はてなキーワード: しわとは
男も子育てに積極的に参加するのって側からみたら微笑ましいかもしれんが、男の当事者からすると自分たちが子供の頃から夢見たロールモデルをガッツリ否定する生き方を選択するわけで、まあ不安はあるわけ。
弱者男性だが、それは甘え
ロールモデルなんて考えたことも無い俺ら世代からすると氷河期世代なみの甘ったれ
あんたらがそんなだから15〜30歳ぐらい年上の増田の俺からするとお婆さんみたいな連中から何故か罵倒を受ける羽目になったし
主に俺ら世代が中心に様々なしわ寄せ来た上で身に覚えのない罪でキチ◯イのようなご年配の女さんに絡まれまくるの本当に嫌なんだけど
アーケード商店街を昼飯買いがてら母と犬と散歩していたら、店、客、爺、犬、俺、母みたいな配置で並走する変な爺さんがいた
割と行列客の近くを歩いていたので、わざわざ犬と行列の客の狭い間を縫うように歩くので「なんだこの爺さん」と思っていたら、おもむろに某とんかつチェーンの前で足を止めた
その店は豚汁とかのレトルト商品を歩道側にはみ出す形の棚に配置してあるのだが、一部商品はカウンターからは絶妙に死角になっており、盗まれちゃいそうだなぁなんて思いながら犬と一緒にその爺さんを真横で見ていた
爺さんはいかにもといった風体で、スラックスに薄汚れた上着、しわしわのシャツと生活苦しいんだろうな、万引きでもするんかなと感じさせるには十分な見た目をしていた
そんな爺さんが棚の商品を物色し、豚汁のレトルトを一揉みし、周囲をきょろきょろ見回した後(当然真横で俺と犬はガン見している)、おぼつかない手つきでパッと上着のポケットにしまい反対方向に立ち去ってしまった
俺も咄嗟の事で「おい爺さんダメだよ!」って大声をあげてしまい、周りの人達が何事かとこちらを見てきてちょっと恥ずかしかった
爺さんは足早に去ろうとするので犬を母に預けて追いかけた
所詮爺さん、そんなまごまごしてても10mくらいしか進んでおらずすぐに追いつきそして肩に手をかけた
うわ肩ほっそ、そしてなんか生暖かくてやだなとかしょうもない事を考えてしまったが、とりあえず「取ったでしょ?出して?」とだけなんとか絞り出して、豚汁を無事取り換えした
妙に手馴れているのでこの爺さんさては常習犯だなと思ったが、その風体やがりがりの肩の触感を思い出し悲しくなったのと、昼飯さっさと食べたかったし、豚汁を取り返したのでまぁいっかと思い爺さんを解放してしまった
豚汁を棚に戻して、事態が呑み込めずアワアワしている母を回収し、相手がもうちょい若かったり反抗してきたら警察に突き出したかもなぁとか、何とも言えない気持ちになりながら帰宅した
犬はその間ずっと楽しそうに散歩していた
オチは無い
そもそも妻が夫の家事育児に文句つけてるケースって、「洗濯物をしわ伸ばさないで干すな」「傷んだ食材で料理作るな」「子供放置してスマホばっか見るな」みたいな
そんなことはないですね
作家側の「女の自由・解放」「強い女」に対するだいぶ攻撃的ですらある固定観念や強迫的なこうだろ?感が透けすぎててつらい、という話だったらよくわかる
ハイスペ男になぜか愛される系健気な私スカッと作品とあんまり違いがないくらいもうど定番中のど定番展開になってるから不自由に感じるんだと思う
女性向けのエンパワメント作品にも類型や定型ができてしまって、しかもそれは共感がベースになっているのでその型から外れない、外れてはいけない、女性だったらきっとわかるしわからなくてはならないでしょ?という感じが現実と作中のキャラクタと二重構造になってこちらに迫るのでそこに苦しさをおぼえるのだという気がする
