鳩が俺達を襲うのでは?、と意味不明の疑心暗鬼が次々とわき上がってくるほどに気分はダークである。目的地へ近づくにつれ、隊員の緊張は見てとれるほどになり、武者震いなのだろうかしきりと震えだす隊員もでる始末。そう、例の場所に向かう我々の姿を客観的に見れば、怪しい4人組=おやじSPEED(暗黒)といっても過言ではなかっただろう。目指す場所は上野某所の映画館である。「ほら、あそこだよ」という隊長の言葉に、なんともいえない緊張のさざ波が隊員達を駆け抜けた。その場所は、少し歩けば大通りに出てしまうくらい人通りは激しい所だった。
その映画館はそこにあった。紛れもなく、そこに。映画館は2階らしい。あせるな、と思いつつ上映時間を確認する我々隊員。まだ上映開始まで時間があるようだ。合議の結果、若者が集うゲームセンターで時間をつぶすことになった。しかし、どの隊員も緊張のせいかゲームには手を出さない。いや出せなかったのだ。あと数分後に行かなければならないあの場所のことを思うと。上映時間が近づき、なにはなくともとりあえずトイレを希望する隊員が続出する。しかし、京成線の駅のトイレには紙がなかった。とても嫌な予感がする。嫌な予感がビンビンするよ!
トイレの事は諦めて、我々はその映画館へ向かった。ちなみに映画は2本立てである。これから約2時間の長丁場である。しかし、隊員1号はそのことを知らなかった。このことがあの悲劇の序章だったとは、全隊員露ほども思っていなかっただろう。年季の入った階段を縦列に並んで登る途中にも、映画を見終わった人達だろうか、次々と人が階段をおりてくる。もう誰も信じられない、あの人もこの人もそういうのなのだ、そうなんだあの中ではすざましい饗宴が繰り広げられているんだ、と思いながら階段を登っていくと、「ヤング薔薇族ショー」という看板が突如現れる。ますます下がるテンション。ふと階段の上を見ると、そこにはいかにもなもぎりのおばちゃんがいた。一番最初に階段を登り切った一人の隊員が、おばちゃんに近づくと、何かを指さすおばちゃん。そうである、自動販売機で切符を買うのである。ハイテクである。自動販売機へ向かった隊員へ、たたみかけるようなおばちゃんの言葉が襲いかかる。「どっち?薔薇族?学生さん?」。思わず「は、はい」と答えてしまう隊員だった。実はそこには劇場が2つあり、切符売り場は共通だったのである。もうひとつの映画館はピンク映画館だった。次々と無言のまま切符を、学生の切符を買う我々隊員であった。血の契りを交わしあい、相当に団結しているはずの隊員達であったが、その時には既に他の隊員を省みる余裕はなかったようで、会話を交わすこともなくなっていた。そして、ひとかたまりにはならずに、ひとりひとり左奥にある劇場へ向かうのであった。
妙な圧迫感。第一印象はこれにつきている。72席あるという座席は、ぱらぱらとしか埋まっていない。それなのに、壁際にたつ人が異常に多い。なぜだ。と、座席を見渡して、先に着席していた隊員を見つけると、思わず安堵の息をもらしてしまう自分がいじらしい。あれ、でも、事前のミーティングでは一番後ろに座ろうと決めたはずじゃあ。。。何故か入り口のすぐ側の列、後ろから4列目ほど、に整列して座っている隊員達であった。その顔は暗い。その場の嫌な感じに、その顔は真っ暗であり、しかも皆うつむいていた。一番最後に劇場入りした隊員1号は、既に着席していた某隊員の左隣に座った。隊員1号の左隣は一番端の席である。そう、その時点ではスクリーンに向かって一番左の端の席が空いている状態だった。ふと嫌な予感、突然の頭の回転、第六感で席をうつる。当然、左端にである。それは、隣を空席にしておくのは危険すぎるという判断からだった。身の安全を確保したあと、少し落ち着いて上映開始を待つ間、なにか生暖かい気がしてならない。しかもポマードなのかなんなのか、嫌な匂いがエアコンから暖風とともに排出されているようだ。もうテンショメーターは左に振り切れ、ほぼ0になっていた。
