はてなキーワード: しつけとは
http://anond.hatelabo.jp/20090404185830
だんなはどこでどうしているのが「幸せ」なのかな?
まずは、そこのところを確かめてみないとわからないよ。「浮気」が楽しいのは「奥さん」が居るから。悪いことをしているってスリル感がいいんだ。だから、バレて修羅場になったり、好きにすればと突き放されてみたりすると、案外あっさり醒めてしまうかも知れない。醒めなくても、だんなが浮気相手と居るほうが幸せなら、それでいいじゃない。
「私と一緒に居るのが嫌なら離婚してください」とはっきり言ったほうがいいよ。この場合だんなのほうが悪いから、当面の生活費は慰謝料としてもらえるはずだし、離婚しちゃえば家事することないんだから仕事に行けばいいでしょ。子供の面倒とかあるんだったら、だんなに押しつければいいんだ。今不況だから仕事見つけるのは大変だけど、人が嫌がる時間や内容なら無いことはないはずだよ。それに、夫に先立たれることもあるんだよ。だんなに死なれたら一緒に死ぬの? 自分の生活は自分で面倒みないと。
「浮気相手」ってのはさ。生活での大変なこと(親戚づきあいとか、近所づきあいとか、夫への気遣いとか)をなんにもしないで、「だんなに可愛がられる」という「良いところだけかじってる」馬鹿野郎なわけなんだから、そういう大変なこと、ぜひやってもらいましょうって気持ちで接したら、案外、簡単に別れるかもね。
まあ、だんなに「あなたの幸せって何?」と聞いてみることだよ。
この人が、「かまってちゃん」とか言われたりはてブで「薄馬鹿」とゼッケンをはって過ごせ、などといわゆる「普通の人」に罵倒されてしまう理由。
それは、もともと「普通の人」も、好きで空気を読んでいるわけではないからです。
何故読んでいるか。というより、何故読まざるを得なくなるか。といえば、それは「社会生活を成り立たせるため」なのです。
別に、面白くて空気を読んでるわけではないのです。「そうしないと成り立たない」から読んでいるのです。それを子供のときから続けた結果、嫌悪感も感じず自然に染み付くようになっているだけです。
それが前提としてあります。なので、「俺はこういう障害があるから、空気なんて読めません。だから、読みません。悪い?」と開き直ってる人を見ると、「ズルい」と感じるのです。「俺達だって別に読みたくて読んでるわけじゃないのに、社会生活を成り立たせるためにしかたなくちょっとずつ我慢してるのに、障害があるからって何でお前だけそれが免除されちゃうの?障害者だからって読まなくてもいいの?で、その分俺たちがまたフォローするんでしょ?空気読めない発言しても、それを注意したら差別になっちゃうんでしょ?できない人に「おい、それするなよ」なんて言っちゃいけないんだから。で、俺達はそういう人の発言を注意することもできずただ黙って我慢しろってことでしょ?一方発達障害の人は「障害があるからしかたないじゃん」ってことで何を言っても許されるんでしょ?……なんだよそれ、やってらんねえよ、あーあ、発達障害とやらがある人はいいですねぇ、読まなくても「障害があるからしかたないだろ」で済むんだから。だったら俺だって発達障害になりてーわw俺、名乗ってもいい?w」となるのです。
今もって「迎合してヘラヘラ笑っていたり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けていると、心臓が止まりそうなほどの不整脈が出る」のだから、「道理は道理、正論は正論」というスタンスしか摂りようがない。
と言っていますが、重要なのはですね、別に「普通の人」でも、「迎合してヘラヘラ笑ったり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けて」いるのは、ものすごく嫌なのだということです。でもそうしないと生きていけなかったりするので仕方なくしているのです。そこで「そうしたら不整脈になるんだからしかたないだろ」と開き直るとどうなるか。「普通の人」たちはこう思います。「じゃあ何か。俺達は、なまじ「嫌だけど、我慢できてしまう」から、ダメなのか?不整脈の一つでもでりゃ、俺達も我慢しなくていいのか?」と。「なまじ我慢できてしまうが故に、そこにつけいられ我慢を強いられているのか」と感じるわけです。嫌なことを我慢した上、しかもその「我慢ができるゆえにさらに我慢をしなければならない」という理不尽さに、そして「不整脈が出るから」ということでその我慢から逃げおおせている事に怒りを感じるのです。
「発達障害の人は生まれつき、迎合してヘラヘラ笑ったり、理不尽な目にあったりすると死んじゃいそうになるから、そういうことができないんですよ。しかたないのですよ。だから分かってあげましょうね」
なんて、だから、「普通の人」には絶対に届きません。
「え?そんなの俺だってやだよ?なんで、そいつだけ、「いやだ!」っていうことが許されるの?なんで、そいつだけ、そんな我侭が許されるの?俺だってやだよ?じゃあ、俺も嫌だから、皆、そういう風に気を使ってよ!ダメ?なんで?障害者じゃないから??なんだそれ、ズルいよ」
と感じるからです。そしてそれは無理のないことだと思います。発達障害の人からみれば、あまりに「普通の人」が普通に空気を読んでいるので、「好きでやってるのか」「楽勝なんだ」とか思ったりするかもしれませんがそういうわけじゃないのです。「普通の人」だって別に完璧に空気なんか読めません。だからこそ人と人のトラブルはいつだって発生するし、「普通の人」だって人間関係で悩んでいる人はたくさんいます。