みんなバービーやジェーンスーさんのラジオを聞いているのだろうかしら…みたいな作品に通底した匂いや感触みたいなさ
こういうものも多分話売りとか商業的な媒体であればあるほどある程度はトレンドがあるもので、仕方ない気もするけどね
最近ラジオで流れてたキンチョーの朗読ドラマ仕立てのCMで、意思も人格もしっかりありそうな女性の描写なのに「男と別れて髪を切る」の類型を結局まだやらせていてうへっとなったものだけど、要するに「女には思いを込めて断ち切るものや変化するステップとしての行為があるのだ」という類型がだいぶ強い思いこみに感じるし押しつけがましくて、変化のスタイルや本人の感情や動機のベクトルがどの向きであれ「キャラクタにこの思想をやらせよう」が隠しきれてない場合にはどれもあんまり根っこが変わんないよな……って嫌さがあるのかな
同一パターン外の物語が見つけづらいだけであるにはあるのだと思う
入江喜和とかわりとそうかな
他トラバの凪のお暇もそうかも
(結局テーマ作りや演出の巧い作品では類型もそのキャラクタの行動の一部として不自然とは感じられず、類型を描くことそのものが目的になっていることがはっきりしている拙い作品では目や鼻についてしまうだけの話かな…とも思う)
漫画じゃないんだけどインド映画「マダムインニューヨーク」はこの「一歩踏み出し、冒険をして自分を認めて、自分が欲しいものはただ敬意なのだと表に出せるようになる」ことへの変化をとてもすっきり美しく清々しくスカッとでもなく描いていてとてもすばらしいと思ったものだった
打ち負かすか逃走か、自己の獲得において常にその二つの道しかないわけではない、という広がりが気持ちを楽にさせてくれた
追記2
ともすれば髪型を「強く」変えることが積極的な自由選択からではない虚勢や逃避に見える場合があることも苦しさの一因かもしれない
そんな小さな変化にしか我々には自由が許されてないのか……みたいな、あるいは増田が書くようにこれまでの自己を捨て去って獲得する自由の道しかないみたいな、そんな現実にも確実にある抑圧の強さをよりわかりやすく感じさせる痛々しい、息苦しい描きかたの漫画もあるしね(読み手としてそれに触れたときつらくて苦しいことがあり、その感情の正体を元増田を足がかりに考えてみたい…というだけのことで、こちらの思うとおり描けとかやめろとか納得できないとはまったく書いていないので、そこを曲解されると非常に困ります)
基本的にそういう作品世界のキャラクタは自分を追い詰める敵と闘争(なのでトーンが攻撃的になるのは当然と言えるかも)してるわけで、その動機から本来理由がなくともカジュアルに、自分の好きにしていいはずの髪型の変化自体が武器化武装化手段化してしまうのを目の当たりにしなきゃならない苦しさもあるかなあ……
そのもがきや闘争はつまりスタイルの獲得のためで、それ以前は自己のスタイルがない状態として物語に規定されている上に、変化後のパターンすら概ね決まってしまっているのならば、結果その一本道しかないその状況や環境に苦しさを見出すのは当然かもな…という気もする
追記3
誰もが菱沼聖子さんのように生きられるといいのに
爺さんがピアスつけてた
結構大きめのやつ
その爺さんはなぜピアスをつけていただろう?
でもその姿はオシャレとはほど遠い
ほんとのほんとにただの爺
ピアスを除けば
ピアス、なんでつけ続けてるんですかね?
だれかわかる人いる?