ブザー、暗転、上映開始。まわりは気にせず映画に集中しよう、と心に決めて観賞を開始する。初っ端から、現代映画とは思えないチープ感が漂っている。なんなんだあの貧相な女優は。と思っている間に、例のシーンに。変則的な格好に思わず心の中で笑ってしまう。これがそうなのか、と訳も分からず納得している自分。そしてストーリーは展開を見せはじめるのだが、映画に集中などできなかった。ストーリー自体のしょうもなさもさることながら、それよりも気になったのはまわりの人間達、隊員以外の動向だった。のれん状のカーテンが掛かっているだけの、ドアのない入り口のすぐそばに座っているせいか、上映中にも頻繁に出入りする人々が気になるのである。そして、席に座ったとたんに立ち上がって壁際に立ったと思ったらすぐに別の席に座る客が気になるのである。そして、壁際に立つ人の後ろに立って腕を前の人にまわしている人が気になるのである。その場所で、落ち着いて映画を見ることは不可能であった。このくだらない映画はいつ終わるのか、そんなことばかり考えはじめたのは、まわりの人間模様が気になりはじめたのと同時だったかもしれない。その間にも、入り口付近では相も変わらず人が頻繁に出入りし、通路に出て奥にあるトイレの方へ向う人あり、がら空きなのに人の隣に座る人あり、映画よりもその様子が気になってしようがなかった。いつか、それは我慢の限度を超えるほどに。
1本目と2本目の休憩時間に他の隊員と一緒に抜け出そう、と決めた。その時決めちゃったのである。とにかくこの場所から早く抜けだしたかった。いつだいつだいつ終わるのだ、と思っているうちに、映画はどうにかスタッフロールまでたどりつく。当然普通の映画館でよく見られるような、スタッフロールで立ち上がり帰る客はいない。いつもはそんな客を苦々しく思っていた隊員1号も、この時ばかりは一刻も早く立ち去りたかったのはいうまでもない。終了。「1999(映倫)」の文字に驚愕する。最新の映画だったのだ。あの映像感で。それよりも、ようやく帰る事ができることが嬉しいかった。しかし、ライトよ早くつけ、と熱望しているのに、なかなか客席のライトはつかない。ライトがついたら全員で帰ろう、と思っていたのにライトはつかない。そう、その時、次の映画がはじまってしまった。2本立てなのだから当然である。軽い衝撃を受けつつ、あと1時間我慢するか、いますぐ立ち去るか、立ち去るなら他の隊員にはどう伝えるか、数秒の間に色々な考えが渦巻く。そもそも、大抵の映画館なら休憩時間におしゃべりしているうるさいカップル等が必ずいるものだが、この映画館には言葉が存在しない。無言のコミュニケーションがその場を支配している。とても他の隊員に話しかけられるような状況ではなかった。もし、今左端に座る自分がいなくなると、某隊員の左隣には二つの空席ができてしまう。それはきつい。自分だったらそんな状況は嫌だ。でも、この生暖かい嫌な雰囲気にあと1時間は耐えることはできない。すまない、と心の中でつぶやきつつ、他の隊員には無言で席を立ち、もぎりのおばちゃんの前を抜け、逃げ去るようにその場を立ち去った。つらい選択であった。すまん。
しばらく映画館の付近で待つが、他の隊員が出てくる気配はない。あと1時間耐えることを決めたのだな、と判断して、ツアーからひとりぼっちの帰還を果たした。なんともいえない疲労感をかかえつつ。その頃、あの映画館では、左端に二つの空席を抱えこんだ某隊員に緊急事態が起きていた。その列の左端に座る見知らぬ人。この時点でおかしい。席はがら空きである。そのうち席をひとつ右に移る見知らぬ人。完全におかしい。席を移る意味がわからない。そして、見知らぬ人の右手が某隊員の左膝に。。これ以上は詳細不明のため描写できないが、その隊員が無事帰還したことだけは記録しておきたい。
