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2024年9月15日 YOUTUBEチャンネル 『令和の虎CHANNEL』主宰などを務める、株式会社MONOLITH Japan代表取締役 岩井良明氏が死去した。
彼のことを高く評価する向きもあるようだが、私は彼に対して否定的な評価を有している。
今回、彼の死去を機に、岩井良明氏が団長を務めていた同志社大学応援団でおきたリンチ事件について書こうと思う。
※お断り。岩井良明氏は死去しており、死者に対する名誉毀損は「虚偽の事実を摘示した場合」にのみ刑事上処罰されます。また、民事上も概ね同様です。よって、本記事が名誉毀損等にあたることはないものと考えています。死去により、生存する人物としての保護の対象ではなくなり、歴史上の批判にさらされることになることをご理解ください。
まず、問題の「同志社大学応援団のリンチ事件」とはどのようなものであるか、当時の新聞記事(1982年5月23日朝日新聞朝刊)では以下のように報道されている。
『同志社大学(松山義則学長)の応援団で、新入生が団員にしごきの「リンチ」を加えられて全身打撲の大けがを負ったことが22日明るみに出た。大学側は事態を重視して同日、応援団と同部に所属する吹奏楽部の対外活動を禁止するとともに団関係者から事情聴取を進めている。
大学側の調べによると、20日夜から21日未明にかけて、京都市上京区烏丸上立売下ルの同大大学会館別館(学生会館)の応援団部室で、商学部に今春入学した団員の一年生A君(18)に対し応援団の二年生部員五人が「応援方法を指導する」と言って、殴るけるなどの乱暴を加えた。A君は21日朝、自分で近くにある同大学の厚生館診療所に行き治療を受けた。全身に打撲傷を負っていたため、不審に思った医師が尋ね「リンチ」がわかった。事態に驚いた大学側はA君をタクシーで下宿へ送る一方、応援団関係者から事情を聴くとともに29、30日に西京極球場で予定されている伝統の対立命館大戦にも応援団を出場させない方針を決めた。新発足した関西学生野球リーグで同大にとっては二位をかけた大事な試合。
27日夜には京都の繁華街・四条河原町に同志社、立命館の両大学の学生がそろって繰り出し、応援団が主役を演じる恒例の「同立前夜祭」が行なわれる予定だったが、これも中止される見通しになった。
同大学応援団は一般学生の応援の指導をするリーダー部と、伴奏の器楽演奏をする吹奏楽部に分かれており、団員は百人を超える。大学側はこの不祥事で、リーダー部だけでなく吹奏楽部の自粛を決定。これに伴い同吹奏楽部は22日京都市・岡崎で開かれた京都府内八大学の合同演奏会への参加を辞退した。
同応援団は数年前にも暴力事件を起こし、大学側から団の活動を二年間に渡って禁止されたことがある。
同志社大野球部OBの一人は「伝統の同立戦を控え、立派な応援ぶりを期待していたのだが…。勇ましいのは結構だが行き過ぎは困る」と残念がっていた。』
これに対して、岩井氏はブロク(2006年に掲載した記事、現在は削除)で、リンチ事件は実在しない。リンチ被害者の狂言である、自分の背中を自分で叩いたのだ、と主張している。
令和の虎CHANNELにおいても「冤罪」などと述べている。
これについて
・まず、当時の新聞記事からわかるように、被害者とされる人物が何者かからリンチを受けたというのは「医師の診断」により発覚し、同志社大学側が把握したとされている。
医師が全身の傷を検査し、加害による負傷に間違いないと診断したのである。そこに疑いの余地はない。
・岩井氏はブログで「あれほど暴力はあかんって言い続けて来たのに。」と述べている。しかし、岩井氏のブログでは、自身が下級生時代先輩団員から暴力を受ける様子が克明に記録されている。例えば、1981年の出来事として「その後、我々三回生はリーダー部長にどつかれ、二回生は三回生にどつかれ、一回生は二回生に半殺しにあった。」との記述がある(2006-11-24岩井氏ブログ記事)。暴力、しかも「半殺し」が横行していた応援団で「暴力はあかんって言い続けて来た」というのは無理がある。
・当の応援団自身が、リンチ事件の存在を歴史上の事実として認めている。同志社大学応援団は現在は復活して存在するが「リンチ事件は存在した、二度と発生させない」という見解を有しており、代々悪しき事例として語り継いでいる(同団ではこれを「継承」と呼んでいる。)。(なお、私が応援団に関わっていた当時、岩井氏が「同志社大学応援団の総監督に就任したい」との意向を有しており、他のOBらがそれを阻止していた、という話を見聞きしたことがある。)
これらの事実にも関わらず、岩井氏は結局最後までリンチの事実を認めることなく、被害者を貶めて来たのだと評価せざるを得ない。