別に発達障害の人じゃなくても、人間、『自分の思ったことをそのまま言う、迎合しない、納得のいかないことには納得いきませんという』……それが一番に決まっているのです。でもそんなことは通常幼児期しか許されない。そんな事を互いにしていたら、社会が成り立たないからです。ドラゴン桜に(マンガですみませんが)「本音で語り合える学校がどうのこうの」という話題になった際、「本音ってそんなにいいか?」「本音ばかりは必ずしもいいことじゃない」と主人公が言い放ったシーンがありましたが、まさにそういうことなのだと思います。
「普通の人」も最初は自分の思った事をズバッと言ってしまったり空気を読まなかったりしています。が、成長するにつれ、「どうも、おかあさんがムスっとした顔をしているときに、おもちゃを買ってというと、怒られるようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。「どうも、髪型に拘っているクラスメイトに、その髪型変だよといったらクラスメイトは悲しんだり怒ったりするようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。
それだけの話です。だからそもそも許されるならば、気をつかわなくていいのならば、いくらでも好き放題「その髪お前変じゃね」「おもちゃかってよーー!!!」と言いたいのです。ただそれを自分で律しているだけです。ときに自分のため、ときに他者のため、ときに社会のために。
だから、「普通の人」からそういう発達障害者の主張を聞くと、「なにそれ、わがままだ」「ズルい」と感じるのです。「できないからってしなくていいなんて。だったら自分もしたくない」「それじゃ幼児じゃん。大人になっても幼児のままで過ごしておいて認めろっていわれても」と。
しかし発達障害者からすると、そもそも上記のような「自然に学んでいく」が全くできないので、皆がただ単に何かよくわからないものを押し付けてくる、としか感じられない。過程が、分からないんですね。「別にすきじゃないけど必要だから皆がちょっとずつしかたなく身に付けてきた」という背景が。あるいは言葉では知っていても実感として知らないわけです。だから、「理不尽だ」と感じて怒りを抱いたり、「なぜ?なぜ??わからない」と苦しんだりするわけです。
普通の人と発達障害者の「ズレ」は、そこにあるのだと思います。発達障害者の人たちは「そんな空気読むとかそういうことを押し付けてくるな!そっちでやってろ」と思いますが、別に、普通の人も好きでやっているのではないのです。そこがズレだと思います。仕方なくやっているのです。押し付けるのはなぜかといえば、「みんながちょっとずつ我慢して、社会を穏便にするように努力してるんだから、お前もやれよ」という感覚によるものです。だから、そこから逃げようとすると、怒るのです。まるでそこからは、「税金は払わないけど、皆から集めた税金の恩恵は受ける」ような感じ、フリーライダーのような感じを受けるのです。
そんな怒りが、「かまってちゃん」と言われたり「薄馬鹿というゼッケンをはってれば?」という反応になって表れるのです。
「脳に、もう、そういう障害があって、そういう能力が無いんだから、どうしようもないんだよ」という切り口で言っておられますが、そういう切り口の攻め方はいささか受け入れられにくいと思います。寧ろ、そういった方向性で攻めますと、おそらくそのうち「それならそんな脳に欠陥のある奴は、普通に社会生活を営めないんだから、外に出てくるなよ。迷惑をかけるな」なんて反応が出てくると思います。
「目が見えない人」「耳が聞こえない人」と同じだ、とおっしゃっていますが、それもなかなか通じないと思います。実際「平均的な人間に比べ、ある能力が著しく低下、あるいは無い」という見方においては、目が見えない人と発達障害の人は同じと言えます。が、「脳とそれ以外の器官」という見方で見ますと、「目が見えない人」と「指がない人」と「耳が聞こえない人」は同じであっても、「発達障害の人」は違う、ということになります。同じか否かというのは、何でもそうですが、見方によるわけです。ある一面では同じでも、ある一面では違う。何でもそうです。
で、「普通の人」は、後者の見方をします。なぜならば(現代の)人間にとって、「脳」という臓器は他の臓器とは一味違った、特殊な部位であるから(と、思っているから)です。現代の人間にとっては、「脳」は、ほぼ、自分です。他の臓器は、いうなれば単なる道具に過ぎない。極端ですが、そういったイメージを持っている方が多数だと思われます。誰しも、自分の盲腸が考え事をしているなどとは思いませんし、自分の太腿にアイデンティティが宿っている、とは思いません。自己はほぼ脳であり、手、足、目、耳、それらの部位は、脳=自己(人格)のための、道具である、と、そういったイメージが漠然と身についているのが現代人だと思います。
ですから、「脳に障害がある」のと「目に障害がある」では、同じようで、全く違うのです。
道具にちょっとくらい欠陥があっても、欠陥というのがアレでしたら、ちょっとくらい違いがあっても、周囲の人は「ああ、道具が壊れてしまったのだな」と手助けをすることが割りと容易ですし、社会生活も、意思疎通の面ではあまり問題はありません。人格には何も問題はないからです。それを伝える、口という道具が若干働かなくても代替のものがある。それを受け取る耳という道具が若干働かなくても別の道具でそれを補える。伝える内容そのもの、交わす内容そのものには問題はないのですから、あとは純粋に道具の問題だと、なるわけです。ですから、まだ受け入れやすいのです(それでもまだまだですけどね)。