脱力感、疲労感、倦怠感。どうやら全員無事帰還した我々隊員は、今日の日の事を忘れたくても決して忘れられないだろう。そして、この記録をここに残すことによって、あなたの心の中にもいつまでもこの体験は残り続けるだろうし、どこかの誰かによって語り継がれていくだろう。疲れた。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180316000039
元の話題とはまたちょっと筋がずれるんだけど、コメントには「ポリコレ的な規制論は、いつ自分の大切なものに向けられて、自分が喪失する側になるかわからんのだから慎重にしないとダメだよ」系の意見が結構たくさんついてる。諸刃の剣だとか、自分の庭を荒らされる覚悟とか、言葉は違うけれど。この記事は、そういうコメントに対する記事だ。
そういうコメントの気持ちは分かるし、自分の大事なものに置き換えて共感できる能力は素晴らしいと思う。だけどちょっとまってほしい。
世の中には、コメント欄のみんなが思いもしないような「大切な趣味といえるものがなんにもない人」って結構な割合でいるんだよ。マジで。
「趣味はXXXです」って自己紹介する人の中にだって結構いる。そういう人だって仕事と家事と食事と睡眠意外しないわけじゃない。漫画やテレビや映画や行楽にいくこともあるし、なんだったらあみぐるみを作ったりソシアルダンスをやってたりする可能性もある。世間から見て多趣味に思われてたりすることさえある。
でも、「XXXが好きでやってます!」って自称しているそのXXXを、法なりなんなりで禁止されたとしても、たいしてダメージをうけない人はいるんだよ。少なくとも生きがいとかそういうレベルでは全く影響を受けない、暇つぶしを変えなきゃね程度の人間ってのは、社会に結構な割合で存在する。
おそらく、そもそも「趣味」とか「好き」言う言葉の定義が違うんだと思う。
そしてそういう人は、他人が生きがいやら打ち込んでることをもってることに共感できないから、平気で禁止に同意するよ。両親がそういうタイプで、親から見てマイノリティな趣味を禁止される子供なんてざらにいる(「趣味なんて他にいくらでもあるでしょ」って言う残酷な言葉は、実際世の中には溢れてるよ)。
だから「大事なものがあるはずだ」ってのを無前提に敷衍することは危険だ。
「BLは好きだけど男の読むエロ漫画は嫌いなんで規制しろ」なんてダブルスタンダードは、たしかに問題だし醜いけれど、割合としてはそう多くはないんじゃないかなあ。
水面下に隠れてて巨大なのは「かけがえがなくて人生の支えになるような趣味なんてものは、私には存在しないし、そんなものなくても実際こうして生きていけている(暇を潰せる娯楽も娯楽ジャンルも無数にある)。だからそもそも特定のジャンルを滅ぼしていけないとは思わない。むしろそんなもので他者が不快になるなら片っ端から禁止や規制しても問題はまったくない」と思う人々だと思う。
たとえば「エロ漫画は性的搾取ジャンルだから規制したほうがいい」って発言する人が100人いた時、そのうち何人が「エロ漫画を規制しても私の生きがいのジャニーズは規制されないだろう」なんて甘い見込みでいってるのか? っていえば(もちろんこの甘さはそれはそれで問題だけど)1割もいないと思うんだよ。大多数は「趣味嗜好なんていくらでもあって代替可能なものなのだから、他人が不快に思うような趣味嗜好は譲っても(つまりは禁止しても)構わないと考える」人々だとおもう。
そういう人々には「あなたの大事なものがいつ規制されるかわからないんですよ」なんていっても、たぶんのれんの腕押しなんだよ。「そうだよ?」って言い返されるだけだもの。
ここにこんなこと書いてもそういう人には届かないと思うし、過去の経験から言ってもほんとうの意味で理解してもらえたことがないので、この件では無力感がつよいんだけど、書かずにはいられなかった。