岩井氏自身がリンチの実行行為に関与していないとしても、応援団の最高責任者として監督責任を有していたことは明らかであり、責任があるはずである。にもかかわらず稚拙な論理で冤罪を主張し、死ぬまで事実を認めなかったのは、残念である。
生まれてこのかた26年、現代日本でいうところの「推し」を魂を込めて推してきただけのキモヲタが、人生で初めて身近な異性に恋愛感情を持ってしまった
キモヲタの推し語りを嫌な顔せずしっかり聴いてくれるところ、誕生日に飯に誘ってくれるところ、夕飯の後お互い逆方向なのにわざわざ家まで送ってくれるところ、落ち込んでいるときにそっと優しくフォローしてくれるところ
好きにならないわけがなかった
とはいえモテない村の住人なので、そう簡単にアプローチなどできない
何か誘うとしても、ヲタ活のイベントのお誘いしか思い浮かばないので結局飯に誘うのみ
「○○に行きませんか」と連絡しようとして、色々考え込んで結局メッセージの下書きを消す日々
一緒に飯を食べた後も、「自分みたいな人間に付き合わせてごめん」と自己嫌悪に陥る
昨日は好きな人が自分よりもずっと仲が良い人と一緒に歩いているところを見て勝手にショックを受けて辛くなった
世の一般的な人間はこういうのを乗り越えているということなのか
自分に自信がないのは分かっている
大島さんやるじゃん!
あの「道に迷った時に」の人だよね。
女性が将棋やってるところが普通に話題になって、当たり前の光景にならないと女子の入門は増えないんじゃないかな。教室に女子1人とか居づらい。
自分も子どもの頃に親と将棋やったけど、とくにのめり込むことはなく終わった。女子がやるものとあんまり認識されてなかった時代。
いい加減こういう間違いは是正しないといけない。そもそも「遊び方にパテントはない」はただの事実だ。遊び方にパテントはないのでオセロとリバーシは共存している。任天堂自身もエムブレムサーガ裁判で著作権侵害では勝てていない(システム面では独自性を認められていない)。
山内社長が「各社技術をオープンにして、それでお互い協力して発展させていきましょう」という考えを披露したのは事実だが、実際はタイトーとナムコが率先してコピー潰しに走り、法的措置が取れるように訴え、そして勝訴し、判例をつくった。その後任天堂もオープン構想を捨てて、コピーは訴える方針に切り替えている。これは1983年時点の話だ。つまり任天堂が「技術はオープンでいきましょう」といっていたのはインベーダーブームから83年の、ごく短い期間の話でしかない。その後はドンキーコングのブームにのり、なによりもコピーに厳しい会社の一つへと成長した。その反面、ゲームデザイン(遊び方)には著作権(パテント)がないのは明白なので、パクリゲーには動けなかった。有象無象のマリオフォロワーにまったく動いていないのは法的に無理筋だったから。
パルワールドに対する任天堂の動きに懸念をもつのは一人のゲームファンとして共感するが、その前口上に「遊び方にパテントはない」はもってきてはいけない。あれは大昔に捨てられた構想だ。
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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台湾に旅行したが、日本より便利だし発展していることに驚かされた。
日本がアジア一の先進国という先入観持ってるやつはまじで危機感持った方がいい。
物価は日本と対して変わらない。でも台湾の方が暮らしやすいし満足がいく利便性があると思った。
たとえば電車やバス。日本は会社独自のオレオレ電子マネー(ayucaとかそういうやつ)が跋扈してるしそもそも現金限定のところが多い。JRなのにSuicaが使えない路線もある。それに対して台湾はすべての会社でipassが使えるので本当に便利。しかも初乗り20元(90円くらい)なので安い。台北だけだろと思うかもしれないが南投とか宜蘭とかの田舎でも全てipass/easycardが使えるという徹底ぶり。それに対して初乗り200円とかとっておいて本数も少なく現金やオレオレ電子マネーだらけのわーくにってほんとクソだなと思う。
本数も少ないしバスはGoogleマップに載ってないし現金払いやオレオレ電子マネーだらけだし日本のバスや電車って何がすごいの?鉄オタとネトウヨには申し訳ないが台湾の捷運やバスの方が顧客目線では利便性高いから。その現実見て台湾を見習ってまずは初乗り140円まで下げて全てのバスでfelica対応しろよ日本の公共交通機関。定時運行や安全性よりも利便性を大事にしろ。