しかし脳に障害がある、というのは、ちょっと違います。道具には問題がなくとも、その中心である自己、人格に問題があるのですから。根本的にそこが他と違う、というと、道具でも補いきれません。(そもそも、「補う必要はあるのか。補うという考え方はどうなんだ」という問題もありますが)
いうなれば、「右手がサイボーグの人間」と、「一見普通の人間だが、実は中身は宇宙人」と、どっちとまともにコンタクトを取れる自信があるか、という話です。無論、前者なのです。極端に言えば、脳に問題がある、というのは「普通の人」にとっては後者の如く感じられるのです。
ですから、「脳がそういうふうなので仕方ない!」という切り口で攻めますと、最悪「なら、そんな奴は社会不適合者だから、外に出るな!」的な反応を食らうことになりかねないと思うのです。
実際、鬱病も「甘えだ」なんていわれたりしがちな病気ですが、これも「元気がでないとか、仕事いきたくないとか学校いきたくないとかさぁ……そんなん俺だってそうだよ。いかなくていいならいきたくねーよ!でもそうしなきゃいけないから行ってるんだろ。鬱って診断されたら休んでもOKなわけ?なんだよそれ」という、「ズルい!」という思いから来ているのだと思います。
目や耳の障害や、精神系でない病気についてそういったこと(甘えだ、等)が言われないのは、「ズルい」と思わないからです。
それでも鬱病も最近は「甘えだ」と言う人も減ってきました。それは「鬱状態は辛いのだ」という認識が広まってきたからだと思います。肺炎になって学校を休んでも「ズルい」とは思いません。休みたいは休みたいでも、そんなキツい思いをするのは普通嫌だからです。鬱も、知識が広がるまでは単に「いきたくないといってる人」くらいの感覚で捉えられていたため「そりゃ俺だってそうだ!ズルい!」となっていたのですが、「どうやら相当キツいらしいぞ」と分かってからは「ズルい!」とならなくなってきたのだと思います。
しかし、発達障害の場合はどうか。
これは多分「ズルい」という感覚はちょっとやそっとじゃ抜けないと思います。なぜならば、発達障害の人が「辛い」のは、あくまで周囲との関わりにおいて、「読めない空気を読めとおしつけられる」等のことから発生するものです。肺炎や鬱などと違い、ただ一人でいても辛いものではありません。(鬱が発生すること自体は、周囲の環境などが関係しますが、発症後は一人でいてもキツい、ということです)
ですから皮肉にも、自分たちが「空気がどうしても読めない」人のことを理解し助ければ助けるほど、彼らの「辛さ」は減る。一方、こちらの辛さやストレスは上がっていきます。空気を読んでくれない相手を「しかたないのだ…」と思いながら、ただでさえ空気を読むという我慢をしているのに、さらに「空気の読めない仕方ない人」に対しても我慢をしなければならない。そしてそうすればそうするだけ、その「空気の読めない仕方ない人」の「辛さ」は減っていくのです。当然、「ズルい。なぜ、こちらだけ我慢をしなければならない」となります。どちらに転んでも、「ズルイ」となる。いやむしろ、こちらが助ければ助けるほど「ズルイ」となる。
結局、「発達障害だろうがなかろうがみんな空気とか読みたくない。自分勝手でいたい。が、それでは成り立たない」中で、「普通の人」は空気を読み、「発達障害者」がそれが著しく困難な事を理解する。また「発達障害者」は「普通の人」も別にしたくないが社会の存続のため仕方なくやっている、ということを理解し、形だけでも出来うる限り合わせるようにする(空気を読むこと自体はできるようにならなくとも、表面上あわせることは訓練次第で可能と聞きました)。という相互からの歩み寄りが大事なのだと。平凡な結論ですが。「発達障害者は、じゃあ、外に出るな」は勿論問題外ですし、といって「発達障害なんだからしかたないだろう」では逆に「普通の人」に全てしわよせが来るだけです。どちらかに押し付けてはいけないのでしょう。
別に言って困るような活動内容でもないし、むしろ立派なことなのに何も言わないのはなぜなんだろう。
「別に言って困るような活動内容でもないし、むしろ立派なこと」の方が反感買うとか善意のおしつけっぽく受け取られたりとか構えちゃって言えないもんでは。そういうのを良いことだと思わずに気持ち悪いと受け取る人もいるし。
あとは、恋人との間くらい、そういう話は抜きで付き合いたいと思っているとか。活動してる人はそれについて考えた時間の蓄積がどうしても多いので、素人の素朴な疑問をあっさりと返してしまったり、よく知らない人ならではの浅い視点にイライラさせられたりして(でもそう思う自分だって、自分のフォローしていない領域に対しては似たようなもんであり、仕方無いことなんだけど)、却って気まずくなる展開になったりして、そういう経験をすると、よい関係を保ちたい人との間では活動の話はしない方が無難と思うようになる。必死に隠すほどでもないけど、積極的に話したくはないという感覚になる。
ふと思い出したこと。
歩道を歩いていると、選挙が近いらしく、選挙カーが止まっていた。
立候補者は聞き役に徹しており、おじいさんが熱心に話していた。
おじいさんは語り続ける。いかに日本がすばらしいか。日本人は凄いのだ。
立候補者は苦笑いしながら、うんうん、そうですね、と頷き続ける。
