はてなキーワード: これは普通とは
万能細胞:STAP論文問題 小保方氏採用も特例 通常審査の一部省略 理研CDB、秘密保持に重点
CDB運営の重要事項を決めるグループディレクター会議(幹部会議)は、STAP細胞研究について論文発表まで秘密とすることを容認。その結果、採用を審査する人事委員会は、小保方氏の審査で、1次選考を通過した候補者に通常求められる公開セミナーを実施せず、非公開の面接と質疑応答のみとしたという。
要は小保方さんだけ採用面接を特別扱いしたとのことなんだけど同記事内にある
関係者によると、笹井氏がSTAP細胞研究を知ったのは、2012年12月21日の小保方氏の面接時が最初。そこで竹市雅俊・CDBセンター長から論文作成の支援などを依頼された。
と矛盾しているなぁ。特別扱いするなら面接前に知っていなければならないだろうに。
さらに
小保方氏の審査で、1次選考を通過した候補者に通常求められる公開セミナーを実施せず、非公開の面接と質疑応答のみとしたという。
この文が意味不明だ。
普通、誰が応募してきたかは秘密にしなければいけないと思うんだけど・・・(注1
、非公開の面接と質疑応答のみとしたという。
これは普通の採用面接だよね。面接とあるがこれはプレゼンのこと。(注2
どこもおかしくないと思うのだが。
採用後に自己紹介かねてセンター内でセミナーがあるのだけどその辺と混同してない?
実績がなかった小保方氏について、人事委は過去の論文を精査せず、研究実態の確認もしないなど、慎重な検討をしていなかったとみられる。
これはほんとだよね。若手支援枠全般に言えることなんだけどなんとも解決方法が見つからないよね。
研究実体なんて確認しようないし。人物評価書は・・なんとかいいところを見つけて(嘘をつかずに)褒めるもので良いフィルターになってないような。
俺書かれる側だけど。
(注1 確かに一部例外はある。K大の某所なんかは院生が書類審査しているとか(現在は知らない)。これは自由な校風のK大だから認められるのであって理研がやったら叩かれると思うけどね。
(注 2
http://mainichi.jp/shimen/news/20140213ddm013040027000c.html:titile=STAP細胞・私の見方:まだ20点、本質的な研究を 笹井芳樹、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長]
質疑応答でも議論が深まっていく印象があった。
この人なら積み上げ型の研究をきちっとやっていける、挑戦させたいと感じた。
Q 小保方さんは未熟と言うが、そういう人がなぜユニットリーダーになったのか。
竹市 私たちの研究室のヘッドとなる人は公募だ。書類審査と、どんな研究をし、今後何をしようとしているかのプレゼンで決める。STAPにインパクトを感じて採用したが、過去の調査が不十分だったことを非常に強く反省している。
だから日本人男性は世界で一番モテない。海外生活で気付かされた、他の国の男性と比べて絶対的に日本人男性に欠けてる10のポイント
http://maeharakazuhiro.com/how-to-be-sweet-men/
結構この『レディーファーストとは』って話になる事は結構あって、
極論だけど、私の中では
『男にとってのレディーファーストは、女にとってのぶりっこと同義である』
って結論に達したよ。
要するに異性に持てるための9の心得〜とかと一緒で、
そこまでしてモテたくねーよ!!って思うならやらなきゃいいって話。
結局どちらもその行為自体より「わざわざそれをやってくれる」事がうれしいんだよね。
『俺はモテたい。だからレディーファーストの練習中だ。きっと今当然って顔をしてレディーファーストしてるアメリカ人たちも、それが恥ずかしかった時代はあるはずなんだ。
だから女の人は、もし俺がドアを開けたら、それが当然って顔をして先に入ってほしい。戸惑ったり、からかったりしないでほしい。』
なるほど、これは普通に反省した。淑女たるのも結構大変なのかもしれない。
こっから余談。
上記のような事を書いたけど、「(日本にレディーファーストは)いるかいらないか」って話であれば「いらない」と思う。
私はどうしても昔からレディーファーストしろ!!って意見が苦手で、それはどうしてかっていうと「男性の下心ありき」のものだと思っているから。
下心っていうと言葉が悪いけど、要するに何らかの目的があってする場合が多いと思うんだ、日本の文化からして。(故に男女逆にすると「ぶりっこ」じゃね?という結論になった)
だから日本人に記事のようなこんな行動されたら、「ん!?まさか私に気があるのか!?」と警戒してしまうと思う。
逆に言えば日本人男性は無駄に警戒(または誤解)されたくないから、無差別に女に優しくしないんじゃないだろうか?想像だけど。
日本人男性って、なんだかんだ言って好きになった女性にはちゃんと優しいし紳士的だと思うの。
アメリカ人(中国系、中東系が多いが)の友達にドア開けてもらった事はあるけど、(わざわざ車の助手席側に来て開けてくれたりする)
恐縮です〜とは思えどときめきはしない。あっちももう当然過ぎてなんの感情もそこにはない。朝に歯を磨く、女の前のドアを開ける、昼飯にサンドイッチを食う、くらいの。
でもこれがクラスの特に目立った存在ではない、昼休みはぼんやり窓から校庭を見ているような伊藤君(仮名)がちょっと「あ、俺それ持つよ///」とか言ってくれたらどうよ!?移動教室の際ドアを支えて待っていてくれたら!?少女漫画はじまるやろ!惚れてまうやろ!?
お祈りメールは慣れた。たぶん、社会人になったら自分が一生懸命考えたものでもすぐにダメと言われるんだろうからこれくらいは我慢しないといけないんだと思う。
就活だけしてたいけどそういうわけにもいかない。勉強、卒論、バイトもしなくては。でも3足のワラジほどしんどいものはない。こんなんで音を上げてたら日本の会社じゃ到底働けないのだろうかと考えるものの体力が持たない。
正直ギリギリ。このご時世何十社も落とされるのが当然らしいからこれは普通のことだと思わなければならないのに。
どの企業を見てもやりがい、成長云々…もう十分だと思う。実際会社でどれくらいの人がそれに向けて考えているのか?