次に高速道路。台湾は台北から高雄まで西部海浜高速、中山高速、フォルモサ高速の3本があり中山高速に至っては桃園から台北は6車線の本線と並行する4車線の快速線があり実質10車線化されている。フォルモサ高速道路は全線に至って6車線で快適である。
これらの高速道路は90年代にはすでに整備が進められ、わずか30年足らずでここまで完成されたことには感激した。一方わーくには新東名新名神ですら計画から40年経つのに未完成という体たらく。横浜の大和トンネルの渋滞が酷いから10年掛けて拡幅?バカじゃねーの?台湾の中山高速みたいに高架で並行別線の快速線整備しろよといいたい。
さらに驚いたのは料金所がないこと。ナンバープレートをカメラで読み取って後から請求されるシステムらしい。それにくらべてわーくにのETC(笑)は(ry
もちろん前までは朝の楽しみになっていたし、夜は少しでもいいスコアを出そうと早寝を心がけていた。
今は寝る前に計測ボタンを押して起きたら止める、日中は数回アプリを開きタスクをこなすの繰り返し。
毎日のルーティンになっている、といえば聞こえはいいが、実際は「ここまでやり込んだのにやめるのか?」という心の声を無視できずに続けているだけ。
一方で「楽しめなくなっているのだから無理して続ける意味はないだろう」という心の声も聞こえてくる。
一度、正直にアプリに対して思っているところを書き留めることで気持ちを整理してみる。
まず、このアプリに対して自分が納得しきれていないのは「運要素が強すぎること」「キャラクター育成のコストが高すぎること」この2点だと思っている。
自分が遊んでいる睡眠計測アプリはキャラクターが出てくるもの。
睡眠計測を終えたらキャラクターが出現するので、アイテムを使って出現したキャラクターを捕獲する。
睡眠計測アプリとはいえ、いわゆるソシャゲなのだから、出現キャラクターがランダムなのは重々理解している。
痛いのは、睡眠の質(深い眠りか浅い眠りだったかなど)やプレイヤーが選んだフィールドによって出現するキャラクターが決まっているところ。
出現するフィールドで遊んだとしても、計測した睡眠の質によってはほしいキャラクターがでない。
睡眠計測アプリだから仕方がないが、睡眠の質を狙い撃ちしたり、1日に何回もキャラクターを出現させることはできない。
この問題は「ゲームランクを上げれば」「課金をすれば」解決できるわけはない。
また、好きなキャラクターが出現したとて、必ずしも捕獲できるとは限らない。
それを満たすと捕獲成功になるのだが、捕獲ゲージを満たす前にゲージが閉じてしまい、捕獲のチャレンジが失敗することが多々ある。
捕獲できるかどうかもにも運要素が絡んでくるのだ。
それに一週間粘ってお目当ては1体も出現しませんでした、なんてことも珍しくない。
朝起きて今日も出現しなかった、今日は出現したが捕獲できなかったというのを毎日毎日繰り返すとさすがに「好きなキャラクターと寝たかっただけなのに自分は一体、何のために何をしているだ?」という疑問が湧いてくる。
このアプリでゲームランクを上げるために必要なことは大きく分けて2つ、キャラクターを育成することと長く続けること。
アプリを続けているとランク上昇率にバフみたいなものがかかる。
積み重ねれば大きい恩恵になるが、そこまで辿り着くのに月単位の時間が必要。
このアプリで遊んだことがない人でも察しがつくだろうが、キャラクターを育成するには睡眠が必要。
育成したいキャラクターを自分のパーティに加えて睡眠計測をするとキャラクターが少しづつ強くなっていく。
またキャラクターが出現した時に落とすアイテムを使って育成をする。
キャラクターの出現はランダムであること、ランク帯や睡眠時間によっては出現数を稼げないことが影響する。
好きなキャラクターを捕獲しても、それ以降同じキャラクターを出現させられなければアイテムが集まらず、育成完了は程遠い。
育成が完了していないキャラクター達でアプリを進めるなら、もちろんランク上げには時間がかかる。
大袈裟な言い方かもしれないが、好きなキャラクターの出現確率を上げられないまま、その時が来るのを待つしかない。
そして、キャラクターの出現が厳しいこと、育成コストが非常に高いことが重なるとまた次の問題が出てくる。
キャラクターの育成し直しがきつい。
やはり普段ゲームをやり込む層からすると、ステータスが高い個体がほしいもの。
そうでなかったとしても、ランク上げが難しいアプリなので、このアプリにおいてはステータスが高い個体がとても貴重かつ重要。
「今度また気に入った個体が捕獲できたらそちらを育成しよう」と思うのがどれだけ難しいか。
長くなったが「好きなキャラクターと睡眠をともにしたい」と思って始めたのに、
キャラクターを出現させられるか、キャラクターを捕獲できるか、高いステータスの個体を引けるかの全てが運試しで、