俺は、無関心に通り過ぎる。
やがて、話し声は聞こえなくなる。
しかし、年を取ると似たような行動パターンになるな。
新聞の投稿欄で、熱心に世を憂うのは老人ばかりだ。
ある講演の質問タイムに、大演説をして講演者を苦笑いさせたおじいさんも思い出す。
不幸な男はナショナリズムに、不幸な女はスピリチュアルに走るという。
では、基本的に、老人であることは不幸なことなのだろう。
身近なところで自分が必要とされない不安が、世間への憂いにつながっているのかも知れない。
しかし、個人主義的唯物論的左翼思想みたいなものを語る知識人やエリートもやはり、どこか変だ。
違和感の中心にある物が、彼らの自分達の幸福に対する無自覚さなのか、彼らが自分達の幸福を維持するために
地位を活かしてその思想を広げるスタンスなのか、その両方かはともかく、彼らが自らの地位を維持するということは、
エリートカーストの維持であり、自分達に従う人々を敗北者のままでいさせるということだと思う。
若者も良い。自分に無限の未来が広がっているという錯覚も重要だろうから。
でも、構造的に全員が自分のようになれないということを知りながら、その思想を押しつけるのは欺瞞だと思う。
じゃあ、全員が幸福になれる道ってないじゃん!とは、多分、その通りで、心のケアとしての
ナショナリズムやスピリチュアルをある程度、適量を保って、検証しながら活用しつつ、
なんとかかんとか皆で生きていくしかないのではないか・・・。
おそらく、政治を熱心に語るおじいさん達は、日本人に生まれたことを誇りに思いながら死にたいのではないだろうか?
線香の匂いを漂わせているおばあさん達は、何を思って仏壇を拝むのだろうか?
自分が失敗した人生を送った場合、どんな思いを抱いて死にたいか。
最悪の状態に自分が耐えられるかどうか考えつつ、社会を設計するみたいな考え方があったけれど、これから、
その辺りを考えることが流行るかもな-、と何となく思った。
姫とかオッサンとか関係ナシに
「女の子だからこういう考えなんでしょ?」
というのを押しつける奴多いよね。浅はか。
確かに若い娘は浅慮の極みみたいなもんだけど、その若い娘から見ても、浅はか。
よく考えてもみなさい。
例えば若い男子や、同輩の男性の皆様が同じような発言したら明らかに違う言葉を返すでしょう。
相手が若くて女子だと浮かれ上がりですか。このシアワセモノ!
人生経験が全く反映されない発言に、ボケちゃってるんじゃないの?と心配になる。
幾つになってもお勉強。切られて一つ賢くなれて良かったじゃないか。
早速こちらも切ってくる。リアル社会の方は切りたくても切れない。
誰か教育してやってくれ。
これはね、給料貰って実験している准教授、助教授、講師、ポスドクらの使う実験動物の世話、実験器具の洗浄、試薬作りが学生におしつけられているんだよ。
動物を扱わないin vitro実験onlyな学生とかにもね。
向いている、向いてないの問題じゃない。
ただの、無報酬労働なんだ。その雑用で怪我しても労災さえ下りない。そりゃ、鬱にもなるよ。
学部、修士、博士では、ほとんどの時間を、他人の研究のための雑用に費やさざるをえず、自分のために研究する暇なんてありませんっていうオチ。雑用させることが教育だと思っているので、感謝さえもしない。洗浄の仕方が悪いぞ!などの文句は言うくせにね。じゃぁ、自分で洗えよと。。。自分で世話しろよと。。。こびりついたウンコの洗い方を学びに大学院にきたわけじゃねーっての。
教官側からしてみれば、学生が次々に脱落しても、新しく代わりの学生が新たな労働力・雑用係として入ってくれればそれでいい。
単なる使い捨て。これは派遣労働と一緒だね(金払ってるのは学生の方だけど(笑))。つか、脱落してくれたほうがありがたい。就職の世話なんかみれないから。データが残ればそれでいい。
人間に置き換えてみろよ、自分ちの庭やら隣の部屋でかなり激しいセクロスでギシアンされてみたり
電車の中でしつけのなってない子供がギャアギャアわめいて暴れてるのに親は何もしなかったり
玄関先に立ち小便されたり人糞落ちてたりしてるの想像してみろよ。
「愛誤」という言葉には幅があって
室内飼い至上主義・不妊手術至上主義なんかも愛誤の一つだろうけど
「部屋に閉じ込めるなんて・不妊手術なんてかわいそう!自然に近いほうがいいじゃない!」
と他人の迷惑顧みない連中も愛誤っていう言い方をするよ。
それくらい当人の心持ちや周囲のフォロー次第でどうにでもなるし、なんだかんだで似たような境遇に慣れていった子どもなんて(俺も含めて)ザラに居る。俺なんて、近くに日本人学校が無いからといきなり現地の中学校に放り込まれたよ。
政府が支援するって言ってんだから、当分日本人学校に通うとかいくらでもやり用はあるだろう。出生地の関係で外国語しか話せない日本人がインターナショナルスクールに通ってたりするし。
それにさ、両親の不始末で子どもにしわ寄せが来るなんて古今東西いくらでもあって、それをフォローするのもまた大人の責任だろうに、現状見る限りあの夫婦はそれを放棄して我が子の世話を他人の善意につけ込んで押しつけてるようにしか見えん。それに便乗して「可哀想な人を助ける私」と自己満足に浸ってる連中も気持ちが悪い。
あの娘は今中学生だろ?今帰国させなかったらいつ帰国させるんだ?母国の言葉を覚えるなら今しかないだろう?これ以上年を重ねていったら母国で暮していくのはますます難しくなるぞ?それともあの娘は一生母国の言葉を話せないままか?それで良いと判断した夫婦の真意は何だろうな?