私は人の気持ちがわからないコミュニケーション不全の人間である。なぜそう思うのかというと、みんなの暗黙の了解を自分だけ理解できていないらしい場面に何度も遭遇してきたからだ。言葉の裏が読めない。例えば、ある人が荷物を持っていたとして、「この荷物すごく重いんだ」と言ったとする。これは普通の人には『だから荷物持つの手伝って』という意味を持っているらしいが、私にとっては言葉通りの意味でしかない。逆のパターンもある。手料理を食べていて、単に料理が冷めていたから私は「この料理冷めてるね」と言う。それは普通の人には『手際悪いんだよ』という非難の声に聞こえるらしい。前述の通り、単に料理が冷めていたことを形容しただけなのだが。
しかし不思議なことに空気が全く読めないわけではない。私が言葉の裏を読めなかったために起こった微妙な空気は察することが出来た。そのため居づらい思いをしたのは数えきれぬほどである。つまり、生きづらさを感じて生きてきた。幸い、今は子供の時分よりも少しは落ち着いて生きることができている。言葉の裏を読む訓練を重ねたからだ。
その訓練とは単純なもので、微妙な空気になった会話を思い返し何が悪かったのか理詰めで考えることである。そしてその結論を自分の中のデータベースに蓄積し、次に同様のパターンに遭遇した時に反映させる。とはいえ、それには膨大な時間を要した。他人との挨拶と世間話に困らないレベルになったのが20代前半になってやっとのことであった。
ただ、やはり普通の人とは違うと感じる。普通の人には人の感情をそのまま読み取るような力があるらしいが、私は観察と理屈がないと人の感情が分からない。今まで私と同類らしい人との遭遇に気づいたことはないが、ネット上を見ると私と同様の生きづらさを抱えて生きている人が散見される。
なぜ我々(勝手に我々と呼ばせてもらう。それが正しいように思える)が生きづらい思いをしているのか、考えてみたので勝手に語ってみる。
結論から先に言うと、我々はインプットに重大な欠陥を抱えているために結果として生きづらい思いをするハメになっている。それをこれから説明しよう。
まず重要なのが、我々には感情がないわけではないということだ。我々には感情がある。だから、他人に感情があることを理解している。そしてその感情が自分たちと同様の働きをするものだと暗黙的に信じている。だからこそ他人が自分の意図しないところで怒ったり悲しんだりすることに動揺する。自分の心の働きと他人の心の働きがどうやら違うらしいことに気が付き、そのことで悩み苦しむ。だが、私の結論からすると、我々の心も普通の人の心も同じ働きをするものであるらしい。続ける。
我々の心と普通の人の心が同様のものであると仮定する。まず、普通の人が他人の感情が理解できないという状況に陥ったらどうなるかシミュレートしてみると、我々と同様に驚き、狼狽すると想像できる。次に、我々が他人の感情に気づけたらどうなるかシミュレートしてみると、普通の人と同様に振る舞えると想像できる。冒頭で出した例で言うならば、荷物持つの手伝ってと言われたのならそれをあえて無視することは考えづらい。
では普通の人と我々を隔てるものは何なのか?それは読み取る情報の量である。普通の人は我々が想像できないくらい高レベルに他人の感情を読み取るらしい。だから、荷物が重いと言われたら手伝ってほしいという気持ちを読み取り、料理が冷めてるねと言われたら非難されていると思う。
重ねて言うが、我々には普通の人と同様の感情がある。言葉の機微を読み取れたなら、我々も自分の性格にそって普通に対応ができる。だが、その言葉の機微を読み取ることが出来ない。それはなぜなのか?
私はそれを頭の悪さだと考えていた。どうやら知能とは違うベクトルで頭の良し悪しがあり、我々はそれが極端に悪いのではないかと。結局それが正しいように思う。料理が冷めてるねという発言の例で言うのなら、それを発した我々に裏はないのに、普通の人は裏を読み非難されたと思う。これは仮に普通の人がテレパシーか何らかの方法で他人の感情を直接読み取っているのだとしたら起こりえない現象だ。つまり、普通の人は言葉の裏を一瞬で考えられるくらい頭がいい。
ただ、何度も繰り返すが我々に欠けている能力はそれだけだ。我々は頭が悪いから、言葉に込められている、込められてしまう感情の機微に思いが至らず、頓珍漢な言動をしてしまう。ただ、それさえ除けば後は普通なのだ。だから我々がどんなに冷たいように見えても、心の中はそんなことはない。人を傷つけてしまったらそのことに傷ついたりもする。
我々にとって、日常は地雷原のようなものだ。頭が悪く言葉の機微を上手く扱えないことによって、知らずのうちに他人を傷つけてしまう。しかし他人を傷つけたことには気づけてしまうことが多い。言葉の機微を上手く読み取れない我々が気づくくらいに他人が傷ついたというシグナルを発するのだ。そしてそれは辛く、恐ろしいことである。だから人とのコミュニケーションを拒絶し、更に孤立してしまう我々も少なくないように散見される。
そんな我々が普通の人とうまく付き合うためにはどうしたらいいのか?