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
ある声優さんの声がドツボすぎて、演技もフリートークも隅から隅まで覚えるように聞き込んでいる
当方女のためやはり女は声で好きになる現象ってあるよなぁ…と思いつつ、声優追っかけには男性も多いことに思い至る
男性もやっぱり声で恋したりするのかな、するんだろうね
声に恋する、不思議だ
でもコミュニケーションに声は不可欠だし、なんなら「見る」ことより更に避けられない「聞く」ことに関わる声って、人によっちゃ顔より大きな要素になり得るか
最近、容姿(appearance)には声も含まれると知って少し驚いたけれど、要するに容姿というのは感覚器を通じて他人に知覚される全てのことなのだと再認識
それでいうと仕草とか香りもそうか、仕草が美人だから顔が飛び抜けて美人じゃないけど物凄い美人に見える人とかもいるもんね
今や声だけを発信できる時代にもなってるし、私みたいな声に恋する属性の人間にとっちゃ夢みたいな、ちょっと空恐ろしいような時代になっている
顔の良さは先天的疾患のなさや健康度の指標になるらしいと聞いたことがある、じゃあ声ってなんだろう
それも健康度の指標なのか、しわがれていなければ感染性の病じゃないな、とか
でもそれ以前に鳥は鳴き声でアピールしたりする、と思ったけどそれは鳴くというスキルが大事なんじゃないのかな
じゃあ、いい声が示すものってなんだろう?それは耳に心地よいというだけでしかないのでは?
耳で恋するって、かなり贅沢なことかもしれない
なんか一行目で自分の答えを出してその答えありきで全文かいてるけど
たぶんそんな怒り狂って我を失って見境なく攻撃してるとかみたいな事はないと思うよ
ものすごい形相で異常なまでの剣幕でまくしたてて怒り狂ってるように見えると我を失って本気で怒ってるんだろうと想像してるんだろうけど
そんな人間めったにいないと思うよ
私にはねえ、だれが主張しようと出張ってこようと正論っとか右とか左とか関係なくただ目についたら
それに対しして「正義になりきってゆるされた暴力を我儘にふるえる何者か」になりたそうだと見えるよ
まず第一に怒るって感情がどんなものかというのが日常にほとんどないだろうしそんな事をした人なんて稀有なんじゃない?
しょっちゅう怒号を聞くしわめいたり他人を罵倒したりしているのをみる、という人もいるだろうけどそれって「怒り」からくる態度に似てるけど
その人が怒っていると思う?
怒っているとしたら何に?どうしたくて怒ってると思う?
どうもしたくないのに怒る人なんていないんじゃない?
彼らがしたいのは怒りによって相手をどうにかする、その結果相手が成し得ようとしていた何かを妨害したり方向を変えたりして結果を変える事じゃないよね
それは怒りじゃないんじゃない?まあ異常に興奮して攻撃的な状態を怒りって格ゲーでは長く言われてたから怒りなのかもしれないけど
自分の気に入らなかったことを周知させるために、あたかも自分が周知される正当性や権利を持っているように暴れているようすがほとんどの「怒り」ってやつじゃない?
デモを妨害してその目的を挫くことによって得られる未来とか他人の主張に反対してそれを広めることをさせず、じゃあ何を広めたかったのかとか
そんな結果を求めて「怒り」ってもってる人いなくない?
なんか自分の気に障るから、自分の気が済むように騒いで妨害して、相手の困惑する様子をみて自分が満足するために怒るのだったら
それは怒りっていう複数の関係者がそれぞれたどり着くべき場所をもっていて交渉する手段じゃなくて「自己主張の一種」だと思うよ
結果を変えるためだとしても、また違って自分の為だけだったとしても、暴力とか直接的な物理の交渉で威圧的にくることが「怒り」ってひとまとめでも
それでも別にいいんじゃないかんとは思うけど「それぞれ個人がなにかの思想や考えをもっていて嫌っていて、それを主張するために怒る」ってものじゃなくて
「ただ自分が何者かになりたくて、主張をするような何者かに正論にのって正義として威力を発揮するなにかになりたくて」怒る人が多いんじゃないかって気がするよ
原因なんてなんでもいい、その場の正義に乗れたらなんだって声を荒げて執行しちゃうぞって、日々見る事がない自分の腕力とか実力を試してみたい
そんな人が多いんじゃないの?