最後に繰り返しになるけれど、大事な趣味や、打ち込めるものや、生きがいや支えがある人、熱狂できる何かがある人は素晴らしいと思うよ。自分の大事なものを他者の大事な物に置き換えて共感できる能力は尊いよ。そこは本当にそう思う。そういう人を批判する記事ではないからね。ただそういうのが通用しない人ってマジで居るんだよという話。
祖母は優しかった。いつでも私のことを可愛がってくれたし、私も祖母の前では良い子でいられた。怒られたくないというよりは、悲しませたくない気持ちが強かった。自分のことを、いつまでも可愛い孫だと思って欲しかった。
自分が嬉しかったことを伝えたら祖母も嬉しくなると思っていた幼い頃の私は何かある毎にすぐFAXを送ったし、すぐ電話した。手紙もいっぱい書いた。遠方に住んでいたから、とにかく自分の存在を忘れられないように一生懸命だった。(今考えたら疎遠でもない孫を忘れるはずがないとは思う)
祖母は手料理をほとんど作らなかった。作れなかったのか作らなかったのかは分からない。いつも祖父母に会いに行くときは2.3日しかいれなかったので、外食をすることが多かった。きっと子供だから外食を喜ぶだろうと思ってたのだと思うけど、私は祖母の作るご飯が食べたかった。結局祖母の手料理は1回だけしか食べられなかった。おにぎり。誰が作っても美味しいのかもしれないけれど、私は今でもあのおにぎりの味を覚えている。
祖母は刺繍が上手だった。亡くなってから知ったことだけど、祖父母の家にあるのれんやリュック、ポシェットや額縁に入った布の作品すべてが祖母の刺繍作品だった。少し大きい象の人形のようなものも祖母が刺繍を施していた。本当は色々やりたかった刺繍があったらしいけど、段々と細かいものが見えなくなって諦めたらしい。やりたいのに出来ないってどんなに悲しいことだろう。
私が高校生になってなかなか祖父母に会いに行けなくなっていた。一般家庭におけるFAX文化も廃れ、電話は祖父母のお誕生日、敬老の日、お正月くらいに減っていた。それでもたまにする電話で祖母は私がする話を嬉しそうに聞いてくれた。習い事を続けて頑張っていたことも褒めてくれた。
祖母は段々足が痛いというようになり、歩けなくなった。父と祖父母の3人で旅行した時、祖母はすぐ疲れたといい椅子に座っていることが多かったらしい。せっかくの旅行なのにごめんねと謝る祖母を見て、父は涙が出そうになったと言っていた。私は聞いているだけで胸が詰まり、お風呂で泣いた。
祖母は寝たきりになっていった。動くのがしんどいと言い、会いに行ってもずっとベッドで横になっていた。足の筋肉は衰えて、私の二の腕くらいになっていた。また私はこっそり泣いた。
祖母は記憶をなくしていった。電話をした時、私のことを伯父と間違えた。話が噛み合ってないような気がしたけど、訂正することが良いことなのか悪いことなのか分からず誤魔化した。電話を切ってから父に気付かれないように泣いた。
祖母はものを食べることができなくなった。この頃になると祖母は祖父以外の人を誰なのか判別できなくなっていた。新幹線に乗り久々に会いに行った祖母は、祖母だけど祖母じゃない別の人のように感じた。いくら話しかけてもこっちを見てくれなかった。そりゃそうだ。毎日何も口にしていないから首を動かす力もないのだ。そこで急に祖母がいなくなることが怖くなって家族の前で泣いた。まだ目の前に祖母は生きているのに。
そして祖母は息を引き取った。祖父も父も伯父も家族みんな揃って最期を看取れたらしい。父は仕事柄頻繁に全国出張に行くので本当にタイミングが合った奇跡だったと思う。
お通夜は次の日だったので、その日は普通に仕事に行った。上司に報告して、訃報連絡の書類などは自分で作った。みんなに全然悲しくなさそうだねと言われトイレで泣いた。悲しくないわけがない。