高校2年生。得意教科は数学。趣味はパソコンいじりで簡単なゲームくらいは作れる。将来は、数学かパソコン関係の仕事に就きたいと漠然と思っている。成績は、早慶は厳しいかもしれないが、マーチは楽勝だと思う程度。
そろそろ志望大学を決めなければいけない。そこで、大学・学部選びの参考に、興味のあった職業の実態について知人に聞いたりネットで検索したりしてみた。以下がその結果。
・数学者→×
極貧と教授のアカハラ耐えてやっと博士を出ても助手のポストは空かず、かといって一般企業も職歴のない高齢者など雇ってくれるわけもなく、「ゆくえふめい」に。
教職免許をとっても採用試験は高倍率で何年も受からず安月給の非常勤に甘んじ、やっと受かったら平日は毎日遅くまで残業、土日も部活の顧問で休めず、モンスターペアレントからは嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってきて鬱病に。
生徒の成績が落ちてクビになることに毎日怯え、経営者には無理難題を押しつけられ、毎日サービス残業に耐えても結局はイケメンで口が上手いだけの若手に蹴落とされて人生終了。
・SE、プログラマ→×
毎日徹夜当たり前の激務で、せっかくとれた休日も障害で呼び出されプライベートの全てが犠牲になり、そのうち過労死。
・その他会社員
興味あることだけにのめりこむタイプなので事務や公務員も無理。
体力ないので肉体労働は論外。
なんだ。就職ってバッドエンドしかないのか?
新卒で失敗したら事実上人生終了なんだとしたら、複数社の内定を取ってリスク低減するのは当たり前。
それなのに、第一志望しか許さん、って言うのは学生からリスクヘッジの手段を剥奪するということ。
つまり、会社側が「内定蹴られるかも」というリスクを取りたくないがために、学生に全てのリスクを押しつけてる構図。
若年中途でも新卒レベルのまともな就職ができるなら会社側がリスクヘッジ手段を提供していると言う意味でフェアだが、
それをやらない(=新卒至上主義)なら全くフェアじゃない。
消費者は基本的に我侭で欲張りなもの。
その我侭で欲張りな消費者の欲しいものを売ることで、お金を得るのが商売。
優れた文化は非常に優秀な商売道具に成り得ますが、商売でしか成り立たない文化というのも寂しい気がします。
>違うよ!と反論してみたのだが、よくわからない様子。
はっきり言って、私も良くわかりません。
わざと稚拙な表現を使っていますが、妹さんが言っていることの一部はある意味で心理です。
いらないものはいらない、とはっきり言っているのですから。
>自分たちは何も文化を創り出さないくせに、文化を殺す方向にしか考えがいかず
殺そうとなんて思ってないでしょう。
ただ欲しいものを欲しいといって、そうでないものをいらないと言っているだけ。
あと文化を創り出さないと決めつけているのはいただけないと思います。
>その理由は、別に見てもしょうがない、という『必要でなければいらない』という発想。
必要でなければいりません。
若者だろうと年寄りだろうと、いきなり好みでないものを押しつけられて、「左様でございますか」などという話にはなりません。
どんな文化も、必要に支えられて生きているのであって、文化を受け入れるために自分の意志を捨てるのは明らかに間違いです。
>音楽はタダでいい。
泥棒の理論(笑)とか言って、思考停止している人は置いておいて。
リンク先の筆者はこの意見に反対されていますが、タダで聴けるのならば消費者にとっては嬉しいもの、という考えは変わらないと思います。
ならば先に考えるべくは「どうやってその要求を満たすか」であって、「そういう考えはいけない」と一蹴するべきではないと思います。
消費者が音楽に直接お金を出さなくても音楽を聴けて、かつ音楽業界も儲けられる、そういう新しいビジネスモデルが求められています。
私は「文化なんて廃れてしまえ」なんて全く思っていません。
が、いつまでも今までと同じ手法で、ある文化を原資とした商売ができるというのは、文化を創る人の甘えでしかありません。
文化が廃れていくのが悲しいのならば、廃れさせないように努力するべきです。
そのために、新たな時代に対応できるような文化のあり方を考える必要があると思います。
伝統・慣習・綺麗事だけでは文化は維持できません。
生まれた時から色素が薄くて、太陽光の下だと髪はかなり茶色く見える。肌もかなり色白な方。ちょっと肌弱めで化粧品・日焼け止めなど、かなり気をつかわなければいけない。ちょっと切れたからといってそこいらでは買えない。肌に合わないと困るから。
そんな妻の話。
中学校時代はかなり不遇だったようで、教師には髪を染めているだろうとさんざん因縁をつけられた。悔しいのでわざわざ美容師と医者に相談して、それぞれ一筆書いてもらったらしい。しかし当事者の教師はそれで黙っても、別な教師はまたいちゃもんをつけてくる。いちいち説明しても聞く耳を持たない。それに疲れて説明するのをあきらめると「反抗的な態度」という烙印を押しつける。
まじめだった彼女は、校則で髪を染めてはいけないことになってたから、黒く染めるのは絶対イヤだったとか。そんなこだわりから、さらに苦しむことに。