好きなキャラクター出現させるための、ランク上げのための、育成のための、キャラクター出現待ちとかいう謎のループにいつの間にかハマっている。
ことに嫌気がさしている自分がいる。
睡眠の質を上げるアプリのはずが、睡眠計測しているが実際には寝ていない寝たふりや、計測中に音や振動を加えて睡眠データを調整する小技が存在している点は流石に面白い。
それとこれは推測だが、おそらくここまで運要素が強いのは、普段ゲームをやらない層やゲームが苦手な層でも気軽に楽しんでほしいという運営の思いからなのかと、ふと思った。
「やり込まないと強くなれない」「弱かったり知識がないと好きと言ってはいけない」というイメージが、普段ゲームをやらない層からよりゲームを遠ざけている一因としてあり、
そのためこのアプリでは、運要素をメインに組み立てて、誰でも気軽にできるゲームを目指しているのではないか と感じた。
だとしたら、やれ育成がやれステータスがと言っている自分こそターゲット層から外れているわけで、お門違いなのかもしれない。
もっと気軽にのんびりと楽しむべき、ただそれだけだったのだろう。
ちなみに捕獲したキャラクターたちの寝ている様子が見られないのは本末転倒では?と自分は思うのだが、他プレイヤーはどう思っているのだろうか。
これ、日本人の99%は知らないけど、たぶん鉄オタの間では有名なんだろうね。
俺はこの年になるまで知らんかったよ。
いや、実際に山手線に乗って、一周したもん! と思ったけど、不可能なんだよね。
いやー、マジで知らんかった。
でも【真実】なんて大半にの日本人にとってはどうでもいい、ってことの証左だとも思うわ。
解説は他の人に任せた。
これ、屁理屈とかじゃなくて本当にそうなんよ。「そうともいえる」とかじゃなくて。
環状線みたいなもんだよね、が真実で、だから「山手線」なんだねっていう。
ネットじゃすぐに答え出てくるし、辞書にも環状線の例は「大阪環状線」しか出てこないけど、
ほとんどの人が「デマ」の方を信じてる場合ってコミュニケーション難しいよね。
貧困支援でも難民問題でも歴史問題でも裏金でも政治の話題でも知識の差があると会話は成り立たない。
東京環状線なんてものは存在しないし、山手線に乗ってるつもりの人の大半はJRの嘘に騙されてる。
反日左翼や活動家が景品表示法違反とかでJRを訴えて裁判したりしないのかな?? 羊頭狗肉やん。
これってトリビアになりませんか?
その書中において述べられるところの名文とは、単に美的であるのみならず、情緒に満ち、描写が巧みであり、さらにその文章が臨場感を伴うことにより読者の心に深く響くものである。美しさとは、単に言葉の装飾ではなく、内在する構造の確かさに拠るものであろう。
澁澤龍彦が幻想小説において「幾何学的に書くべきである」と言ったと記憶している。幾何学的とは、感覚的に直感する美麗さと秩序を持ち、その形態は正確かつ普遍的である。正三角形が持つ完全性は、内角の和が常に180度であるという確固たる定理に支えられている。これは、いかなる変形にもかかわらず揺るがない事実である。その普遍性こそが美であり、幾何学的美しさの本質を成す。
このように、文章にも同様の美的秩序が存在するのではないかと考える。たとえば、三角形の定理を文章に適用するならば、各要素が一貫して調和する様は正三角形のごとくである。三角形の三つの頂点に当たる要素は、物語の構造、感情の動き、そして読者への影響であろう。この三者が均衡を保つとき、文章は完全な形となり、名文と称されるに値する。
恋愛においても、幾何学的な要素が見て取れる。愛する者、愛される者、そしてその間に存在する感情。この三つの要素が整ったとき、恋愛は完全な形を成す。しかし、その一部が欠けたとき、三角形は不完全となる。非モテであるという状況は、その三つの内角が揃わず、歪んだ三角形のような状態である。だが、その歪みの中にも、何らかの秩序と美しさが宿っていることを認めざるを得ない。
幾何学的な美しさは、完全性の中にのみ存在するのではない。むしろ、不完全な中にも美しさは潜んでいる。それは、欠けた部分があるからこそ生まれる緊張感であり、そこに宿る秩序の欠如が逆説的に美を生むのである。モテないという状況も、ある種の幾何学的な不完全さであり、その不完全さが一つの形を成し得る。
私は三角形になりたいと願う。完璧であり、無駄がなく、全ての要素が調和している。しかし、不完全なままであることもまた一つの形であり、その不完全さの中にこそ真の美が宿っているのではないか、とも思うのである。
幾何学的文章の美しさとは、表面上の整合性だけではなく、そこに潜む感情や臨場感をも含むものである。その幾何学的な秩序と情感の融合こそ、真に名文たる文章の本質であろう。