それは考え続けることしかないように思う。幸い感情の動きが同じ心を持っているのだから、相手の気持を考えることはできる。それは極端に遅い速度であるしその時には時間切れになったりすることも多いが、人と関わり続ける限り、次に生かせる場面はきっと来る。
そして、普通の人を恐れないことだ。普通の人は案外優しい。それが、自分は普通では無いと疎外感を持ちながら普通の人を恐れていた私が30年生きてきて結論づけたことだ。普通の人も我々も同じ心を持つ人間だから、当たり前すぎる結論かもしれない。ただ、我々の心を普通の人にも分かってもらいたいと同時に、人と関わることを恐れている我々にも、普通の人を理解してほしい。我々が言葉の機微を(なんとか)読み取り適切に対応したのなら、普通の人を恐れる理由はどこにもないのだ。
静岡県住みなんですが、
いわゆるカウンセリング治療というのは行わない所がほとんどです。
しかし投薬だけではなかなか症状が良くならず、
カウンセリングも受けてみたいと思いカウンセリング治療のみ(要は保険が効きません)をしてくれる医師にかかり、
その結果やカウンセリング医師の意見を投薬の治療に生かしたいと思い、
その内容を心療内科医に伝えた所、
カウンセリング治療のみにするか投薬治療のみにするかどっちかだけに決めてくれ
とセカンドオピニオンを拒否されました。
がっかりして他の心療内科に行ってカウンセリングの内容を参考にしながら治療してもらえないかとお願いしましたが、
どこの心療内科でも同じように断られました。
うつ症状の治療には「休養」「投薬」「カウンセリング」の3つが必要、
と言われ、私も尤もだと思ったんですが、
「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な理由がなければこれを拒んではならない」
みんなちがってみんないい、の極端なパターンというか。
1回のやり方はいくつかパターンあるけど、だいたいナンパでそのまま、とか相手が貞操観念の薄いひと(経験人数がやたら多かったり)だったりすることが多い。
身内(職場とか大学時代の友人とかサークルのように複数人でつきあっているグループ)に手をだしたことはない。
身内=友人に手をださないのは、大事にしている気持ちを表しているつもりだけど、だから友人から恋人に発展する、っていうパターンが想像つかない。
それとは別に、とりあえず1回でも関係をもった相手から、その後の連絡が無いのはやはりその気がないからなのだろう。
もちろん、自分が相手にぞっこんになる、ってことも無いのだから、ある意味で相手の気持ちはよくわかるともいえるのだが。
でも確かに、こうして思い返してみると、「人間関係」として関係を構築するときに行う雑談とか会話とか、そういったことをしたいと思える相手に巡り会ってはいないな。
どちらかというと顔が思い出せないひとのほうが多いから、結局1回のためだけに会った、というのはお互い様か。
お互い様であるというのは、現状として理解するとしても、誰かと今後そういう関係になったときに一方に惹かれたりすることは無いのかな、と思って少しさみしい。
相手が自分に向かってぞっこんになるようなひとに会いたいし、あるいは自分がぞっこんになるひとと出会いたい。
今職場で気になってるひとが複数人いる。
関係を壊したくないので手をだすつもりはなく、妄想で終わらせるつもり。ちなみに四月から職場が変わるので、それですっきり気持ちは落ち着くだろう。
中学生の恋愛のようだけど、気になってるひとが職場にいると仕事に行くのが楽しいし、今の職場はとてもいい雰囲気なのでオフの日に何人かで遊びにいったりもする。
実際に自分から手をだすことだけはしない、という決意だけはあるが、戦略的にその複数人を食うことまで考えてしまって、これは普通じゃないような気がする、と思った。
他人に愛情を感じるのは、どういったときなのだろうか?あるいは、どういった愛情が、恋愛?
セ●クスすることと、恋愛と、大事な友人と、それぞれの距離がわからない。二股をかけてはいけない、という心理描写がわからないのだ。
”気になるひと”は、割とすぐにできるタイプで、でも”おつきあい”に発展した事は無い。
”愛の告白”をしたこともされたこともない。セ●クスができない(生理的、心理的な嫌悪感によって)相手とはつきあえないと思う。
最近、5年片思いしてきた相手(相手もいない暦=年齢、経験なし)に対して、性的欲望が全く生まれないことに気づいて気持ちを断念した。
人としてとても尊敬している相手だから、良き友人としてこれからも関係を続けていきたいと思っているけれど、今までは恋愛感情を向けていたので、それを友情に変える作業に苦戦している。
ちょっとふわっとしすぎているかもしれないが、、20代半ばにして、これから自分の人間関係をどうやって見つめ直せばいいのかわからなくなってきたので書いた。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
人と人の関係は、シンプルに考えれば「出会いがあって、お互いに好意を持ち、やがて交際に発展する」だろう。
距離感と親しさのレベルには強い相関関係があり、ゲームに例えるなら最初に相手に1円出して、そこに相手が1円返してきてトレード出来たら次は2円か3円、更に5円出してみても相手が3円しか返してこなかったらこっちも3円で様子見・・・という感じだ。
身も蓋もない書き方だが、ともかく相手との親密さはそんな風に「レベル制」で上がっていくことが、世の中の前提となっている。
何故そうなっているかといえば、普通の人間にとって距離感を察知し、そこから適切な親しさのレベルを計算することは、ごく自然に感覚的に出来てしまう、あるいはそれなりに場数を踏むことで出来るようになってしまうからだ。
その意味で自分は社会性が全くないというか、社会性という観点では人外、あるいは宇宙人なのだと思う。
というのも自分は距離感を感じ取れない上に、「親しい」「親しくない」しか感覚的に持ち合わせていないからだ。
上述のゲームで言うなら、感覚に任せてプレイすると「1円出す」or「札束ポン」だけしかない。
まさしく1か0か。
したがって大多数の普通の人にとって、自分のイメージは「よそよそしい」か「馴れ馴れしい」の2つに1つだ。
勿論これは、今の御時世だとよそよそしい場合はぼっちに、馴れ馴れしい場合はストーカーになる恐れがある。
そこまで行かなくても色々トラブルになる可能性は高いし、実際今まで沢山問題が起きた。
なので仕方なく人に相談したり本で勉強したりで、「この人との距離感は、出会ってから今までの経緯を推察して多分これくらいだから、ここまでは変じゃないだろう」といちいち頭でロジックを組み立て、どうにか「ちょっと変わった人」くらいで済むようにしている。
しかし相変わらず精度は悪いし、何より他人への興味以上にめんどくささが先に立つようになってしまった。
ハードウェアレンダリング出来ないのでソフトウェアレンダリングしてみたらCPUやメモリに負荷が・・・みたいな感じだろうか。
付け焼き刃のテクニックで辛うじて普通の人っぽく振る舞って、何とか親しくしてもらっている後ろめたさ、それだけでも鬱陶しいし、イライラするのだ。
でも生きるためには絶対に避けられない。