髪を染めてるか染めてないか、そんなくだらないことになんでそんな執着できるのか理解できない。そんなことに立ち入るのは人権の侵害だってことにいいかげん気づいて欲しいし、髪を染めてるからといって教育崩壊だとか言い出す人はほんとに頭動いてるの?って思う。
プリン頭の子を持つ親はたいていの場合残念な親だろうけど、決して髪を染めてるから残念な親というわけではないでしょうに。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kkk6/20090314/1237025838
あのな、増田が悪い所は、自分の価値観を絶対のものとして、人に押しつけてる所だよ。
それに気付け。
「初音ミクの機械の声を聞いて感動してCDを買う奴は馬鹿だ。これは100%断言できる。」
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
「あの文章を元に改変したものを作って公開することは、今後絶対に止めて頂きたい。」
http://anond.hatelabo.jp/20090312233645
「明日から元になったエントリの話題を、一切止めていただけると嬉しいです。」
http://anond.hatelabo.jp/20090315013316
ほら、そうだろ?見ず知らずの人から、「俺はこう思う・こうしたいからお前もそれに従え!」と言って、
「はいそうですね、わかりました」っていう奴がいるか?
世の中にはいろんな価値観がある。もちろん、増田の価値観もまたその中のひとつだから、俺はそれも認める。
ただ、自分とは相容れない価値観の人たちもいる、というのは分かっていた方が生きやすい。
それは純粋にすごいことだ。俺だって狙ったエントリを増田で書くが、ブクマどころかレスだってろくにつかない。
ホッテントリ入りなんて夢のまた夢だ。
だから、その文章力を別の所に活かした方がいい。
増田で釣るのも、それは面白いと思う。
でももし今回のように、精神的に不安定になるようだったら釣るような発言はせずに、
別の所でその文章力を活かした方がいい。
きっと増田には人を惹きつける文章が書けると思う。
古巣にもっとも欠けていたのは消費モデル。年収いくらくらいの,どういう家族構成の人が,どんな目的で,どのくらいの性能のものを求めて,どのくらいの価格帯のものを買うのか。そういう,最終的な消費の場における使用イメージと,それにあわせた営業戦略が欠けていた。研究所の人間が「ぼくのかんがえたすごいかでん」を無策な営業におしつけてる構造。
業務用の超最先端の技術なんて,家電にまったくあてはまらない。超高温下でのプラズマ制御や原子レベルでの三次元IC構築が,家庭用品に何の役に立つ? 仮に役立ったとしても,その手の技術は輸出管理にひっかかるから,家電生産につかう中国工場なんかにはもっていけないよ。
主義主張の押し付けならまだいい。
何を重視し何を無駄と切り捨て、何を好きになって何を嫌いになり、何を趣味とするか。これらは自由であり、今まで生きてきた人生の中で培われてきた、その人にしかないモノである。
だが、自分の価値観を押し付けようとする人間たちは、それを何か理由を付けて統一したがる。
価値観が「人それぞれ」であることを拒絶したり、切り捨てようとしたりする。
たとえば、自分の価値観を「効率」とか「コストパフォーマンス」とかで雁字搦めにしている人は、人の趣味やら何やらを「無駄」と切り捨てることがよくあるだろう。
だが、何が「無駄」なのかは人それぞれなのだから、別に他人から「無駄だからやめろ」と言われる筋合いはない。
なぜ、オタクは他の趣味・価値観を許容できないのか・・・と増田やその他のブログを読んでいると感じる。
そう感じている人がいるのだから、別にラノベが文学だっていいじゃないか。別にCLANNADが人生だっていいじゃないか。ゆっくりに東方が浸食されたっていいじゃないか。
それぞれ別の価値観と言う別次元に生きているのだから、理解しようとなんてしなくていいし干渉する必要もない・・・ハズ。
確かに、自分の価値観からの「指摘」は重要である。しかし、価値観の押しつけは「余計な御世話」なのである。
だが、自分の価値観を持たず、他人に押し付けられた価値観に乗っかって生きている人たちも多い。いわゆるミーハーである。
彼らは時代に翻弄され、金の亡者の食い物にされ、
それよりかは、自分の価値観を押し付けられるほど確固としたものにしている人間の方がマシなのかもしれない。
自分はこの記事を「指摘」のつもりで書いているが、これを「押し付け」と思って受け止める人もいるのだろうし、自分でも薄薄そう感じている。
私も同じ穴の狢だということだろうか。
反嫌儲の腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサのクソどもはいいかげん嫌儲に歴史と理論がある事を知れよアホが!!著作権を振りかざた権威にひれ伏す権力の犬である腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサどもよ、おまいらは打倒されるべき抑圧貴族階級に過ぎん!!何がゆとりだ。腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサ老害こそ文化を独占資本化する帝国主義者だろうが!!