棺で寝ている祖母は安らかな顔だった。ガリガリになっていたから綿を詰めていたのがすぐ分かった。祖父が、棺に入れようと言って私がいっぱい書いたFAXや手紙を持ってきた。中には祖父宛に書いたものもあったが、祖父は構わず全部入れてしまえと言った。ちょっとそれはないわと思って笑ってしまった。
祖母に送る最後の手紙はいつまでも私のことを可愛い孫だと思ってもらえるような内容にした。天国で再会した時に可愛がってもらわなくちゃいけないから。
おばあちゃん、ご飯はいっぱい食べれてますか?私がそっちに行った時は豪華な手料理食べさせてね。
あと、おばあちゃんの刺繍の本と糸もらったよ。1年かけてまだほとんど何も作れてないけど、一生の趣味にしたいんだ。おばあちゃんの血が入ってるから才能はあるはず。数十年後、私の棺に作品を入れてもらう予定だからその時にまた見せるね。
無論ニホンウナギを食べよという話ではない。
巷では国産、天然など絶滅の危機に瀕しているのをまるで他人事かのようにニホンウナギの消費を煽る言辞が踊る。
うなぎ業者もうなぎ店もスーパーも、ニホンウナギこそがうなぎであり、食べる価値があるものだと言って憚らない。
なぜこんなにアホなのか。
遅かれ早かれ今のペースでうなぎを食い続ければ我々が愛して止まないうなぎ文化は文字通り死ぬ。
ではどうするか。
まずはこの危機的状況をみんなで共有しよう。
しらす、成体ともに。
品質が云々とか、老舗のコダワリとか先ずは捨てて完全にニホンウナギの流通を禁止しよう、もちろん闇マーケット対策として、密漁や流通に厳罰を科して”割に合わない商売”にすることも忘れてはならない。
うなぎ業者やうなぎ店には涙を飲んで資源量にまだ余裕があるビカーラ種やタスマニアうなぎを使ってもらおう。それが何よりも老舗ののれん、看板を守ることにつながるのだから。
ただ、国産信仰の強い消費者は一時的にうなぎ離れを起こすかもしれない。
そこで”食べて応援”だ。
国民にはこの危機的な状況を脱して資源量が回復するまで、うなぎ業界を食べて支えよう。
専業の漁業者には補助金が必要かもしれないが、うなぎ税を導入して財源にしよう、これも食べて応援だ。
こうして資源量の回復と、持続可能性を担保するための厳格な漁獲制限を設けて、うなぎを解禁する。
今の日本の産学官の関係性を鑑みて全くの夢物語だろう、ただ事実、これくらいのことをしないと日本が誇る食文化”うなぎ”は壊滅する。
> 最近25〜30歳の若者に「ここからどんどん仕事が楽しくなってやり甲斐が出てきてつい仕事ばかりをしてしまうだろうけど30〜35歳までに仕事の合間を
> って結婚しないとその先一気に一人で生きていく以外の選択肢がなくなるぞ」「孤独死したくなければ誰でもいいから籍を入れろ」と強く言って回っている。
というツイートが結構流行っているみたいだけど、バツイチの私としては「価値観の合わない相手と結婚するぐらいなら一人で暮らして孤独死する方がまし」だと思う。
私が結婚していたとき、共稼ぎでだいたい同じぐらいの収入があり、家計用の口座に同額ずつ入れて暮らしていた。それは良いとして、元夫の望みは「将来実家のそばに家を買って住む(できれば同居)」「子どもがほしい」「家事はなるべく奥さんにやってほしい」「将来は義理親の介護もお願いしたい」というムシのいい代物だった。結婚するときに「私は家事が苦手だからちゃんと分担してくれなきゃ結婚しない」と宣言しておいたんだけど、何だかんだ言って元夫は家事のめんどくさい部分を私に押しつけようとした。また、凄まじいマザコンで週末になると実家に行ってテレビを見てごろごろし、その間私が自由にできるならともかく、「一緒に行こう」とか、何にも着替えとか用意してないのに「実家に泊まれ」とか言われて非常にストレスフルだった。