でも普通であることがどれだけ望んでも手に入らない人間にとって、普通というのがどれほど価値あることか。
まあ普通がつまらないというのは型破りな人間を羨ましがっていて、自分みたいな型無し人間なんてお呼びじゃないのは分かっているけど、文句の一つも言いたくなると。
4ヶ月行って帰ってきたから書いとく。結論として自分の英語は伸びたのかというと、ちょっぴり伸びた。TOEIC800点だけどあんまり喋れない、中級にありがちな状態の人が、日常生活で困らないぐらいに会話できるようになったぐらいの進捗。帰国後TOEICは未受験。あくまで参考程度に。
日本人は20~30代がほとんどで、大抵は超初心者。(60代以上など年配の人はチラホラ。40~50代はあまり見かけない。)TOEIC200~300点台レベルが大半。中1レベルの動詞の過去形を知らない人もいる。1~2ヶ月の留学では気休めにもならない。マンツーマンの先生は進歩をほめてくれるが、内心ではもっと基礎を勉強してから来ないとあんまり意味ないよね…と思っている(複数の先生が実際そう言ってた)。準上級以上の日本人はほぼ皆無。まれに居たとしても、周囲の日本人とレベルが違うため「何であの人ここに留学しに来たの?」状態になっていた。韓国人では上級はチラホラ居たが多数派ではなかった。
せめて高校生レベル、さらに欲を言えばCラン以上ぐらいの大学生レベル(TOEIC400超えるぐらい?)で、「中級以上の文法とスピーキングを伸ばすために、最低でも3ヶ月以上留学する」というのが投資に見合ったリターンを得るのに最も適していると思われた。残念なことにそういう大学生はあまり居なかった。個人的には、とりあえず中学レベルの基礎文法と、DUOとかキクタンとかメジャーな単語本の1冊丸暗記ぐらいは終えてから行った方がいいんじゃないかと思った。マンツーマンの先生たちは皆口を揃えて、初心者を教えるのはすーーーーっごいすーーーーっごい大変だと言ってた。最初の自己紹介すら通じなくてただ微笑んでるだけとか、ほぼ無言とかの状態から始まる生徒も居るんだと。そして先生たちは大抵明るくて話好きなため、ぬっちゃけ、会話が成り立つ生徒のほうがクラスを持ってて楽しいらしい。(もちろん仕事だからどんな生徒でも普通に教えてはくれるが)
ESL学生の大部分を占める韓国人大学生たちは大抵が中の下~上の下ぐらのレベル。文化の違いはあるものの、政治的思想を持ち込むおかしなヤツというのはまず居らず、クラスメイトとして普通に友達になれる。ただし基本的に仲間内で群れるため、輪に入りたければある程度積極性が必要になる。クラブで遊んで女を買いまくってるDQNも居れば、まじめなインテリ学生も居た。留学に来ているのは基本的にそこそこいい家の子ばかりのようで、付き合いに不安はなかった。
日本人では、カナダやオーストラリアへワーホリで行く前の準備段階としてセブに来ているという人が結構いた。セブで3ヶ月程度英語を学んでからネイティブの国へ行き、そこでまた現地の語学学校に通うものの、マンツーマン授業は無いため語学の勉強としてはあまり役に立たないとの経験談を複数聞いた。セブで学んでからオーストラリアへ行ったものの、勉強にならずもう一度セブに戻った韓国人学生は結構いるとのことだった。
どの先生も基本的には真面目に教えようと頑張ってくれる。伝わらなくても生徒の能力を伸ばそうと努力を惜しまず向き合ってくれる。教材も十分ある。訛りの強い先生も居るが、それに文句を言えるレベルの語学力の学生はまず居ない。ただし、フィリピン人先生のクラスの後でネイティブ先生の英語を聞くと、すごくわかりやすく感じることもあるらしい。超絶ビギナーすぎると、ほんの少しの訛りでわからなくなるのかもしれない。(自分はそこまで初心者でもなかったので特に困らなかった)
先生と仲良くなると、一緒に遊びに行ったり、家に呼んで貰ったりすることもある。プライベートな話もよくする。ちなみに自分が通ってた語学学校は安月給(ESLの最低基本給が月額8000ペソ程度、ベテランで11000ペソ程度に皆勤手当て等の数千ペソ付加)なため、自分が受け持った生徒の帰国後に、副業としてオンラインで英会話教室をやっている先生も多い。これは普通のオンライン英会話と同程度の授業料(1時間300ペソ以上)だが、生徒としては気心の知れたプロ語学教師に学べるというメリットがある。自分が行った学校では先生は正社員というよりはバイトに近いような雇われ方をしているようで、健康保険や有給休暇は基本的には無いらしかった(大ベテランのみ?)。病気や急用の時は代理の先生が来た。急に退職してしまう先生もごくまれに居た。
先生は大抵が若い人で、教育学部や看護学部を卒業してそのままESLに就職したか、あるいは数年だけ他の職場で働いたという人が大多数であるため、所謂ビジネス英語や専門的な英語を学ぶことは難しい。教えれる先生がほとんどいない。ESLのうたい文句でビジネス英語「も」学べる!なんて書いているところもあるが、気休め程度とか初歩だけと考えていいと思う。(本気のビジネス英語を学びたがるレベルの学生がそもそも来ないからだろうと思われる)例えば日本人の看護士が留学して、運がよければマンツーマンで看護学部卒の先生を探せるなんてこともあるかもしれない。
ちなみにESLの先生という職は現地ではそこそこ勝ち組な部類とのことで、「ちゃんと英語が話せる」というのは現地でも一応ステータスではあるようだった。タクシー運転手でもなんとなく英語は通じるが、普通に英会話ができるとは言えないドライバーがほとんどだった。現地の大卒というのは日本ほどの価値がなく、ファーストフードやショッピングモールの店員ですら大卒らしい。日本のいい大学を出てるレベルとゆーのは、あちらでは院卒レベルなのかもしれない。
Forestとか薄めの文法参考書と、単語本の2冊があれば十分だと思う。向こうでも教科書買うし。毎日の授業で新しいことたくさん学ぶので、日本から持っていった自習教材でバリバリ勉強しちゃうぜ!という人はあまり居ない。というかそこまでやる気が持つ人が少ない。毎日宿題出す先生も多いし、友達できて楽しすぎるし。そして盲点なのが、本が多いと国際線の手荷物重量で引っかかるとかそっちの心配もある。行きは良くても帰りにおみやげ増えて重量オーバーとか。
日々のレッスンは、何をしていくか先生と相談したりもする。基本的な文法がなんとなくわかってる人は、こつこつライティングの勉強も並行してやると、脳内英作文が早くなるからスピーキングも伸びやすい。毎日作文して毎日先生に添削してもらう。脱ブロークンのためにもオヌヌメ。
女の人は以下もあるといいらしい。
観光、食べる&飲む、クラブ行く、ダイビング行く、買い物するぐらい。正直遊ぶのは2ヶ月で飽きる。フィリピン人の女買う奴も居るけど、ゴムしてれば全部大丈夫とか思ってるアフォが多すぎ。あとオカマ多くてびびる。綺麗なのに・・・なにその喉仏。
行って本当に良かった。色んな人との出会いも良かったが、フィリピン人のテキトーさに触れ、自由を満喫して、日本以外にも生きていける場所が見つかったという開放感がパネェ。何となくいま閉塞してしんどい人も、軽い気持ちで行って見たらいいと思う。大人しくしてれば安全に過ごすことも十分に可能だから。こまけぇこたぁいいんだよ!