http://www.ezweb.co.jp/~higan/
サイバー反体制派、エレクトロニックフロンティアファウンデーション共同設立者
産業世界を牛耳る政府どもよ、お前たち肉と鋼鉄でできたか弱い巨人どもよ、私は新しい精神の住処、サイバースペースの住人だ。未来のために私はお前たち過去の人間に要求する。我々のことは放っておいてくれ、と。お前たちは我々にとって歓迎すべからざる客だ。我々の集まるところでお前たちの権威は通用しない。
我々は選挙によって選ばれた政府など持たないし、また持つ気もない。従って、私がお前たちに向かって語りかける言葉には、自由が常に語ってやまぬ言葉以上のいかなる権威も含まれていない。そこで私は宣言する。我々が建設中のグローバルな社会空間は当然ながらお前たちが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。お前たちは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。政治は統治される国民の同意があって初めて力を持つ。お前たちは我々の同意を促すこともできない。我々はお前たちを歓迎しない。お前たちは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた国境の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、自分たちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同の行為と通じて自然に成長していくものだ。
お前たちは我々の大いなる集団の対話に参加したことはないし、また我々の豊かな市場の富を作ったわけでもない。我々の文化も知らなければ、倫理も不文律も知るまい。それは、お前たちが押し付けるどんな強制よりもはるかに多くの秩序を我々の社会に現にもたらしているものだ。お前たちは我々の世界に解決すべき問題が存在すると言う。そしてそのことを口実にして我々の世界を侵略しようとしている。お前たちの言う問題の多くは実際には存在しない。本当に摩擦があり、問題点があれば、我々はそれを認めて我々なりの方法で対処するだろう。我々は我々だけの社会契約を作りつつある。我々の世界の統治は我々の世界の諸条件に応じて自然に発生する物であって、お前たちの勝手な条件から生まれるものではない。我々の世界は違うのだ。
サイバースペースは様々な商取引、関係、そして思考そのものからできあがっていて、それが我々のコミュニケーションのウェブの中にまるで定常波のように隈無く広がっている。我々の世界はいたるところにあるとともにどこにもない。ただしそれは肉体が住める場所ではない。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。
我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。
お前たちが考える、所有、表現、自我、運動、前後の関係(コンテクスト)に関する法的概念は我々には適用されない。それは物質に基づくものだからだ。我々の世界に物質は存在しない。
我々の自我は肉体を持たない。だからお前たちと違って、我々は肉体的強制によって、秩序を獲得することは出来ないのだ。我々の世界の統治は、倫理学、啓蒙的な利己主義、連邦体制といった土台から生じるであろうと我々は信じている。我々の自我はお前たちの法的権限が及ばない多岐にわたる領域に分散して存在する事が出来る。我々の世界を構成する様々な文化が唯一一致して認める法は「黄金律(汝の欲することを人にもなせ)」しかない。我々はこれを基礎にして個別の問題の解決を見出そうと望んでいる。しかしお前たちが押しつけようと図る解決法は到底受け入れられない。アメリカでは、お前たちはテレコミュニケーション改革法案なる法律をでっち上げたところだ。これはお前たち自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクビィル、ブランダイスらの描いた夢に泥を塗るのに等しい行為だ。この夢は我々の世界で新しく生まれ変わるに違いない。
お前たちは自分たち自身の子供に脅えている。子供たちはサイバースペースのネイティブなのに、お前たちの方はいつまでたっても根付かぬ移民のままだからだ。この子どもたちを恐れるがゆえに、お前たちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けることの出来ない親としての責任を官僚たちに委ねるのだ。我々の世界では、人間性に関わるあらゆる感情やその表現は、下劣なものから崇高なものまで、みなシームレスな全体を形作る部分であり、ビットによるグローバルな対話の一部なのである。人を窒息させるのも空気なら鳥を舞い上がらせるのも空気であり、両者を区別する事は出来ない。
中国、ドイツ、フランス、ロシア、シンガポール、イタリア、アメリカで、お前たちはサイバースペースのフロンティアに番兵を立たせて自由のウイルスの侵入を何とか食い止めようとしている。それで少しの間は感染を防げるかもしれないが、まもなく世界中がビットメディアに覆い尽くされれば、それも無駄になろう。
お前たちのますます陳腐化する情報産業界は、延命を図ろうとアメリカやその他のいたるところで自分たちの主張を世界中に通すための法律を作ろうとするだろう。その法律とやらは、アイデアもまた別種の工業製品だとのたまう。それは高炉から流れ出た鋼鉄に比べてちょいとばかり高級などというものでは何らないというわけだ。しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、また無償で無限回分配することができる。思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。
このような、陰険で植民知的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮う政府に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルな自我はお前たちの権力に対して免疫抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々の思考を捕縛することはできない。
我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない。
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我々が建設中のグローバルなまとめ空間は当然ながらはてサが押しつけようと画策する著作権専従体制からは独立している、と。はてサは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。ネットはネラーの同意があって初めて力を持つ。はてサは我々の同意を促すこともできない。ネラーははてサを歓迎しない。はてサは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。
まとめサイトはお前たちの引いた著作権の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、はてサたちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同のレスと通じて自然に成長していくものだ。