自分はあまりいろいろなタスクを同時にこなせないタイプだったので、あまり忙しくない職場にいても、家に帰って晩ご飯を作ることを考えるだけで憂うつだった。そのうえ義理実家はやたらと親族の結束が固く、正月は必ず誰かの家に集まって宴会をし、夏やGWには親族一同の旅行に参加しなくてはならなかった。ただでさえ休みが少ないのに、その貴重な時間を全く楽しくない義理の親族と一緒に過ごさねばならないことに怒りを感じていた。一度は正月に我が家に親族一同が遊びに来て、片付けの苦手な私は皆で座れる場所を作るのだけで疲労困憊した。結局私が「そんな大勢に食べさせる料理なんて作れない」と元夫に訴えたので、とりあえず皆は当時の我が家を見学して、宴会は居酒屋でやってもらったけど、フルタイムで働いていて家事の苦手な嫁に10数人分の料理を作らせようとする親族の連中を殺してやりたいと思った。
当然子どももほしくなかった。フルタイムで働きながら周囲に気を遣って定時で帰り、保育園にお迎えに行って家に帰りついたら夕食を作る…みたいな生活は想像するだけでぞっとした。多少大きくなればそういう手間はかからなくなるかも知れないけど、なまじ成長すると余計なことばかり覚えて生意気な発言ばかりするんだろうと思うと、子どもなんか持つよりペットを飼う方がましなんじゃないかと思うぐらいだった。
そしてなんで自分を育ててくれた親じゃなくて何の恩義もない元夫の両親の介護をしなくてはいけないのか意味不明だった。元夫には妹がおり、義妹は比較的実家のそばに住んでいたので、両親に何かあれば介護は引き受ける気があったようだが、元夫は「俺が長男なんだから…」と自分が主導権を握りたがった。「そんなに介護したければ妻に押しつけるんじゃなくて自分でやれ、私にだって親はいるんだよ」と言ったがのれんに腕押しだった。
ちゃんと相手の価値観や希望を吟味して、自分の価値観と合うかどうか確認してから結婚しないと、フルタイム勤務で働きながら望んでもいない育児をして、自分を育ててくれたわけでもないジジババの介護をさせられるのである。日本人の平均寿命から行けば男性の方が先に逝く確率が高いので、結婚生活が無事続いたとしても女の方がお一人さまで後に残される確率が高いのだ。子どもがいたとしても実家に寄りつかないとか結婚していて先方の都合が優先するとかだったら丁寧に介護してもらえる保証なんてない。…ということで「結婚して子どもを作ったら孤独死は避けられる」という考え自体が浅はかだと思う。
たぶんこれからずっと一人で生きていかなければならないだろうし、両親が亡くなってしまったらどうしていいか分からないのも事実だけど、「あのとき離婚を選んでいなかったら…」と思うと自由な今の生活の方がましだ。
ずっとこのまんまでいようね愛してるよ会えてほんとうにうれしいしこんなに気持ちいいセックスはじめてなの
今まで少女漫画とか読んでもふーんフツーのれんあいってこんな感じなんだぁーとか他人事におもってたんだけどね
結構自分的に王子様感あるなって会ったときから毎日キラキラが更新してるし幸せだよありがとうもっともっと死ぬまで死んでも気持ち悪いくらい一緒に居ようね
いろんな新しいもの一緒にすこしずつ違う目でみて、だから私達は両方の目を手にいれてそんなふうに2人で新しく大きくなっていこうね
離れてるときもぎゅーってしていてね気持ちを、こころを絶対にはなしちゃだめだよ
なんでこんなに何回も何回も愛してるって言っても全然足りないんだろうね
セックスしてるときに私の体液と君の我慢汁がなかのほうでぐちゃぐちゃにまざってる時くらいしかわかりあえてる気がしないです。
ケンカも料理もデートもおしゃべりも全部前戯でしょ最高だよね生きるって!!!
ほらヒミツなんてもう無いよ
イメージは誰かのもの私たちにはカンケーないだってこんなにうれしいのに笑ってすごせないなんてバカだよね。2人でいようね世界を利用して。
今までの知らない人生のぶんをいっぱいさわろう、さわって眠ろう、やわらかいねふわふわするね変わらないでいてね優しくしあおうね