大雑把に言うと、現代弓道は明治年間の東大が起源で、諸流派のエッセンスを取り込んだ結果、戦国時代に興った徒歩戦闘用弓術と、鎌倉武士由来の嗜み・作法としての弓の折衷だったりする。
なので「射型と作法を極めれば自然に中たる」という、良くも悪くも情操教育的な教え方が一般的(○重十文字というのも射型のあるべき様を言い表している)。
他のターゲットシューティング系スポーツのように、最初から「どうやったら中たるか」というスキルやノウハウとして教え込むことは有り得ないはず。
個人的には「元々武器だったんだし、中たってナンボじゃねーの?」と思ってるけど、これは普通ならフルボッコにされるスタンス。
WindowsXPは外付けからインストールできないなんて、Macユーザーに想像つくだろうか…。
新しいminiを買ったので古いminiにXPを入れようとしたら、いろいろ蹴躓いたので、メモ程度に書き残してみる。
■最初に挑戦した条件
Macmini(mid2007)下位の方 何度か開腹してメモリとか増設しているため、内蔵DVDドライブが壊れた。
OSX製品版ディスク 10.5か10.6になりますかね?XPだし。自分は10.6。
上記のものでWindowsXPをインストールしたかったのだが、内蔵ドライブが壊れているとにっちもさっちもいかない。
WindowsのCDから起動しようとしても、グレー画面から動かない。もしくはフォルダに?が点滅するのみ。
どうも内蔵ドライブがない新しいminiやAirなどでは外付けでもいいっぽい。
で、
もう1台、bootcampを入れたりしてもいいMac(内蔵DVDが壊れてないもの)
OSが多少違ってもbootcampのバージョンが違っても意外と修復してくれる。
bootcampはあとで消していいので、とりあえず容量があいてればいい。
あと、Winclone。
■手順
壊れてないMacにbootcampでパーテーション切ってWindowsXPも入れる。これは普通に入れられるはず。
ドライバとかとりあえず無くていい。WindowsXPが入ったらOK。認証とかもとりあえず置いといていい。
DVDドライブが壊れてるMacにbootcampでパーテーション切る。
Winclone(この場合同じバージョンがいい気がする)でbootcampのパーテーションを選んで復元する。
おそらくすっきり起動する
外付けドライブも余程じゃない限りつながるので、OSXのディスクを入れてドライバインストールなどする。
認証とかもこっちでする。
ソフトウェア開発プロジェクト(一定規模以上)がトラブルが起こって納期までに終わりそうにない、赤字が出てでも終わらせないと困る時の別解
色々な方法があるんだけど、その中でもなぜかこういう方法をとるところが案外少ないように思われるので…。この方法はもちろん万能じゃないので、「こんな欠点がある」って突っ込みはいっぱいあるでしょうが、「いついかなる時でも使えない」話ではないレベルです。
・増員する、ただし、雑用係専用部隊を大幅に。
→業務メインをやる人が増えるとコミュニケーションコストが増大してかえって遅延する現象は散見されますので、そういうコストが相対的に起きにくい仕事になるべく人を投入するという発想です。
ただ、これは、「低時給バイトさん」「事務職」ではだめです(チームの中にそういう人を入れるのはいい場合も多々ありますが、「低時給バイトさん」「事務職」ばかりを多数入れてもソフトウェア開発では大抵困ります。つまり、PG/SEレベルの、ソフトウェア開発の一般常識のある単価の高い人を敢えて雑用や事務に投入するんです。これの一つのデメリットはSE/PGにそんな仕事をさせるとモチベーションが下がって当然なので、長期には向きません。プロジェクトが長いなら少しずつメンバーを入れ替えながらがベターかと。
例)「このデータ加工しといて」と振ってExcelベース(関数とかVBAは使えてよ)なりスクリプト言語なりで加工する人
例)コピーを頼まれたらそれに徹する人 …ここだけ見ると単価高い人をそんな仕事に、と思うかもしれませんが、変にチームに投入して遅延を拡大させるのとどっちがいいんですかって話ですよ。
議事メモではなく議事録が必要なら、録音してテープ起こしするのの草稿を別の人がやる(ここ例えメインの仕事に入ってなくともSE/PGかどうかで品質が随分違う。もっというと、草稿の草稿は音声認識ソフトにやらせる手もある 録音レベルが悪いときついけど)…これは普通のプロジェクトでやってもまずコスト的に割が合わないでしょう。あくまでここに書いているのはすべて「赤字が出てでも早く終わらせる」みたいな特殊な状況なのでやってみるといい場合があるんじゃないの、というお話です。
例)必ずしも雑用ではないが、特にキーマンには秘書をつけてしまえ。その人のスケジュール管理から色々とね。秘書検定もってるエンジニアとかいたら最高ですが(どんだけおるんや) この人に用事があるんだけど今取り込み中…みたいな時って用事がすんでからタイムリーにってなかなかいかないんですよね。秘書がいたらなんとかできませんかね?
人を横断して作業効率化を図れる書類の自動化とか可能なら専任作ってExcel VBAでもスクリプト言語でもなんでもいいので作ってしまえ。
・アメニティの充実を図る。
機材のせいでボトルネックになってませんか?PCの性能は大丈夫ですか?ディスプレイは大きいですか?プリンタやコピー機の数は足りてますか?プリンタやコピー機の速度は十分ですか?カラー印刷出来ますか?ファイル共有サーバが遅かったりしませんか? ※PCを変更すると環境移行コストはかかりますが、一時的なものです。
事務専門でも出来る所では「コピー用紙がなくなってから補充までにタイムラグとかないですよね」とか
ポットに沸かしたお湯が空っぽとかないですよね? …まぁこれはエンジニアじゃない人に任せてもいい領域。
ホワイトボードに書いたものを電子データでPCに送れるとかいまどき常識ですよね?丁寧に書いてあったらOCRも可能ですよね?
経費で、高いのでいいからうまい弁当をオフィス配達してしまえ ※税金の問題等色々あるし、自分で選んだり外食に行く方が効率上がる人もいるので全員ってわけにはいかないんですけど。希望者だけでも。
赤字覚悟で増員してるのに、人を増やしたけど「予算がないからPCにいいのが調達できなくって」って話は実在するようですが、何かおかしくないですか?
1人月60万とか100万とか何人も入れるのに。会計上の問題とか壁があるので表面的な金額では決められないんですけど、でもおかしくないですか?
あ、上記のようなことを実際にやって酷い目にあったエピソードがあったら教えてください。「うまくいかない場面」なんて当然いくらでもあると思うので。
確認しておきたいんだけど、あんた
このhttp://anond.hatelabo.jp/20111215105734増田で
このhttp://anond.hatelabo.jp/20111215121139増田なんだよな?