このような、陰険でJASRAC的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮うJASRAC原理に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルなコピーはお前たちの権力に対してまとめ抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々のコピーを捕縛することはできない。
我々が建設中のグローバルなまとめ空間は当然ながらはてサが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。はてサは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。ネットはネラーの同意があって初めて力を持つ。はてサは我々の同意を促すこともできない。ネラーははてサを歓迎しない。はてサは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた著作権の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、はてサたちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同のまとめ行為と通じて自然に成長していくものだ。
産業世界を牛耳る政府どもよ、お前たち肉と鋼鉄でできたか弱い巨人どもよ、私は新しい精神の住処、サイバースペースの住人だ。未来のために私はお前たち過去の人間に要求する。我々のことは放っておいてくれ、と。お前たちは我々にとって歓迎すべからざる客だ。我々の集まるところでお前たちの権威は通用しない。
我々は選挙によって選ばれた政府など持たないし、また持つ気もない。従って、私がお前たちに向かって語りかける言葉には、自由が常に語ってやまぬ言葉以上のいかなる権威も含まれていない。そこで私は宣言する。我々が建設中のグローバルな社会空間は当然ながらお前たちが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。お前たちは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。政治は統治される国民の同意があって初めて力を持つ。お前たちは我々の同意を促すこともできない。我々はお前たちを歓迎しない。お前たちは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた国境の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、自分たちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同の行為と通じて自然に成長していくものだ。
お前たちは我々の大いなる集団の対話に参加したことはないし、また我々の豊かな市場の富を作ったわけでもない。我々の文化も知らなければ、倫理も不文律も知るまい。それは、お前たちが押し付けるどんな強制よりもはるかに多くの秩序を我々の社会に現にもたらしているものだ。お前たちは我々の世界に解決すべき問題が存在すると言う。そしてそのことを口実にして我々の世界を侵略しようとしている。お前たちの言う問題の多くは実際には存在しない。本当に摩擦があり、問題点があれば、我々はそれを認めて我々なりの方法で対処するだろう。我々は我々だけの社会契約を作りつつある。我々の世界の統治は我々の世界の諸条件に応じて自然に発生する物であって、お前たちの勝手な条件から生まれるものではない。我々の世界は違うのだ。
サイバースペースは様々な商取引、関係、そして思考そのものからできあがっていて、それが我々のコミュニケーションのウェブの中にまるで定常波のように隈無く広がっている。我々の世界はいたるところにあるとともにどこにもない。ただしそれは肉体が住める場所ではない。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。
我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。
お前たちが考える、所有、表現、自我、運動、前後の関係(コンテクスト)に関する法的概念は我々には適用されない。それは物質に基づくものだからだ。我々の世界に物質は存在しない。
我々の自我は肉体を持たない。だからお前たちと違って、我々は肉体的強制によって、秩序を獲得することは出来ないのだ。我々の世界の統治は、倫理学、啓蒙的な利己主義、連邦体制といった土台から生じるであろうと我々は信じている。我々の自我はお前たちの法的権限が及ばない多岐にわたる領域に分散して存在する事が出来る。我々の世界を構成する様々な文化が唯一一致して認める法は「黄金律(汝の欲することを人にもなせ)」しかない。我々はこれを基礎にして個別の問題の解決を見出そうと望んでいる。しかしお前たちが押しつけようと図る解決法は到底受け入れられない。アメリカでは、お前たちはテレコミュニケーション改革法案なる法律をでっち上げたところだ。これはお前たち自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクビィル、ブランダイスらの描いた夢に泥を塗るのに等しい行為だ。この夢は我々の世界で新しく生まれ変わるに違いない。
お前たちは自分たち自身の子供に脅えている。子供たちはサイバースペースのネイティブなのに、お前たちの方はいつまでたっても根付かぬ移民のままだからだ。この子どもたちを恐れるがゆえに、お前たちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けることの出来ない親としての責任を官僚たちに委ねるのだ。我々の世界では、人間性に関わるあらゆる感情やその表現は、下劣なものから崇高なものまで、みなシームレスな全体を形作る部分であり、ビットによるグローバルな対話の一部なのである。人を窒息させるのも空気なら鳥を舞い上がらせるのも空気であり、両者を区別する事は出来ない。
中国、ドイツ、フランス、ロシア、シンガポール、イタリア、アメリカで、お前たちはサイバースペースのフロンティアに番兵を立たせて自由のウイルスの侵入を何とか食い止めようとしている。それで少しの間は感染を防げるかもしれないが、まもなく世界中がビットメディアに覆い尽くされれば、それも無駄になろう。
お前たちのますます陳腐化する情報産業界は、延命を図ろうとアメリカやその他のいたるところで自分たちの主張を世界中に通すための法律を作ろうとするだろう。その法律とやらは、アイデアもまた別種の工業製品だとのたまう。それは高炉から流れ出た鋼鉄に比べてちょいとばかり高級などというものでは何らないというわけだ。しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、また無償で無限回分配することができる。思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。
このような、陰険で植民知的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮う政府に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルな自我はお前たちの権力に対して免疫抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々の思考を捕縛することはできない。
我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない。
全くだ。なれるかも。
俺は、ボロボロになって涙を流しながら死んでいく元増田を見下ろしながら
「しつけか遊びのつもりだった。そんな気は無かった。」と証言するよ。