横入りならそう言ってよネ。
パソコンの大先生であることを精一杯アピールして、運よく色々なことが噛み合ったから入れてもらえた。
もしパソコンの大先生であることをちゃんと説明しなかったら今のとこに入れなかったよ。
すごく大事だったわけだ、それが。
君のパソコンの大先生に対してだって、答えにくい個別具体例の質問とかはありうるよな。
それに対して悩んで詰まっててもしょうがない、「出来ますよ!(…たぶん)」とか答えるよな。
これで済む話だ。
そんなもんは嘘と断定するのすら難しい。
ああ。やはり個例を出すべきではなかった。話がズレズレ。
俺はパソコンの大先生であることを「精一杯」アピールはしなかったよ。だって根拠がないもん。マイクロソフト公認の検定資格とか持ってないし。
とりあえず履歴書に書いて、「PCできるんだって?エクセルとかワードとか?」「ハイ。一通り」「ホームページは?」「いじれます」「MSAccessは?マクロ組める?」「…勉強します」
こんな感じだった。嘘とか以前の問題だ。
「その人が期待と違ったら業務が止まっちゃう!」なんてとこに配属はされないよ。
もしそんな配属をする経営者がいたら経営者が悪いんだから気にしなくていい。
じゃあなおのこと採ってやりゃいいじゃんとしか思えない。
「どんな配慮が必要ですか?」って当人に聞くって、逆に言えば「ウチにはノウハウがまったくないんで」ってことでしょ。
融通なんかないんじゃん。いや、そりゃ作りづらいだろうけど。昨日今日で作れるものではないのはわかるんだけど。
でも融通しようっていう下地も何もないんじゃないのって感じよ。
元増田の面接には職安の障害者担当の人が立ち会ってくれたそうだけど
戦ってんのは俺とキミw 或いは俺と俺の無知。
それはいいんだけど、立ち会う人間には(採用側としても)サポートの能力が欲しいわけでしょ。
家族が面接サポーターとして十全であると何を根拠に判断すんの? 「一緒に住んでんだから仕事場でどう振る舞えるかも想像つくはず」とか期待すんの?
一瞬「逆にアリかも」とか思っちゃったけど、でもこれどっちかっていうと、いざ採用した後のヒアリングじゃん。
障害者だから有利とかいう話じゃないんだってば。現に元増田の所感は「面接ダメだった…」ってなってるし。何が有利やねんアホか。
酌量の用意とか言っちゃって、面接官は全然元増田の話を酌んでくれてないじゃん。酌んであの「僕らの立場」から一歩も出てない切り返しとかバカにしてんのか。
その「面接官側に立つつもり」っていうのはどこから出てきたの?
このあたりは流さず具体的に書いて欲しい。
これとか。
それを元増田のものと思っていて、しかも元増田がその「知能に関する障害」の故にこんな珍妙なことひねり出したんだと言わんばかり。
「いやそれ珍妙っていうか企業が言い出したことだから。つまりボンクラは企業」つーたら、「あっホントだ!」じゃなくていのいちに「は?」とか言われたし。
これアレでしょ。「健常者であれ障害者であれorzとか使っちゃってナルシスチックで独り善がりでいじけっぽくてちゃんと相互理解の努力する気がないオレサマの大嫌いな人間」すなわち元増田を、理由つけて「わかるように書けバカタレが」って罵倒しようとしてたら、あらビックリ、ご自分も文章読めてないバカタレでしたみたいな展開になってるっしょ。
いっぺん消したみたいだけど残ってますからツリーのとこに。引用しまくりの俺も性格悪いけどw
とにかく、そこで温情だ社会的配慮だ言い出したら「こいつは所詮温情と社会的配慮にすがってる身、俺はこのバカタレより一段マシで温情とか社会的配慮を垂れてやる側」宣言になっちゃった。ということよ。
そして「温情や社会的配慮を垂れてやる側」ってのは、「垂れてやるから具体的に要求して」と言い出した企業の側に他ならない。つまり面接官の側。
何というか、元増田気に入らなさが高じたのと、「敵の敵は味方」的なひっくり返りがあってそこに収まったって感じだなあ。だから自覚が薄いんだね。
既に書いたけど、「負担自体は最悪もういいから、具体的に最初から何が要るのか要求してほしい」とか言い出してる立場。
本当に温情や社会的配慮をもって接してくれる人間は、「とりあえず一緒にやってみよう」から出発しないとどうもならんことを知っている。
でもそれはとっても大変なことなので、そこんとこをラクしたい、だから障害者の側からどんな配慮が必要か言って欲しいんだけど、という一種虫のいい立場。
目的とインセンティブまでは知らないな。枠設けてるんなら補助金がどうとかの関係なんじゃないの、と邪推もできるし、ノーコメント。
答えのないことに嘘でも誇張でも答えが欲しいのがお前で、それでも答えはないんだから要求すんなよ…と脱力してるのが俺だよ。
この脱力はほっとくと人を殺すので、俺はとりあえず火をくべてるだけだ。水は枯れちゃったし。
君は何か今の生活や過去に嫌なことがあるのかもしれないけど
それと無関係な相手に恨みやストレスをぶつけようとする行動パターンは上手くいかないと学ぶべきだ。
いつも、怒りが返ってくるか相手にされないかどっちかだったろう。優しくしてはもらえないはずだ。
君は、
自分の記憶や日ごろのフラストレーションを共鳴させてしまってるだけじゃないのか。
カケラも書かれていないことについて「お前はああ言ったこう言った」みたいに言い出すのも
おそらく君の脳に蓄積された辛い体験や恨みが吹き出ている。
他人の事情が「身につまされる」のは美点になりうるけども
君はそこから人を明るい方向に引っ張り上げて元気付けるようなエネルギーを持ってない。
発想のパターンが拗ねる方向・不貞腐れる方向ばかりに行ってる。
まさに今ストレスフルな相手に対して文章書いてるところですけどねwww
そいつは単にバカってだけじゃなくて、本当にいろんなことを知らないし自分の頭で考えられないやつなんだ。
例えば、そいつは元増田の記事から元増田の障害を類推したりすることはない。できない。
探偵でも医者でもないんだから当てる必要はないんだが、そもそも考えが組み立てられない。そのための理解や発想が無い。
目で見えない障害のうち耳なら補聴・拡声、内臓なら服薬に排泄、あとは運動量ってな具合に気を配る部分なんてある程度決まってくるもんだ。
企業なんて組織体で枠作ってるくらいなら、そういう部分は対応可能なはずだが、この場合はそれができないという。配慮を指定してほしいとか言ってる。つまり個人差とシチュエーション差が多彩すぎてマニュアル的対応を組んで摩擦を減らすことが不可能に近いんだ。
かつ、(おそらく発話による)面接でのやりとりができていて、その上泣いてしまった時の内面の動きについてあれだけの描写がある。
なら脳・精神系のもので、おそらく認識の問題、例えば自閉症スペクトラム的なものかもしれない、とかって結論することはそいつにはできない。
間違うと失礼だからという心理もあるかもしれないが、そもそも単に知らねえんだろ「知能」の用語の意味するところとか、って感じだ。
なのに元増田に「現実的なアドバイス」とやらができると無邪気に信じている。根拠は何なんだろうか、すごい不思議なんだけど。
うわっ
よく読んだらこいつ
じゃあ嫁に配慮しなかったら一体どんだけ実家に帰りたいんだよwwww
お前的には「年10回弱」ってすっごい嫁に譲歩してるつもりなんだ。
孫を連れていったのはさらにその半分程度になる。
なんで半分は嫁と二人だけで実家に帰ってるの?
僕は、他人と比較し批判しても仕様がないと思う性格なので、妻の主張がいかに不毛で妻自身の未来に寄与しないかを、その都度説いた。
その前にお前はお前と立場が違うお前以外の人間の気持ちを推し量れるようになろうな!w
お前のかーちゃんは姑、お前の妹は小姑だよ。
全てがサイアクだ。
僕は知っている。いかに正論であっても説教を受け付けないタイプの人が存在することを。
そして、人はおおよそ、正論を突かれるほど不機嫌になることを。
池沢先生はネットの狭い世界では2年ぐらい前から有名人でした。
昨今流行りの「炎上」スレスレの発言を繰り返していたからです。
発言内容は今で言うミサワ、
自意識が過剰すぎて溢れ出しちゃってる感じのアレでした。
(犯罪告白とか反社会的発言は一切無いので本当の炎上はしてません。)
・マイミク申請してきた漫画家志望者のレベルが低いので蹴ったこと
等などを綴っていました。
その中でも
「アフタヌーンとかでなら今でも連載できる、だけど理想を落としてはいけない」等の
人に迷惑がかかりそうな発言だけは注意されたりプチ炎上したりして撤回したり。
本題はこれを踏まえて今週のジャンプの新連載を見て欲しいと言うことです。
これを読んで、今私が説明した池沢春人先生の人物像と重なりますか?
重ならないんじゃないでしょうか。
この漫画読むとなんとなく、作者は謙虚な低姿勢の人のような気がしませんか?常識的な。
この漫画描きながら「俺は天才だ!」って叫ぶ人はいなさそう。出来が悪いという意味ではなく。
先生は昔は
才気走った感じの異世界漫画を描いたりしてました。絵の中に入ってどうこう。
今とは似ても似つかない漫画描いてました。
言動と噛み合う感じの。
あの彼のどこをどう調教したらこんなに大人しい、
「一芸付き学園コメディ(場合によってはバトルにいけるよ!)」みたいな
ジャンプのテンプレ的コテコテ漫画を描くように躾けられるのでしょう。
この間2年は経ってない筈。
編集者はどんな風に飼い慣らして、あの芸術系トンガリボーイにこんな漫画を描かせることに成功したのでしょう。
バクマンでボンクラ系漫画家を操縦する敏腕編集者が出てきますが、あのレベルでもちょっと説明付かないような。
これは普通のことなんでしょうか。
ショックと言うかなんか怖い。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブについて、各所で話題になっていたマサチューセッツ工科大サイトの感想も翻訳してみた。初音ミク現象を基に、情報を巡る様々な活動の基盤となるメディア・プラットフォームのあり方について考えたもので、書き手はミクが市民主導のメディア作りをするうえで参考になると考えているようだ。残念ながら一ヶ所、fro-ducerなる意味の分からない用語があったのでそこは翻訳していない。意味を知っている人がいたらご教授願いたい。
urlは以下の通り。
http://civic.mit.edu/blog/condry/miku-japans-virtual-idol-and-media-platform
7月2日土曜日、私は普通じゃないライブショー、日本から来たヴァーチャル・アイドルの米国デビューを見に行った。彼女は市民メディアについて私たちに何かを伝えられる存在だと思う。
初音ミクはアニメ・エキスポにおける催しの一つとして、ロサンゼルスのノキア・シアターで公演した。完売したコンサートには、多くがコスチュームに身を包んだ4000人を超えるファンが訪れ、ステージ上で生の演奏家の横に投影された「人間サイズ」の映像であるミクが床からせり出してくると、彼らは叫びケミカルライトを振った。
ミクは甘く歌い、幅20フィートある放物線状の鏡に沿って跳びはね、大半は熱狂的なテクノダンス・ポップな曲目を駆け抜ける間、決して汗をかかなかった。ステージの脇には彼女と他のバンドメンバーをクローズアップした映像がスクリーンに映し出されていた。彼女はちょっとしたおしゃべりもした。「はじめまして、初音ミクです」。そしてバンド(ギター、ベース、キーボード、ドラム)と6人の弦楽器奏者たちを紹介した。私たちは彼女に拍手を送り続けた。
「あたしたちは歴史を作っているのよ」と、私の隣に座った若い女性が友達に話しかけていた。たしかにそんな気がした。そして政治とポピュラー音楽について私が知っていると考えていることについて、改めて考え直した。
誰もが喝采しているが、何に対して? ステージ上、私たちの注目が集まる場所には誰もいない。単に仮想アバターが存在するだけだ。何のアバター? 一体誰の? それは私たちの。
大衆文化は政治と同様、しばしばステージ上の(あるいはスクリーンに映された)リーダーを前提としているように見えるが、その影響力や、しばしば創造性そのものが、どう転んでもより幅広い分散型の集団行動から生まれてくることを、ミクは示している。ミクは未開拓の可能性を孕む世界、クラウドソースな動員モデル、そして一部はソフト技術(ボーカロイド)、一部は文化的なアイデア(ミクというキャラ)からなるメディア・プラットフォームに関する有益な事例について、言外にほのめかしているのだ。
ミクはYAMAHAが開発し2004年から販売を始めたボーカロイドと呼ばれる音楽合成ソフトウエア・パッケージの声として作られた。ボーカロイドはガレージバンド[音楽制作ソフト]同様、演奏用の道具として音楽を作ることができるが、その際にメロディーと同じく歌詞を書けるという特徴も持っている。別の企業、クリプトン・フューチャー・エンターテインメント[ママ]が2007年、漫画風の画像と経歴設定(16歳、身長、体重、その他)と一緒に、追加音声であるミクを発売した。
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01_us.jsp
重要なことに、クリプトンは画像に対する著作権を強く主張しない方針を定め、キャラクターが彼女自身の生命、より正確に言えば私たち自身の生命を持てるよう制限を解いた。いわば私たち誰もがレディー・ガガのために音楽を作り、それを彼女が私たちのために演じてくれるようなものだ。ミクがリアルじゃないってことが問題だって? それじゃレディー・ガガはどのくらい「リアル」なんだい?
ファンはそれにこたえ、さまざまな共通の服装及び像(たとえばネギ)を共有しながら数百数千の音楽ビデオをオンライン投稿した。以来、日本の動画シェアサイト、ニコニコ動画への投稿及びコメントを通じて増幅されたファンの取り組みのおかげで、ミクはスターの座へ駆け上がった。いわゆる「Nicodo」[ニコ動]はユーチューブと似ているが、動画を見ていると利用者のコメントがスクロールしていくところが違っており、それによって参加者の視点というレイヤーが追加されている。
今日ではミクのP(『プロデューサー』)は彼らの作品をオンラインで販売し、日本のカラオケスポットでは好きなミクの歌をダウンロードして歌うことができる。クリプトンは、彼ら曰くクリエイティブ・コモンズの模倣であるPiaproというオンライン・サイトを持ち、連携促進とライセンス供与をするシステムを作っている。ファンの作品は他の販売経路を通じても売られている。2010年11月、東京・池袋で開かれ私を含めた7000人の参加者を集めた完売のファン・コンベンションでは、集められた500のファングループがボーカロイド関連の音楽、ポスター、DVD、イラスト本、テレビゲーム、装飾品その他を販売した。
こうしたファンの興奮ぶりを踏まえると、ビッグ・ビジネスが仲間に加わろうとするのも不思議はない。2009年以来、SEGAはProject Divaというタイトル名でミクの携帯機及びアーケード向けゲームを作成している。トヨタも今や広告シリーズでミクを使っており、彼らはミクのロサンゼルス・デビューの前にCMを公開したほどだ(いくらかの非難も浴びたが、おそらくは善意に基づいて作られていた)。とはいえ究極のところミクはファンの取り組みによって命を吹き込まれており、ミクが商業主義の世界に足を踏み入れるのを見るのが興味深いのもそれこそが理由だろう。
ミクは、以前から知られていた市民メディアのための教訓のいくつかを補強する存在だ。人々が参加するには本当の開放性が感じられることが必要であり、共有と対話がコミュニティー形成のカギになる。管理された知的財産権システムよりも自由な文化の方がより何かを生み出す力があり、新規参入と商業主義化は、特に人気が高まった場合は常にリスクとなる。
だがミクは分散型の創造性について、ウィキペディアとも人間のセレブとも異なる特殊な図式を提示している。ミクにはバックグラウンドが欠けている。彼女には予め定められた人格はない。彼女は唯一の完成した空想世界に存在しているのではない。このウィキ=セレブは、将来がプラットフォームに在る時代において、昔ながらの人間のセレブを白物家電のように見せてしまう。
この事実は民主主義と参加についての考え方にも別の道筋を提供するのだろうか? 行動と人気を生み出すのがリーダーたち以外の社会的現実だとしたら、メディアに関する問いは表現される内容よりも、プラットフォームのあり方、それがどれほど開放的であり、それが許す創造性の形式がどんなものであるかに振り向けられるだろう。
クリプトン社長の伊藤博之は2011年10月、ミクと計画されている英語版を含む関連プロジェクトについて議論するため[MITの]比較メディア論を訪れる。彼はこの現象を、エンターテインメント産業について再考する機会だとみている。「これは普通ではない形の創造性です」と、コンサート前にLAで短時間出会った際に彼は言った。「私たちはコンテンツを作成する過程を作り変えているのです」。ミクが機能するのは分散型のファン=製作者グループの関与があるからだ。おそらくこれはプロ=シューマー[生産消費者]の終焉であり、fro-ducer[残念ながら意味不明]の台頭なのだ。
大衆文化は、市民メディアを分析・設計する際に利用できる社会的力学を照らし出すものだ、と私は信じている。大衆文化は政治的参加のための媒体になり得るのみならず、特に人々に行動を促すという観点からどのようにアイデアが流れ影響をもたらすかについて把握するモデルも提供してくれる。
アニメに関する研究において、私は仮想のキャラクターがそれ独自で生成力のある創造性のプラットフォームになっているとの結論に達した。そこからより多くの種類のプラットフォームが出てきそうであり、創造され、築かれ、共有され、分配され、リミックスされ拡張されるのを待っていることを、ミクは明白に示した。ミクについて考えることで、私たちが未来において行動するコミュニティーを創造するための新たなアプローチについて思い描けるようになること、それが私の望みだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.html
国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告は、放射線事故などの非常状況時において
公衆の被ばくは20~100 mSv/年を超えないようにという参考レベルを示している。
http://smc-japan.sakura.ne.jp/?p=1137
■水に関して
I-131 51.8Bq/kg(03/22は67.8Bq/kg)
Cs-137 検出されず
Cs-134 検出されず
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/31/3155/suisitu/kensuikekka.pdf
Bqの値をSvにするには「実効線量係数」という数字をかけて算出する必要がある。
(成人。子供は摂取した年齢から70歳まで)にあびる放射線量が算出される。
I-131 8.04日 2.2×10-8
http://www.remnet.jp.cache.yimg.jp/lecture/b05_01/4_1.html
51.88 × 2.2×10-8 = 114×10-8 Sv/kg
114×10-8 Sv/kg = 114×10-2 μSv/kg = 1.14μSv/kg
1kg=1リットルの水を飲むと、50年間で1.14μSv/kgの放射線をあびる。
便宜上ここでは、1年間で50年分の放射線を全て浴びると仮定する。
100 / 1.14 = 87
年間で87リットルの水を飲むと、100mSv/年を超える可能性がある。
これは普通に越えそうな値。
例えば、3/24に放出されたI-131は、04/01には半分になる。
そのため、上記浄水場の値は、福島第一原発の状況にほぼ連動するだろう。
現在のような放射性物質が外気に放出される状況が1年続けば上記の計算式が成り立つが、
まとめ
・現状のまま、ある程度の時間が経つならばICRPの参考レベルを越える可能性はある。